(Translated by https://www.hiragana.jp/)
山一證券 - Wikipedia コンテンツにスキップ

山一證券やまいちしょうけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ
Yamaichi Securities Co., Ltd.
かつて、山一證券やまいちしょうけん本社ほんしゃはいった茅場かやばまちタワー
東京とうきょう中央ちゅうおう新川しんかわ
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
市場いちば情報じょうほう 東証とうしょう1: 8602
略称りゃくしょう 山一やまいち
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
103-0026
東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばしかぶとまち12ばん1ごう
設立せつりつ 1897ねん明治めいじ30ねん)(創業そうぎょう
2005ねん平成へいせい17ねん)(解散かいさん
業種ぎょうしゅ 証券しょうけん商品しょうひん先物さきもの取引とりひきぎょう
金融きんゆう機関きかんコード 9522
事業じぎょう内容ないよう 証券しょうけんぎょう
代表だいひょうしゃ 野澤のざわ正平しょうへい代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
資本しほんきん 1266.07おくえん(1997ねん3がつ
主要しゅよう子会社こがいしゃ 山一やまいち信託しんたく銀行ぎんこう
山一やまいち情報じょうほうシステム
山一證券やまいちしょうけん投資とうし信託しんたく委託いたく
山一やまいち投資とうし顧問こもん
特記とっき事項じこう1997ねん平成へいせい9ねん11月24にち自主じしゅ廃業はいぎょうのデータ。
テンプレートを表示ひょうじ

山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ(やまいちしょうけん、えい: Yamaichi Securities Co., Ltd.)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん大手おおて証券しょうけん会社かいしゃ

バブルには野村證券のむらしょうけん大和證券だいわしょうけん日興證券にっこうしょうけんと、当時とうじ日本にっぽん四大しだい証券しょうけん会社かいしゃになったが、不正ふせい会計かいけい損失そんしつかくし)発覚はっかく。100周年しゅうねん1997ねん平成へいせい9ねん11月24にち自主じしゅ廃業はいぎょう発表はっぴょう、2005ねん解散かいさん

概要がいよう

[編集へんしゅう]

法人ほうじん関連かんれん業務ぎょうむつよく、「法人ほうじん山一やまいち」「ひと山一やまいち」とわれ、日本にっぽん資本しほん市場いちば発展はってん日本にっぽん経済けいざいささえるおおくの上場じょうじょう企業きぎょう成長せいちょうささえただい証券しょうけん会社かいしゃであった。現代げんだい経済けいざいささえるすうおおくの成長せいちょう企業きぎょうは、山一證券やまいちしょうけん指導しどうけ、株式かぶしき上場じょうじょうしている。

日本にっぽん近代きんだい高度こうど成長せいちょうとともに圧倒的あっとうてきシェアの引受ひきうけぬし幹事かんじ証券しょうけん会社かいしゃへと成長せいちょうし、もっとおおくの企業きぎょう上場じょうじょうさせた。しゅ幹事かんじ会社かいしゃすうは、野村証券のむらしょうけん以上いじょうかずで、戦後せんご一時期いちじきまでけのおおくをおこなう、日本にっぽん最大さいだい業績ぎょうせき証券しょうけん会社かいしゃであり、そのもいわゆる「よんだい証券しょうけん会社かいしゃ」の一翼いちよくにな日本にっぽん経済けいざい貢献こうけんした。

自主じしゅ廃業はいぎょう宣言せんげんし、1997ねん平成へいせい9ねん)11月に業務ぎょうむ停止ていし法人ほうじんとしての山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃきゅうしゃ)は2005ねん平成へいせい17ねん)に解散かいさんするまで、108年間ねんかん存続そんぞくした。 

顧客こきゃくあずかり資産しさん返還へんかんさいに、山一やまいち社債しゃさい顧客こきゃく返済へんさいされ、倒産とうさんでない自主じしゅ廃業はいぎょう理由りゆうこえおおくあった。その世界せかい金融きんゆうシステムの動揺どうようでアジア通貨つうか危機きき発生はっせいした。

2005ねん商標しょうひょうけん取得しゅとくしたもと社員しゃいんによって、山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃしんしゃ)が再興さいこうされた(法人ほうじんとしての連続れんぞくせいはない)(後述こうじゅつ)。

2019ねん現在げんざい山一證券やまいちしょうけん子会社こがいしゃ山一やまいち信託しんたく銀行ぎんこうは、オリックス銀行ぎんこうとして存続そんぞく山一證券やまいちしょうけん投資とうし信託しんたく委託いたくは、三菱みつびしUFJ信託しんたく銀行ぎんこう子会社こがいしゃとなり、三菱みつびしUFJ投信とうしんとして存続そんぞくしている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

以下いか歴代れきだい社長しゃちょう業績ぎょうせき中心ちゅうしん記述きじゅつする。

小池こいけ国三くにぞう創業そうぎょうしゃ

[編集へんしゅう]
小池こいけ国三くにぞう

山一證券やまいちしょうけんは、山梨やまなしけん出身しゅっしん小池こいけ国三くにぞう1897ねん明治めいじ31ねん東京とうきょうかぶとまちに「小池こいけ国三くにぞう商店しょうてん」を創業そうぎょう[1]し、東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ仲買人なかがいにん免許めんきょけ、證券しょうけん取引とりひきぎょう開始かいししたことからはじまる。

小池こいけは、小学校しょうがっこう卒業そつぎょう1878ねん明治めいじ11ねん)12さい甲州こうしゅう財閥ざいばつ名士めいし若尾わかお逸平いっぺいもんはい師事しじ1890ねん明治めいじ23ねん若尾わかお逸平いっぺい貴族きぞくいん議員ぎいん就任しゅうにんしたさい秘書ひしょつとめた。

山一証券やまいちしょうけんやしろあきらは、小池こいけ国三くにぞう末永すえながうやまおもいからもっと尊敬そんけいする若尾わかお逸平いっぺい家紋かもんやまいち」にめ、社名しゃめいを「山一やまいち」と命名めいめいした。

小池こいけ国三くにぞうは、日本にっぽん金融きんゆうシステムが、欧米おうべいおおきくおくれている危機ききかん若尾わかお逸平いっぺい東急とうきゅう五島ごしま慶太けいたらとともに、渋沢しぶさわ栄一えいいちひきいる「渡米とべい実業じつぎょうだん」に参加さんか渡米とべいし、ニューヨークウォうぉル街るがい視察しさつ帰国きこくは、首都しゅと東京とうきょう鉄道てつどう交通こうつうもう近代きんだいいそくに東急とうきゅうグループの五島ごしま慶太けいたはじめとする財界ざいかい協力きょうりょくして、日本にっぽん経済けいざい金融きんゆう近代きんだいつとめた。

1907ねん明治めいじ40ねん)に小池こいけ合資ごうし会社かいしゃ改組かいそし、1909ねん明治めいじ42ねん証券しょうけん会社かいしゃはじめてくにから国債こくさい販売はんばいゆるされ、1910ねん明治めいじ43ねん江之島えのしま電気でんき鉄道てつどう社債しゃさいもと引受ひきうけなど、企業きぎょう発行はっこうする社債しゃさい販売はんばい現実げんじつし、金融きんゆう近代きんだいくにからたくされる証券しょうけん会社かいしゃとしておおきく成長せいちょうした[2]

開業かいぎょう20周年しゅうねん1917ねん大正たいしょう6ねん)4がつ15にち小池こいけ合資ごうしは、山一やまいち合資ごうしとなり、1919ねん大正たいしょう8ねん)に横浜よこはま事務所じむしょを、大阪おおさか名古屋なごやひとし主要しゅよう都市としにも事務所じむしょ設置せっちした。

山一やまいち引受ひきうけし、欧米おうべいのように銀行ぎんこう以外いがい株式かぶしき社債しゃさい企業きぎょう自由じゆう資金しきん調達ちょうたつ可能かのうとなった。

小池こいけ国三くにぞうは、杉野すぎのせい山一やまいちたくし、東京とうきょうガス富士ふじ製紙せいし九州きゅうしゅう炭鉱たんこうひとし社長しゃちょうつとめる甲州こうしゅう財閥ざいばつ名士めいしとなった。

杉野すぎのせい時代じだい

[編集へんしゅう]
1930年代ねんだい山一證券やまいちしょうけん広告こうこく

1917ねん大正たいしょう6ねんねん日本銀行にっぽんぎんこう出身しゅっしん杉野すぎのせい社長しゃちょうとして、小池こいけ合資ごうし山一やまいち合資ごうし会社かいしゃとなった。

杉野すぎのせいは、くに経済けいざい発展はってんのために、海外かいがい市場いちばけない金融きんゆう市場いちば必要ひつようせいいた。

1926ねん大正たいしょう15ねん)、山一やまいち合資ごうし会社かいしゃは、山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ改組かいそした。

元々もともとはそれよりまえ検討けんとうしていたが世界せかい経済けいざい悪化あっか関東大震災かんとうだいしんさい小池こいけ国三くにぞう死去しきょにより改組かいそおそくなったとされる。

太田おおたおさむ時代じだい

[編集へんしゅう]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月、杉野すぎのせい東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょ理事りじちょう就任しゅうにん

その後任こうにんとしてえらばれた太田おおたおさむは、1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつ4にちみずからが指揮しきしたしょうふかし紡績ぼうせき新株しんかぶ投機とうきせん失敗しっぱい責任せきにん[3]山一證券やまいちしょうけん社長しゃちょう辞任じにん太田おおた後任こうにんとしてふく社長しゃちょうだった平岡ひらおかでんあきら暫定ざんていてき社長しゃちょう就任しゅうにん、12月に専務せんむ木下きのしたしげる社長しゃちょういだ。

小池こいけあつしじょ時代じだい

[編集へんしゅう]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)9がつ山一證券やまいちしょうけんと、小池こいけ国三くにぞう小池こいけ銀行ぎんこう改組かいそした小池こいけ証券しょうけんとが合併がっぺいし、あたらしい山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ発足ほっそくした。社長しゃちょうには小池こいけ国三くにぞう次男じなんで、小池こいけ証券しょうけん社長しゃちょうつとめる小池こいけあつしこれすけ就任しゅうにん

大神おおがみいち時代じだい

[編集へんしゅう]

1954ねん昭和しょうわ29ねんふく社長しゃちょうであった大神おおがみはじめ社長しゃちょう就任しゅうにん小池こいけあつしこれすけ会長かいちょうとなった。

戦後せんごしばらくはGHQ許可きょかなしに証券しょうけん取引とりひきぎょう再開さいかいができなかったが、戦前せんぜんは19店舗てんぽであった支店してんは1952ねんに47店舗てんぽまで増加ぞうかした。

大神おおがみ社長しゃちょう就任しゅうにん以降いこう業界ぎょうかいだいいち主義しゅぎかかげ、強気つよき拡大かくだい路線ろせんいた。1957ねん昭和しょうわ32ねんごろ野村證券のむらしょうけん業界ぎょうかいトップとなり[4]山一やまいち業界ぎょうかい2となった。1961ねん昭和しょうわ36ねん)に戦後せんご高度こうど経済けいざい成長せいちょう時代じだいひとつである岩戸いわと景気けいき終焉しゅうえんげ、株式かぶしき相場そうば7がつをピークにげにてんじ、この証券しょうけんきょう山一やまいち経営けいえい悪化あっか経常けいじょう損失そんしつ1963ねん昭和しょうわ38ねん)9がつで30おくえん1964ねん昭和しょうわ39ねん)9がつで54おくえん。1964ねん昭和しょうわ39ねん)11月に大神おおがみ会長かいちょうとなり、日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう出身しゅっしん日高ひだかあきらが、社長しゃちょう就任しゅうにん

支店してんすうは、1962ねんに112店舗てんぽまでびていた。

日高ひだかあきら時代じだい

[編集へんしゅう]

メインバンクの1つの日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう頭取とうどり中山なかやまもとひらたは、興銀こうぎん同期どうき入社にゅうしゃ日産化学工業にっさんかがくこうぎょう社長しゃちょうをしていた日高ひだかあきらを、再建さいけんのため山一證券やまいちしょうけん社長しゃちょうおくんだ。山一やまいち経営けいえい状態じょうたいマスメディアるところとなったが、大蔵省おおくらしょう在京ざいきょう大手おおて新聞しんぶんしゃ報道ほうどう自粛じしゅく要請ようせいして報道ほうどうされなかった。自粛じしゅく協定きょうていがい西日本にしにほん新聞しんぶんが、1965ねん昭和しょうわ40ねん)5がつ21にち朝刊ちょうかんで1めんトップ記事きじ[注釈ちゅうしゃく 1]他紙たし同日どうじつづけ夕刊ゆうかんトップで一斉いっせい追随ついずいした。22にち土曜日どようび半日はんにち営業えいぎょうであったが、山一やまいちかく支店してんあさから投信とうしん株式かぶしき債券さいけんはらもどしをもとめるきゃく殺到さっとうした[注釈ちゅうしゃく 2]

5月28にち午後ごご1130ふん大蔵おおくら大臣だいじん田中たなか角栄かくえい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい宇佐美うさみまこと記者きしゃ会見かいけんし、

  1. 証券しょうけん業界ぎょうかい必要ひつようとする資金しきん日本銀行にっぽんぎんこう制限せいげん担保たんぽ融資ゆうしする。
  2. 山一證券やまいちしょうけんについては興銀こうぎん富士ふじ三菱みつびしの3ぎょうつうじて融資ゆうし実施じっしする。
  3. 今後こんご証券しょうけん金融きんゆうについて抜本ばっぽんてき見直みなおしをおこなう。

ということを発表はっぴょうした[5][注釈ちゅうしゃく 3]。そのだい規模きぼリストラて、市況しきょう回復かいふくかぜとなり、はやくも1969ねん9がつ30にちとくとおる完済かんさい[6]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)、にちだか社長しゃちょう辞任じにんして会長かいちょうとなり、後任こうにん植谷うえたに久三きゅうぞう就任しゅうにんした。

植谷うえたに久三きゅうぞう時代じだい

[編集へんしゅう]

植谷うえたに社長しゃちょう在任ざいにんちゅうに、山一やまいちあずかり資産しさんは10ばいえるが、他社たしゃ活発かっぱつ市場いちば業績ぎょうせきげ、営業えいぎょう収入しゅうにゅうシェアは社長しゃちょう就任しゅうにんの21%から辞任じにん会長かいちょう就任しゅうにんは18.8%に低下ていかした[7]植谷うえたに1980ねん昭和しょうわ55ねん)12月に横田よこた良男よしお社長しゃちょうゆずり、みずからは会長かいちょうにおさまった。1987ねん昭和しょうわ62ねん)に相談役そうだんやく退しりぞいた。

横田よこた良男よしお時代じだい

[編集へんしゅう]
山一證券やまいちしょうけん広告こうこく左上ひだりうえ)が掲示けいじされた秋田あきたえき(1987ねん

1984ねん昭和しょうわ59ねんごろから、営業えいぎょう特金とっきん存在そんざい法人ほうじん資金しきん一任いちにん勘定かんじょうという自由じゆう売買ばいばいしていという了承りょうしょうしたあずかり、運用うんようするもので、考案こうあんしゃであった永田ながた元雄もとお常務じょうむ名前なまえって社内しゃないでは「永田ながたファンド」とばれていた。横田よこた1985ねん昭和しょうわ60ねん)9がつ営業えいぎょうじくあし法人ほうじんうつし、一任いちにん勘定かんじょう営業えいぎょう特金とっきん(「永田ながたファンド」)の獲得かくとくさい優先ゆうせんする決定けっていくだした。

1986ねん昭和しょうわ61ねん)に、三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう依頼いらいにより値上ねあがり確実かくじつ転換てんかん社債しゃさい総会そうかい頒布はんぷする三菱重工みつびしじゅうこう転換てんかん社債しゃさい事件じけん発生はっせいした。この頒布はんぷさきリストを投資とうし情報じょうほうらしと利殖りしょく』のオーナー生田いくたもり入手にゅうしゅして山一やまいち動揺どうようさせると、山一やまいち総会そうかい大御所おおごしょうえ森子もりこてつ仲裁ちゅうさい依頼いらいうえもり行平ゆきひら次雄つぐおめさせるか、成田なりたかおる社長しゃちょうにしろ、と調停ちょうていあんしめした。植谷うえたになやんだすえ行平ゆきひら取締役とりしまりやくからはずしてロンドンにある現地げんち法人ほうじん山一やまいちインターナショナルの会長かいちょうとすることで手打てうちとした。しかし、植谷うえたに自身じしんさけって経済けいざい財界ざいかい』のインタビューこたえすべての経緯けいいはなし、それが1986ねん12がつごう記事きじとなったものが、特別とくべつ捜査そうさ検事けんじであった田中たなか森一もりいちまるかたちあかるみにる。田中たなか成田なりたし、政官せいかんかいふくめた転換てんかん社債しゃさいとカネのながれについて調しらべをしようとしたが、成田なりたはその数時間すうじかんまえ首吊くびつ自殺じさつした。その田中たなか嫌気いやけがさして検察庁けんさつちょうめ、やみ人脈じんみゃくとのつながりをつよめた[8]1988ねん昭和しょうわ63ねん)9がつ行平ゆきひら社長しゃちょうについた。行平ゆきひら社長しゃちょう就任しゅうにん同時どうじ横田よこた会長かいちょう就任しゅうにんした。横田よこた1991ねん平成へいせい3ねん)に健康けんこう問題もんだいから会長かいちょう退任たいにんし、2005ねん平成へいせい17ねん)3がつくなっている。

行平ゆきひら次雄つぐお時代じだい

[編集へんしゅう]

山一證券やまいちしょうけんバブルにあたる1987ねん昭和しょうわ62ねん)から1990ねん平成へいせい2ねん)にかけて、毎年まいとし1,000おくえん以上いじょう経常けいじょう利益りえきげていた。

しかし、1987ねん10がつきたブラックマンデーと1990ねんクウェート侵攻しんこう影響えいきょう株価かぶか急落きゅうらく。にもかかわらず行平ゆきひらめの姿勢しせいくずさなかった。

バブル崩壊ほうかいけて、営業えいぎょう支店してん収入しゅうにゅう責任せきにんがく営業えいぎょう責任せきにんがく商品しょうひん引受ひきうけ責任せきにんがく達成たっせいけて自己じこ責任せきにん営業えいぎょうすすかた計画けいかく実行じっこうする「自主じしゅ営業えいぎょう」を展開てんかいした。

1989ねん平成へいせい元年がんねん)5がつからのすうかいにわたる公定歩合こうていぶあいげにより、高騰こうとうしていた株価かぶか同年どうねん12がつさい高値たかね最後さいご暴落ぼうらくかさねるようになった。11月に大和證券だいわしょうけん皮切かわきりに、優良ゆうりょう顧客こきゃくたいして証券しょうけん会社かいしゃが、下落げらくした株券かぶけん損失そんしつ補填ほてんをしていたことが発覚はっかくした。バブル崩壊ほうかいにより、「永田ながたファンド」である営業えいぎょう特金とっきん多額たがく損失そんしつかかえることとなったが、行平ゆきひら根本こんぽんてき処理しょりをすることなく、損失そんしつ先送さきおくりをつづけた。

収入しゅうにゅうがっていたにもかかわらず、1989ねんから1991ねんにかけて毎年まいとし1500にん程度ていど社員しゃいん採用さいようおこなっており、これにより固定こていかさんでいった。

1992ねん3がつは1964ねん以来いらい赤字あかじとなった。

1992ねん平成へいせい4ねん)6がつ行平ゆきひら健康けんこう問題もんだい理由りゆうに、三木みき淳夫あつお社長しゃちょうゆずった。

三木みき淳夫あつお時代じだい

[編集へんしゅう]

1993ねん3がつに2連続れんぞくとなる赤字あかじ記録きろくかりに1994ねん3がつ赤字あかじであれば3連続れんぞく赤字あかじとなり、転換てんかん社債しゃさい償還しょうかん必要ひつようとなるため黒字くろじ必須ひっすであった。黒字くろじ実現じつげんのために顧客こきゃくおこ運動うんどうおこない、なにとか1994ねん3がつ黒字くろじとなった。

1995ねん3がつ阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい影響えいきょうで506おくえん赤字あかじ記録きろく、シェアも当時とうじの「よんだい証券しょうけん会社かいしゃちゅう最下位さいかいとなった。

1992ねん平成へいせい4ねん)に三木みき社長しゃちょう就任しゅうにんしたのちも、事実じじつじょう決裁けっさい権限けんげんすべ会長かいちょう行平ゆきひらにぎっており[9]山一證券やまいちしょうけん簿がい債務さいむ処理しょりすることはなかった。簿がい債務さいむ日本にっぽんで1,583おくえん世界せかいで1,065おくえんあった。日本にっぽんぶんばすために、クレディ・スイス信託しんたく銀行ぎんこう特定とくてい金銭信託きんせんしんたく口座こうざ開設かいせつし、2000おくえんぶん日本にっぽん国債こくさい購入こうにゅうさせている。山一やまいちはこれを子会社こがいしゃのペーパーカンパニーへしつつもどして、これらの子会社こがいしゃ損失そんしつ補填ほてんよう資金しきんながした。世界せかいぶん外国がいこく債券さいけん損失そんしつ補填ほてんしたふくそんであり、その外債がいさい山一やまいちオーストラリアへ、もど約束やくそく売却ばいきゃくしたものである[10]。1997ねん平成へいせい9ねん)3がつ25にち野村證券のむらしょうけんたいして、東京とうきょう地方ちほう検察庁けんさつちょう証券しょうけん取引とりひきとう監視かんし委員いいんかい家宅かたく捜索そうさくはいった。容疑ようぎ総会そうかい小池こいけ隆一りゅういちへの利益りえき供与きょうよ小池こいけ隆一りゅういち事件じけん)であった。4月17にち週刊しゅうかん東洋とうよう経済けいざい(1997ねん4がつ26にち・5月3にち合併がっぺいごう)が『山一證券やまいちしょうけんおそ重大じゅうだい疑惑ぎわく真相しんそう』という、山一證券やまいちしょうけん優良ゆうりょう顧客こきゃくへの損失そんしつ補填ほてん簿がい債務さいむかかえている「追及ついきゅうだい1だん記事きじ」を掲載けいさいした。

4がつ28にち発表はっぴょうされた山一やまいちの1997ねん3がつ決算けっさんは、1,647おく6,300まんえんという過去かこ最大さいだい当期とうき損失そんしつとなった。山一やまいちはこの危機ききメリルリンチとの提携ていけいろうとする。6月21にち東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ週刊しゅうかん東洋とうよう経済けいざい6がつ28にちごうが、続報ぞくほう詳細しょうさい調しらべた「追及ついきゅうだい2だん記事きじ」を掲載けいさいした。この記事きじにより、金融きんゆう機関きかん動揺どうようひろがる。総会そうかい利益りえき供与きょうよ問題もんだい責任せきにんって、8がつ11にち行平ゆきひら三木みきはじめとする取締役とりしまりやく11にん退任たいにんした。後任こうにんとして社長しゃちょう野澤のざわ正平しょうへい会長かいちょう五月女さおとめ正治しょうじりょう専務せんむ昇格しょうかくすることが発表はっぴょうされた。

野澤のざわ正平しょうへい時代じだい

[編集へんしゅう]

1997ねん平成へいせい9ねん)9がつ24にちぜん社長しゃちょう三木みき総会そうかい利益りえき供与きょうよ事件じけん逮捕たいほされた。

10月6にち常務じょうむ渡辺わたなべと、ぜんふく社長しゃちょう沓澤くつざわ龍彦たつひこ富士銀行ふじぎんこうおとずれて、「ばし」とばれる簿がい債務さいむ存在そんざいあきらかにするとともに、再建さいけん計画けいかく説明せつめいし、支援しえんもとめた。

10月23にちは、山一證券やまいちしょうけんなかあいだ決算けっさん発表はっぴょうだった。しかし、当日とうじつ東京とうきょう地方ちほう検察庁けんさつちょう特別とくべつ捜査そうさが「昭和しょうわリースたいする損失そんしつ補填ほてん容疑ようぎ」で家宅かたく捜索そうさくはいった。記者きしゃ会見かいけんは、27おくえん経常けいじょう赤字あかじ発表はっぴょう利益りえき供与きょうよ事件じけん拡大かくだい謝罪しゃざいわった。

1997ねん11月3にち三洋証券さんようしょうけん会社かいしゃ更生こうせいほう適用てきよう申請しんせいして経営けいえい破綻はたんし、よく4にちには群馬ぐんま中央ちゅうおう信用金庫しんようきんこ三洋証券さんようしょうけんけていた担保たんぽコールやく10おくえん債務さいむ不履行ふりこうデフォルト)で回収かいしゅうできなくなったため、連動れんどうする担保たんぽコール市場いちばだい混乱こんらんおちいった。これにより、北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう山一証券やまいちしょうけんのように経営けいえい悪化あっかしていた金融きんゆう機関きかん資金しきん調達ちょうたつは、ますます困難こんなんになった[11]

11月11にち富士銀行ふじぎんこうからつぎのような最終さいしゅう回答かいとうがあった。「劣後れつごローンは富士ふじからは250おくえん程度ていど限度げんどで、あとは他行たこうかられてしい」「過去かこ担保たんぽ融資ゆうししたぶんについて早急そうきゅう担保たんぽれてしい」11月14にち野澤のざわ大蔵省おおくらしょう証券しょうけん局長きょくちょう長野ながの庬士たいして、簿がい損失そんしつ存在そんざいはじめて説明せつめいした。

よく15にち大蔵省おおくらしょう証券しょうけん業務ぎょうむ課長かちょう小手川こてがわ大助だいすけは、長野ながの指示しじけて山一證券やまいちしょうけん藤橋ふじはし企画きかく室長しつちょうから説明せつめいけた。この山一證券やまいちしょうけんしゅ幹事かんじつと最後さいごまで資金しきん供給きょうきゅうおこなっていた北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう経営けいえい破綻はたんしている。

17にち週刊しゅうかん東洋とうよう経済けいざい11月22にちごう東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ)が発売はつばいされ、山一證券やまいちしょうけん損失そんしつ補填ほてん追及ついきゅうだい3だん記事きじ掲載けいさいし、山一證券やまいちしょうけん存続そんぞくあやうくする損失そんしつかかえていることを、隠蔽いんぺい方法ほうほうなどととも詳細しょうさいほうじた。

19にち野澤のざわ再度さいど大蔵省おおくらしょう証券しょうけん局長きょくちょう長野ながのたずねた。長野ながのは「感情かんじょうまじえずに淡々たんたんいます。自主じしゅ廃業はいぎょう選択せんたくしてもらいたい」と通告つうこくした。山一證券やまいちしょうけん株価かぶかは、東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ終値おわりねが65えんと、企業きぎょう存続そんぞく節目ふしめとなる100えん一気いっきみ、さい上場じょうじょう以来いらいさい安値やすねけた。

21にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく格付かくづ機関きかんムーディーズは、山一證券やまいちしょうけん社債しゃさい投機とうき適格てきかくの「Baa3」から3段階だんかい評価ひょうかげた投資とうし適格てきかくの「Ba3」に格下かくさげし、再建さいけん見込みこみがないとの判断はんだんくだした。

22にち午前ごぜん3ごろ日本経済新聞にほんけいざいしんぶんが、山一證券やまいちしょうけん自主じしゅ廃業はいぎょうほうじ、急遽きゅうきょ役員やくいんたちが招集しょうしゅうされ、午前ごぜん8から臨時りんじ取締役とりしまりやくかい開催かいさいされた。

24にち月曜日げつようびだったが、勤労感謝きんろうかんしゃ振替ふりかえ休日きゅうじつ休業きゅうぎょうだった。午前ごぜん6から臨時りんじ取締役とりしまりやくかいひらかれ、自主じしゅ廃業はいぎょうけた営業えいぎょう停止ていし正式せいしき決議けつぎされた。会社かいしゃ創立そうりつから100ねんという節目ふしめとしに、山一證券やまいちしょうけん廃業はいぎょうというしゃまくじた。午前ごぜん1130ふん社長しゃちょう野澤のざわ会長かいちょう五月女さおとめ顧問こもん弁護士べんごし相澤あいざわ光江みつえ東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ記者きしゃ会見かいけんのぞんだ。記者きしゃ会見かいけんが2あいだほど経過けいかし、記者きしゃが「社員しゃいんには、どのように説明せつめいするのですか?」と質問しつもんしたところ、野澤のざわは「わたしらがわるいんであって、社員しゃいんわるくありませんから」とがり号泣ごうきゅうしながらべ、その様子ようす報道ほうどう機関きかんによって大々的だいだいてきほうじられた[12]

その

[編集へんしゅう]

自主じしゅ廃業はいぎょう発表はっぴょう顧客こきゃく保護ほご理由りゆうに、あわただしく担保たんぽ日銀にちぎんとくとおる実施じっしされた。日銀にちぎんとくとおるはピークで1ちょう2せんおくえんにのぼった。

12月13にち常務じょうむ業務ぎょうむ監理かんり本部ほんぶちょうよしみもと隆正たかまさ委員いいんちょうとなって、いまう『第三者だいさんしゃ委員いいんかい』が発足ほっそくした。1998ねん平成へいせい10ねん)3がつ26にち報告ほうこくしょ社内しゃない調査ちょうさ報告ほうこくしょ-いわゆる簿がい債務さいむ中心ちゅうしんとして-』は完成かんせいし、1998ねん4がつ16にち一般いっぱん公表こうひょうされた。

1998ねん平成へいせい10ねん)3がつ4にち行平ゆきひら三木みきもと社長しゃちょう2にんならびにもと財務ざいむ本部ほんぶちょうの3にんが、最大さいだい2,720おくえん損失そんしつかくして虚偽きょぎ有価ゆうか証券しょうけん報告ほうこくしょ作成さくせいした証券しょうけん取引とりひきほう違反いはん容疑ようぎで、東京とうきょう地方ちほう検察庁けんさつちょう特別とくべつ捜査そうさ逮捕たいほされた。行平ゆきひら三木みき粉飾ふんしょく決算けっさん容疑ようぎがあった。2000ねん平成へいせい12ねん)3がつに、東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ行平ゆきひら三木みき有罪ゆうざい判決はんけつくだされた。東京とうきょう地裁ちさい執行しっこう猶予ゆうよいた行平ゆきひら判決はんけつれたが、実刑じっけい判決はんけつだった三木みき控訴こうそし、控訴こうそしん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょでは、執行しっこう猶予ゆうよきの有罪ゆうざいとなっている。

自主じしゅ廃業はいぎょう発表はっぴょう以降いこう事務じむ処理しょりすすめたが、1998ねん平成へいせい10ねん)6がつ株主かぶぬし総会そうかいで、会社かいしゃ解散かいさん決議けつぎ必要ひつよう株主かぶぬしかず確保かくほできなかったことから、自主じしゅ廃業はいぎょう断念だんねんせざるをなくなった。そのため自己じこ破産はさん申立もうしたてをすることに方針ほうしん転換てんかんし、1999ねん平成へいせい11ねん)6がつ2にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょより破産はさん宣告せんこくけ、事実じじつじょう経営けいえい破綻はたん倒産とうさん)した。

破産はさん宣告せんこく手続てつづきは、債権さいけんしゃおおさや、海外かいがい資産しさん整理せいり手間取てまどったために長引ながびいたが、最終さいしゅうてきに2005ねん平成へいせい17ねん)1がつ26にち債権さいけんしゃ集会しゅうかいをもって終了しゅうりょうした。同年どうねん2がつ破産はさん手続てつづき終結しゅうけつ登記とうきおこなわれ、名実めいじつどもに「山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ」はこのからえた。小池こいけ国三くにぞうによる創業そうぎょうから107ねんあまりが経過けいかしての終焉しゅうえんであった。日銀にちぎんとくとおるのうち、1,111おくえん回収かいしゅう不能ふのうがく確定かくていし、日本銀行にっぽんぎんこう損失そんしつこうむった。

山一やまいちもと株主かぶぬし中央ちゅうおう青山あおやま監査かんさ法人ほうじん当時とうじ中央ちゅうおう監査かんさ法人ほうじん)に損害そんがい賠償ばいしょうもとめた訴訟そしょう判決はんけつで、大阪おおさか地方裁判所ちほうさいばんしょ本多ほんだ俊雄としお裁判さいばんちょう)は、「監査かんさ法人ほうじん通常つうじょう実施じっしすべき手続てつづきで監査かんさしており過失かしつはなかった」として賠償ばいしょう請求せいきゅう棄却ききゃくした[13]

社員しゃいんおよび子会社こがいしゃ

[編集へんしゅう]

山一やまいち本社ほんしゃ所属しょぞく従業じゅうぎょういん店舗てんぽだい多数たすうは、米国べいこく大手おおて金融きんゆうぎょうメリルリンチ設立せつりつした「メリルリンチ日本にっぽん証券しょうけん」に転職てんしょく譲渡じょうとされた。その同社どうしゃのリテール部門ぶもん三菱みつびし東京とうきょうUFJフィナンシャル・グループとの合弁ごうべん会社かいしゃである「三菱みつびしUFJメリルリンチPB証券しょうけん」に移管いかんされたのち三菱みつびし東京とうきょうUFJとメリルリンチの合弁ごうべん解消かいしょうともない、2014ねん三菱みつびしUFJモルガン・スタンレーPB証券しょうけんとなり、2020ねん4がつ1にち三菱みつびしUFJモルガン・スタンレー証券しょうけんとの吸収きゅうしゅう合併がっぺい消滅しょうめつした。

最後さいご社長しゃちょうであった野澤のざわは、IT業界ぎょうかいとうじたのちふたた証券しょうけん業界ぎょうかい復帰ふっきセンチュリー証券しょうけん現在げんざい日産にっさん証券しょうけん)の代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにんした(2009ねん退任たいにん)。

子会社こがいしゃのそのについては以下いかとおりである。

太平洋証券たいへいようしょうけん
ユニバゆにばサル証券さるしょうけんなどに合併がっぺいされ「つばさ証券しょうけん」(げん三菱みつびしUFJ証券しょうけんホールディングス)に改称かいしょう
山一證券やまいちしょうけん投資とうし信託しんたく委託いたく
三和銀行さんわぎんこう譲渡ゆずりわたされ「パートナーズ投信とうしん」(げん三菱みつびしUFJ投信とうしん)に改称かいしょう
山一やまいち信託しんたく銀行ぎんこう
オリックス譲渡ゆずりわたされ「オリックス信託しんたく銀行ぎんこう」(げんオリックス銀行ぎんこう)に改称かいしょう
山一やまいち投資とうし顧問こもん
フランス大手おおて金融きんゆうぎょうソシエテ・ジェネラル傘下さんかはいり「SGやまいちアセットマネジメント」に改称かいしょう。2004ねん、りそなアセットマネジメント(きゅう東京とうきょう投信とうしん→あさひ東京とうきょう投信とうしんもと東京とうきょう証券しょうけん傘下さんか)を合併がっぺいし「ソシエテジェネラルアセットマネジメント」にさい改称かいしょう。その、クレディアグリコルアセットマネジメントとソシエテジェネラルアセットマネジメントが合併がっぺいし、アムンディ・ジャパン株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめい変更へんこうもと子会社こがいしゃなかでは「山一やまいち」の名前なまえ最後さいごまでのこした。
山一やまいち情報じょうほうシステム
社員しゃいんは「日本にっぽんフィッツ(げんSCSK)」に移籍いせき
香港ほんこん山一証券やまいちしょうけん香港ほんこん法人ほうじん
台湾たいわんコアパシフィック財閥ざいばつたけしきょうそう集団しゅうだん傘下さんかはいり「コアパシフィックやまいちインターナショナル(きょう華山かざんいち国際こくさい)」に改称かいしょう同社どうしゃ日本にっぽん法人ほうじんは2003ねんス交易すこうえき子会社こがいしゃとなり「アルバース証券しょうけん」に改称かいしょう
山一証券やまいちしょうけん経済けいざい研究所けんきゅうじょ
収集しゅうしゅう管理かんりしていた資料しりょう一部いちぶは、大阪学院大学おおさかがくいんだいがく図書館としょかんうつされた。
丸万まるまん証券しょうけん
数少かずすくない証券しょうけん子会社こがいしゃうちいちしゃきゅう東海とうかい証券しょうけん東海とうかいぎん主導しゅどうにより東海とうかい財界ざいかい出資しゅっし設立せつりつ)と合併がっぺい東海丸万証券とうかいまるまんしょうけん東海とうかい東京とうきょう証券しょうけん事実じじつじょう前身ぜんしんげん東海とうかい東京とうきょうFHD)となる。
内外ないがい証券しょうけん
数少かずすくない証券しょうけん子会社こがいしゃうちいちしゃきゅうまるまん証券しょうけん合併がっぺいさせた東海丸万証券とうかいまるまんしょうけん(※前述ぜんじゅつ)へ救済きゅうさい合併がっぺい
まるひろし証券しょうけん
のちに興銀こうぎん主導しゅどうによりだいはな証券しょうけんきゅう日本生命にほんせいめいけい)と合併がっぺい丸宏大華証券まるこうだいかしょうけん(のちに日本にっぽんアジア証券しょうけん救済きゅうさい合併がっぺい)となる。
中央ちゅうおう証券しょうけん
だい株主かぶぬしであった千葉銀行ちばぎんこう傘下さんかはいり、2011ねんちばぎん証券しょうけん改称かいしょう
きょう立証りっしょうけん
H.I.S.創業そうぎょうメンバーである澤田さわだ秀雄ひでお買収ばいしゅうされエイチ・アイ・エスきょう立証りっしょうけん改称かいしょう、2007ねん会社かいしゃ分割ぶんかつ澤田さわだホールディングスとなり事業じぎょうエイチ・エス証券しょうけんげんJトラストグローバル証券しょうけん)に移管いかん

企業きぎょう同窓会どうそうかいである「やまともかい」はそのも、日本橋にほんばし茅場かやばまち事務所じむしょいていたが、ホームページは2022ねん7がつ1にちをもって予告よこく閉鎖へいさされ、取引とりひきしょまえにちしょうかんにあった事務所じむしょ退去たいきょした。

山一證券やまいちしょうけん商標しょうひょうけんは、2007ねん平成へいせい19ねん)にもと社員しゃいん申請しんせいしたが、承認しょうにんられなかった。

2011ねん平成へいせい23ねん)4がつもと社員しゃいん中心ちゅうしんに2004ねん設立せつりつされた「IBS証券しょうけん」が「IBS山一証券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ」に社名しゃめい変更へんこうして山一証券やまいちしょうけん名称めいしょう復活ふっかつした[14]。2014ねん7がつに「山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃ」(2代目だいめ)に社名しゃめい変更へんこう金融きんゆうちょうとどた。

山一證券やまいちしょうけん」の商標しょうひょうは2016ねん10がつに、特許庁とっきょちょう正式せいしき登録とうろくされた[15]名称めいしょう復活ふっかつにあたってはきゅう法人ほうじん創業そうぎょうやまともかい了承りょうしょうたという[16]

かつての提供ていきょう番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

ほか

以下いか山一やまいち投信とうしん委託いたくでクレジットされた。)

ほか

CM出演しゅつえんしたおも有名人ゆうめいじん

[編集へんしゅう]

しゃ企業きぎょう資料しりょう

[編集へんしゅう]

山一證券やまいちしょうけんは1997ねん創業そうぎょう100周年しゅうねんむかえるにあたり、伊藤いとう正直まさなおらに『山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』の編纂へんさん委嘱いしょくしていた。しかし、同社どうしゃ自主じしゅ廃業はいぎょう決定けっていともない、編纂へんさん事業じぎょう中止ちゅうしとなった。編纂へんさん事業じぎょうにおいて収集しゅうしゅうされた資料しりょうはその東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ図書館としょかん寄贈きぞうされた[17]

  • 山一證券やまいちしょうけん』1958(昭和しょうわ33)年刊ねんかん創業そうぎょう60周年しゅうねん記念きねん刊行かんこう前編ぜんぺん「わがくににおける証券しょうけん市場いちば発達はったつ」・後編こうへん山一證券やまいちしょうけん」からなる。やく1,400ぺーじ
  • 山一證券やまいちしょうけん年表ねんぴょう』1985(昭和しょうわ60)年刊ねんかん。1958(昭和しょうわ33)ねんから1984(昭和しょうわ59)ねんまで。
  • 山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』1998(平成へいせい10)年刊ねんかん編集へんしゅう山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃしゃ編纂へんさん委員いいんかい発行はっこう山一證券やまいちしょうけん株式会社かぶしきがいしゃやく466ぺーじ。「社内しゃない調査ちょうさ報告ほうこくしょ-いわゆる簿がい債務さいむ中心ちゅうしんとして-」添付てんぷ資料しりょう一部いちぶ割愛かつあいして全文ぜんぶん所収しょしゅう。もともと『山一證券やまいちしょうけんひゃくねん 普及ふきゅうばん』として編纂へんさんされたものを自主じしゅ廃業はいぎょう決定けってい出版しゅっぱんしたものであるが、非売品ひばいひんあつかいでISBNもられていない。
  • 山一證券やまいちしょうけんしゃ 作詞さくし西條さいじょう八十やそ作曲さっきょく古関こせきひろし歌唱かしょう伊藤いとう久男ひさお製作せいさく日本にほんコロムビア創業そうぎょう60周年しゅうねん記念きねん制定せいてい

映像えいぞう

[編集へんしゅう]

おも出身しゅっしんしゃ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 再建さいけんさく前面ぜんめんてた記事きじではあったが、消息筋しょうそくすじということわりののち財務ざいむ状態じょうたいいている。負債ふさい総額そうがくやく600おくえんで、銀行ぎんこうれが260おくえんとしている。富士銀行ふじぎんこう水野みずのしげる大蔵省おおくらしょう証券しょうけんきょく課長かちょう補佐ほさあきらかにした1965ねん3がつまつにおける状態じょうたいは、資本しほんきん80おくえんたいして赤字あかじが282おくえんであった。内訳うちわけは、疎開そかいかぶじつそん69おくえん持株もちかぶ評価ひょうかそん109おくえん関係かんけい会社かいしゃ格式かくしきプレミアムそん29おくえんなど。自粛じしゅく協定きょうてい参加さんかしたのは、朝日新聞あさひしんぶん読売新聞よみうりしんぶん毎日新聞まいにちしんぶん日本経済新聞にほんけいざいしんぶん産業さんぎょう経済けいざい新聞しんぶん東京とうきょう新聞しんぶん日刊にっかん工業こうぎょう新聞しんぶんの7と、NHK共同通信きょうどうつうしん時事通信じじつうしんの3きょくであり、このなか何者なにものかが西日本にしにほん新聞しんぶん協定きょうてい存在そんざいをもらしたという。 草野くさのあつし山一証券やまいちしょうけん破綻はたん危機きき管理かんり朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1998ねん P 114,132
  2. ^ このさわで28にちまでに解約かいやくされた運用うんようあずかりおよ投資とうし信託しんたく合計ごうけいは177おくえんたっした。 前掲ぜんけい山一証券やまいちしょうけん破綻はたん危機きき管理かんり』 P 154。運用うんようあずかりとは、顧客こきゃくった金融きんゆうさいわたさずに有償ゆうしょう借用しゃくよう担保たんぽもちいる行為こういをいう。
  3. ^ 日銀にちぎんとくとおるが「制限せいげん」との発表はっぴょう騒動そうどう収拾しゅうしゅうねらったものであり、出席しゅっせきしゃあいだではちがった合意ごういがなされていた。とくとおるは3ぎょう経由けいゆであり、それぞれについて80おくえんまでとめられていた。7月、これは130おくえんげられた。 前掲ぜんけい山一証券やまいちしょうけん破綻はたん危機きき管理かんり』 P 164-165

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』p.3
  2. ^ 山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』p.29
  3. ^ 山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』p.84
  4. ^ 山一証券やまいちしょうけん失敗しっぱい本質ほんしつ』p.48
  5. ^ 山一證券やまいちしょうけんひゃくねん』p.205
  6. ^ 日経新聞にっけいしんぶん 1969ねん10がつ1にち
  7. ^ ほろびの遺伝子いでんし』p.189-190
  8. ^ 会社かいしゃがなぜ消滅しょうめつしたか』p.76-78
  9. ^ 会社かいしゃがなぜ消滅しょうめつしたか』p.147
  10. ^ 山一証券やまいちしょうけん社内しゃない調査ちょうさ報告ほうこくしょだいだいしょう および 日経新聞にっけいしんぶん日本にっぽんふるえた』 1998ねん
  11. ^ 金融きんゆう機関きかん破綻はたん事例じれいかんする調査ちょうさ報告ほうこくしょ金融きんゆうちょう)P64
  12. ^ 中村なかむら宏之ひろゆき (2015ねん4がつ9にち). “あのいた…4まんごうから5まんごうの28年間ねんかん. 読売新聞よみうりしんぶん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). https://web.archive.org/web/20150410230259/http://www.yomiuri.co.jp/feature/50000gou/20150408-OYT8T50158.html 2015ねん9がつ12にち閲覧えつらん 
  13. ^ 監査かんさ法人ほうじん過失かしつみとめず きゅうやまいち粉飾ふんしょく決算けっさん請求せいきゅう棄却ききゃく”. 共同通信きょうどうつうしん (2006ねん3がつ20日はつか). 2011ねん11月9にち閲覧えつらん
  14. ^ 山一やまいち復活ふっかつ往年おうねんのブランドぐOBたち - 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2011ねん6がつ12にち
  15. ^ 特許庁とっきょちょう特許とっきょ情報じょうほうプラットフォームで「山一證券やまいちしょうけん」を検索けんさくした結果けっかによる(2016ねん11月18にち閲覧えつらん
  16. ^ 山一証券やまいちしょうけん自主じしゅ廃業はいぎょう20ねん】「二度にど山一やまいちもんをくぐるな」とわれたあの “しん山一証券やまいちしょうけん、M&A助言じょげんで「法人ほうじん山一やまいち復活ふっかつ目指めざ - SankeiBiz、2017ねん11月23にち、2142ふん配信はいしん
  17. ^ (東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ資料しりょうしつ 2007, p. 2)
  18. ^ 連続れんぞくドラマW しんがり~山一證券やまいちしょうけん 最後さいご聖戦せいせんWOWOW INC.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 佐々木ささき信二しんじ山一證券やまいちしょうけん 突然とつぜん真相しんそう』(出窓でまどしゃ、1997ねんISBN 4931178138
  • 草野くさのあつし山一証券やまいちしょうけん破綻はたん危機きき管理かんり 1965ねんと1997ねん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねんISBN 4022597054
  • 北澤きたざわ千秋ちあきだれ会社かいしゃつぶしたか』(日経にっけいBP、1999ねんISBN 4822241416
  • 読売新聞よみうりしんぶん社会しゃかいへん会社かいしゃがなぜ消滅しょうめつしたか 山一証券やまいちしょうけん役員やくいんたちの背信はいしん』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、2001ねんISBN 4101348324
  • 河原かわはらひさ山一証券やまいちしょうけん 失敗しっぱい本質ほんしつ』(PHP研究所けんきゅうじょ、2002ねんISBN 4569625304) - もと山一證券やまいちしょうけん常務じょうむ取締役とりしまりやく(1984ねん退任たいにん)による崩壊ほうかいまでの分析ぶんせき
  • 鈴木すずきたかしほろびの遺伝子いでんし 山一證券やまいちしょうけん興亡こうぼうひゃくねん』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2005ねんISBN 4163671404
  • 江波戸えばと哲夫てつお会社かいしゃ葬送そうそう山一證券やまいちしょうけん 最後さいご株主かぶぬし総会そうかい』(角川かどかわ文庫ぶんこ、2006ねんISBN 4043801033
  • 大下おおした英治えいじ証券しょうけんウォーズ: 山一やまいち崩壊ほうかいとメリルの野望やぼう廣済堂こうさいどう出版しゅっぱん, 2000ねん
  • 東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ資料しりょうしつ山一證券やまいちしょうけん資料しりょう企業きぎょう資料しりょう保存ほぞん 東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ図書館としょかん所蔵しょぞう企業きぎょう資料しりょうてん東京大学とうきょうだいがく経済学部けいざいがくぶ図書館としょかん、2007ねん 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]