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古今ここん和歌集わかしゅう

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古今ここんしゅうから転送てんそう
古今ここん和歌集わかしゅう仮名がなじょ」(巻子本かんすぼん
仮名かめいじょ冒頭ぼうとう。「古今ここんやまと歌集かしゅうじょ」と最初さいしょくが、通常つうじょうの『古今ここん和歌集わかしゅう』のつてほんにはこのだいはない。12世紀せいきごろの書写しょしゃ国宝こくほう指定していされている。大倉おおくらしゅう古館ふるたてぞう

古今ここん和歌集わかしゅう』(こきんわかしゅう)とは、平安へいあん時代じだい前期ぜんき歌集かしゅうぜんじゅうかん[1]醍醐天皇だいごてんのう命令めいれいにより編纂へんさんされ、905ねん延喜えんぎ5ねん)に奏上そうじょうされ、最初さいしょ勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうとして位置いちづけられる[ちゅう 1]後世こうせい勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうはんとなり、国風くにぶり文化ぶんか歌論かろん中心ちゅうしんとした日本にっぽん文学ぶんがく影響えいきょうのこした。

仮名かめいじょ後述こうじゅつ)とぜんじゅうかんそろった最古さいこ写本しゃほんは、平安へいあん時代じだい後期こうきにあたる元永もとなが3ねん(1120ねん)の奥書おくがきがある上下じょうげまきである(所謂いわゆる元永もとながほん古今ここん和歌集わかしゅう」)[1]

略称りゃくしょうを『古今ここんしゅう』(こきんしゅう)といい、さらに「古今ここん」とばれることもある(古今ここん伝授でんじゅなど)。

日本にっぽん国歌こっかきみ歌詞かし源流げんりゅうは、『古今ここん和歌集わかしゅう』におさめられたびとらずきみ千代ちよ八千代やちよにさざれせきいわおとなりてこけのむすまで」(343ばん)である[2]

成立せいりつ

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古今ここん和歌集わかしゅう』はふたつの序文じょぶんつ。仮名かめいかれた仮名かめいじょと、漢文かんぶんかれた真名まなじょである[ちゅう 2]仮名かめいじょによれば、醍醐天皇だいごてんのう勅命ちょくめいにより『万葉集まんようしゅう』にえらばれなかったふる時代じだいうたから撰者せんじゃたちの時代じだいまでの和歌わかえらんで編纂へんさんし、延喜えんぎ5ねん(905ねん4がつ18にち奏上そうじょうされた[ちゅう 3]。ただし現存げんそんする『古今ここん和歌集わかしゅう』には、延喜えんぎ5ねん以降いこうまれた和歌わかれられており、奏覧そうらんののちも内容ないようくわえられたとられ、実際じっさい完成かんせい延喜えんぎ13ねん914ねん)または延喜えんぎ14ねんごろとのせつもある[3]

撰者せんじゃ紀友則きのとものり紀貫之きのつらゆき凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねの4にんである。序文じょぶんでは友則とものり筆頭ひっとうげられているが、仮名かめいじょ署名しょめい貫之つらゆきであること[ちゅう 4]、またまきだいじゅうろくに「紀友則きのとものりまかりにけるときによめる」という詞書ことばがき貫之つらゆきちゅう岑のうたせられていることから、編纂へんさん中心ちゅうしん貫之つらゆきであり、友則とものり途上とじょうぼっしたとかんがえられている。

その成立せいりつ過程かていについては、以下いかのように仮名かめいじょ真名まなじょ双方そうほう記載きさいされている。

延喜えんぎねんよんがつじゅうはちにちに、だい内記ないき紀友則きのとものりしょしょあずか紀貫之きのつらゆきぜん甲斐かいしょう凡河内躬恒おおしこうちのみつねみぎ衛門えもんせい壬生忠岑みぶのただみねらにおほせられて、万葉集まんようしゅうはいらぬふるうた、みづからのをもたてまつらしめたまひてなむ(中略ちゅうりゃく)すべてせんうたじゅうかんづけて古今ここん和歌集わかしゅうといふ--仮名かめいじょ

爰に、だい内記ないき紀友則きのとものりしょしょあずか紀貫之きのつらゆきぜん甲斐かいしょう凡河内躬恒おおしこうちのみつねみぎ衛門えもんせい壬生忠岑みぶのただみねとうみことのりして、かく家集かしゅう、并に古来こらいきゅううたけんぜしめ、ぞく万葉集まんようしゅうと曰ふ。いて、かさねてみことのりり、たてまつところうた部類ぶるいして、勒してじゅうかんとなし、づけて古今ここん和歌集わかしゅうと曰ふ。(中略ちゅうりゃく延喜えんぎねんとしおつうしつぎよんがつじゅうにちしんぬきつつしみてじょ--真名まなじょ

これらをみると編集へんしゅううた収集しゅうしゅう分類ぶんるい部立ぶだての2段階だんかいで、延喜えんぎ5ねん奏覧そうらん完成かんせい)としている。しかしうえでもべたように、『古今ここん和歌集わかしゅう』には延喜えんぎ5ねん以後いごまれたうたふくまれているので、この「延喜えんぎねんよんがつ」を奉勅ほうちょく時期じきかんがえ、奏覧そうらんはもっとのちだとする見方みかたもある。ただし、じょ奏覧そうらんかれず奉勅ほうちょく日付ひづけのみをしるすとはかんがえにくいことから、完成かんせい増補ぞうほ改訂かいていされたとするのが一般いっぱんてきである。なお、りょうじょ日付ひづけことなる理由りゆう不明ふめいである。また真名まなじょてくる『ぞく万葉集まんようしゅう』という書名しょめいは、仮名かめいじょふくしょにはえない。

貫之つらゆき私家集しかしゅうである『貫之つらゆきしゅうまきだいじゅうには、

ことなつは いかがききけん ほととぎす こよひばかりは あらじとぞおもふ[4]

という和歌わかがあるが、その詞書ことばがき[4]には、

延喜えんぎやまとうたしれる人々ひとびと、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、うけたまわかおり殿どののひんがしなるところにて、えらばしめたまふ。はじめのよるふくるまでとかくいふあひだに、御前ごぜんさくら時鳥ほととぎす(ほととぎす)のなくを、よんがつろくにちよるなれば、めづらしがらせきゅうふて、めしきゅうひてよませきゅうふにたてまつ

とあり、これが『古今ここん和歌集わかしゅう撰集せんしゅうのことであるとされる。その開始かいしは「よんがつろくにち」とあるが、これが延喜えんぎ5ねんのことだとすれば、わずか十日とおかほどで撰集せんしゅうわるとはかんがえられず、実際じっさいにはいちねんまたはすうねんようしたとみられる。

構成こうせい

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ぜんじゅうかんで、藤原ふじわら定家さだいえによる写本しゃほん定家さだいえほん)ではうたすう合計ごうけい1111しゅ前述ぜんじゅつのように巻頭かんとう仮名かめいじょ巻末かんまつ真名まなじょき、内容ないようはおおよそおなじである。仮名かめいじょ紀貫之きのつらゆき真名まなじょきのよしもちさくとされる。つてほんによってはまず巻頭かんとう真名まなじょつぎ仮名かめいじょがあってそのつぎ本文ほんぶんはじまるものがある。ただし真名まなじょたないつてほんおおい。このりょうじょ関係かんけいについて、真名まなじょ正式せいしきなもので仮名かめいじょ後代こうだい偽作ぎさくとするせつ山田やまだ孝雄たかお)や、真名まなじょより仮名かめいじょのほうがまえかれたとするせつひさ曾神のぼる)、真名まなじょさきでそれを参考さんこう仮名かめいじょかれ、仮名かめいじょ正式せいしき採用さいようされたとするせつもある。

ひさ曾神のぼりは、「延喜えんぎろくねんがつ乃至ないしどうななねん正月しょうがつあいだに、貫之つらゆき仮名かめいじょ執筆しっぴつしたやうである。(中略ちゅうりゃく真名まなじょきのよしもち依頼いらいけて執筆しっぴつしたもので、かん詩文しぶんかんする先行せんこう文献ぶんけん参照さんしょうしてはゐるが、すでなりつてゐた精選せいせんほん仮名がなじょをも参照さんしょうし、こと六歌仙ろっかせんひょう撰集せんしゅう事情じじょうべたじょうなどには、その痕跡こんせきいちじるしい」[5]として、仮名かめいじょ真名まなじょ先行せんこうすると主張しゅちょうしている。

うたなかには長歌ながうた5しゅ旋頭歌せどうか4しゅふくまれるが、のこりはすべて短歌たんかである。じゅうかんからなる内容ないよう以下いかとおりである(定家さだいえほんによる)。

高野たかのきり
まきだいいちはるじょう冒頭ぼうとう五島ごしま美術館びじゅつかんぞう
  • 仮名かめいじょ
  • まきだいいち はる じょう
  • まきだい はる
  • まきだいさん なつ
  • まきだいよん あき じょう
  • まきだい あきうた
  • まきだいろく ふゆ
  • まきだいなな 
  • まきだいはち 離別りべつ
  • まきだいきゅう 羈旅
  • まきだいじゅう ものめい
  • まきだいじゅういち 恋歌こいうた いち
  • まきだいじゅう 恋歌こいうた
  • まきだいじゅうさん 恋歌こいうた さん
  • まきだいじゅうよん 恋歌こいうた よん
  • まきだいじゅう 恋歌こいうた
  • まきだいじゅうろく 哀傷あいしょう
  • まきだいじゅうなな 雑歌ぞうか じょう
  • まきだいじゅうはち 雑歌ぞうか
  • まきだいじゅうきゅう ざつたい長歌ながうた旋頭歌せどうか誹諧はいかい
  • まきだいじゅう だいうたしょ御歌おうたかみあそびのうた東歌あずまうた
  • ぼくめつ
  • 真名まなじょ

巻末かんまつの「ぼくめつ」とは定家さだいえほんのみにあるもので、藤原ふじわら定家さだいえが「家々いえいえしょう証本しょうほんほん乍書入墨いれずみめつ哥 今別いまべつしょ」(家々いえいえで『古今ここん和歌集わかしゅう』の証本しょうほんるべき重要じゅうようつてほん〉とするほんしるしていながら、すみしるしをして本来ほんらいいものとしている和歌わかがあり、いまそれらをべつにまとめてしるす)と前置まえおきしてまとめた11しゅ和歌わかのことである。なお、定家さだいえほんをはじめとするふるつてほんでは通常つうじょうまきだいじゅうまでを上巻じょうかん、それ以降いこうまき下巻げかんとしてけ、上下じょうげ2さつ冊子さっしほんとしている。『古今ここん和歌集わかしゅう』で確立かくりつされた分類ぶんるい和歌わか分類ぶんるい規範きはんとなり、歌会うたかい歌論かろんなどにおいて使つかわれただけでなく、後世こうせい勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうかたちえながら継承けいしょうされ、また連歌れんがにおけるさらに細分さいぶんされた分類ぶんるい基礎きそともなった。

まきじゅうきゅう冒頭ぼうとうに「短歌たんか」という標目ひょうもく長歌ながうた収録しゅうろくされていることは古来こらいなぞとされてきたが、2000ねん小松こまつ英雄ひでお新説しんせつ提示ていじしている[6]

歌人かじん

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古今ここんしゅう所載しょさいのうち4わりほどが読人よみびとらずうたであり、また撰者せんじゃ4にんうたが2わり以上いじょうめる。

以下いかいれしゅううたすうじゅん代表だいひょうてき歌人かじんげる。対象たいしょうすみめつふくむ1111しゅまきだいじゅう恋歌こいうた所収しょしゅうの803ばんうたけんげいうた做す[ちゅう 5]

  • 紀貫之きのつらゆきいれしゅう102しゅまきだいろく巻軸かんじく撰者せんじゃ一人ひとり
  • 凡河内躬恒おおしこうちのみつねいれしゅう60しゅまきだいだいさんだい巻軸かんじく撰者せんじゃ一人ひとり
  • 紀友則きのとものりいれしゅう46しゅまきだいはちだいじゅう巻軸かんじく撰者せんじゃ一人ひとり
  • 壬生忠岑みぶのただみねいれしゅう36しゅ撰者せんじゃ一人ひとり
  • 素性すじょういれしゅう36しゅまきだいきゅう巻軸かんじく遍昭へんじょう撰者せんじゃ以外いがいでの最多さいたいれしゅう
  • 在原業平ありわらのなりひらいれしゅう30しゅまきだいじゅうさんだいじゅう巻頭かんとう六歌仙ろっかせん一人ひとり
  • 伊勢いせいれしゅう22しゅまきだいいちだいじゅうさんだいじゅうはち巻軸かんじく宇多天皇うだてんのう中宮なかみや温子あつこつかえる。
  • 藤原ふじわらきょうふういれしゅう17しゅまきだいよんかんだいじゅう巻頭かんとうならびに古今ここんしゅう1100しゅ掉尾ちょうびかざまきだいじゅう巻軸かんじく
  • 小野小町おののこまちいれしゅう17しゅまきだいじゅう巻頭かんとう六歌仙ろっかせん一人ひとり
  • 遍昭へんじょういれしゅう18しゅまきだいよん巻軸かんじく六歌仙ろっかせん一人ひとり
  • 清原きよはらふかし養父ようふいれしゅう17しゅ
  • 在原ありわら元方もとかたいれしゅう14しゅ古今ここんしゅう劈頭へきとうかざまきだいいち巻頭かんとう業平なりひらまご棟梁とうりょう

享受きょうじゅ評価ひょうか変遷へんせん

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古今ここん和歌集わかしゅう』は「勅命ちょくめいにより国家こっか事業じぎょうとして和歌集わかしゅう編纂へんさんする」という伝統でんとう確立かくりつした作品さくひんでもあり、はちだいしゅうじゅういちだいしゅうだいいちかぞえられ、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう国風くにぶり文化ぶんか確立かくりつにもおおきく寄与きよした。たとえば、『枕草子まくらのそうし』では古今ここんしゅう暗唱あんしょうすることが当時とうじ貴族きぞくにとって教養きょうようとみなされたことがしるされているほか、『源氏物語げんじものがたり』においてもその和歌わかおお引用いんようされている[7]おさめられた和歌わかのほかにも、仮名かめいじょ後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえた歌論かろんとして文学ぶんがくてき重要じゅうようである。

平安へいあん時代じだいから中世ちゅうせいにかけて、『古今ここん和歌集わかしゅう』は歌詠うたよみにとって「和歌わかさい手本てほん」としてたっとばれた。藤原ふじわら俊成としなり著書ちょしょ古来こらいふうからだしょう』に「うたほんからだには、ただ古今ここんしゅうあおしんずべきことなり」とべており、これは『古今ここん和歌集わかしゅう』が「うたさい基準きじゅんとすべきものである」ということである。

収載しゅうさいされたうたについての注釈ちゅうしゃく解釈かいしゃくさかんにおこなわれた。平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけてのうたそう顕昭けんしょう注釈ちゅうしゃくしょ古今ここんしゅうちゅう』をあらわした。俊成しゅんぜいである藤原ふじわら定家さだいえは『古今ここん和歌集わかしゅう』を書写しょしゃしただけでなく、顕昭けんしょう注釈ちゅうしゃくあらわちゅう)と、みずからの解釈かいしゃくみつかん)を『あらわちゅうみつかん』にまとめ、直筆じきひつほん子孫しそんである冷泉れいせんぞうつかったことが冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこから2024ねん4がつ18にち発表はっぴょうされた[8]

古今ここん和歌集わかしゅう』についての講義こうぎ解釈かいしゃく次第しだい伝承でんしょうされ、やがて古今ここん伝授でんじゅしょうされるものがあらわれた。これは「『古今ここん和歌集わかしゅう』の講義こうぎ師匠ししょうさだめた人物じんぶつよりけ、その講義こうぎ内容ないよう筆記ひっきし、さらに師匠ししょうからその筆記ひっきした内容ないようつたえたことにあやまりはないかどうかの認可にんか最後さいごける」というものであった。この古今ここん伝授でんじゅは、当時とうじ公家くげ歌人かじんにとっては重要じゅうようされ、朝廷ちょうてい中心ちゅうしんとする御所ごしょ伝授でんじゅ地下ちか伝授でんじゅさかい伝授でんじゅばれる系統けいとう形成けいせいされていった。細川ほそかわ幽斎ゆうさいが、関ヶ原せきがはらたたか連動れんどうする丹後たんご田辺たなべじょうたたか西にしぐん包囲ほういされ覚悟かくごしたとき、この古今ここん伝授でんじゅ三条西さんじょうにし実枝みえからけていたことで、勅使ちょくしおもむ和議わぎこうじ、幽斎ゆうさいしろひらいて亀山かめやましろうつったというはなしがある。かように大事だいじにされた古今ここん伝授でんじゅは、富士ふじ正晴まさはるによれば実際じっさいには「このうたまれているは、何処どこ」といった由来ゆらいかんする内容ないようのものであったという。しかし、当時とうじにおける古今ここん伝授でんじゅとはたんなる古典こてん講義こうぎではなく、『古今ここん和歌集わかしゅう』の和歌わか当時とうじ教養きょうようそう和歌わかさい手本てほんともされ、その手本てほんとおして和歌わかかたまなぶ「歌学かがく教育きょういくカリキュラム」としておこなわれたという意見いけんもある[9]

ほんきょ宣長のりなが
古今ここんしゅうとおきょう』は宣長のりなが没後ぼつご様々さまざま受容じゅようされ、批判ひはん修正しゅうせいけながらもがれた[10]

このように成立せいりつしたころから評価ひょうかたかかった『古今ここん和歌集わかしゅう』であるが、そのうたふう江戸えど時代じだいになると、賀茂真淵かものまぶちにより『万葉集まんようしゅう』の「ますらをぶり」(すなわち男性だんせいてきである)と対比たいひして「たをやめぶり」(すなわち女性じょせいてきである)とわれるようになる[11]。こうした精神せいしん田安たやす宗武むねたけのほか、ふち門下もんかかじ魚彦なひこなどにがれ、次第しだいまん葉風はかぜうたもの続出ぞくしゅつしたが、おなふち門下もんかでも加藤かとう千蔭ちかげ村田むらた春海しゅんかいなどは、『古今ここん和歌集わかしゅう』を基調きちょうとする歌論かろん展開てんかいした[11]。また、おなじくふち門下もんかであるほんきょ宣長のりながは、『はいあし小船こぶね』において古今ここん伝授でんじゅを「後代こうだい捏造ねつぞう」と批判ひはんする一方いっぽうで、『古今ここん和歌集わかしゅう』のぜんうた真名まなじょ長歌ながうた対象たいしょうがい)に俗語ぞくごやく補足ほそくてき説明せつめいえた注釈ちゅうしゃくしょ古今ここんしゅうとおきょう』を執筆しっぴつしている[12]。しかし、依然いぜんとして歌壇かだんには、香川かがわ景樹かげきのように『古今ここん和歌集わかしゅう』の尊重そんちょうつよ主張しゅちょうするもの残存ざんそんしていた[11]

正岡子規まさおかしき
古今ここん和歌集わかしゅう』を徹底的てっていてき否定ひていしたのは、当時とうじ、『古今ここん和歌集わかしゅう』のうたふうながれを桂園けいえんへの批判ひはんもあったといわれる[13]

やがて時代じだい明治めいじはいると、正岡子規まさおかしきが『ふたたうたよみにあずかふるしょ[14]なかで「貫之つらゆき下手へたうたよみにて古今ここんしゅうくだらぬしゅうにてゆうこう」とべて以降いこう歌人かじんにとってせいてんであった『古今ここん和歌集わかしゅう』の評価ひょうかいちじるしくがった[15]子規しきほかにも、かずつじ哲郎てつろう直截ちょくせつにはわないが『古今ここん和歌集わかしゅう』の和歌わか総体そうたいとして「愚劣ぐれつ」であるとしており[16]萩原はぎはら朔太郎さくたろうにいたっては「笑止しょうし低能ていのう続出ぞくしゅつ」「愚劣ぐれつずば凡庸ぼんよううた続出ぞくしゅつであり、到底とうてい倦怠けんたいしてむにたいへない」[17]とまで罵倒ばとうしている。こうして『古今ここん和歌集わかしゅう』は、人々ひとびとから重要じゅうようされることがなくなり、そのわりに『万葉集まんようしゅう』の和歌わかが「雄大ゆうだいかつ素朴そぼくである」としてたか評価ひょうかされるようになった。

近代きんだいにおいてはそうした評価ひょうかけていた『古今ここん和歌集わかしゅう』であったが、現在げんざいではその価値かちさい評価ひょうかされている[18]

つてほん

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古今ここん和歌集わかしゅう』についてはふるくは貫之つらゆき自筆じひつほんしょうするものがみっつたわっており、そのうち醍醐天皇だいごてんのう奏覧そうらんしたほんには仮名かめいじょ真名まなじょもなく、皇后こうごう藤原ふじわら穏子たてまつったほん貫之つらゆき自宅じたくめおいたほんには仮名かめいじょはあったが真名まなじょいていなかったという[19]

現在げんざい古今ここん和歌集わかしゅう』の本文ほんぶんとしてもっぱらまれているのは、藤原ふじわら定家さだいえ書写しょしゃ校訂こうていした系統けいとう写本しゃほん定家さだいえほん)をもとにしたものである。しかしその本文ほんぶんについては定家さだいえ以前いぜんのもの、また定家さだいえほん以外いがいのものも以下いかのようにつてそんする。これらの本文ほんぶんは、現行げんこう流布るふする定家さだいえほんからうた出入でいりがあるなど相違そういするところがおおく、そのなかでもとく元永もとながほん相違そういせている。

古筆切こひつぎれ

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本来ほんらい巻子本かんすぼん冊子さっしほんとしてつくられたものがすうぎょうぶんってじくにしたり、手鑑てかがみるなどされてばらばらになったものである。

高野たかのきり
まきだいじゅう東歌あずまうた」の冒頭ぼうとう部分ぶぶん

元永もとながほん

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元永もとながほん
仮名かめいじょ部分ぶぶん

完本かんぽんとして現存げんそん最古さいことされる書物しょもつとされている。「元永もとながさんねん(1120ねんなながつじゅうななにち」の奥書おくがきつ。仮名かめいじょ巻頭かんとうしるすが真名まなじょしるされていない。

でんこうにんひつほん

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近年きんねんになって藤原公任ふじわらのきんとうふでつたわる完本かんぽんで、ねばそう上下じょうげ2さつ冊子さっしほん。ただし仮名かめいじょ真名まなじょはいずれもけている。用紙ようし色々いろいろしみ金銀きんぎんはくらすなどの装飾そうしょくをほどこす。小松こまつ茂美しげみ書風しょふうかみ装飾そうしょくから12世紀せいきはじごろ書写しょしゃであり、うた出入でいりや順序じゅんじょについてほんにはられない異同いどうがあるが、本文ほんぶん高野たかのきり元永もとながほんおよびきよし輔本に比較的ひかくてきちかいとする。また表紙ひょうし江戸えど時代じだい初期しょきのころにあらためられており、そのときけられただい箋の文字もじ筆跡ひっせきからとうとじゅん法親王ほうしんのうふで推定すいていしている。九州きゅうしゅう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう

きよし輔本

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きよし輔本」
みことけいかく文庫ぶんこぞうまきだいいちはるじょう巻頭かんとう紙面しめん上下じょうげつくられた余白よはくには、うたすう作者さくしゃについてのちゅうなどがまれている。

藤原清輔ふじわらのきよすけ書写しょしゃした系統けいとうつてほん貫之つらゆき皇后こうごう穏子にたてまつったという小野おの皇太后こうたいごう宮本みやもと貫之つらゆき自筆じひつほん)を転写てんしゃした藤原ふじわらとおるむねほん底本ていほんとし、定家さだいえほんにはないおおくの本歌ほんかかんぶつなどの記載きさい特徴とくちょうとする。仮名かめいじょ冒頭ぼうとうき、真名まなじょ巻末かんまつつが、真名まなじょ本来ほんらいほんになかったのをくわえたものである。きよし輔は後述こうじゅつ定家さだいえおなじく、『古今ここん和歌集わかしゅう』を幾度いくど書写しょしゃしているのがつてほん文献ぶんけんうえられるが、そのほとんどがつうむねほん底本ていほんとしている。このきよし輔本に顕昭けんしょうちゅう校異こういくわえたものを「顕昭けんしょうほん」とぶ。

  • 宮本みやもと家蔵かぞうほん永治えいじ2ねん(1142ねん)にきよし輔が書写しょしゃしたほんみなもと家長かちょうたてひとし元年がんねん(1201ねん)にうつし、さらにそれを転写てんしゃした写本しゃほん。かつて前田まえだみことけいかく文庫ぶんこ所蔵しょぞうであったが、のちに宮本みやもと所蔵しょぞうとなった。
  • みことけいかく文庫ぶんこ蔵本ぞうほんもと2ねん(1157ねん)に書写しょしゃしたものの転写てんしゃほんつてほんとしては書写しょしゃ年代ねんだいがかなりふるく、きよし輔自ひつほんともいわれるが、その奥書おくがき内容ないようからきよし輔筆であることはうたがわれている。
  • みぎ衛門えもんきり寂蓮じゃくれんふでつたわる古筆切こひつぎれでもとは冊子さっしほん仮名かめいじょ全文ぜんぶん和歌わかよんひゃくしゅぶん本文ほんぶんのこる。その本文ほんぶんについては、西下さいかけいいち本文ほんぶんくずれたきよし輔本の系統けいとうとしている。

なお2017ねん平成へいせい29ねん)1がつ東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ中心ちゅうしんとする共同きょうどう研究けんきゅうチームは林原はやしばら美術館びじゅつかん岡山おかやま)の収蔵しゅうぞうひん調査ちょうさきよし輔本の『古今ここん哥集』(上下じょうげまき冊子さっしほんおよび「はる」「こい」「あき」「ざつよんかん巻子本かんすぼん発見はっけんしている。これは岡山おかやまはんあるじ池田いけだ光政みつまさ書写しょしゃしたもので、「きよし輔真ひつ」のほん書写しょしゃ校合きょうごうおこなったことをしめ奥書おくがきがある。きよし輔本で確実かくじつきよし輔の自筆じひつとされるものはつかっていないが、そのきよし輔自ひつほん忠実ちゅうじつ再現さいげんされている可能かのうせいたかいという[22]

雅経まさつねほん

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飛鳥井あすかい雅経まさつねふでつてほんで、貫之つらゆき自宅じたくいていた自筆じひつほんといわれるものの系統けいとう。この貫之つらゆき自筆じひつほん崇徳院すとくいん所蔵しょぞうしていたことから、「新院しんいんほん」とばれる。藤原ふじわらきょうちょう書写しょしゃした新院しんいんほん底本ていほんとし、巻末かんまつには雅経まさつね飛鳥井あすかいきょうじょうちち雅経まさつね真筆しんぴつであるむね奥書おくがきくわえる。仮名かめいじょはあるが真名まなじょく。

  • 今城いましろきり新院しんいんほん系統けいとう古筆切こひつぎれでもとは冊子さっしほん藤原ふじわらきょうちょうひつ。その奥書おくがきによればうけたまわ元年がんねん1177ねん)8がつ書写しょしゃされたものだが、雅経まさつねほん底本ていほんとしたほんとはべつのものである。

俊成しゅんぜいほん

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りょう佐切さぎり
藤原ふじわら俊成としなりひつまきだいろくふゆ断簡だんかん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう

藤原ふじわら俊成としなり書写しょしゃになる系統けいとうで、新院しんいんほん藤原基俊ふじわらのもととし書写しょしゃほんもとしゅんほん)でもって校合きょうごうしたもの。冒頭ぼうとう真名まなじょつぎ仮名かめいじょがあって本文ほんぶんはじまるが、昭和しょうわきりには仮名かめいじょ真名まなじょのいずれもく。俊成としなりはその時々ときどき判断はんだんによって本文ほんぶんさだめたので、おな俊成しゅんぜいほんばれるつてほんでも本文ほんぶん異同いどうしょうじており、また定家さだいえほんでは巻末かんまつにまとめられた「ぼくめつ」11しゅは、俊成しゅんぜいほんでは本文ほんぶんしるされている。なお、もとしゅんほん現存げんそんしないが、その内容ないよう真名まなじょ冒頭ぼうとうにあって仮名かめいじょ巻末かんまつにあり[ちゅう 6]本文ほんぶん西下さいかけいいちによればすじせつちかいものだったという。

  • えいれきねんほん宮内庁くないちょうしょりょうぞうえいれき2ねん(1161ねん)7がつ奥書おくがき転写てんしゃほん
  • たてひさねんほん
  • 昭和しょうわきり俊成しゅんぜい自筆じひつ古筆切こひつぎれで、晩年ばんねん書写しょしゃであろうといわれている。まきだいいちからまきだいじゅうまでがつたわる。仮名かめいじょ真名まなじょはいずれもく、まきだいいちには息子むすこ定家さだいえが「あをやぎの いとよりかくる はるもしぞ みだれてはなの ほころびにける」のいちしゅ補筆ほひつしている。
  • りょう佐切さぎり:およそ和歌わか60しゅぶんほどの古筆切こひつぎれつたわる。まきだいじゅう断簡だんかんには俊成しゅんぜい真筆しんぴつ間違まちがいないという烏丸からすま光広みつひろきがある。本文ほんぶん昭和しょうわきりとほぼおなじく、これは俊成しゅんぜい盛年せいねんのときのふでであろうという。

定家さだいえほん

[編集へんしゅう]
定家さだいえほん」(よしみろくねんよんがつきゅうにちしょ写本しゃほん
表紙ひょうし画像がぞう題号だいごう文字もじ定家さだいえではない後人こうじんふでである。冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこぞう

藤原ふじわら定家さだいえ確認かくにんできるだけでも17かい古今ここん和歌集わかしゅう』を書写しょしゃしているが、そのうち自筆じひつほんが2しゅ転写てんしゃほん系統けいとうのもの9しゅいまつたわる。その本文ほんぶんについては俊成としなりふで昭和しょうわきり底本ていほんとし、校訂こうていほんによってっている。ただし俊成しゅんぜいほんおなじく定家さだいえほんつてほんによって本文ほんぶん異同いどうがあり、巻末かんまつ真名まなじょほんほんがある。このうち重要じゅうようなものについて以下いか4しゅげる。

2010ねん平成へいせい22ねん)には、定家さだいえほん系統けいとう鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき写本しゃほんつかっている[24]下記かきはその概要がいよう

  • つて慈円じえんふで古今ここん和歌集わかしゅう定家さだいえほんけい鎌倉かまくら時代じだい初期しょき中期ちゅうきごろ書写しょしゃ定家さだいえ存命ぞんめいちゅう書写しょしゃかんがえられる)。仮名かめいじょ真名まなじょりょうじょ完本かんぽんとしては最古さいこのもの。おやほん定家さだいえほんなかでも初期しょきのものとされる。甲南女子大学こうなんじょしだいがくぞう和泉いずみ書院しょいんから影印本えいいんぼん刊行かんこうされている(米田よねだ明美あけみ補遺ほい解題かいだい)。

脚注きゃくちゅう

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高野たかのきり
まきだいはち離別りべつ冒頭ぼうとう国宝こくほう毛利もうり博物館はくぶつかんぞう

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 栄花物語えいがものがたり』「つきうたげ」のまきには、天平てんぴょうかちたから5ねん572ねん)にこうけん天皇てんのう橘諸兄たちばなのもろえほかにめいじて『万葉集まんようしゅう』をえらばせたとの記述きじゅつがあり、これにしたがえば勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう一番いちばんはじめは『万葉集まんようしゅう』ということになる。しかし現在げんざいでは『万葉集まんようしゅう』の成立せいりつ大伴家持おおとものやかもちかかわるところだいであるとされており、この『栄花物語えいがものがたり』の記述きじゅつはほとんどかえりみられていない。ゆえに勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう最初さいしょは『古今ここん和歌集わかしゅう』であるとされている。
  2. ^ 真名まな」とは漢字かんじのことで、すなわち漢文かんぶんかれた序文じょぶんで、この真名まなじょは『本朝ほんちょうぶんいき』にも収録しゅうろくされている。
  3. ^ この日付ひづけ仮名かめいじょにある日付ひづけで、真名まなじょでは延喜えんぎ5ねん4がつ15にちとなっている。
  4. ^ 「…たなびくくものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらが、このにおなじくむまれて、このことときにあへるをなむよろこびぬる」(仮名かめいじょ)とある。
  5. ^ ほとんどのつてほんでは803ばん「あきのたの いねてふことも かけなくに なにをうしとか ひとのかるらん」のうたけんげい作者さくしゃ表記ひょうきがあるが、定家さだいえほんはその表記ひょうきちており、このまえにあるうた作者さくしゃ素性すじょうさくえる。ここでは、このうたけんげいさくかんがえる。
  6. ^ ふくろ草紙ぞうし』に「もとしゅんほんにははじめに真名まなじょき、おく仮名かめいじょきてはべりし」とある。『しん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい29 ふくろ草紙ぞうし』53ぺーじより。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 古今ここん和歌集わかしゅう元永もとながほん上巻じょうかん 国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう「e国宝こくほう」(2024ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ 吉海よしうみ直人なおと同志社女子大学どうししゃじょしだいがく日本語にほんご日本にっぽん文学ぶんがく とくにん教授きょうじゅ)きみ」の歴史れきしてき変遷へんせん(2019ねん7がつ5にち)2024ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ 古今ここん和歌集わかしゅう』(岩波書店いわなみしょてん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい>8)7 - 9ぺーじ
  4. ^ a b ぐんしょ類従るいじゅうだいじゅうよん輯・和歌わかぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1960ねん所収しょしゅうの『紀貫之きのつらゆきしゅう』より。
  5. ^ 伊達だてほん古今ここん和歌集わかしゅう笠間かさま書院しょいん、1995ねんISBN 4305402017
  6. ^ 小松こまつ英雄ひでお古典こてん和歌わか解読かいどく和歌わか表現ひょうげんはどのように深化しんかしたか』笠間かさま書院しょいん、2000ねんISBN 9784305702203
  7. ^ 中田なかた武司たけし古今ここん和歌集わかしゅう享受きょうじゅ」(「いちさつ講座こうざ編集へんしゅうへん古今ここん和歌集わかしゅう有精ゆうせいどう出版しゅっぱん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく4〉、1987ねんISBN 4640303041)pp.731~734
  8. ^ 定家さだいえ直筆じきひつしょ 発見はっけん古今ここんしゅう注釈ちゅうしゃくしょ国宝こくほうきゅう読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2024ねん4がつ19にち1めん同日どうじつ閲覧えつらん
  9. ^ 横井よこい金男かねお新井あらい栄蔵えいぞうへん古今ここんしゅう世界せかい伝授でんじゅ享受きょうじゅ』(世界せかい思想しそうしゃ、1986ねんISBN 4790702928だいきゅうしょう歌学かがくカリキュラムとしての古今ここん伝授でんじゅ
  10. ^ 田中たなか康二こうじほんきょせんちょう国文学こくぶんがく』(ぺりかんしゃ、2015ねんISBN 9784831514257)73-113ぺーじ初出しょしゅつは「古今ここんしゅうとおきょう受容じゅよう」『日本にっぽん文藝ぶんげい研究けんきゅうだい64かん1ごう、2012ねん
  11. ^ a b c 田中たなか康二こうじけんきょ江戸えど桂園けいえん歌人かじんたち:江戸えど時代じだいちゅう後期こうき」(鈴木すずき健一けんいち鈴木すずき宏子ひろこへん和歌わかまなひとのために』世界せかい思想しそうしゃ、2011ねんISBN 9784790715337)178-196ぺーじ
  12. ^ 田中たなか康二こうじほんきょせんちょう思考しこうほう』(ぺりかんしゃ、2005ねんISBN 4831511277)122-151ぺーじ初出しょしゅつは「近世きんせい国学こくがく古今ここんしゅう:『古今ここんしゅうとおきょう』における俗語ぞくごやく理論りろん方法ほうほう増田ますだ繁夫しげおしょう町谷まちや照彦てるひこ鈴木すずき日出男ひでお藤原ふじわら克巳かつみへん古今ここん和歌集わかしゅう伝統でんとう評価ひょうか風間かざま書房しょぼう古今ここん和歌集わかしゅう研究けんきゅう集成しゅうせい3〉2004ねんISBN 4759914307
  13. ^ 田中たなか康二こうじ村田むらた春海しゅんかい研究けんきゅう』(汲古書院しょいん、2000ねんISBN 4762934321)114-116ぺーじ初出しょしゅつは「村田むらた春海しゅんかい古今ここんふう和歌わか:『きんしゅういちいち中心ちゅうしんに」『解釈かいしゃくだい42かん3ごう、1996ねん
  14. ^ 日本にっぽん明治めいじ31ねん1898ねん2がつ14にちづけ。『子規しき全集ぜんしゅうだい7かん講談社こうだんしゃ、1975ねん所収しょしゅう
  15. ^ 寺澤てらさわ行忠ゆきただ子規しきの『古今ここんしゅう批判ひはんをめぐって:日本にっぽん文学ぶんがくにみる美的びてき理念りねん」『ひがしアジアにおける知的ちてき交流こうりゅう:キイ・コンセプトのさい検討けんとうだい44かん国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター、2013ねん、343-351ぺーじdoi:10.15055/00002203 
  16. ^ 日本にっぽん精神せいしん研究けんきゅう』(岩波書店いわなみしょてん、1926ねん)107-130ぺーじ初出しょしゅつは「『万葉集まんようしゅう』のうたと『古今ここんしゅう』のうたとの相違そういについて」『思想しそう』1922ねん8がつごう
  17. ^ 古今ここんしゅういて」(『萩原はぎはら朔太郎さくたろう全集ぜんしゅう[ていばん]』だい7かん 筑摩書房ちくましょぼう、1987ねん
  18. ^ 古今ここん和歌集わかしゅうwebsite= ジャパンナレッジ日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ]”. 2022ねん8がつ29にち閲覧えつらん
  19. ^ 小松こまつ茂美しげみ古筆こひつがく断章だんしょう』(講談社こうだんしゃ、1986ねん)423ぺーじ以降いこう
  20. ^ 古今ここん和歌集わかしゅうまきだいだいよん断簡だんかん(亀山かめやまきり) e国宝こくほう
  21. ^ 日本にっぽん名筆めいひつせん17 すじきりつうきり でん藤原ふじわらたすくひつ二玄社にげんしゃ、1994ねんISBN 978-4-544-00727-5
  22. ^ 池田いけだ光政みつまさ書写しょしゃの「きよし輔本」発見はっけん 林原はやしばら美術館びじゅつかん貴重きちょう完本かんぽん2けん. 山陽さんよう新聞しんぶん. (2017ねん1がつ4にち). http://www.sanyonews.jp/article/469145/1/?rct=area_syuyo 2017ねん1がつ5にち閲覧えつらん 
  23. ^ 古今ここんしゅうじょうためあかりひつ/〉文化ぶんか遺産いさんオンライン
  24. ^ 甲南女子大学こうなんじょしだいがくぞう古今ここん和歌集わかしゅう」についてでん慈円じえんひつ古今ここん和歌集わかしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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  • 延喜えんぎ醍醐天皇だいごてんのう親政しんせいたいする後代こうだいしょう

外部がいぶリンク

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