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木村きむら和司かずし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村きむら 和司かずし
名前なまえ
愛称あいしょう ミスターマリノス
カタカナ キムラ カズシ
ラテン文字もじ KIMURA Kazushi
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
生年月日せいねんがっぴ (1958-07-19) 1958ねん7がつ19にち(66さい
出身しゅっしん 広島ひろしまけん広島ひろしまみなみ
身長しんちょう 168cm
体重たいじゅう 64kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション MF / FW
あし 右足みぎあし
ユース
1974-1976 日本の旗 広島ひろしま工業こうぎょう高校こうこう
1977-1980 日本の旗 明治大学めいじだいがく
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1981-1992 日本の旗 日産自動車にっさんじどうしゃ 202 (50)
1992-1994 日本の旗 横浜よこはまマリノス 31 (1)
通算つうさん 233 (51)
代表だいひょうれき
1979-1987[1] 日本の旗 日本にっぽん 54 (26)
監督かんとくれき
2001  日本にっぽん フットサル
2010-2011 日本の旗 横浜よこはまF・マリノス
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj
木村きむら 和司かずし
YouTube
チャンネル
活動かつどう期間きかん 2023ねん3がつ10日とおか
ジャンル サッカー
登録とうろくしゃすう 1460にん
チャンネル登録とうろくしゃすうそう再生さいせい回数かいすう
2023ねん3がつ22にち時点じてん
テンプレートを表示ひょうじ

木村きむら 和司かずし(きむら かずし、1958ねん7がつ19にち - )は、広島ひろしまけん広島ひろしまみなみ出身しゅっしんもとプロサッカー選手せんしゅ、サッカー解説かいせつしゃ、サッカー指導しどうしゃ現役げんえき時代じだいのポジションはミッドフィールダー攻撃こうげきてきMF)、フォワード(ウイング)。もと日本にっぽん代表だいひょう

日本にっぽんサッカー協会きょうかい公認こうにんSきゅうライセンス所持しょじ国際こくさいAマッチ6試合しあい連続れんぞくゴールは日本にっぽん代表だいひょう連続れんぞく得点とくてん記録きろく(2020ねん時点じてん)。

来歴らいれき

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初期しょき大学だいがく時代じだい

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広島ひろしま大河たいがFC[2] から県立けんりつ広島ひろしま工業こうぎょう高校こうこう通称つうしょうけんこう)に進学しんがく[3]攻撃こうげきてきサッカーでせたけんこう中心ちゅうしん選手せんしゅとして1975年度ねんど高校こうこう選手権せんしゅけんでベスト4の成績せいせきのこした。

1977ねん明治大学めいじだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ入学にゅうがくし、サッカー所属しょぞく同期どうきには佐々木ささき則夫のりおがいる[4]明治めいじ在学ざいがくちゅう日本にっぽん代表だいひょう抜擢ばってきされるほど注目ちゅうもくされた。当時とうじ代表だいひょう監督かんとく渡辺わたなべただし同郷どうきょうでもあったため、大学だいがく卒業そつぎょうしん日本にっぽん製鐵せいてつサッカーりが確実かくじつとされた。ほかにも読売よみうりからオファーがり、読売よみうりりにかたむいていたが、日産自動車にっさんじどうしゃサッカー加茂かもあまね監督かんとく面会めんかいしたことで[5]1981ねん昭和しょうわ56ねん)に高校こうこう先輩せんぱい金田かねだみのる所属しょぞくしていた、日産にっさん入団にゅうだんした[6]

日産にっさん時代じだい

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日産にっさんでは社員しゃいんとして、サッカー以外いがい時間じかんはデスクワークなどをこなしていた[7]。1981ねん4がつ5にち富士通ふじつうせんでデビューをかざった[8]加入かにゅうややなやんだが、1983ねん当時とうじ日産にっさん監督かんとくであった加茂かもあまねにより、みぎウイングから攻撃こうげきてきMFにコンバートされるとおおきく成長せいちょうげた[8]。また、チームも優勝ゆうしょうのがしたものの、前年度ぜんねんどの8から2へと躍進やくしん、1どうシーズンの天皇杯てんのうはい決勝けっしょうではゴールチャンスを演出えんしゅつし、ヤンマーを2-0とやぶはつタイトルを獲得かくとくした[9]1986ねん昭和しょうわ61ねん)、当時とうじのプロサッカー選手せんしゅ登録とうろく制度せいどスペシャル・ライセンス・プレーヤー」のだい1ごう選手せんしゅとなる。「奥寺おくでら康彦やすひこ)さんがプロのまま日本にっぽんリーグにもどってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村きむらみずか名乗なのたものだった[10]年俸ねんぽうは1200まんえん[11]。しかしこのころから不調ふちょうおちい精彩せいさいくようになり、日本にっぽん代表だいひょうからもはずれた。1986ねん1がつ1にち天皇杯てんのうはい決勝けっしょうフジタ工業こうぎょうせんでは先制せんせいゴールをめ、チームに優勝ゆうしょうをもたらした[8]日産にっさん日本にっぽんリーグ・JSLカップ天皇杯てんのうはいさんかん達成たっせい木村きむら自身じしん復調ふくちょうし、1988-89シーズン、11せつ全日空ぜんにっくうせんでは、木村きむらとしてはめずらしいヘディングでのゴールをめ(自身じしんめたゴールでもっと印象いんしょうのこるゴールとしている[8] 。)、日産にっさん前期ぜんき無敗むはいとなる11連勝れんしょう達成たっせいした[8]同年どうねんJSLオールスターサッカーでは1ゴールをめ、PKせんでもPKを成功せいこうさせて大会たいかいMVPを受賞じゅしょうした[12]。1989ねん日本にっぽんリーグ年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうに5ねんぶりにかえ健在けんざいをアピールしたが、日本にっぽん代表だいひょうふたた招集しょうしゅうされることはなかった。1990ねん日本にっぽんサッカーリーグ25周年しゅうねん記念きねんして開催かいさいされたバイエルン・ミュンヘンとの親善しんぜん試合しあいでは、日本にっぽん選抜せんばつとしてクラウス・アウゲンターラーをかわして先制せんせいゴールをげた[13]同年どうねんJSLカップ決勝けっしょう古河電工ふるかわでんこうせんではチームの3てんめて優勝ゆうしょう貢献こうけんした[14]

1991ねん、これまでレギュラーをつとめてきたが、前期ぜんきでチームは低迷ていめいしたため、後期こうきのリーグせんではオスカー監督かんとくがチームのテコ入てこいれをはかるため、ベンチスタートにさせることもあった[15]清水しみず監督かんとく就任しゅうにんするとふたたびレギュラーにかえき、1992ねん元旦がんたんだい71かい天皇杯てんのうはい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかい決勝けっしょう読売よみうりせんでは、延長えんちょうせんはいりこぼれだまをペナルティーエリアがいからのボレーシュートでめて、これが決勝けっしょうてんとなった[16]。1993ねん元旦がんたんだい72かい天皇杯てんのうはい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかい決勝けっしょう読売よみうりせんでは、1てん水沼みずぬまのゴールのきっかけをつくると、延長えんちょうせんではCKで神野かみの卓哉たくや決勝けっしょうゴールをアシストした[17]

マリノス発足ほっそく

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1993ねんJリーグ発足ほっそくともなって横浜よこはまマリノス(げん横浜よこはまF・マリノス)と契約けいやく。「ミスター・マリノス」とばれた[10][18]。Jリーグ開幕かいまくせんとなったェルディ川崎ぇるでぃかわさきせんでは先発せんぱつフル出場しゅつじょう、ショートコーナーからエヴァートンの同点どうてんゴールをアシスト[19]さらディアス決勝けっしょうゴールの起点きてんとなった[20]。6月30にち浦和うらわレッズせんたくみなループシュートから、JリーグはつゴールにしてJリーグでは唯一ゆいいつのゴールをめた[21]。7月17にちにはじぇいリーグオールスターサッカーに7ばん着用ちゃくようして先発せんぱつ出場しゅつじょう[22]、スルーパスで三浦みうら知良かずよしのゴールをアシストした[23]後期こうき開幕かいまくせんとなったヴェルディせんでは、スルーパスでディアスのゴールをアシストして3-0で勝利しょうり、(当時とうじ拮抗きっこうした試合しあいおおかったりょうチームの対戦たいせんとしては)記録きろくてき大勝たいしょう貢献こうけんした[24]。このとし、ベンチスタートになることもあったが、年間ねんかんつうじてパスやFKからおおくのアシストをめた。よく1994ねん11月5にちサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしませんで63ふんから出場しゅつじょう[25]、そのもベンチりはするも、この試合しあいがリーグせんでの最後さいご試合しあい出場しゅつじょうとなった。天皇杯てんのうはいでは準決勝じゅんけっしょうまでがり、準決勝じゅんけっしょうセレッソ大阪せれっそおおさかせん先発せんぱつ出場しゅつじょう(おおきなつくれないまま、85ふん山田やまだ隆裕たかひろとの交代こうたいとなった[26]。)、1-2とやぶれ、これが現役げんえき最後さいご公式こうしきせんとなった[8]同年どうねん12がつ27にち、ひらめいたという理由りゆう現役げんえき引退いんたい発表はっぴょうした[8]引退いんたい会見かいけんでは引退いんたいという表現ひょうげんきらい、卒業そつぎょうという言葉ことばもちいた[8]。「もっとサッカーが上手うまくなりたいです」という言葉ことばのこし、そのくなき向上心こうじょうしん記者きしゃ・ファンにつよ印象いんしょうのこした[27]。1995ねん7がつ30にち三ツ沢みつざわ公園こうえん球技きゅうぎじょうでライバルチームであったェルディ川崎ぇるでぃかわさき(現役げんえき選手せんしゅジョージ与那城よなぐすくらOBからなる)との引退いんたい試合しあい開催かいさいされた[28]

日本にっぽん代表だいひょう

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1979ねん昭和しょうわ54ねん)、明治大学めいじだいがく2ねん日本にっぽん代表だいひょうりすると、同年どうねん5がつ27にちフィオレンティーナとのフレンドリーマッチで先発せんぱつ出場しゅつじょうはつ出場しゅつじょうたし[29]以降いこう代表だいひょうチームの常連じょうれんとなった。1982ねん1がつ20日はつかゼロックス・スーパーサッカーディエゴ・マラドーナようしたボカ・ジュニアーズせんでは直接ちょくせつFKからゴールをうばった[8][30]1983ねん昭和しょうわ58ねん)のロサンゼルス五輪ごりん予選よせんまえまでは、みぎウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属しょぞくクラブと同様どうよう攻撃こうげきてきMFとなり、攻撃こうげきかくとなって80年代ねんだいなかばの日本にっぽん代表だいひょうささえた。1984ねん、アウエー韓国かんこく開催かいさいされただい12かいにちかん定期ていきせんでは直接ちょくせつFKで得点とくてんげ、アウエーのでははつとなるにちかんせん勝利しょうり貢献こうけんした[31]

1985ねん2がつ23にちメキシコW杯だぶりゅーはいアジア1予選よせんでは、だい1せんシンガポールせんで1ゴールをめた(CKから直接ちょくせつゴールをげた)[32]。4月30にち平壌ぴょんやん開催かいさいされた北朝鮮きたちょうせんせんでは、相手あいて選手せんしゅとのいで脳震盪のうしんとうこし、くちからはあわすなど、やく40分間ふんかん意識いしきもどらず、救急きゅうきゅうしゃ病院びょういんはこばれ入院にゅういんした[33]。5月18にちだい4せんシンガポールせんから、同年どうねん10がつ26にちメキシコW杯だぶりゅーはいアジア最終さいしゅう予選よせんだい1せん韓国かんこくせんまで、1985ねんの1年間ねんかんだけで国際こくさいAマッチ6試合しあい連続れんぞくゴールをげた。これはいまだに日本にっぽん代表だいひょう連続れんぞく得点とくてん記録きろくである(2011ねん時点じてん)[34][35]1987ねん昭和しょうわ62ねん)のソウル五輪ごりん予選よせんまえに、プレーりが低調ていちょうであったため、石井いしい義信よしのぶ監督かんとくなやんだすえ木村きむらはず決断けつだんくだした[36]

1989ねんには5ねんぶりに日本にっぽんリーグの年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうかえくなど復調ふくちょうしたが、代表だいひょう招集しょうしゅうされることはかった。1993ねんにドーハで開催かいさいされたワールドカップアジア最終さいしゅう予選よせんとき代表だいひょう監督かんとくつとめていたハンス・オフトラモス瑠偉ひかえとして招集しょうしゅう検討けんとうしていたが、実際じっさい選出せんしゅつされることはなかった。ラモス瑠偉はかりにワールドカップ出場しゅつじょうけんられても代表だいひょう引退いんたいかんがえていたこともあり、出場しゅつじょうけんれば、オフトが自分じぶんわりにワールドカップほん大会たいかいのメンバーに木村きむら招集しょうしゅうするだろうとかんがえていた。しかし、出場しゅつじょうけんられなかったことを前述ぜんじゅつ理由りゆうもあり謝罪しゃざいしたという[37]

指導しどうしゃ時代じだい

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引退いんたい指導しどうしゃをめざし、1997ねん平成へいせい9ねん)にSきゅうライセンス取得しゅとく2001ねん平成へいせい13ねん)にはフットサル日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくつとめた。また、夫人ふじんとともに有限ゆうげん会社かいしゃシュートを設立せつりつし(夫人ふじん社長しゃちょう)、サッカーの解説かいせつぎょうおもNHK BS1Jリーグ解説かいせつ)やサッカースクールなどの運営うんえいおこなった。2007ねん平成へいせい19ねん)にはよこかわ武蔵野むさしのFCのスーパーバイザーをつとめた。

2010ねん平成へいせい22ねん)シーズンより横浜よこはまFMの監督かんとく就任しゅうにん[38]自身じしんはつ監督かんとくぎょう挑戦ちょうせんとなった。1ねんは8まり、2ねん2011ねん平成へいせい23ねん)はシーズン中旬ちゅうじゅんまで優勝ゆうしょうあらそいをしていたがあきはいってから失速しっそくし5わる。同年どうねん12がつ29にち天皇杯てんのうはい準決勝じゅんけっしょうやぶ翌年よくねんのACL出場しゅつじょう消滅しょうめつし、よく12がつ30にち解任かいにんされた。

一方いっぽうで2011ねんのリーグせん5という成績せいせき横浜よこはまFMが最後さいご優勝ゆうしょうした2004ねん以降いこうでは最高さいこう成績せいせきで、賞金しょうきん圏内けんないは2007ねん以来いらい4ねんぶりであったが、後半こうはんせん失速しっそくなおせなかったことや、結果けっかかかわるために守備しゅびてきなサッカーをしたことが「内容ないようがない」と判断はんだんされ解任かいにんとなった[39][40]。その、うつにおそわれるようになったという[41]

2012ねんよりサッカー解説かいせつしゃとして活動かつどうしており、NHK BS1「プレミアリーグ」で「ゲスト解説かいせつあつかいでつとめており、2014ねんから正式せいしき専属せんぞく解説かいせつ復帰ふっきした。

2015ねん1がつ体調たいちょう不良ふりょううったえ、のう梗塞こうそく病院びょういんはこばれたことが、同年どうねん3がつになって公表こうひょうされた[42]同年どうねん8がつ、NHKBS1 ドイツ・ブンデスリーガ開幕かいまくぶし「ドルトムント×メンヘングラートバッハ」の解説かいせつより復帰ふっきした。

2020ねん9がつ10日とおか、これまでの日本にっぽんサッカーかいへの功績こうせき評価ひょうかされ、日本にっぽんサッカー殿堂でんどうりすることが発表はっぴょうされた[43]

人物じんぶつ・プレースタイル

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  • 高校こうこう大学だいがく日産にっさん加入かにゅう当初とうしょウインガーとしてプレーしていたが、1983ねん昭和しょうわ58ねん)におなじウイングを専門せんもんとする水沼みずぬま貴史たかし入団にゅうだんをきっかけに、加茂かもあまね監督かんとくによって攻撃こうげきてきMFにコンバート。以降いこう、ゲームメーカーとして中盤ちゅうばん君臨くんりん日産にっさん黄金おうごん時代じだいきず原動力げんどうりょくとなった[44][45]ラモス瑠偉らととも日本にっぽんサッカーふゆ時代じだいささえた選手せんしゅ一人ひとりであり、「日産にっさん背番号せばんごう10といえば木村きむら和司かずし」とわしめ、80年代ねんだいなかばには日産にっさんのみならず、「日本にっぽんの10ばんといえば木村きむら和司かずし」、当時とうじ代表だいひょうは「木村きむらのチーム」とまでわしめたほど存在そんざいであった[46][47][48][49][50]1983ねん昭和しょうわ58ねん)、1984ねん昭和しょうわ59ねん)、ねん連続れんぞく日本にっぽん年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうフットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989ねんどうしょう受賞じゅしょうさん受賞じゅしょう釜本かまもと邦茂くにしげ7杉山すぎやま隆一りゅういちなら史上しじょう2。1984ねんアシストおう、アシストすう12はJSL記録きろく
  • 現役げんえき時代じだいフリーキック名手めいしゅとしてられた[51]自由自在じゆうじざいにボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人にっぽんじんプレイヤーがせたことのないものだった[10]。その正確せいかくなボールコントロールとするど変化へんかから「魔術まじゅつ」の異名いみょうばれ、日本にっぽんリーグ、国際こくさい試合しあい数々かずかずめい場面ばめんつくげた。とく1985ねん昭和しょうわ60ねん)、ワールドカップメキシコ大会たいかい最終さいしゅう予選よせんのホーム韓国かんこくたたかえ試合しあいにはやぶれワールドカップに出場しゅつじょうできなかったものの、40メートル手前てまえからみせたフリーキックは、80年代ねんだい日本にっぽんサッカーにおける屈指くっしめいシーンとして伝説でんせつしており、現在げんざいでもサッカー番組ばんぐみでフリーキックが特集とくしゅうされるさいには、かならずといっていいほど紹介しょうかいされている[52][53][54]高橋たかはし陽一よういちは、日本にっぽん代表だいひょう試合しあいで「パッとあたまかぶのは、あの木村きむら和司かずしさんの直接ちょくせつフリーキック」とべている[55]出身しゅっしん広島ひろしま拠点きょてんとする中国ちゅうごく新聞しんぶんでは「フリーキック自由自在じゆうじざい」というコラムをもうけていた。
    フリーキックをはじめるきっかけは、テレビでブラジル代表だいひょうペレリベリーノジーコがFKで直接ちょくせつゴールにほうむのをて、大学だいがく在籍ざいせきに、あそびとして練習れんしゅうはげんだ[7]あしかぶとぎで変型へんけいしているという。もともと高校こうこう時代じだいウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(あしかぶと内側うちがわ部分ぶぶん多用たようすることもあり、それがFKにかされた。当時とうじ日本にっぽんにはまだ、FKを直接ちょくせつめること有名ゆうめい選手せんしゅはいなかった。1980年代ねんだい当時とうじ芸術げいじゅつてきなフリーキックは世界せかいのサッカーではにしても、日本にっぽんサッカーでは、フリーキックが話題わだいになることは、ほとんどなかった[51]本格ほんかくてき練習れんしゅうはじめたのは日産にっさんはいってからで、チームが特注とくちゅうつくってくれた鉄骨てっこつわせたものにネットをつけた簡単かんたんかべいて練習れんしゅうした。練習れんしゅう相手あいてえらんだのが新人しんじんだった松永まつなが成立せいりつ最初さいしょはヘタでどこにってもはいっていたが、練習れんしゅうしてるうち段々だんだん松永まつなが上手うまくなって、両方りょうほうがいろいろかんがはじめて上達じょうたつしていく相乗そうじょう効果こうかがあったという。冗談じょうだんで「シゲ(松永まつなが)はワシとしょっちゅう練習れんしゅうしていたから日本にっぽん代表だいひょうれたんだ」とよくった[52][56]

エピソード

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  • 木村きむら代表だいひょうのスター選手せんしゅだった1984ねん昭和しょうわ59ねんなつ佐山さやま一郎いちろう雑誌ざっしNumber』からの依頼いらい木村きむらにインタビューをもうんだ。日産にっさん広報こうほう担当たんとうしゃにそれをはなすと、サッカーの専門せんもん以外いがいから取材しゅざいたのははじめてとおどろかれた。当時とうじのサッカーは『Number』ですらおなねん9がつ20にちごう釜本かまもと邦茂くにしげ引退いんたい記念きねんごうはじめてサッカー特集とくしゅう成立せいりつするというマイナー状況じょうきょうだった。「大丈夫だいじょうぶですか、れていないからしゃべんないかもしれませんよ」とわれインタビューをすると、実際じっさい木村きむらはほとんどしゃべらず、こたえたあとに意味いみ不明ふめいわらいがれだすのにも驚嘆きょうたんした。しかしうたびしゃべるのがうまくなったという[57]
  • 明治大学めいじだいがく時代じだい同期生どうきせいであるサッカー日本にっぽん女子じょし代表だいひょう監督かんとく佐々木ささき則夫のりおとは、おなりょうごした仲間なかまでありいまでも親交しんこうふかい。なでしこジャパンがはつ優勝ゆうしょうめたワールドカップ決勝けっしょうせん試合しあいも、その直前ちょくぜん自身じしん指揮しきする横浜よこはまF・マリノス試合しあいがあったにもかかわらず、試合しあいにほぼ徹夜てつやでテレビ観戦かんせんしており、なでしこジャパンと佐々木ささきにも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一せかいいちだからな。日本一にっぽんいちとはちがうよ。なみだてきて感動かんどうした。ただ、ねむい」と祝福しゅくふくのコメントをした。[4]
  • 1986ねん奥寺おくでら康彦やすひこともスペシャル・ライセンス・プレーヤーだい1ごうとなるが、西にしドイツがえりの奥寺おくでら年俸ねんぽう4000まんえんたいして木村きむら年俸ねんぽうは1200まんえんであった。このときかくメディアにほうじられ世間せけん関心かんしんたかかったが、ぼう運動うんどう記者きしゃ木村きむらに「1200まんえんではすくなすぎてゆめがない。うそでもいいから4000まんえんってくれないかな」というと、木村きむらは「うそはつきたくない」と拒否きょひ。しかし記者きしゃがしつこく問答もんどうつづいたのち折衷せっちゅうあんとして4000まんえんと1200まんえんあいだ格好かっこうで2400まんえんいた。翌日よくじつ新聞しんぶん紙上しじょうには木村きむら年俸ねんぽうは「2400まんえん」と大々的だいだいてきほうじられた[58]
  • 木村きむら夫人ふじんは、サッカーファンがおおくはなかった1960年代ねんだい日本にっぽんサッカーリーグ(JSL)創設そうせつころからのサッカーのっかけで、まだ原宿はらじゅくきし記念きねん体育たいいく会館かいかんちいさな一室いっしつにあったサッカー協会きょうかい(JFA)に、全日本ぜんにほん日本にっぽん代表だいひょう)の勝利しょうりいの千羽鶴せんばづるってきたり、よくあそびにていた一人ひとりだったという[59]
  • 「ラグビーは紳士しんしがやる野蛮やばんなスポーツ、サッカーは野蛮やばんじんがやる紳士しんしてきなスポーツ」という発言はつげんを『Number』誌上しじょうのこしている。
  • かつての自身じしんのブログ「木村きむら和司かずしのちょこっと、うちゃろうか。」で、「60ねん、70年代ねんだいガマさん時代じだいやな、80年代ねんだいはワシや。90年代ねんだいはスケールダウンしてカズラモスあたりかの。2000ねんはまだいないんよな。80年代ねんだいのワシはかなりイワシテいたのぅ。」とはなして物議ぶつぎかもしたことがある[60]。 
  • マリノス監督かんとくには広島ひろしまべんまじえたコメントが話題わだいとなった[46][61][62]監督かんとく就任しゅうにんのコメント「わしがなにとかしちゃる」のメッセージTてぃーシャツや「」のロゴTてぃーシャツが商品しょうひんされよくれた。また木村きむらがよく使つか言葉ことばで「相手あいて翻弄ほんろうする」という意味合いみあいをつ「ちゃぶる」もグッズ計画けいかくがり、Jリーグ日本人にっぽんじん監督かんとくのグッズが次々つぎつぎ誕生たんじょうするのは異例いれい事態じたいであった[63]

所属しょぞくクラブ

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ユース経歴けいれき
プロ経歴けいれき

個人こじん成績せいせき

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国内こくない大会たいかい個人こじん成績せいせき
年度ねんどクラブ背番号せばんごうリーグ リーグせん リーグはいオープンはい 期間きかん通算つうさん
出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん
日本にっぽん リーグせん JSLはい/ナビスコはい 天皇杯てんのうはい 期間きかん通算つうさん
1981 日産にっさん 25 JSL2 18 6 2 2 2 0 22 8
1982 10 JSL1 18 0 0 0 2 2 20 2
1983 18 5 4 6 5 2 27 13
1984 17 8 0 0 4 2 21 10
1985 21 6 4 3 4 3 29 12
1986-87 20 2 5 1 4 1 29 4
1987-88 14 1 1 0 3 1 18 2
1988-89 22 8 5 4 5 1 32 13
1989-90 22 8 4 1 5 0 31 5
1990-91 10 3 4 2 4 2 18 7
1991-92 22 3 3 1 5 1 30 5
1992 横浜よこはまM - J - 9 0 5 3 14 3
1993 21 1 2 0 1 0 24 1
1994 10 0 3 0 4 1 17 1
通算つうさん 日本にっぽん J 31 1 14 0 10 4 55 5
日本にっぽん JSL1 202 44 30 18 41 18 273 80
日本にっぽん JSL2 18 6 2 2 2 0 22 8
そう通算つうさん 251 51 46 20 53 22 350 93

JSL東西とうざい対抗たいこうせん(オールスターサッカー) 7かい出場しゅつじょう:1982ねん、1984ねん、1986ねん、1987ねん、1989ねん、1991ねん、1992ねん

・JSL東西とうざい対抗たいこうせん(オールスターサッカー) 4得点とくてん:1982ねん、1984ねん、1989ねん、1992ねん

その公式こうしきせん

タイトル

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日産自動車にっさんじどうしゃ

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  • MVP3かい (1983ねん、1984ねん、1989ねん)
  • 日本にっぽんサッカーリーグ優勝ゆうしょう 2かい (1988-1989、1989-1990)
  • JSLカップ優勝ゆうしょう 3かい (1988ねん、1989ねん、1990ねん)
  • 天皇杯てんのうはい優勝ゆうしょう 5かい (1983ねん、1985ねん、1988ねん、1989ねん、1991ねん)
  • アジアカップウィナーズカップ優勝ゆうしょう 1かい (1991-1992)
  • アシストおう (1984ねん)
  • JSL東西とうざい対抗たいこうせん(オールスターせん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう 2かい (1982ねん、1989ねん)
    • 日本にっぽんリーグ1通算つうさん202試合しあい44得点とくてん

横浜よこはまマリノス

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代表だいひょうれき

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出場しゅつじょう大会たいかいなど

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試合しあいすう

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  • 国際こくさいAマッチ 54試合しあい 26得点とくてん(1979-1987)[1]


日本にっぽん代表だいひょう国際こくさいAマッチ その期間きかん通算つうさん
とし出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん出場しゅつじょう得点とくてん
1979 3 0 9 0 12 0
1980 9 4 11 1 20 5
1981 1 0 0 0 1 0
1982 8 1 16 4 24 5
1983 10 8 18 4 28 12
1984 7 4 5 2 12 6
1985 10 7 8 3 18 10
1986 6 2 6 1 12 3
1987 0 0 3 0 3 0
通算つうさん 54 26 76 15 130 41

出場しゅつじょう

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No. 開催かいさい 開催かいさい都市とし スタジアム 対戦たいせん相手あいて 結果けっか 監督かんとく 大会たいかい
1. 1979ねん05がつ31にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ西にしおかサッカーじょう  インドネシア ○4-0 下村しもむら幸男ゆきお ジャパンカップ
2. 1979ねん06がつ16にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ●1-4 にちかん定期ていきせん
3. 1979ねん08がつ23にち 朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌ぴょんやん  北朝鮮きたちょうせん △0-0 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
4. 1980ねん03がつ22にち マレーシアの旗クアラルンプール  韓国かんこく ●1-3 オリンピック予選よせん
5. 1980ねん03がつ24にち マレーシアの旗クアラルンプール  フィリピン ○10-0 オリンピック予選よせん
6. 1980ねん03がつ28にち マレーシアの旗クアラルンプール  インドネシア ○2-0 オリンピック予選よせん
7. 1980ねん03がつ30にち マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア △1-1 オリンピック予選よせん
8. 1980ねん04がつ02にち マレーシアの旗クアラルンプール  ブルネイ ○2-1 オリンピック予選よせん
9. 1980ねん12月22にち 香港の旗香港ほんこん  シンガポール ○1-0 川淵かわぶち三郎さぶろう ワールドカップ予選よせん
10. 1980ねん12月26にち 香港の旗香港ほんこん  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく ●0-1 ワールドカップ予選よせん
11. 1980ねん12月28にち 香港の旗香港ほんこん  マカオ ○3-0 ワールドカップ予選よせん
12. 1980ねん12月30にち 香港の旗香港ほんこん  北朝鮮きたちょうせん ●0-1(延長えんちょう) ワールドカップ予選よせん
13. 1981ねん03がつ08にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく ●0-1 にちかん定期ていきせん
14. 1982ねん03がつ21にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ●0-3 森孝もりたか にちかん定期ていきせん
15. 1982ねん06がつ02にち 日本の旗広島ひろしまけん 広島ひろしまけん総合そうごうグランドメインスタジアム  シンガポール ○2-0 ジャパンカップ
16. 1982ねん07がつ15にち ルーマニアの旗スチャバ  ルーマニア ●0-4 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
17. 1982ねん07がつ18にち ルーマニアの旗ブカレスト  ルーマニア ●1-3 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
18. 1982ねん11月21にち インドの旗ニューデリー  イラン ○1-0 アジア大会たいかい
19. 1982ねん11月23にち インドの旗ニューデリー  みなみイエメン ○3-1 アジア大会たいかい
20. 1982ねん11月25にち インドの旗ニューデリー  韓国かんこく ○2-1 アジア大会たいかい
21. 1982ねん11月28にち インドの旗ニューデリー  イラク ●0-1(延長えんちょう) アジア大会たいかい
22. 1983ねん02がつ12にち シリアの旗ダマスカス  シリア △2-2 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
23. 1983ねん02がつ25にち カタールの旗ドーハ  カタール ●0-1 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
24. 1983ねん03がつ06にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく △1-1 にちかん定期ていきせん
25. 1983ねん06がつ07にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  シリア ○1-0 ジャパンカップ
26. 1983ねん09がつ04にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  フィリピン ○7-0 オリンピック予選よせん
27. 1983ねん09がつ07にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  フィリピン ○10-1 オリンピック予選よせん
28. 1983ねん09がつ15にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  チャイニーズタイペイ ○2-0 オリンピック予選よせん
29. 1983ねん09がつ20日はつか チャイニーズタイペイの旗台北たいぺい  チャイニーズタイペイ △1-1 オリンピック予選よせん
30. 1983ねん09がつ25にち ニュージーランドの旗オークランド  ニュージーランド ●1-3 オリンピック予選よせん
31. 1983ねん10がつ07にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  ニュージーランド ●0-1 オリンピック予選よせん
32. 1984ねん03がつ06にち ブルネイの旗バンダルスリブガワン  ブルネイ ○7-1 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
33. 1984ねん04がつ15にち シンガポールの旗シンガポール  タイ ●2-5 オリンピック予選よせん
34. 1984ねん04がつ18にち シンガポールの旗シンガポール  マレーシア ●1-2 オリンピック予選よせん
35. 1984ねん04がつ21にち シンガポールの旗シンガポール  イラク ●1-2 オリンピック予選よせん
36. 1984ねん04がつ26にち シンガポールの旗シンガポール  カタール ●1-2 オリンピック予選よせん
37. 1984ねん05がつ31にち 日本の旗埼玉さいたまけん さいたま大宮公園おおみやこうえんサッカーじょう  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく ○1-0 ジャパンカップ
38. 1984ねん09がつ30にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ○2-1 にちかん定期ていきせん
39. 1985ねん02がつ23にち シンガポールの旗シンガポール  シンガポール ○3-1 ワールドカップ予選よせん
40. 1985ねん03がつ21にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  北朝鮮きたちょうせん ○1-0 ワールドカップ予選よせん
41. 1985ねん04がつ30にち 朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌ぴょんやん  北朝鮮きたちょうせん △0-0 ワールドカップ予選よせん
42. 1985ねん05がつ18にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  シンガポール ○5-0 ワールドカップ予選よせん
43. 1985ねん05がつ26にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  ウルグアイ ●1-4 キリンカップ
44. 1985ねん06がつ04にち 日本の旗愛知あいちけん 名古屋なごや瑞穂みずほ公園こうえん陸上りくじょう競技きょうぎじょう  マレーシア ○3-0 キリンカップ
45. 1985ねん08がつ11にち 日本の旗愛知あいちけん 神戸こうべ総合そうごう運動公園うんどうこうえんユニバー記念きねん競技きょうぎじょう  香港ほんこん ○3-0 ワールドカップ予選よせん
46. 1985ねん09がつ22にち 香港の旗香港ほんこん  香港ほんこん ○2-1 ワールドカップ予選よせん
47. 1985ねん10がつ26にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく ●1-2 ワールドカップ予選よせん
48. 1985ねん11月03にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ●0-1 ワールドカップ予選よせん
49. 1986ねん07がつ25にち マレーシアの旗クアラルンプール  シリア ○2-1 石井いしい義信よしのぶ ムルデカ大会たいかい
50. 1986ねん08がつ01にち マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●1-2(延長えんちょう) ムルデカ大会たいかい
51. 1986ねん09がつ20日はつか 大韓民国の旗大田おおた  ネパール ○5-0 アジア大会たいかい
52. 1986ねん09がつ22にち 大韓民国の旗大田おおた  イラン ●0-2 アジア大会たいかい
53. 1986ねん09がつ24にち 大韓民国の旗大田おおた  クウェート ●0-2 アジア大会たいかい
54. 1986ねん09がつ28にち 大韓民国の旗大田おおた  バングラデシュ ○4-0 アジア大会たいかい

得点とくてんすう

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# 年月日ねんがっぴ 開催かいさい 対戦たいせんこく スコア 結果けっか 試合しあい概要がいよう
1 1980ねん3がつ24にち マレーシアクアラルンプール フィリピンの旗 フィリピン 10-0 勝利しょうり モスクワ五輪ごりん予選よせん
2 1980ねん3がつ28にち インドの旗 インド 2-0 勝利しょうり
3 1980ねん12月22にち 香港ほんこん シンガポールの旗 シンガポール 1-0 勝利しょうり 1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選よせん
4 1980ねん12月28にち ポルトガルの旗 マカオ 3-0 勝利しょうり
5 1982ねん11月21にち インドニューデリー イランの旗 イラン 1-0 勝利しょうり アジア競技きょうぎ大会たいかい
6 1983ねん9がつ4にち 日本にっぽん東京とうきょう フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利しょうり ロサンゼルス五輪ごりん予選よせん
7
8 1983ねん9がつ7にち 10-1 勝利しょうり
9
10
11
12
13 1983ねん9がつ15にち チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 2-0 勝利しょうり
14 1984ねん3がつ6にち ブルネイバンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利しょうり 親善しんぜん試合しあい
15
16 1984ねん4がつ15にち シンガポール タイ王国の旗 タイ 2-5 敗戦はいせん ロサンゼルス五輪ごりん予選よせん
17 1984ねん9がつ30にち 大韓民国だいかんみんこくソウル 大韓民国の旗 韓国かんこく 2-1 勝利しょうり にちかん定期ていきせん
18 1985ねん2がつ23にち シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 3-1 勝利しょうり 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選よせん
19 1985ねん5がつ18にち 日本にっぽん東京とうきょう 5-0 勝利しょうり
20 1985ねん5がつ26にち ウルグアイの旗 ウルグアイ 1-4 敗戦はいせん キリンカップ
21 1985ねん6がつ4にち 日本にっぽん名古屋なごや マレーシアの旗 マレーシア 3-0 勝利しょうり
22 1985ねん8がつ11にち 日本にっぽん神戸こうべ 香港の旗 香港ほんこん 3-0 勝利しょうり 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選よせん
23 1985ねん9がつ22にち 香港ほんこん 2-1 勝利しょうり
24 1985ねん10がつ26にち 日本にっぽん東京とうきょう 大韓民国の旗 韓国かんこく 1-2 敗戦はいせん
25 1986ねん9がつ20日はつか 大韓民国だいかんみんこく太田おおた ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利しょうり アジア競技きょうぎ大会たいかい
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指導しどうしゃ経歴けいれき

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監督かんとく成績せいせき

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年度ねんど 所属しょぞく クラブ リーグせん カップせん
順位じゅんい 試合しあい かちてん かち ぶん はい ナビスコはい 天皇杯てんのうはい
2010 J1 横浜よこはまFM 8 34 51 15 6 13 予選よせんリーグ敗退はいたい 4回戦かいせん敗退はいたい
2011 5 34 56 16 8 10 ベスト8 ベスト4
J1通算つうさん - 68 - 31 14 23

テレビ出演しゅつえん

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  • NHKBS1 サッカ-放送ほうそう解説かいせつ (不定期ふていき出演しゅつえん)
  • NHK ワールドカップ解説かいせつ (2002ねん大会たいかい、2006ねん大会たいかい、2010ねん大会たいかい、2014ねん大会たいかい、2018ねん大会たいかい)
  • 木梨きなし憲武のりたけのVS (2005) (ラモス瑠偉との対談たいだん)
  • ちょうほし艦隊かんたいセイザーX だい21勝利しょうりへのフリーキック」木村きむら和司かずし本人ほんにんやくとして出演しゅつえん(2006ねん2がつ25にち)
  • Jの記憶きおく 「#100 1985ねん10がつ26にち ワールドカップのとびらをかけた瞬間しゅんかんテレビ朝日てれびあさひ (2010)
  • 証言しょうげんドキュメント 日本にっぽんサッカーの50ねん 「Wはいへのとおみちのり」NHK (2010)
  • 人生じんせいわる1分間ふんかんふかイイばなしちょうアブナイサッカー伝説でんせつSP」日本にほんテレビ (2012)
  • 天皇てんのうはいいろどったさむらいたち NHK 「木村きむら和司かずし」(2015)
  • ばくほう!THEフライデー あのスポーツ選手せんしゅいま壮絶そうぜつ!引退いんたい人生じんせいSP TBS (2017)
  • 岡田おかだ武史たけしとレジェンドたちがるワールドカップ NHKBS1 (2018)
  • 『あの試合しあいをもう一度いちど!スポーツめい勝負しょうぶ』Jリーグ開幕かいまくせん『ヴェルディ川崎ぇるでぃかわさきたい横浜よこはまマリノス』(試合しあい放送ほうそう前後ぜんこうのトーク) NHKBSばん (2020ねん4がつ5にち)
  • 『あの試合しあいをもう一度いちど!スポーツめい勝負しょうぶ』Jリーグ開幕かいまくせん『ヴェルディ川崎ぇるでぃかわさきたい横浜よこはまマリノス』(試合しあい放送ほうそう前後ぜんこうのトーク、ふく音声おんせい解説かいせつしゃ一人ひとりとして) NHK総合そうごうばん (2020ねん6がつ28にち) etc.

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 木村きむら 和司かずし. サッカー日本にっぽん代表だいひょうデータベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/kazushi_kimura.html 
  2. ^ 木村きむらどうFC創設そうせつから在籍ざいせき後輩こうはいには森島もりしまひろしあきら田坂たさか和昭かずあき平沢ひらさわ政輝まさてるはた喜美夫きみおなどがいる。
  3. ^ 学年がくねんじょうすわえはなわひろしいち学年がくねんじょう金田かねだみのる石崎いしざき信弘のぶひろいち学年がくねんさるさわしげるおきそう敏彦としひこ沖野おきの隆幸たかゆきら。
  4. ^ a b 横浜よこはま和司かずし監督かんとく「たいしたもんよ」同期どうき佐々木ささき監督かんとく祝福しゅくふく”. スポーツ報知ほうち (2011ねん7がつ19にち). 2011ねん7がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 31ねんぶり開幕かいまくせん対決たいけつ!25にち東京とうきょうVー横浜よこはまFMへ伝説でんせつ対談たいだん木村きむら和司かずし伝統でんとうに」北澤きたざわつよし「この試合しあいけてもいい」”. スポーツ報知ほうち (2024ねん2がつ24にち). 2024ねん3がつ9にち閲覧えつらん
  6. ^ 『モダンサッカーへの挑戦ちょうせん加茂かもあまね講談社こうだんしゃ、p58-59、1994ねん
  7. ^ a b Number 1992ねん12がつごう no.305 p.76-77
  8. ^ a b c d e f g h i 週刊しゅうかんサッカーマガジン 1995ねん2がつ1にち no.490ごう p.123-125 ベースボールマガジンしゃ
  9. ^ 代表だいひょうクラスが6にん加入かにゅう。1983ねん日産にっさんだい補強ほきょう連載れんさい◎J前夜ぜんやあるだい14かい”. soccermagazine. 17 April 2020閲覧えつらん
  10. ^ a b c 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1998ねん、p151-164
  11. ^ 加茂かもあまね『モダンサッカーへの挑戦ちょうせん』 (講談社こうだんしゃ
  12. ^ サッカーストライカー 1989ねん12がつごう p.8-10 小学館しょうがくかん
  13. ^ サッカーストライカー 1990ねん4がつごう p.3-5
  14. ^ サッカーストライカー 1990ねん11がつごう p.27-31 学研がっけん
  15. ^ ストライカー 1991ねん7がつごう 付録ふろく オスカーのインテリジェントサッカー全科ぜんか p.3-10
  16. ^ サッカーマガジン 1992ねん3がつごう no.395 p.5-11 壮絶そうぜつ120ふん日産にっさん延長えんちょうのゴールラッシュで2ねんぶり栄冠えいかん ベースボールマガジンしゃ
  17. ^ サッカーマガジン 1993ねん2がつ21にちごう no.409 p.5-10 ベースボールマガジンしゃ
  18. ^ vol.16 「-木村きむら和司かずしはい-」|木村きむら和司かずしのシュート|コラム|
  19. ^ Jリーグ開幕かいまくせん神奈川かながわダービー」に、“運命うんめい”をかんじてしまうワケ”. gendai.ismedia. 5 March 2021閲覧えつらん
  20. ^ おかちゃん連覇れんぱ 悲運ひうん俊輔しゅんすけ号泣ごうきゅう/4度目どめV横浜よこはま軌跡きせき”. www.nikkansports.com. 17 April 2020閲覧えつらん
  21. ^ 木村きむら和司かずし”. data.j-league. 9 April 2020閲覧えつらん
  22. ^ 93じぇいリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 21 April 2020閲覧えつらん
  23. ^ 週刊しゅうかんサッカーマガジン 1993ねん8がつ19にち no.422ごう p.39-47
  24. ^ 週刊しゅうかんサッカーマガジン 1993ねん8がつ19にち no.422ごう p.20-22
  25. ^ 94じぇいリーグNICOSにこすシリーズ だい18せつ”. data.j-league. 9 April 2020閲覧えつらん
  26. ^ 週刊しゅうかんサッカーダイジェスト 1995ねん1がつ18にち p.118
  27. ^ #39「あらたなる船出ふなで」~かえってきたミスターマリノス・木村きむら和司かずし”. BS日本にっぽん. 2013ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  28. ^ あこがれのMF、木村きむら和司かずし水沼みずぬま貴史たかしさい”. soccermagazine.jp. 9 April 2020閲覧えつらん
  29. ^ ジャパンカップ1979”. samuraiblue.jp. 17 April 2020閲覧えつらん
  30. ^ ゼロックス・スーパーサッカー 日本にっぽん代表だいひょう X ボカ・ジュニアーズ”. samuraiblue.jp. 9 April 2020閲覧えつらん
  31. ^ サッカーにちかんせん激闘げきとう歴史れきし” こうゲームもあれば「さるまね」「独島どくとメッセージ」の問題もんだい”. dot.asahi. 10 March 2021閲覧えつらん
  32. ^ 日本にっぽん たいシンガポール”. samuraiblue.jp. 11 December 2020閲覧えつらん
  33. ^ 日本にっぽん代表だいひょう10ばんおそった「最悪さいあくおも」 「鬼門きもん」の平壌ぴょんやん悪夢あくむ失神しっしん退場たいじょうで「調子ちょうしもどらず」”. FOOTBALL ZONE (2024ねん3がつ21にち). 2024ねん3がつ29にち閲覧えつらん
  34. ^ わがまま木村きむら和司かずし”. 2011ねん2がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ30にち閲覧えつらん 木村きむら和司かずしオフィシャルサイト / 有限ゆうげん会社かいしゃシュート
  35. ^ 岡崎おかざきカタールせんで4せん連発れんぱつ、カズにならぶ - 2010ねんみなみアフリカWはいニュース
  36. ^ Jリーグ誕生たんじょううながした雨中うちゅう中国ちゅうごくせん――晩年ばんねんのこされた指揮しきかん舞台裏ぶたいうら証言しょうげんろく”. soccerdigestweb. 10 March 2021閲覧えつらん
  37. ^ Number 2013ねん10がつ17にちごう no.839 p.28-31
  38. ^ らいシーズンの監督かんとくについてのおらせ”. 2009ねん11月9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん11月6にち閲覧えつらん
  39. ^ 横浜よこはまM・和司かずし監督かんとく無念むねん電撃でんげき解任かいにん デイリースポーツonline
  40. ^ 結果けっかにこだわり 木村きむら監督かんとく「ワシらしいサッカーができなかった」 スポーツニッポン
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  42. ^ 木村きむら和司かずしのう梗塞こうそく現在げんざい回復かいふく傾向けいこう所属しょぞく事務所じむしょ(ゲキサカ2015ねん3がつ6にち 3月7にち閲覧えつらん
  43. ^ 木村きむら和司かずしとトルシエ日本にっぽんサッカー殿堂でんどう掲額けいがく”. www.nikkansports.com (2020ねん9がつ10日とおか). 2020ねん9がつ10日とおか閲覧えつらん
  44. ^ 木村きむら和司かずし 横浜よこはまM来季らいき監督かんとく決定的けっていてき/サッカー”. 2009ねん11月9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ30にち閲覧えつらん デイリースポーツonline(2009ねん11月9にち時点じてんアーカイブ
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  48. ^ 「アディダス パフォーマンスセンター コレットマーレみなとみらい」オープニングイベント
  49. ^ 木村きむら和司かずしオフィシャルサイト/有限ゆうげん会社かいしゃシュート|所属しょぞく:鈴木すずき正治しょうじ金山かなやま友紀ゆきオフィシャル[リンク]
  50. ^ 日刊にっかんスポーツ連載れんさい世界せかい4きょう 岡田おかだジャパン 奇跡きせきへの条件じょうけん」2010ねん4がつ7にち9めん
  51. ^ a b 阿部あべ魔法まほうつえ。 - WEBサッカーマガジン|Keiichi Chinoの辛口からくちコラム[リンク]
  52. ^ a b 連載れんさい「Wはいがやってくる」「世界せかい」をかんじさせたFK 木村きむら和司かずし1”. 2001ねん12月13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん6がつ29にち閲覧えつらん
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  54. ^ だい221かい フリーキックとはなにか(した)フットボールの真実しんじつ 大住おおすみ良之よしゆき”. 2008ねん2がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  55. ^ 二宮にのみや寿朗としろう (2018ねん6がつ22にち). “サッカー日本にっぽん代表だいひょう 激闘げきとう日誌にっし 漫画まんが高橋たかはし陽一よういちにとってのサッカー日本にっぽん代表だいひょう”. Number Web. 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ. 2018ねん11月19にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん11月19にち閲覧えつらん
  56. ^ 『サッカークリニック』2008ねん4がつごう p53-57 (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ)
  57. ^ 『Jリーグよ! サッカーめざめのとしに』佐山さやま一郎いちろう (オプトコミュニケーションズ、1994ねん1がつ)
  58. ^ 木之本きのもときょうさん日本にっぽんサッカーにささげた両足りょうあし 真実しんじつのJリーグ創世そうせいワニブックス、2013ねん、p144-145
  59. ^ サッカー批評ひひょう』20ごう p33 (双葉社ふたばしゃ、2003ねん9がつ)
  60. ^ 00年代ねんだいだれ時代じだい? / サッカーまどかかん サポティスタ
  61. ^ マリノス・木村きむら和司かずし名将めいしょうか?「会見かいけんりょく」でためされる監督かんとく能力のうりょく
  62. ^ 和司かずし監督かんとく初陣ういじん完封かんぷうけで決意けついの1ミリ”. 2010ねん3がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん1がつ12にち閲覧えつらん デイリースポーツonline
  63. ^ 和司かずし監督かんとく「ちゃぶれ」語源ごげん不明ふめいもグッズ - サッカーニュース

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 「ズームアップ 木村きむら和司かずし」『サッカーマガジン』1979ねん7がつ25にちごう
  • 「クローズアップ「青春せいしゅん木村きむら和司かずし」『サッカーマガジン』1981ねん6がつごう
  • 「ワールドカップ予選よせんにちかん対決たいけつ」『サッカーマガジン』1986ねん1がつごう
  • 復活ふっかつ日産にっさん!天皇てんのうはい2度目どめ優勝ゆうしょう」『サッカーマガジン』1986ねん3がつごう
  • 木村きむら和司かずし攻撃こうげきサッカー・「背番号せばんごう10」のプレー』 (池田いけだ書店しょてん、1995ねん) ISBN 4262162435
  • 後藤ごとう健生たけお日本にっぽんサッカー日本にっぽん代表だいひょうの90ねん双葉社ふたばしゃ、2007ねん
  • 後藤ごとう健生たけお日本にっぽんサッカー日本にっぽん代表だいひょうの90ねん 資料しりょうへん双葉社ふたばしゃ、2007ねん
  • 『Sports Graphic Number ベスト・セレクションII』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1998ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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