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木谷きたにみのる

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 木谷きたにみのる きゅうだん
呉清源ごせいげん対局たいきょくちゅう木谷きたにみのるみぎ
名前なまえ 木谷きたにみのる
生年月日せいねんがっぴ (1909-01-25) 1909ねん1がつ25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1975-12-19) 1975ねん12月19にち(66さいぼつ
プロねん 1924ねん
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけん神戸こうべ
所属しょぞく 日本棋院にほんきいん
師匠ししょう 鳥居とりいなべ次郎じろう おおとりはら正広まさひろ
久保くぼまつ勝喜かつよしだい 鈴木すずき為次郎ためじろう
段位だんい きゅうだん
概要がいよう
タイトル獲得かくとく合計ごうけい 4
ななだいタイトル
本因坊ほんいんぼう 挑戦ちょうせんしゃ 3(1947、1953、1959)
名人めいじんリーグ 4
本因坊ほんいんぼうリーグ 18
戦績せんせき
最高さいこうせん 2
囲碁いご選手権せんしゅけんせん 1
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木谷きたに みのる[注釈ちゅうしゃく 1](きたに みのる、1909ねん1がつ25にち - 1975ねん12月19にち)は、囲碁いご棋士きし兵庫ひょうごけん神戸こうべ出身しゅっしん鈴木すずき為次郎ためじろう名誉めいよきゅうだん門下もんかきゅうだん木谷きたに道場どうじょう主催しゅさい位階いかいしたがえよん勲等くんとうくんとう日本棋院にほんきいん囲碁いご殿堂でんどうはいり。大倉おおくらしょう受賞じゅしょうしゃ

20世紀せいき棋士きしなかでも指折ゆびおりの存在そんざいとされており呉清源ごせいげんとも大正たいしょう時代じだいから活躍かつやく。また、自宅じたく木谷きたに道場どうじょうとして内弟子うちでしをとりタイトルをあらそうトップ棋士きしから普及ふきゅう専念せんねんする地方ちほう棋士きしまでおおくの棋士きしそだてた。

弟子でしたちは1970年代ねんだい初頭しょとうから1990年代ねんだいなかごろまでタイトル戦線せんせん席巻せっけんし、現在げんざい孫弟子まごでしまでふくめた一門いちもんのプロ棋士きしは50にん以上いじょう段位だんい合計ごうけいは500だん突破とっぱしている。

弟子でし大竹おおたけ英雄ひでお名誉めいよ碁聖ごせい加藤かとう正夫まさお名誉めいよ王座おうざじゅうよんせい本因坊ほんいんぼうしゅうかおるたけみや正樹まさききゅうだん小林こばやし光一こういち名誉めいよ棋聖きせいじゅうせい本因坊ほんいんぼう治勲ちくん小林こばやしさとしきゅうだん・ほか多数たすう

人物じんぶつ

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わかくして天才てんさいばれ、1924ねん日本棋院にほんきいん設立せつりつされるとすぐに参加さんかしている。そこで中国ちゅうごくから呉清源ごせいげん出会であい、のちかれ友人ゆうじんでありかつ最大さいだい好敵手こうてきしゅとなる。 木谷きたに1933ねんから1936ねんごろに「しん布石ふせき」とばれる革新かくしんてき序盤じょばん理論りろん発表はっぴょうしている。

かれらは1939ねんから「世紀せいき対局たいきょく」ともしょうされる「鎌倉かまくらじゅうばん」をったが、その結果けっか勝利しょうりわっている。本因坊ほんいんぼうには3挑戦ちょうせんして獲得かくとく失敗しっぱいするなどだいタイトルにはめぐまれなかったため「悲劇ひげき棋士きし」とばれることもある。また、しん布石ふせきはじめとしたしん機軸きじく多数たすう創案そうあんした。

また全国ぜんこくから優秀ゆうしゅう少年しょうねんあつめて育成いくせいした「木谷きたに道場どうじょう」からはおおくのだい棋士きし巣立すだち、昭和しょうわ後半こうはんのタイトル戦線せんせんをほぼ独占どくせんするほどのいきおいをしめした。

アマチュア指導しどうにもちからそそぎ、土曜どよう木谷きだにかい(のちじんふうかい)を主宰しゅさい

大食漢たいしょくかんであり、あるときにはあさはいひるろくはいよるななはいと、どんぶりめしをいあげたといわれる。1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいには鈴木すずき為次郎ためじろう神田かんだ下宿げしゅく遭遇そうぐうし、昼食ちゅうしょくにかかろうとするとき木谷きたにはおはちをかかえてそとした(鈴木すずき為次郎ためじろうだん)。本人ほんにんしょせき部屋へや居候いそうろうして鈴木すずきとおっていた時代じだい[1][2]部屋へやにいたたまにしきだい32だい横綱よこづな)から弟分おとうとぶんとして可愛かわいがられて大食漢たいしょくかんになったという[3]

病気びょうき医師いし家族かぞく休場きゅうじょうをすすめても、なかなかききいれず、「偉大いだいなる駄々だだ」の異名いみょうがあった[4]

また、ベテランとなって、その存在そんざいおおきさから「大木谷おおきだに」とばれた[5]

つま美春みはる長野ながのけん地獄谷じごくだに温泉おんせんにある温泉おんせん宿やど後楽こうらくかん」の経営けいえいしゃ長女ちょうじょ[6]棋士きし小林こばやし禮子あやこさんじょ小林こばやし光一こういち名誉めいよさんかん婿むこ禮子あやこおっと)。棋士きし女流じょりゅう本因坊ほんいんぼうなどを獲得かくとくした小林こばやし泉美いずみまご禮子あやこ)。もとかんおう張栩ちょううきゅうだんまごおっと泉美いずみおっと)。棋士きしちょうこころきよしはひまご泉美いずみ)。

生涯しょうがい

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  • 明治めいじ42ねん1がつ25にちちちじゅうさくはは菊江きくえ長男ちょうなんとして神戸こうべ水木通みずきどおりまれる。
  • 1917ねん 8さいころから鳥居とりいなべ次郎じろう師事しじ
  • 1918ねん おおとりはら正広まさひろ久保くぼまつ勝喜かつよしだい師事しじ
  • 1917ねん 父方ちちかた祖父そふぼつ遺言ゆいごんによりちち棋士きしとしてたせることを決意けつい
  • 1921ねん11月25にち 12さい弟子入でしいりのため東京とうきょうへ、鈴木すずき為次郎ためじろう弟子でしとなる。下宿げしゅくさきさが必要ひつようがあったため、久保くぼまつしょせき親方おやかたたのみ、しょせき部屋へや居候いそうろうして鈴木すずきかようこととなる[7][8]
  • 1922ねん 鈴木すずき最初さいしょ内弟子うちでしとなる[9]
  • 1923ねん このとし創立そうりつ中央ちゅうおう棋院にかよう。9月関東大震災かんとうだいしんさい。12月鈴木すずきとともに大塚おおつかいえ世話せわになる。
  • 1924ねん(大正たいしょう13ねん)15さい2がつ15にちづけにゅうだん。7がつ日本棋院にほんきいん設立せつりつ初段しょだん棋士きしとして参加さんか
  • 1926ねん はる日本棋院にほんきいん定式ていしき手合てあいだん昇段しょうだん同年どうねんなつ推薦すいせんによりさんだんすすむ。独立どくりつした棋正しゃ日本棋院にほんきいんとのあいだおこなわれたいんしゃ対抗たいこうせんに、日本棋院にほんきいんがわ代表だいひょうとして出場しゅつじょうし、ジゴをはさんで8連勝れんしょうたす。
  • 1927ねん (昭和しょうわ2ねん)3がつよんだんすすむ。4月、日本棋院にほんきいんだい手合てあい開始かいし東宮とうぐうかぶとぐみよんだん棋士きしとして参加さんか、5しょう3はいさんとう入賞にゅうしょう。1月~5がつ掲載けいさい東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん主催しゅさい新進しんしん打切うちきりせんじゅうにんたし「怪童かいどうまる」とばれる。日本棋院にほんきいんしゃたい棋正しゃ敗退はいたい手合てあいで8にんき。
  • 1928ねん 春期しゅんき大手おおてあいとう入賞にゅうしょう
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん呉清源ごせいげんさんだんはつ手合てあいくろ天元てんげんマネ春季しゅんき大手おおてあい全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう秋期しゅうき大手おおてあいさんとう入賞にゅうしょう
  • 1930ねん 2がつ15にちだん昇進しょうしんはる鈴木すずき為次郎ためじろうのもとから独立どくりついもうとともに青山あおやまきょをかまえる。
  • 1931ねん (昭和しょうわ6ねん)1がつ~4がつの「新進しんしん打切うちきりせん」で呉清源ごせいげんよんだんとの持碁じごなおしをふくんでにん。10月10にち美春みはる夫人ふじん結婚けっこんこうじまち新所帯しんしょたい
  • 1932ねん 秋期しゅうき大手おおてあいさんとう入賞にゅうしょう。8月西荻にしおぎくぼ転居てんきょ
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん時事新報じじしんぽう主催しゅさい呉清源ごせいげんだんじゅうばんつ。さんしょうさんはい中止ちゅうし。11月、呉清源ごせいげんとともに後楽こうらくかん滞在たいざいしん布石ふせき発表はっぴょう[6]木谷きたに研究けんきゅう囲碁いごライターの安永やすながはじめがまとめたものだった。「しん布石ふせきほう」は、またたくまに囲碁いごかいだいブームとなる。3月長女ちょうじょ誕生たんじょう
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)、呉清源ごせいげんだん)とのだいいちじゅうばん開始かいしさんしょうさんはいで、だいろくきょくりとなる。2月、ろくだん昇進しょうしん。5月、呉清源ごせいげんだんらと満州まんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく訪問ほうもん出発しゅっぱつ。7月朝鮮ちょうせん帰京ききょう秋期しゅうき大手おおてあいさんとう入賞にゅうしょう。12月、処女しょじょさく布石ふせき定石じょうせき統合とうごう」を出版しゅっぱん滝野川たきのがわ中里なかさとうつる。12月次女じじょ誕生たんじょう
  • 1935ねん 秋期しゅうき大手おおてあいとう入賞にゅうしょう。12月長男ちょうなん誕生たんじょう
  • 1936ねん 1がつ1にちけでななだん免状めんじょう授与じゅよ。4月「勝抜かちぬさんばん棋戦きせん」で1昭和しょうわ9ねん2がつ以来いらいじゅうにん達成たっせい懸賞けんしょうきんさんせんえん獲得かくとく秋期しゅうき大手おおてじゅんさんとう入賞にゅうしょう。9月、次女じじょぼつ
  • 1937ねん 6がつ17にち本因坊ほんいんぼう名人めいじん引退いんたい挑戦ちょうせんしゃ決定けってい6にんリーグ開始かいしなつ平塚ひらつかうつる。12月次男じなん誕生たんじょう
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつ名人めいじん引退いんたい挑戦ちょうせんしゃ決定けっていリーグでせん全勝ぜんしょう。6月26にち本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや名人めいじんとの引退いんたい開始かいしぎ15かいて、12月4にち終局しゅうきょく木谷きたに先番せんばんもくかちわる。この対局たいきょく模様もようを、川端かわばた康成やすなり観戦かんせんき、さらにそれをもとに、小説しょうせつ名人めいじん』を執筆しっぴつした。小説しょうせつちゅうでは木谷きたに大竹おおたけばれている。いわばかたちになった本因坊ほんいんぼう名人めいじん木谷きたに本人ほんにん獲得かくとくできなかったが弟子でしたちがタイトルを獲得かくとくした。
  • 1939ねん 6がつ、「木谷きたに呉清源ごせいげんじゅうばん開始かいし。12月、さんじょ禮子あやこ誕生たんじょう
  • 1940ねん木谷きたに呉清源ごせいげんじゅうばん」 6きょくまでくれの5しょう1はいさきしょうさき打込うちこまれる。だいいち本因坊ほんいんぼうたたかえ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんせんきゅう本戦ほんせん開始かいしだいさん優勝ゆうしょう。12月、ちちぼつ
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)、呉清源ごせいげんななだんとのだい2じゅうばんは、の6しょう4はいわる。
  • 1942ねん 前期ぜんき大手おおてあい篠原しのはら正美まさみろくだんしろばんやぶり、はちだん昇段しょうだんてん獲得かくとく。9月1にち呉清源ごせいげんとともにはちだん昇進しょうしん。5月よんじょ誕生たんじょう。7月、木谷きたにかい発会はっかい毎週まいしゅう土曜日どようび
  • 1944ねん 6がつ14・15にち応召おうしょうのため壮行そうこうとして呉清源ごせいげんはちだん記念きねん対局たいきょく。7月3にち朝鮮ちょうせんだい22部隊ぶたいきょうじょう龍山たつやま)におもむく。9月29にち除隊じょたい。9月、じょ誕生たんじょう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)、4がつ山梨やまなし疎開そかい、7がつ平塚ひらつか自宅じたく戦災せんさいのため全焼ぜんしょう。10がつ平塚ひらつかもどる。
  • 1946ねん 藤沢ふじさわ庫之助くらのすけななだんとのさんばん木谷きだにしょういちはい
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん)、はやしゆう太郎たろうななだんさんばん勝負しょうぶおこなだいよん本因坊ほんいんぼうせん挑戦ちょうせんしゃ決定けってい岩本いわもとかおるかず本因坊ほんいんぼう挑戦ちょうせんするが、2-3で敗退はいたい三男さんなん誕生たんじょう
  • 1948ねん 大手おおてあい復活ふっかつ
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん)、高川たかがわしげるかく本因坊ほんいんぼう挑戦ちょうせんするが、4-2で敗退はいたい
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん)、高血圧こうけつあつ脳溢血のういっけつ)でたおれ、年間ねんかん療養りょうようはいる。
  • 1956ねん 12月だい最高さいこうせんリーグで前田まえだひねまゆはちだんやぶり、きゅうだん昇進しょうしん
  • 1957ねん昭和しょうわ32ねん)、1がつだいいち高松宮たかまつのみやしょう東京とうきょう新聞しんぶんしゃはい争奪そうだつ囲碁いご選手権せんしゅけんさんばん勝負しょうぶにてはやしゆう太郎たろうななだんやぶ優勝ゆうしょう。3月、だい最高さいこうせん坂田さかた栄男さかおきゅうだん挑戦ちょうせんし、3-1でタイトル奪取だっしゅ。4月「日本にっぽん最強さいきょう決定けっていせん」で13ねんぶりに呉清源ごせいげんきゅうだん対局たいきょく
  • 1958ねん昭和しょうわ33ねん)、だいさん最高さいこうせん島村しまむら利博としひろはちだん挑戦ちょうせんを3-2で退しりぞけ、最高さいこう連覇れんぱ。3月だい日本棋院にほんきいん選手権せんしゅけん坂田さかた挑戦ちょうせんするもやぶれる。
  • 1959ねん昭和しょうわ34ねん)、高川たかがわしげるかく本因坊ほんいんぼう挑戦ちょうせんするが、4-2で敗退はいたい最高さいこうせん坂田さかた栄男さかお挑戦ちょうせんけ、3-2で敗退はいたい
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)、だい7NHKはいせん優勝ゆうしょう
  • 1961ねん 5がつ四谷よつや三栄さんえいまち道場どうじょう開設かいせつ
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん)、7がつ日本棋院にほんきいん棋士きし会長かいちょう(1964ねん6がつまで)「木谷きたに一門いちもんひゃくだん突破とっぱ記念きねん祝賀しゅくがかい開催かいさい。(8がつ)。
  • 1963ねん 12月、度目どめ脳溢血のういっけつ発作ほっさたお日本棋院にほんきいん静養せいよう翌朝よくあさ帰宅きたく同月どうげつ31にち東大とうだい病院びょういん入院にゅういん
  • 1964ねん昭和しょうわ39ねん)、2がつ50にちぶりに対局たいきょく復帰ふっき。7月、名人めいじんせんリーグ対局たいきょくちゅう病状びょうじょう悪化あっか手合てあいからとおのく。
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん)、6がつ日本棋院にほんきいん理事りじ選出せんしゅつされる。10月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)、7がつ美春みはる夫人ふじんとともにだい3かい大倉おおくらしょう受賞じゅしょうだいろくプロじゅうすぐるせんでファン投票とうひょうにより14えらばれたため[10]病気びょうき休場きゅうじょうちゅうながら、12月24にちいち回戦かいせん本田ほんだ邦久くにひさななだん対局たいきょくしてやぶれる。この正規せいき手合てあいとしては最終さいしゅうきょくとなる。
  • 1969ねん 木谷きたにみのる九段くだん還暦かんれき祝賀しゅくがかい。6月理事りじ辞任じにん。7がつ日本棋院にほんきいん顧問こもん就任しゅうにん
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん)、「木谷きたに一門いちもんひゃくだん突破とっぱ記念きねん大会たいかい」(3がつ)。
  • 1971ねん 門下生もんかせい石田いしだ芳夫よしおななだんが「本因坊ほんいんぼう」を獲得かくとく木谷きたに宿願しゅくがんわってたす。
  • 1972ねん 8がつ、ハワイ棋院創立そうりつ25周年しゅうねん記念きねん囲碁いご大会たいかいおこなわれ一門いちもんれてハワイを訪問ほうもん
  • 1973ねん 7がつさん度目どめ脳溢血のういっけつ発作ほっさたおれる。9月茅ヶ崎ちがさき病院びょういん療養りょうよう生活せいかつ
  • 1974ねん 3がつさんじょ禮子あやこ弟子でし小林こばやし光一こういち結婚けっこん。5月、退院たいいん自宅じたく療養りょうよう
  • 1974ねん昭和しょうわ49ねん)、3がつ木谷きたに道場どうじょう閉鎖へいさ平塚ひらつかもどる。
  • 1975ねん昭和しょうわ50ねん)、12月19にち心不全しんふぜんのため平塚ひらつか自宅じたく死去しきょ享年きょうねん66。21にち自宅じたく葬儀そうぎ。28にち日本棋院にほんきいんそうしたがえよんくんとう瑞宝章ずいほうしょうじょせられる。
  • 1977ねん木谷きたにみのる全集ぜんしゅう刊行かんこう開始かいし。6月20にちまご小林こばやし泉美いずみ誕生たんじょう
  • 1978ねん 5がつ、「木谷きたにみのる全集ぜんしゅう完結かんけつ
  • 2010ねん(平成へいせい22ねん)、だい7かい囲碁いご殿堂でんどうはいり。

棋風きふう

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木谷きたに棋風きふう生涯しょうがいなん変化へんかしている。ていだん時代じだい戦闘せんとうてき棋風きふうで「怪童かいどうまる」の異名いみょうをとったが、だん時代じだいしん布石ふせき発表はっぴょうしてくらいたか変化へんかした(前田まえだひねなんじはこの時代じだい木谷きたにを「史上しじょう最強さいきょうだん」とひょうしている)。1936ねんごろからは実利じつりおもんじる棋風きふうとなって呉清源ごせいげんとのじゅうばんたたかっている。療養りょうようからの復帰ふっきは、さきかせいで相手あいてだい模様もようらせて突入とつにゅうする戦法せんぽうおおるようになり、「木谷きだにりゅうのドカン」とばれた。

しん布石ふせき

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1933ねん昭和しょうわ8ねん)に地獄谷じごくだに温泉おんせんにある美春みはる実家じっか後楽こうらくかん」に呉清源ごせいげん滞在たいざいしなが議論ぎろんかさ[6]、1934ねん安永やすながはじめよんだん執筆しっぴつにより『かこえ棋革いのちしん布石ふせきほう』を出版しゅっぱんした。従来じゅうらいすみからあたりへ、あたりから中央ちゅうおうへとめられた定石じょうせきからの脱却だっきゃく目指めざし、勢力せいりょく中庸ちゅうようをいくこの理論りろんは、昭和しょうわ囲碁いごかいをプロからアマチュアまでおおきくえていった。

木谷きたに定石じょうせき

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木谷きたにしん布石ふせき構想こうそうほか、いくつかの新手あらてしている。現在げんざいたれるもあるが、独特どくとく感覚かんかくであるため真似まねする棋士きしあらわれない手段しゅだんおおい。

  • ツケヒキ定石じょうせき

ツケヒキ定石じょうせきのち上辺うわべしろ5にかたツグのが伝統でんとうてき手法しゅほうであったが、木谷きたに下辺かへんのようにカケツぐ手段しゅだん開発かいはつした。しろ7まで一路いちろひろくヒラけるメリットがある。

  • ツケサガリ定石じょうせき

木谷きたにはツケヒキではなくしろ4のサガリを多用たようした。ややがかかりぎとられて、棋士きしはほとんど使用しようしなかった。「木谷きたに定石じょうせき」といった場合ばあい、この手段しゅだんすことがおおい。

  • ツキアタリ

木谷きたに小目こもくいちあいだだかガカリたいし、しろ2にたる手段しゅだん多用たようした。以下いかくろ3~9と進行しんこうする。ツキアタリはあまりにかたちわるく、相手あいてこうかたちあたえるとしてまった棋士きしあらわれなかったが、木谷きたに信念しんねんでこのつづけた。

木谷きたに道場どうじょう

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木谷きたに棋士きし育成いくせい非常ひじょうちからそそ神奈川かながわけん平塚ひらつかかれ実家じっかにおいて「木谷きたに道場どうじょう」をひらき、美春みはるによって運営うんえいされていた。木谷きたに療養りょうようちゅうの1963ねん以降いこう梶原かじはら武雄たけおが、いわば一門いちもんの「師範代しはんだい」としてきびしくかれらをきたえた。おも門下生もんかせい以下いかとおり。

棋士きし 称号しょうごう 棋聖きせい 名人めいじん 本因坊ほんいんぼう 王座おうざ 天元てんげん 碁聖ごせい じゅうだん 最優秀さいゆうしゅう
棋士きししょう
大竹おおたけ英雄ひでお 名誉めいよ碁聖ごせい 4 1 7 5 2
石田いしだ芳夫よしお じゅうよんせい本因坊ほんいんぼう 1 5 2 1 2
加藤かとう正夫まさお 名誉めいよ王座おうざ 2 4 11 4 3 7 7
ちょう治勲ちくん じゅうせい本因坊ほんいんぼう名誉めいよ名人めいじん 8 9 12 3 2 2 6 9
小林こばやし光一こういち 名誉めいよ棋聖きせい名誉めいよ名人めいじん名誉めいよ碁聖ごせい 8 8 5 9 5 7
たけみや正樹まさき きゅうだん 1 6 3
小林こばやしさとし きゅうだん 1 1 1

太字ふとじ歴代れきだい最多さいた獲得かくとく

弟子でし

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弟子でし

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弟子でし木谷きたに道場どうじょう参照さんしょう

孫弟子まごでし

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棋士きし 段位だんい 生年せいねん にゅうだん 実績じっせきなど url
たにみや悌二ていじ きゅうだん 1939 1955 かじ ななだんせんじゅん優勝ゆうしょう [11]
吉田よしだひろしいっ ろくだん 1944 1967 本田ほんだ 欧州おうしゅう囲碁いご指導しどうしゃ [12]
木谷きたに好美よしみ だん 1952 1975 尾崎おざき テレビ早碁はやご司会しかいしゃ [13]
水野みずの芳香よしこ さんだん 1956 1983 土田つちた [14]
前田まえだ良二りょうじ ななだん 1960 1982 大平おおひら 筑波大学つくばだいがく理科りかだい講師こうし [15]
小松こまつ英子えいこ よんだん 1962 1981 筒井つつい 女流じょりゅう奨励しょうれいしょう小松こまつ英樹ひでききゅうだんつま [16]
しょうけん真樹まさき きゅうだん 1964 1980 土田つちた 名人めいじんリーグ、通算つうさん800しょう [17]
大木おおき啓司けいじ ななだん 1965 1987 小林こばやしひかり 通算つうさん200しょう [18]
大矢おおや浩一こういち きゅうだん 1966 1980 小林こばやしひかり NEC俊英しゅんえい優勝ゆうしょう本因坊ほんいんぼうリーグ [19]
岡田おかだしん一郎いちろう はちだん 1966 1985 加藤かとう 通算つうさん400しょう [20]
西村にしむらけい はちだん 1967 1983 大竹おおたけ 通算つうさん300しょう [21]
松岡まつおか秀樹ひでき きゅうだん 1968 1987 土田つちた 王冠おうかん [22]
大森おおもり泰志やすし はちだん 1968 1986 加藤かとう 通算つうさん400しょう [23]
酒井さかい真樹まさき はちだん 1968 1987 小林こばやしひかり 名人めいじんせんリーグ [24]
鈴木すずき伊佐男いさお ななだん 1968 1987 加藤かとう 通算つうさん200しょう [25]
穂坂ほさかまゆ さんだん 1969 1990 小林こばやし NHKはい司会しかい [26]
小山こやま栄美えみ ろくだん 1970 1987 加藤かとう 女流じょりゅう名人めいじん4 [27]
高橋たかはし秀夫ひでお ななだん 1971 1991 石田いしだ 通算つうさん200しょう よんだんせん優勝ゆうしょう [28]
ハンス・
ピーチ
ろくだん 1968 1997 小林こばやしせん 欧州おうしゅう代表だいひょう [29]
松原まつばら大成たいせい ろくだん 1972 1992 たけみや 通算つうさん200しょう [30]
吉原よしはら(梅沢うめざわ)
由香里ゆかり
ろくだん 1973 1995 加藤かとう 女流じょりゅう棋聖きせい、『ヒカルの監修かんしゅう [31]
桑原くわばら陽子ようこ ろくだん 1974 1996 小林こばやしひかり 女流じょりゅう本因坊ほんいんぼう  [32]
金澤かなざわ秀男ひでお はちだん 1975 1993 小林こばやしひかり 通算つうさん300しょう [33]
おうゆいにん だん 1977 1997 筒井つつい 博士はかせ前期ぜんき課程かてい修了しゅうりょう [34]
たけみや陽光ようこう ろくだん 1977 1998 たけみや NHK『囲碁いご時間じかん講師こうし [35]
小林こばやし泉美いずみ ろくだん 1977 1997 小林こばやしひかり 女流じょりゅうタイトル多数たすう [36]
きむ秀俊ひでとし はちだん 1979 1996 ちょう治勲ちくん 新人しんじんおう名人めいじんせんリーグ [37]
金光植こんこうしょく ななだん 1979 1995 ちょう治勲ちくん 韓国かんこく棋院所属しょぞく [38]
松本まつもと武久たけひさ ななだん 1980 1997 ちょう治勲ちくん たいにち精鋭せいえいじゅん優勝ゆうしょう [39]
河野こうの きゅうだん 1981 1996 小林こばやしひかり 天元てんげん3連覇れんぱ [40]
三村みつむらかおる さんだん 1981 2004 本田ほんだ 向井むかいさん姉妹しまい三村みつむらさとしきゅうだんつま [41]
鶴山つるやま淳志あつし ななだん 1981 1999 ちょう治勲ちくん 勝率しょうりつだい1しょう [42]
長島ながしまこずえめぐみ だん 1984 2002 本田ほんだ 向井むかいさん姉妹しまい [43]
向井むかいせんあきら だん 1987 2004 本田ほんだ 向井むかいさん姉妹しまい女流じょりゅう本因坊ほんいんぼう [44]
アンティ・
トルマネン
初段しょだん 1989 2017 小林こばやしせん フィンランド出身しゅっしん [45]
常石つねいし隆志たかし さんだん 1991 2011 小林こばやしたかし アマ名人めいじん [46]

参考さんこう[47]

家系かけい

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木谷きたにみのるきゅうだん
 
 
 
 
小林こばやし禮子あやこ
もと女流じょりゅう名人めいじん
 
小林こばやし光一こういち
名誉めいよさんかん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小林こばやし泉美いずみ
もと女流じょりゅうかん
 
張栩ちょうう もとかん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょうこころきよしちょうしん
 

子女しじょ

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三男さんなんじょもうけている。50にん以上いじょう弟子でしをプロりさせた木谷きたにだが、実子じっしでプロりしたのは1人ひとりのみ。3にん男子だんしすべ東京大学とうきょうだいがく卒業そつぎょうした[47]

しゅう著作ちょさく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 」とかれることもある。

出典しゅってん

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  1. ^ 石井いしいだいぞう土俵どひょう修羅しゅら時事通信社じじつうしんしゃともつな再興さいこうえた喧嘩けんかだまにしき
  2. ^ 木谷きたにみのる ちょしん布石ふせき針路しんろ』P12,日本棋院にほんきいん,1936
  3. ^ はやしひろし ちょ囲碁いご風雲ふううんろく : 昭和しょうわだい勝負しょうぶ』p35,人物じんぶつ往来おうらいしゃ,1968
  4. ^ 現代げんだいきょく4 木谷きたにみのるした)』まことぶんどう新光しんこうしゃ P.214(田村たむら竜騎兵りゅうきへいちょ木谷きたにさんのあゆんだみち」)
  5. ^ 現代げんだいきょく4 木谷きたにみのるした)』まことぶんどう新光しんこうしゃ P.199
  6. ^ a b c 囲碁いご しん布石ふせき発祥はっしょう”. 地獄谷じごくだに温泉おんせん後楽こうらくかん. 2023ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ 石井いしいだいぞう土俵どひょう修羅しゅら時事通信社じじつうしんしゃともつな再興さいこうえた喧嘩けんかだまにしき
  8. ^ 木谷きたにみのる ちょしん布石ふせき針路しんろ』P12,日本棋院にほんきいん,1936
  9. ^ 木谷きたにみのる ちょしん布石ふせき針路しんろ』P12,日本棋院にほんきいん,1936
  10. ^ 現代げんだいきょく4 木谷きたにみのるした)』まことぶんどう新光しんこうしゃ P.204 田村たむら竜騎兵りゅうきへいちょ木谷きたにさんのあゆんだみち」)
  11. ^ たにみや
  12. ^ 吉田よしだ
  13. ^ 木谷きたに
  14. ^ 水野みずの
  15. ^ 前田まえだ
  16. ^ 小松こまつ
  17. ^ しょうけん
  18. ^ 大木たいぼく
  19. ^ 大矢おおや
  20. ^ 岡田おかだ
  21. ^ 西村にしむら
  22. ^ 松岡まつおか
  23. ^ 大森おおもり
  24. ^ 酒井さかい
  25. ^ 鈴木すずき
  26. ^ 穂坂ほさか
  27. ^ 小山こやま
  28. ^ 高橋たかはし
  29. ^ ハンス
  30. ^ 松原まつばら
  31. ^ 吉原よしはら
  32. ^ 桑原くわばら
  33. ^ 金澤かなざわ
  34. ^ おう
  35. ^ たけみや
  36. ^ 小林こばやし
  37. ^ きむ秀俊ひでとし
  38. ^ きむ
  39. ^ 松本まつもと
  40. ^ 河野こうの
  41. ^ 三村みつむら
  42. ^ 鶴岡つるおか
  43. ^ 長島ながしま
  44. ^ 向井むかい
  45. ^ トルマネン
  46. ^ 常石つねいし
  47. ^ a b 内藤ないとう由起子ゆきこ囲碁いご観戦かんせん記者きしゃ)『それもいちきょく 弟子でしたちがかたる「木谷きたに道場どうじょう」のおしえ』水曜すいようしゃ、1969ねんISBN 978-4-88065-396-9 
  48. ^ 平塚ひらつかフィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん タウンレポート ルーツは"囲碁いご聖地せいち"に タウンニュース

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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