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しょう

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しょう
中国ちゅうごく しょう
漢語かんご拼音Shāng Yāng
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音Shāng Yāng
ウェードしきShang1 Yang1
IPA[ʂɑ́ŋ jɑ́ŋ]
国語こくごマ字まじhang Iang
ちゅう音符おんぷごうㄕㄤㄧㄤˇ
粤語
イェール粤拼Sēung Yēung
粤拼Soeng1 Joeng1
閩南
台湾たいわんマ字まじSiong Ng
上古じょうこおん
バクスター-
サガール
*[s.taŋ ʔaŋ]

しょう(しょう おう、紀元前きげんぜん390ねん - 紀元前きげんぜん338ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいはたくに政治せいじ将軍しょうぐん法家ほうか兵家へいか

せいひめ公孫こうそん。また、まもるおおやけぞくけいのためにまもる(えいおう)ともいう。なおしょう鞅とは、のちはたしょう・於にふうじられたためしょうくん鞅という意味いみ尊称そんしょうである。法家ほうか思想しそうもとはた国政こくせい改革かいかくすすめ、はた天下てんか統一とういついしずえきずいたが、性急せいきゅう改革かいかくから自身じしん周囲しゅういうらみをい、逃亡とうぼう挙兵きょへいするもはたぐんめられ戦死せんしした。

生涯しょうがい

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仕官しかんまで

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公孫こうそん鞅は、わかころたかしめぐみおう在位ざいい紀元前きげんぜん370ねん - 紀元前きげんぜん335ねん)の宰相さいしょうで、かんおおやけぞく出身しゅっしんであるおおやけ叔痤中国語ちゅうごくごばん[1]食客しょっきゃくとなり、ちゅう庶子しょし[2]にんぜられる。

おおやけ叔痤は死去しきょするさいに、めぐみおう後継こうけい宰相さいしょうとして公孫こうそん鞅を推挙すいきょした。しかしめぐみおうはこれをれず、おおやけ叔痤はこれをて「公孫こうそん鞅をもちいることをおききいれくださらないならば、わたしはやはり臣下しんかよりも主君しゅくん優先ゆうせんせねばならぬから(鞅が他国たこくけば強敵きょうてきとなるため)おまえころすように進言しんげんした。おまえはすぐにげたほうがよい」とべたが、公孫こうそん鞅は「わたしもちいよというあなたの言葉ことばおう採用さいよう出来できないならば、わたしころせというあなたの言葉ことばおう採用さいようするはずがありません」とべて、かえって逃亡とうぼうしなかった。公孫こうそん鞅のかんがえどおり、めぐみおうおおやけ叔痤が耄碌もうろくしてこんなごとっているのであろうとおもい、これをかずに公孫こうそん鞅を登用とうよう誅殺ちゅうさつもしなかった。

公孫こうそん鞅ははた入国にゅうこくし、宦官かんがんけいかんたよってはたわか君主くんしゅこうこう面会めんかいすること出来できた。公孫こうそん鞅は自分じぶん弁舌べんぜつ発揮はっきするのはここぞとばかりにこうこうかって熱弁ねつべんした。最初さいしょったときはまず最高さいこう為政者いせいしゃであるみかどみちいた。しかし、こうこう退屈たいくつそうにして途中とちゅう居眠いねむりしてしまった。つぎったときひと程度ていどげておうみちいた。しかし、このときこうこう反応はんのうわらず、さん度目どめったときにさらに程度ていどげてみちいた。そうするとこうこう熱心ねっしんにききいり、無意識むいしきうち公孫こうそん鞅ににじりるほどにこのはなしった。

こうこう信任しんにんけた公孫こうそん鞅は国法こくほうえようとしたが、こうこう批判ひはんおそれて躊躇ちゅうちょした。これにたいして公孫こうそん鞅は「うたぐくだりなく、うたぐことこうなし」とべてこうこうはげました。「うたぐ」は確信かくしんいたあやふやな気持きもちをいう。なにごとであれ、やるからには自信じしんって断行だんこうしなくてはいけない。あやふやな気持きもちでやったのでは、成功せいこうもおぼつかなければ名誉めいよられないという意味いみ。この言葉ことば後世こうせいにて故事こじ成語せいごとなった。しかしなおあまりゅう(かんりゅう、かんりょう)・もり(とし)といったものたちが「ほう慣習かんしゅうとなり人民じんみん役人やくにん馴染なじんでおり、ほうえずとも臣民しんみんしたがわせるのはとくによってなされるべきです。道具どうぐじゅうばいなければえぬもの。ほうともなればひゃくばいなければ」と旧制きゅうせいえるべきではないとべたが、公孫こうそん鞅はこれを「なついんしゅうはいずれもことなるほうおうとなり、ほうことなります。古来こらいより賢者けんじゃほうさだめ、愚者ぐしゃはただそれにしたがうものです。くにくば慣習かんしゅうしたが必要ひつようはありません。いんおうしゅうおう慣習かんしゅうしたがわず王者おうじゃとなり、なつの桀・いんの紂王はえずほろびました。ほうとは慣習かんしゅうしたがうからい、はんするからわるいとするものではありません」と論破ろんぱし、こうこう公孫こうそん鞅のげんよしとした。

しょう鞅変ほう

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墾草のれい

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紀元前きげんぜん359ねん墾草のれい

だいいちへんほう

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紀元前きげんぜん356ねんこうこう公孫こうそん鞅をひだり庶長[3]にんじ、へんほう(へんぽう)とばれる国政こくせい改革かいかく断行だんこうする。これはだいいちへんほうばれる。おも内容ないよう以下いかとおり。

  • 戸籍こせきもうけ、民衆みんしゅう)、またはじゅう(什)でいちくみける[4]。このなかたがいに監視かんし告発こくはつすること義務付ぎむづけ、もしつみおかしたものがいてうったない場合ばあいは什伍すべてが連座れんざしてばっせられる[5]ぎゃくうった場合ばあい戦争せんそうてきくびったのとおな功績こうせきになる。
  • ひとつのいえにん以上いじょう成人せいじん男子だんしがいながら分家ぶんけしないものは、ぜい倍加ばいかさせられる。
  • 戦争せんそうでの功績こうせきには爵位しゃくいもっむくいる。私闘しとうをなすものは、その程度ていどおうじてけいさせられる。
  • 男子だんし農業のうぎょう女子じょし紡績ぼうせきなどの家庭かていない手工業しゅこうぎょうはげみ、成績せいせきがよいものぜい免除めんじょされる。商業しょうぎょうをするものなまけて貧乏びんぼうになったもの奴隷どれい身分みぶんとす。
  • 遠縁とおえん宗室そうしつ貴族きぞくといえども、戦功せんこうのないものはその爵位しゃくい降下こうかする。
  • 法令ほうれい社会しゃかい規範きはん要点ようてんとする。

まず、民衆みんしゅうほうをしっかりと執行しっこうすることを信用しんようさせるために、さんたけ[6]ものながさのである雍のみなみもんえ、この北門きたもんうつせばじゅうきんあたえようと布告ふこくした。しかし、民衆みんしゅうはこれをあやしんで、うつそうとしなかった。そこで、賞金しょうきんじゅうきんにした。すると、ある人物じんぶつ北門きたもんうつしたので、公孫こうそん鞅は布告ふこくどおりに、この人物じんぶつじゅうきんあたえた。こういったことで、まずはへんほうへの信頼しんらいることができた。

しかし、最初さいしょ新法しんぽう成果せいかがらず、民衆みんしゅうからも不満ふまんこえがったが公孫こうそん鞅はかいさなかった。公孫こうそん鞅はほうがきちんとまもられていないとかんがえた。こうこう13ねん紀元前きげんぜん349ねん)、太子たいしの嬴駟(めぐみぶんおう)のでんである公子こうしけん中国語ちゅうごくごばんほうやぶったのでこれを処罰しょばつすることこうこうねがた。公子こうしけんはなぎのけいしょし、また教育きょういくがかり公孫こうそんがくへの黥刑しょし、さらにもう一人ひとり太子たいし侍従じじゅうしゅく死刑しけいしょした。このために公子こうしけん公孫こうそん賈の両人りょうにんじて外出がいしゅつしなくなり、公孫こうそん鞅を憎悪ぞうおしたという。こののちすべてのひとほうまもった。

そうするとほう効能こうのうはじめ、10ねんもすると田畑たはた見事みごと開墾かいこんされ、兵士へいし精強せいきょうになり、人民じんみんらしはゆたかになり、みちものちていてもこれを自分じぶんものにしようとするものはいなくなった。はた民衆みんしゅうには、はじめ不満ふまんらしていたのにのひらをかえして賞賛しょうさんこえをあげるものもあったが、公孫こうそん鞅はそのようなものも「みだやから」として、容赦ようしゃなく辺境へんきょうながた。これにより、ほう口出くちだしするものはいなくなり「へんほう」は成功せいこうおさめる。

だいへんほう

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紀元前きげんぜん354ねんもとさとたたか中国語ちゅうごくごばん

紀元前きげんぜん353ねんかつらりょうたたかひとし大敗たいはいすると、紀元前きげんぜん352ねんにはへんほうたくわえられたちから使つかはた侵攻しんこうし、城市じょうしうばった(やす邑・かたたたか中国語ちゅうごくごばん)。同年どうねん、この功績こうせき公孫こうそん鞅はだい良造りょうぞう任命にんめいされた。

紀元前きげんぜん350ねんはたは雍から咸陽遷都せんとした。

このとし公孫こうそん鞅はさらにへんほうおこない、法家ほうか思想しそうによる君主くんしゅ独裁どくさいけん確立かくりつねらった。今回こんかいおも内容ないよう以下いかとおり。

  • 父子ふし兄弟きょうだいひとつのいえむことをきんじる。
  • 全国ぜんこく集落しゅうらくけん[7]、それぞれにれい長官ちょうかん)、すすむ補佐ほさ)をき、中央ちゅうおう集権しゅうけん徹底てっていする。
  • 井田いだはい田地でんち区画くかく整理せいりおこなう。
  • 度量衡どりょうこう統一とういつ[8]

しんでは父子ふし兄弟きょうだいひとつのいえんでいたが、中原なかはら諸国しょこくからるとこれは野蛮やばん風習ふうしゅうとされていた。いち番目ばんめほう野蛮やばん風習ふうしゅうあらためるとともに、だいいちへんほう分家ぶんけ推奨すいしょうしたのとおなじく戸数こすうやし、きゅうにとどまりづらくして未開みかい開拓かいたくするよううなが意味いみがあったとおもわれる。へんほうによってはたはますます強大きょうだいになった。

紀元前きげんぜん341ねんうまりょうたたかひとしまごによって龐涓はいすると、紀元前きげんぜん340ねんには侵攻しんこうし、みずかへいひきいて討伐とうばつした(じょうたたか中国語ちゅうごくごばん)。またかつて親友しんゆうであったそう大将たいしょうである公子こうし中国語ちゅうごくごばんあざむいてまねき、これを捕虜ほりょにしてぐんやぶ黄河こうが以西いせい土地とちうばった。危険きけんかんじたたかし首都しゅとやす現在げんざい山西さんせいしょううん城市じょうしなつけん)からひがしだいはり現在げんざい河南かなんしょう開封かいふう)に遷都せんとし、めぐみおうは「あのときおおやけ叔痤の言葉ことばしたがわなかったために、このようなことになってしまった…」とおおいにやんだという。

この功績こうせきにより公孫こうそん鞅はしょう・於という土地とちの15邑にふうぜられた。これよりしょうばれる。

没落ぼつらく

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比類ひるいなき功績こうせき得意とくい絶頂ぜっちょうであったしょう鞅だが、強引ごういんへんほう断行だんこうしたことにより太子たいしでんはじめとしてしょう鞅をうら人間にんげん大量たいりょうつくっていた。かれらのおおくは旧来きゅうらい貴族きぞくであり、へんほうによって君主くんしゅ独裁どくさいけん確立かくりつされるとかれらの権限けんげんけずられていくのでしょう鞅をうらんでいた。しょう鞅の腹心ふくしんであったちょうりょう主人しゅじんあんじて「あなたさまいますぐ宰相さいしょうし、他国たこくおもむくことをおすすめします」と厳重げんじゅう忠告ちゅうこくした。だがしょう鞅は「ちょうりょうよ、わたしあんじるのは有難ありがたいが、わたしはまだまだやることがたくさんあるのだ」とこれを退しりぞけたという。これをいたちょうりょうわざわいおそれて他国たこく逃亡とうぼうしたという。

紀元前きげんぜん338ねんこうこう死去しきょし、太子たいし即位そくいし、めぐみぶんおう(この時点じてんではめぐみぶんくん)となった。このときにかねてよりしょう鞅にうらみをしんおう後見こうけんやく公子こうしけん公孫こうそん賈らはんしょう鞅派は讒訴ざんそし、しょう鞅に謀反むほんつみせようとした。めぐみぶんおう太子たいし時代じだい自分じぶんばっしようとしたしょう鞅にうらみをっていたので、危機ききさとったしょう鞅はあわててから逃亡とうぼうし、途中とちゅう宿やどまろうとしたが、宿やど亭主ていしゅしょう鞅であることらず、「しょう鞅さまの厳命げんめいにより、旅券りょけんたないおかたはおめてしてはいけない法律ほうりつということになっております」とあっさりことわられた。しょう鞅は「ほうすのへいいちにここにいたるか」(ああ、法律ほうりつつく徹底てっていさせた弊害へいがいが、こんな結果けっかをもたらすとは…)と長嘆ちょうたんいきし、いったんげるが、公子こうし卬をだましたことわすれていないたかしは、ぐんはっ即座そくざ国内こくないから追放ついほうした。仕方しかたなくしょう鞅は封地ほうちしょうへいあつめたが、はた討伐とうばつぐんめられて戦死せんしした。めぐみぶんおう厳命げんめいでその遺骸いがい黽池せしめとしてくるまきれけいしょせられ、身体しんたいかれてざらしものとなった。

影響えいきょう

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はたはそれまでは内陸ないりく奥地おくち起源きげんち、中国ちゅうごく中央ちゅうおうとはややことなった風習ふうしゅうでもあり、野蛮やばんこくなされてきた。しかしかれによってそういっためん改革かいかくされ、さらにったことで強国きょうこくとして一目いちもくかれることとなった。

また、めぐみぶんおう以降いこうはた歴代れきだい君主くんしゅしょう鞅がんだのちしょう鞅のほうのこした。しょう鞅よりはん世紀せいきまえすわえおこりしょう鞅のようにきびしいほうのこしたが、そちらはおこり死後しご廃止はいしされている。このためおうほうしたにひとまとまりとなったはたは、門閥もんばつ影響えいきょうつよまとまっていなかったすわえなどを着実ちゃくじつやぶっていく。最終さいしゅうてきはた戦国せんごく乱世らんせい統一とういつできたのは、しょう鞅のほうがあったためとっても過言かごんではない。しょう鞅のげんとおり「旧習きゅうしゅうしたがわず王者おうじゃとなり、えなかったものはほろんだ」のである。

現代げんだいでは政治せいじおよび法律ほうりつ学者がくしゃ法家ほうか)としての評価ひょうかたかいが、戦国せんごく時代じだいには稀代きたい将軍しょうぐん軍事ぐんじ思想家しそうか兵家へいか)としても敬服けいふくされていた。『荀子』「へいへん」において、荀子は、戦国せんごく時代じだい名将めいしょうとしてしょう鞅(原文げんぶんではまもる鞅)をたんにんともげている(ただし、荀子自身じしんしょう鞅等よんにん小手先こてさき兵法ひょうほうつうじたものとして批判ひはんし、春秋しゅんじゅう時代じだい覇者はしゃや、古代こだい王者おうじゃよりはしたとしている)[9]しょう鞅の軍事ぐんじ思想しそう記録きろくしたものとして、『漢書かんしょ』「芸文げいぶんこころざし」は『公孫こうそん鞅』じゅうななへん記載きさいしている[10]が、のち散逸さんいつした。

なお、伝説でんせつてきではあるが、はたはその弁舌べんぜつかす活動かつどうはじめたさい、まずしゅうおとずれたが相手あいてにされず、つぎはたおとずれた。かれめぐみおうに「軍事ぐんじ教練きょうれん強化きょうかすれば、みかどしょうすることが出来できるようになる」といたという。しかしおうはこれを拒否きょひした。その理由りゆうひとつがしょう鞅を処刑しょけいしたのちであり、弁舌べんぜつきらったのだという。はたはその合従がっしょう連盟れんめいつくることに成功せいこうし、そのためにはたは15ねんにわたって国外こくがいられなかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 中国ちゅうごくただしくは「おおやけ叔痤」の文字もじあらわすが、日本にっぽんではおおやけ叔座の文字もじあらわすことがおおい。
  2. ^ しゅうあや』「なつかん司馬しば」では「諸子しょし」、『れい』「ぶんおう世子せいし」では「庶子しょし中国語ちゅうごくごばん」。いずれもおおやけぞくてのひら官職かんしょく
  3. ^ はたじゅうとう爵制なかだいじゅう、なお「しょうくん列伝れつでん」ではこの時点じてんひだり庶長になっているが、「はた本紀ほんぎ」ではへんほう実行じっこう3ねんしてからになっている。
  4. ^ これを「什伍」とぶ。
  5. ^ これを「つげ」とぶ。
  6. ^ いちたけじゅうしゃくしんだい度量衡どりょうこうではいちしゃくやく27.6cm)。やく8.3m。
  7. ^ けんせい全国ぜんこくに41けん設置せっち
  8. ^ このとき公平こうへい計量けいりょうできるようにつくられたますが「しょう鞅升」または「しょう鞅量」とばれ、現在げんざいつたわっている。
  9. ^ 『荀子』「へいへん
  10. ^ 漢書かんしょ』「芸文げいぶんこころざし

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 史記しき列伝れつでんいち)』司馬しば遷:小川おがわ環樹たまきこんたかしん福島ふくしま吉彦よしひこやく(1975)岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ
  • 史記しき』(なか司馬しば遷:野口のぐち定男さだおわけ(1971)平凡社へいぼんしゃ
  • 史記しき中国ちゅうごく古代こだいひとびと〜』貝塚かいづか茂樹しげきちょ(1963)中公ちゅうこうしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ