木谷 實
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1909 | |
1975 | |
プロ |
1924 |
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タイトル | 4 |
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4 | |
18 | |
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20
人物
[また
アマチュア
また、ベテランとなって
生涯
[明治 42年 1月 25日 、父 十 作 、母 菊江 の長男 として神戸 市 水木通 に生 まれる。- 1917
年 8歳 の頃 から鳥居 鍋 次郎 に師事 。 - 1918
年 鴻 原 正広 、久保 松 勝喜 代 に師事 。 - 1917
年 父方 の祖父 没 、遺言 により父 も實 を棋士 として立 たせることを決意 。 - 1921
年 11月25日 12歳 で弟子入 りのため東京 へ、鈴木 為次郎 の弟子 となる。下宿 先 を探 す必要 があったため、久保 松 が二 所 ノ関 親方 へ頼 み込 み、二 所 ノ関 部屋 に居候 して鈴木 へ通 うこととなる[7][8]。 - 1922
年 鈴木 の最初 の内弟子 となる[9]。 - 1923
年 この年 創立 の中央 棋院に通 う。9月関東大震災 。12月鈴木 とともに大塚 の家 に世話 になる。 - 1924
年 (大正 13年 )15歳 2月 15日 付 で入 段 。7月 日本棋院 設立 。初段 棋士 として参加 。 - 1926
年 春 、日本棋院 定式 手合 で二 段 に昇段 。同年 夏 、推薦 により三 段 に進 む。独立 した棋正社 と日本棋院 との間 で行 われた院 社 対抗 戦 に、日本棋院 側 の代表 として出場 し、ジゴをはさんで8連勝 を果 たす。 - 1927
年 (昭和 2年 )3月 、四 段 に進 む。4月、日本棋院 大 手合 開始 。東宮 甲 組 四 段 棋士 として参加 、5勝 3敗 、三 等 に入賞 。1月~5月 掲載 の東京日日新聞 主催 新進 打切 碁 戦 で十 人 抜 きを果 たし「怪童 丸 」と呼 ばれる。日本棋院 社 対 棋正社 敗退 手合 で8人 抜 き。 - 1928
年 春期 大手 合 、二 等 に入賞 。 - 1929
年 (昭和 4年 )呉清源 三 段 と初 手合 。黒 の天元 マネ碁 。春季 大手 合 全勝 優勝 。秋期 大手 合 三 等 に入賞 。 - 1930
年 2月 15日 、五 段 に昇進 。春 、鈴木 為次郎 のもとから独立 。妹 ともに青山 に居 をかまえる。 - 1931
年 (昭和 6年 )1月 ~4月 の「新進 打切 碁 戦 」で呉清源 四 段 との持碁 打 ち直 しを含 んで五 人 抜 く。10月10日 、美春 夫人 と結婚 。麹 町 に新所帯 。 - 1932
年 秋期 大手 合 、三 等 に入賞 。8月西荻 窪 に転居 。 - 1933
年 (昭和 8年 )時事新報 主催 で呉清源 五 段 と十 番 碁 を打 つ。三 勝 三 敗 で中止 。11月、呉清源 とともに後楽 館 に滞在 し新 布石 を発表 [6]。木谷 と呉 の研究 を囲碁 ライターの安永 一 がまとめたものだった。「新 布石 法 」は、またたくまに囲碁 界 で大 ブームとなる。3月長女 誕生 。 - 1934
年 (昭和 9年 )、呉清源 (五 段 )との第 一 次 十 番 碁 を開始 。三 勝 三 敗 で、第 六 局 で打 ち切 りとなる。2月、六 段 に昇進 。5月、呉清源 五 段 らと満州 国 、中華民国 訪問 に出発 。7月朝鮮 を経 て帰京 。秋期 大手 合 三 等 に入賞 。12月、処女 作 「布石 と定石 の統合 」を出版 。滝野川 区 中里 に移 る。12月次女 誕生 。 - 1935
年 秋期 大手 合 二 等 に入賞 。12月長男 誕生 。 - 1936
年 1月 1日 付 けで七 段 の免状 授与 。4月「勝抜 き三 番 棋戦 」で1昭和 9年 2月 以来 十 人 抜 きを達成 、懸賞 金 三 千 円 を獲得 。秋期 大手 居 準 三 等 に入賞 。9月、次女 没 。 - 1937
年 6月 17日 「本因坊 名人 引退 碁 」挑戦 者 決定 6人 リーグ開始 。夏 、平塚 に移 る。12月次男 誕生 。 - 1938
年 (昭和 13年 )4月 「名人 引退 後 」挑戦 者 決定 リーグで五 戦 全勝 。6月26日 、本因坊 秀哉 名人 との引退 碁 を開始 。打 ち継 ぎ15回 を経 て、12月4日 に終局 。木谷 の先番 五 目 勝 に終 わる。この対局 の模様 を、川端 康成 が観戦 記 に書 き、さらにそれをもとに、小説 『名人 』を執筆 した。小説 中 では木谷 は大竹 と呼 ばれている。いわば引 き継 ぐ形 になった本因坊 と名人 は木谷 本人 は獲得 できなかったが弟子 たちがタイトルを獲得 した。 - 1939
年 6月 、「木谷 ・呉清源 十 番 碁 」開始 。12月、三 女 禮子 誕生 。 - 1940
年 「木谷 ・呉清源 十 番 碁 」 6局 目 まで呉 の5勝 1敗 で先 相 先 に打込 まれる。第 一 期 本因坊 戦 (全日本 選手権 )選 士 級 本戦 開始 。第 三 次 優勝 。12月、父 没 。 - 1941
年 (昭和 16年 )、呉清源 七 段 との第 2次 十 番 碁 は、呉 の6勝 4敗 で終 わる。 - 1942
年 前期 大手 合 で篠原 正美 六 段 を白 番 で破 り、八 段 の昇段 点 を獲得 。9月1日 に呉清源 とともに八 段 に昇進 。5月四 女 誕生 。7月、木谷 会 発会 (毎週 土曜日 ) - 1944
年 6月 14・15日 応召 のため壮行 譜 として呉清源 八 段 と記念 対局 。7月3日 、朝鮮 第 22部隊 (京 城 ・龍山 )に赴 く。9月29日 、除隊 。9月、五 女 誕生 。 - 1945
年 (昭和 20年 )、4月 山梨 疎開 、7月 平塚 の自宅 が戦災 のため全焼 。10月 平塚 に戻 る。 - 1946
年 藤沢 庫之助 七 段 との三 番 碁 。木谷 二 勝 一 敗 。 - 1947
年 (昭和 22年 )、林 有 太郎 七 段 と三 番 勝負 を行 い第 四 期 本因坊 戦 の挑戦 者 に決定 。岩本 薫 和 本因坊 に挑戦 するが、2-3で敗退 。三男 誕生 。 - 1948
年 大手 合 復活 。 - 1953
年 (昭和 28年 )、高川 秀 格 本因坊 に挑戦 するが、4-2で敗退 。 - 1954
年 (昭和 29年 )、高血圧 (脳溢血 )で倒 れ、二 年間 の療養 に入 る。 - 1956
年 12月第 二 期 最高 位 戦 リーグで前田 陳 繭 八 段 を破 り、九 段 に昇進 。 - 1957
年 (昭和 32年 )、1月 、第 一 期 「高松宮 賞 ・東京 新聞 社 杯 争奪 ・囲碁 選手権 」三 番 勝負 にて林 有 太郎 七 段 を破 り優勝 。3月、第 二 期 最高 位 戦 で坂田 栄男 九 段 に挑戦 し、3-1でタイトル奪取 。4月「日本 最強 決定 戦 」で13年 ぶりに呉清源 九 段 と対局 。 - 1958
年 (昭和 33年 )、第 三 期 最高 位 戦 で島村 利博 八 段 の挑戦 を3-2で退 け、最高 位 を連覇 。3月第 五 期 日本棋院 選手権 で坂田 に挑戦 するも敗 れる。 - 1959
年 (昭和 34年 )、高川 秀 格 本因坊 に挑戦 するが、4-2で敗退 。最高 位 戦 で坂田 栄男 の挑戦 を受 け、3-2で敗退 。 - 1960
年 (昭和 35年 )、第 7期 NHK杯 戦 優勝 。 - 1961
年 5月 四谷 三栄 町 に道場 を開設 。 - 1962
年 (昭和 37年 )、7月 、日本棋院 棋士 会長 (1964年 6月 まで)「木谷 一門 百 段 突破 記念 祝賀 会 」開催 。(8月 )。 - 1963
年 12月、二 度目 の脳溢血 発作 で倒 れ日本棋院 で静養 し翌朝 帰宅 。同月 31日 東大 病院 に入院 。 - 1964
年 (昭和 39年 )、2月 50日 ぶりに対局 に復帰 。7月、名人 戦 リーグ対局 中 病状 悪化 、手合 いから遠 のく。 - 1965
年 (昭和 40年 )、6月 、日本棋院 理事 に選出 される。10月、紫綬褒章 を受章 。 - 1968
年 (昭和 43年 )、7月 、美春 夫人 とともに第 3回 大倉 賞 を受賞 。第 六 期 プロ十 傑 戦 でファン投票 により14位 に選 ばれたため[10]、病気 休場 中 の身 ながら、12月24日 、一 回戦 で本田 邦久 七 段 と対局 して敗 れる。この碁 が正規 の手合 いとしては最終 局 となる。 - 1969
年 木谷 實 九段 還暦 祝賀 会 。6月理事 を辞任 。7月 日本棋院 顧問 に就任 。 - 1970
年 (昭和 45年 )、「木谷 一門 二 百 段 突破 記念 大会 」(3月 )。 - 1971
年 門下生 の石田 芳夫 七 段 が「本因坊 」を獲得 。木谷 の宿願 を代 わって果 たす。 - 1972
年 8月 、ハワイ棋院創立 25周年 記念 囲碁 大会 が行 われ一門 を引 き連 れてハワイを訪問 。 - 1973
年 7月 、三 度目 の脳溢血 発作 に倒 れる。9月茅ヶ崎 病院 で療養 生活 。 - 1974
年 3月 、三 女 の禮子 と弟子 の小林 光一 が結婚 。5月、退院 自宅 療養 。 - 1974
年 (昭和 49年 )、3月 木谷 道場 閉鎖 、平塚 へ戻 る。 - 1975
年 (昭和 50年 )、12月19日 心不全 のため平塚 の自宅 で死去 。享年 66。21日 自宅 で葬儀 。28日 、日本棋院 葬 。従 四 位 勲 二 等 瑞宝章 に叙 せられる。 - 1977
年 「木谷 實 全集 」刊行 開始 。6月20日 、孫 の小林 泉美 誕生 。 - 1978
年 5月 、「木谷 實 全集 」完結 。 - 2010
年 (平成 22年 )、第 7回 囲碁 殿堂 入 り。
棋歴
[棋風
[新 布石
[1933
木谷 定石
[- ツケヒキ
定石
ツケヒキ
- ツケサガリ
定石
- ツキアタリ
木谷 道場
[4 | 1 | 7 | 5 | 2 | |||||
1 | 5 | 2 | 1 | 2 | |||||
2 | 4 | 11 | 4 | 3 | 7 | 7 | |||
8 | 9 | 12 | 3 | 2 | 2 | 6 | 9 | ||
8 | 8 | 5 | 9 | 5 | 7 | ||||
1 | 6 | 3 | |||||||
1 | 1 | 1 |
弟子
[弟子
[孫弟子
[url | ||||||
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1939 | 1955 | [11] | ||||
1944 | 1967 | [12] | ||||
1952 | 1975 | テレビ |
[13] | |||
1956 | 1983 | [14] | ||||
1960 | 1982 | [15] | ||||
1962 | 1981 | [16] | ||||
1964 | 1980 | [17] | ||||
1965 | 1987 | [18] | ||||
1966 | 1980 | NEC |
[19] | |||
1966 | 1985 | [20] | ||||
1967 | 1983 | [21] | ||||
1968 | 1987 | [22] | ||||
1968 | 1986 | [23] | ||||
1968 | 1987 | [24] | ||||
1968 | 1987 | [25] | ||||
1969 | 1990 | NHK |
[26] | |||
1970 | 1987 | [27] | ||||
1971 | 1991 | [28] | ||||
ハンス・ ピーチ |
1968 | 1997 | [29] | |||
1972 | 1992 | [30] | ||||
1973 | 1995 | [31] | ||||
1974 | 1996 | [32] | ||||
1975 | 1993 | [33] | ||||
1977 | 1997 | [34] | ||||
1977 | 1998 | NHK『 |
[35] | |||
1977 | 1997 | [36] | ||||
1979 | 1996 | [37] | ||||
1979 | 1995 | [38] | ||||
1980 | 1997 | [39] | ||||
1981 | 1996 | [40] | ||||
1981 | 2004 | [41] | ||||
1981 | 1999 | [42] | ||||
1984 | 2002 | [43] | ||||
1987 | 2004 | [44] | ||||
アンティ・ トルマネン |
1989 | 2017 | フィンランド |
[45] | ||
1991 | 2011 | アマ |
[46] |
家系
[子女
[長女 和子 :東京芸術大学 卒業 。音楽家 [48]。次女 :2歳 で夭逝 長男 健一 :東京大学 医学部 卒業 。医師 。国立 療養 所 中部 病院 長寿医療研究 センターを務 めた(2008年 没 )。次男 明 :東京大学 法学部 卒業 。裁判官 。退官 後 に法政大学 法科 大学院 教授 を務 めた。三 女 禮子 :囲碁 棋士 (七 段 )、小林 光一 名誉 三 冠 の夫 、小林 泉美 の母 。張栩 九 段 の岳 母 。四 女 智子 :慶應義塾大学 卒業 。毎日放送 アナウンサーを務 めた(2009年 没 )。五 女 :東京教育大学 卒業 。福祉 の道 へ。三男 :東京大学 経済学部 卒業 。東京 都庁 勤務 。
打 碁 集 ・著作
[呉清源 との共著 (ライター安永 一 )『圍 棋革命 新 布石 法 星 ・三 々・天元 の運用 』平凡社 1934年 (再刊 安永 一 の共著 の名義 あり、三 一 書房 1994年 )- 『
現代 の名 局 3・4木谷 実 』誠 文 堂 新光 社 1968年 - 『
木谷 實 全集 』全 5冊 筑摩書房 1977年 - 『
木谷 實 (上 )(下 )』(現代 囲碁 大系 8,9)筑摩書房
脚注
[注釈
[- ^ 「
実 」と書 かれることもある。
出典
[- ^
石井 代 蔵 『土俵 の修羅 』時事通信社 「友 綱 再興 に燃 えた喧嘩 玉 錦 」 - ^
木谷 実 著 『新 布石 の針路 』P12,日本棋院 ,1936 - ^
林 裕 著 『囲碁 風雲 録 :昭和 の大 勝負 』p35,人物 往来 社 ,1968 - ^ 『
現代 の名 局 4木谷 実 (下 )』誠 文 堂 新光 社 P.214(田村 竜騎兵 著 「木谷 さんの歩 んだ道 」) - ^ 『
現代 の名 局 4木谷 実 (下 )』誠 文 堂 新光 社 P.199 - ^ a b c “
囲碁 新 布石 発祥 の地 ”.地獄谷 温泉 後楽 館 . 2023年 6月 2日 閲覧 。 - ^
石井 代 蔵 『土俵 の修羅 』時事通信社 「友 綱 再興 に燃 えた喧嘩 玉 錦 」 - ^
木谷 実 著 『新 布石 の針路 』P12,日本棋院 ,1936 - ^
木谷 実 著 『新 布石 の針路 』P12,日本棋院 ,1936 - ^ 『
現代 の名 局 4木谷 実 (下 )』誠 文 堂 新光 社 P.204田村 竜騎兵 著 「木谷 さんの歩 んだ道 」) - ^
谷 宮 - ^
吉田 - ^
木谷 - ^
水野 - ^
前田 - ^
小松 - ^
小 県 - ^
大木 - ^
大矢 - ^
岡田 - ^
西村 - ^
松岡 - ^
大森 - ^
酒井 - ^
鈴木 - ^
穂坂 - ^
小山 - ^
高橋 - ^ ハンス
- ^
松原 - ^
吉原 - ^
桑原 - ^
金澤 - ^
王 - ^
武 宮 - ^
小林 - ^
金 秀俊 - ^
金 - ^
松本 - ^
河野 臨 - ^
三村 - ^
鶴岡 - ^
長島 - ^
向井 - ^ トルマネン
- ^
常石 - ^ a b
内藤 由起子 (囲碁 観戦 記者 )『それも一 局 弟子 たちが語 る「木谷 道場 」のおしえ』水曜 社 、1969年 。ISBN 978-4-88065-396-9。 - ^
平塚 フィルハーモニー管弦楽 団 タウンレポート ルーツは"囲碁 の聖地 "に タウンニュース
参考 文献
[木谷 実 『新 布石 の針路 』日本棋院 ,1936木谷 美春 『木谷 道場 と七 十 人 の子 どもたち 』日本 放送 出版 協会 1992年
関連 項目
[湘南 ひらつか囲碁 まつり -道場 が平塚 市 にあったことから平塚 市 駅前 商店 街 で開催 されている。