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こうむね (そう)

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こうそう ちょう
みなみそう
だい2だい皇帝こうてい
王朝おうちょう みなみそう
在位ざいい期間きかん 紹興しょうこう32ねん6月11にち - じゅん16ねん2がつ2にち
1162ねん7がつ24にち - 1189ねん2がつ18にち
都城みやこのじょう 臨安
せいいみな ちょうはく
ちょう瑗(にゅうみや改名かいめい
ちょう瑋(こうはじめ養子ようしとなったさい改名かいめい
ちょう眘(立太子りったいし改名かいめい[1]
元永もとなが
諡号しごう 紹統同道どうどうかんむりいさおあきらこうあきらぶんかみ武明たけあきひじりしげるこう皇帝こうてい
びょうごう こうむね
生年せいねん けんえん元年がんねん10月22にち
1127ねん11月27にち
没年ぼつねん 紹熙5ねん6月9にち
1194ねん6月28にち
ちち 秀安ひでやす僖王ちょう 先祖せんぞ(ちょうただしたね)
はは ちょう
后妃こうひ なりきょう皇后こうごうなつ
なり皇后こうごうしゃ
陵墓りょうぼ えい阜陵
年号ねんごう りゅうきょう : 1163ねん - 1164ねん
いぬいみち : 1165ねん - 1173ねん
じゅん : 1174ねん - 1189ねん
ちょうあつしひかりむね

こうむね(こうそう)は、みなみそうだい2だい皇帝こうてい

生涯しょうがい

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けんえん元年がんねん1127ねん)、秀安ひでやす僖王ちょうとしてしゅうしゅうすぎあお閘(現在げんざい浙江せっこうしょうよしみおき南湖みなみこ)の官舎かんしゃまれる。あにちょうはくけいがいる。きたそうふとしちょうただしたねよんなんちょう徳芳とくぼうろくせいまごであり、ふとし子孫しそんはじめてそう皇帝こうていとなった人物じんぶつである。初代しょだい皇帝こうていこうはじめ実子じっしであるちょうもと懿太)が早世そうせいして男子だんしかったため、遠縁とおえんたるちょう眘が皇太子こうたいしとしてむかえられ、紹興しょうこう32ねん1162ねん)にこうむねから譲位じょういされて皇帝こうていとして即位そくいした。

みなみそうきむ要求ようきゅうにより毎年まいとし多額たがくとしぬさ献上けんじょうしていたが、この時期じき紹興しょうこう31ねん1161ねん)のうみりょうおうみなみそう遠征えんせい、そしてうみりょうおう死後しごみなみそうによるかねへの反撃はんげきによって、戦争せんそう状態じょうたいにあった。かねではむね即位そくいし、みなみそうぎゃく侵攻しんこう撃退げきたいした。そのむねみなみそうとの関係かんけい修復しゅうふくつとめ、こうむね友好ゆうこう関係かんけいつとめるなかいぬいみち元年がんねん1165ねん)に和議わぎ成立せいりつ。このとき講和こうわ条件じょうけんにより、かねおくられるとしぬさ負担ふたん軽減けいげんされることとなった。

余剰よじょう官吏かんり削減さくげん当時とうじ乱発らんぱつされていたかい紙幣しへい)の発行はっこう抑制よくせい農村のうそん生産せいさんりょく回復かいふく江南こうなん経済けいざい活性かっせいなど様々さまざま国内こくない改革かいかくんだほか、こうはじめ時代じだい処刑しょけいされたたいきん強硬きょうこう代表だいひょう人物じんぶつたけ名誉めいよ回復かいふくおこなうなど、みなみそう全盛期ぜんせいき現出げんしゅつした。

その一方いっぽうで、はたひのき強権きょうけんてき政治せいじたいする反省はんせいから、科挙かきょ官僚かんりょう中心ちゅうしんとした大夫たいふそう牽制けんせいするために宗室そうしつ武官ぶかんでも有能ゆうのう人物じんぶつ抜擢ばってきした。たとえば、ごうもん舎人とねりもうけてたけきょ合格ごうかくした武官ぶかんなかでも学問がくもんつうじたものごうもん舎人とねりさらにそのうえごうもんごとにんじて側近そっきんくわえている。また、宰相さいしょう空位くういにすることもおおく、きたそうみなみそうつうじて宰相さいしょうかれなかった期間きかんのべ77カ月かげつのうち53カ月かげつこうむね時代じだいのことであった。この期間きかんにもまいり政事せいじ執政しっせいふく宰相さいしょうかく)はかれていたとはえ、皇帝こうていちからつよ時代じだいであった[2]

日本にっぽんとの関係かんけいではたいら政権せいけん平清盛たいらのきよもりとのにちそう貿易ぼうえきおこなっている時期じき相当そうとうするが、あくまで民間みんかん交流こうりゅう貿易ぼうえきであり、正式せいしき国交こっこうかった。

じゅん熙16ねん1189ねん)、ちょうあつし譲位じょういしてふとし上皇じょうこうとなるが、なおも実権じっけん掌握しょうあくしていた。晩年ばんねんまごちょう拡(やすしむね)の立太子りったいし問題もんだいなどでひかりしゅう対立たいりつし、不和ふわになったとつたえられる。紹熙5ねん1194ねん)に68さい崩御ほうぎょした。

宗室そうしつ

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父母ちちはは

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后妃こうひ

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  • 正室せいしつ:咸寧ぐん夫人ふじんかくおくなりきよし皇后こうごう) - ぐんおう時代じだい正妻せいさい
  • 皇后こうごうなつ皇后こうごうなりきょう皇后こうごう
  • 皇后こうごうしゃ皇后こうごうなり皇后こうごう
  • ほか多数たすう
    • 蔡氏よしちんちょうよしちん
    • むべはるぐん夫人ふじんかんななむすめしんやすぐん夫人ふじんちんえいやすしぐん夫人ふじんりゅう新平にっぺいぐん夫人ふじん南平なべらぐん夫人ふじんせきえいようぐん夫人ふじんおう平原ひらばらぐん夫人ふじんしんやすぐん夫人ふじんはり嬌娘、高平たかひらぐん夫人ふじんそうしんやすぐん夫人ふじんでんしんやすぐん夫人ふじんひとしやすぐん夫人ふじんかん、咸寧ぐん夫人ふじん、縉雲ぐん夫人ふじんしゅ
    • くに夫人ふじんかたくに夫人ふじんだかくに夫人ふじん鄺淑うららぐん夫人ふじんえびすぐん夫人ふじんぐん夫人ふじんちょう
    • (瓊華、みどりはな[3]
    • むらさきかすみ帔呉けいけい[4]
  • 生母せいぼしょう子女しじょ
    • よしみこく公主こうしゅ - 早世そうせい
    • 二女じじょ - 夭折ようせつ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「眘」のおとは「シン」。
  2. ^ 藤本ふじもとたけし武臣ぶしんきよしようみなみそうたかしむね政治せいじ状況じょうきょうごうもん舎人とねり」(初出しょしゅつ:『東洋とうよう研究けんきゅう』63かん1ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい、2004ねん)/所収しょしゅう:藤本ふじもと風流ふうりゅう天子てんしと「君主くんしゅ独裁どくさいせい」-きたそう徽宗あさ政治せいじ研究けんきゅう』(京都きょうと大学だいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2014ねんISBN 978-4-87698-474-9
  3. ^ こうむねりゅうたかからこうむね嬪としてあたえられた。姓氏せいし不明ふめい以上いじょうのいずれかである。
  4. ^ じゅん熙3ねんてんからむらさきかすみ帔に降格こうかくされた。以後いご不明ふめい以上いじょう2人ふたりのいずれか可能かのうせいがある。