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土井どいあつし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
土井どい あつし
JPアセット証券しょうけん 技術ぎじゅつ顧問こもん
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 岡山おかやまけん岡山おかやま
生年月日せいねんがっぴ (1933-06-10) 1933ねん6がつ10日とおか(91さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
170 cm
74 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 捕手ほしゅ
プロ 1956ねん
はつ出場しゅつじょう 1956ねん3月21にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1968ねん10月1にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき

土井どい あつし(どい きよし、1933ねん6がつ10日とおか - )は、岡山おかやまけん岡山おかやま出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ捕手ほしゅ)・コーチ監督かんとく解説かいせつしゃ

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1949ねん4がつ岡山東おかやまひがし商業しょうぎょう高校こうこう入学にゅうがくするが、同年どうねん8がつ31にち岡山おかやま産業さんぎょう高校こうこう合併がっぺいして岡山東おかやまひがし高校こうこうとなり、どう学年がくねん秋山あきやまのぼる出会であう。それまで遊撃手ゆうげきしゅであったが、2ねん1950ねんから捕手ほしゅ転向てんこう。そのころから、明治大学めいじだいがくて、プロの大洋たいようホエールズ時代じだいまでやく18年間ねんかんわたって秋山あきやまとバッテリーをつづけた。転向てんこうして1ねん経過けいかした3ねん1951ねんなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょう。1回戦かいせん中西なかにしふとしひきいる高松たかまついちだか対戦たいせんしたが、その中西なかにしにランニング本塁打ほんるいだたれるなど3-12で敗退はいたい

高校こうこう卒業そつぎょう1952ねんには住友金属すみともきんぞくから内定ないていをもらっていたが、「東京とうきょうろく大学だいがく是非ぜひけ」という周囲しゅういすすめで、推薦すいせん早稲田大学わせだだいがく受験じゅけんすることになった。のち大洋たいよう球団きゅうだん社長しゃちょうつとめるもり茂雄しげお監督かんとくからも了解りょうかいもらったが、進学しんがく適性てきせい検査けんさけていなかったため受験じゅけんすることが出来できず、検査けんさ必要ひつようがない明治大学めいじだいがく商学部しょうがくぶ商学しょうがく入学にゅうがく。2ねん先輩せんぱいには同郷どうきょう岡田おかだ悦哉えつやがおり、上京じょうきょうしてみぎひだりからず、秋山あきやま2人ふたりしゃべるしかなかった土井どい岡山おかやまべんはなしていたところ、周囲しゅういには喧嘩けんかしているとおもわれたため、岡田おかだに「岡山おかやまべんはなすな」と注意ちゅういされた[1]土井どいは「おまえ本当ほんとう中華ちゅうか料理りょうりったことないだろう」と銀座ぎんざ高級こうきゅうてんれてかれたこともあったが、小遣こづかいがほとんかった岡田おかだ中華ちゅうかまんしか注文ちゅうもんしなかった。土井どいのちに「おかげで、わたし中華ちゅうか料理りょうりといったら、中華ちゅうかまんしかりませんでした。でも、小遣こづかいもほとんどなかったでしょうにね」とかえっている[1]東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅうリーグでは2ねん1953ねん秋季しゅうき、3ねん1954ねん春季しゅんき、4ねん1955ねん秋季しゅうきと3優勝ゆうしょう経験けいけんし、3ねんあき・4ねんはる連続れんぞくしてベストナイン(捕手ほしゅ)を獲得かくとく。4ねん12月にはマニラひらかれたアジア大会たいかい出場しゅつじょうし、見事みごとに6しょう1ふん優勝ゆうしょうする。このときのチームは、おな明大めいだい秋山あきやま近藤こんどう和彦かずひこ立教りっきょう長嶋ながしま茂雄しげおら、そうそうたるメンバーがそろい、16にんちゅう14にんがプロにすすんでいる。また、島岡しまおか吉郎よしろう監督かんとくに「土井どい高田たかだしげる星野ほしのせんいちだけはなぐっていない」とわしめた島岡しまおか門下もんか優等生ゆうとうせいであった。

大学だいがく卒業そつぎょう1956ねん大洋たいようホエールズへ入団にゅうだん。プロにはのち大洋たいよう指揮しきする西鉄にしてつ三原みはらおさむ監督かんとくが「土井どいをどうしてもってくれ」とっていたが、土井どい秋山あきやまと「せっかくここまでえんがあってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦ちょうせんしよう」とめていた。明大めいだい3ねんには巨人きょじんとの約束やくそくができていたが、秋山あきやまこし状態じょうたいにして白紙はくしもどされる。その空白くうはくいて大洋たいよう秋山あきやま土井どいふくむ5にん明大めいだいから獲得かくとく。1ねんからせい捕手ほしゅとして活躍かつやくし、オールスターゲームにも1962ねんまで7ねん連続れんぞく出場しゅつじょう1958ねん10月3にちにフロントの平山ひらやまきくから「西鉄にしてつ三原みはら監督かんとくってしい」といわれ、土井どい日本にっぽんシリーズ対策たいさくのために巨人きょじんのデータをききだそうとしているのではとおもっていたが、神楽坂かぐらざか料亭りょうていっていた三原みはらは「ぼく大洋たいようもり茂雄しげお代表だいひょうから監督かんとく就任しゅうにん要請ようせいけたんだ。それでぼくはその要請ようせいけようとおもっている。ついては土井どいくん大洋たいようのチーム事情じじょうや、選手せんしゅいちにんひとりの特徴とくちょうなどをおしえてもらいたいんだ」とった。2にちまえ奇跡きせきだい逆転ぎゃくてん西鉄にしてつをV3にみちびいたばかりの三原みはら大洋たいよう監督かんとく就任しゅうにんするという事態じたい土井どいおどろきながらもベテランがおおいチーム編成へんせいや、勝利しょうりへの執着しゅうちゃくのない選手せんしゅ意識いしきなどを三原みはらかたった。このとき土井どいはまだ25さいというわかさであったにもかかわらず三原みはら熱心ねっしんみみかたむけていたという。マスコミが三原みはら大洋たいよう監督かんとくをすっぱいたため実際じっさい三原みはら監督かんとく就任しゅうにんするのは1ねんとなったが、1960ねんには三原みはらから選手せんしゅ兼任けんにんコーチに指名しめいされた。こうリードで投手とうしゅじんってチーム防御ぼうぎょりつは12球団きゅうだん1の2.32を記録きろくし、せい捕手ほしゅとして球団きゅうだん史上しじょうはつのリーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいち貢献こうけん優勝ゆうしょう目前もくぜんした9月26にちからおこなわれた2巨人きょじんとの3連戦れんせん初戦しょせん川崎かわさき)では1たい1でむかえた8かいうらに13るい打席だせきはいると、みずからスクイズのサインをして決勝けっしょうてんげるなど三原みはらから絶大ぜつだい信頼しんらいた。

三原みはらいわく「秋山あきやま以外いがい相手あいておさえるすごみのある投手とうしゅはいなかったが、小粒こつぶなりに整備せいびされていた」投手とうしゅじんのエッセンスをグラウンドにらさせ、相手あいて欠点けってんあたまたたんでいたことにより、大洋たいよう投手とうしゅじんくせと、相手あいて打者だしゃとの対戦たいせん成績せいせき把握はあくして弱点じゃくてんいた[2]三原みはらとはよくはない、三原みはらからつたえられたさん段階だんかい予測よそくおぼえ、様々さまざま局面きょくめんでもあわてず、さわがず、冷静れいせい処理しょり[2]三原みはら指示しじ土井どい頭脳ずのうなか移植いしょくしてあったほどであり[2]三原みはら土井どいだけのサインもあり、味方みかたられたくない情報じょうほうにんだけでわしていた。

ユニフォームのWの頭文字かしらもじかれ右手みぎてれたときは「そろそろ球威きゅうい減退げんたい気味ぎみ」というシグナルになり、帽子ぼうし頭頂とうちょうれると「コントロールわるい」という調子ちょうしであり、三原みはら土井どいのシグナルと自身じしん重複じゅうふくさせて、審判しんぱんした投手とうしゅ交代こうたいげにった[3]

大毎だいまいオリオンズとの日本にっぽんシリーズでは、10月11にちだい1せん川崎かわさき)で先発せんぱつ投手とうしゅ鈴木すずきたかし初回しょかいから四球しきゅうとヒットで無死むしいち二塁にるいのピンチをまねき、3ばん榎本えのもと喜八きはち三振さんしんって一死いっしいち二塁にるいとなったところで、エース・秋山あきやま投手とうしゅ交代こうたい。マウンドにのぼった秋山あきやま投球とうきゅう練習れんしゅうちゅうに、二塁にるい走者そうしゃ柳田やなぎだ利夫としお三塁さんるいコーチャーズボックスにいる西本にしもと幸雄ゆきお監督かんとくのところにった。これにピンと土井どい秋山あきやまに「いつもおまえは1かいしかランナーをないが、今度こんどは2かいやってみろ」とい、4ばん山内やまうち和弘かずひろ打席だせきはいると、秋山あきやまわれたとおりに投球とうきゅうまえいち二塁にるいのちにもう一度いちど二塁にるいた。すると柳田やなぎだ盗塁とうるい敢行かんこうしており、柳田やなぎださん塁間るいかんでアウトになって大洋たいようはピンチをけた。このプレーでシリーズのながれをつかんだ大洋たいようは4連勝れんしょう日本一にっぽんいちかがやくことになるが、10月15にちだい4せん後楽園こうらくえん)で最後さいご打者だしゃ三振さんしんしたさい土井どいうれしくてウイニングボールをスタンドげ、そのまま行方ゆくえ不明ふめいにしてしまっている[4]8がつ11にち大阪おおさかたたかえ川崎かわさき)で島田しまだ源太郎げんたろう完全かんぜん試合しあい達成たっせいしたさいもウイニングボールを同様どうよう行方ゆくえ不明ふめいにしてしまっている[5]打率だりつ.212ながら同年どうねんにはベストナイン捕手ほしゅ)も受賞じゅしょう打撃だげき非力ひりき生涯しょうがい打率だりつ.215にぎないが、強肩きょうけんとインサイドワークなど守備しゅびりょくたか評価ひょうかされ、三原みはらからは「グラウンドの指揮しきかん」とばれた。1962ねんには島野しまのまさわたるてい位置いちうばわれるが、1963ねんにはふたたうばかえす。しかし1964ねんからは伊藤いとういさおてい位置いちうばわれる。1968ねんには4がつ6にち巨人きょじんとの開幕かいまくせん後楽園こうらくえん)で、5かい無死むし満塁まんるい打席だせきはいると金田かねだ正一しょういちなかたかめのストレートをはじかえし、史上しじょうはつ開幕かいまくせんグランドスラムを達成たっせいしたが、同年どうねん本塁打ほんるいだはその一本いっぽんまり、現役げんえき引退いんたい

引退いんたい大洋たいよう一軍いちぐんバッテリーコーチ(1969ねん - 1973ねん)をつとめて福嶋ふくしまひさあきらそだてると、別当べっとうかおる監督かんとくしたでは3ねん連続れんぞくAクラスりに貢献こうけん広島ひろしま遠征えんせいさいには先輩せんぱい岡田おかだ食事しょくじをご馳走ちそうしていたが、まって、翌日よくじつ大洋たいようけていた[1]

退団たいだんは「グラウンドのそとから野球やきゅうたい」ということフジテレビニッポン放送にっぽんほうそう解説かいせつしゃ1974ねん - 1977ねん)をつとめるが、この退団たいだん当時とうじ中部なかべ謙吉けんきちオーナーの逆鱗げきりんれてしまい、1974ねんオフに盟友めいゆう秋山あきやま大洋たいよう監督かんとく就任しゅうにんしたさいも「土井どい大洋たいようめた人間にんげんだから」という理由りゆう復帰ふっきみとめられず、コーチとして秋山あきやまささえることはかなわなかった。また結果けっかてき中部ちゅうぶ存命ぞんめいちゅう秋山あきやま在籍ざいせきちゅう土井どい大洋たいよう復帰ふっきゆるされることはなかった。

中部ちゅうぶ死後しご1978ねんにヘッドコーチとして大洋たいよう復帰ふっき。2度目どめ指揮しき別当べっとうささえ、1979ねんには8ねんぶりのAクラスりに貢献こうけん1980ねんからは別当べっとうのフロントりをけて監督かんとく昇格しょうかくし、秋山あきやま以来いらい指揮しきかんとして20ねんぶりの優勝ゆうしょう期待きたいされた。同年どうねんアリゾナしゅうメサおこなわれた球団きゅうだん史上しじょうはつ海外かいがいキャンプには親会社おやがいしゃ大洋たいよう漁業ぎょぎょうから300じょう海苔のりが「昼食ちゅうしょくようおにぎり使つかいたい」というれられ、梅干うめぼしやく36kgぶんを2つのたるんでむなどはつ体験たいけん球団きゅうだんちかられたが、現地げんちが100ねんに1という異常いじょう気象きしょう大雨おおあめつづいてまともにキャンプがおくれなかった[6]べい味噌みそ醤油じょうゆ現地げんち調達ちょうたつ目処めどって手配てはいし、沢庵たくあんカップそば・うどん注文ちゅうもん日本にっぽんうより値段ねだんたかかったため、これ以上いじょう荷物にもつやすと荷物にもつ運賃うんちんがかさみ、荷物にもつだいだけで300まんえんちょう予算よさんオーバーで牛込うしごめ惟浩ただひろ広報こうほう担当たんとう悲鳴ひめいげた[6]一方いっぽう選手せんしゅなに持参じさんすればいいのかからず、野球やきゅう用具ようぐ以外いがい荷造にづくりはおっと人任ひとまかせであった。エースの平松ひらまつ政次まさじ夫人ふじん栄養剤えいようざいいためたほか、朝晩あさばんえるため厚手あつでパジャマ用意ようい独身どくしん選手せんしゅ呑気のんきなものでヤクルト選手せんしゅからの情報じょうほうで「娯楽ごらく用品ようひん必須ひっす」とき、カラオケセット、麻雀まーじゃんたくなどを球団きゅうだん申請しんせいたく球団きゅうだん事務所じむしょにもあったことで用意よういできたが、カラオケセットはおもくてはこびも大変たいへんであったため、運賃うんちんすで予算よさんオーバーで断念だんねんし、若手わかて選手せんしゅ自由じゆう時間じかんをどうごすかで苦労くろうした[6]2がつ9にちにメサりした大洋たいようナインは、真冬まふゆ日本にっぽんから真夏まなつのアリゾナにたことでってキャンプインのはずが、順調じゅんちょうだったのは最初さいしょの3日間にちかんだけであった[6]。メーングランドが使用しようできず、投手とうしゅじんもぬかるんだマウンドではみもままならなかった。野手やしゅみも例年れいねん半分はんぶん以下いかで、ベテランの中塚なかつか政幸まさゆきあせった。「メサにいけばいくらでもみ、みができる」と、国内こくないでは基礎きそ体力たいりょくづく中心ちゅうしんのメニューであったため、実戦じっせんてき練習れんしゅうができないことに土井どいあたまかかえた[6]雨天うてんなか紅白こうはくせん強行きょうこうしたものの、3かい中止ちゅうしせざるをず、はららないナインのまえでおにぎりよう海苔のりだけがうずたかくまれていた[6]順調じゅんちょうにキャンプをこなしてきたヤクルトとのオープンせんどう20にちおこなわれたが、チームは練習れんしゅう不足ふそく露呈ろてい満足まんぞく調整ちょうせいができなかった投手とうしゅじんは20失点しってん打線だせんせんきゅう投手とうしゅに4てんおさえられた[6]川崎かわさきから横浜よこはま移転いてんして3ねんで4→2とランクアップし、ふだ土井どいで20ねんぶりの優勝ゆうしょうおもえがいた予想よそうばなから完全かんぜんくじかれた[6]。チームは開幕かいまく直後ちょくご巨人きょじん広島ひろしま相手あいてに3連勝れんしょう開幕かいまくから5わり前後ぜんこう成績せいせきのこすと、6月7にちから4連勝れんしょう連敗れんぱいはさんで6連勝れんしょう首位しゅい広島ひろしまに3.5ゲーム肉薄にくはくしたが、どう24にちのヤクルトせん平和へいわだい)に完封かんぷうけしてから、1ふんはさんで12連敗れんぱいきっして一気いっき転落てんらく[6]。オールスターまえ最後さいご試合しあいとなった7がつ17にち阪神はんしんせん横浜よこはま)に斉藤さいとう明夫あきおが5安打あんだ完投かんとうの6-2で25にちぶりの白星しろぼしげたが、この時点じてん優勝ゆうしょうあらそいからは脱落だつらく連敗れんぱい脱出だっしゅつ前年ぜんねん同様どうようきょじん阪神はんしんとの3あらそいに終始しゅうししたが、59しょう62はい9ふんと1977ねん以来いらいのシーズンしで4わる[6]投手とうしゅじん野村のむらおさむ平松ひらまつ斉藤さいとうが2けた勝利しょうりげたが、打線だせん援護えんご試合しあいおお防御ぼうぎょりつはややたかめで、チーム防御ぼうぎょりつはリーグ5の4.18にわった。打撃だげきじんでは4ばん田代たしろ富雄とみおが36本塁打ほんるいだはなったほか、3ばんはいったもと満男みつおがチームトップでリーグ4の.314を記録きろく。チーム本塁打ほんるいだは3とまずまずであったが、三振さんしん併殺へいさつおおくチーム打率だりつ前年ぜんねんの.266から.259へ若干じゃっかん低下ていかだいベテランの松原まつばらまことは2000ほん安打あんだ達成たっせいしたが、オフに古賀こが正明まさあきとのトレードできょじん移籍いせきし、記者きしゃ会見かいけんで「大洋たいようえたかった」とくやきした。2ねん1981ねん同様どうようにメサでキャンプを施行しこうしたが、今度こんど野球やきゅう用具ようぐやく64まんえんぶん盗難とうなんってしまう[7]。ペナントレースでも開幕かいまくから低迷ていめいし、チームは5がつ下旬げじゅん最下位さいかい転落てんらく。6月にはいり、山下やました大輔だいすけが74打数だすう32安打あんだ月間げっかん打率だりつ.432とちまくり月間げっかんMVP受賞じゅしょう。チームも12しょう5はいおおきくしたが、7がつはいると中旬ちゅうじゅんに7連敗れんぱい、8がつにも8連敗れんぱいきっ最下位さいかい決定的けっていてきとなった。9月にも9連敗れんぱいきっしたところでどう24にちをもって休養きゅうようとなり、のこりの試合しあい山根やまね俊英としひで監督かんとく代行だいこうつとめた。土井どい事実じじつじょう解任かいにん休養きゅうようし、球団きゅうだん浪人ろうにんちゅう長嶋ながしま茂雄しげお就任しゅうにん要請ようせい[6]。「時期じき尚早しょうそう」という長嶋ながしまに「いつでも監督かんとくわたす」と、異例いれいしん監督かんとく就任しゅうにん挨拶あいさつをしたのは、長嶋ながしま巨人きょじん監督かんとく時代じだいにヘッドコーチをつとめた関根せきねじゅんさんであった[6]。5中日ちゅうにちに15ゲーム以上いじょうはなされた最下位さいかいわり、同年どうねん退任たいにん

退任たいにんふたたびフジテレビ・ニッポン放送ほうそう解説かいせつしゃ1982ねん - 1984ねん)をつとめ、1985ねんには吉田よしだ義男よしお監督かんとく招聘しょうへい[8]で、阪神はんしんタイガース一軍いちぐんヘッドけんバッテリーコーチに就任しゅうにん吉田よしだ土井どいは、関西かんさいテレビ、フジテレビ解説かいせつしゃとして、現場げんばならんで出演しゅつえんすることもあった[8]吉田よしだ監督かんとく1さいにも土井どいにコーチとしてこえけたが、当時とうじ土井どいは「わたしはまだ“大洋たいようしょく”がつよかったからうごけないな」とおもってことわった[8]吉田よしだは「解説かいせつしゃとして3年間ねんかんせっしたが、非常ひじょう繊細せんさいだった」とふたた外様とざま土井どいにこだわり、1984ねん10月29にち午後ごご6吉田よしだ宿泊しゅくはくさきであった東京とうきょう渋谷しぶやの「サンルートホテル」で直接ちょくせつってヘッドコーチを要請ようせい[8]吉田よしだからヘッドコーチの要請ようせいけた土井どいは、即答そくとうけたが「チームを土台どだいからつくなおしたいという言葉ことばにひかれた」と内諾ないだく[9]吉田よしだ交渉こうしょうで「まもりの野球やきゅう」をうったえたが、土井どい吉田よしだ自身じしん守備しゅびろん共通きょうつうてんはなはじめたときには、にちれだすほどであった[8]土井どい吉田よしだ守備しゅび位置いちこそちがったが、簡略かんりゃくプレーのかんがかたおなじであった[9]

就任しゅうにん大阪おおさかバーはいって、それまでみせながれていた歌謡かようきょく六甲ろっこうおろしわっておどろき、尼崎あまがさきではすれちがったひとには『土井どいさん、たのみまっせ!』とこえをかけられた[8]吉田よしだからはとく捕手ほしゅそだててほしいと要望ようぼうされ、笠間かさま雄二ゆうじ山川やまかわたけしとの併用へいようつづいていた3ねん木戸きど克彦かつひこせい捕手ほしゅ[10]そだげ、21ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょうはつ日本一にっぽんいち貢献こうけん土井どい木戸きど若手わかてながら投手とうしゅたいする気遣きづかいもふくめて、リードりょくがあるとおもってていた[10]

1987ねんには仲田なかた幸司こうじ指導しどうをめぐって対立たいりつした新山にいやま隆史たかしコーチと野村のむらコーチの仲裁ちゅうさいやく[11]となり、コーチとしてのキャリア15ねん新山しんやまかおつぶさぬように、新任しんにん野村のむら我慢がまんしてもらったかたちった[11]仲田なかた自己じこ最多さいたの8しょうをマークしたものの、すうも11をかぞえ、防御ぼうぎょりつも3.98といまひとつ脱皮だっぴできずにわった[11]同年どうねん退任たいにん

阪神はんしん退団たいだん1988ねんから大洋たいようのスカウトとなり、1992ねん途中とちゅうから1994ねんまでフジテレビ・ニッポン放送ほうそう解説かいせつしゃ復帰ふっき。ラジオ番組ばんぐみ土井どいあつし元気げんきUP!あさ一番いちばん![12]のパーソナリティを1992ねんから2006ねん9がつまでつとめ、2001ねんからはテレビ神奈川てれびかながわ解説かいせつしゃとなり、秋山あきやま死後しご横浜よこはまDeNAベイスターズ球団きゅうだんOBかい会長かいちょうつとめた。

1980ねんごろおなじ「土井どいつながりで土井どい正三しょうさんとともにカメラ量販りょうはんチェーン「カメラのドイ」のCM出演しゅつえんしたこともある。

2017ねん11月23にち横浜よこはまスタジアム改修かいしゅう記念きねんとしておこなわれた『ハマスタレジェンドマッチ』にて「TEAM YOKOHAMA」の捕手ほしゅとしてスタメン出場しゅつじょう久々ひさびさおおやけ姿すがたせ、2019ねんより、日本にっぽん野球やきゅう連盟れんめい新規しんき加盟かめいしたJPアセット証券しょうけん技術ぎじゅつ顧問こもん就任しゅうにん[13]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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  • 打撃だげき非力ひりきながら、めい捕手ほしゅとしてらした土井どいささえたのは「ダンスしきリード」とばれるはいだまじゅつであった。「スロー、スロー、クイック」はワルツのリズムで変化球へんかきゅう変化球へんかきゅう、ストレート。「スロー、スロー、クイック、クイック」はブルースのリズムで変化球へんかきゅう変化球へんかきゅう、ストレート、ストレートという具合ぐあいであった。
  • はいだまじゅつ以外いがいでは「棒立ぼうだちタッチほう」も多用たよう。バックホームの送球そうきゅうまえせまってくるまでらぬかおして棒立ぼうだちになり、ランナーがスピードをゆるめると、いきなり球体きゅうたいせいをとり、タッチアウトにした。
  • そのでは、マウンドにかおけたまま、のような送球そうきゅう一塁いちるいランナーをすというのも得意とくいとした。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1956 大洋たいよう 85 261 232 11 44 10 1 2 62 13 2 2 7 1 19 0 2 33 7 .190 .257 .267 .524
1957 111 297 262 22 65 12 1 4 91 25 5 2 2 1 29 0 3 45 8 .248 .330 .347 .677
1958 108 417 360 34 87 12 1 7 122 38 6 7 13 2 38 0 4 51 10 .242 .321 .339 .660
1959 102 344 305 23 58 5 3 2 75 18 4 4 9 1 26 0 3 55 10 .190 .260 .246 .506
1960 117 318 269 13 57 10 0 2 73 22 4 6 16 0 32 2 1 46 2 .212 .298 .271 .569
1961 115 227 204 6 40 6 0 0 46 12 3 3 9 1 11 1 2 26 2 .196 .244 .225 .470
1962 99 159 141 6 28 4 1 0 34 9 2 1 6 0 12 0 0 23 3 .199 .261 .241 .503
1963 118 280 244 21 59 5 0 1 67 11 0 3 10 2 22 1 2 30 5 .242 .310 .275 .584
1964 60 69 60 3 12 2 0 2 20 5 0 0 3 1 4 0 1 6 0 .200 .262 .333 .595
1965 72 72 64 5 9 2 0 0 11 2 1 0 3 0 4 0 1 14 3 .141 .203 .172 .375
1966 61 100 95 7 18 3 0 0 21 4 0 1 1 0 4 1 0 13 1 .189 .222 .221 .443
1967 71 123 105 4 26 3 0 2 35 9 0 2 10 0 8 1 0 18 2 .248 .301 .333 .634
1968 19 28 23 2 5 0 0 1 8 8 0 0 3 0 2 1 0 7 1 .217 .280 .348 .628
通算つうさん:13ねん 1138 2695 2364 157 508 74 7 23 665 176 27 31 92 9 211 7 19 367 54 .215 .285 .281 .566

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき

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年度ねんど チーム 背番号せばんごう 順位じゅんい 試合しあい 勝利しょうり 敗戦はいせん 引分ひきわけ 勝率しょうりつ ゲーム チーム
本塁打ほんるいだ
チーム
打率だりつ
チーム
防御ぼうぎょりつ
年齢ねんれい
1980ねん 大洋たいよう 80 4 130 59 62 9 .488 16.0 135 .259 4.18 47さい
1981ねん 81 6 130 42 80 8 .344 31.5 105 .252 4.41 48さい
監督かんとく通算つうさん成績せいせき 246試合しあい97しょう133はい16ふん.422
  • 1981ねんは、開幕かいまくから休養きゅうようまえの9がつ24にちまでの116試合しあい(38しょう71はい7ふん)。監督かんとく代行だいこう山根やまね俊英としひで

表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 1000試合しあい出場しゅつじょう:1966ねん5がつ18にち史上しじょう106にん
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 25 (1956ねん
  • 39 (1957ねん - 1972ねん
  • 63 (1973ねん
  • 93 (1978ねん - 1979ねん
  • 80 (1980ねん
  • 81 (1981ねん
  • 82 (1985ねん - 1987ねん

関連かんれん情報じょうほう

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出演しゅつえん番組ばんぐみ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c もと大洋たいよう土井どいあつし故郷こきょう先輩せんぱい岡田おかだ悦哉えつやおもかた
  2. ^ a b c 三原みはらおさむ風雲ふううん軌跡きせき―わが野球やきゅう人生じんせい実記じっきスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ1983ねん1がつ1にちISBN 4583023448、p242。
  3. ^ 風雲ふううん軌跡きせき―わが野球やきゅう人生じんせい実記じっき」、p243。
  4. ^ 【10がつ26にち】1998ねんたいら10) 10ねんひとむかし横浜よこはま駒田こまだいさおひろいちげきで38ねんぶりの日本一にっぽんいち
  5. ^ 大洋たいよう日本一にっぽんいちみちびいた捕手ほしゅ土井どい あつし | さらば、いとしきプロ野球やきゅう - フジテレビO/TWO/NEXT(ワンツーネクスト)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 【1がつ20日はつか】1980ねんあきら55) 大洋たいようはつ海外かいがいキャンプ のり300じょう梅干うめぼし36キロ持参じさん
  7. ^ 山田やまだ隆道たかみち粘着ねんちゃく!プロ野球やきゅうむしかえしニュース』宝島社たからじましゃ、2013ねん、P151。
  8. ^ a b c d e f あえて外様とざま 土井どいあつしヘッドコーチしょうへい/吉田よしだ義男よしおへん15
  9. ^ a b 土井どいあつしヘッドコーチしょうへい、だい2政権せいけんに「三原みはらマジック」導入どうにゅう吉田よしだ義男よしおへん16
  10. ^ a b 本人ほんにんおどろいた キャッチャーに3ねん木戸きど克彦かつひこ登用とうよう吉田よしだ義男よしおへん24
  11. ^ a b c 【2がつ4にち】1987ねん(あきら62) 指導しどうちがう…阪神はんしん投手とうしゅコーチぷたつにれる
  12. ^ ニッポン放送にっぽんほうそう制作せいさくであるが同局どうきょくでは放送ほうそうせず一部いちぶ地方ちほうきょく放送ほうそうおなじくニッポン放送ほうそう制作せいさくの『どうですか歌謡かようきょく』や『ミュージックスクランブル』とどう形式けいしき放送ほうそうであった。
  13. ^ 選手せんしゅ・スタッフ紹介しょうかい > 土井どい あつし”. JPアセット証券しょうけん野球やきゅう. 2021ねん4がつ9にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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