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大村おおむら雅朗まさお

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大村おおむら 雅朗まさお
出生しゅっしょうめい 大村おおむら 雅朗まさお
生誕せいたん 1951ねん5月8にち
出身しゅっしん 福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた
死没しぼつ (1997-06-29) 1997ねん6月29にち(46さいぼつ
学歴がくれき ネム音楽おんがくいんバンドコース・キーボードコースそつ
ジャンル J-POP
職業しょくぎょう 作曲さっきょく編曲へんきょく
担当たんとう楽器がっき キーボード
活動かつどう期間きかん 1978ねん - 1997ねん

大村おおむら 雅朗まさお(おおむら まさあき、1951ねん5月8にち[1] - 1997ねん6月29にち[2])は、福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた出身しゅっしん[1]作曲さっきょく編曲へんきょくキーボーディスト愛称あいしょうバク[注釈ちゅうしゃく 1]おおくのヒットきょくがけたことでられる。

略歴りゃくれき

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京染きょうぞめてん経営けいえい家庭かていの5にん兄弟きょうだいあにあね3にん)のすえ次男じなんとしてまれた[1]福岡ふくおか市立しりつ奈良屋ならや小学校しょうがっこう福岡ふくおか市立しりつ博多はかただい中学校ちゅうがっこう福岡大学ふくおかだいがく附属ふぞく大濠おおほり高等こうとう学校がっこうて、ネム音楽おんがくいんげんヤマハ音楽おんがくいん)にだい1期生きせいとして入学にゅうがく(1970ねん4がつ)、バンドコースを修了しゅうりょう(1971ねん)、キーボードコースにはいなおして1972ねん3がつにネム音楽おんがくいん卒業そつぎょうヤマハ音楽振興会やまはおんがくしんこうかい九州きゅうしゅう支部しぶ嘱託しょくたくスタッフとして入社にゅうしゃ[4][5]1975ねんヤマハ音楽振興会やまはおんがくしんこうかい本部ほんぶ研究けんきゅうしつ研究けんきゅういんだいいち期生きせいとなる。[よう出典しゅってん]そこでポプコンコッキーポップよう楽曲がっきょくアレンジ、スコアき、レコーディング作業さぎょうなどをおこなうのと並行へいこうして、母校ぼこう大濠おおほり高校こうこう吹奏楽すいそうがく指導しどうをするようになる[6]1973ねんはるごろには「日本にっぽん音楽おんがくおくれている」とよくっていたようで、「グリーンカード取得しゅとくして映画えいが音楽おんがくをやりたい。」と、数ヶ月すうかげつあいだアメリカロサンゼルスへ。帰国きこく大濠おおほり高校こうこうくわえて西南学院大学せいなんがくいんだいがく応援おうえん指導しどう吹奏楽すいそうがくだんでも指導しどうおこなうようになった[7]

1978ねん上京じょうきょうし、船山ふなやま基紀もときなどのヤマハ時代じだい先輩せんぱい友人ゆうじん住居じゅうきょ音楽おんがく関連かんれん仕事しごと仲介ちゅうかいしてもらい本格ほんかくてきにプロの編曲へんきょくとしての活動かつどう開始かいし[8]。すぐに八神やがみ純子じゅんこみずいろのあめ」の編曲へんきょく一躍いちやく注目ちゅうもくび、その稀代きたいのヒットメーカーとして活躍かつやく[9]1970年代ねんだい後半こうはんから1980年代ねんだいアイドル全盛期ぜんせいき多数たすう楽曲がっきょくにかかわった[10]八神やがみ純子じゅんこパープルタウン」(編曲へんきょく)、山口やまぐち百恵ももえ謝肉祭しゃにくさい」(編曲へんきょく)、松田まつだ聖子せいこあお珊瑚礁さんごしょう」(編曲へんきょく)、吉川よしかわ晃司こうじモニカ」(編曲へんきょく)、大沢おおさわ誉志幸よしゆきそしてぼく途方とほうれる」(編曲へんきょく)、渡辺わたなべ美里みさとMy Revolution」(編曲へんきょく)、中山なかやま美穂みほツイてるねノッてるね」(編曲へんきょく船山ふなやま基紀もときともさく)など数々かずかず名曲めいきょく誕生たんじょうさせた。1983ねん松田まつだ聖子せいこSWEET MEMORIES」(さく編曲へんきょく)がだい25かい日本にっぽんレコード大賞たいしょう編曲へんきょくしょう受賞じゅしょう[11]

1997ねん6月29にちはい不全ふぜんのため死去しきょ。46さいぼつ[2][9]墓所はかしょ福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかたせいぶくてら[12]

人物じんぶつ

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小学しょうがく中学ちゅうがく担任たんにん音楽おんがく教諭きょうゆだった影響えいきょう[4]、すっかり音楽おんがくきとなり[4]鼓笛隊こてきたい入隊にゅうたいしたり[4]小学校しょうがっこう入学にゅうがくとほぼどう時期じきにピアノをなら[13]中学ちゅうがく高校こうこうでは吹奏楽すいそうがく所属しょぞくアルト・サックス担当たんとう[4]高校こうこう在学ざいがくちゅうの3年間ねんかんは、吹奏楽すいそうがくコンクール福岡ふくおか支部しぶ予選よせんで3ねん連続れんぞく優勝ゆうしょう、3年生ねんせいには吹奏楽すいそうがく部長ぶちょうつとめた全国ぜんこく大会たいかいで5入賞にゅうしょうをしている[14]松任谷まつとうや正隆まさたか編曲へんきょく手掛てがけた尾崎おざき亜美あみのデビューシングル「瞑想めいそう」をいて、「素晴すばらしい、自分じぶんもこんなことをやってみたい」とおもったことが、編曲へんきょく目指めざすキッカケだった。[15]

きょくたいする徹底てっていした仕事しごとぶりからすうおおくのアーティストやスタジオミュージシャンレコーディング・エンジニアから信頼しんらいていた。大村おおむらはアレンジャーでありながら、その内容ないようにはプロデューサーてき役割やくわり多分たぶんふくまれており、音楽おんがくプロデューサー絶頂ぜっちょうむかえる日本にっぽん音楽おんがくシーンにおいて、そのはしりであったとわれている[16]

大村おおむらおおきな業績ぎょうせきひとつである松田まつだ聖子せいことのかかわりは、デビュー直後ちょくごの「あお珊瑚礁さんごしょう」からはじまっている。聖子せいこのプロデューサーであるCBSソニーの若松わかまつ宗男むねお大村おおむら編曲へんきょくがけた山口やまぐち百恵ももえの「謝肉祭しゃにくさい」にふか感動かんどうし、大村おおむらにオファーをしたのが契機けいきであった。その若松わかまつ信頼しんらいて「聖子せいこプロジェクト」の中心ちゅうしんメンバーとして活躍かつやくつづけた。大村おおむら同郷どうきょう聖子せいこ可愛かわいがり、とき深夜しんやのレコーディングで煮詰につまった聖子せいこをファストフードてんさそい「聖子せいこちゃんは普段ふだんべにけないでしょう」とハンバーガーをべさせて気分きぶん転換てんかんはかったという。聖子せいこ大村おおむらを「まーくん」とんで実兄じっけいのようにしたっており、相談そうだん相手あいてとして信頼しんらいしていた。人気にんき絶頂ぜっちょうであった彼女かのじょがとある理由りゆうおや喧嘩けんかをしていえしたことがあり、あてもなくかったさき大村おおむら自宅じたくだったという。突然とつぜん訪問ほうもんかれ困惑こんわくしたが、あらぬうわさてられ大事だいじになりかねない状況じょうきょうであり、すぐに両親りょうしん連絡れんらくしておくかえしたという逸話いつわがある。

大村おおむら訃報ふほうけて、佐野さの元春もとはる大江おおえ千里せんり大沢おおさわ誉志幸よしゆきなどからはやすぎるやむこえかれた。大江おおえ千里せんりは、かれささげる追悼ついとうきょくとして「あお蹉跌さてつ」を発表はっぴょうしている。小室こむろ哲哉てつやは、大村おおむら出世しゅっせさく手掛てがけ、のプロデュースぎょう後押あとおししたことから、大村おおむら尊敬そんけいしていたとかたっている。渡辺わたなべ美里みさと大村おおむら作品さくひん製作せいさくちゅうたがいの意見いけんちがいから喧嘩けんかわかれしてしまい、「ほんの些細ささいなことで当時とうじはおたがいにゆずれなくて、その仲直なかなおりできないまま大村おおむらさんが天国てんごくってしまって、素直すなおあやまれなかったことをいまでも後悔こうかいしている」などと後年こうねん雑誌ざっしとうのインタビューでかたっており、1997ねん大阪城おおさかじょうホールのコンサートじょうのMCでファンに大村おおむら逝去せいきょ報告ほうこくしてなみだながらに大村おおむらしんでうたささげた。このように、自分じぶん仕事しごとには妥協だきょうゆるさない部分ぶぶんがあり、晩年ばんねんくまゆうのプロデュースや辛島からしま美登里みどりなどの編曲へんきょく担当たんとうして、辛島からしま大村おおむら楽曲がっきょくなおしをいいわたされたことがあった。エンジニア鈴木すずき智雄ともおは、「大村おおむらさんはアレンジの最終さいしゅうがたあたまなかにあり、はりあなとおすようなこまかく正確せいかくなバランスを要求ようきゅうされていました。わたしはどの作品さくひん大変たいへん緊張きんちょうして録音ろくおんしていました。大村おおむらさんとの仕事しごとおおきく成長せいちょうできたとおもっています。」とかたっている。作詞さくし松本まつもとたかしからも大変たいへん信頼しんらいされており、おとうとのような存在そんざいで、かれくなったことでサウンドめんのパートナーをうしない、しばらくやるうしなってしまったとかたっている[17]

死後しごうご

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大村おおむら生前せいぜんのこした楽曲がっきょくさくらえん」(1999ねん)は、親交しんこうふかかった作詞さくし松本まつもとたかしにより、大村おおむらいたむようなけられた。このきょくは、松本まつもとから依頼いらいされてつくった大村おおむら楽曲がっきょく事情じじょうによりおぞうりとなり、綺麗きれいなメロディなのでいつか使つかいたいと松本まつもとあずかっていたきょくであった。その大村おおむら逝去せいきょしてしまい、「聖子せいこさんがうたってくれたらかれよろこんでくれるだろう」と、このきょくすことを条件じょうけん松田まつだ聖子せいこのアルバムの仕事しごとけたと、死後しご発売はつばいされた大村おおむら伝記でんきほん松本まつもとによりかされている[18]

ニュー・ホリデー・ガールズ発表はっぴょう楽曲がっきょくあい行方ゆくえ不明ふめい[注釈ちゅうしゃく 2]のアレンジを担当たんとうしていたこと作者さくしゃ大瀧おおたき詠一えいいちによってかされており、録音ろくおんされた音源おんげん一部いちぶが『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』のDisc-2『Road to A LONG VACATION』に収録しゅうろくされている。

2022ねん9がつ16にち、NHKラジオ「ごごカフェ」2だい・3だいカフェトークにて「松本まつもとたかしかたさく編曲へんきょく大村おおむら雅朗まさお世界せかい」を放送ほうそう作詞さくし松本まつもとたかし松田まつだ聖子せいこ真冬まふゆ恋人こいびとたち」「SWEET MEMORIES」などをとおして、大村おおむら作品さくひん魅力みりょく制作せいさく裏話うらばなしかたった。

2022ねん9がつ23にち・24にち大村おおむら故郷こきょうである福岡ふくおかけんキャナルシティ劇場げきじょうにて「大村おおむら雅朗まさお25thメモリアルスーパーライブ」が開催かいさいされた。23にちばんばひろふみ八神やがみ純子じゅんこ渡辺わたなべ美里みさと中川なかがわ翔子しょうこ、24にち大澤おおさわ誉志幸よしゆき川崎かわさきたか槇原まきはら敬之たかゆきみなみ佳孝よしたか、ゲストDJに砂原すなはら良徳よしとく音楽おんがく監督かんとく佐橋さはし佳幸よしゆき亀田かめだ誠治せいじになった。トークゲストとして松本まつもとたかし両日りょうじつ出演しゅつえん)、木崎きざき賢治けんじ登場とうじょうして大村おおむらとのおもやエピソードをかたった。当日とうじつ様子ようすNHK福岡放送局ふくおかほうそうきょくが「#てれふく」で放映ほうえいしたほか(10がつ14にち)、9月24にちぶん公演こうえん有料ゆうりょう配信はいしんおこなわれた[19]

福岡ふくおかでの「大村おおむら雅朗まさお25thメモリアルスーパーライブ」が両日りょうじつとも好評こうひょうであったため、2023ねん2がつ10日とおか追加ついか公演こうえんかたち大阪おおさかフェスティバルホール再演さいえんされた。

代表だいひょうてき楽曲がっきょく

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くだり

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アルバムきょく多数たすう

こう

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アルバムきょく多数たすう

ぎょう

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こう

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くだり

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こう

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くだり

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多数たすう

くだり

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ぎょう

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くだり

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作品さくひん

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テレビドラマ

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  • たとえば、あい(1979ねんTBSけい) - 編曲へんきょくだい4ではピアノ演奏えんそう出演しゅつえん[20]

そののテレビ番組ばんぐみ

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映画えいが

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アルバム

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関連かんれん書籍しょせき

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  • DU BOOKS『ニッポンの編曲へんきょく 歌謡かようきょく / ニューミュージック時代じだいささえたアレンジャーたち』(川瀬かわせ泰雄やすお吉田よしだかく梶田かじた昌史まさふみ田渕たぶち浩久ひろひさ ちょ)2016ねん ISBN 978-4-907583-79-8
  • DU BOOKSさく編曲へんきょく 大村おおむら雅朗まさお軌跡きせき 1951-1997』(梶田かじた昌史まさふみ田渕たぶち浩久ひろひさ ちょ)2017ねん ISBN 978-4-86647-019-1

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大村おおむら上京じょうきょうしたときれていたねこが、まるでバクテリアのようにかれ寄生きせいしていた様子ようすから、仲間なかまないで"バク"とばれるようになり(実際じっさい名前なまえは「アマンダ」)、いつしか大村おおむら自身じしんが"バク"と名乗なのるようになったからだという[3]
  2. ^ のち須藤すとうかおるが「あなただけ I LOVE YOU」としてリリースしている

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 26, §1.
  2. ^ a b 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 274, §特別とくべつ.
  3. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 38, §1.
  4. ^ a b c d e “5にん実力じつりょく アレンジャー 編曲へんきょくしゃ(3) 大村おおむら雅朗まさお”. 福島ふくしまみんほう (福島民報社ふくしまみんぽうしゃ): p. 11. (1981ねん3がつ29にち) 
  5. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, pp. 26–33, §1.
  6. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 33, §1.
  7. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 33–37, §1.
  8. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 5, §序文じょぶん.
  9. ^ a b “「SWEETMEMORIES」さく編曲へんきょく大村おおむら雅朗まさおさんの功績こうせき書籍しょせきに 松田まつだ聖子せいこ小室こむろ哲哉てつや証言しょうげん. ORICON NEWS (oricon ME). (2017ねん6がつ2にち). https://www.oricon.co.jp/news/2091731/full/ 2017ねん11月3にち閲覧えつらん 
  10. ^ 〈MEG-CD〉大村おおむら雅朗まさお 特集とくしゅう”. タワーレコード (2015ねん12月17にち). 2017ねん11月15にち閲覧えつらん
  11. ^ 大村おおむら雅朗まさおさんぼつ20ねん しん編曲へんきょく 功績こうせきひかり”. 読売新聞よみうりしんぶん西部せいぶ本社ほんしゃばん夕刊ゆうかん (読売新聞よみうりしんぶん西部せいぶ本社ほんしゃ): p. 8. (2017ねん7がつ1にち) 
  12. ^ 松本まつもとたかし2019ねん3がつ27にちのツイート
  13. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 26–27, §1.
  14. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, p. 27, §1.
  15. ^ 「ニッポンの編曲へんきょく 歌謡かようきょく / ニューミュージック時代じだいささえたアレンジャーたち」2016ねん、DU BOOKS、p.114。ISBN 4907583796
  16. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017.
  17. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, pp. 20–24, §スペシャル・インタビュー.
  18. ^ 梶田かじた昌史まさふみ & 田渕たぶち浩久ひろひさ 2017, pp. 20–22, §スペシャル・インタビュー.
  19. ^ 大村おおむら雅朗まさお 25th Memorial Super Live」official 公式こうしきTwitter 2022ねん9がつ24にちづけ
  20. ^ たとえば、あい - ドラマ詳細しょうさいデータ -”. ◇テレビドラマデータベース◇. キューズ・クリエイティブ. 2017ねん11月6にち閲覧えつらん
  21. ^ 福岡ふくおかんだ音楽家おんがくか 大村おおむら雅朗まさおひびつづける“時代じだいおと”〜”. NHK (2022ねん10がつ14にち). 2023ねん2がつ6にち閲覧えつらん
  22. ^ a b 大村おおむら雅朗まさお作品さくひんしゅうを2まいぐみアナログでリリース、トリビュートライブには槇原まきはら敬之たかゆき川崎かわさきたか也など出演しゅつえん”. 音楽おんがくナタリー. ナターシャ. 2022ねん9がつ26にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梶田かじた昌史まさふみ田渕たぶち浩久ひろひささく編曲へんきょく 大村おおむら雅朗まさお軌跡きせき 1951-1997』DU BOOKS、2017ねん6がつ29にちISBN 978-4-86647-019-1 
  • 川瀬かわせ泰雄やすお吉田よしだかく梶田かじた昌史まさふみ田渕たぶち浩久ひろひさ『ニッポンの編曲へんきょくDU BOOKS、2016ねん3がつ4にちISBN 978-4-90758-379-8 

外部がいぶリンク

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