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寄合よりあいしゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

寄合よりあいしゅう(よりあいしゅう)とは、武家ぶけにおける合議ごうぎたいである寄合よりあい構成こうせいいんであるが、狭義きょうぎでは北条ほうじょうとくむね中心ちゅうしんとした鎌倉かまくら幕府ばくふしょう人数にんずうおこなわれた最高さいこう幹部かんぶ会議かいぎ最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんとしての寄合よりあい構成こうせいいんす。

概要がいよう

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もともとは北条ほうじょう経時きょうじ時代じだいこととして『吾妻あづまきょう』に初出しょしゅつした北条ほうじょうとくむね私的してき会議かいぎふか御沙汰ごさた」である[1]

みや騒動そうどう以後いごたからおさむ合戦かっせんもとにかけてつづいた政治せいじてき緊張きんちょうなか確立かくりつされたとくむね専制せんせい体制たいせいもとで、少数しょうすう幕府ばくふ重臣じゅうしんによっておこなわれた寄合よりあい政治せいじてき意味いみおもくなっていった。ひろしもと年間ねんかんには北条ほうじょうよりゆきのもとに北条ほうじょうまさしむら金沢かなざわみのるとき安達あだち義景よしかげ三浦みうらやすしむららが寄合よりあい構成こうせいしていたが、たからおさむ合戦かっせんには北条ほうじょうまさしむら金沢かなざわみのる安達あだち泰盛やすもり諏訪すわ盛重もりしげらが構成こうせいするようになった。もと寇期には北条ほうじょう時宗じしゅうもと安達あだち泰盛やすもり太田おおたかんゆう佐藤さとうぎょうれん諏訪すわもりけい平頼綱たいらのよりつななどが寄合よりあい構成こうせいするようになった。

弘安ひろやす7ねん(1284ねん)に北条ほうじょう貞時さだときが14さいとく宗家そうけ家督かとくぐと、わか貞時さだときわって、連署れんしょ普恩寺ふおんじぎょうとくむね外戚がいせき安達あだち泰盛やすもりうち管領かんりょう平頼綱たいらのよりつならによる寄合よりあいしゅうによって政治せいじすすめられる。「寄合よりあいしゅう」という名称めいしょうはじめて登場とうじょうするのは、弘安ひろやす8ねん安達あだち泰盛やすもり霜月しもづき騒動そうどうたれ、平頼綱たいらのよりつな権勢けんせいるうようになったせいおう2ねん1289ねん)に北条ほうじょうむら寄合よりあいしゅうに「補任ほにん」されたとする記事きじ(『鎌倉かまくら年代ねんだい正安まさやす3ねん1301ねんじょう)である。寄合よりあい幕府ばくふ公的こうてき機関きかんとなり、それまで公式こうしき最高さいこう決定けってい機関きかんとされた評定ひょうじょうしゅよりも権威けんいつようになり、幕府ばくふない最高さいこう顕官けんかんの1つとかんがえられるようになった。のべけい2ねん1309ねん)に評定ひょうじょうしゅから寄合よりあいしゅうてんじた金沢かなざわさだあきらは「面目めんぼくいたり、もうはかりなくこう」という書状しょじょうしるしている(『金沢文庫かなざわぶんこ文書ぶんしょ所収しょしゅう原文げんぶんかん文体ぶんたい)。

一方いっぽうで、初代しょだい政所まんどころ別当べっとう大江広元おおえのひろもととする長井ながい大江おおえ)、幕府ばくふ政所まんどころといちゅうしょ世襲せしゅう高級こうきゅう官僚かんりょう法曹ほうそうである二階堂にかいどう政所まんどころ執事しつじ世襲せしゅう)、太田おおた三善みよしといちゅうしょ執事しつじ世襲せしゅう)らも寄合よりあいしゅう構成こうせいしており、かれらも鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうまで幕政ばくせい一定いってい影響えいきょうりょくつづけた。

よしみもと2ねん(1304ねん)のよしみもとらん以後いご貞時さだとき政務せいむ放棄ほうきすると、幕府ばくふ寄合よりあいしゅう合議ごうぎせい運営うんえいされてむね地位ちい形式けいしきてきなものとなっていき[2]貞時さだとき息子むすこ北条ほうじょうだかとくむねとなったころには幕府ばくふ寄合よりあいしゅう長崎ながさきえん安達あだちあらわらによって運営うんえいされるようになり、たかとき装飾そうしょくてき存在そんざいとなっていた[3]。こうして、末期まっき鎌倉かまくら幕府ばくふではとく宗家そうけ当主とうしゅすら形骸けいがいし、元弘もとひろらんほろびるまで特権とっけんてき支配しはいそうである寄合よりあいしゅうによって運営うんえいされていた。

鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうも、武家ぶけ当主とうしゅ中心ちゅうしんとした寄合よりあい構成こうせいいんを「寄合よりあいしゅう」とばれるれいがあり、南北なんぼくあさ時代じだい菊地きくち武重たけしげしるした「寄合よりあいしゅう内談ないだんこと」とばれる起請文きしょうもん存在そんざいする。

なお、江戸えど幕府ばくふにも「寄合よりあいしゅう」は存在そんざいするが、3000せき以上いじょう旗本はたもとのうちやくものを「寄合よりあいせき」と呼称こしょうし、その集団しゅうだんしたもので合議ごうぎたい構成こうせいなどの職掌しょくしょうゆうしたものではない。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 川添かわぞえ昭二しょうじ寄合よりあいしゅう」(『国史こくしだい辞典じてん 14』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1993ねんISBN 978-4-642-005043
  • 山家やまや浩樹ひろき寄合よりあいしゅう」(『日本にっぽんだい事典じてん 6』(平凡社へいぼんしゃ、1994ねんISBN 978-4-642-00514-2
  • 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねんISBN 978-4-642-05716-5

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん) P50
  2. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん) P130-131
  3. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん) P141-145