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宗義しゅうぎさとし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
そう よしさとし
宗義しゅうぎさとしぞうまんまついんくら
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん えいろく11ねん1568ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう20ねん1がつ3にち1615ねん1がつ31にち
改名かいめい 彦三ひこぞう彦七ひこしち幼名ようみょう)→あきらけいよしさとしよしさとし
別名べつめい 彦三郎ひこさぶろう彦七ひこしち仮名かめい
戒名かいみょう たかし虎石とらいしおきなまんまついん
れいめい ダリオ
墓所はかしょ 長崎ながさきけん対馬つしままんまついん
官位かんい したがえよん侍従じじゅう 対馬つしまもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやす
はん 対馬つしま府中ふちゅうはんあるじ
氏族しぞく そう
父母ちちはは そうすすむもり立石たていし高弘たかひろむすめりゅうやすいん
宗義しゅうぎ調ちょう
兄弟きょうだい しげるなおよしじゅん調しらべこくよしさとし
つま 小西こにし行長ゆきながむすめみょう威徳いとくいんやしなえぶくいん
義成よしなり杉村すぎむらさとししつ柳川やながわ調ちょうきょう正室せいしつ
そうしげるおやしつ古川ふるかわしげるりんしつ内野ないや助成じょせいしつマンショ小西こにし
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そう よしさとし(そう よしとし)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての大名だいみょう対馬つしまこく領主りょうしゅそう20だい当主とうしゅ対馬つしま府中ふちゅうはん初代しょだい藩主はんしゅ

秀吉ひでよし命令めいれいで、小西こにし行長ゆきながらとともに、朝鮮ちょうせんとの交渉こうしょう尽力じんりょく文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきでは一番いちばんたい先導せんどうやくとして活躍かつやくし、講和こうわ交渉こうしょうにも尽力じんりょくした。関ヶ原せきがはらたたかでは西にしぐんについたが所領しょりょう安堵あんどされ、日本にっぽん朝鮮ちょうせんとの国交こっこう回復かいふく尽力じんりょくし、朝鮮ちょうせんとの和平わへい条約じょうやくむすんだ。

生涯しょうがい

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家督かとく相続そうぞく

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えいろく11ねん1568ねん)、宗家そうけだい15だい当主とうしゅそうすすむもり(まさもり)のよんなん異説いせつとして五男いつお)としてまれた。

長兄ちょうけいそうしげるなお(しげひさ)がいたため、宗家そうけだい17だい当主とうしゅ宗義しゅうぎ調ちょう隠居いんきょしたときにはしげるひさし家督かとくいで当主とうしゅとなったが、しげるなお早世そうせいし、さらにそのいだ次兄じけい宗義しゅうぎじゅん(よしずみ)も早世そうせいしたため、天正てんしょう7ねん1579ねん)1がつ調ちょう養子ようしとなって家督かとくぎ、宗家そうけ当主とうしゅとなった(天正てんしょう8ねん1580ねん相続そうぞくせつもある)。

天正てんしょう15ねん1587ねん)5がつ隠居いんきょしていた養父ようふ調ちょう当主とうしゅとして復帰ふっきしたため、よしさとし家督かとく調ちょう返上へんじょうすることとなった。これは同年どうねん豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる九州きゅうしゅう征伐せいばつはじまったためであり、よしさとし調ちょうとも秀吉ひでよししたがったため対馬つしまこくいちこく安堵あんどされた。

このころ、秀吉ひでよしから朝鮮ちょうせん服属ふくぞくさせるようにとの命令めいれいけ、調ちょう小西こにし行長ゆきなが島井しまい宗室そうしつらととも交渉こうしょう尽力じんりょくする。

天正てんしょう16ねん1588ねん)に調ちょう死去しきょするなどの悪条件あくじょうけんもあって、交渉こうしょうおもうようにすすまなかった。なお調ちょう死後しごふたた家督かとくいで宗家そうけ当主とうしゅとなった。

天正てんしょう18ねん1590ねん朝鮮ちょうせんから来日らいにちした使節しせつ服属ふくぞく使しょうして秀吉ひでよし謁見えっけんさせた。秀吉ひでよしはこれを朝鮮ちょうせん服属ふくぞくしたものとめ、朝鮮ちょうせんにはあきら征服せいふく事業じぎょう先導せんどうめいじられることとなる。だが、この朝鮮ちょうせん使節しせつさとし朝鮮ちょうせんがわ秀吉ひでよしによる全国ぜんこく統一とういつたいする祝賀しゅくが使節しせつおくるようにといつわりの要請ようせいをして実現じつげんした使節しせつであった。朝鮮ちょうせん建国けんこく以来いらいあかりさつふうくにであり、秀吉ひでよしあかり征服せいふく事業じぎょう先導せんどう了承りょうしょうする可能かのうせいはなかった。きゅうしたよしさとし朝鮮ちょうせんつたえるべきあかり征服せいふく先導せんどう命令めいれいを、あかりへのみちすようにといつわ要請ようせいした(かり入明いりあけ)。しかし、これも実現じつげんしなかった

文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき関ヶ原せきがはら

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朝鮮ちょうせんとの交渉こうしょう結果けっかてき失敗しっぱいし、天正てんしょう20ねん1592ねん)からのぶんろくやくでは一番いちばんたい先導せんどうやくまかされ、日本にっぽんぐんさい先鋒せんぽうとしてたたかった。

一番いちばんたい編成へんせい

総計そうけい 18,700にん

よしさとしは5,000にん軍勢ぐんぜいひきいて天正てんしょう20ねん(1592ねん)4がつ12にち対馬つしま北端ほくたん大浦おおうら出港しゅっこう釜山ぷさん上陸じょうりくする。よく13にちそう攻撃こうげきをかけて攻略こうりゃくしたのを皮切かわきりに、4がつ14にちひがし、4がつ15にちちょうひだりすい、4がつ16にちやなさん、4がつ17にちみつ、その大邱たいきゅうひとしどうぜんやま次々つぎつぎ攻略こうりゃくし、4がつ26にちけい尚道なおみちじゅんあたり使なおしゅう撃破げきは。4月27にちけい尚道なおみち忠清ただきよどう進軍しんぐん弾琴だんきんだいたたか迎撃げいげきさるひきいる朝鮮ちょうせんぐん壊滅かいめつさせただしゅう攻略こうりゃく京畿けいきどうすすみ5がつ1にちうららしゅう攻略こうりゃく、5月2にちりゅうかんじょう東大とうだいもんまえ到達とうたつよく5がつ3にちには首都しゅとかんじょう入城にゅうじょうする。

しょしょうかんじょう会議かいぎおこなったのち、5月11にちさとしはさらにきたかって進撃しんげきし、5月18にち津江つえたたかきむいのちもとひとし朝鮮ちょうせんぐん撃破げきは。5月27にち開城かいじょう攻略こうりゃく黄海こうかいどうみずきょうおおとりさんしゅう中和ちゅうわ次々つぎつぎ攻略こうりゃく平安へいあんどうすすみ、6月8にち大同だいどうあたりにたっし、朝鮮ちょうせんぐん夜襲やしゅうけたがみずか奮戦ふんせんして撃退げきたいした(大同だいどうたたか)。敗退はいたい平壌ぴょんやんじょう朝鮮ちょうせんぐん放棄ほうきすると6がつ16にちにはこれを接収せっしゅうした。ここで進撃しんげき停止ていしする。

7がつ16にちあかり遼東りゃおとんふくそうへいうけたまわくん平壌ぴょんやん攻撃こうげきしてきたが撃退げきたい。このときさとし小西こにし行長ゆきながとともに敗走はいそうするあかりぐん追撃ついげきし、あきらしょう儒・せんそうちょうこくただしうまたかしなどをった。7月29にちもとつばさひきいる朝鮮ちょうせんぐん平壌ぴょんやんせてきたがこれも撃退げきたいする。

ぶんろく2ねん1593ねん)1がつ7にちあきら如松提督ていとくとしてやく4まんにんあかりぐんきむいのちもとひきいる1まんにん朝鮮ちょうせんぐんくわ平壌ぴょんやんせた。あかりぐん平壌ぴょんやんじょう城門じょうもん突破とっぱすると日本にっぽんぐん北部ほくぶ丘陵きゅうりょう地域ちいき陣地じんち退避たいひする。ここで如松は「退路たいろあたえるからしろわたせ」とつたえてきた。日本にっぽんぐんはこれをみなみかって撤退てったい開始かいしするが背後はいごから追撃ついげききびしい退避たいひゆきとなった。かんじょう目指めざして進撃しんげきするあかりぐんたいし、日本にっぽんぐんしょ方面ほうめんかくぐんかんじょう結集けっしゅうしたのち出撃しゅつげきし、これをおおいにやぶった。これがあお蹄館のたたかである。あかりぐんではこの敗戦はいせん結果けっか講和こうわ機運きうんこり、日本にっぽんぐん兵糧ひょうろう不足ふそくしたため、講和こうわ交渉こうしょう開始かいしやく釜山ぷさん周辺しゅうへんいきまで撤退てったいした。

よしさとし行長ゆきながともあかりがわ講和こうわ担当たんとうしゃ沈惟けいらと和平わへい交渉こうしょう奔走ほんそうしたが、双方そうほうもとめる和平わへい条件じょうけん合意ごういいたはずいかけはなれたものであったため、国書こくしょ内容ないよう双方そうほう都合つごう条件じょうけん改竄かいざんするなどして和平わへい成立せいりつ目指めざしたが、こうした欺瞞ぎまん行為こういをともなう交渉こうしょうみのることなく、各国かっこく混乱こんらんあた交渉こうしょう決裂けつれつ慶長けいちょうやくふせぐにはいたらなかった。

慶長けいちょう2ねん1597ねん)2がつ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせんさい出兵しゅっぺい号令ごうれいはっした。日本にっぽんぐん作戦さくせん目標もくひょう全羅道ぜんらどうことごと成敗せいばいし、忠清ただきよどう京畿けいきどうそのもなるべく侵攻しんこうすることで[1]目標もくひょう達成たっせい城郭じょうかく建設けんせつし、ざいばんしょしょうさだめ、そのぐん帰国きこくさせる計画けいかくであった[2]当初とうしょよしさとしひだりぐんぞくふたたぶんろくやくおなじメンバーで行動こうどうした。

よしさとし日本にっぽんぐん全羅道ぜんらどうかって進撃しんげき開始かいしし、慶長けいちょう2ねん8がつ13にち南原なんばら攻略こうりゃくせん開始かいし。4にち攻略こうりゃくたした(南原なんばらじょうたたか)。つぎ全羅道ぜんらどうどうぜんしゅうかい占領せんりょう全羅道ぜんらどう制圧せいあつした。さらに日本にっぽんぐん忠清ただきよどう制圧せいあつし、京畿けいきどうまで侵攻しんこう作戦さくせん目標もくひょう達成たっせいすると、当初とうしょ予定よていどおぶんろくやくさいきずかれた城郭じょうかくぐんいき外縁がいえん城郭じょうかく建設けんせつするため撤収てっしゅうした。

以後いごよしさとしざいばんしょうとして南海なんかいやまとじょうざいしろしていたが、慶長けいちょう3ねん(1598ねん)8がつ18にち秀吉ひでよし死去しきょすると、朝鮮ちょうせん派遣はけんされていた日本にっぽんぐんに10がつ15にちづけ帰国きこく命令めいれいはっせられた。よしさとし小西こにし行長ゆきながあきらぜんとう集合しゅうごうども帰国きこくする手筈てはずであったが、このときじゅんてんやまとじょうざいばんしていた小西こにし行長ゆきなが松浦まつうら鎮信有馬ありま晴信はるのぶ大村おおむらまえ五島ごしまげんみやびあきら朝鮮ちょうせん水軍すいぐん撤退てったい妨害ぼうがいされじゅんてんからうごくことができなかった。これをみた宗義しゅうぎさとしは、島津しまつ義弘よしひろ立花たちばな宗茂むねしげ高橋たかはしみつるぞう寺沢てらさわ広高ひろたからとともに水軍すいぐん編成へんせいじゅんてん救援きゅうえんかう。このときはり海峡かいきょうせていたあきら朝鮮ちょうせん水軍すいぐん交戦こうせんした(はり海戦かいせん)。小西こにし行長ゆきながらは、このたたかいの間隙かんげきをぬって脱出だっしゅつ成功せいこうよしさとし小西こにし行長ゆきながらとともに釜山ぷさん帰国きこくたし、前後ぜんご7ねんおよ朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい終結しゅうけつした。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたかでは西にしぐんくみして伏見ふしみじょう攻撃こうげき参加さんかし、大津おおつじょう関ヶ原せきがはら本戦ほんせんでは家臣かしん代理だいりとして参加さんかさせた。しかし戦後せんご悪化あっかした朝鮮ちょうせんとの国交こっこう修復しゅうふく迅速じんそくすすめることをのぞんでいた徳川とくがわ家康いえやすからつみにはわれず、所領しょりょう安堵あんどされ、対馬つしま府中ふちゅうはん初代しょだい藩主はんしゅとなった。このとき正室せいしつ小西こにしマリアを離縁りえんしている。

江戸えど時代じだい

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文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきのために悪化あっかした朝鮮ちょうせんとの関係かんけい修復しゅうふくするように徳川とくがわ家康いえやすからめいじられたよしさとしは、慶長けいちょう14ねん1609ねん)に朝鮮ちょうせんとの和平わへい条約じょうやく成立せいりつさせた(おのれとりやくじょうまたは慶長けいちょう条約じょうやく)。この功績こうせき家康いえやすからしょうされ、そう幕府ばくふから独立どくりつした機関きかん朝鮮ちょうせん貿易ぼうえきおこなうこともゆるされている。

慶長けいちょう20ねん1がつ3にち1615ねん1がつ31にち)、死去しきょした。享年きょうねん48。あと長男ちょうなん義成よしなりいだ。

人物じんぶつ

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  • はつあきらけい(あきかげ)の「あきら」の天正てんしょう5ねん1577ねん)12月に室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきからへんいみなたまわったものである[3]のち羽柴はしば豊臣とよとみ秀吉ひでよしから羽柴はしば名字みょうじへんいみな(「きち」の)をもらよしさとし(よしとし、よしさとしみはおなじ)と名乗なのった[4]。そのよしさとし改名かいめい
  • 朝鮮ちょうせんとの交渉こうしょう懸命けんめいつとめて戦争せんそう回避かいひしようとした理由りゆうは、貿易ぼうえき利害りがいのほかに対馬つしま朝鮮ちょうせんとの中継ちゅうけい使つかわれることをおそれたためでもあった。なお、江戸えどはいって朝鮮ちょうせんとの和平わへい条約じょうやく締結ていけつしてそう江戸えど幕府ばくふにおける地位ちい安泰あんたいさせたものの、このときに交渉こうしょう性急せいきゅうにしすぎたため、次代じだい義成よしなり時代じだい宗家そうけ滅亡めつぼう危機ききたされることにもなった。(柳川やながわいちけん
  • 義父ぎふ小西こにし行長ゆきなが影響えいきょうけてキリシタンにもなっていた。洗礼せんれいめいダリオである。朝鮮ちょうせん日本にっぽんぐん慰問いもんしたグレゴリオ・デ・セスペデス神父しんぷは「きわめてつつしふか若者わかもので、学識がくしきがあり、立派りっぱ性格せいかくぬし」とひょうしている。

系譜けいふ

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へんいみなあたえた人物じんぶつ家臣かしん

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あきらけい時代じだい

よしさとしよしさとし時代じだい

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ あかこく全羅道ぜんらどうざんいちへん成敗せいばい申付もうしつけあおこく忠清ただきよどう京畿けいきどう)其外しゃなりほどしょうどうごと。『慶長けいちょうねんがつじゅういちにちづけ朱印しゅいんじょう』(立花たちばな文書ぶんしょ
  2. ^ みぎどうしょうずみじょうを以、仕置しおきしろ々、所柄ところがらかく及、多分たぶんづけて、城主じょうしゅじょうのり普請ふしんとうため帰朝きちょうしゅうれい割符わりふ丈夫じょうぶ申付もうしつけごと。『慶長けいちょうねんがつじゅういちにちづけ朱印しゅいんじょう』(立花たちばな文書ぶんしょ
  3. ^ 系図けいず纂要』および『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』のそう系図けいずちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんコトバンク所収しょしゅう)「宗義しゅうぎさとし」のこう田代たしろ和生かずお執筆しっぴつ
  4. ^ 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし
  5. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん(コトバンク所収しょしゅう)「佐須さすけいみつる
  6. ^ 系図けいず纂要』そう系図けいず
  7. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん(コトバンク所収しょしゅう)「たちばな智正ともまさ
  8. ^ 村川むらかわ浩平こうへい天正てんしょうぶんろく慶長けいちょう武家ぶけ叙任じょにん豊臣とよとみせい下賜かし事例じれい」『駒沢こまざわ史学しがく』80ごう、2013ねん
  9. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん(コトバンク所収しょしゅう)「柳川やながわ智永ともえ

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
宗義しゅうぎじゅん
そう当主とうしゅ
(1579ねん - 1587ねん)
そうあきらけい
次代じだい
宗義しゅうぎ調ちょう
先代せんだい
宗義しゅうぎ調ちょう
そう当主とうしゅ
(1588ねん - 1615ねん)
そうよしさとし / 宗義しゅうぎさとし
次代じだい
そう義成よしなり