(Translated by https://www.hiragana.jp/)
吉備国 - Wikipedia コンテンツにスキップ

吉備きびこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉備きびこく(きびのくに)は、古代こだい日本にっぽん地方ちほう国家こっかである。現在げんざい岡山おかやまけん全域ぜんいき広島ひろしまけん東部とうぶ香川かがわけん島嶼とうしょおよび兵庫ひょうごけん西部せいぶ佐用さようぐん一部いちぶ赤穂あこう一部いちぶなど)にまたがる有力ゆうりょく地域ちいきひとつであり、大和やまと筑紫つくし出雲いずもなどとなら古代こだい日本にっぽんよん大王だいおうこくよん大王だいおうけん[1]一角いっかくであった。

別名べつめいは、吉備きびどう(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

れいせいこくでは備前びぜんこく備中びっちゅうこく備後びんごこく美作みさくこくにあたる。

後代こうだいには、たん吉備きびといえば美作みさくふくめないことがおおかった時期じきもあった。

現代げんだいでは備前びぜん備中びっちゅう美作みさく(つまり岡山おかやまけん別称べっしょう)をすか、備前びぜん備中びっちゅう美作みさく備後びんご岡山おかやまけん広島ひろしまけん東部とうぶ)をして使用しようされることがおおい。

れいせいこく(備前びぜんこく/備中びっちゅうこく/備後びんごこく/美作みさくこく)
備前国(■)
拡大
拡大かくだい

Clip
備前びぜんこく()
備中国(■)
拡大
拡大かくだい

Clip
備中びっちゅうこく()
備後国(■)
拡大
拡大かくだい

Clip
備後びんごこく()
美作国(■)
拡大
拡大かくだい

Clip
美作みさくこく()

歴史れきし

[編集へんしゅう]
吉備きび地方ちほう平野へいやおに城山しろやまからのぞむ)

吉備きび古代こだい畿内きない出雲いずもこくならんで勢力せいりょくっていたといわれ、巨大きょだい古墳こふん文化ぶんかゆうしていた。また、すぐれた製鉄せいてつ技術ぎじゅつがあり、それが強国きょうこくとなる原動力げんどうりょくであったとされる。『古事記こじきちゅうまきこうれい天皇てんのうだんなどに兵庫ひょうごけん加古川かこがわ以西いせい吉備きびであるととらえられる説話せつわがあり、加古川かこがわ国境こっきょうとしていた時期じきがあるとかんがえられている。

弥生やよい時代じだい後期こうき後半こうはんに(2世紀せいきはじめから3世紀せいき中頃なかごろまで)、この地方ちほう独特どくとく特殊とくしゅだい特殊とくしゅつぼつくられ、あやすぎもん鋸歯きょしもんかざられ、あかしゅったおおきなつつがた土器どきだった。これは部族ぶぞくごとの首長しゅちょう埋葬まいそう祭祀さいし使つかわれ、弥生やよい墳丘ふんきゅうだてちく弥生やよい墳丘ふんきゅう)から出土しゅつどしている。また最古さいこきゅう前方後円墳ぜんぽうこうえんふんはし古墳こふん西にし殿塚とのづか古墳こふん)からも出土しゅつどしており、のち埴輪はにわとして古墳こふん時代じだい日本にっぽん列島れっとう各地かくちひろまった。また吉備きび弥生やよい時代じだいからのしお生産せいさんだった。

この時代じだい吉備きびでは鍛鉄たんてつ技術ぎじゅつすすみ、入手にゅうしゅした材料ざいりょうからてつ製品せいひんつくられた。古墳こふん時代じだいはいると吉備きびでは鉄鉱てっこうせき採掘さいくつし、中国ちゅうごく地方ちほうほかで製鉄せいてつはじまったが、弥生やよい時代じだい製鉄せいてつがすでにはじめられたとかんがえるせつもある[2]

古墳こふん時代じだい吉備きび地方ちほう現在げんざい岡山平野おかやまへいや南部なんぶ内海うつみとなっていた(吉備きびあなかい、もしくは吉備きび内海うちうみばれる)。4世紀せいきからこの内海うちうみちかくに多数たすう前方後円墳ぜんぽうこうえんふんつくられた。『記紀きき』や神社じんじゃ伝承でんしょうにおいてもたかしかみ天皇てんのうによるよんみち将軍しょうぐん遠征えんせいによって彦五十狭芹彦命やや武彦たけひこいのち兄弟きょうだいかもぞく吉備きび進出しんしゅつしたことが記録きろくされている。

5世紀せいき大和やまと王権おうけん雄略天皇ゆうりゃくてんのう吉備きびせまらん(463ねん)の鎮圧ちんあつ成功せいこう大和やまと中央ちゅうおう政府せいふ優位ゆうい決定けっていづけた。さらに雄略ゆうりゃく直後ちょくごには、吉備きびややひめせまもとつま雄略ゆうりゃく)と星川ほしかわややみや皇子おうじ雄略ゆうりゃくややひめ息子むすこ)が反乱はんらんこしたためせいやすし天皇てんのうはこれを鎮圧ちんあつし(479ねん)、またしても吉備きび勢力せいりょく削減さくげんさせている。

吉備きびこく前方後円墳ぜんぽうこうえんふん分布ぶんぷ

6世紀せいきなかばからは巨大きょだいいし構成こうせいした横穴よこあなしき石室いしむろえんふんつくられた。また6世紀せいき後半こうはん千引せんびきカナクロ遺跡いせきでは製鉄せいてつ確認かくにんされている。一方いっぽう浦間うらま茶臼山ちゃうすやま古墳こふん金蔵きんぞうやま古墳こふんのように初期しょき古墳こふんにおいても大量たいりょうてつ製品せいひん出土しゅつどしている事情じじょうや、吉備きび入植にゅうしょく以前いぜんから製鉄せいてつ氏族しぞく先住せんじゅうしていたとられることから、製鉄せいてつ起源きげん弥生やよい時代じだいにまでさかのぼるものとせつもある[3][4]

造山つくりやま古墳こふん作山さくやま古墳こふん築造ちくぞう当時とうじ日本にっぽん列島れっとう最大さいだいきゅう現存げんそんする日本にっぽん古墳こふんのうちでもだい4および9規模きぼをもち、吉備きび地方ちほう繁栄はんえいとこの豪族ごうぞくちからしめすものである。

これら古墳こふんまえにあたる前方後円墳ぜんぽうこうえんふん時代じだい吉備きびと、のちにあたる7世紀せいき吉備きび地方ちほうには、複数ふくすう豪族ごうぞくならっていたとかんがえられている。造山つくりやま古墳こふん作山さくやま古墳こふん統一とういつてき吉備きび政権せいけん存在そんざいあかしとするせつや、この時代じだいにも複数ふくすう有力ゆうりょく豪族ごうぞく連合れんごう政権せいけんであったとするせつ大和やまと政権せいけん支配しはいでの有力ゆうりょく豪族ごうぞく集団しゅうだんであったとするせつなどがある。

国造くにのみやつこ本紀ほんぎ』によれば、吉備きび地方ちほうにはだいはくだいはく国造くにのみやつこ)、上道じょうとう上道じょうとう国造くにのみやつこ)、三野みの三野みの国造くにのみやつこ)、下道げどう下道げどう国造くにのみやつこ)、よる国造くにのみやつこ)、りゅうかさ国造くにのみやつこ)があった。吉備きび国造くにのみやつこ場合ばあいおおく(上道じょうとう三野みの下道げどうよるかさ)がしん(オミ)せいしょうしている。

このなかしたどうりゅうは、のち朝臣あそんせい(かばね)を名乗なのる(吉備きび朝臣あそん[5]奈良なら時代じだい日本にっぽんをリードした学者がくしゃ政治せいじ吉備真備きびのまきびしたどうである。その上道じょうとう賀陽かよう朝臣あそんたまものせいされている。

ぶんこくは、もちすべ天皇てんのう3ねん(689ねん)の飛鳥あすかきよしはられい発布はっぷをもって備前びぜんこく備中びっちゅうこく備後びんごこく分割ぶんかつ、それからおくれることじゅうすうねん和銅わどう6ねん(713ねん)に備前びぜんこく内陸ないりく美作みさくこくとして分立ぶんりつした。

吉備きび国守こくしゅ吉備きびだいおさむ吉備きび総領そうりょうは、『日本書紀にほんしょき』・『風土記ふどき』・『ぞく日本にっぽん』に散見さんけんされる官職かんしょくで、吉備きびこく分割ぶんかつ前後ぜんご設置せっちされたらしい。職掌しょくしょう管轄かんかつ範囲はんい存続そんぞく期間きかんつたわらない。大宰府だざいふ前身ぜんしんとおぼしき筑紫つくしだいおさむとともに、中央ちゅうおうから派遣はけんされ、管下かんか複数ふくすうくに外交がいこう軍事ぐんじ統括とうかつする任務にんむったものと推測すいそくされる。史料しりょうえる最後さいごは、文武ぶんぶ天皇てんのう4ねん700ねん)の吉備きび総領そうりょう任命にんめい記事きじである。おそくとも大宝たいほう律令りつりょう制定せいていまでに廃止はいしされた。

こののち今日きょういたるまで、吉備きび四国しこくは、一体いったいとして統治とうちされることはなく、備前びぜん美作みさく備中びっちゅう備後びんごの3つにかれた状態じょうたい明治めいじまでつづくことになる。この分裂ぶんれつじょうきょう余波よはは、おな岡山おかやまけんとなっているにもかかわらず岡山おかやま都市としけん備前びぜん)と倉敷くらしき都市としけん備中びっちゅう)が対立たいりつしたり、室町むろまち時代じだい以降いこう備後びんご安芸あき一体化いったいか近代きんだい以降いこう広島ひろしまけんとして統合とうごうされるなどというかたちで、現在げんざいまで影響えいきょうしている。

現代げんだいでは吉備きび(の)こくという呼称こしょうは、きゅう備前びぜん備中びっちゅう美作みさく相当そうとうする岡山おかやまけん別称べっしょうないし雅称がしょう[6]としておもにもちいられる。

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]
国司こくし[7]
吉備きび国守こくしゅ
吉備きびだいおさむ
吉備きび総領そうりょう
按察使
南海なんかいどう節度せつど使

木簡もっかん記述きじゅつされている人物じんぶつ

[編集へんしゅう]
平城京へいじょうきょうあと,飛鳥あすかきょうあと出土しゅつど木簡もっかん

関連かんれんする地域ちいき

[編集へんしゅう]

備州(びしゅう)とは、備前びぜん備中びっちゅう備後びんごのいずれか、あるいは全体ぜんたい名称めいしょう。または、吉備きびこく全体ぜんたい備前びぜん備中びっちゅう備後びんご美作みさく)を名称めいしょう

さん

[編集へんしゅう]

さん備(さんび)とは、備前びぜん備中びっちゅう備後びんごさんこく総称そうしょうさん地区ちく繊維せんい産業さんぎょう

両備りようび

[編集へんしゅう]

両備りようび(りょうび)とは、備前びぜん備中びっちゅう備後びんごのうち、いずれか2カ国かこく名称めいしょう、および2カ国かこくまたが地域ちいきである。備前びぜん備中びっちゅう、もしくは備中びっちゅう備後びんご場合ばあいおお[8]備前びぜん備後びんご備中びっちゅうあいだにはさんで地理ちりてき距離きょりがあるため、この2こくわせて呼称こしょうする機会きかいすくないためである。

れいとして、きゅう備中びっちゅうこくである笠岡かさおか井原いはら中心ちゅうしんとするかさ地方ちほうは、きゅう備後びんごこく福山ふくやま都市としけんにもふくまれるため、これらを中心ちゅうしんとする地域ちいきをまとめて両備りようび場合ばあいがある。両備りようび軽便鉄道けいべんてつどう両備りようび信用組合しんようくみあいはこれに由来ゆらい

なお、バス事業じぎょうなどを展開てんかいする両備りようびグループ両備りようび元々もともと備前びぜん備中びっちゅう意味いみである[8]が、同業どうぎょう他社たしゃM&A結果けっか、バス事業じぎょうさん地域ちいきわたって展開てんかいされている。

ちなみに、備後びんご広島ひろしまけん府中ふちゅう本社ほんしゃ機械きかいメーカーリョービは、カタカナ表記ひょうき以前いぜん使用しようした漢字かんじ表記ひょうきは「ひし備」であり、備中びっちゅう備後びんごの「両備りようび」と創業そうぎょう取引とりひき会社かいしゃだった三菱みつびしわせたものである。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本にっぽん旧派きゅうは歌道かどう流派りゅうは総覧そうらん』P13
  2. ^ てつ伝播でんぱとたたらのはじまり」(日立金属ひたちきんぞく
  3. ^ 高見たかみのぞむ吉備きび王国おうこく残照ざんしょう 古代こだい十字路じゅうじろからの発信はっしん東京とうきょう経済けいざい、1992ねん
  4. ^ たから寿男としお古代こだい氏族しぞく研究けんきゅう⑨ 吉備きび 桃太郎ももたろう伝承でんしょう地方ちほうだいぞく青垣あおがき出版しゅっぱん、2016ねん
  5. ^ 天武てんむ13ねん(684ねんはちしょくせい
  6. ^ 吉備きび国文こくぶん遺産いさんムービーライブラリー岡山おかやま県庁けんちょうHP
  7. ^ 吉備きびぐん上巻じょうかん永山ながやま卯三郎うさぶろう、1971ねん、613ぺーじ備中びっちゅう国司こくしひょうとうより
  8. ^ a b 山陽新聞社さんようしんぶんしゃ岡山大おかやまだい百科ひゃっか事典じてん』1979ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]