服部はっとり正成まさしげ

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服部はっとり 正成まさしげ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん11ねん1542ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう元年がんねん11月14にち1597ねん1がつ2にち
別名べつめい 通称つうしょう半蔵はんぞう半三はんぞう石見いわみまもる
つうめい弥太郎やたろう[1][2]
渾名あだなおに半蔵はんぞう
れいめい せんしょういん殿どのやすほまれ西念さいねんだい居士こじ
墓所はかしょ 西念寺さいねんじ (新宿しんじゅく)
官位かんい 石見いわみまもる
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 服部はっとり
父母ちちはは ちち服部はっとりちょう(正種まさたね[3][4]まもり[1][2]はん三郎さぶろう[5])
兄弟きょうだい 女子じょし(高山たかやま飛騨ひだもりしつ)[注釈ちゅうしゃく 1][1][2]
もと(つぎみぎ衛門えもん)[注釈ちゅうしゃく 2][1][2]
女子じょし(上島うえしま左近さこんしげしつ)[1][2][6])
女子じょし(松本まつもと大学だいがくちゅうしげるしつ[注釈ちゅうしゃく 3][1][2])
しゅん(市平いちへい)[注釈ちゅうしゃく 4][1][2][7]
保正やすまさ[注釈ちゅうしゃく 5][1][2][7]
かんじゅうろう[注釈ちゅうしゃく 6][1][2][7]
久太夫きゅうだゆう(久左衛門きゅうざえもん)[注釈ちゅうしゃく 7][1][2][7]
正成まさしげ(弥太郎やたろう)
せいこく(はんすけ)[注釈ちゅうしゃく 8][1][7]
女子じょし(中根なかねただしじゅう(正清しょうせい)しつ[1][2][7][9])
女子じょし(金田かねだしょうすけしつ[1][2][7][3])
つま 長坂ながさか信政のぶまさ女子じょし[10]
せい(みなもと左衛門さえもん)
せいじゅう(長吉ちょうきち)
正廣まさひろ(ごう八郎はちろう/出家しゅっけ)
服部はっとり康成やすなり(長門ながとまもる)[注釈ちゅうしゃく 9]
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服部はっとり 正成まさしげ(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての三河みかわ武将ぶしょう通称つうしょう半蔵はんぞう(はんぞう)で、服部はっとり半蔵はんぞうでよくられている。

松平まつだいら徳川とくがわ)の譜代ふだい家臣かしん徳川とくがわじゅうろくかみすすむおに半蔵はんぞう異名いみょうる(なお、おなじゅうろくかみしょうに「やり半蔵はんぞう」とばれた渡辺わたなべまもるつながいる)。実戦じっせんでは、家康いえやすよりあづけられた伊賀いがしゅう(伊賀いがどう心組こころぐみ)と甲賀こうがしゅう指揮しきしていた。

ちちちょう伊賀いがこく土豪どごうで、北部ほくぶりょうする千賀せんが一門いちもんちょうであった。当時とうじ伊賀いがには服部はっとりぞくの「千賀せんが」「ひゃく」「藤林ふじばやし」のさんいえがあったが、せま土地とちにおいて生活せいかつ逼迫ひっぱくしたため、ちょう旧姓きゅうせい服部はっとりふくして上洛じょうらく室町むろまち幕府ばくふ12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるつかえることとなる。そのとき松平まつだいら清康きよやす三河そうごこく平定へいてい将軍しょうぐん謁見えっけんするべく上洛じょうらくしたり、ちょう面会めんかいしておおいにり、そのえん松平まつだいらつかえることになったという。

伊賀いがこく予野よの千賀せんが正成まさしげ一族いちぞくとするのはあやまりで、おもねはいぐん荒木あらき服部はっとり半三はんぞう正種まさたねとするのがただしいとするせつがある[3][4]。また、ちょうふく部民ぶみんまもり」であるとしるし、を「石見いわみまもる半蔵はんぞう正種まさたねきよし入道にゅうどうちょう法名ほうみょうどう」とする史料しりょう存在そんざいする[1][2]千賀せんがじょう伝承でんしょうにおいては、上記じょうきとはぎゃく将軍しょうぐんつかえていたちょう伊賀いがもどり、千賀せんが名乗なのったとされ、そのである正成まさしげ徳川とくがわ家康いえやす接点せってんい。三河そうごうつったのちちょう記録きろくすくなく墓所はかしょなどは現在げんざい判明はんめいしていないが、大樹寺たいきでらえんがあったとされ、どうてら過去かこちょうには息子むすこである久太夫きゅうだゆうがみられるとともに、家伝かでん[10]においても正成まさしげ幼少ようしょう大樹寺だいじゅうじらしたとしるされている。 正成まさしげちち跡目あとめとして服部はっとり家督かとくぎ、徳川とくがわ家康いえやすつかえて遠江とおとうみ掛川かけがわしろ攻略こうりゃく姉川あねがわたたか三方みかたばらたたかなどで戦功せんこうかさねた。

一般いっぱんてきに「伊賀いが忍者にんじゃ頭領とうりょう」の印象いんしょうつよ正成まさしげであるが、かれ自身じしん徳川とくがわ旗本はたもと先手せんて武将ぶしょう一人ひとりであり、伊賀いがこく忍者にんじゃ頭領とうりょうではない。 徳川とくがわ配下はいかしょうとしてあらわしたのちはたらきも忍者にんじゃのそれとはことなり、やりからだじゅつ駆使くし一番乗いちばんのり・一番槍いちばんやりなどを重要じゅうようした武功ぶこうだいいちのものがおおい。しかし、いくつかの合戦かっせんにおいて伊賀いがしゃ甲賀こうがしゃ行動こうどうともにするほか指揮しきかんとしてしのびをはな探査たんさ工作こうさくをさせた記録きろくのこるため、正成まさしげ生涯しょうがいおおくに伊賀いが甲賀こうが出身しゅっしんしゃしのびのものたちかかわっていたであろうこと推察すいさつされる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天文てんもん11ねん1542ねん)、服部はっとりちょうなんあるいはろくおとことして三河みかわこく伊賀いがげん愛知あいちけん岡崎おかざき伊賀いがまち)にまれた[13]出生しゅっしょう伊賀いが八幡宮はちまんぐうきたとなりあかりねがいてら付近ふきんとみられる[14]築城ちくじょう時期じき不明ふめいであるが、あかりねがいてら一帯いったいには大草おおくさ松平まつへい松平まつだいらやすしやす築城ちくじょうした伊賀いがじょうがあった。また、岡崎おかざきしろ出仕しゅっしころ正成まさしげ屋敷やしき現在げんざい岡崎おかざき康生通南こうせいどおりみなみ1丁目ちょうめ付近ふきんであったといわれる[15]

天文てんもん17ねん1548ねん)、6さい正成まさしげ大樹寺たいきでらあづけられた。おさなころより筋骨きんこつたくましくちからつよ子供こどもであったという。しかし3ねん天文てんもん20ねん1551ねん)には出家しゅっけ拒否きょひ大樹寺だいじゅうじから失踪しっそうする。正成まさしげ親元おやもともどらず兄達あにたち援助えんじょらしていたが、その7年間ねんかん初陣ういじんとされる宇土うとじょうめまでの消息しょうそく不明ふめいとされる[10]

おも戦歴せんれき逸話いつわ[編集へんしゅう]

弘治こうじ3ねん1557ねん)、16さいとき三河みかわ宇土うとじょう上ノ郷かみのごうじょう)を夜襲やしゅう戦功せんこうてたさい徳川とくがわ家康いえやすからさかずきもちやり拝領はいりょうしたという[3][4][16][17][18][19]

このせんにつき、史料しりょうちゅう正成まさしげについての記述きじゅつえいろく5ねん鵜殿うどの合戦かっせん上ノ郷かみのごうじょう合戦かっせん)における甲賀こうがしゅうはたらきに酷似こくじしていることや、正成まさしげったとする城主じょうしゅ不明ふめいであることから、どのようなせんであったか詳細しょうさい判明はんめいしていない。しかし、このとき拝領はいりょうしたやりをその合戦かっせん使用しようしていることから、宇土うとじょうかかわるなんらかのせん参加さんか戦功せんこうがあったとみられる。[注釈ちゅうしゃく 10]

えいろく3ねん1560ねん)のおけ狭間はざま合戦かっせん以降いこう家康いえやす三河みかわ統一とういつ着手ちゃくしゅした時期じきには、正成まさしげ渡辺わたなべまもるつななら徳川とくがわ家臣かしんだん旗本はたもとまわりしゅ所属しょぞくしていたという[24]

えいろく6ねん1563ねん)、三河みかわ一向いっこう一揆いっきさい正成まさしげ一向いっこうそうであったが家康いえやすへの忠誠ちゅうせいちかい、一揆いっきぜい相手あいてたたかった[25]

えいろく12ねん1569ねん)の掛川かけがわしろめでは渡辺わたなべまもるつな内藤ないとう正成まさしげ本多ほんだ重次しげつぐ榊原さかきばら忠政ただまさらとともたたかっている[19][25][26][27][28]

もとかめ元年がんねん1570ねん)、姉川あねがわたたかにおいて正成まさしげ姉川あねがわつつみにおける一番槍いちばんやり功名こうみょうげた。また、偶然ぐうぜん出会であった浅井あさいへいすうじゅうにんに「自分じぶん浅井あさいかたであるからとも退却たいきゃくしよう」といつわり、機会きかいうかがっていたところ、とおりかかったおとうとはんすけから「そのてきれ」とこえをかけられてあやしまれたため、てきへい主人しゅじんすうにんたおしてはんすけくびらせた。このせん正成まさしげわか将兵しょうへい後見こうけんまかされていたという[10]

もとかめ3ねん1572ねん)、三方みかたばらたたか正成まさしげ先手せんてとして大須賀おおすがやすしだかたい配属はいぞくされ一番槍いちばんやり功名こうみょうげた。しかし徳川とくがわぐん大敗たいはいし、正成まさしげ大久保おおくぼ忠隣ただちか菅沼すがぬまじょうせいらととも家康いえやすまも浜松はままつじょう目指めざした[18]。このとき正成まさしげかおひざ負傷ふしょうしていたが、家康いえやす乗馬じょうばいついたてき格闘かくとう撃退げきたいしている。浜松はままつじょう帰還きかんしたさいには、敗戦はいせん狼狽ろうばいする味方みかた鼓舞こぶするため一人ひとりしろがいかえし、てき一騎打いっきうちのすえったくび城内じょうないもどった[10]戦功せんこうにより正成まさしげ浜松はままつじょうまるされ、家康いえやすから褒美ほうびとして平安へいあんじょう長吉ちょうきちやりふくやりおくられ[5][10][19][27]、また伊賀いがしゅ150にんあづけられた[27]

天正てんしょう2ねん1574ねん9がつ)、武田たけだ勝頼かつより遠江とおとうみ出陣しゅつじんさいには、氾濫はんらんした天竜川てんりゅうがわわたろうとした板垣いたがき信通のぶみち家臣かしんや、浜松はままつ城下じょうかにて刈田かりたおこなおうとした山県やまがたあきらけい配下はいか小菅こすが元成もとなりらへ攻撃こうげきくわえている[27][29]

天正てんしょう3ねん1575ねん)、長坂ながさかやり九郎くろう信政のぶまさむすめ正室せいしつむかえる[10]

同年どうねんなつ高天こうてん神城かみしろ開城かいじょうのち正成まさしげ大須賀おおすがやすしだか大須賀おおすがとうぐみ配属はいぞくされ、高天こうてん神城かみしろめに参加さんかする。大須賀おおすがとうぐみにははなわだんみぎ衛門えもん[注釈ちゅうしゃく 11]井上いのうえはんみぎ衛門えもん松下まつした嘉兵衛かへえ(嘉平かへい)[注釈ちゅうしゃく 12]鉄砲てっぽう名人めいじん鳥居とりい金五郎きんごろうしの名人めいじんで「だいねずみ」とばれた神谷かみやけんろく、「やり半蔵はんぞう渡辺わたなべまもるつな[注釈ちゅうしゃく 13]などがぞくしていたという。

天正てんしょう4ねん1576ねん)、長坂ながさか信政のぶまさ女子じょしとのあいだ長男ちょうなんせい出生しゅっしょうする[3][4]

天正てんしょう7ねん1579ねん)、家康いえやす嫡男ちゃくなん信康のぶやす織田おだ信長のぶながうたがわれ遠江とおのえこく二俣ふたまたしろ自刃じじんいやられたさい検使けんしにつかわされた。このとき信康のぶやす介錯かいしゃくめいじられたのは渋川しぶかわ四郎しろうみぎ衛門えもんであったが、渋川しぶかわは「三代相恩さんだいそうおんあるじくびかたなてられぬ」とそのよる出奔しゅっぽんしてしまった。そのため正成まさしげにわかかに介錯かいしゃくめいじられたが、信康のぶやすのあまりのいたわしさにくびちかね、かたなすて落涙らくるいたおふくしたため、正成まさしげわり天方あまがたとおるつな介錯かいしゃくおこなった。報告ほうこくけた家康いえやすは「さすがのおに主君しゅくんれぬか」と正成まさしげをより一層いっそう評価ひょうかしたという[30]信康のぶやす介錯かいしゃく逸話いつわについては『三河みかわ物語ものがたり[31]描写びょうしゃされており、正成まさしげ信康のぶやす側仕そばづかえだったというせつもあるが、信康のぶやすとはほとんど面識めんしきく、この逸話いつわ後世こうせい創作そうさくであるとするせつや、服部はっとり半蔵はんぞうではなく渡辺わたなべ半蔵はんぞう介錯かいしゃくしたというせつ[32]もある。近年きんねんでは信康のぶやす切腹せっぷくは、家康いえやす信康のぶやす対立たいりつ原因げんいんとするせつされている。また「三代相恩さんだいそうおんあるじくびかたな)はてられぬ」という渋川しぶかわ四郎しろうみぎ衛門えもん言葉ことばについては、正成まさしげ言葉ことばとして記載きさいされている場合ばあいおおい。

天正てんしょう8ねん1580ねん)、次男じなんせいじゅう出生しゅっしょうする。その三男さんなん正廣まさひろ出生しゅっしょう(時期じき不明ふめい)し、のちに正廣まさひろ出家しゅっけしたという[3][4]

同年どうねん高天こうてん神城かみしろめのため浜松はままつ城下じょうか駐留ちゅうりゅうする織田おだの援将、大垣おおがきうらないせんぼくぜん)の家人かじん徳川とくがわ家臣かしん家人かじん些細ささいこと衝突しょうとつする(ただし、大垣おおがきうらないせん氏家うじいえただしもと)は1571ねんもとかめ2ねん)の長島ながしま一向いっこう一揆いっき討死うちじにしており、この時期じき氏家うじいえただしあきら大垣おおがきじょうおもとなっている)。浜松はままつにいた正成まさしげたのまれて加勢かせいくわわるが、正成まさしげ報復ほうふくおそった大垣おおがき家人かじんらを服部はっとりむかった結果けっか大垣おおがき服部はっとり双方そうほう複数ふくすう死者ししゃこととなった。大垣おおがき織田おだ家臣かしんであることおも家康いえやすは、げるつもりのない正成まさしげ説得せっとくしてろうじんとし、妻子さいしともども浜松はままつからがすと、別人べつじんくびを「正成まさしげくび」に仕立したて大垣おおがきしたという[10]。この事件じけんのち伊賀いがえまでの2年間ねんかん正成まさしげ消息しょうそく不明ふめいである。

伊賀越いがごええとその[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ信長のぶながまねきで家康いえやす少数しょうすうきょうのみをれて上方かみがた旅行りょこうちゅう本能寺ほんのうじへんこるが、このときさかい滞在たいざいしていた家康いえやすいちぎょう甲賀こうが伊賀いがとおって伊勢いせからさんかわ帰還きかんした、いわゆる「伊賀越いがごえ」にさいし、先祖せんぞ出自しゅつじ伊賀いがである正成まさしげ商人しょうにん茶屋ちゃや四郎次しろうじろう清延きよのぶとともに伊賀いが甲賀こうが地元じもと土豪どごう交渉こうしょうし、かれらに警護けいごさせることでいちぎょう安全あんぜん通行つうこうさせ、伊勢いせからふね三河みかわ岡崎おかざきまで護衛ごえいした。同地どうち味方みかたとなったかれらはのちうままわり伊賀いが同心どうしん甲賀こうが同心どうしんとして徳川とくがわ幕府ばくふつかえている。 このとき正成まさしげぐりという場所ばしょにいたところされ伊勢いせ白子しらこまで同行どうこうしたという[33]正成まさしげ一揆いっきぜいたいみちをあけるよう大声おおごえびかけそのすき家康いえやすらを通行つうこうさせたが、相手あいておそってきたためうまれて応戦おうせんした。しかしるいがったさいほり転落てんらくし、うえからやりあしじゅうヶ所かしょちかかれうしなった。家臣かしん芝山しばやましょう兵衛ひょうえ家康いえやすへ「正成まさしげにした」とつたえたが、遺体いたい回収かいしゅうしようともどったところきていたため、これを介抱かいほうしながらともかえったという[10]

岡崎おかざき帰着きちゃくしたのちの6がつ15にち正成まさしげ先手せんてあたまもうけられた[3]

同年どうねんには本能寺ほんのうじへんにより甲斐かい信濃しなの武田たけだのこりょうめぐ天正てんしょうみずのえうまらん発生はっせいし、7がつ正成まさしげ家康いえやすしたが甲斐かい出陣しゅつじんする[34][35][36]

家康いえやす現在げんざいきたもりいき中心ちゅうしん布陣ふじんした相模さがみこく北条ほうじょう氏直うじなおたいして甲府盆地こうふぼんち各地かくち城砦じょうさい布陣ふじんし、正成まさしげ伊賀いがしゅうひきいて勝山かつやましろ甲府こうふ上曽根かみそねまち)や右左口うばぐちとりで金刀比羅山こんぴらやまとりで甲府こうふ右左口うばぐちまち)に配置はいちされ、甲斐かい駿河するがむす中道ちゅうどう往還おうかん監視かんしした[34]勝山かちやまじょう正成まさしげ津金つがねしゅう協力きょうりょく周辺しゅうへん守備しゅびした[35][36]

同年どうねん8がつ徳川とくがわぜい信濃しなのこく佐久さくぐん侵攻しんこうすると、正成まさしげ伊賀いがしゅうひきいて津金つがねしゅう小尾こび祐光ゆうこうらのさとしるべけ、9がつ初旬しょじゅんには佐久さくぐんこう草城そうじょう(獅子吼ししくじょう)を夜襲やしゅう落城らくじょうさせる[35][37]。9月下旬げじゅん三嶋みしま方面ほうめんへの北条ほうじょう侵攻しんこうにより三枚橋さんまいばしじょう松平まつだいらやすしおや大澤おおさわはじめ宿やどから要請ようせいけた正成まさしげ戸倉とくらしろの援将として90ほどひきいて防衛ぼうえいし、三嶋みしま刈田かりたおこなった[25][35][38]北条ほうじょうぜい戸倉とくらしろ攻撃こうげきさいは援将である本多ほんだ重次しげつぐとも防衛ぼうえいにあたり、正成まさしげ岡田おかだ元次もとつぐ韮山にらやま刈田かりたおこなった[25][35][39]。 このころ正成まさしげ韮山にらやまさえのため天神てんじんとりではいり、韮山にらやま方面ほうめんへの攻撃こうげき防衛ぼうえいにあたっている[33][35]。 9月8にちよるには、てきとりでである佐野さの小屋こや[注釈ちゅうしゃく 14]伊賀いがしゃ2にんしのれて詳細しょうさい報告ほうこくさせ[33]同月どうげつ15にち伊賀いがしゅう先鋒せんぽうとし、大雨おおあめまぎとした[40]。このこう家康いえやすは「信玄しんげん勝頼かつせだいふせいだ堅固けんごとりでをついにとした」と賞賛しょうさんしたという[33][35]

同年どうねん12がつ正成まさしげ伊賀いがしゅうこう草城そうじょう(獅子吼ししくじょう)守備しゅびにんにつく[27]

天正てんしょう11ねん8がつ正成まさしげいのちけ、伊賀いがしゃ200にんひきいて甲斐かいこく谷村たにむらしろ(山梨やまなしけん都留つる)しろばんとなり守備しゅびにあたった[25][35][36][40]

天正てんしょう12ねん3がつ小牧こまき長久手ながくてたたかでは伊勢いせ松ヶ島まつがしまじょう加勢かせい伊賀いが甲賀こうがしゃ100にん指揮しきし、鉄砲てっぽう豊臣とよとみかた撃退げきたいしている[41]正成まさしげまる守備しゅびし、筒井つついぜいふせいだ。つづ蟹江かにえしろ奪還だっかんせん正成まさしげ配下はいか伊賀いが鉄砲てっぽうしゅ松平まつだいらかんただしともひがしまる(前田まえだくち)の包囲ほういくわわり、井伊いい直政なおまさ大手おおてこう突入とつにゅうはじまるとまるはいった[10]

西念寺さいねんじ (新宿しんじゅく)にある服部はっとり半蔵はんぞう正成まさしげはか

天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ鉄砲てっぽう奉行ぶぎょうとして従軍じゅうぐんした。 正成まさしげだいぐみひゃくにん組頭くみがしらとして根来ねごろしゅ50にんひきいていたという。このとき日下部くさかべ兵衛ひょうえもん根来ねごろしゅ50にん)、成瀬なるせ吉右衛門きちえもん成瀬なるせ正成まさしげあやまり、30にん)もだいぐみひゃくにん組頭くみがしらつとめている[42]せん正成まさしげじゅうはちまちこうにて奮戦ふんせんし、くびじゅうはちきゅうげたという[39]

このさい正成まさしげもちいていた黒地くろじしろ四半しはん指物さしもの使番つかいばん旗印はたじるしにしたいと本多ほんだ正信まさのぶつうじて家康いえやすよりもとめがあったため、正成まさしげはすぐにこれをし、以後いご紺地こんじしろ矢筈やはず車紋しゃもんはたもちいた[3][4][17]以後いご徳川とくがわぐん使番つかいばんには白地しろじくろ旗印はたじるし採用さいようされ、使番つかいばんなかでも熟練じゅくれん功績こうせきおおもの使用しようゆるされた。なお、正成まさしげ四半しはん指物さしものわりにもちいたという「矢筈やはずしゃはた」の家紋かもん詳細しょうさいについては判明はんめいしておらず、一般いっぱんてき服部はっとり使用しようする「源氏車げんじぐるま矢筈やはず」や「矢筈やはずしゃ」とばれる場合ばあいのある「矢尻やじりみっ矢筈やはずとう推察すいさつされる。

小田原おだわらじんこうにより遠江とおとうみ知行ちぎょうあたえられた正成まさしげは、家康いえやす関東かんとう入国にゅうこく与力よりき30および伊賀いが同心どうしん200にん付属ふぞくされどうしんきゅうとあわせて8,000せきりょうした。自身じしん武将ぶしょうであったが、父親ちちおやであるちょう伊賀いが出身しゅっしんしのびのだしであったえんから徳川とくがわかかえられた伊賀いが同心どうしん統率とうそつする立場たちばになったという。

このころ知行ちぎょうとおしゅう布引ぬのひき山麓さんろくむら場所ばしょ不明ふめい静岡しずおかけん牧之原まきのはら布引原ぬのびきはらか)、とおしゅうイサシむら現在げんざい浜松はままつ中央ちゅうおう伊左地いさじまち)、サハマむら現在げんざい浜松はままつ中央ちゅうおう佐浜さはままち)、天正てんしょうころとおしゅう長上ちょうじょうぐん小池こうじむら現在げんざい浜松はままつ中央ちゅうおう小池こうじまち)のあたりであったといわれる[3][4]。また、慶長けいちょう元年がんねん(1597ねん)には正成まさしげ武蔵むさしこく橋戸はしどむら(東京とうきょう練馬ねりま大泉おおいずみまち)をりょうしていた記述きじゅつ地方ちほう文書ぶんしょみとめられる[43]

ぶんろく元年がんねん1592ねん)には肥前ひぜん名護なご鉄砲てっぽう奉行ぶぎょうとして従軍じゅうぐんする。徳川とくがわ陣営じんえい前田まえだ利家としいえ陣営じんえいとなり同士どうしであり、共用きょうよう水汲みずくま下人げにん足軽あしがるらのいさかいがきた。あつまったりょう陣営じんえい人数にんずうたたかいがきるすんぜんにまでふくがったため、正成まさしげ配下はいかへいめいじて火縄ひなわ点火てんかさせ、前田まえだじん鉄砲てっぽうけたという[10]。また、「正成まさしげあらそいをおさめようと肌脱はだぬまわったがおさまらず、本多ほんだ忠勝ただかつてようやく事態じたいおさまった」とするせつもある[44]。このせん正成まさしげにとって最後さいご出陣しゅつじんとなった。

慶長けいちょう元年がんねん11月14にち1597ねん1がつ2にち)に病没びょうぼつ[3][4][18][45]江戸えどこうじまち清水谷しみずたに西念寺さいねんじほうむられた。死因しいんとなった病名びょうめい現在げんざい不明ふめいである。正成まさしげたいのために横死おうししたとするせつ記載きさいする史料しりょう[46][47]もあるが、真偽しんぎさだかではない。 また、ぼっしたについて、寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか服部はっとり家伝かでん西念寺さいねんじ墓碑ぼひとはことなる慶長けいちょう元年がんねん11がつ4にちしるしている[17]

西念寺さいねんじは、正成まさしげ生前せいぜん信康のぶやす菩提ぼだいともなうために創建そうけんした浄土宗じょうどしゅうあんあんよういん後身こうしんである。あんよういん江戸えどこうじまち清水谷しみずだに現在げんざい千代田ちよだ紀尾井町きおいちょう清水谷しみずだに公園こうえん付近ふきん)にあり、正成まさしげ1593ねんぶんろく2ねん家康いえやすから300りょうあたえられ寺院じいん建立こんりゅうするよう内命ないめいけたが、西念寺さいねんじ完成かんせいたず死去しきょした。その西念寺さいねんじ江戸城えどじょう拡張かくちょう工事こうじのため1634ねん寛永かんえい11ねんごろ現在地げんざいち移転いてんしたとする。西念寺さいねんじ山号さんごうてらめいかれ法名ほうみょうちなみ、現在げんざい毎年まいとし11がつ14にちに「半蔵はんぞう」の法要ほうようおこなわれている。

伊賀いが同心どうしんとの確執かくしつ[編集へんしゅう]

伊賀いがえののちあらたに正成まさしげ指揮しきけんあづけられた「伊賀いが同心どうしん」「伊賀いがしゅう」は、伊賀越いがごええを支援しえんしたえん徳川とくがわへの仕官しかんのぞんだ伊賀いがこくさむらいとその家族かぞくであり、正成まさしげ自身じしん家臣かしんではなかった。家康いえやすかれらを同心どうしんとしてやとい、指揮しきけん伊賀いが血筋ちすじである正成まさしげあたえた。しかし同心どうしんらは「自分じぶんたち徳川とくがわやとわれたのであり服部はっとり家来けらいになったのではない」と認識にんしきしていたこと正成まさしげちちであるちょうはや時期じき伊賀いがさんかわんだこと伊賀いがにおける正成まさしげ家格かかく自分じぶんたちよりもしたであることなどを理由りゆうに、かれ指揮しきされること無念むねんおもっていたという[20][48]。のちにかれらは「伊賀いが同心どうしんひゃく人組にんぐみ」として組織そしきされ江戸城えどじょう周辺しゅうへん守備しゅびにあたったが、正成まさしげ死後しご伊賀いが同心どうしんひゃく人組にんぐみ服部はっとり半蔵はんぞうとの確執かくしつつづいた。指揮しきけんいだ正成まさしげ長男ちょうなんさん代目だいめ半蔵はんぞうであるせい改易かいえき伊賀いが同心どうしんひゃく人組にんぐみよっつまたはむっつに分割ぶんかつ解体かいたいされ、それぞれのくみにはあらたに指揮しきしゃとなる旗本はたもといてさい編成へんせいされることとなった。このときよん代目だいめ半蔵はんぞうとなったせい就のおとうとせいじゅう大久保おおくぼ長安ながやすつかえる金山かなやま同心どうしんであったため、伊賀いが同心どうしん指揮しきしゃにはならなかった。なお、かれ伊賀いが同心どうしんとはべつふるくから三河みかわ地方ちほう定住ていじゅうしていた伊賀いが出身しゅっしんしゃ服部はっとりとう多数たすうおり、かれらもまた、ちょう正成まさしげおなじく松平まつへい徳川とくがわつかえていたとみられる。

その服部はっとり[編集へんしゅう]

正成まさしげ死後しご嫡男ちゃくなんせいさん代目だいめ服部はっとり半蔵はんぞうぎ、ちち正成まさしげつづいて伊賀いが同心どうしん支配しはいやくにんについた。 そのせい就は関ヶ原せきがはら合戦かっせん前後ぜんこう鉄炮てっぽう奉行ぶぎょうとして家康いえやす警護けいご大田おおた原城はらのじょう戦時せんじ改修かいしゅう白河しらかわじょうとうくわわるが、ちちだいからつづ伊賀いが同心どうしんとの軋轢あつれき当時とうじ幕府ばくふきんじられていた夜間やかん無断むだん外出がいしゅつとうおこなったこと改易かいえきされ、伊賀いが同心どうしん支配しはい服部はっとり半蔵はんぞう返上へんじょうすることとなった。 せい就ののち佐渡さど金山かなやま同心どうしんとなっていた次男じなんせいじゅうよん代目だいめ服部はっとり半蔵はんぞういだが、せい就の改易かいえきともな伊賀いが同心どうしん支配しはいにんかれていたため、せいじゅう服部はっとり半蔵はんぞうぐのみとなった。せいじゅう佐渡さど金山かなやま同心どうしんつとめたのち長年ながねん村上むらかみはんつかえ、晩年ばんねん桑名くわなはんまねかれ上席じょうせき家老がろうつとめた。せいじゅうこうにより服部はっとり半蔵はんぞういえ幕末ばくまつまで代々だいだい家老がろうしょくつとめることとなった。

服部はっとり半蔵はんぞう屋敷やしき[編集へんしゅう]

正成まさしげ屋敷やしき御門みかどないにあったため、このもんのち半蔵はんぞう御門みかどばれるようになったという。[注釈ちゅうしゃく 15]。その正成まさしげ赤坂あかさか御門みかどうち松平まつだいら出羽守でわのかみ屋敷やしきがあったあたり)にんだ[3][49]服部はっとり屋敷やしき正確せいかく場所ばしょ現在げんざい判明はんめいしていないが、正成まさしげ晩年ばんねん屋敷やしきおよあんよういん場所ばしょについては一般いっぱんてきには現在げんざい清水谷しみずたに公園こうえん周辺しゅうへんであったと推測すいそくされている。 こうじまちまれそだった随筆ずいひつ白洲しらす正子まさこ著書ちょしょ鶴川つるかわ日記にっき」で、服部はっとり半蔵はんぞう屋敷やしき場所ばしょについて「こうじまちよん丁目ちょうめ南側みなみがわにあり、そのあたりの台地だいち半蔵はんぞうさんしょうした」としる[50]地名ちめい研究けんきゅう本間ほんま信治しんじ著書ちょしょえてゆく東京とうきょう地名ちめい」のなかで「井伊いい屋敷やしき半蔵はんぞうやまともいい、もと服部はっとり半蔵はんぞうくみ屋敷やしきがあった」としるしている[51]。これらの場所ばしょおおむ正成まさしげ屋敷やしき推定すいてい一致いっちしているが、屋敷やしき半蔵はんぞうさん詳細しょうさい場所ばしょ不明ふめいである。

半蔵門はんぞうもんからはじまる甲州こうしゅう街道かいどう甲府こうふへとつづいている。甲州こうしゅう街道かいどう沿いのこうじまち周辺しゅうへんには徳川とくがわ御三家ごさんけ親藩しんぱん屋敷やしき旗本はたもと屋敷やしきをはじめ、服部はっとり半蔵はんぞう屋敷やしき家臣かしん屋敷やしき伊賀いが同心どうしんらの屋敷やしき配置はいちされていた。さらに江戸えど時代じだい甲府こうふはん親藩しんぱん譜代ふだいおさめており、とおる3ねん1718ねん)に柳沢やなぎさわ吉里よしさと大和やまと郡山こおりやま国替くにがえになってからは天領てんりょうとなって甲府こうふじょうだいかれた。甲州こうしゅう街道かいどう浸水しんすい被害ひがいけにくい安全あんぜん尾根おねどうつくられており、江戸城えどじょう直結ちょっけつする唯一ゆいいつ街道かいどうであるととも江戸えどからの出陣しゅつじん江戸えどへのてき侵入しんにゅう阻止そしするための重要じゅうよう軍事ぐんじ街道かいどうでもあった。また、将軍家しょうぐんけ非常ひじょう事態じたいこったさい江戸えど脱出だっしゅつするための要路ようろ想定そうていされていたといわれる。現在げんざいでは半蔵門はんぞうもん江戸城えどじょう非常口ひじょうぐち裏門うらもんであるというせつ一般いっぱんてきであるが、甲州こうしゅう街道かいどう江戸城えどじょう直結ちょっけつする街道かいどうなかもっと安全あんぜん強固きょうこ守備しゅびされていることから本来ほんらい正門せいもんであったとするせつもある。服部はっとりただし改易かいえき伊賀いがぐみ江戸城えどじょうない大奥おおおく中奥なかおくひょうとう)を警護けいごし、甲賀こうがぐみ江戸城えどじょうがいもん警護けいごしていたという。

おに半蔵はんぞう」の逸話いつわ[編集へんしゅう]

  1. あるとき陣中じんちゅうにて、正成まさしげした家康いえやすが「そのほうはたらきはまことおにやりである」とひょうしたところ、渡辺わたなべ半蔵はんぞうが「わたしはたらきはいかにごらんになられたのか」とった。家康いえやすは「そのほうはたらきはやり半蔵はんぞうである」とこたえたので、正成まさしげまもりつな両人りょうにん異議いぎなく家康いえやす御前ごぜん退しりぞいたという。[3]
  2. しろめのさい正成まさしげ旗指物はたさしものてきかたより「指物さしものおに半三はんぞう」と毎度まいどばれたので、おにはんさんしょうするようになったという。[3]

正成まさしげ戦闘せんとうじゅつ[編集へんしゅう]

三河みかわ物語ものがたり」「干城かんじょうろく」「服部はっとり半三はんぞう武功ぶこう」などに、正成まさしげ戦闘せんとうじゅつ記載きさいされている。

  1. 二人ふたり人物じんぶつ同時どうじれという命令めいれいけたとき正成まさしげかれにんあいだはいってあるき、かえりざまにうしろのものり、そのまえものった。
  2. 正成まさしげつねてき襲撃しゅうげき想定そうていしており、ねむときゆかむしろいてそのうえず、すこはなれたところよこになった。
  3. 羽織はおりときは、おくれをとらずすぐにててたたかえるよう、ひもむすばなかった。
  4. てきたたかときてきおそわれたときは、まずあしさきり、かぶとまゆひさしねらうのがよいとかたった。
  5. 次男じなんせいじゅうたいし「てきたたかときかぶとまゆひさしねらい、かおくちびるまでりつけ、てきどうみ、またずねうでひざけてとせ」とかたった。

由来ゆらい武具ぶぐ[編集へんしゅう]

一部いちぶ武具ぶぐ現在げんざい比較的ひかくてき良好りょうこう状態じょうたい保存ほぞんされており、拝観はいかん可能かのうなものも存在そんざいする。しかし、その武具ぶぐ感状かんじょうのほとんどは慶長けいちょう9ねん江戸城えどじょう火災かさいによるこうじまち服部はっとり屋敷やしき類焼るいしょう長男ちょうなんせい就の改易かいえき大坂おおさかじん混乱こんらんとうによりうしなわれたとみられる。

一覧いちらん[編集へんしゅう]

  1. 足利あしかが将軍しょうぐんより拝領はいりょう具足ぐそくやり伯耆ほうきやすつなかたな正成まさしげちちである服部はっとりちょう足利あしかがつかえていたおり将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるより拝領はいりょうしたが、このうちのふたつは焼失しょうしつしたという。かたなめいは「伯耆ほうきこく大原おおはら五郎太ごろうたおっとやすつな」であった。(年月としつき所在しょざい不明ふめい)[3]
  2. あおいもんさかずき穂先ほさきななすんはちぶんもちやり三河みかわ宇土うとじょう上ノ郷かみのごうじょう)を夜襲やしゅう戦功せんこうさい家康いえやすより拝領はいりょう。(年月としつき所在しょざい不明ふめい)[3][4][17][18]
  3. 姉川あねがわ合戦かっせん一番槍いちばんやり使用しようしたもちやり所在しょざい不明ふめい、2.のやり推察すいさつされる)[3][19][52]
  4. だい長刀ちょうとう無銘むめい年月としつきおよ所在しょざい不明ふめい[3]
  5. さんぽうげん合戦かっせん戦功せんこう浜松はままつじょうまるにて家康いえやすより拝領はいりょうしたほんやりひとつであるやり東京とうきょう新宿しんじゅく四谷よつや西念寺さいねんじ (新宿しんじゅく)所蔵しょぞうやりとみられる。(無銘むめい作者さくしゃ不明ふめい[5][10][19][27][53]
  6. 平安へいあんじょう長吉ちょうきちやり三方みかたげん合戦かっせん戦功せんこう浜松はままつじょうまるにて家康いえやすより拝領はいりょうした2ほんやりひとつで、5.のやりともおくられた[5][10][19][27]正成まさしげせい就ののちよん代目だいめ服部はっとり半蔵はんぞうである服部はっとりただしじゅう所有しょゆうした。晩年ばんねん桑名くわなはん上席じょうせき家老がろうとなったせいじゅうは、藩主はんしゅである松平まつだいら定綱さだつなやり由来ゆらいかれたさい定綱さだつな息子むすこである松平まつだいらじょうりょうやり献上けんじょうした。由緒ゆいしょのあるやりであったため、定綱さだつなやりうつしをつくせいじゅうおくったという。(本歌ほんかうつしともに所在しょざい不明ふめい久松ひさまつ松平まつへいゆかりの所蔵しょぞう可能かのうせいあり)[53]
  7. 相州あいしゅう廣正ひろまさ懐剣かいけん武田たけだあいだしゃたけあんめたとき褒美ほうびとして家康いえやすよりおくられた。(年月としつき所在しょざい不明ふめい)[3][18][27]
  8. 家康いえやす御召おめし具足ぐそくおなくろ中核ちゅうかくくろあいがわぬいのべよろい御召おめしおなおどし大星おおぼしかぶとおなこしらえの采配さいはい家康いえやす奈良ならという具足ぐそく職人しょくにんにこれらをつくらせ、正成まさしげおくった。御召おめしかぶとももがたかぶとであったが、正成まさしげおくられたのはほしかぶとであった[3][18][27]采配さいはいてん目黒めぐろりの後先あとさきぎん歯形はがたぎゃくをつけたものであった。しかし、慶長けいちょう9ねん江戸城えどじょう火事かじによるこうじまち服部はっとり屋敷やしき類焼るいしょうにより具足ぐそく焼失しょうしつ現存げんそんしない。采配さいはい長男ちょうなんせい就の戦死せんし所在しょざい不明ふめいになったとも、次男じなんせいじゅう佐渡さどつとめの最中さいちゅう紛失ふんしつしたともつたえられている。(年月としつき所在しょざい不明ふめい[3][10]
  9. 直江なおえ志津しづかたな正成まさしげみずからの所有しょゆうした直江なおえ志津しづかたな本多ほんだ忠勝ただかつ家老がろうかじかつただしかじ金平きんぺい)におくったといわれ、かじつたわるかたな現存げんそんしている。(東建とうけんコーポレーション所蔵しょぞう
  10. 酒井さかい修理しゅうり大夫たいふ大谷おおやただしきよし所蔵しょぞうとされる服部はっとり半蔵はんぞうやり古今ここん要覧ようらん掲載けいさいされており、ささみのるやり絵図えずともさんしゃくななすんといふかちゅうにてさんふんけい大刀たちさんしゃくさんすんくろぬりセンダンまき金物かなものどうのメグリいちしゃくふん、(センダンきの)此所より木地きじ記載きさいされている。(年月としつき所在しょざい不明ふめい[54]
  11. 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん正成まさしげ長男ちょうなん服部はっとり半蔵はんぞうせい就」のきざんだひさしろく5ねん(1562ねんさくせき兼久かねひさ大身たいしんやり所蔵しょぞうされている。[注釈ちゅうしゃく 16]

   *東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんやり_めいしゅうせきじゅうけん久作きゅうさく_えいろくねんがつ吉日きちじつ_服部はっとり半蔵はんぞうせい

服部はっとり半蔵はんぞうやり[編集へんしゅう]

西念寺さいねんじ (新宿しんじゅく)には新宿しんじゅく登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいである「服部はっとり半蔵はんぞうやり」が奉納ほうのうされている[注釈ちゅうしゃく 17]やり現存げんそん部分ぶぶん全長ぜんちょうは258cm、おもさ7.5kgである。てらでんによれば、このやりさんぽうばら戦功せんこうにより正成まさしげ浜松はままつじょう家康いえやすより拝領はいりょうしたものとされる[55]正成まさしげあにである服部はっとりたもつしゅん(服部はっとり市平いちへいしゅん)の子孫しそんにあたる服部はっとり市郎いちろうみぎ衛門えもん保有ほゆう西念寺さいねんじ奉納ほうのうした。やり附属ふぞくする文書ぶんしょ記録きろく[52]によれば、このやり正成まさしげ姉川あねがわ一番槍いちばんやりれたさい使用しようしていたものとされ、めいは「おにきりまる」であり、別名べつめいを「ひげきりまる」「ひざきりまる」「蜘蛛くもきりまる」としるされるが詳細しょうさいさだかではない。あかりれき3ねん(1657ねん)の地震じしんにより穂先ほさきいちしゃくよんすんいちふん(42.7cm)がれたが、もとながさはよんしゃく(121cm)であり、中心ちゅうしんけないままさやきではこおさめられた状態じょうたいであった[52]。また、このやりについては桑名くわな所蔵しょぞう史料しりょうにも「得道とくどう大身たいしんやりたけしゅう四谷よつや西念寺さいねんじあいおさめ穂先ほさきれたるを同姓どうせい市平いちたいら家筋いえすじ所伝しょでんよし」としるされており[3]とおる2ねん西念寺さいねんじやり由来ゆらい書写しょしゃした服部はっとり正武まさたけ桑名くわなはんつかえた正成まさしげ子孫しそんせい就と松尾まつお家系かけいしょう服部はっとり)である。やり作者さくしゃ現在げんざい判明はんめいしていないが、そのつくりは質実しつじつ剛健ごうけん大身たいしんやりである。損傷そんしょう部位ぶい穂先ほさきれにくわえ、半面はんめんながさの半分はんぶん(やく150cm)が焼失しょうしつしている。太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう昭和しょうわ20ねん5がつ29にち空襲くうしゅう火災かさいからやりまもるため住職じゅうしょく芝生しばふ避難ひなんさせたが、あまりの火勢かせい地面じめんせっしていなかった片面かためん半分はんぶん一部いちぶ焼失しょうしつしてしまったという。また、穂先ほさきれた原因げんいんについては「地震じしんきたとき家康いえやすから拝領はいりょうしたやりまもるため正成まさしげ清水谷しみずたにげたところれてしまった」との逸話いつわともに、てらでんでは「安政あんせいだい地震じしん穂先ほさき30cmほどれた」とされている。

なお、やり附属ふぞくする文書ぶんしょ記録きろく[52]ではこのやりを「姉川あねがわ一番槍いちばんやり使用しようした」とするが、「貞享ていきょうしょじょう松平まつだいらえつちゅうもり家臣かしん服部はっとり半蔵はんぞうせい秀記ひできとうによれば姉川あねがわ合戦かっせん使用しようしたのは正成まさしげ16さい宇土うとじょう戦功せんこうにより拝領はいりょうしたやり穂先ほさきななすんはちふん(29.6cm))であるとされる[5][19]西念寺さいねんじ所蔵しょぞうやり損傷そんしょうまえ穂先ほさきよんしゃく(121cm)であったとつたわるため、穂先ほさきながさに差異さいしょうじる。姉川あねがわ一番槍いちばんやり使用しようされたやり宇土うとじょう戦功せんこう拝領はいりょうしたやりであったならば、西念寺さいねんじ所蔵しょぞうやりてらでんによるさんぽうばら戦功せんこう浜松はままつじょうまるにて家康いえやすより拝領はいりょうしたやりということになる。またこのとき拝領はいりょうしたやりは「無銘むめい作者さくしゃ不明ふめいやり平安へいあんじょう長吉ちょうきちやり」のほんであり、このうち平安へいあんじょう長吉ちょうきちやりめい不明ふめい)は正成まさしげ次男じなんである服部はっとりただしじゅう所有しょゆう晩年ばんねん桑名くわなはん仕官しかんしたさい藩主はんしゅ息子むすこである松平まつだいらじょうりょう献上けんじょうしている[53]ことから、西念寺さいねんじやりはこれと同時どうじおくられた無銘むめい作者さくしゃ不明ふめいやりであると推察すいさつされる。

登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

フィクション作品さくひんにおいてはなか架空かくう人物じんぶつの「服部はっとり半蔵はんぞう」として登場とうじょうすることがおおい。ここでは「服部はっとり正成まさしげ」として登場とうじょうするものをしるす。

映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 高山たかやま飛騨ひだもり詳細しょうさい不明ふめい高山こうざん(甲賀こうがじゅうさんいえ)の人物じんぶつあるいは鷹山ようざん飛騨ひだもり(伊賀いがとも田郷たごう山尾やまお安久やすひさ次男じなんやすみね)とどう一人物いちじんぶつであるかも不明ふめいであるが、「上島うえじま所蔵しょぞう文書ぶんしょ」の系図けいず正成まさしげちちちょうしたがえ叔母おばにあたる女子じょし甲賀こうがじゅうさんいえ高山たかやまみなもとふとし左衛門さえもんとついだとの記述きじゅつがあるため、服部はっとり甲賀こうがだか山家やまが縁戚えんせき関係かんけいしょうじている可能かのうせい存在そんざいする。
  2. ^ 千賀せんが地保じほもと伊賀上野いがうえの城代じょうだい家老がろう藤堂とうどう采女うねめ輩出はいしゅつする予野よの千賀せんが服部はっとり当主とうしゅとなる。正成まさしげちちである服部はっとりちょう兄弟きょうだいというせつもあり詳細しょうさい不明ふめい
  3. ^ 上杉うえすぎ謙信けんしん家臣かしん松本まつもと大学だいがくじょちゅうしげる。この女子じょし慶長けいちょう3ねん会津あいづうつ
  4. ^ えいろく3ねんさんかわこく高橋たかはし合戦かっせんにて24さい討死うちじに法名ほうみょう道元どうげん」。高野山こうのやまほうむられる。
  5. ^ 服部はっとり中保なかほせいとは別人べつじんもとかめ3ねんさんぽうげん合戦かっせんにて討死うちじに法号ほうごうきよしおん高野山こうのやまほうむられる。
  6. ^ 天正てんしょう12ねん尾張おわりこくにて討死うちじに
  7. ^ 天正てんしょう11ねん(1583ねん3がつ19にちぼつ法号ほうごうかおるはやしただしはる[8]関ヶ原せきがはら合戦かっせんまで家康いえやすつか不明ふめいとする記述きじゅつ存在そんざいする[1]
  8. ^ 関ヶ原せきがはら合戦かっせんでは徳川とくがわ秀忠ひでただつかえ、後年こうねんぼつ没年ぼつねん不明ふめい
  9. ^ 陸奥むつひろしぜんはん家老がろう正成まさしげの庶長子ちょうしとのせつがあるが詳細しょうさい不明ふめいである。康成やすなりは、正成まさしげ長男ちょうなんであるせい就が出生しゅっしょうする10ねんまええいろく9ねん(1566ねん)に出生しゅっしょうしたといわれる。康成やすなり徳川とくがわ織田おだつかえたのち関ヶ原せきがはら合戦かっせんさいには大垣おおがきじょうめで津軽つがる為信ためのぶ家臣かしんとなり、以降いこう津軽つがる家老がろうとしてつかえた人物じんぶつである[11]弘前ひろさきはんつかつづけた康成やすなり家系かけいには服部はっとり正成まさしげつらなるとつたえられている[12]が、服部はっとり正成まさしげがわいえ康成やすなりとの関係かんけい明記めいきした箇所かしょなどがみられないため、出自しゅつじについての詳細しょうさい不明ふめいである。しかし、康成やすなり三河みかわ出身しゅっしん伊賀いがしゃであったという記述きじゅつ服部はっとりせいであること正成まさしげからなりいちを、家康いえやすからかんいち長門ながとまもる名乗なのりをあたえられたというせつなどから、一般いっぱんてきには伊賀いが由来ゆらいとしさんかわ在住ざいじゅうした服部はっとり氏族しぞく一人ひとりであるとかんがえられている。また、康成やすなりははについては正成まさしげがわいえ名前なまえなどの記載きさいがなく不明ふめいである。正成まさしげ正室せいしつである長坂ながさか女子じょしとの婚姻こんいん時期じき正成まさしげ33さいときであることから、それ以前いぜんべつ女子じょし婚姻こんいん関係かんけいにあり庶子しょし出生しゅっしょうした可能かのうせい存在そんざいするが、服部はっとり正成まさしげおも縁戚えんせきにあたるいえ服部はっとり長坂ながさか中根なかね金田かねだとう)のいえいずれにも記録きろくのこらず詳細しょうさい判明はんめいしていない。しかし、青森あおもりけんには康成やすなりいえ系図けいずなどがのこされているため[12]今後こんご研究けんきゅうがまたれる。
  10. ^ これが正成まさしげ初陣ういじんとされるが、弘治こうじ3ねん当時とうじ家康いえやす今川いまがわ義元よしもと人質ひとじちとして駿河するがこくにおり、宇土うとじょう城主じょうしゅであった鵜殿うどの長持ながもち今川いまがわかたぞくしていたため、家康いえやすいのち正成まさしげ鵜殿うどの長持ながもちめること情勢じょうせい合致がっちしない。えいろく5ねんには家康いえやす加勢かせいである甲賀こうがしゅう280にんあまり上ノ郷かみのごうじょう夜討ようちした鵜殿うどの合戦かっせん発生はっせいし、城主じょうしゅ鵜殿うどの長持ながもちおよちょうあきら甲賀こうがしゅうたれた。しかし、この鵜殿うどの合戦かっせんについてしるした史料しりょうちゅう服部はっとり正成まさしげおよ服部はっとり半蔵はんぞうしるされていない。 えいろく3ねん1560ねん)、家康いえやす松平まつだいら元康もとやす)は近江おうみ多羅尾たらお光俊みつとし甲賀こうがじゅう一家いっか戸田とだ三郎さぶろう四郎しろう牧野まきの傳蔵でんぞうりょうつかわせ、今川いまがわへの加勢かせいとして甲賀こうがしゅ200余人よにんあつめた。甲賀こうがしゅう鳴海なるみしろおか部長ぶちょうきょうあづけられ、おけ狭間はざまたたか今川いまがわ義元よしもと討死うちじにしたのち刈谷かりやしろめにくわわっている。義元よしもとにより家康いえやす今川いまがわから独立どくりつしたが、上郷かみさと鵜殿うどの今川いまがわ家臣かしんとしてのこった。2ねんえいろく5ねん1562ねん)、家康いえやす松平まつだいらやすしおや松井まつい忠次ただつぐ)にめい上ノ郷かみのごうじょう宇土うとじょう)の鵜殿うどの長持ながもち鵜殿うどのちょうあきら親子おやこめさせる。上ノ郷かみのごうじょうめあぐねたかんちかし甲賀こうがばんじょう依頼いらいして甲賀こうがしゅ80にんまねいた。甲賀こうがしゅうしろしのはいると放火ほうか攪乱かくらんし、城主じょうしゅ鵜殿うどの長持ながもちともじょうられたという。また、「甲賀こうがいにしえ訴願そがんじょう」などによれば、家康いえやすえいろく5ねん2がつ1562ねん3がつ)に戸田とだ三郎さぶろう四郎しろう牧野まきの傳蔵でんぞう甲賀こうが鵜飼うかいまごろくともなえあずか七郎しちろうもとつかわせ、鵜飼うかいとう200にんともなえとう80にん甲賀こうがしゅうさんかわ到着とうちゃくした。同年どうねん2がつ26にち1562ねん3月30にち)(「だん」「朝野ちょうや旧聞きゅうぶん裒藁」ではえいろく5ねん2がつ4にち1562ねん3月8にち)のよる鵜飼うかいまごろくひきいる200にん甲賀こうがしゅうしろしのはいって放火ほうか城内きうち攪乱かくらんともなえあずか七郎しちろうばん太郎左衛門たろうざえもん親子おやこひきいる80にん甲賀こうがしゅう城内じょうない侵入しんにゅうし、城主じょうしゅ鵜殿うどのちょうあきらり、ちょうらえた。このたたかいでちょうあきらをはじめ鵜殿うどの一族いちぞく70にん以上いじょう甲賀こうがしゅうられ、上ノ郷かみのごうじょうとした甲賀こうがしゅう付近ふきん土呂とろちょうさき御堂みどう破壊はかいしたとされる[20][21][22][23]正成まさしげ初陣ういじんについて、今治いまばりはん家老がろうであり正成まさしげ末裔まつえい(しょう服部はっとり)の服部はっとり正弘まさひろ編纂へんさんした『今治いまばり拾遺しゅういない服部はっとり速水はやみ正宣まさのぶ[4]では正成まさしげ三河みかわ宇土うとじょう夜襲やしゅうした武功ぶこう家康いえやすからあおいもんはいやり褒美ほうびとしておくられたとしるしているが、年号ねんごう年齢ねんれいについての記述きじゅつはない[16][17][18]。また、桑名くわなはん服部はっとりいえ[3]当時とうじ宇土うど城主じょうしゅ姓名せいめいしょうとし、正成まさしげ夜討ようちのさいしのびのもの6、70にんとも城内きうちしの鯨波ときこえげると、しろちかくまでていた家康いえやすわせてこえげたという。正成まさしげ広間ひろまちかくへ松明たいまつみ、応戦おうせんした城主じょうしゅ広間ひろままえやりわせくびをとった功績こうせきにより、さかずきながななすんはちぶん秘蔵ひぞうやり拝領はいりょうし、以後いごこのやりをもってはたらいたという。また、貞享ていきょうしょじょうにおいても、正成まさしげはこのやり使つか姉川あねがわ三方みかたげん一番槍いちばんやり小坂井こざかいこう天神てんじん横須賀よこすかなどでたたかったとしるされる。これらの記述きじゅつからも、正成まさしげ弘治こうじ3ねん宇土うどしろめまたは関連かんれんする合戦かっせんなんらかの戦功せんこうげたのは事実じじつてよい。[3][4][19]。「16さい正成まさしげが6、70にん伊賀いがしゃひきいて宇土うとじょうしのり、攪乱かくらん放火ほうかして城主じょうしゅった」とう記述きじゅつは、えいろく5ねん鵜殿うどの合戦かっせんおこなわれた甲賀こうがしゅう上ノ郷かみのごうじょう夜襲やしゅう共通きょうつうする部分ぶぶんおおい。鵜殿うどの合戦かっせん正成まさしげ初陣ういじんすうねんであるため、双方そうほう合戦かっせん混同こんどうされた可能かのうせい正成まさしげ甲賀こうがしゅうとも鵜殿うどの合戦かっせんくわわった可能かのうせいしょうじる。しかし、正成まさしげ初陣ういじんについての詳細しょうさい現在げんざい判明はんめいしていないため、今後こんご研究けんきゅうがまたれる。
  11. ^ はなわ尚之なおゆき直次なおじ直之なおゆきともしょうする。小笠原おがさわらさくみぎ衛門えもんきょうだか身内みうちこう天神てんじん小笠原おがさわら一族いちぞくきょうだかとも天正てんしょう2ねん7がつこう天神西てんじんにし退すさぐみぞくして大須賀おおすが配下はいか
  12. ^ 松下まつした今川いまがわ義元よしもとつかえた遠江とおとうみ頭陀寺ずだじ城主じょうしゅ頭陀寺ずだじじょうには豊臣とよとみ秀吉ひでよしにち吉丸よしまるころ寄食きしょく織田おだ家臣かしんとなったという逸話いつわがある。
  13. ^ 天正てんしょう2ねんなつ配属はいぞく
  14. ^ 場所ばしょ不明ふめい
  15. ^ 正成まさしげ徳川とくがわ家康いえやす危難きなんすくった「伊賀越いがごええ」を采配さいはいした功績こうせきとなえ、半蔵門はんぞうもん名付なづけられたとするせつや、もんとなり正成まさしげ屋敷やしきがあったため半蔵門はんぞうもんばれるようになったとするせつもある[よう出典しゅってん]
  16. ^ 展示てんじ期間きかんがい非公開ひこうかい
  17. ^ 通常つうじょう非公開ひこうかいやり拝観はいかんよう問合といあわ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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