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まご

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まご

たてたけし将軍しょうぐんたんこう
出生しゅっしょう たてやすし3ねん198ねん
死去しきょ たけし2ねん223ねん
拼音 Sūn Huán
叔武
主君しゅくん まごけん
テンプレートを表示ひょうじ

まご(そん かん、198ねん - 223ねん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい人物じんぶつ宗室そうしつ一人ひとり叔武ちちまごかわあにまごすけまごよしみおとうとまごしゅん従兄弟いとこまごおいまごけんまごまきしたがえまごまご。『三国志さんごくしこころざし宗室そうしつでん」に記述きじゅつがある。

生涯しょうがい

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ちちまごさくられてまごせいあたえられ、皇族こうぞくとしてむかえられたとも、また元々もともとまごせいであったが、兪家の養子ようしとなったのちまごせいもどすことをゆるされたともわれている。

あににんけんちょうつとめたもののわかくしてくなった。はなひろしせきはね討伐とうばつしたがい、せきはねぐん残党ざんとう説得せっとくし5せんにん帰順きじゅんさせ、牛馬ぎゅうば武具ぶぐなどをおびただしく鹵獲ろかくした(『くれしょ』)。

その、25さい安東あんどうちゅうろうしょうとなり、りくへりくだとともに武器ぶきるいしょくかんりゅう侵攻しんこう防御ぼうぎょすることとなった。えびすどうしょくぐん重囲じゅういされ、りゅう備の大軍たいぐんさんたにくすほどであったが、まご桓はとうがたなり、いのちしまずちからひとつにしてたたかき、りゅう備がまご桓をおとせず、ぎゃくりゅう備を敗走はいそうさせた(えびすりょうたたか[1]まご桓はえきしゅうつうじるみちち、かく要所ようしょぐん配置はいちした。りゅう備はかつておとずれたとき、きょうじょうまご桓と対面たいめんしたことがあったため、窮地きゅうちをようやくだっしたすえ嘆息たんそくし「わたしがかつてたよったとき、まだ子供こどもぎなかったまごごときに、いまはこれほどまでにいつめられるとは」とったという。そのえびすりょうでの功績こうせきによりたてたけし将軍しょうぐんたんこうとなった。ぎゅうなぎさとくにんじられるが、横江よこえ塢をきずいているさい急死きゅうしした。

評価ひょうか

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まご桓は弓馬きゅうばすぐれ、また容姿ようし端麗たんれい頭脳ずのう明晰めいせき博識はくしきであり、議論ぎろんにもひいでていた。まごけんまご桓を「皇族こうぞくにおけるかおふちである」ととなえ、たけまもるじょう抜擢ばってきした。

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、えびすりょうたたかいのときに登場とうじょうし、しゅしかとともにりゅう備迎げき任務にんむまかされる。配下はいかさんにんもうしょうことしゃたんゆう)をようするが、かれらはいずれも緒戦しょせんせききょうちょうつとやぶられてしまう。そのりくへりくだだいとくとして出陣しゅつじんりゅう備を撃退げきたいするまで、えびすりょうじょう防戦ぼうせんつづけたことになっている。しゅしかことなり、戦死せんしする設定せっていにはなっていない。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ まご桓は別働隊べつどうたいひきいてえびすどうかったところ、りゅう備軍の先鋒せんぽう包囲ほういされた。まご桓がりくへりくだ救援きゅうえんもとめたところ、りくへりくだすでりゅう備軍を壊滅かいめつさせる作戦さくせん用意よういしていたことと、まご桓軍のへい士気しきたかいこと、しろ堅固けんご食糧しょくりょう豊富ほうふであることなどから、りくへりくだみずからが作戦さくせん実行じっこううつせば、まご桓は自力じりき窮地きゅうちだっすることができるだろうと判断はんだんし、援軍えんぐんをすぐにおくらなかった。このためまご桓は勝利しょうりのちりくへりくだ対面たいめんし、当初とうしょりくへりくだうらみをいたが、りゅう備軍が壊滅かいめつするとその意図いと理解りかいしたとりくへりくだかたった(「りくへりくだつて」)。