木村 和司
ミスターマリノス | ||||||
カタカナ | キムラ カズシ | |||||
ラテン | KIMURA Kazushi | |||||
| ||||||
1958 | ||||||
| ||||||
168cm | ||||||
64kg | ||||||
ポジション | MF / FW | |||||
| ||||||
ユース | ||||||
1974-1976 |
| |||||
1977-1980 |
| |||||
クラブ1 | ||||||
クラブ |
|
( | ||||
1981-1992 |
| 202 | (50) | |||
1992-1994 |
| 31 | (1) | |||
233 | (51) | |||||
1979-1987[1] |
| 54 | (26) | |||
2001 |
| |||||
2010-2011 |
| |||||
1. ■テンプレート(■ノート ■ |
YouTube | |
---|---|
チャンネル | |
2023 | |
ジャンル | サッカー |
1460 | |
チャンネル 2023 |
来歴
[初期 、大学 時代
[1977
日産 時代
[1991
マリノス発足 後
[1993
日本 代表
[1979
1985
1989
指導 者 時代
[2010
2012
2015
2020
人物 ・プレースタイル
[高校 や大学 、日産 加入 当初 はウインガーとしてプレーしていたが、1983年 (昭和 58年 )に同 じウイングを専門 とする水沼 貴史 の入団 をきっかけに、加茂 周 監督 によって攻撃 的 MFにコンバート。以降 、ゲームメーカーとして中盤 に君臨 し日産 黄金 時代 を築 く原動力 となった[44][45]。ラモス瑠偉らと共 に日本 サッカー冬 の時代 を支 えた選手 の一人 であり、「日産 の背番号 10といえば木村 和司 」と言 わしめ、80年代 半 ばには日産 のみならず、「日本 の10番 といえば木村 和司 」、当時 の代表 は「木村 のチーム」とまで言 わしめた程 の存在 であった[46][47][48][49][50]。1983年 (昭和 58年 )、1984年 (昭和 59年 )、二 年 連続 日本 年間 最優秀 選手 賞 (フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年 も同 賞 受賞 。三 度 の受賞 は釜本 邦茂 7度 に次 ぐ杉山 隆一 と並 ぶ史上 2位 。1984年 アシスト王 、アシスト数 12はJSL記録 。現役 時代 はフリーキックの名手 として知 られた[51]。自由自在 にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人 プレイヤーが見 せたことのないものだった[10]。その正確 なボールコントロールと鋭 い変化 から「魔術 師 」の異名 で呼 ばれ、日本 リーグ、国際 試合 で数々 の名 場面 を作 り上 げた。特 に1985年 (昭和 60年 )、ワールドカップメキシコ大会 最終 予選 のホーム韓国 戦 、試合 には敗 れワールドカップに出場 できなかったものの、40メートル手前 からみせたフリーキックは、80年代 の日本 サッカーにおける屈指 の名 シーンとして伝説 化 しており、現在 でもサッカー番組 でフリーキックが特集 される際 には、必 ずといっていいほど紹介 されている[52][53][54]。高橋 陽一 は、日本 代表 の試合 で「パッと頭 に浮 かぶのは、あの木村 和司 さんの直接 フリーキック」と述 べている[55]。出身 地 の広島 を拠点 とする中国 新聞 では「フリーキック自由自在 」というコラムを設 けていた。
フリーキックを蹴 り始 めるきっかけは、テレビでブラジル代表 のペレやリベリーノ、ジーコがFKで直接 ゴールに放 り込 むのを見 て、大学 在籍 時 に、遊 びとして練習 に励 んだ[7]。足 の甲 は蹴 り過 ぎで変型 しているという。もともと高校 時代 はウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(足 甲 の内側 )部分 を多用 する事 もあり、それがFKに生 かされた。当時 の日本 にはまだ、FKを直接 決 める事 で有名 な選手 はいなかった。1980年代 当時 、芸術 的 なフリーキックは世界 のサッカーでは目 にしても、日本 サッカーでは、フリーキックが話題 になることは、ほとんどなかった[51]。本格 的 に練習 し始 めたのは日産 に入 ってからで、チームが特注 で作 ってくれた鉄骨 を組 み合 わせたものにネットをつけた簡単 な壁 を置 いて練習 した。練習 相手 に選 んだのが新人 だった松永 成立 。最初 はヘタでどこに蹴 っても入 っていたが、練習 してるうち段々 松永 が上手 くなって、両方 がいろいろ考 え始 めて上達 していく相乗 効果 があったという。冗談 で「シゲ(松永 )はワシとしょっちゅう練習 していたから日本 代表 に入 れたんだ」とよく言 った[52][56]。
エピソード
[この |
木村 が代表 のスター選手 だった1984年 (昭和 59年 )夏 、佐山 一郎 は雑誌 『Number』からの依頼 で木村 にインタビューを申 し込 んだ。日産 の広報 の担当 者 にそれを話 すと、サッカーの専門 誌 以外 から取材 が来 たのは初 めてと驚 かれた。当時 のサッカーは『Number』ですら同 じ年 9月 20日 号 の釜本 邦茂 引退 記念 号 で初 めてサッカー特集 が成立 するというマイナー状況 だった。「大丈夫 ですか、慣 れていないから喋 んないかもしれませんよ」と言 われインタビューをすると、実際 木村 はほとんど喋 らず、答 えたあとに意味 不明 の笑 いが漏 れだすのにも驚嘆 した。しかし会 うたび喋 るのがうまくなったという[57]。明治大学 時代 の同期生 であるサッカー日本 女子 代表 監督 の佐々木 則夫 とは、同 じ寮 で過 ごした仲間 であり今 でも親交 が深 い。なでしこジャパンが初 優勝 を決 めたワールドカップ決勝 戦 の試合 も、その日 は直前 に自身 が指揮 する横浜 F・マリノスの試合 があったにも関 わらず、試合 後 にほぼ徹夜 でテレビ観戦 しており、なでしこジャパンと佐々木 にも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一 だからな。日本一 とは違 うよ。涙 も出 てきて感動 した。ただ、眠 い」と祝福 のコメントをした。[4]- 1986
年 、奥寺 康彦 と共 にスペシャル・ライセンス・プレーヤー第 1号 となるが、西 ドイツ帰 りの奥寺 の年俸 4000万 円 に対 して木村 の年俸 は1200万 円 であった。この時 は各 メディアに報 じられ世間 の関心 も高 かったが、某 運動 部 記者 が木村 に「1200万 円 では少 なすぎて夢 がない。嘘 でもいいから4000万 円 と言 ってくれないかな」というと、木村 は「嘘 はつきたくない」と拒否 。しかし記者 がしつこく押 し問答 が続 いた後 、折衷 案 として4000万 円 と1200万 円 の間 を取 る格好 で2400万 円 で落 ち着 いた。翌日 の新聞 紙上 には木村 の年俸 は「2400万 円 」と大々的 に報 じられた[58]。 木村 の夫人 は、サッカーファンが多 くはなかった1960年代 、日本 サッカーリーグ(JSL)創設 の頃 からのサッカーの追 っかけで、まだ原宿 の岸 記念 体育 会館 の小 さな一室 にあったサッカー協会 (JFA)に、全日本 (日本 代表 )の勝利 を祈 り千羽鶴 を持 ってきたり、よく遊 びに来 ていた一人 だったという[59]。- 「ラグビーは
紳士 がやる野蛮 なスポーツ、サッカーは野蛮 人 がやる紳士 的 なスポーツ」という発言 を『Number』誌上 に残 している。 - かつての
自身 のブログ「木村 和司 のちょこっと、言 うちゃろうか。」で、「60年 、70年代 はガマさんの時代 やな、80年代 はワシや。90年代 はスケールダウンしてカズ、ラモスあたりかの。2000年 はまだいないんよな。80年代 のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話 して物議 を醸 したことがある[60]。 - マリノス
監督 時 には広島 弁 を交 えたコメントが話題 となった[46][61][62]。監督 就任 時 のコメント「わしが何 とかしちゃる」のメッセージ入 りT シャツや「和 」のロゴ入 りT シャツが商品 化 されよく売 れた。また木村 がよく使 う言葉 で「相手 を翻弄 する」という意味合 いを持 つ「ちゃぶる」もグッズ化 の計画 が上 がり、Jリーグ日本人 監督 のグッズが次々 と誕生 するのは異例 の事態 であった[63]。
所属 クラブ
[- ユース
経歴
- プロ
経歴
個人 成績
[クラブ | リーグ | リーグ |
リーグ | オープン |
|||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ |
JSL |
||||||||||
1981 | 25 | JSL2 |
18 | 6 | 2 | 2 | 2 | 0 | 22 | 8 | |
1982 | 10 | JSL1 |
18 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 20 | 2 | |
1983 | 18 | 5 | 4 | 6 | 5 | 2 | 27 | 13 | |||
1984 | 17 | 8 | 0 | 0 | 4 | 2 | 21 | 10 | |||
1985 | 21 | 6 | 4 | 3 | 4 | 3 | 29 | 12 | |||
1986-87 | 20 | 2 | 5 | 1 | 4 | 1 | 29 | 4 | |||
1987-88 | 14 | 1 | 1 | 0 | 3 | 1 | 18 | 2 | |||
1988-89 | 22 | 8 | 5 | 4 | 5 | 1 | 32 | 13 | |||
1989-90 | 22 | 8 | 4 | 1 | 5 | 0 | 31 | 5 | |||
1990-91 | 10 | 3 | 4 | 2 | 4 | 2 | 18 | 7 | |||
1991-92 | 22 | 3 | 3 | 1 | 5 | 1 | 30 | 5 | |||
1992 | - | J | - | 9 | 0 | 5 | 3 | 14 | 3 | ||
1993 | 21 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 24 | 1 | |||
1994 | 10 | 0 | 3 | 0 | 4 | 1 | 17 | 1 | |||
J | 31 | 1 | 14 | 0 | 10 | 4 | 55 | 5 | |||
JSL1 |
202 | 44 | 30 | 18 | 41 | 18 | 273 | 80 | |||
JSL2 |
18 | 6 | 2 | 2 | 2 | 0 | 22 | 8 | |||
251 | 51 | 46 | 20 | 53 | 22 | 350 | 93 |
・JSL
・JSL
その
- 1990
年 (平成 2年 )- コニカカップ 6
試合 0得点
- コニカカップ 6
- 1991
年 (平成 3年 )- コニカカップ 7
試合 2得点
- コニカカップ 7
- 1992
年 (平成 4年 )- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1
試合 0得点
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1
タイトル
[日産自動車
[- MVP3
回 (1983年 、1984年 、1989年 ) 日本 サッカーリーグ優勝 2回 (1988-1989、1989-1990)- JSLカップ
優勝 3回 (1988年 、1989年 、1990年 ) 天皇杯 優勝 5回 (1983年 、1985年 、1988年 、1989年 、1991年 )- アジアカップウィナーズカップ
優勝 1回 (1991-1992) - アシスト
王 (1984年 ) - JSL
東西 対抗 戦 (オールスター戦 )最優秀 選手 賞 2回 (1982年 、1989年 )日本 リーグ1部 通算 202試合 44得点
横浜 マリノス
[天皇杯 優勝 1回 (1992年 )- アジアカップウィナーズカップ
優勝 1回 (1992-1993) 日本 年間 最優秀 選手 賞 (1983年 、1984年 、1989年 )- Jリーグ
通算 31試合 1得点
- Jリーグ
代表 歴
[出場 大会 など
[試合 数
[国際 Aマッチ 54試合 26得点 (1979-1987)[1]
その | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 3 | 0 | 9 | 0 | 12 | 0 |
1980 | 9 | 4 | 11 | 1 | 20 | 5 |
1981 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1982 | 8 | 1 | 16 | 4 | 24 | 5 |
1983 | 10 | 8 | 18 | 4 | 28 | 12 |
1984 | 7 | 4 | 5 | 2 | 12 | 6 |
1985 | 10 | 7 | 8 | 3 | 18 | 10 |
1986 | 6 | 2 | 6 | 1 | 12 | 3 |
1987 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
54 | 26 | 76 | 15 | 130 | 41 |
出場
[No. | スタジアム | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1979 |
インドネシア | ○4-0 | ジャパンカップ | |||
2. | 1979 |
ソウル | |
●1-4 | |||
3. | 1979 |
|
△0-0 | ||||
4. | 1980 |
クアラルンプール | |
●1-3 | オリンピック | ||
5. | 1980 |
クアラルンプール | フィリピン | ○10-0 | オリンピック | ||
6. | 1980 |
クアラルンプール | インドネシア | ○2-0 | オリンピック | ||
7. | 1980 |
クアラルンプール | マレーシア | △1-1 | オリンピック | ||
8. | 1980 |
クアラルンプール | ブルネイ | ○2-1 | オリンピック | ||
9. | 1980 |
シンガポール | ○1-0 | ワールドカップ | |||
10. | 1980 |
|
●0-1 | ワールドカップ | |||
11. | 1980 |
マカオ | ○3-0 | ワールドカップ | |||
12. | 1980 |
|
●0-1( |
ワールドカップ | |||
13. | 1981 |
|
●0-1 | ||||
14. | 1982 |
ソウル | |
●0-3 | |||
15. | 1982 |
シンガポール | ○2-0 | ジャパンカップ | |||
16. | 1982 |
スチャバ | ルーマニア | ●0-4 | |||
17. | 1982 |
ブカレスト | ルーマニア | ●1-3 | |||
18. | 1982 |
ニューデリー | イラン | ○1-0 | アジア | ||
19. | 1982 |
ニューデリー | |
○3-1 | アジア | ||
20. | 1982 |
ニューデリー | |
○2-1 | アジア | ||
21. | 1982 |
ニューデリー | イラク | ●0-1( |
アジア | ||
22. | 1983 |
ダマスカス | シリア | △2-2 | |||
23. | 1983 |
ドーハ | カタール | ●0-1 | |||
24. | 1983 |
|
△1-1 | ||||
25. | 1983 |
シリア | ○1-0 | ジャパンカップ | |||
26. | 1983 |
フィリピン | ○7-0 | オリンピック | |||
27. | 1983 |
フィリピン | ○10-1 | オリンピック | |||
28. | 1983 |
チャイニーズタイペイ | ○2-0 | オリンピック | |||
29. | 1983 |
チャイニーズタイペイ | △1-1 | オリンピック | |||
30. | 1983 |
オークランド | ニュージーランド | ●1-3 | オリンピック | ||
31. | 1983 |
ニュージーランド | ●0-1 | オリンピック | |||
32. | 1984 |
バンダルスリブガワン | ブルネイ | ○7-1 | |||
33. | 1984 |
シンガポール | タイ | ●2-5 | オリンピック | ||
34. | 1984 |
シンガポール | マレーシア | ●1-2 | オリンピック | ||
35. | 1984 |
シンガポール | イラク | ●1-2 | オリンピック | ||
36. | 1984 |
シンガポール | カタール | ●1-2 | オリンピック | ||
37. | 1984 |
さいたま |
|
○1-0 | ジャパンカップ | ||
38. | 1984 |
ソウル | |
○2-1 | |||
39. | 1985 |
シンガポール | シンガポール | ○3-1 | ワールドカップ | ||
40. | 1985 |
|
○1-0 | ワールドカップ | |||
41. | 1985 |
|
△0-0 | ワールドカップ | |||
42. | 1985 |
シンガポール | ○5-0 | ワールドカップ | |||
43. | 1985 |
ウルグアイ | ●1-4 | キリンカップ | |||
44. | 1985 |
マレーシア | ○3-0 | キリンカップ | |||
45. | 1985 |
|
○3-0 | ワールドカップ | |||
46. | 1985 |
|
○2-1 | ワールドカップ | |||
47. | 1985 |
|
●1-2 | ワールドカップ | |||
48. | 1985 |
ソウル | |
●0-1 | ワールドカップ | ||
49. | 1986 |
クアラルンプール | シリア | ○2-1 | ムルデカ | ||
50. | 1986 |
クアラルンプール | マレーシア | ●1-2( |
ムルデカ | ||
51. | 1986 |
ネパール | ○5-0 | アジア | |||
52. | 1986 |
イラン | ●0-2 | アジア | |||
53. | 1986 |
クウェート | ●0-2 | アジア | |||
54. | 1986 |
バングラデシュ | ○4-0 | アジア |
得点 数
[# | スコア | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1980 |
マレーシア、クアラルンプール | フィリピン | 10-0 | モスクワ | |
2 | 1980 |
インド | 2-0 | |||
3 | 1980 |
シンガポール | 1-0 | 1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア | ||
4 | 1980 |
マカオ | 3-0 | |||
5 | 1982 |
インド、ニューデリー | イラン | 1-0 | アジア | |
6 | 1983 |
フィリピン | 7-0 | ロサンゼルス | ||
7 | ||||||
8 | 1983 |
10-1 | ||||
9 | ||||||
10 | ||||||
11 | ||||||
12 | ||||||
13 | 1983 |
チャイニーズタイペイ | 2-0 | |||
14 | 1984 |
ブルネイ、バンダルスリブガワン | ブルネイ | 7-1 | ||
15 | ||||||
16 | 1984 |
シンガポール | タイ | 2-5 | ロサンゼルス | |
17 | 1984 |
|
2-1 | |||
18 | 1985 |
シンガポール | シンガポール | 3-1 | 1986 FIFAワールドカップ・アジア | |
19 | 1985 |
5-0 | ||||
20 | 1985 |
ウルグアイ | 1-4 | キリンカップ | ||
21 | 1985 |
マレーシア | 3-0 | |||
22 | 1985 |
|
3-0 | 1986 FIFAワールドカップ・アジア | ||
23 | 1985 |
2-1 | ||||
24 | 1985 |
|
1-2 | |||
25 | 1986 |
ネパール | 5-0 | アジア | ||
26 |
指導 者 経歴
[- 2001
年 フットサル日本 代表 監督 - 2010
年 - 2011年 横浜 F・マリノス監督
監督 成績
[クラブ | リーグ |
カップ | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ナビスコ |
||||||||||
2010 | J1 | 8 |
34 | 51 | 15 | 6 | 13 | 4 | ||
2011 | 5 |
34 | 56 | 16 | 8 | 10 | ベスト8 | ベスト4 | ||
J1 |
- | 68 | - | 31 | 14 | 23 |
テレビ出演
[- NHKBS1 サッカ-
放送 解説 (不定期 出演 ) - NHK ワールドカップ
解説 (2002年 大会 、2006年 大会 、2010年 大会 、2014年 大会 、2018年 大会 ) 木梨 憲武 のVS (2005) (ラモス瑠偉との対談 )超 星 艦隊 セイザーX第 21話 「勝利 へのフリーキック」木村 和司 本人 役 として出演 (2006年 2月 25日 )- Jの
記憶 「#100 1985年 10月 26日 ワールドカップの扉 に手 をかけた瞬間 」テレビ朝日 (2010) 証言 ドキュメント日本 サッカーの50年 「W杯 への遠 い道 のり」NHK (2010)人生 が変 わる1分間 の深 イイ話 「超 アブナイサッカー伝説 SP」日本 テレビ (2012)天皇 杯 を彩 った侍 たち NHK 「木村 和司 」(2015)爆 報 !THEフライデー あのスポーツ選手 は今 …壮絶 !引退 後 の人生 SP TBS (2017)岡田 武史 とレジェンドたちが斬 るワールドカップ NHKBS1 (2018)- 『あの
試合 をもう一度 !スポーツ名 勝負 』Jリーグ開幕 戦 『ヴェルディ川崎 対 横浜 マリノス』(試合 放送 前後 のトーク) NHKBS版 (2020年 4月 5日 ) - 『あの
試合 をもう一度 !スポーツ名 勝負 』Jリーグ開幕 戦 『ヴェルディ川崎 対 横浜 マリノス』(試合 放送 前後 のトーク、副 音声 解説 者 の一人 として) NHK総合 版 (2020年 6月 28日 ) etc.
脚注
[- ^ a b “
木村 和司 ”. サッカー日本 代表 データベース - ^
木村 は同 FC創設 時 から在籍 。後輩 には森島 寛 晃 、田坂 和昭 、平沢 政輝 、畑 喜美夫 などがいる。 - ^
二 学年 上 に楚 輪 博 、一 学年 上 に金田 喜 稔 、石崎 信弘 、一 学年 下 に猿 沢 茂 、沖 宗 敏彦 、沖野 隆幸 ら。 - ^ a b “
横浜 M和司 監督 「たいしたもんよ」同期 の佐々木 監督 を祝福 ”. スポーツ報知 (2011年 7月 19日 ). 2011年 7月 21日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2011年 7月 21日 閲覧 。 - ^ “31
年 ぶり開幕 戦 対決 !25日 東京 Vー横浜 FMへ伝説 対談 …木村 和司 氏 「伝統 に」北澤 豪 氏 「この試合 に懸 けてもいい」”. スポーツ報知 (2024年 2月 24日 ). 2024年 3月 9日 閲覧 。 - ^ 『モダンサッカーへの
挑戦 』加茂 周 、講談社 、p58-59、1994年 - ^ a b Number 1992
年 12月 号 no.305 p.76-77 - ^ a b c d e f g h i
週刊 サッカーマガジン 1995年 2月 1日 no.490号 p.123-125 ベースボールマガジン社 - ^ “
代表 クラスが6人 加入 。1983年 の日産 大 補強 【連載 ◎J前夜 を歩 く第 14回 】”. soccermagazine. 17 April 2020閲覧 。 - ^ a b c 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』
文藝春秋 、1998年 、p151-164 - ^
加茂 周 『モダンサッカーへの挑戦 』 (講談社 ) - ^ サッカーストライカー 1989
年 12月 号 p.8-10小学館 - ^ サッカーストライカー 1990
年 4月 号 p.3-5 - ^ サッカーストライカー 1990
年 11月 号 p.27-31学研 - ^ ストライカー 1991
年 7月 号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10 - ^ サッカーマガジン 1992
年 3月 号 no.395 p.5-11壮絶 120分 日産 延長 のゴールラッシュで2年 ぶり栄冠 ベースボールマガジン社 - ^ サッカーマガジン 1993
年 2月 21日 号 no.409 p.5-10 ベースボールマガジン社 - ^ vol.16 「-
木村 和司 杯 -」|木村 和司 のシュート|コラム|読 む - ^ “Jリーグ
開幕 戦 「神奈川 ダービー」に、“運命 ”を感 じてしまうワケ”. gendai.ismedia. 5 March 2021閲覧 。 - ^ “
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木村 和司 ”. data.j-league. 9 April 2020閲覧 。 - ^ “93
J リーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 21 April 2020閲覧 。 - ^
週刊 サッカーマガジン 1993年 8月 19日 no.422号 p.39-47 - ^
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週刊 サッカーダイジェスト 1995年 1月 18日 p.118 - ^ “#39「
新 たなる船出 」~帰 ってきたミスターマリノス・木村 和司 ~”. BS日本 . 2013年 9月 6日 閲覧 。 - ^ “
憧 れのMF、木村 和司 と水沼 貴史 の去 り際 に”. soccermagazine.jp. 9 April 2020閲覧 。 - ^ “ジャパンカップ1979”. samuraiblue.jp. 17 April 2020
閲覧 。 - ^ “ゼロックス・スーパーサッカー
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日 韓 戦 “激闘 の歴史 ”好 ゲームもあれば「猿 まね」「独島 メッセージ」の問題 ”. dot.asahi. 10 March 2021閲覧 。 - ^ “
日本 対 シンガポール”. samuraiblue.jp. 11 December 2020閲覧 。 - ^ “
日本 代表 10番 を襲 った「最悪 の思 い出 」 「鬼門 」の平壌 、悪夢 の失神 退場 で「調子 が戻 らず」”. FOOTBALL ZONE (2024年 3月 21日 ). 2024年 3月 29日 閲覧 。 - ^ “わがまま
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和司 監督 「ちゃぶれ」語源 不明 もグッズ化 - サッカーニュース
参考 文献
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復活 、日産 !天皇 杯 2度目 の優勝 」『サッカーマガジン』1986年 3月 号 - 『
木村 和司 の攻撃 サッカー・「背番号 10」のプレー』 (池田 書店 、1995年 ) ISBN 4262162435 後藤 健生 『日本 サッカー史 ・日本 代表 の90年 』双葉社 、2007年 後藤 健生 『日本 サッカー史 ・日本 代表 の90年 資料 編 』双葉社 、2007年 - 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』
文藝春秋 、1998年
関連 項目
[外部 リンク
[木村 和司 - National-Football-Teams.com木村 和司 - Soccerway.com木村 和司 - FootballDatabase.eu木村 和司 - WorldFootball.net木村 和司 - Transfermarkt.comによる選手 データ木村 和司 - Transfermarkt.comによる指導 者 データ木村 和司 - FIFA主催 大会 成績 木村 和司 - J.League Data Siteによる選手 データ木村 和司 - J.League Data Siteによる監督 データ木村 和司 (@_kazushi_10) - X(旧 Twitter)- きむらかずしTV - YouTubeチャンネル
有限 会社 シュート校長 を務 める「シュート・サッカーアカデミー」などの運営 木村 和司 のちょこっと、言 うちゃろうか - ウェイバックマシン(2009年 7月 8日 アーカイブ分 ) - 2009年 (平成 21年 )6月 まで更新 していたブログ。木村 和司 ・永遠 の背番号 10 - ウェイバックマシン(2010年 6月 5日 アーカイブ分 ) - malicia web- さらば
木村 和司 、さらばゲームメイカー。 - ウェイバックマシン(1997年 1月 26日 アーカイブ分 )