(Translated by https://www.hiragana.jp/)
吾粲 - Wikipedia コンテンツにスキップ

われつばら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
われつばら

太子たいしふとしでん
出生しゅっしょう 不明ふめい
あげしゅうくれぐんがらすほどけん
死去しきょ あかがらす8ねん245ねん
拼音 Wú Càn
あなきゅう
主君しゅくん まごけん
テンプレートを表示ひょうじ

われ つばら(ご さん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい武将ぶしょう政治せいじあなきゅうあげしゅうくれぐんがらすほどけんひと。『三国志さんごくし』につてがある。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

まれたときからきゅうきょう宰相さいしょうかおしょうがあったという(『くれろく』)。

かんもんだしであったが、いんれいらとともに顧邵から評価ひょうかされてその友人ゆうじんとなったため、られるようになった(「顧雍つて」)。

まごかわがらすほど県令けんれいだったとき官吏かんりとしてつかえた。まごかわ将軍しょうぐんになると、その推薦すいせんきょくおもねけんすすむ任命にんめいされ、やがてちょう昇進しょうしんし、すぐれた治績ちせきげた。このことでどうぐん出身しゅっしんりくへりくだぼくせいなら名声めいせいたという。

まごけんくるま将軍しょうぐんになると、将軍しょうぐんまねかれおも簿としてつかえた。のち地方ちほう山陰さんいんけんれいとなり、中央ちゅうおうもどったさいさんぐんこうじょう昇進しょうしんした。

たけし元年がんねん222ねん)、せたたかし大軍たいぐんむかつため、りょはんひとしらとともに洞口ほらぐち出陣しゅつじんし、曹休ぐん侵攻しんこうふせいだ(洞口ほらぐちたたか)。せん最中さいちゅう暴風ぼうふうふねのもやいもうれてしまい、ふね敵陣てきじんながいてらえられたり、ふね沈没ちんぼつして溺死できしするものた。

無事ぶじだったふね転覆てんぷくおそれ、たすけをもとめるものたちをほこほことっころなかわれつばらふちだけは危険きけんかえりみずに救助きゅうじょした。われつばらふちのおかげでたすかったものひゃくにんえたという。

そのかい太守たいしゅとなった。無位むい無官むかんであったしゃたんという人物じんぶつこう曹としてまねいたがおうじなかったため、おうりゅう鳳凰ほうおうになぞらえて仕官しかんもとめた。

志願しがんへいつのって部隊ぶたい編成へんせいし、昭義あきよしちゅうろうしょう任命にんめいされ、りょとともに山越やまこし討伐とうばつした。その中央ちゅうおうもどってたむろこうじょうしょうとなった。

あかがらす6ねん243ねん)、まご太子たいしふとしでんであった闞沢薛綜相次あいついでぼっしたため(「闞沢でん」・「薛綜でん」)、われつばら後任こうにんとなった。しかし、まごおとうとまごによる後継こうけいしゃあらそい(いわゆる二宮にのみや事件じけん)が発生はっせいすると、自身じしんまご後見人こうけんにんであったこともあり、その騒動そうどうまれた。われつばらまごけんに嫡庶のぶんき、まご正統せいとうせい主張しゅちょうした。また、まごまご楊竺中央ちゅうおうからとおざけるよう進言しんげんした。さらに、われつばらりくへりくだ協力きょうりょくもとめたため、りくへりくだもそれにおうじてまごけんに諫言の手紙てがみおくった。しかしこれらの行動こうどうは、かえってまごや楊竺らの反発はんぱつい、ぎゃくかれらから讒言ざんげんされることとなった。

まごけんわれつばららの行動こうどういきどおり、りくへりくだ譴責けんせき書状しょじょうおくるとともに、われつばらごくくだ処刑しょけいした(「りくへりくだつて」)。

ちん寿ひさしは「困難こんなん時勢じせいなか正義せいぎまもろうとしてほろぼした。かなしいことである」とひょうしている。