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小西こにし行長ゆきなが

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小西こにし 行長ゆきなが
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいろく元年がんねん1558ねん[注釈ちゅうしゃく 1]
死没しぼつ 慶長けいちょう5ねん10月1にち1600ねん11月6にち
別名べつめい わたる九郎くろう仮名かめい)・如信
れいめい アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン[2]
墓所はかしょ ぜん幢寺岐阜ぎふけん垂井たるいまち
さかい公園こうえん墓地ぼちうち供養くようとう大阪おおさかさかいみなみ
官位かんい したがえ日向ひなたもり摂津せっつもり
主君しゅくん 宇喜多うきた直家なおいえ豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより
氏族しぞく 小西こにし
父母ちちはは ちち小西こにしたかし洗礼せんれいめい:ジョウチン)、ははワクサ洗礼せんれいめいマグダレーナ
兄弟きょうだい 如清洗礼せんれいめい:ベント)、行長ゆきながくだりけい洗礼せんれいめい:ジョアン)、小西こにししゅ殿しんがりかい洗礼せんれいめい:ペドロ)、小西こにしあずか七郎しちろう洗礼せんれいめい:ルイス)、伊丹いたみむねづけつま洗礼せんれいめい:ルシア)
つま 正室せいしつきくひめ洗礼せんれいめい:ジュスタ)
側室そくしつ立野たての殿どの洗礼せんれいめい:カタリナ)
小西こにし兵庫ひょうごあたまめい不詳ふしょう)、ぼうおんなめい不詳ふしょう小西こにし弥左衛門やざえもんしつ)、みょう洗礼せんれいめい:マリア、宗義しゅうぎさとししつ)、浅山あさやま弥左衛門やざえもん
猶子ゆうしジュリアおたあ
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小西こにし 行長ゆきなが(こにし ゆきなが)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう大名だいみょう肥後ひご宇土うとじょうおもアウグスティヌス洗礼せんれいめいキリシタン大名だいみょうでもある。

小西こにし 行長ゆきなが
教派きょうは カトリック教会きょうかい
洗礼せんれいめい アゴスチノ(アウグスティヌス)
受洗じゅせん 1584ねん
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当初とうしょ宇喜多うきたつかえ、のち豊臣とよとみ秀吉ひでよし家臣かしんとなる。文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきでは女婿じょせい宗義しゅうぎさとしらととも主要しゅようはたらきをし、序盤じょばんかん城府じょうふ占領せんりょうさいには加藤かとう清正きよまさ先陣せんじんこうあらそった。関ヶ原せきがはらたたかでは西にしぐんしょうとして奮戦ふんせんしたが、敗北はいぼくして捕縛ほばくされた。自殺じさつきんじられたキリシタンであったので、切腹せっぷく拒否きょひして斬首ざんしゅされた。

生涯しょうがい

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えいろく元年がんねん1558ねん)、泉州せんしゅうさかい商人しょうにん小西こにしたかし次男じなんとして京都きょうとまれた[注釈ちゅうしゃく 2]

はじめ備前びぜん福岡ふくおか豪商ごうしょう阿部あべ善定ぜんじょ手代てだいであった源六げんろくのち岡山おかやま下之したのまち呉服ごふくしょうをしていた魚屋さかなや九郎くろうみぎ衛門えもん)の養子ようしとなり[4]商売しょうばいのために度々どど宇喜多うきた直家なおいえもとおとずれていたが、そのさい直家なおいえ才能さいのう見出みいだされて抜擢ばってきされて武士ぶしとなり、家臣かしんとしてつかえた[5]織田おだ家臣かしん羽柴はしば秀吉ひでよし三木みきしろめをおこなっているさい直家なおいえから使者ししゃとして秀吉ひでよしした使つかわされた。このとき秀吉ひでよしからその才知さいちられ、臣下しんかとなる[5]

秀吉ひでよし近臣きんしん時代じだい

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豊臣とよとみ政権せいけんうちではふね奉行ぶぎょう任命にんめいされ、水軍すいぐんひきいた。天正てんしょう13ねん1585ねん)には摂津せっつもりにんぜられ、また豊臣とよとみせい名乗なのることをゆるされる[6]同年どうねん紀州きしゅう征伐せいばつでは、水軍すいぐんひきいて参戦さんせんしたが、雑賀さいかしゅう抵抗ていこうけて敗退はいたいしたといわれている。また一方いっぽうで、太田おおたじょう水攻みずぜめでは、安宅あたかせん大砲たいほう動員どういんして攻撃こうげきし、開城かいじょうのきっかけをつくったともいわれている。

天正てんしょう13ねん(1585ねん)、小豆島しょうどしまで1まんせきあたえられた[注釈ちゅうしゃく 3]

これに前後ぜんごして、天正てんしょう12ねん1584ねん)には高山たかやま右近うこん後押あとおしもあって洗礼せんれいけキリシタンとなる[6]小豆島あずしまではグレゴリオ・デ・セスペデスまねいてキリストきょう布教ふきょうおこない、しま田畑たはた開発かいはつ積極せっきょくてきった。また、天正てんしょう15ねん1587ねん)のバテレン追放ついほうれいさい改易かいえきとなった右近うこんしまかくまい、秀吉ひでよしに諫言している[6]

天正てんしょう14ねん(1586ねん)10がつごろより摂津せっつもり名乗なのり、ぼっするまで摂津せっつもり名乗なのることになるが、天正てんしょう15ねん(1587ねん)3がつから5がつ時期じきのみ日向ひなたもり名乗なのっている[7]

宇土うど城主じょうしゅ時代じだい

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天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう平定へいてい天正てんしょう16ねん1588ねん)の肥後ひご国人くにびと一揆いっき討伐とうばつこうをあげ、肥後ひごこく南半みなみはんこく宇土うと益城ましきはちだいさんぐん20まんせきあまりをあたえられた。

天正てんしょう17ねん1589ねん)、宇土うど古城こじょうひがし現在げんざい熊本くまもとけん宇土うと古城こじょうまち)にあらたな宇土うとじょう築城ちくじょうし、本拠ほんきょとした。しょう丘陵きゅうりょう城山しろやま頂上ちょうじょう本丸ほんまる西にしまるほり石垣いしがきさんまるはいし、それぞれをほり石垣いしがきかこんだ近世きんせい城郭じょうかくであった。鎌倉かまくら時代じだい末期まっき宇土うどによってきずかれた宇土うど古城こじょうとともにみると、づるつばさひろげているようにえたことから「づるしろ」の異名いみょうつ。

この宇土うとじょう普請ふしんしたがわなかった天草てんぐさにんしゅとはせんになり(天草あまくさ国人くにびと一揆いっき)、これを加藤かとう清正きよまさらとともに平定へいてい天草てんぐさ1まんせきあまりも所領しょりょうとした。秀吉ひでよしは、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい視野しやれて、水軍すいぐん統率とうそつする行長ゆきなが肥後ひごふうじたという[8]

このころ天草てんぐさ人口じんこう3まんの2/3にあたる2まん3せんがキリシタンであり、60にんあまりの神父しんぷ、30の教会きょうかい存在そんざいしたという。志岐しき所領しょりょうである志岐しきには宣教師せんきょうし要請ようせいによって画家がかでもあるイタリアじん修道しゅうどうイルマンジョバンニ・ニコラオ派遣はけんされ、ニコラオの指導しどうひじりぞう学校がっこういとなまれ、油絵あぶらえ水彩すいさいどう版画はんがおしえられひじりひじりぞう製作せいさく、パイプオルガンや時計とけいなどの製作せいさくおこなわれていた。学校がっこうぶんろく3ねん1594ねん)、有馬ありま半島はんとうはちりょうのセミナリオと合併がっぺい[注釈ちゅうしゃく 4]規模きぼ拡大かくだいしたが、これらイエズスかい活動かつどう行長ゆきなが援助えんじょあた保護ほごした。

行長ゆきなが宇土うとじょう水城みずきとしてすぐれた機能きのうっていたというが、秀吉ひでよしけ、相良さがら統治とうち時代じだいからこの地域ちいき海外かいがい貿易ぼうえき中心ちゅうしんであったはちだいとくふち[注釈ちゅうしゃく 5]にも、麦島むぎしましろ築城ちくじょうして水利すいり強化きょうかし、重臣じゅうしん小西こにし行重ゆきしげ城代じょうだいとして配置はいちした。行長ゆきなが従来じゅうらい山頂さんちょうにあった古麓ふるふもとじょうはいして、麦島むぎしましろ球磨川くまがわ八代海やつしろかいめんする河口かこうしまて、ほりからそとすいきれて浮城うきしろとしたので、直接ちょくせつふね出入でいりできた。このほか隈庄くまのしょうじょう木山きやましろ矢部やべしろあいふじてらじょうささえじょうとし、隈庄くまのしょうじょうおとうと小西こにししゅ殿しんがりかいあいとうてらじょう結城ゆうき弥平やへい一族いちぞく重臣じゅうしん城代じょうだいにんじている。また高山たかやま右近うこん旧臣きゅうしん(キリシタン)がおお家臣かしんてられた。

しかし、のこりの肥後ひご北半きたはんこくりょうした清正きよまさとは次第しだい確執かくしつふかめることになった(後述こうじゅつ)。

文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき

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ぶんろくやくにおける小西こにし行長ゆきなが進路しんろせん

ぶんろく元年がんねん1592ねん)からのぶんろくやくさいしては、行長ゆきなが加藤かとう清正きよまさりょう年来ねんらい先鋒せんぽうとなることを希望きぼうしていたが、秀吉ひでよし行長ゆきなが先鋒せんぽうとして、清正きよまさは2番手ばんてとした。出陣しゅつじんさいして秀吉ひでよしより大黒だいこくうまおくられている。戦端せんたんひらかれると釜山ぷさん攻略こうりゃく皮切かわきりに、次々つぎつぎ朝鮮ちょうせんぐんやぶり(釜山ぷさん鎮のたたかひがし萊城のたたかなおしゅうたたかただしゅうたたか)、清正きよまささきんじてかんじょう占領せんりょうし、さらに北進ほくしんつづ平壌ぴょんやん攻略こうりゃくたす(大同だいどうたたか)。このあいだ行長ゆきなが度々たびたび朝鮮ちょうせんがわたいして交渉こうしょうによる解決かいけつけているが、いずれも朝鮮ちょうせんがわ拒絶きょぜつまたは黙殺もくさつしている。その平壌ぴょんやん奪還だっかんはかったうけたまわくんひきいるあきらぐん攻撃こうげき撃退げきたいした。この平壌ぴょんやんたたかいではおとうと小西こにしあずかななろう従兄弟いとこ小西こにしアントニオ、一門いちもん日比谷ひびやアゴストのほかに著名ちょめいもの戦死せんししゃはなかった。その、このあかりぐんたいして講和こうわけ、50日間にちかん休戦きゅうせん講和こうわ交渉こうしょう同意どういけた。つぎ朝鮮ちょうせんぐん平壌ぴょんやん攻撃こうげきしたがこれも撃退げきたいする。

行長ゆきなが休戦きゅうせん期日きじつぎても講和こうわ交渉こうしょうあかりがわ返答へんとうつづけていたが、このあいだあかりでは如松ひきいる4まんあまり朝鮮ちょうせん派遣はけんぐん編成へんせいし、平壌ぴょんやんかって進行しんこうしていた。ぶんろく2ねん1593ねん)1がつあかりぐんによる平壌ぴょんやん攻撃こうげきおこなわれると、こうしきれずかんじょうまで退却たいきゃくする。同年どうねん5がつ島津しまつただしたつ仮病けびょう使つかって出陣しゅつじん拒否きょひ改易かいえきされたさいには身柄みがらあずかるなど、国内こくないでも活動かつどうした。

かんじょう周辺しゅうへん日本にっぽんぐんは、進撃しんげきしてきたあきらぐんあお蹄館のたたかやぶった(このとき行長ゆきながぐんかんじょう駐留ちゅうりゅう)。その戦意せんい喪失そうしつしたあきらぐん兵糧ひょうろう不足ふそくなや日本にっぽんぐんとのあいだ講和こうわ交渉こうしょう開始かいしされる。行長ゆきなが石田いしだ三成みつなりともあかりとの講和こうわ交渉こうしょうたずさわり、あかりがわ講和こうわ担当たんとうしゃ沈惟けいらと共謀きょうぼうし、秀吉ひでよしにはあかり降伏ごうぶくするといつわり、あかりには秀吉ひでよし降伏ごうぶくするといつわって講和こうわむすぼうとしたといわれる。このとき行長ゆきなが家臣かしん内藤ないとう如安じょあんあかりがわ史料しりょうでは小西こにし飛騨ひだ)が日本にっぽんがわ使者ししゃとしてあかり北京ぺきんかった。

この結果けっかあかり使者ししゃ秀吉ひでよし日本にっぽん国王こくおうふうじるむねしるしたしょきむしるしたずさえて来日らいにちすることになった。さつふう内容ないようアルタン・ハーンのものを先例せんれいとし、順化じゅんかおうおうごうきむしるし授与じゅよするものであった(秀吉ひでよしおうさつふう以外いがいにも宇喜多うきた秀家ひでいえ小西こにし行長ゆきなが増田ますだちょうもり石田いしだ三成みつなり大谷おおやよしつぎ和平わへいしょしょうだいとく前田まえだ利家としいえ徳川とくがわ家康いえやす上杉うえすぎ景勝かげかつらが地方ちほうとく指揮しきにんじられる)。これはあかり臣下しんかになることを意味いみするもので、秀吉ひでよしもとめていた講和こうわ条件じょうけんなんふくまれないものだった。これを秀吉ひでよし報告ほうこくする段階だんかい行長ゆきながは、しょげる西にしえみうけたまわ内容ないようをごまかすよう依頼いらいしたが、うけたまわ兌はしょ内容ないようまさしく秀吉ひでよしつたえた。このため講和こうわ破綻はたんし、交渉こうしょう主導しゅどうしゃだった行長ゆきなが秀吉ひでよしつよいかりをめいじられるが、うけたまわ兌や前田まえだ利家としいえ淀殿よどどのらのとりなしにより一命いちめいすくわれる。

慶長けいちょう2ねん1597ねん)からの慶長けいちょうやくでもふたた出兵しゅっぺいめいじられ、とく講和こうわ交渉こうしょうにおける忠義ちゅうぎわせのため武功ぶこうててつみつぐなうよう厳命げんめいされて朝鮮ちょうせん進攻しんこうする。漆川うるしかわはり海戦かいせん朝鮮ちょうせん水軍すいぐん殲滅せんめつし、南原なんばら攻略こうりゃくせん南原なんばらじょうたたか)に参加さんかぜんしゅう占領せんりょう全羅道ぜんらどう方面ほうめん制圧せいあつしたのちじゅんてんやまとじょうざいばんよく慶長けいちょう3ねん1598ねん)9がつまつから10がつはじめにかけておこなわれたじゅんてんやまとじょうたたかでは、たたかいに先立さきだってあきらすすむりゅうから講和こうわちかけられ、行長ゆきながはこれにおうじて交渉こうしょうのぞもうとしろたが、これは行長ゆきなが捕縛ほばくしようとするあかりがわ謀略ぼうりゃくであった。この謀略ぼうりゃくあかりがわ不手際ふてぎわのため寸前すんぜんのところで窮地きゅうちだっ城内じょうないんで籠城ろうじょうすることができた。つづいてあきら朝鮮ちょうせんぐんによる水陸すいりくからの攻撃こうげき開始かいしされたが、これを撃退げきたいする。その秀吉ひでよし死去しきょによる帰国きこく方針ほうしんつたえられ、あかりぐん交渉こうしょうして円滑えんかつ帰国きこくみとめるむね同意どういけた。しかし、朝鮮ちょうせん水軍すいぐん舜臣しゅんしん反対はんたいで、海上かいじょう封鎖ふうさによる帰国きこく妨害ぼうがいつづけられたが、立花たちばな宗茂むねしげ島津しまつ義弘よしひろひとし救援きゅうえんにより無事ぶじ帰国きこくすることができた。

なお、ぶんろくやくさい進軍しんぐん戦闘せんとう模様もよう従軍じゅうぐんそうてんの『西にしせい日記にっき』にくわしくしるされている。

関ヶ原せきがはら

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関ヶ原せきがはらたたかいの小西こにし行長ゆきながじんあと岐阜ぎふけん不破ふわぐん関ケ原せきがはらまち

慶長けいちょう3ねん1598ねん)8がつ秀吉ひでよし死去しきょすると、行長ゆきながは12月に帰国きこくする。その寺沢てらさわ広高ひろたかとともに徳川とくがわ家康いえやす取次とりつぎやくつとめるなど、むしろ家康いえやすとの距離きょりちかづけているが、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の家康いえやすによる会津あいづ征伐せいばつさいしては上方かみがたへの残留ざんりゅうめいじられた[注釈ちゅうしゃく 6]。しかし、そのこった関ヶ原せきがはらたたかいでは、石田いしだ三成みつなり呼応こおう西にしぐんしょうとして参戦さんせんする。

9月15にち関ヶ原せきがはら本戦ほんせんでは、ひがしぐん田中たなか吉政よしまさ筒井つつい定次さだじらの部隊ぶたい交戦こうせんして奮戦ふんせんする。しかし小早川こばやかわ秀秋ひであきらの裏切うらぎりで大谷おおやきちまましたい壊滅かいめつすると、つづいて小西こにしたい宇喜多うきたたいくずれ、行長ゆきなが伊吹山いぶきやまなかのがれた。9月19にち関ヶ原せきがはら庄屋しょうやはやし蔵主くらぬしかくまわれた。行長ゆきながみずからを捕縛ほばくして褒美ほうびをもらうようにはやし蔵主くらぬしすすめたが、はやしはこれをけず、竹中たけなかしげるもん家臣かしん伊藤いとうみなもと左衛門さえもん山田やまだもくすすむりょう事情じじょうはなし、共々ともども行長ゆきなが護衛ごえいして草津くさつ村越むらこし直吉なおきちじんれてった[注釈ちゅうしゃく 7]

10月1にち市中しちゅうまわしののちろくじょう河原かわはらにおいて石田いしだ三成みつなり安国寺あんこくじ恵瓊えけいとも斬首ざんしゅされた。そのさい行長ゆきながはキリシタンであったので、浄土じょうどもん僧侶そうりょによって頭上ずじょう経文きょうもんかれることを拒絶きょぜつし、ポルトガル王妃おうひからおくられたキリストとマリアのイコンかかげて3頭上ずじょういただいたのちくびたれたとつたえられる[10]処刑しょけいくび徳川とくがわかたによって三条さんじょう大橋おおはしさらされた。のぞんで告解こっかい秘蹟ひせきおなじキリシタンであった黒田くろだ長政ながまさ依頼いらいしたが、家康いえやすいのちもあってことわられ、処刑しょけい当日とうじつ司祭しさい秘蹟ひせきおこなおうとしたが、接近せっきんゆるされなかった[10]。イエズスかいがわ史料しりょうによると、行長ゆきなが遺体いたい教会きょうかいられたのちあらためて秘蹟ひせきけてカトリックしきほうむられた[10]というが、どこに埋葬まいそうされたのかはわかっていない[11]教皇きょうこうクレメンス8せいこうちょうしんだとわれる[10]行長ゆきながくなってから7ねんの1607ねん、イタリアのジェノバでは行長ゆきなが主人公しゅじんこうとする音楽おんがくげきつくられている[11]

人物じんぶつ

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豊臣とよとみ行長ゆきなが印章いんしょう播磨はりまこく龍野たつのはん中井なかいはくもと家蔵かぞう)。行長ゆきなが朝鮮ちょうせんつくらせたきばあきら象牙ぞうげ印鑑いんかん)。
  • あかり講和こうわ文書ぶんしょしたさい大将たいしょう摂津せっつしゅうぜんつかさ小西こにし秘書ひしょしょうかん豊臣とよとみ行長ゆきなが」といている。詐称さしょうせつもあるが、現存げんそんする五山ごさんばん春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいそうこうだいさんまき内題ないだいしたに「豊臣とよとみ行長ゆきなが」のしるしされたものが発見はっけんされており、豊臣とよとみせい下賜かしされていた可能かのうせいがある。

加藤かとう清正きよまさとの対立たいりつ

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  • 領地りょうちたがいに隣接りんせつしていたため、つね境界きょうかいせんをめぐってあらそったといわれている。渡辺わたなべげん察(わたなべ・げんさい)「収拾しゅうしゅう昔語むかしがたり」には、はじめ両者りょうしゃ関係かんけい良好りょうこうであったが、領地りょうち境界きょうかいとなった緑川みどりかわ水利すいりをめぐって次第しだい対立たいりつするようになったこと、土地とち相続そうぞくをめぐる争論そうろん行長ゆきながたいして有利ゆうり裁定さいていくだされることがおおく、清正きよまさ遺恨いこんつのっていったことなどがあげられている。
  • 清正きよまさ熱心ねっしん日蓮宗にちれんしゅう信者しんじゃであったのにたいし、行長ゆきなが熱心ねっしんなキリシタンであったことも対立たいりつ一因いちいんしたという。たとえば天正てんしょう17ねん1589ねん)の天草てんぐさにんしゅ反乱はんらんさい、キリシタンのおお天草てんぐさしゅたいして行長ゆきなが事態じたい穏便おんびんませようとしたが、清正きよまさ強引ごういん出兵しゅっぺい介入かいにゅう原因げんいん武力ぶりょく征伐せいばつらざるをなくなったという経緯けいいがある。
  • 清正きよまさからは文治ぶんじのひとりとなされて、「くすり問屋とんや小倅こせがれ」とあなどられたという。その反発はんぱつとして行長ゆきながは、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいのとき、軍旗ぐんきとして当時とうじくすりぶくろであるかみふくろしゅまるをつけたものを使用しようしたという。
  • ぶんろくやくさいきょうしろめでは、どちらがさき一番乗いちばんのりするかをあらそい、行長ゆきながいちにち清正きよまさいたという。
  • 朝鮮ちょうせん配下はいかよう家臣かしんはしごなな太夫たゆうのこと)を派遣はけんして清正きよまさぐん上陸じょうりく時期じき密告みっこくし、清正きよまさるようはたらきかけた。朝鮮ちょうせん舜臣しゅんしん攻撃こうげきめいじたが、わなだとおも攻撃こうげき躊躇ためらったために陰謀いんぼう失敗しっぱいした(やなぎしげるりゅう懲毖ろく[注釈ちゅうしゃく 8])。
  • 文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきつうじて、清正きよまさ作戦さくせん講和こうわ方針ほうしんをめぐって対立たいりつするなど、のち武断ぶだん対立たいりつする一因いちいんした。一方いっぽうで、朝鮮ちょうせんにおける行長ゆきなが清正きよまさ対立たいりつ深刻しんこくするのは、天正てんしょう20ねん(1592ねん)5がつかんじょう占領せんりょうけて策定さくていされた八道はちどうこくわりによって行長ゆきなが清正きよまさたいしてべつ方針ほうしんしめされたのちであり、それ以前いぜん日本にっぽん国内外こくないがいにおける行長ゆきなが清正きよまさ対立たいりつかんする逸話いつわおおくは後世こうせい創作そうさくであるとするせつもある[12]

家族かぞく子孫しそん

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  • 祖父そふ小西こにし行正ゆきまさ
  • ちち小西こにしたかし
  • 養父ようふ阿部あべ善定ぜんじょ手代てだいであった源六げんろくのち岡山おかやま下之したのまち呉服ごふくしょうをしていた魚屋さかなや九郎くろうみぎ衛門えもん[4]
  • ははワクサ - 熱心ねっしんなキリシタンで洗礼せんれいめいはマグダレーナ。秀吉ひでよし正室せいしつ寧々ねねつかえたといわれるがしょう
  • 正室せいしつきくひめ - おっと同様どうよう熱心ねっしんなキリシタンでれいめいはジュスタ(宇喜多うきた資料しりょうより)。
  • 側室そくしつ立野たての殿どの - のち島津しまつ忠清ただきよしつれいめいカタリナ。
  • まごマンショ小西こにし - 宗義しゅうぎさとしみょうあい江戸えど時代じだい最後さいご日本人にっぽんじん司祭しさい殉教じゅんきょう)。
  • まご小川おがわ宗春むねはる - しょう西宇にしうみぎ衛門えもん江戸えど医師いし

このほか天草あまくさ四郎しろう行長ゆきなが次男じなんというせつもあるが、詳細しょうさい不明ふめいである。

  • あに
    • 小西こにし如清 - さかい代官だいかんれいめいベント。
    • 小西こにししゅ殿しんがりかい - 生年せいねん不明ふめいおとうとともされる。不明ふめいで、しゅ殿しんがりかい官途かんとおも殿どのすけともする)。れいめいペドロ。
  • おとうと
    • 小西こにしこうけい - 宇土うど城代じょうだい知行ちぎょう5せんせき子孫しそんあり。れいめいジョアン。
    • 小西こにしあずか七郎しちろう - 知行ちぎょう2せんせきぶんろく3ねん(1594ねん)5月明げつめい講和こうわ使節しせつ沈惟けい来日らいにちしたさいとう便びん萬事ばんじようしょとううけたまわり、あい調しらべさる奉行ぶぎょう」として小西こにし家中かちゅうから結城ゆうき弥平やへいとともにえらばれた。慶長けいちょうやくさい朝鮮ちょうせんにおいてにちりょう珪のまご・アゴスト、行長ゆきなが従兄弟いとこ・アントニオととも討死うちじにした。れいめいルイス。べつせつにジアンとも。
  • いもうと
  • 一門いちもん
    • 小西こにしおさむみぎ衛門えもん - 行長ゆきなが叔父おじりゅうたすく兄弟きょうだい
    • 小西こにしアントニオ - 一門いちもんしゅ行長ゆきなが従兄弟いとこ
    • 小西こにし弥左衛門やざえもん - にちりょう小西こにし行重ゆきしげむすめれいめいアガタ)のあい行長ゆきながむすめ婿むこ寛永かんえい4ねん(1627ねん)、マカオに追放ついほうされ、同年どうねん同地どうち死去しきょれいめいレオン。
  • 子孫しそん

家臣かしん

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  • 家老がろう
  • 城代しろだい
    • にちりょう - 天文てんもん23ねん(1554ねん)- ?。通称つうしょうへいみぎ衛門えもん志岐しき城代じょうだいさかいにちりょう珪と奈良屋ならやむねむすめれいめいイネス)のあい天草てんぐさ統治とうちまかされ、同地どうちでイエズスかい活動かつどうたいして保護ほごくわえた。 れいめいヴィセンテ。
    • 結城ゆうき弥平やへい - あいふじてらじょう城代じょうだいのち有馬ありま晴信はるのぶつかえる。れいめいジョルジュ。
    • 太田おおた市兵衛いちべえ - あいふじてらじょう城代じょうだい
    • 伊藤いとう与左衛門よざえもん - 木山きやま城代じょうだい関ヶ原せきがはらのとき開城かいじょう切腹せっぷく四郎しろう兵衛ひょうえ加藤かとうつかえた。
    • あしづかちゅうみぎ衛門えもん - 家老がろう中老ちゅうろう)。宇土うとじょう城代じょうだい侍大将さむらいだいしょう大坂おおさかじん戦死せんし
  • その
    • 小西こにし長貞ながさだ - 若狭わかさまもる名護なご屋城やしろ普請ふしん作事さくじ奉行ぶぎょうつとめた。関ヶ原せきがはらたたかいのさい麦島むぎしまじょうから宇土うとじょうへの援軍えんぐんひきいてかう途中とちゅう加藤かとうぐん交戦こうせん敗走はいそうする。のち切腹せっぷく
    • 小西こにし清左衛門せいざえもん - 関ヶ原せきがはらたたかいに従軍じゅうぐんし、戦死せんし
    • さとし地文ちぶん大夫たいふ - 高山たかやま右近うこんつまいもうとめとる(は4にんいる)。天正てんしょう17ねん(1589ねん)11月8にち肥後ひご国人くにびと一揆いっきにて天草てんぐさ志岐しき戦死せんしれいめいパウロ。
    • 水野みずの勝成かつなり - もと徳川とくがわ家臣かしん徳川とくがわ大名だいみょう水野みずの知行ちぎょう1せんせき
    • 淡輪たんのわ重政しげまさ - 通称つうしょう六郎兵衛ろくろうべえあね豊臣とよとみ秀次しゅうじ側室そくしつ領地りょうち没収ぼっしゅうされたのち小西こにし行長ゆきながつかえる。大坂おおさかじん豊臣とよとみかたとして参戦さんせん討死うちじに
    • 南条なんじょうもとたく - 宇土うとじょう防衛ぼうえいせん奮戦ふんせん
    • 竹内たけうち吉兵衛きちべえ - 紀州きしゅうめで武功ぶこうてて秀吉ひでよしから陣羽織じんばおりたまわる。梅北うめきたらんのとき、朝鮮ちょうせん出陣しゅつじんしていた小西こにし行重ゆきしげわり麦島むぎじま城代じょうだいつとめた。宇土うとじょうたたかいでは塩田えんでんこう守備しゅび。その子孫しそん加藤かとう細川ほそかわつかえる。れいめいアンブロジオ。
    • 高松たかまつけんじゅう - 知行ちぎょう1まんせき讃岐さぬき高松たかまつ土豪どごう出自しゅつじぶんろくやく先陣せんじんつとめてこうがあり、秀吉ひでよしから感状かんじょうたまわった。
    • 阿蘇あそおもんみぜん - 阿蘇あそ大宮おおみやつかさ阿蘇あそおもんみこうおとうと肥後ひご国人くにびと一揆いっき行長ゆきながあづけられる。慶長けいちょうやく行長ゆきながしたがって出陣しゅつじんした。
    • はしごなな太夫たゆう - 朝鮮ちょうせん記録きろくではよう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいでは小西こにし行長ゆきなが命令めいれい工作こうさく活動かつどう朝鮮ちょうせんおこなう。
    • たきしげるとき - 通称つうしょうななみぎ衛門えもんぶんろくやくのとき、島津しまつたいする小西こにし行長ゆきなが取次とりつぎつとめる。
    • 皆吉みなよしぞくのう - 通称つうしょう久右衛門きゅうえもんむすめ小西こにし行長ゆきなが側室そくしつ
    • 日比ひび左近さこん - 鉄砲てっぽうあたまけん奉行ぶぎょうやく宇土うとじょう防衛ぼうえいせんでは塩田えんでんこう守備しゅび
    • 嶋津しまづ又助またすけ - 宇土うとじょう防衛ぼうえいせん奮戦ふんせん
    • 藤井ふじいろく弥太やた - 宇土うとじょうたたかいでは、籠城ろうじょうして廻江まいのえきょうまも奮戦ふんせんした。
    • 阿波あわ鳴門なるとすけ - 本名ほんみょう阿波あわ彦六。もとは竹中たけなか重治しげはる家臣かしん朝鮮ちょうせん大河たいが戦死せんし尼子あまこじゅう勇士ゆうしのひとりとも。
    • 植木うえき菖蒲しょうぶかい - 奉行ぶぎょうやく宇土うとじょう防衛ぼうえいせんでは塩田えんでんこう守備しゅび
    • 芳賀はが新五しんご - 側近そっきん侍大将さむらいだいしょう関ヶ原せきがはらたたかいに従軍じゅうぐん加藤かとう吉成よしなりとともに敗走はいそうするも宇土うどしろ包囲ほういする加藤かとう清正きよまさ軍勢ぐんぜいらえられ、降伏ごうぶく勧告かんこく使者ししゃとして宇土うとじょうつかわされた。
    • 松浦まつうら久次きゅうじ - 肥前ひぜん松浦まつうらだしという。
    • 竹田たけだ兵衛ひょうえ - 伊勢いせ出身しゅっしん。のち加藤かとう清正きよまさつかえるも、棄教を拒否きょひして殉教じゅんきょうれいめいシモン。
    • みなみ五郎左衛門ごろうざえもん - 大和やまと出身しゅっしん。のち加藤かとう清正きよまさつかえるも、棄教を拒否きょひして殉教じゅんきょうれいめいジョアン。
    • 益田ますだ好次よしつぐ - 祐筆ゆうひつ島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。れいめいペイトロ。
    • 千束ちづかよしみぎ衛門えもん - 供頭ともがしら侍大将さむらいだいしょう関ヶ原せきがはらさいしては行長ゆきながいのちけ、有馬ありま大村おおむら松浦まつうら九州きゅうしゅうしょ大名だいみょう西にしぐんへの参加さんか要請ようせいした。島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • もりはじめのき - 通称つうしょうさん左衛門さえもん朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい従軍じゅうぐん島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • 駒木根こまぎねともぼう -通称つうしょう八兵衛はちべえ鉄砲てっぽう名手めいしゅで、水野みずの勝成かつなりとも面識めんしきがあったという。島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • あしづかちゅうみぎ衛門えもん - 宇土うど城代じょうだいあしづかちゅうみぎ衛門えもん嫡男ちゃくなんのち有馬ありま晴信はるのぶつかえる。島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • あしづかちゅう太夫たゆう - 宇土うとじょう城代じょうだいあしづかちゅうみぎ衛門えもん島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • 大江おおえ源右衛門げんえもん - 島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • 山善やまぜん左衛門さえもん - 島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • 三宅みやけ次郎じろうみぎ衛門えもん - 島原しまばららん一揆いっきぜい指導しどうしゃのひとり。
    • 宇佐美うさみ勝行かつゆき - 宇佐美うさみ定満さだみつみんもと上杉うえすぎ家臣かしん上杉うえすぎはなれて佐々ささしげるせい小西こにし行長ゆきながつかえた。
    • こう醍院宗重むねしげ - こう醍院りょうにん淡路あわじもり佐々ささしげるせい小西こにし行長ゆきなが島津しまつただしつねらにつかえた。
  • 与力よりき国人くにびとしゅ天草てんぐさにんしゅほか)
    • 甲斐かいあきまさし - 肥後ひご益城ましき岩尾いわおしろおも宇土うとじょうたたかいのさい加藤かとう清正きよまさ内応ないおう益城ましきあいふじてらじょうめるも裏切うらぎられ、びた日向ひなた高橋たかはし元種もとだね家臣かしん交戦こうせん自刃じじん
    • 天草あまくさひさしゅ - 肥後ひご天草あまくさ河内かわうちうら城主じょうしゅ弾正だんじょうちゅう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい関ヶ原せきがはらたたかいに従軍じゅうぐん。のち小早川こばやかわ秀秋ひであきつかえる。れいめいジョアン。
    • 天草あまくさたねもと - 肥後ひご天草あまくさ本渡ほんど城主じょうしゅ伊豆いずまもるひさしゅ家臣かしん天草てんぐさ国人くにびと一揆いっきはいれいめいアンドレア。
    • 大矢野おおやの種基たねもと - 肥後ひご天草あまくさ大矢野おおやの城主じょうしゅみん大輔だいすけ朝鮮ちょうせん戦死せんしれいめいジャコウベ。
    • 大矢野おおやのたねりょう - 大矢野おおやの種基たねもと嫡子ちゃくし朝鮮ちょうせん戦死せんし。のちおとうとちょくじゅう加藤かとう清正きよまさ、その子孫しそん細川ほそかわつかえる。れいめいジョアン。
    • 栖本すもと鎮通 - 肥後ひご天草あまくさ栖本すもと城主じょうしゅ兵部ひょうぶ大輔だいすけれいめいバルトロメウ。
    • 栖本すもとちかしだか - 下野げやもり栖本すもと鎮通の嫡子ちゃくし天草てんぐさ国人くにびと一揆いっきののち嫡子ちゃくしつうたかしとともに行長ゆきながつかえる。れいめいジョアン。
    • 上津浦こうつうらしゅただし - 肥後ひご天草てんぐさ上津浦こうつうら城主じょうしゅ上総かずさかい子孫しそん加藤かとう細川ほそかわつかえる。れいめいホクロン。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
漫画まんが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 行長ゆきながまれたとしについては、朝鮮ちょうせん史料しりょうである『せん実録じつろく』のせんじゅうはちねんこうにある「行長ゆきなが今年ことしさんじゅうはち」という記述きじゅつ唯一ゆいいつ記録きろくである。ここからかぞどしをもとに逆算ぎゃくさんすると、行長ゆきながえいろく元年がんねん(1558ねんまれ、ということになる[1]
  2. ^ ルイス・フロイスは「羽柴はしば海軍かいぐん司令しれいかんは、まれのキリシタンで、をアゴスチニヨといひ」と書簡しょかんしるしている[3]
  3. ^ 小豆島あずしまのみでは1まんせきにはならないので、その領土りょうどがあった・1まんせきという数字すうじあやまりである、などのせつがあるが、確定かくていする史料しりょうはない。
  4. ^ のち外孫そとまごマンショ小西こにしもこの有馬ありまのセミナリオでまなんでいる。
  5. ^ はちだいルイス・フロイスが『日本にっぽん』で絶賛ぜっさんした土地とちであった。
  6. ^ 関ヶ原せきがはらたたかいにさいしては石田いしだ三成みつなりから軍勢ぐんぜいりており、加藤かとう清正きよまさ攻撃こうげきけた宇土うどじょうにもわずかな守備しゅびへいしか配置はいちできなかったように、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいという長期ちょうきにわたる外征がいせい結果けっかとして人的じんてき資源しげん蕩尽とうじんしていたことがうかがえる。
  7. ^ 直吉なおきちはやし蔵主くらぬし褒美ほうびとして黄金おうごんじゅうりょうあたえた[9]
  8. ^ 懲毖ろく自体じたい資料しりょうとしての信頼しんらいせいひくく、朝鮮ちょうせんがわ資料しりょうにしか記述きじゅつため真偽しんぎ不明ふめいである。

出典しゅってん

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  1. ^ とり 2010
  2. ^ クラツセ, ジアン (1925), 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 日本にっぽん西にしきょう, うえ, 太陽たいようどう書店しょてん, pp. 550-551, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971162/240 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  3. ^ 1584ねん8がつ31にちけルイス・フロイス書簡しょかんより。『イエズスかい日本にっぽん年報ねんぽううえ所収しょしゅう
  4. ^ a b 岡山おかやまだいかん 1831ぺーじ
  5. ^ a b 桑田そうでん 1989, p.45
  6. ^ a b c 桑田そうでん 1989, p.46
  7. ^ とり亮二りょうじ小西こにし行長ゆきなが発給はっきゅう文書ぶんしょ花押かおうについて」(『熊本くまもと史学しがく』89・90・91ごう、2008ねん)
  8. ^ & 桑田そうでん 1989.
  9. ^ 板坂いたさかとき覚書おぼえがき
  10. ^ a b c d 西山にしやま隆則たかのり ちょ黒田くろだ官兵衛かんべえきるヒントラボ へん『キリシタン武将ぶしょう 黒田くろだ官兵衛かんべえ―「軍師ぐんし官兵衛かんべえ実像じつぞう てんまき(ちゅうまき)』(Kindle)Amazon、107ぺーじ ASIN B00I0UMHKS
  11. ^ a b 小西こにし行長ゆきなが最期さいご
  12. ^ 中野なかのとうとうり(ぶんろくやく)における加藤かとう清正きよまさ動向どうこう」(初出しょしゅつ:『九州きゅうしゅう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きよう』56ごう(2013ねん)/山田やまだ貴司たかし 編著へんちょ『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいかん 加藤かとう清正きよまさ』(戒光さち出版しゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-86403-139-4
  13. ^ 小西こにしとくろう『したいざんまい』実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1957ねん、24、25P

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桑田くわたただしおや新編しんぺん日本にっぽん武将ぶしょう列伝れつでん 5 (東西とうざい決戦けっせんへん)』秋田あきた書店しょてん、1989ねんISBN 4253003664 
  • とり亮二りょうじ小西こにし行長ゆきなが : 「抹殺まっさつ」されたキリシタン大名だいみょう実像じつぞう : 史料しりょう戦国せんごく八木やぎ書店しょてん、2010ねんISBN 9784840620499 

研究けんきゅうしょ論文ろんぶん

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  • 宇土うと研究けんきゅう だいじゅうろくごう』(小西こにし行長ゆきなが基礎きそ資料集しりょうしゅう
  • しん宇土うと 通史つうしへんだいかん 中世ちゅうせい近世きんせい』(宇土うと編纂へんさん委員いいんかい
  • しん宇土うと 資料しりょうへんだいさんかん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい』(宇土うと編纂へんさん委員いいんかい
  • 宇土うど城跡じょうせき三ノ丸さんのまるあと-弥生やよい時代じだい前期ぜんきのVみぞ近世きんせい城郭じょうかく遺構いこう調査ちょうさ-』(1982、宇土うとじょう三ノ丸さんのまるあと発掘はっくつ調査ちょうさだん熊本くまもと勤労きんろうしゃ住宅じゅうたく生活協同組合せいかつきょうどうくみあい
  • 宇土うど城跡じょうせき城山しろやま)』宇土うと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい10しゅう(1985、宇土うと教育きょういく委員いいんかい
  • 麦島むぎしま城跡じょうせき都市とし計画けいかく道路どうろ建設けんせつともな発掘はっくつ調査ちょうさ−』八代やしろ文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい30しゅう山内やまうち淳司あつしへん八代やしろ教育きょういく委員いいんかい
  • 平成へいせい19年度ねんど秋季しゅうき特別とくべつ展覧てんらんかい 小西こにし行長ゆきなが-Don Agostinho-』(はちだい市立しりつ博物館はくぶつかん未来みらいもりミュージアム
  • 肥後ひご南部なんぶにおける小西こにしけい城郭じょうかく構造こうぞう麦島むぎじまじょう素材そざいとしてー」『肥後ひご考古こうこ学会がっかい80周年しゅうねん記念きねん大会たいかい肥後ひご考古こうこ学会がっかい山内やまうち淳司あつし 2010
  • 麦島むぎじまじょう発掘はっくつ小西こにし行長ゆきながしろる!!」『シリーズさい検証けんしょう小西こにし行長ゆきなが宇土うと教育きょういく委員いいんかい山内やまうち淳司あつし 2010

外部がいぶリンク

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