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安政あんせい大獄たいごく

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安政あんせい大獄たいごく(あんせいのたいごく)は、安政あんせい5ねん1858ねん)から安政あんせい6ねん1859ねん)にかけて江戸えど幕府ばくふおこなった弾圧だんあつ[1]当時とうじは「飯泉いいずみ喜内きない初筆しょひついちけん」または「つちのえうま大獄たいごく(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」ともばれていた[2]

幕府ばくふ大老たいろう井伊いい直弼なおすけ老中ろうじゅう間部まべ詮勝あきかつらは、勅許ちょっきょないまま日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういんし、また将軍しょうぐん継嗣けいし徳川とくがわ家茂いえもち決定けっていした。安政あんせい大獄たいごくとは、これらのしょさく反対はんたいするものたちを弾圧だんあつした事件じけんである[3]弾圧だんあつされたのは尊王そんのう攘夷じょういいちきょう大名だいみょう公卿くぎょう志士しし活動かつどう)らで、連座れんざしたものは100にん以上いじょうにのぼった。形式けいしきじょうは13だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだたいいのち将軍しょうぐん命令めいれい)をはっしてすべての処罰しょばつおこなったことになっているが、実際じっさいには井伊いい直弼なおすけすべての命令めいれいはっしたとされており、家定いえさだたいいのちとしておこなわれたのは家定いえさだ死去しきょ直前ちょくぜんである7がつ5にち尾張おわりはんおも徳川とくがわ慶勝よしかつ福井ふくいはんおも松平まつだいら慶永よしなが水戸みとはん徳川とくがわ斉昭なりあき慶篤よしあつ父子ふし一橋ひとつばし慶喜よしのぶたいする隠居いんきょ謹慎きんしん命令めいれい慶篤よしあつのみは登城とじょう停止ていし謹慎きんしん)だけであり、大獄たいごくはじまる初期しょきのわずかな期間きかんかぎられる。

経緯けいい

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江戸えど時代じだい後期こうき日本にっぽんには、外国がいこくせん相次あいついで来航らいこうした。きよしちょうアヘン戦争せんそうやぶれると、日本にっぽん国内こくないでも対外たいがいてき危機きき意識いしきたかまり、まくかくでは海防かいぼう問題もんだい議論ぎろんされる。老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ幕政ばくせい改革かいかくおこない、黒船くろふね来航らいこう安政あんせい元年がんねん1854ねん)にアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日米にちべい和親わしん条約じょうやくを、ロシア帝国ていこくにち和親わしん条約じょうやく締結ていけつした。

黒船くろふね来航らいこうしたよしみひさし6ねん1853ねん)には、12だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよし死去しきょし、13だい将軍しょうぐん家慶いえよしよんなん徳川とくがわ家定いえさだ就任しゅうにんするが、病弱びょうじゃく男子だんしもうける見込みこみがなかったので将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいこった。ぜん水戸みと藩主はんしゅ徳川とくがわ斉昭なりあきなななん英明えいめいとの評判ひょうばんたか一橋ひとつばし慶喜よしのぶ支持しじしょはんとの協調きょうちょう体制たいせいのぞいちきょうと、血統けっとう重視じゅうしし、げん将軍しょうぐん血筋ちすじちか紀州きしゅうはんおも徳川とくがわ慶福よしとみ徳川とくがわ家茂いえもち)を保守ほしゅ路線ろせん南紀なんきとに分裂ぶんれつ対立たいりつした。

そのころ、米国べいこく総領事そうりょうじタウンゼント・ハリスが、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくへの調印ちょういん幕府ばくふせまっていた。このとき幕府ばくふしょ大名だいみょう条約じょうやく締結ていけつ調印ちょういんをどうしたらよいか意見いけんいていた。そして、条約じょうやく締結ていけつはやむなし、しかし調印ちょういんには朝廷ちょうてい勅許ちょっきょ必要ひつようということになり、幕府ばくふ承認しょうにんした。このため、勅許ちょっきょけに老中ろうじゅう堀田ほった正睦まさとしきょうのぼった。当初とうしょ幕府ばくふ簡単かんたん勅許ちょっきょられるとかんがえていたが、梅田うめだ雲浜うんぴん在京ざいきょう尊攘そんじょう工作こうさくもあり[よう出典しゅってん]元々もともと攘夷じょういろんしゃ孝明天皇こうめいてんのうから勅許ちょっきょることはできなかった。

正睦まさとしむなしく江戸えどもどった直後ちょくご安政あんせい5ねん1858ねん4がつ南紀なんき井伊いい直弼なおすけ大老たいろう就任しゅうにんする。直弼なおすけは、勅許ちょっきょ条約じょうやく調印ちょういん家茂いえもち将軍しょうぐん継嗣けいし指名しめい断行だんこうした。徳川とくがわ斉昭なりあきは、一旦いったん謹慎きんしんしていたものの復帰ふっき藩政はんせい指揮しきして長男ちょうなんである藩主はんしゅ徳川とくがわ慶篤よしあつうごかし、尾張おわり藩主はんしゅ徳川とくがわ慶勝よしかつ福井ふくい藩主はんしゅ松平まつだいら慶永よしながらと連合れんごうした。6月24にち慶永よしなが彦根ひこね藩邸はんていおとずれて登城とじょうまえ直弼なおすけ違勅いちょく調印ちょういん詰問きつもんし、さらに将軍しょうぐん継嗣けいし発表はっぴょう延期えんきするよう要求ようきゅうした。直弼なおすけ自身じしんたもとをつかんでめようとする慶永よしなが江戸城えどじょう登城とじょうした。こののち慶永よしながうように江戸城えどじょう登城とじょうした。また斉昭なりあき父子ふし慶勝よしかつ直弼なおすけ以下いかまくかく詰問きつもんするために不時ふじ登城とじょう定式ていしき登城とじょう以外いがい登城とじょう)をおかした。直弼なおすけは「『不時ふじ登城とじょうをして政道せいどうみだしたつみおもい』とのだいおもんばか将軍しょうぐんかんがえ)による」としてかれらを隠居いんきょ謹慎きんしんなどにしょした。これが安政あんせい大獄たいごくはじまりである。

いちきょうであった薩摩さつまはんおも島津しまつ斉彬なりあきら直弼なおすけ反発はんぱつはんへい5000にんひきいて上洛じょうらくして朝廷ちょうてい守護しゅごしたうえで、違勅いちょくただしていちきょう復権ふっけん指示しじする勅諚ちょくじょうて、幕府ばくふ対峙たいじすることを計画けいかくしたが、同年どうねん7がつ鹿児島かごしま出兵しゅっぺい調練ちょうれんちゅうみずあたりが原因げんいん急死きゅうし出兵しゅっぺい勅諚ちょくじょう計画けいかく頓挫とんざする。斉彬なりあきら薩摩さつまはん実権じっけんは、御家おいえ騒動そうどう斉彬なりあきら対立たいりつして隠居いんきょさせられたちち島津しまつひとしきょう掌握しょうあくし、薩摩さつまはん幕府ばくふ意向いこうさからわぬ方針ほうしんへと転換てんかんすることとなった。8がつには、薩摩さつまはんきょうはたらかして朝廷ちょうてい工作こうさくおこなっていた水戸みとはんおよ長州ちょうしゅうはんたいしてつちのえうま密勅みっちょくくだされ、ほぼおな時期じき幕府ばくふがわ同調どうちょうしゃであった関白かんぱく九条くじょうしょうただし辞職じしょくまれた。このため9月老中ろうじゅう間部まべ詮勝あきかつ京都きょうと所司代しょしだい酒井さかい忠義ただよしらが上洛じょうらくし、中心ちゅうしん人物じんぶつされた梅田うめだ雲浜うんぴん近藤こんどうしげる左衛門さえもん橋本はしもとひだりないらを逮捕たいほしたことを皮切かわきりに、公家くげ家臣かしんまで捕縛ほばくするという弾圧だんあつはじまった。

京都きょうと捕縛ほばくされた志士ししたちは江戸えど送致そうちされ、評定ひょうじょうしょなどで詮議せんぎけたのち死罪しざい遠島えんとうなど酷刑こっけいしょせられた。まくかくでも川路かわじ聖謨としあきら岩瀬いわせ忠震ただなりらの門閥もんばつ開明かいめい幕臣ばくしん謹慎きんしんなどの処分しょぶんとなった。このときひろしてんろん退しりぞけて厳刑げんけいしょすことをけっしたのは井伊いい直弼なおすけわれる[4][注釈ちゅうしゃく 1]

安政あんせい7ねん1860ねん3月3にち桜田さくらだ門外もんがいへんにおいて直弼なおすけ殺害さつがいされたのち弾圧だんあつ収束しゅうそくする。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん5月勅命ちょくめい慶喜よしのぶ将軍しょうぐん後見こうけんしょくに、松平まつだいらはるだけ慶永よしなが)が政事せいじ総裁そうさいしょく就任しゅうにんする。慶喜よしのぶはるだけは、直弼なおすけおこなった大獄たいごくはなは専断せんだんであったとして、

  1. 井伊いいたいし10まんせき削減さくげんついばっ[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]
  2. 弾圧だんあつ取調とりしらべをしたもの処罰しょばつ[注釈ちゅうしゃく 4]
  3. 大獄たいごく幽閉ゆうへいされていたもの釈放しゃくほう
  4. 桜田さくらだ門外もんがいへん坂下さかした門外もんがいへんにおける尊攘そんじょう運動うんどう遭難そうなんしゃ和宮かずのみや降嫁こうか祝賀しゅくがとして大赦たいしゃ

おこなった。

まくかくではいちきょう復活ふっかつし、文久ぶんきゅう改革かいかくおこなわれ、将軍しょうぐん家茂いえもち皇女おうじょ和宮かずのみや婚儀こんぎ成立せいりつして公武こうぶ合体がったい路線ろせんすすめられた。

安政あんせい大獄たいごくは、幕府ばくふ規範きはん意識いしき低下ていか人材じんざい欠如けつじょまねしょはん幕府ばくふへの信頼しんらいおおきく低下ていかさせることとなり、はんまくによる尊攘そんじょう活動かつどう激化げきかさせ、江戸えど幕府ばくふ滅亡めつぼう遠因えんいんになったともわれている。

受刑じゅけいしゃ

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死刑しけい獄死ごくし

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隠居いんきょ謹慎きんしん

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隠居いんきょ差控さしひかえ

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やく御免ごめん差控さしひかえなど

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えい蟄居ちっきょ

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譴責けんせき

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甲府こうふ勝手かって

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甲府こうふ勤番きんばんへの左遷させん

遠島えんとう

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じゅう追放ついほう

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ちゅう追放ついほう

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ところはらい

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えい押込おしごめ

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国許くにもとなが押込おしごめ

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押込おしこめ

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きゅうしか

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  • 山本やまもととよ………山本やまもと貞一郎ていいちろうつま
  • 山本やまもとさい………山本やまもと貞一郎ていいちろうむすめ
  • 山本やまもとうめ………山本やまもと貞一郎ていいちろうむすめ

手鎖てじょう

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  • 伊十郎いじゅうろう…………江戸えど小網こあみまち名主なぬし
  • みなもとすけ……………江戸えど神田かんだまち町人ちょうにん
  • みなもと左衛門さえもん………信濃しなの国松くにまつ本町ほんちょう町人ちょうにん

捕縛ほばくまえ死去しきょ

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朝廷ちょうていへの処分しょぶん

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朝廷ちょうていない処分しょぶんしゃについては『公家くげたちの幕末ばくまつ維新いしん』を参照さんしょう[5]

その

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 全体ぜんたいでは吉田よしだ松陰しょういん最後さいご刑死けいししゃとなる。
  2. ^ 徳川とくがわ四天王してんのうち、家康いえやす時代じだい以来いらいいえとして、譜代ふだい大名だいみょう筆頭ひっとう自他じたどもみとめていた井伊いいげんふうは、聖域せいいきれるにひとしいだい処断しょだんである。直弼なおすけのもとで、安政あんせい大獄たいごく活躍かつやくした彦根ひこね藩士はんし長野ながの主膳しゅぜん宇津木うつきけいぶく藩主はんしゅ井伊いいただしけん命令めいれい処刑しょけいされた。
  3. ^ 譜代ふだい筆頭ひっとう井伊いい親藩しんぱん筆頭ひっとう越前えちぜん松平まつへい福井ふくいはん)のあいだには、江戸えど時代じだいとおして家格かかく席次せきじめぐ因縁いんねんがあり、また両者りょうしゃ領地りょうちえを画策かくさくされた因縁いんねんがあった。
  4. ^ 当時とうじかけふくまくかくなど。文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん中期ちゅうきから後半こうはん一斉いっせい処分しょぶんされている。大獄たいごく当時とうじ老中ろうじゅう間部まべ詮勝あきかつ隠居いんきょ謹慎きんしんと1まんせきげんふう大獄たいごく当時とうじ京都きょうと所司代しょしだい酒井さかい忠義ただよし隠居いんきょ謹慎きんしん大獄たいごく当時とうじ寺社じしゃ奉行ぶぎょう松平まつだいらそうしげる酒井さかい後任こうにん京都きょうと所司代しょしだいとなるも朝廷ちょうていあつりょくにより赴任ふにんできないまま罷免ひめんおよびためつめかく昇進しょうしんしていた家格かかく剥奪はくだつ江戸えど北町きたまち奉行ぶぎょう石谷いしがやきよしきよし公職こうしょく罷免ひめんおよび隠居いんきょ謹慎きんしん勘定かんじょう奉行ぶぎょう池田いけだよりゆきかた寄合よりあい肝煎きもいりだったが、桜田さくらだ門外もんがいへんさいして大老たいろう直弼なおすけ隠蔽いんぺいしたつみにより肝煎きもいり罷免ひめんされ寄合よりあいになった。大目おおめづけ久貝くがいせいてんは2000せきげんふううえ免職めんしょく隠居いんきょとなった。京都きょうとまち奉行ぶぎょう小笠原おがさわら長常ながつね文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん時点じてんでは江戸えど北町きたまち奉行ぶぎょう政事せいじ改革かいかく御用ごようかけ兼任けんにんする重用じゅうようぶりであったが、書院しょいん番頭ばんがしら左遷させんされたうえ免職めんしょくおよび隠居いんきょ処分しょぶんとなった。
  5. ^ a b c d e 幕府ばくふ処分しょぶんあんしめされるも、孝明天皇こうめいてんのうにより却下きゃっかされた。
  6. ^ 東坊城ひがしぼうじょうは、幕府ばくふしめした当初とうしょあんではげられなかった。が、かれがかつて武家ぶけ伝奏てんそうとして、幕府ばくふりの立場たちば関白かんぱく九条くじょうしょうただし同調どうちょうした過去かこ追及ついきゅうした孝明天皇こうめいてんのうつよ意向いこうにより、えい蟄居ちっきょめいじられた。

出典しゅってん

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  1. ^ 安政あんせい大獄たいごく』 - コトバンク
  2. ^ つちのえうま大獄たいごく』 - コトバンク
  3. ^ 安政あんせい大獄たいごく」 - ジャパンナレッジ
  4. ^ 松平まつだいらはるだけ逸事いつじ」(松平まつだいらはるだけ全集ぜんしゅう編集へんしゅう刊行かんこうかい松平まつだいらはるだけ全集ぜんしゅう(1)』はら書房しょぼう、1973ねん
  5. ^ 刑部おさかべ芳則よしのり公家くげたちの幕末ばくまつ維新いしん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2018ねん、56ぺーじ 

外部がいぶリンク

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