坂田さかた 英一ひでかず(さかた えいいち、1897年ねん3月27日にち - 1969年ねん7月がつ22日にち)は、石川いしかわ県けん出身しゅっしんの官僚かんりょう、政治せいじ家か。位階いかいは正せい三さん位い。勲等くんとうは勲一等くんいっとう。
衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(7期き)。農林のうりん大臣だいじん(第だい35代だい)。自民党じみんとう佐藤さとう派は所属しょぞく。
石川いしかわ県けん加賀かが市し生うまれ[1]。第だい四よん高等こうとう学校がっこうを経へて、1920年ねん、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ卒業そつぎょう後ご、農のう商務省しょうむしょう入省にゅうしょう[1]。1938年ねん、農林省のうりんしょう特産とくさん課長かちょう(1946年ねんまで)[1]。
1949年ねん1月がつの第だい24回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょに民主みんしゅ自由党じゆうとうから出馬しゅつばし初はつ当選とうせん(当選とうせん同期どうきに池田いけだ勇人はやと・佐藤さとう栄作えいさく・前尾まえお繁しげる三郎さぶろう・橋本はしもと龍伍りゅうご・岡崎おかざき勝男かつお・麻生あそう太賀たが吉きち・小渕おぶち光ひかり平たいら・西村にしむら英一ひでかず・橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう・福永ふくなが健司けんじ・塚原つかはら俊郎としお・藤枝ふじえだ泉いずみ介かい・木村きむら俊夫としお・稲葉いなば修おさむ・河本かわもと敏夫としお・森山もりやま欽司きんじ・床次とこなみ徳二とくじ・有田ありた喜一きいちなど)。同年どうねん6月がつ、第だい3次じ吉田よしだ内閣ないかく物価ぶっか政務次官せいむじかん。1955年ねん2月がつ27日にちの第だい27回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょで落選らくせん。1958年ねんの第だい28回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょで返かえり咲ざく。
1965年ねん6月がつ、第だい1次じ佐藤さとう内閣ないかく (第だい1次じ改造かいぞう)の農林のうりん大臣だいじんとして初はつ入閣にゅうかく。同年どうねん11月がつ、赤あか路ろ友とも蔵ぞう日本にっぽん社会党しゃかいとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんらから不信任ふしんにん決議けつぎ案あんが提出ていしゅつされるが否決ひけつされた[2]。
1969年ねん7月がつ22日にち、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん在職ざいしょく中ちゅうに死去しきょ[1]。享年きょうねん72。地盤じばんは奥田おくだ敬和けいわが引ひき継ついだ。