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大宅おおたく壮一そういち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大宅おおたく 壮一そういち
(おおや そういち)
大宅おおたく壮一そういち(1942ねん
ペンネーム さる あきら
誕生たんじょう (1900-09-13) 1900ねん9月13にち
大阪おおさか三島みしまぐん富田とみたむら
死没しぼつ (1970-11-22) 1970ねん11月22にち(70さいぼつ
東京とうきょう新宿しんじゅく河田こうだまち 東京女子医科大学とうきょうじょしいかだいがく病院びょういん
墓地ぼち 鎌倉かまくら瑞泉寺ずいせんじ
職業しょくぎょう ジャーナリスト
作家さっか
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
代表だいひょうさく 大宅おおたく壮一そういちノンフィクションしょう
配偶はいぐうしゃ 大宅おおたくあきら
子供こども 大宅おおたくあゆみ長男ちょうなん)、大宅おおたく映子えいこさんじょ)、安達あだち周子かねこ
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大宅おおたく 壮一そういち(おおや そういち、1900ねん明治めいじ33ねん9月13にち [1]- 1970ねん昭和しょうわ45ねん11月22にち)は、日本にっぽんジャーナリストノンフィクション作家さっか評論ひょうろんつま大宅おおたく壮一そういち文庫ぶんこ理事りじちょうつとめた大宅おおたくあきらさんじょはジャーナリストの大宅おおたく映子えいこ

来歴らいれき人物じんぶつ

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大阪おおさか三島みしまぐん富田とみたむらげん高槻たかつき富田とみた)の醤油じょうゆ[2]ちち八雄はちおはは・トクの三男さんなんとしてまれた。祖父そふ八右衛門はちえもんは、嫁入よめいりのさえをけるようなまずしいところからとみつくったり、法廷ほうているのに衣類いるいくてこもこうむってったというものかねまでしぼほど残酷ざんこくひとだったが、妻子さいしにはうまかった、と大宅おおたく壮一そういち自身じしんのこしている。

ちちについて大宅おおたくは『青春せいしゅん日記にっき』で、「14さいより放蕩ほうとうはじめ、青年せいねん時代じだい法律ほうりつこころざして弁護士べんごし試験しけん失敗しっぱいし、中年ちゅうねんよりは選挙せんきょ警察けいさつかいあしれてさんかたむけ、最後さいご生涯しょうがいはなさなかったさけためんだ。ちち寡黙かもく寛大かんだい鷹揚おうようで、こと他人たにんものものとを区別くべつする観念かんねんはなはとぼしかった」[3]放蕩ほうとう一端いったんとして「芸者げいしゃそうげしてあそまわったり、角力すもうのあるごと酒樽さかだるかがみいて自由じゆうましてやり、入浴にゅうよくわか力士りきしさんにんかたながさせたりした」とべている[3]何人なんにんもの返済へんさいてのもの大金たいきんめぐむも同然どうぜんしていたため、人望じんぼうあつ名士めいしであった。また醤油じょうゆ製造せいぞう仕事しごとはきっちりこなしていた。

あにいさみいち放蕩ほうとうしゃであり得意とくいさきかけあたまげるのをきらったため、家業かぎょうはもっぱら壮一そういちかたまかされた。なおこのあに1916ねん大正たいしょう5ねん)に放蕩ほうとうすえやまい実家じっかもどり、1917ねん大正たいしょう6ねん)に徴兵ちょうへいされ近衛このえ騎兵きへい配属はいぞく同年どうねんまつ朝鮮ちょうせん鎮海わん要塞ようさい砲兵ほうへい大隊だいたい合格ごうかく転勤てんきんする。

はは富田とみたちか福井ふくいむら出身しゅっしんであった。いつもあからしているような神経質しんけいしつひとであった。セイ、ユウという二人ふたりあねおとうとかつおとこがおり、ユウは大阪おおさか質屋しちや永井ながいとついだ。

学生がくせい時代じだい

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旧制きゅうせい富田とみた尋常じんじょう小学校しょうがっこう高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう[4]小学校しょうがっこう卒業そつぎょう大阪おおさかへ“商業しょうぎょう見習みならい”にるつもりであった。大阪おおさかあねもと修行しゅぎょうたりしている。このときに、丁稚でっち番頭ばんがしららと質草しちぐさ値踏ねぶみの練習れんしゅう毎晩まいばんしたが、壮一そういち番頭ばんがしらよりも値踏ねぶみが上手じょうずであったという。一方いっぽう親友しんゆうとおはなれて勉学べんがくいそしむ姿すがた触発しょくはつされ、自身じしん中等ちゅうとう学校がっこうへの進学しんがく親族しんぞくたのみ、承諾しょうだくた。入学にゅうがく申請しんせい書類しょるい小学校しょうがっこうりにったのはなんと中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく試験しけん前日ぜんじつであったという。なお、小学校しょうがっこう時代じだいからの友人ゆうじん大川おおかわ光三みつぞうがいる。

旧制きゅうせい茨木いばらぎ中学ちゅうがくげん大阪おおさか府立ふりつ茨木高等学校いばらきこうとうがっこう入学にゅうがく一般いっぱんてきには尋常じんじょう小学校しょうがっこう中等ちゅうとう学校がっこうすすむところを、高等こうとう小学校しょうがっこうてから中等ちゅうとう学校がっこうすすんだため、同級生どうきゅうせいより年長ねんちょうであった。川端かわばた康成やすなりさん学年がくねんじょう在籍ざいせきしていた。とう下校げこうった『虎谷とらや』という書店しょてんは、川端かわばた利用りようしていた。在学ざいがくちゅう成績せいせき良好りょうこうだったものの、唯一ゆいいつ唱歌しょうか”の科目かもくのみ苦手にがてだったという。実家じっか家業かぎょうささえる一方いっぽう勉強べんきょうにつかなくなったりしていた。

当時とうじ中学生ちゅうがくせいけの雑誌ざっし少年しょうねん』『少年しょうねん倶楽部くらぶ』などに作文さくぶん俳句はいく投稿とうこうしたものがえらばれてメダルや昆虫こんちゅう採集さいしゅうようむしかごなどおおくの懸賞けんしょうている。このころ学内がくないでは大宅おおたくかんして、『部屋へや四方しほうをめぐらすくさりほどのメダルを投稿とうこうている』といううわさされ、川端かわばた康成やすなりみみにしていたという。中学ちゅうがく在学ざいがくちゅう将来しょうらいゆめは、まだジャーナリストではなく、渋沢しぶさわ栄一えいいちやカーネギーのような実業じつぎょうであったり(実家じっか醤油じょうゆぎょうかたむいていたことによる)、文学ぶんがくしゃ渡米とべいして学者がくしゃであったりしている。家業かぎょうをこなしつつ文学ぶんがくしたしむ一方いっぽうで、ドイツフランス語ふらんすご独習どくしゅうしていた。やがて教育きょういく勅語ちょくごへの疑問ぎもんべい騒動そうどう支持しじなどから中学校ちゅうがっこうからはこのましからざる生徒せいとされた。また、まち教会きょうかい講演こうえん賀川かがわ豊彦とよひこ出会であい、しんきつけられる。中学校ちゅうがっこうでの友人ゆうじんなかには、秀才しゅうさいよせじつえいがいる。あにいえかねして行方ゆくえをくらましたさいに、ちちあに探索たんさくめいじられて大阪おおさか松島まつしま遊郭ゆうかくいちけん々しらみつぶしにさがあるいたこともあるという。

1918ねん大正たいしょう7ねん)、18さい旧制きゅうせい茨木いばらぎ中学ちゅうがく4年生ねんせい)のときべい騒動そうどうさいして民衆みんしゅう蜂起ほうき支持しじする演説えんぜつおこない、中学校ちゅうがっこう放校ほうこう処分しょぶんとなる。前後ぜんごしてちち死去しきょ同年どうねん専門せんもん学校がっこう入学にゅうがくしゃ検定けんてい試験しけん通称つうしょうせんけん当時とうじ存在そんざいした旧制きゅうせい中学ちゅうがく卒業そつぎょう同等どうとう資格しかく)に合格ごうかく旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく資格しかくる。

1919ねん大正たいしょう8ねん)、だいさん高等こうとう学校がっこうげん京都大学きょうとだいがく)に入学にゅうがく三高さんこうでは茨木いばらぎ中学ちゅうがくいち学年がくねんじょうであった文学ぶんがくきの秀才しゅうさい小方おがたいさおせい同級生どうきゅうせいとなる。小方おがたとは茨木いばらぎ中学ちゅうがく時代じだいから親交しんこうがあり、ときやまいせる小方おがた大宅おおたく覚悟かくごけたりしている。学生がくせい生活せいかつは、弁論べんろん所属しょぞくしたり、校友こうゆうかい雑誌ざっしたけすいかい雑誌ざっし』に投稿とうこうをした。三高さんこう在学ざいがくちゅう茨木いばらぎ中学校ちゅうがっこう制服せいふくかんするストライキきたが、背後はいご壮一そういち暗躍あんやくがあったとわれている。ねてより心酔しんすいしていた賀川かがわ1921ねん大正たいしょう10ねん)にたずさわった川崎かわさき造船ぞうせんしょだい規模きぼストライキには、馬上まけ指揮しきする賀川かがわ伝令でんれいやくつとめた。三高さんこう在学ざいがくちゅう壮一そういちマルクス主義まるくすしゅぎ傾倒けいとうしていたという。ちちうしな兵役へいえきにあるあにわり家業かぎょう手伝てつだわねばならないため、京都きょうと吉田よしだまでは実家じっかから汽車きしゃとおった。登校とうこう途中とちゅう汽車きしゃないで、おなじく大阪おおさか実家じっかから病気びょうきのために汽車きしゃ通学つうがくをする梶井かじい基次郎もとじろう出会であう(旧制きゅうせい高校生こうこうせい白線はくせんぼう独自どくじ徽章きしょうけているので出先でさきでも仲間なかまつけやす[よう出典しゅってん])。梶井かじいいちねんりょう生活せいかつをしていたが、病気びょうき実家じっかからの通学つうがく変更へんこうした。大宅おおたく梶井かじい仲良なかよくなり文学ぶんがく恋愛れんあいかたった。また大宅おおたくおなじクラスであり、梶井かじいとはりょう同室どうしつだった中谷なかたに孝雄たかおにんともとしてくわわる。

兵役へいえきえているはずのあにもどらぬため、あに所属しょぞくする大隊だいたい本部ほんぶがある馬山まやまさがしにった。三高さんこう在学ざいがくちゅうには大川おおかわ光三みつぞうより紹介しょうかいされた加島かしま銀行ぎんこういん女性じょせいおも手紙てがみつうじて交際こうさいをしている。のち最初さいしょつまとなる山本やまもと和子かずこである。和子わこはいわゆるモダンガールだった。、1922ねんさんだか卒業そつぎょう同時どうじ結婚けっこんする。

1922ねん大正たいしょう11ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく入学にゅうがくみかど大時代おおじだい大宅おおたく小倉おぐらはかまにオールバックというちだった。大学だいがく1ねんときつま和子わこ東京とうきょうび、下落合しもおちあい間借まがりするも、生活せいかつかせぐために東京帝大とうきょうていだい通学つうがくするかたわら、よる下谷しもたに岩倉いわくら鉄道てつどう学校がっこうげん岩倉いわくら高等こうとう学校がっこう)で夜学やがく英語えいご教師きょうしをした。また、長女ちょうじょ誕生たんじょうしている。新人しんじんかいにも出入でいりしていた。大学だいがく2ねんなつ帰省きせいしていた故郷こきょうから東京とうきょうもどるため汽車きしゃっていた1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいする。汽車きしゃ鉄道てつどう破損はそんのため沼津ぬまづよりさきへはすすめず、東京とうきょう妻子さいし心配しんぱいした大宅おおたく徒歩とほ箱根はこねやま東京とうきょう下落合しもおちあいいえむか家族かぞく無事ぶじたしかめている。しかし日本にっぽんフェビアン協会きょうかい活動かつどうつうじて出会であった近藤こんどう愛子あいこしたしくなるとつま和子わこ浮気うわきをし、離婚りこんいたる。愛子いとしご再婚さいこんするものち結核けっかくくなる。むすめ他家たけあづけた。三高さんこう同級生どうきゅうせいであった小方おがたいさおせいだいななしん思潮しちょう』の同人どうじんとなる。なおだいろくしん思潮しちょう』は茨木いばらぎ中学ちゅうがく先輩せんぱいでもある川端かわばた康成やすなりらのる。川端かわばたとは『しん思潮しちょう』の引継ひきつぎで出会であい、文学ぶんがくつうじて仲良なかよくなる。のち川端かわばた秀子ひでこ夫人ふじん結婚けっこん杉並すぎなみまちいえつととなり大宅おおたく夫婦ふうふしてた。在学ざいがくちゅうよりジャーナリストのみちはいるも、大学だいがく中退ちゅうたい。「ほとんど学校がっこうず、授業じゅぎょうりょうおさめなかったらいつのまにか除籍じょせきされてしまった」と回想かいそうしている[5]

社会しゃかいじん時代じだい

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新潮社しんちょうしゃで『社会しゃかい問題もんだい講座こうざ』シリーズを企画きかく編集へんしゅうして成功せいこう、また雑誌ざっし新潮しんちょう』に評論ひょうろん発表はっぴょうしてジャーナリストとしてデビュー。当初とうしょは「左翼さよくのパリパリの評論ひょうろん」としてられていた[6]昭和しょうわ初頭しょとう創刊そうかんされた週刊しゅうかん新聞しんぶん時局じきょく新聞しんぶん』の編集へんしゅう顧問こもんつらねた[7]。また、大久保おおくぼ康雄やすおをはじめとした「翻訳ほんやく工場こうじょう」を組織そしきし、おおくの翻訳ほんやくしょ円本えんもと刊行かんこうする。1933ねん昭和しょうわ8ねん)にはゴシップ・スキャンダル雑誌ざっしの『人物じんぶつ評論ひょうろん』をみずか編集へんしゅう刊行かんこう

歴史れきしかん

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ナップ中央ちゅうおう委員いいんつとめ、自宅じたく非合法ひごうほう日本にっぽん共産党きょうさんとう秘密ひみつ集会しゅうかい提供ていきょうした[8]。1932ねん昭和しょうわ7ねん)6がつ長男ちょうなんが、誕生たんじょうしたときウラジーミル・レーニンカール・マルクスちなんで「れいじん」「まるじん」などの名前なまえ提案ていあんしたほどであった[9]1933ねん昭和しょうわ8ねん10月5にち、オルグの実行じっこうしゃとして特高とっこう逮捕たいほされ、警視庁けいしちょう茅場かやばまち警察けいさつしょにていち週間しゅうかん留置とめおきける[10]。のち起訴きそ処分しょぶんけて釈放しゃくほう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)の南京なんきん攻略こうりゃくせんでは現地げんち取材しゅざいしており、南京なんきん事件じけんについては規模きぼ議論ぎろんがあるとしたうえ日本にっぽんぐんによる虐殺ぎゃくさつ存在そんざい自体じたいには事実じじつであるとする証言しょうげんをしている。

太平洋戦争たいへいようせんそうなか1941ねん昭和しょうわ16ねん)には海軍かいぐん宣伝せんでんはんとしてジャワ作戦さくせん配属はいぞくされた。そのさいおなはんには詩人しじん大木おおき惇夫あつお漫画まんが横山よこやま隆一りゅういちがいた。その大木たいぼくはこのとき経験けいけんもと詩集ししゅう海原うなばらにありてうたへる」を出版しゅっぱんし、そのさい大宅おおたく跋文ばつぶんいているが、そのなかで「戦争せんそうといふものはじつ素晴すばらしい文化ぶんかてき啓蒙けいもうしゃである」とっている。また、ジャワの軍政ぐんせい担当たんとうしていた今村いまむらひとし賞賛しょうさんし、今村いまむら異動いどうでいなくなった途端とたんおおきくわった、となげいている[11]

なお、戦時せんじちゅうにジャワで自身じしん乗船じょうせんする輸送ゆそうせん撃沈げきちんされたとき、「(旧制きゅうせい茨木いばらぎ中学ちゅうがくで)およぎをならったおかげでたすかった、と旧制きゅうせい茨木いばらぎ中学ちゅうがくななじゅうねん記念きねん式典しきてん帰省きせいしたとき感謝かんしゃしていた」と中学ちゅうがく時代じだい体育たいいく教師きょうしだった杉本すぎもとつたえかたっている[12]大宅おおたく壮一そういち在学ざいがくちゅう旧制きゅうせい茨木いばらぎ中学ちゅうがくでは全国ぜんこく先駆さきがけて学校がっこうない水泳すいえいじょう設置せっちされていた。

戦後せんごさるあきらのペンネームで執筆しっぴつ再開さいかい[13]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に、近衛このえぶんすり評伝ひょうでん小説しょうせつえがいた『日本にっぽん遺書いしょ』を刊行かんこう。また同年どうねん週刊しゅうかん企画きかく代目だいめさんゆうていわらい対談たいだんしたが、直後ちょくごうたわらいはGHQのジープにはねられ事故死じこしした[14]。なおぼっするまで週刊しゅうかんなどですうおおくの対談たいだんおこなった。

イデオロギーてき表現ひょうげんきらい、1955ねん思想しそうじん宣言せんげん」を発表はっぴょう[13]。ただし宗教しゅうきょう偽善ぎぜんしゃ排撃はいげき終生しゅうせいめなかった。宗教しゅうきょう関係かんけい文章ぶんしょうでは「出口いでぐち王仁三郎おにさぶろう訪問ほうもん」(『文学ぶんがく時代じだい新潮社しんちょうしゃ1931ねん1がつ)「出口いでぐち王仁三郎おにさぶろう大本おおもと弾圧だんあつ事件じけん」(『中央公論ちゅうおうこうろん』〔80かん4ごう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1965ねん4がつごう)などがある。大宅おおたく文章ぶんしょうは、阿部あべ真之助しんのすけ高田たかだたもつ比較ひかくされ「マクラの真之助しんのすけ、サワリの壮一そういち、オチの」とわれたこともあるという[15]。その観点かんてんで『昭和しょうわ怪物かいぶつでん』(角川書店かどかわしょてん、1957ねん)をあらわした。

1965ねん10がつからぼつの1970ねん11がつまで『サンデさんで毎日まいにち』に「サンデー時評じひょう」を連載れんさいした(ぜん244かい)。連載れんさいちゅう取材しゅざい見聞けんぶんした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく当時とうじ表記ひょうき中共ちゅうきょう)での文化ぶんかだい革命かくめいは、おさな紅衛兵こうえいへい支配しはいしゃ利用りようされあばれてまわる様子ようすを「ジャリ革命かくめい」と論評ろんぴょうした。

大宅おおたくマスコミじゅく

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戦前せんぜんから接点せってんがあったはやし房雄ふさおは、大宅おおたくを「当代とうだい野次馬やじうま精神せいしん親玉おやだま」とひょうした[16]

1957ねん「ノンフィクションクラブ」を結成けっせいし、一匹狼いっぴきおおかみのノンフィクションライターたちあつめ、若手わかてジャーナリストを育成いくせい著名ちょめい門下生もんかせいメンバーに、青地あおち藤原ふじわらひろしたちあしはらえいりょう草柳くさやなぎ大蔵たいぞう村上むらかみ兵衛ひょうえ丸山まるやま邦男くにお末永すえながまさるかい大隈おおくま秀夫ひでおらがいた[17]初期しょきメンバーに杉森すぎもりひさえい永井ながい道雄みちお小野田おのだまさし梶山かじやま季之としゆき奥野おくの健男たけおらがいた[18]。ノンフィクションクラブに、のちに参加さんかしたメンバーには、高木たかぎ健夫たけお三鬼みき陽之助ようのすけ扇谷おうぎや正造しょうぞう大森おおもりみのる巖谷いわやだいよん村島むらしま健一けんいち渡部わたなべ雄吉ゆうきち楠本くすもと憲吉けんきちえい六輔ろくすけらがいた[18]。またのメンバーに、佐賀さがせん[19]藤島ふじしまやすし[20]夏堀なつぼりただしもと[21]らがいた。

1967ねん昭和しょうわ42ねん)1がつに「大宅おおたく壮一そういち東京とうきょうマスコミじゅく」(略称りゃくしょう大宅おおたくマスコミじゅく)をひらけじゅくする。逝去せいきょまくじられるまで、8480めい塾生じゅくせいおくした。このとし東南とうなんアジアへふね旅行りょこうしたとき同行どうこうした青地あおち晨の回想かいそうでは、航海こうかいちゅううみ大宅おおたく階段かいだんからころ腰骨こしぼねったが、それでもせまいカイコだなのベッドで英和えいわ辞典じてんき『バートンばん せん一夜いちや物語ものがたり』(集英社しゅうえいしゃぜん12かん普及ふきゅうばんかん[22]新訳しんやく続行ぞっこうしていた。

没後ぼつご以降いこう

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没年ぼつねんとなった1970ねん昭和しょうわ45ねん)から「大宅おおたく壮一そういちノンフィクションしょう」が発足ほっそく毎年まいとし気鋭きえいノンフィクション作家さっか作品さくひん授与じゅよしている。

大宅おおたく膨大ぼうだい蔵書ぞうしょ資料しりょうもとにした「大宅おおたく壮一そういち文庫ぶんこ」は雑誌ざっしジャーナリズムの総合そうごう図書としょ資料しりょうかん著名ちょめいで、あきら夫人ふじんぼつまで理事りじちょうつとめた。現在げんざいさんじょ大宅おおたく映子えいこ[23]文庫ぶんこ理事りじちょうである。植田うえだ康夫やすおふく理事りじちょう上智大学じょうちだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)が、ぼつまで運営うんえい進展しんてん寄与きよした。

死去しきょ

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1970ねん昭和しょうわ45ねん)11月22にち心臓しんぞう血圧けつあつのため東京女子医科大学とうきょうじょしいかだいがく病院びょういん死去しきょ戒名かいみょう衆生しゅじょういんしゃく茫壮いちだい居士こじ[24]

週刊文春しゅうかんぶんしゅん」の連載れんさい対談たいだん登場とうじょうするなど、面識めんしきのあった三島みしま由紀夫ゆきお[25]が、割腹かっぷく自決じけつ三島みしま事件じけん)する3にちまえ病没びょうぼつしたため、きていればあの事件じけんをどう論評ろんぴょうしたか」とひょうされた[だれによって?][26]むすめ映子えいこは「ジャーナリストとして光栄こうえいなこと」とコメントしている[よう出典しゅってん][27]

葬儀そうぎは11月28にち青山あおやま葬儀そうぎしょおこなわれ、同郷どうきょうまれの川端かわばた康成やすなり弔辞ちょうじみ、仕事しごと仲間なかま池島いけじま信平しんぺい野間のま省一しょういち出版しゅっぱんしゃ幹部かんぶ葬儀そうぎ委員いいんとなっている。

選集せんしゅう全集ぜんしゅう

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伝記でんき

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語録ごろく

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大宅おおたくによる造語ぞうごには以下いかがある。

出演しゅつえん映画えいが

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出演しゅつえん番組ばんぐみ

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  • フジテレビジョン大宅おおたく壮一そういちサンデーニュースショー」(1965ねん)- 毎週まいしゅう日曜にちよう生放送なまほうそうでメインキャスターだった。ニュース原稿げんこうはアシスタント女性じょせいんで、大宅おおたくはそれらを解説かいせつするというものだった[34]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大宅おおたく壮一そういちとその時代じだい東京書籍とうきょうしょせき、1983‐5‐24、226ぺーじぺーじ 
  2. ^ 大宅おおたく壮一そういち『『大宅おおたく壮一そういち 自伝じでん』』株式会社かぶしきがいしゃ日本にっぽん図書としょセンター、2010ねん6がつ25にち、7ぺーじISBN 9784284700498 
  3. ^ a b 大宅おおたく壮一そういち青春せいしゅん日記にっき中公ちゅうこう文庫ぶんこ 上下じょうげ再刊さいかん、1979ねん[ようページ番号ばんごう]
  4. ^ 大矢おおや壮一そういちとその時代じだい東洋とうよう書籍しょせき、1983ねん5がつ24にち、226ぺーじ 
  5. ^ 大宅おおたく壮一そういち 自伝じでん』より、復刻ふっこく新版しんぱん人間にんげん記録きろく日本にっぽん図書としょセンター、2010ねん
  6. ^ 大宅おおたくあきらおおきな駄々だだ』p.72
  7. ^ 保阪ほさかただしやすし昭和しょうわ戦争せんそう戦争せんそうかんなき平和へいわろん中公ちゅうこう文庫ぶんこ ISBN 978-4122047136、47p
  8. ^ 大宅おおたくあきらおおきな駄々だだ』p.86
  9. ^ 大宅おおたくあきらおおきな駄々だだ』p.85
  10. ^ 大宅おおたくあきらおおきな駄々だだ』pp.91-94
  11. ^ 半藤はんどう一利かずとし+横山よこやま恵一けいいち+はたいく+はらつよし歴代れきだい陸軍りくぐん大将たいしょうぜんらん 昭和しょうわへん/太平洋戦争たいへいようせんそう中公新書ちゅうこうしんしょラクレ。ISBN 978-4121503404、170p
  12. ^ 大宅おおたく壮一そういち日記にっき』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1971ねん)。青地あおじ晨による編者へんしゃ解説かいせつより。
  13. ^ a b 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん 大宅おおたく壮一そういち項目こうもく
  14. ^ 山田やまだかぜ太郎たろう人間にんげん臨終りんじゅうまき I』徳間とくま文庫ぶんこISBN 419891477X、107p/『人間にんげん臨終りんじゅうまき 1』改版かいはん 徳間とくま文庫ぶんこISBN 978-4198934668、112p/『人間にんげん臨終りんじゅうまき じょう 山田やまだかぜ太郎たろうベストコレクション角川かどかわ文庫ぶんこISBN 978-4041011294、103p
  15. ^ 大隈おおくま秀夫ひでお大宅おおたく壮一そういちむ』(時事通信社じじつうしんしゃ)p.35
  16. ^ はやし房雄ふさおだい東亜とうあ戦争せんそう肯定こうていろん新版しんぱん中公ちゅうこう文庫ぶんこ ISBN 978-4122060401、147ぺーじ
  17. ^ 大隈おおくま秀夫ひでお大宅おおたく壮一そういちむ』(時事通信社じじつうしんしゃ)プロローグ
  18. ^ a b 大宅おおたく壮一そういち全集ぜんしゅう 別巻べっかん』p.135「ノンフィクション・クラブ」末永すえながまさるかい
  19. ^ 大隈おおくま秀夫ひでお大宅おおたく壮一そういちむ』(時事通信社じじつうしんしゃ)p.11
  20. ^ 大隈おおくま秀夫ひでお大宅おおたく壮一そういちむ』(時事通信社じじつうしんしゃ)p.57
  21. ^ 大隈おおくま秀夫ひでお大宅おおたく壮一そういちむ』(時事通信社じじつうしんしゃ)p.104
  22. ^ 最終さいしゅう13かん詩集ししゅう大木おおき惇夫あつおへんやく旧版きゅうばん訳者やくしゃ代表だいひょうで、昭和しょうわ初期しょき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ刊行かんこう
  23. ^ 没後ぼつごやくはん世紀せいきて、大宅おおたく映子えいこ編著へんちょ大宅おおたく壮一そういちのことば』(KADOKAWA、2017ねん)をかん
  24. ^ 岩井いわいひろし作家さっか臨終りんじゅう墓碑ぼひ事典じてん』、63ぺーじ東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1997ねん
  25. ^ 大宅おおたく門下もんか三島みしま友人ゆうじんでもあった村上むらかみ兵衛ひょうえ昨日きのう歴史れきし 大宅おおたく壮一そういち三島みしま由紀夫ゆきおなま』(光人みつひとしゃ)にもくわしい
  26. ^ 加藤かとう芳郎よしおまっぴらきみよく11がつ26にちづけ毎日新聞まいにちしんぶん夕刊ゆうかん連載れんさい4コマ漫画まんが)など
  27. ^ わたしたちがきた20世紀せいき 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう増刊ぞうかん』、450~452ぺーじ大宅おおたく映子えいこ寄稿きこうより)
  28. ^ 没後ぼつご50ねん記念きねん出版しゅっぱん主要しゅよう人名じんめい索引さくいん大宅おおたく壮一そういち文庫ぶんこ協力きょうりょく阪本さかもと博志ひろし解題かいだい。なお「全集ぜんしゅう収録しゅうろくおお
  29. ^ 世相せそう風俗ふうぞく観察かんさつかい現代げんだい世相せそう風俗ふうぞく年表ねんぴょう:1945-2008』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2009ねん3がつ、73,74ぺーじISBN 9784309225043 
  30. ^ 大宅おおたく壮一そういち全集ぜんしゅうだい15かん pp.190-191
  31. ^ 谷沢たにさわ永一えいいち 『こんな人生じんせいおくってみたい わたしれたじゅうにんPHP文庫ぶんこISBN 4569578713、75p
  32. ^ 大内おおうちつとむ日本にっぽん歴史れきし24 ファシズムへのみち中公ちゅうこう文庫ぶんこISBN 4122001404、458p。のち文庫ぶんこ改版かいはん・493p。ISBN 978-4122047297
  33. ^ 山本やまもと夏彦なつひこひゃくねんぶん一時いちじあいだで』 文春ぶんしゅん新書しんしょISBN 4166601288、94p
  34. ^ 大宅おおたく壮一そういちさんのこと 矢嶋やじま武弘たけひろ当時とうじフジテレビの新人しんじん社員しゃいん)のブログ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん人物じんぶつ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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