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名人めいじん (将棋しょうぎ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

将棋しょうぎにおける名人めいじん(めいじん)は、棋士きし称号しょうごうひとつである。江戸えど時代じだい1612ねんから昭和しょうわ1937ねんまでは将棋しょうぎかい最高さいこう権威けんいしゃあたえられた終身しゅうしんであり、棋界きかい近代きんだいにあたって短期たんき実力じつりょくせい移行いこうした昭和しょうわ12ねん(1937ねん以降いこう名人めいじんせんにおけるタイトル称号しょうごうとなっている。女流じょりゅう名人めいじんアマチュア棋戦きせんの「名人めいじんはそれぞれを参照さんしょう

概要がいよう

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囲碁いごかい将棋しょうぎかいにおいてもちいられている「名人めいじん」という称号しょうごう起源きげん織田おだ信長のぶなが任命にんめいした一世いっせい本因坊ほんいんぼう本因坊ほんいんぼうさんすなにちかい)といわれる[注釈ちゅうしゃく 1]さんすなはのちに徳川とくがわ幕府ばくふ初代しょだい囲碁いご将棋しょうぎ統括とうかつ最高さいこうである連絡れんらくがかりめいじられたという。これが現在げんざいかく方面ほうめん常用じょうようされる「名人めいじん」という言葉ことばこりとされることがあるが、ただし、増川ますかわ宏一こういち将棋しょうぎII』(法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく)によると、鎌倉かまくら時代じだいの『ちゅうれき』にはすでに、囲碁いご雙六すごろく名人めいじんについての記述きじゅつがあるという。

その将棋しょうぎ名人めいじんについてはおおきく3つの時代じだいけられる。

  1. 江戸えど時代じだい将棋しょうぎ家元いえもと第一人者だいいちにんしゃ名乗なのった称号しょうごう一世いっせいじゅうせい)。徳川とくがわ家康いえやす主導しゅどうした慶長けいちょう17ねん(1612ねん)、初代しょだい大橋おおはしはじめかつら大橋おおはし本家ほんけ俸禄あたえられ、はじめて将棋しょうぎしょまかされることになったとされる[注釈ちゅうしゃく 2]。それまでは本因坊ほんいんぼうさんすな将棋しょうぎしょが「将棋しょうぎしょ」を呼称こしょうしていたともいわれる[注釈ちゅうしゃく 3]以降いこう大橋おおはし本家ほんけ大橋おおはし分家ぶんけ伊藤いとうさんいえ最強さいきょうしゃが「名人めいじん」「将棋しょうぎしょ」を名乗なの家元いえもと名人めいじんせい確立かくりつする[注釈ちゅうしゃく 4]。この時代じだいは、名人めいじんとはきゅうだんであった。なお、はちだんは「じゅん名人めいじん」、ななだんは「上手じょうず(じょうず)」とばれた。江戸えど幕府ばくふ瓦解がかいとともに、将棋しょうぎ家元いえもと名人めいじんせい終焉しゅうえんむかえた。
  2. 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ初期しょきにおいては将棋しょうぎかい年功ねんこうある実力じつりょくしゃ推挙すいきょされて名乗なのった名誉めいよ称号しょうごうじゅういちせいじゅうさんせい)。この時代じだいも、名人めいじんとはきゅうだんであった。しかし、昭和しょうわ10ねん(1935ねん)にじゅうさんせい名人めいじん関根せきね金次郎きんじろう退すさかくれするかんがえを表明ひょうめいしたことで、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい実力じつりょくせい名人めいじんせん開催かいさい決定けってい昭和しょうわ12ねん(1937ねん)12月6にち木村きむら義雄よしおだい1名人めいじんせん優勝ゆうしょうしゃとなる。昭和しょうわ13ねん(1938ねん)2がつ11にち関根せきね金次郎きんじろう名人めいじん返上へんじょうし、木村きむら名人めいじんにつく。これにより家元いえもと名人めいじんせい時代じだいからつづいていた一世いっせい名人めいじんせい廃止はいしされ、短期たんき実力じつりょくせい名人めいじんせん移行いこうした。
  3. 昭和しょうわ13ねん(1938ねん以降いこう現代げんだいにおいてはプロ棋戦きせんタイトルせん)の1つである名人めいじんせん勝者しょうしゃ棋士きし推戴すいたいされる称号しょうごうであり、次期じき名人めいじんせん終了しゅうりょうまで名乗なのることができる。名人めいじんはつ獲得かくとくじゅんに「実力じつりょくせいだいだい名人めいじん」としょうする。順位じゅんいせん導入どうにゅうされた昭和しょうわ22ねん(1947ねん以降いこう名人めいじんせんたたかうにはそのまえに、基本きほんてきにAクラスまで昇級しょうきゅうしなければいけなくなった。当初とうしょ順位じゅんいせんリーグは3クラスせい(A,B,C)であり(なおかつ、Bきゅう優勝ゆうしょうしゃ挑戦ちょうせんしゃ決定けっていせん参加さんかできた時期じきがあった)、のちに5クラスせい(A,B1,B2,C1,C2)が定着ていちゃくしたため名人めいじんくには棋士きしになってから最短さいたんで5ねんかかる。
    1. 前期ぜんき名人めいじんせん勝者しょうしゃ棋士きし今期こんき名人めいじんせんやぶれるとまえ名人めいじんとなり、ほかにタイトルっていない場合ばあいに、次期じき名人めいじんせん終了しゅうりょうまではタイトルにじゅんずる称号しょうごうとして「ぜん名人めいじん」と名乗なの資格しかくあたえられていた。(「ぜん名人めいじん」の称号しょうごうは、本人ほんにん意向いこうにより辞退じたいすることができた。)ただし、当初とうしょは「ぜん名人めいじん」と名乗なのりれる期間きかんが1年間ねんかんかぎられておらず、最初さいしょの「ぜん名人めいじん」である木村きむら義雄よしおだいろく名人めいじんせんやぶれて、翌々年よくよくねんだいはち名人めいじん復位ふくいするまで「ぜん名人めいじん」の称号しょうごうであった。二人ふたりの「ぜん名人めいじん」である塚田つかだ正夫まさおだいはち名人めいじんせん木村きむらやぶれたのち大山おおやま康晴やすはる名人めいじん奪取だっしゅ塚田つかだ自身じしんきゅう段位だんい取得しゅとく昭和しょうわ27ねん(1952ねん)まで「ぜん名人めいじん」の称号しょうごうのままであった。木村きむら塚田つかだ以降いこうは、大山おおやま康晴やすはる中原なかはらまこと加藤かとう一二三ひふみ谷川たにがわ浩司こうじぜん名人めいじんしょうしたものの、米長よねなが邦雄くにお平成へいせい6ねん(1994ねん)に羽生はぶ善治よしはる名人めいじんうばわれ「ぜん名人めいじん」を名乗なのったのを最後さいごぜん名人めいじん称号しょうごう名乗なの棋士きしがおらず、れい2ねん(2020ねん)に竜王りゅうおうせんの「ぜん竜王りゅうおう」とともにぜん名人めいじん称号しょうごう廃止はいしした。
    2. 通算つうさん5かい名人めいじんせん勝者しょうしゃになった棋士きしに「永世えいせい名人めいじん」の資格しかくあたえられ、原則げんそく引退いんたいかさねくらいすることができる(じゅうよんせい)。
  4. このほかに、名誉めいよ称号しょうごうとしておくられる「贈名おくりなじん」「名誉めいよ名人めいじん」などがある。

家元いえもとせい世襲せしゅうせい)および推挙すいきょせいによる名人めいじん

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実力じつりょくせいによる名人めいじん

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将棋しょうぎ名人めいじん退すさ就位しゅういしき昭和しょうわ13ねん(1938ねん)2がつ

昭和しょうわ9ねん(1934ねん)、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん学芸がくげい部長ぶちょう阿部あべ眞之助しんのすけ囲碁いごおよび将棋しょうぎの「実力じつりょく名人めいじんせん」を企画きかく[1]だいじゅうさんせい名人めいじん関根せきね金次郎きんじろうれて、昭和しょうわ10ねん(1935ねん)に名人めいじん実力じつりょくによってえら名人めいじんせん発足ほっそくした。昭和しょうわ12ねん(1937ねん)12月6にちには木村きむら義雄よしおだい1名人めいじんせん優勝ゆうしょうしゃ決定けってい昭和しょうわ13ねん(1938ねん)2がつ11にち関根せきね名人めいじん退位たいい[2]木村きむら名人めいじん就位しゅういしき実施じっしした。

実力じつりょくせい歴代れきだい名人めいじん

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実力じつりょくせいによる名人めいじんはつ獲得かくとくしたじゅん代数だいすうあたえられる。
括弧かっこ就位しゅういねん獲得かくとくすうだい82までの通算つうさん、※は現役げんえき棋士きし

称号しょうごうとしての「実力じつりょくせい名人めいじん

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称号しょうごうとしての「実力じつりょくせい名人めいじん」は、名人めいじんせん制度せいど発足ほっそくから51ねん昭和しょうわ63ねん(1988ねん)、升田ますだ幸三こうぞう功績こうせきたたえるにあたって制定せいていされた[注釈ちゅうしゃく 5]

選定せんてい基準きじゅんは「名人めいじん3」もしくは「名人めいじん2抜群ばつぐん活躍かつやくをしたもの」(70さい以上いじょう引退いんたいしゃ)とされる[5]

これまでに追贈ついぞうされたのは、升田ますだ幸三こうぞう1988ねんかさね)と木村きむら義雄よしお1989ねん追贈ついぞう)、塚田つかだ正夫まさおおなじく1989ねん追贈ついぞう)の3めいで、このうち「実力じつりょくせい名人めいじん」の称号しょうごうかんしてあらわされるのは、升田ますだ塚田つかだの2めいである。なお、称号しょうごうするさい永世えいせい称号しょうごう上位じょういとなるならわしのため、永世えいせい名人めいじんには「実力じつりょくせい名人めいじん」の称号しょうごうかんさない。

称号しょうごう実力じつりょくせい名人めいじん」の追贈ついぞうしゃ
  • 升田ますだ幸三こうぞう - 「実力じつりょくせいだいよんだい名人めいじん」(1988ねん04がつ01にちかさね
  • 木村きむら義雄よしお - 「実力じつりょくせい初代しょだい名人めいじん_1989ねん11月17にち追贈ついぞう)※じゅうよんせい名人めいじん<永世えいせい名人めいじん>につき「実力じつりょくせい名人めいじん」の称号しょうごうかんさない。
  • 塚田つかだ正夫まさお - 「実力じつりょくせいだいだい名人めいじん」(1989ねん11月17にち追贈ついぞう

追贈ついぞうじゅん記載きさい

永世えいせい名人めいじん

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1949ねん日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい規約きやく改定かいていにより[6]名人めいじん通算つうさん5以上いじょう保持ほじした棋士きしに「永世えいせい名人めいじん」の資格しかくあたえ、引退いんたいかさねくらいするようになった。ほかの将棋しょうぎタイトルの永世えいせい称号しょうごう囲碁いご名誉めいよ名人めいじんとは要件ようけんことなるほか(れい将棋しょうぎ永世えいせい竜王りゅうおう要件ようけんは5連続れんぞくもしくは通算つうさん7囲碁いご名誉めいよ名人めいじん要件ようけんは5連続れんぞくもしくは通算つうさん10など)、将棋しょうぎ永世えいせい名人めいじん場合ばあいは「○せい名人めいじん」という称号しょうごうとなる。代数だいすう家元いえもとせい世襲せしゅうせい)および推挙すいきょせい数字すうじぎ、じゅうよんせいからとなっている。

前述ぜんじゅつのように原則げんそくとして、永世えいせい名人めいじんかさね引退いんたいであるが、大山おおやま康晴やすはる名人めいじん通算つうさん18および13連覇れんぱなどの偉業いぎょう中原なかはらまこと名人めいじん通算つうさん15などの偉業いぎょう谷川たにがわ浩司こうじ当時とうじ史上しじょう最年少さいねんしょう(21さい2かげつ)での名人めいじん獲得かくとく将棋しょうぎかいへの貢献こうけんなどの偉業いぎょうたたえられ、特例とくれいとして現役げんえきのままのかさねがそれぞれみとめられた。

現代げんだいにおける名人めいじん竜王りゅうおう名人めいじん

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その名人めいじん

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現役げんえき当時とうじ名人めいじん在位ざいいしなかったが、その功績こうせき名人めいじん相当そうとうするものとして、引退いんたい没後ぼつご名人めいじん贈位ぞうい追贈ついぞう)されるものに贈名おくりなじん名誉めいよ名人めいじんがある。また、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい公認こうにんしていないが、生前せいぜん関西かんさい名人めいじんばれた棋士きしがいる。

贈名おくりなじん

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没後ぼつご顕彰けんしょうにより「名人めいじん」を追贈ついぞうされたものは、以下いかの2めいがいる。

名誉めいよ名人めいじん

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推挙すいきょによって名人めいじんかさねしていた時代じだい諸般しょはん事情じじょうによりかさねできなかったが、のちに日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい(または将棋しょうぎ大成たいせいかい)によって「名誉めいよ名人めいじん称号しょうごうおくられたものは、以下いかの2めいがいる。なお、升田ますだ幸三こうぞう実力じつりょくせいだいよんだい名人めいじん称号しょうごうおくられるまえに「名誉めいよ名人めいじん」を打診だしんされたが、「名誉めいよ名人めいじん名人めいじんになれなかったものへの肩書かたがきだ。わたし名人めいじんになっている」として、ことわっている。

  • 小菅こすがけんすけ大正たいしょう10ねん1921ねん)に名人めいじん推挙すいきょされる[よう出典しゅってん]当時とうじ専業せんぎょう棋士きしでなかったため辞退じたい昭和しょうわ11ねん1936ねん)にときの「将棋しょうぎ大成たいせいかい」により名誉めいよ名人めいじん贈位ぞういされる。
  • 土居どい市太郎いちたろう大正たいしょう時代じだい関東かんとう棋界きかいにおいては関根せきねをしのぐ実質じっしつ第一人者だいいちにんしゃであった。昭和しょうわ29ねん1954ねん)に日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいから贈位ぞういされる。
    • ただし土居どい実力じつりょくせい初期しょきまで現役げんえきで、だい2名人めいじんせん木村きむら義雄よしお挑戦ちょうせんしている(当時とうじ52さい)。

関西かんさい名人めいじん

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家元いえもとせい大橋おおはし大橋おおはし分家ぶんけ伊藤いとう)から実力じつりょくせい日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい)への移行いこうにあたる明治めいじ大正たいしょう時代じだいには、棋界きかい統一とういつされておらず、さまざまな将棋しょうぎ団体だんたい乱立らんりつすることになった。とく大阪おおさかでは、東京とうきょうとはことなる独自どくじ棋界きかい運営うんえいおこなわれ、天野あまの宗歩そうほ弟子でし小林こばやし東伯とうはくひとし関西かんさい名人めいじんもしくは大阪おおさか名人めいじんばれていた。 さらに小林こばやし死後しご小林こばやし弟子でしともいわれる坂田さかた三吉さんきちは、大正たいしょう14ねん(1925ねん)に京阪神けいはんしん財界ざいかい有力ゆうりょくしゃ推挙すいきょされて「名人めいじん」をしょうした[8]坂田さかたしょうしたのは「名人めいじん」である[9]が、東京とうきょう名人めいじん区別くべつするために、現在げんざいでは「関西かんさい名人めいじん」、「大阪おおさか名人めいじん」などと表記ひょうきすることもある)。しかし、すでにほぼ棋界きかい統一とういつえていた東京とうきょう将棋しょうぎ連盟れんめい当時とうじ)から「名人めいじん僭称せんしょう」として追放ついほうされ、一時いちじてき孤立こりつすることになった。晩年ばんねん将棋しょうぎ連盟れんめい和解わかいし、実力じつりょく名人めいじんせい名人めいじんせんでも活躍かつやくした坂田さかたは、没後ぼつご顕彰けんしょうにより日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいからも正式せいしきに「名人めいじん」「王将おうしょう」を追贈ついぞうされ、大阪おおさか通天閣つうてんかくのかたわらに「王将おうしょう」がてられた。

なお「関西かんさい名人めいじん」は、東京とうきょう将棋しょうぎ連盟れんめい前身ぜんしんとする日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいによって統一とういつされた現代げんだい将棋しょうぎかいにおいては公認こうにんのものである。

名人めいじんかんする名言めいげんなど

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将棋しょうぎ名人めいじんかんする名言めいげん格言かくげんなど。

名人めいじん定跡じょうせきなし
名人めいじんつよさは、定跡じょうせきだけにとらわれないものであるということ。
名人めいじんこう
升田ますだ幸三こうぞう標榜ひょうぼうし、かつ実現じつげんした言葉ことば将棋しょうぎかい第一人者だいいちにんしゃである名人めいじんたいして、こません香車きょうしゃとすハンデキャップをつけること。すなわち名人めいじんつよさをえること。
将棋しょうぎかみえらばれたものだけが名人めいじんになれる
400ねんあまりの名人めいじん歴史れきしなかで、就位しゅういした人物じんぶつがわずか28めいという、名人めいじん特別とくべつせい表現ひょうげんした言葉ことば[10]

その

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  • 芹沢せりざわ博文ひろぶみ生前せいぜんに「芹沢名人せりざわめいじん」の別称べっしょうばれたことがある。ただこれはあくまでもテレビ番組ばんぐみにおける愛称あいしょうであり、芹沢せりざわ棋士きし人生じんせいにおいて順位じゅんいせんAきゅうに2だけ在位ざいいしたことがあるものの、名人めいじん獲得かくとくしたことはなく、そもそも名人めいじんせん挑戦ちょうせんしたことがない。またタレントの芹澤名人せりざわめいじん芹沢せりざわ博文ひろぶみ由来ゆらいする芸名げいめいであり、やはり名人めいじんとは関係かんけいがなく、そもそも日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいとの接点せってんかない。
  • 昭和しょうわ51ねん(1976ねん)には、主催しゅさい移行いこう問題もんだい長引ながびき、順位じゅんいせんおよび名人めいじんせん中止ちゅうしとなる事態じたいおちいった。そのあいだ昭和しょうわ51ねん(1976ねんまつに、あらたな主催しゅさいとなった毎日新聞まいにちしんぶんは、移籍いせき記念きねんし、選抜せんばつ棋士きしによる特別とくべつ名人めいじんせんしょうした非公式ひこうしきせんのトーナメントを独自どくじ開催かいさいし、当時とうじはちだん大内おおうちのべかい優勝ゆうしょう大内おおうち毎日新聞まいにちしんぶんから「特別とくべつ名人めいじん」の称号しょうごうおくられたが、上述じょうじゅつのとおり、公式こうしきせんではなく毎日新聞まいにちしんぶんのイベントの一環いっかんであるため、大内おおうち日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいにおける棋士きしとしての実績じっせきには計上けいじょうされていない。ちなみに大内おおうちは、昭和しょうわ50ねん(1975ねん)におこなわれただい34名人めいじんせん中原なかはらまこと挑戦ちょうせんしゃとなったことはあるものの3しょう4はい1もち将棋しょうぎ敗退はいたいし、公式こうしき名人めいじん獲得かくとくにはいたっていない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ はやし元美もとみただれ柯堂棋話』および『すわかくれだんくさむら』の記述きじゅつだが、証明しょうめいする資料しりょう一切いっさいなく、また師匠ししょうせん也も存命ぞんめいであり弱冠じゃっかん20さいさんすなが「名人めいじん」とばれたとはしんじがたいとの主張しゅちょうもある。(福井ふくい正明まさあきちょ囲碁いご古名こみょうじん全集ぜんしゅう』の巻末かんまつ評伝ひょうでん秋山あきやま賢司けんじ))。
  2. ^ しかし増川ますかわ宏一こういちは、この時期じきには、「名人めいじん」「しょ」「将棋しょうぎしょ」いずれの名称めいしょうもまだ存在そんざいしていないとしている
  3. ^ これは明治めいじ刊行かんこうされた安藤あんどう如意にょいすわかくれだんくさむら』の記述きじゅつだが、この時期じきには「しょ」「将棋しょうぎしょ」という言葉ことばそのものがなく、しんじがたいとの意見いけんがある。(増川ますかわ宏一こういち』および福井ふくい正明まさあきちょ囲碁いご古名こみょうじん全集ぜんしゅう』の巻末かんまつ評伝ひょうでん秋山あきやま賢司けんじ))
  4. ^ 適当てきとう候補者こうほしゃがいない場合ばあい空位くういとなった。
  5. ^ 制定せいていのいきさつが、退役たいえき棋士きし観戦かんせん記者きしゃである河口かわぐち俊彦としひこの『いちきょく将棋しょうぎ いちかい人生じんせい』(新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ)、1994ねんISBN 4-10-126511-9)の36ページに記載きさいされており、升田ますだ称号しょうごうなしの「きゅうだん」でぶのは棋士きしとのバランスがれないという理由りゆうしめされている。
  6. ^ フリークラス転出てんしゅつ宣言せんげんおこなったため、2036ねん定年ていねんとなる。

出典しゅってん

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  1. ^ 現代げんだい囲碁いご大系たいけい 別巻べっかん 現代げんだい囲碁いご概説がいせつ』(はやしひろし)P.46
  2. ^ 将棋しょうぎ名人めいじんせん ~昭和しょうわ平成へいせい 時代じだいうつめい勝負しょうぶ~』(マイナビ)
  3. ^ 近代きんだい将棋しょうぎ」1990ねん1がつごう近代きんだい将棋しょうぎしゃ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション、73–74ぺーじ
  4. ^ a b 1989ねん11月17にちの「だい15かい将棋しょうぎ」に、木村きむら義雄よしおじゅうよんせい名人めいじんたいして「実力じつりょくせい初代しょだい名人めいじん」の称号しょうごうが、塚田つかだ正夫まさお名誉めいよじゅうだんたいして「実力じつりょくせいだいだい名人めいじん」の称号しょうごうが、それぞれ追贈ついぞうされた[3]
  5. ^ a b 近代きんだい将棋しょうぎ」1988ねん6がつごう近代きんだい将棋しょうぎしゃ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション、35ぺーじ
  6. ^ くぼてら紘一こういち日本にっぽん将棋しょうぎ集成しゅうせい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1995ねん、326ページ。
  7. ^ 将棋しょうぎニュース - 谷川たにがわ浩司こうじきゅうだん永世えいせい名人めいじんじゅうななせい名人めいじん)をかさね, 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい, (2022-05-26), https://www.shogi.or.jp/news/2022/05/post_2128.html 2022ねん5がつ26にち閲覧えつらん 
  8. ^ 日本にっぽん将棋しょうぎ歴史れきし(9)”. 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい. 2020ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ 日本にっぽん将棋しょうぎ歴史れきし(9)
  10. ^ 佐藤さとうたかし理想りそう現実げんじつにするちから朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2017ねん、4ぺーじISBN 978-4-02-273714-4 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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