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小川おがわ正太郎しょうたろう

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小川おがわ 正太郎しょうたろう
早大そうだい野球やきゅう時代じだい
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 和歌山わかやまけん
生年月日せいねんがっぴ (1910-04-01) 1910ねん4がつ1にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1980-10-27) 1980ねん10月27にち(70さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
177 cm
kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション 投手とうしゅ
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1981ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 特別とくべつ表彰ひょうしょう

小川おがわ 正太郎しょうたろう(おがわ しょうたろう、1910ねん4がつ1にち - 1980ねん10月27にち)は、大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわ初期しょきにかけて活躍かつやくした日本にっぽん野球やきゅう選手せんしゅ新聞しんぶん記者きしゃ当時とうじ史上しじょう屈指くっしこのみ投手とうしゅとして、またアマチュア球界きゅうかい要職ようしょくつとめ、日本にっぽん野球やきゅう人気にんき高揚こうよう貢献こうけんした。

来歴らいれき人物じんぶつ

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大会たいかいはつ連続れんぞく優勝ゆうしょうなど当時とうじ中学ちゅうがく球界きゅうかい随一ずいいち強豪きょうごうであった和歌山わかやま県立けんりつ和歌山わかやま中学校ちゅうがっこうげん和歌山わかやま県立けんりつ桐蔭高とういんこうとう学校がっこう在学ざいがくちゅうの5年間ねんかんで8甲子園こうしえん全国ぜんこく大会たいかい出場しゅつじょうした。かい速球そっきゅうと「2かいからちるような」とたとえられたカーブ武器ぶきに1926ねん大正たいしょう15ねんなつだい12かい全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかい準決勝じゅんけっしょうで8連続れんぞくだつ三振さんしん記録きろく正太郎しょうたろう達成たっせいした この記録きろく桐光学園とうこうがくえん松井まつい裕樹ゆうき更新こうしんするまで86年間ねんかんやぶられなかった。またどう大会たいかいでは2にわたって「全員ぜんいんだつ三振さんしん」の大会たいかい記録きろく樹立じゅりつ翌年よくねん1927ねんだい4かい選抜せんばつ中等ちゅうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかいでも優勝ゆうしょう投手とうしゅとなり、優勝ゆうしょうこう褒美ほうびとしておくられた米国べいこく遠征えんせいでも1しょう3はい1ぶん成績せいせきおさめた。なお、この遠征えんせい日本にっぽんでのけん予選よせん時期じきかさなったため和歌山わかやま中学ちゅうがくぐんおくしたが、それでも予選よせんがってなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょうたした(1927ねんだい13かい全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかい)。1928ねんだい5かい選抜せんばつ中等ちゅうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかい決勝けっしょうまでがりじゅん優勝ゆうしょう小川おがわは「中学ちゅうがく球界きゅうかい麒麟児きりんじ」とたたえられた。当時とうじのメンバーに小川おがわとバッテリーをんだ島本しまもと義文よしふみ(のち横浜よこはまだかこう阪急はんきゅう)がいる。

小川おがわ1929ねん早稲田大学わせだだいがく入学にゅうがく(のち政治せいじ経済学部けいざいがくぶすすんだ)。この当時とうじ早稲田わせだ打線だせんひとているものの投手とうしゅじん力量りきりょう不足ふそく慶應けいおう明治めいじ後塵こうじんはいしていた。そのため小川おがわ入学にゅうがくは「再生さいせいかみ入来いりき(にゅうらい)」などと救世主きゅうせいしゅてき存在そんざいとしてもてはやされた。周囲しゅうい期待きたいちがわず、小川おがわ初戦しょせんとなる春季しゅんきリーグせんたい法政ほうせい2回戦かいせん延長えんちょう12かいを17だつ三振さんしん完封かんぷう華々はなばなしいデビューをかざると、そのまま早稲田わせだのシーズンぜん7しょうちゅうの4しょうげ、ろく大学だいがく史上しじょうはつ全勝ぜんしょう対決たいけつとなった早慶そうけいせんでも宮武みやたけ三郎さぶろうち、それまでかうところてきしといわれた慶應けいおう連勝れんしょうを20でめた。これにより「早稲田わせだ至宝しほう小川おがわ」と「慶応けいおうちょうきゅう宮武みやたけ」がろく大学だいがくならしょうせられることとなる。小川おがわ宮武みやたけ対決たいけつ全国ぜんこく注目ちゅうもくあつめ、キップをもとめる徹夜てつやれつつくったが、このようなれい日本にっぽん野球やきゅう史上しじょうはじめてとされる。早稲田わせだはここでは慶應けいおう優勝ゆうしょうゆずったが、あきふたた全勝ぜんしょう同士どうし慶應けいおう8しょう早稲田わせだ5しょうたい立教りっきょう2回戦かいせん明治めいじせんのこしていた)で早慶そうけい激突げきとつふたた小川おがわ宮武みやたけ対決たいけつ全国ぜんこくかせた。試合しあい早稲田わせだが2しょう1はいち、小川おがわは1回戦かいせん・3回戦かいせん勝利しょうり投手とうしゅとなった。このようにろく大学だいがく発足ほっそく以来いらいしばらく戦力せんりょく均衡きんこうつづいた早慶そうけい小川おがわ加入かにゅうにより実力じつりょく拮抗きっこう早慶そうけいせん激闘げきとう新国劇しんこくげき舞台ぶたいにしたほか、「早慶そうけいせんましたか?」「早慶そうけいだれ試合しあいをしたんや?」というエンタツアチャコ漫才まんざい古典こてんとなるなど、空前くうぜん国民こくみんてき熱狂ねっきょうあおった[1]小川おがわ宮武みやたけ早慶そうけいせん全国ぜんこくてき熱狂ねっきょう三原みはら水原みずはら次代じだいがれることとなる。

1947ねん小川おがわ正太郎しょうたろう

しかし、小川おがわ全盛ぜんせいみじかかった。翌年よくねんはいると胸部きょうぶわずらはるのリーグ戦中せんちゅうばん欠場けつじょう、1931ねん春季しゅんきリーグせんに1試合しあいげたのみで入院にゅういん欠場けつじょう、そのまま神宮じんぐうおもて舞台ぶたいから姿すがたしてしまった。突然とつぜん離脱りだつには中学ちゅうがく時代じだいからの登板とうばん過多かた早稲田わせだもう練習れんしゅうによる疲労ひろうから、また学生がくせい結婚けっこんをしたからなど諸説しょせつある。リーグ通算つうさん19試合しあい登板とうばん、13しょう2はい。177cm[2]という当時とうじではぐん長身ちょうしんかして左腕さわんから流麗りゅうれいフォームは「芸術げいじゅつひん」といわれ、沢村さわむら栄治えいじ手本てほんにしたといわれる。そのかい速球そっきゅう前述ぜんじゅつ実績じっせきしめすとおり威力いりょく抜群ばつぐんであった。活躍かつやくした期間きかんみじかかったものの、その足跡あしあと鮮烈せんれつそのものであり、戦前せんぜんの(そして戦後せんごつづく)日本にっぽん野球やきゅう人気にんき不動ふどうのものにしただい功労こうろうしゃであった。

卒業そつぎょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃすす大学だいがく野球やきゅう評論ひょうろん健筆けんぴつふるったほか、東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい記録きろくいんつとめ、また1949ねん日本にっぽん社会しゃかいじん野球やきゅう協会きょうかい設立せつりつ参画さんかくし、理事りじ事務じむ局長きょくちょうとして社会しゃかいじん球界きゅうかい発展はってん貢献こうけんした。また1955ねんから翌年よくねんにかけてのプロ・アマの野球やきゅう規則きそく合同ごうどうにあたって編纂へんさん委員いいんつとめた。こうした球界きゅうかいへの貢献こうけんたいし、没後ぼつご1981ねん特別とくべつ表彰ひょうしょう野球やきゅう殿堂でんどうりした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 早稲田わせだ慶応けいおう早慶そうけいというのや」「ああ、そーけー」というのがオチとなり爆笑ばくしょうさそった。このやりりははじまったばかりのラジオ放送ほうそうにのって全国ぜんこくながれた。現在げんざいくことができる。
  2. ^ 大和やまとだましんせつ 日本にっぽん野球やきゅう昭和しょうわへん その1》』 スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1977ねん、87ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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