(Translated by https://www.hiragana.jp/)
吉田謙吉 - Wikipedia コンテンツにスキップ

吉田よしだ謙吉けんきち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
よしだ けんきち
吉田よしだ 謙吉けんきち
生年月日せいねんがっぴ (1897-02-10) 1897ねん2がつ10日とおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1982-05-01) 1982ねん5月1にち(85さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう日本橋にほんばし現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし
職業しょくぎょう 舞台ぶたい装置そうち美術びじゅつ監督かんとく衣裳いしょうデザイナータイポグラフィ作家さっか
ジャンル 新劇しんげき映画えいが
活動かつどう期間きかん 1910年代ねんだい - 1982ねん
おも作品さくひん
舞台ぶたい海戦かいせん[1]
映画えいがあたらしき
書籍しょせき 『モデルノロヂオ』[1]舞台ぶたい装置そうちしゃ手帖てちょう[2]
テンプレートを表示ひょうじ

吉田よしだ 謙吉けんきち(よしだ けんきち、1897ねん2がつ10日とおか - 1982ねん5月1にち[1])は、日本にっぽん舞台ぶたい装置そうち映画えいが美術びじゅつ監督かんとく衣裳いしょうデザイナータイポグラフィ作家さっかである。

人物じんぶつ来歴らいれき

[編集へんしゅう]

1897ねん明治めいじ30ねん2がつ10日とおか東京とうきょう東京とうきょう日本橋にほんばし現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし)にまれる[1][2]

17さいのとき、二科会にかかいに『演劇えんげきじん』を出品しゅっぴんはつ入選にゅうせんたす[2]旧制きゅうせい東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう図案ずあん現在げんざい東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく美術びじゅつ学部がくぶデザイン)に入学にゅうがく[1]同校どうこう在学ざいがくちゅうの1920ねん大正たいしょう9ねん)、帰山かえりやま教正のりまさ映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい製作せいさく監督かんとくしたサイレント映画えいが幻影げんえいおんな』、『白菊しらぎく物語ものがたり』の字幕じまくタイポグラフィを制作せいさくする[3]。1922ねん大正たいしょう11ねん)、同校どうこう卒業そつぎょうする[1][4]同年どうねん大正たいしょう新興しんこう美術びじゅつ運動うんどうになった古賀こが春江はるえ神原かみはらやすし中川なかがわ紀元きげん岡本おかもとからたか浅野あさのはじめらのグループ「アクション」の設立せつりつ参加さんかする。

1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい演劇えんげき復興ふっこうのため、1924ねん大正たいしょう13ねん)に土方ひじかた与志よし小山内おさないかおる創設そうせつした築地つきじしょう劇場げきじょう宣伝せんでん美術びじゅつ部員ぶいんとして参加さんか[1][2]同年どうねん6がつだい1かい公演こうえん海戦かいせん』の舞台ぶたい装置そうち衣裳いしょうがけ、表現ひょうげん主義しゅぎてき舞台ぶたい装置そうち発表はっぴょうする[1][2]土方ひじかた与志よし演出えんしゅつロマン・ロランさくおおかみ』の舞台ぶたいとうで「丸太まるたしき組立くみた舞台ぶたい」を発表はっぴょう新進しんしん装置そうちとしてみとめられるところとなる[2]当時とうじ弟子でし図案ずあん後輩こうはい河野こうのたかおもえがいる。

また関東大震災かんとうだいしんさいころからまちちゅう看板かんばんとう写生しゃせいする活動かつどうはじめ、1924ねん雑誌ざっし建築けんちく新潮しんちょう』に「バラク東京とうきょう看板かんばん」を寄稿きこう[5]。これらの活動かつどうのちに「考現学こうげんがく」に発展はってんし、1930ねん昭和しょうわ5ねん)には東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう先輩せんぱいいま和次郎わじろうとともに共著きょうちょ『モデルノロヂオ』を上梓じょうしする[1]

1925ねん大正たいしょう14ねん)には、小山内おさない上梓じょうしした書籍しょせきみっつのねがい童話どうわげき』の装丁そうていがける[6]同年どうねん日活にっかつ京都きょうと撮影さつえいしょだい製作せいさくした溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとくの『ぜに不戦ふせん』に「舞台ぶたい衣裳いしょう考案こうあん」として参加さんかしている[3]。1927ねん昭和しょうわ2ねん)には、小山内おさないミナトーキー監督かんとくした初期しょきトーキー作品さくひん黎明れいめい』の美術びじゅつ装置そうち設計せっけいした[3]

1930ねんたんちょ舞台ぶたい装置そうちしゃ手帖てちょう』を上梓じょうし

1935ねん昭和しょうわ10ねん)からは、京都きょうとJ.O.スタヂオ(のちの東宝とうほう映画えいが京都きょうと撮影さつえいしょ)で現代げんだいげき舞台ぶたい装置そうち美術びじゅつデザインをがけ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)にはドイツと合作がっさくしたアーノルド・ファンク伊丹いたみ万作まんさく共同きょうどう監督かんとくによる映画えいがあたらしき』の装置そうちがけた[3]

だい世界せかい大戦たいせんこうは、吉田よしだ謙吉けんきち舞台ぶたい美術びじゅつ研究所けんきゅうじょ設立せつりつどう研究所けんきゅうじょからは中林なかばやしあきら松下まつしたあきららを輩出はいしゅつした。

1982ねん昭和しょうわ57ねん5月1にち死去しきょした[1]まん85さいぼつ

フィルモグラフィ

[編集へんしゅう]

特筆とくひつのないものはすべて「美術びじゅつ」とクレジット[3]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]
  • 舞台ぶたい装置そうちしゃ手帖てちょうよんろく書院しょいん、1930ねん
  • みなみささえ風土記ふどき ぶん大東だいとう出版しゅっぱんしゃ、1940ねん
  • 『たのしい舞台ぶたい装置そうち』みつばち文庫ぶんこ国土こくどしゃ、1951ねん
  • 絵本えほんヨーロッパ 舞台ぶたい装置そうち美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1954ねん
  • 女性じょせい風俗ふうぞく河出かわで新書しんしょ、1955ねん
  • 築地つきじしょう劇場げきじょう時代じだい その苦闘くとう抵抗ていこうと』八重岳やえだけ書房しょぼう、1971ねん
  • 吉田よしだ謙吉けんきちった戦前せんぜんひがしアジア』くさおもえしゃ、2020ねん塩澤しおざわ珠江たまえ長女ちょうじょ解説かいせつ

共著きょうちょ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j 吉田よしだ謙吉けんきち、『講談社こうだんしゃ 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん』、講談社こうだんしゃコトバンク、2010ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 吉田よしだ謙吉けんきち大木おおきやすし、『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』、小学館しょうがくかんYahoo!百科ひゃっか事典じてん、2010ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e 吉田よしだ謙吉けんきち日本にっぽん映画えいがデータベース、2010ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん 1967』、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん東京とうきょう国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ、1967ねん、p.319.
  5. ^ 赤瀬あかせ川原平かわらたい藤森ふじもりあきらしんみなみしんぼうへん路上ろじょう観察かんさつがく入門にゅうもん』、ちくま文庫ぶんこ、1986ねん、p.81。
  6. ^ 日本にっぽん児童じどう文学ぶんがくかん だい2しゅう 17国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん、2010ねん3がつ5にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]