東京大学 とうきょうだいがく 総合 そうごう 図書館 としょかん (とうきょうだいがくそうごうとしょかん)は、国立 こくりつ 大学 だいがく 法人 ほうじん 東京大学 とうきょうだいがく に附属 ふぞく して設 もう けられた大学 だいがく 図書館 としょかん の一 ひと つである。
東京大学 とうきょうだいがく に附属 ふぞく する大学 だいがく 図書館 としょかん としては、3館 かん の拠点 きょてん 図書館 としょかん [ 注釈 ちゅうしゃく 2] および27館 かん ・室 しつ の部局 ぶきょく 図書館 としょかん [ 注釈 ちゅうしゃく 3] があり、これらは総称 そうしょう して東京大学 とうきょうだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん と呼 よ ばれるが、総合 そうごう 図書館 としょかん はその中 なか でも最大 さいだい 規模 きぼ の図書館 としょかん であり、立地 りっち する東京大学 とうきょうだいがく 本郷 ほんごう キャンパス の拠点 きょてん 図書館 としょかん としての役割 やくわり を果 は たす。
施設 しせつ は、本館 ほんかん と別館 べっかん からなる。本館 ほんかん は地上 ちじょう 5階 かい 地下 ちか 1階 かい からなる鉄骨 てっこつ 鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり の建物 たてもの であり、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 時代 じだい の1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )に竣工 しゅんこう した。2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )10月 がつ 1日 にち より、本館 ほんかん 4階 かい にはアジア諸 しょ 地域 ちいき の研究 けんきゅう に関連 かんれん する資料 しりょう を集約 しゅうやく 的 てき に所蔵 しょぞう するアジア研究 けんきゅう 図書館 としょかん が設置 せっち されている。別館 べっかん は本館 ほんかん の前庭 ぜんてい に新設 しんせつ され、地下 ちか 1階 かい のライブラリープラザと、地下 ちか 2-4階 かい の自動 じどう 化 か 書庫 しょこ からなり、2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )に開館 かいかん した[ 2] [ 3] 。
蔵書 ぞうしょ は図書 としょ が130万 まん 冊 さつ 強 きょう 、逐次 ちくじ 刊行 かんこう 物 ぶつ が2万 まん 種類 しゅるい 強 きょう に及 およ び、和漢洋 わかんよう の古 こ 典籍 てんせき などを多 おお く所蔵 しょぞう している。南 みなみ 葵 あおい 文庫 ぶんこ や鴎外 おうがい 文庫 ぶんこ などコレクションとしてまとまった形 かたち で寄贈 きぞう を受 う けて蔵書 ぞうしょ に加 くわ えられたものも多 おお く、これらも貴重 きちょう な資料 しりょう 群 ぐん となっている。
東京大学 とうきょうだいがく 創立 そうりつ から関東大震災 かんとうだいしんさい 前 まえ まで[ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい の総合 そうごう 図書館 としょかん の淵源 えんげん となった存在 そんざい として、幕府 ばくふ が開設 かいせつ した蕃 しげる 書 しょ 調 ちょう 所 しょ がある。同所 どうしょ では書物 しょもつ を保存 ほぞん するだけではなく、目録 もくろく の作成 さくせい や教科書 きょうかしょ に当 あ たる書物 しょもつ の貸出 かしだし など、当時 とうじ からある種 しゅ の図書館 としょかん 活動 かつどう が行 おこな っていた。蕃 しげる 書 しょ 調 ちょう 所 しょ はのちに改称 かいしょう されて開成 かいせい 所 しょ となり、明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ の下 した で大学南 だいがくみなみ 校 こう として改組 かいそ される。大学南 だいがくみなみ 校 こう 規則 きそく には、書籍 しょせき の貸出 かしだし 、払下 はらいさ げは書籍 しょせき 局 きょく に申 もう し出 で るべきこととする条 じょう がある。また、大学南 だいがくみなみ 校 こう と共 とも に開設 かいせつ された大学 だいがく 東 ひがし 校 こう の規則 きそく にも、書籍 しょせき の目録 もくろく 作成 さくせい や貸出 かしだし などを行 おこな う典籍 てんせき 局 きょく という部局 ぶきょく が記述 きじゅつ されている。
大学南 だいがくみなみ 校 こう は、まもなく東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう に改組 かいそ される。明治 めいじ 8年 ねん の『東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう 一覧 いちらん 』では、「講習 こうしゅう 必用 ひつよう ノ書籍 しょせき 」の貸出 かしだし や、蔵書 ぞうしょ 点検 てんけん 、縦覧 じゅうらん 室 しつ の設置 せっち などが述 の べられている[ 4] 。翌年 よくねん の『東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう 一覧 いちらん 』では、新 あら たに「圖書 としょ 室 しつ 」の章 しょう が設 もう けられ、縦覧 じゅうらん 室 しつ は閲覧 えつらん 室 しつ に名前 なまえ が改 あらた められている。当時 とうじ の蔵書 ぞうしょ は34,778冊 さつ で、うち6,798冊 さつ が国書 こくしょ で、残 のこ りは漢書 かんしょ 、洋書 ようしょ となっていた[ 5] 。またこの時期 じき 、校長 こうちょう 補 ほ 浜尾 はまお 新 しん の要請 ようせい によって、構内 こうない には東京書籍 とうきょうしょせき 館 かん の分館 ぶんかん として法律 ほうりつ 書庫 しょこ が設 もう けられた。東京書籍 とうきょうしょせき 館 かん は明治 めいじ 10年 ねん に廃止 はいし され、分館 ぶんかん である法律 ほうりつ 書庫 しょこ も一般 いっぱん 利用 りよう を停止 ていし したが、生徒 せいと の閲覧 えつらん は継続 けいぞく された[ 6] 。
1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )4月 がつ 12日 にち 、東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう と東京 とうきょう 医 い 学校 がっこう (大学 だいがく 東 ひがし 校 こう が改組 かいそ したもの)が統合 とうごう して東京大学 とうきょうだいがく (旧 きゅう ) が発足 ほっそく し、東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう は東京大学 とうきょうだいがく の法 ほう ・理 り ・文 ぶん 3学部 がくぶ となる。10月には神田 かんだ 一ツ橋 ひとつばし の校 こう 地 ち 内 ない にあった教師 きょうし 館 かん を利用 りよう し、書庫 しょこ 3棟 むね を加 くわ えて新 あら たな図書館 としょかん が設 もう けられた。閲覧 えつらん 室 しつ は法学部 ほうがくぶ 、理 り ・文学部 ぶんがくぶ 、予備 よび 門 もん に分 わ けられていて、学生 がくせい は所属 しょぞく に従 したが って閲覧 えつらん 室 しつ および敷設 ふせつ された書庫 しょこ を利用 りよう した。医学部 いがくぶ はすでに本郷 ほんごう にあり、本館 ほんかん の2階 かい に書籍 しょせき 室 しつ を設 もう けていた。
神田 かんだ 一ツ橋 ひとつばし にあった法理 ほうり 文 ぶん 3学部 がくぶ が本郷 ほんごう に移転 いてん したのは、1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )8月 がつ のことである。この際 さい 、図書館 としょかん は本郷 ほんごう に新築 しんちく された法文学部 ほうぶんがくぶ の建物 たてもの の2階 かい に入 はい った。1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )3月 がつ 1日 にち に公布 こうふ された帝国 ていこく 大学 だいがく 令 れい によって、東京 とうきょう 大学 だいがく (旧 きゅう )は帝国 ていこく 大学 だいがく となったが、同年 どうねん 10月 がつ 14日 にち には新 あたら しい「帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん 規則 きそく 」が制定 せいてい された。この規則 きそく では、従来 じゅうらい 法理 ほうり 文 ぶん 3学部 がくぶ と医学部 いがくぶ で分 わ けられていた図書館 としょかん が形式 けいしき 上 じょう 統合 とうごう され、全 ぜん 学部 がくぶ の図書 としょ が帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん に貯蔵 ちょぞう することが定 さだ められたが、実際 じっさい には各 かく 部局 ぶきょく に備 そな え付 つ けられる状態 じょうたい に変 か わりはなかった。1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )の「東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 規則 きそく 」の改正 かいせい は、実情 じつじょう を反映 はんえい したものとなり、図書館 としょかん の図書 としょ は「本館 ほんかん 備付 そなえつけ ノ図書 としょ 」と「教室 きょうしつ 研究 けんきゅう 室 しつ 其他ノ部局 ぶきょく ニ備付 そなえつけ ノ図書 としょ 」の2種 しゅ に区分 くぶん されることとなった。
法理 ほうり 文 ぶん 3学部 がくぶ の本郷 ほんごう 移転 いてん 直後 ちょくご は図書館 としょかん が他 た の建物 たてもの 内 ない に入居 にゅうきょ していたが、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )には新 あら たな図書館 としょかん の工事 こうじ が開始 かいし された。1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )に竣工 しゅんこう し、翌年 よくねん の7月 がつ 5日 にち に移転 いてん を完了 かんりょう した。この新 しん 図書館 としょかん は学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ 、職員 しょくいん 閲覧 えつらん 室 しつ 、事務 じむ 室 しつ 、喫煙 きつえん 室 しつ 、3層 そう の書庫 しょこ などを備 そな え、学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ は300人 にん を収容 しゅうよう した[ 9] 。夏目 なつめ 漱石 そうせき の三 さん 四 よん 郎 ろう に描写 びょうしゃ された図書館 としょかん は、この当時 とうじ の建物 たてもの である。
その
翌日 よくじつ から
三 さん 四 よん 郎 ろう は
四 よん 十 じゅう 時 じ 間 あいだ の
講義 こうぎ をほとんど
半分 はんぶん に
減 へ らしてしまった。そうして
図書館 としょかん にはいった。
広 ひろ く、
長 なが く、
天井 てんじょう が
高 たか く、
左右 さゆう に
窓 まど のたくさんある
建物 たてもの であった。
書庫 しょこ は
入口 いりくち しか
見 み えない。こっちの
正面 しょうめん からのぞくと
奥 おく には、
書物 しょもつ がいくらでも
備 そな えつけてあるように
思 おも われる。
立 た って
見 み ていると、
書庫 しょこ の
中 なか から、
厚 あつ い
本 ほん を
二 に 、
三 さん 冊 さつ かかえて、
出口 でぐち へ
来 き て
左 ひだり へ
折 お れて
行 い く
者 もの がある。
職員 しょくいん 閲覧 えつらん 室 しつ へ
行 い く
人 ひと である。なかには
必要 ひつよう の
本 ほん を
書棚 しょだな からとりおろして、
胸 むね いっぱいにひろげて、
立 た ちながら
調 しら べている
人 ひと もある。
三四郎 さんしろう はうらやましくなった。
奥 おく まで
行 い って
二 に 階 かい へ
上 あ がって、それから
三 さん 階 かい へ
上 あ がって、
本郷 ほんごう より
高 たか い
所 ところ で、
生 い きたものを
近 ちか づけずに、
紙 かみ のにおいをかぎながら、――
読 よ んでみたい。けれども
何 なに を
読 よ むかにいたっては、べつにはっきりした
考 かんが えがない。
読 よ んでみなければわからないが、
何 なに かあの
奥 おく にたくさんありそうに
思 おも う。
— 夏目 なつめ 漱石 そうせき 、『三四郎 さんしろう 』
書庫 しょこ は完成 かんせい した数 すう 年 ねん 後 ご に早 はや くも逼迫 ひっぱく するようになり、1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )度 ど 末 まつ に増築 ぞうちく が行 おこな われた。1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )度 ど には事務 じむ 室 しつ や閲覧 えつらん 室 しつ 等 とう が改築 かいちく された。これらの工事 こうじ を経 へ て図書館 としょかん は十字 じゅうじ 型 がた の建物 たてもの となり、東側 ひがしがわ が書庫 しょこ 、西側 にしがわ が閲覧 えつらん 室 しつ 、南側 みなみがわ が事務 じむ 室 しつ 等 とう 、北側 きたがわ が玄関 げんかん 、新聞 しんぶん 室 しつ 、法律 ほうりつ 書庫 しょこ 、閲覧 えつらん 室 しつ 等 とう となった
。
この建物 たてもの については創建 そうけん 当初 とうしょ の資料 しりょう が十分 じゅうぶん に残 のこ されていない。しかし、後述 こうじゅつ する別館 べっかん の設置 せっち 工事 こうじ に伴 ともな う図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の整備 せいび 工事 こうじ 中 ちゅう 、旧 きゅう 図書館 としょかん の基礎 きそ が出土 しゅつど し、解体 かいたい する作業 さぎょう を行 おこな っていた際 さい に基礎 きそ に埋 う め込 こ まれた金属 きんぞく 製 せい の箱 はこ が発見 はっけん された。箱 はこ の中 なか からは金属 きんぞく プレートが見 み つかり、その刻印 こくいん から、工事 こうじ 監理 かんり 者 しゃ が山口 やまぐち 半 はん 六 ろく (文部 もんぶ 技師 ぎし )、設計 せっけい 者 しゃ が久留 くる 正道 せいどう (文部 もんぶ 技師 ぎし 、1881年 ねん 東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 卒業 そつぎょう )であったことが明 あき らかになった[ 11] 。
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )9月 がつ 1日 にち 、南関東 みなみかんとう 一帯 いったい を激震 げきしん が襲 おそ った。関東大震災 かんとうだいしんさい である。帝国 ていこく 大学 だいがく のある本 ほん 富士 ふじ 町 まち の震度 しんど は5弱 じゃく から5強 きょう 程度 ていど であったと思 おも われる[ 12] 。当時 とうじ 図書館 としょかん で業務 ぎょうむ にあたっていた西村 にしむら 貞雄 さだお の回想 かいそう によると、地震 じしん のゆれによって館内 かんない では一部 いちぶ の書架 しょか が倒 たお れ、また並 なら べられていた図書 としょ が落 お ちて散乱 さんらん するなどの被害 ひがい が生 しょう じた。十字 じゅうじ 型 がた の図書館 としょかん の建物 たてもの では、南北 なんぼく に延 の びる事務 じむ 部分 ぶぶん 、玄関 げんかん 等 とう の一部 いちぶ 壁面 へきめん に損傷 そんしょう を生 しょう じたが、閲覧 えつらん 室 しつ や書庫 しょこ に目立 めだ った破壊 はかい 部分 ぶぶん はなかったという。この時点 じてん では所蔵 しょぞう 資料 しりょう への大 おお きな被害 ひがい は生 しょう じていなかった。
関東大震災 かんとうだいしんさい で焼失 しょうしつ した図書館 としょかん
しかし、図書館 としょかん の近 ちか く(現在 げんざい の図書館 としょかん 団地 だんち の南側 みなみがわ に当 あ たる教育 きょういく 学部 がくぶ 棟 とう の位置 いち )にあった医学部 いがくぶ 薬 やく 化学 かがく 教室 きょうしつ において、ゆれで薬品 やくひん が床 ゆか に落 お ちて発火 はっか し、建物 たてもの に燃 も え移 うつ って火災 かさい が発生 はっせい した。この火 ひ が薬物 やくぶつ 学 がく 教室 きょうしつ を経 へ て、破壊 はかい が生 しょう じていた図書館 としょかん の南側 みなみがわ 屋根 やね 下 か から館内 かんない に侵入 しんにゅう し、そのまま燃 も え広 ひろ がって図書館 としょかん 全体 ぜんたい が炎 ほのお に包 つつ まれた。所蔵 しょぞう 資料 しりょう は1週間 しゅうかん にわたって燃 も え続 つづ けた。当時 とうじ の図書館 としょかん の書庫 しょこ も防火 ぼうか 戸 ど などの耐火 たいか 設備 せつび が設 もう けられていたものの、原因 げんいん は不明 ふめい だが結果 けっか 的 てき には延焼 えんしょう を防 ふせ ぐことができなかった。図書館 としょかん は煉瓦 れんが 造 づくり の壁 かべ だけが燃 も え残 のこ り、多 おお くの蔵書 ぞうしょ は屋根 やね もろとも焼 や かれ尽 つ くしてしまった[ 13] 。焼失 しょうしつ した図書 としょ の確 たし かな数 かず は明 あき らかでなく、『東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 五 ご 十 じゅう 年 ねん 史 し 』は約 やく 76万 まん 冊 さつ [ 14] 、『東京 とうきょう 大学 だいがく 百 ひゃく 年 ねん 史 し 通史 つうし 』は75万 まん 冊 さつ [ 15] 、図書館 としょかん 復興 ふっこう に携 たずさ わることになった古 こ 在 ざい は70万 まん 巻 かん [ 16] とし、震災 しんさい 当時 とうじ 図書館 としょかん 職員 しょくいん であった植松 うえまつ 安 やすし は、火災 かさい の中 なか 図書 としょ の救出 きゅうしゅつ を行 おこな ったが持 も ち出 だ せたのは閲覧 えつらん 室 しつ 備付 そなえつけ の1万 まん 冊 さつ 程度 ていど だったと顧 かえり みている[ 17] 一方 いっぽう で、同 おな じく職員 しょくいん であった男澤 おざわ は文部省 もんぶしょう 往復 おうふく 等 とう を基 もと に、焼失 しょうしつ 冊数 さっすう を56-57万 まん 冊 さつ [ 13] と比較的 ひかくてき 少 すく なく見積 みつ もっている。灰燼 かいじん に帰 かえ した資料 しりょう の中 なか には、マックスミューラー文庫 ぶんこ や曲亭馬琴 きょくていばきん 日記 にっき の自筆 じひつ 稿本 こうほん (15冊 さつ 中 ちゅう 1冊 さつ のみは持 も ち出 だ される[ 13] )など、貴重 きちょう なものも多 おお かった[ 18] 。この火災 かさい によって燃 も えて灰 はい になった図書 としょ の一部 いちぶ や、直前 ちょくぜん に持 も ち出 だ されて難 なん を逃 のが れた図書 としょ などは、館 たて 史 ふみ 資料 しりょう として現在 げんざい も総合 そうごう 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう されている[ 19] 。
震災 しんさい から4日 にち 後 ご の9月 がつ 5日 にち 、事務 じむ 室 しつ は工学部 こうがくぶ 新館 しんかん (現在 げんざい の工学部 こうがくぶ 2号館 ごうかん 旧館 きゅうかん )に移 うつ される。11月1日 にち には耳鼻咽喉科 じびいんこうか 研究 けんきゅう 室 しつ (現在 げんざい の南 みなみ 研究 けんきゅう 棟 とう )の地下 ちか 室 しつ に移 うつ る。翌 よく 1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ には、バラック建築 けんちく の約 やく 150席 せき の仮 かり 閲覧 えつらん 室 しつ が設 もう けられる。このころには耳鼻咽喉科 じびいんこうか 研究 けんきゅう 室 しつ の地階 ちかい を事務 じむ 室 しつ 、書庫 しょこ として使 つか っていた[ 20] 。また、仮 かり 閲覧 えつらん 室 しつ は道路 どうろ を挟 はさ んで耳鼻咽喉科 じびいんこうか 研究 けんきゅう 室 しつ の向 む かい、現在 げんざい の附属 ふぞく 病院 びょういん 外来 がいらい 診療 しんりょう 棟 とう の辺 あた りに建 た てられていたようである[ 21] 。
仮 かり の体制 たいせい での開館 かいかん が試 こころ みられる中 なか で、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん の焼失 しょうしつ は全 ぜん 世界 せかい に知 し られるところとなり、様々 さまざま な支援 しえん の手 て が差 さ し伸 の べられるようになった。震災 しんさい が起 お きた9月の17日 にち には、早 はや くも国際 こくさい 連盟 れんめい で東大 とうだい 図書館 としょかん の復興 ふっこう 援助 えんじょ が決議 けつぎ された。国内 こくない では10月 がつ から、海外 かいがい からは11月のアメリカからの第 だい 1回 かい 寄贈 きぞう 図書 としょ をはじめとして、国内外 こくないがい からの寄贈 きぞう 図書 としょ が相次 あいつ いで寄 よ せられた。
1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )6月 がつ には、ロックフェラー財団 ざいだん のフレドリック・F・リュッセル (英語 えいご 版 ばん ) ら一 いち 行 ぎょう が図書館 としょかん の仮 かり 事務 じむ 室 しつ を訪 おとず れ、姉崎 あねざき 館長 かんちょう に面会 めんかい した。この時点 じてん で、図書 としょ 購入 こうにゅう 費 ひ や図書館 としょかん 建築 けんちく 費 ひ に関 かん するほのめかしがあったと思 おも われる。8月にはニューヨーク領事 りょうじ から外務省 がいむしょう に対 たい して東大 とうだい 図書館 としょかん 復興 ふっこう に関 かん する問 と い合 あ わせがあり、姉崎 あねざき 館長 かんちょう が必要 ひつよう 金額 きんがく 等 とう に関 かん して回答 かいとう している。また、姉崎 あねざき が9月に友人 ゆうじん のJames Woods宛 あて に出 だ した手紙 てがみ では、寄附 きふ に関 かん して建物 たてもの の名前 なまえ (例 たと えば新 あたら しい図書館 としょかん をロックフェラー図書館 としょかん とする)を条件 じょうけん とされた場合 ばあい への憂慮 ゆうりょ や、新 あら たな図書館 としょかん には記念 きねん 室 しつ が設 もう けられなければならないと考 かんが えていること、当時 とうじ 国内 こくない において対 たい 米 べい 感情 かんじょう が悪化 あっか していたため、米国 べいこく のロックフェラーから寄附 きふ を受 う けることに対 たい して議論 ぎろん が起 お こるかもしれないといった見通 みとお しなどが綴 つづ られている。同年 どうねん 12月 がつ 30日 にち 、ロックフェラーから400万 まん 円 えん を寄付 きふ するという電報 でんぽう が、当時 とうじ の古 こ 在 ざい 由直 よしなお 総長 そうちょう 宛 あて に送 おく られてきた[ 13] 。憂慮 ゆうりょ されていた建物 たてもの への命名 めいめい の条件 じょうけん どころか、建設 けんせつ 費用 ひよう と図書 としょ 購入 こうにゅう 費用 ひよう との配分 はいぶん なども含 ふく めて一切 いっさい の条件 じょうけん を付 ふ さなかった。ロックフェラーからの書簡 しょかん のうち、以下 いか に引用 いんよう する最後 さいご の一節 いっせつ は極 きわ めて丁重 ていちょう なものであり、関係 かんけい 者 しゃ を深 ふか く感心 かんしん させ、米国 べいこく からの寄附 きふ に反対 はんたい する声 こえ も収 おさ まることとなった。
……
I quite realize that in time the Japanese people will themselves accomplish the complete restoration of their cities and institutions which have been destroyed. However, I shall regard it as a great privilege to be permitted to hasten the day when your University., which stands among the foremost institutions of learning in the world, will again be provided with adequate facilities.
(
訳文 やくぶん :
日本 にっぽん 國民 こくみん が、その
破壊 はかい せられた
都市 とし や
學府 がくふ の
完 かん なる
回復 かいふく を
自力 じりき にて
成就 じょうじゅ すべき
事 こと は、
自分 じぶん の
確信 かくしん する
所 ところ に
御座 ぎょざ 候 こう 。
然 しか しこれと
共 とも に
又 また 、
世界 せかい の
學界 がっかい に
優秀 ゆうしゅう なる
位置 いち を
占 し めらるゝ
貴 き 大學 だいがく が、
再 ふたた び
滿足 まんぞく なる
圖書館 としょかん 設備 せつび を
有 ゆう せらるべき
日 ひ の
來 く る
事 こと を
早 はや むるについて、
微力 びりょく をその
間 あいだ に
加 か ふるを
容 よう されむ
事 ごと は、
自分 じぶん の
大 だい に欣懐とする
所 ところ に
有 ゆう 之 の 候 こう [ 16] 。)
— ジョン・ロックフェラー 、本文 ほんぶん は本館 ほんかん 記念 きねん 室 しつ 展示 てんじ の書簡 しょかん (複製 ふくせい )より
以降 いこう の図書館 としょかん 建設 けんせつ の経緯 けいい は、「現在 げんざい の建物 たてもの 」の章 しょう に詳 くわ しく記 しる すこととしてここでは要点 ようてん を触 ふ れるに留 と める。新 あたら しい図書館 としょかん の建設 けんせつ に当 あ たっては、当時 とうじ の古 こ 在 ざい 由直 よしなお 総長 そうちょう を委員 いいん 長 ちょう とする図書館 としょかん 建設 けんせつ 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ され、設計 せっけい 部長 ぶちょう には内田 うちだ 祥三 しょうぞう が就任 しゅうにん した。1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )1月 がつ 26日 にち に地鎮祭 じちんさい を行 おこな って着工 ちゃっこう し、1928年 ねん 12月1日 にち に竣工 しゅんこう 、同日 どうじつ 竣工 しゅんこう 式 しき が開 ひら かれている[ 22] 。国内外 こくないがい から寄 よ せられた多 おお くの援助 えんじょ によって、図書館 としょかん 再建 さいけん 成 な った1928年度 ねんど の年度 ねんど 末 まつ には東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく の蔵書 ぞうしょ が590,509冊 さつ (冊数 さっすう は図書 としょ および製本 せいほん 雑誌 ざっし のみ)となり、蔵書 ぞうしょ の面 めん でも復興 ふっこう が進 すす んだ[ 22] 。新 あら たな図書館 としょかん の開館 かいかん に当 あ たっては、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん 規則 きそく の改定 かいてい や、目録 もくろく の作成 さくせい 事業 じぎょう 、指定 してい 書 しょ 制度 せいど の開始 かいし など、制度 せいど 面 めん においても新 あら たな取組 とりく みが行 おこな われた[ 22] 。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 以降 いこう は、図書館 としょかん も戦争 せんそう の影響 えいきょう を受 う けることになった。いわゆる文科 ぶんか 系 けい の学問 がくもん が軽視 けいし される風潮 ふうちょう が強 つよ まったため、文科 ぶんか 系 けい に属 ぞく する分野 ぶんや の蔵書 ぞうしょ が中心 ちゅうしん であった附属 ふぞく 図書館 としょかん の受入 うけいれ 図書 としょ 数 すう は減少 げんしょう していった。また、職員 しょくいん の徴兵 ちょうへい も相次 あいつ いだ。さらには、戦時 せんじ 中 ちゅう の資材 しざい 欠乏 けつぼう のために学内 がくない で建物 たてもの の新築 しんちく が困難 こんなん となったことから、新 あら たに設置 せっち されることとなった東洋 とうよう 文化 ぶんか 研究所 けんきゅうじょ に附属 ふぞく 図書館 としょかん の東 ひがし 翼 つばさ 一部 いちぶ が提供 ていきょう されることとなり、附属 ふぞく 図書館 としょかん として利用 りよう できるスペースも減少 げんしょう することとなった。屋上 おくじょう には陸軍 りくぐん によって高射 こうしゃ 砲 ほう の設置 せっち が検討 けんとう されたこともあったが、これは大学 だいがく の要請 ようせい によって阻止 そし されている[ 22] 。陸軍 りくぐん では敗戦 はいせん 間近 まぢか の1945年 ねん になると、大学 だいがく キャンパス全体 ぜんたい を(上野公園 うえのこうえん 一帯 いったい の森 もり と合 あ わせて)皇居 こうきょ を守 まも る防衛 ぼうえい 線 せん として使用 しよう するために接収 せっしゅう するといった案 あん すらも出 だ されていたが、当時 とうじ 総長 そうちょう となっていた内田 うちだ 祥三 しょうぞう が交渉 こうしょう にあたり、未遂 みすい に終 お わっている[ 23] 。
大学 だいがく の接収 せっしゅう が計画 けいかく されたように、戦局 せんきょく は著 いちじる しく悪化 あっか し、東京 とうきょう は幾度 いくど も空襲 くうしゅう の被害 ひがい を受 う けていた。このため、学内 がくない の各 かく 図書館 としょかん 、図書 としょ 室 しつ では図書 としょ の疎開 そかい が進 すす められていた。附属 ふぞく 図書館 としょかん では、疎開 そかい に先駆 さきが けて1944年 ねん 4月 がつ 21日 にち には『和漢 わかん 書 しょ 疎開 そかい 図書 としょ 略 りゃく 目録 もくろく 』、『洋書 ようしょ 疎開 そかい 図書 としょ 略 りゃく 目録 もくろく 』が作成 さくせい された。疎開 そかい 先 さき となったのは山梨 やまなし 県 けん 西八代 にしやつしろ 郡 ぐん 市川大門 いちかわだいもん 町 まち (現在 げんざい の同 どう 県 けん 同 どう 郡 ぐん 市川 いちかわ 三郷 みさと 町 まち 市川大門 いちかわだいもん 地区 ちく )の渡辺 わたなべ 家 か の土蔵 どぞう である。同家 どうけ は蔵書 ぞうしょ 家 か として知 し られた渡辺 わたなべ 信 しん の旧家 きゅうか であり、渡辺 わたなべ 信 しん の蔵書 ぞうしょ は附属 ふぞく 図書館 としょかん が震災 しんさい 後 ご に青 あお 洲 しゅう 文庫 ぶんこ として購入 こうにゅう していたという縁 えん があった。すなわち附属 ふぞく 図書館 としょかん が蔵書 ぞうしょ を購入 こうにゅう したことで空 あ いていた倉 くら を、附属 ふぞく 図書館 としょかん が疎開 そかい のために利用 りよう することになったということである。疎開 そかい は2回 かい に分 わ けて行 おこな われ、第 だい 1次 じ は1944年 ねん 7月 がつ 末 まつ から10月 がつ 初 はじ めごろにかけて木 き 箱 ばこ に詰 つ めた図書 としょ 308箱 はこ 分 ぶん を移動 いどう し、第 だい 2次 じ は1945年 ねん 6月 がつ 中 ちゅう に50箱 はこ を移動 いどう している。いずれも市川大門 いちかわだいもん 駅 えき まで日本通運 にほんつううん の貨車 かしゃ で移送 いそう された。この際 さい 疎開 そかい されたのは貴重 きちょう 書 しょ 22,917冊 さつ であり、内訳 うちわけ は和漢 わかん 書 しょ 20,542冊 さつ 、洋書 ようしょ 2,375冊 さつ であった[ 24] [ 25] 。一方 いっぽう で多 おお くの図書 としょ は本郷 ほんごう に残 のこ されたが、上層 じょうそう 部 ぶ の図書 としょ を地下 ちか に下 お ろす、重複 じゅうふく 図書 としょ を積 つ み重 かさ ねて防壁 ぼうへき の代 か わりとするなどの工夫 くふう が凝 こ らされた。さらに、建物 たてもの の安全 あんぜん 性 せい を見込 みこ まれて諸 しょ 官庁 かんちょう から資料 しりょう が持 も ち込 こ まれることもあった。また建物 たてもの にも縄 なわ 網 もう によって迷彩 めいさい が施 ほどこ されるなどの工夫 くふう もされた[ 26] 。
これらの対策 たいさく が取 と られていたが、本郷 ほんごう キャンパスは敗戦 はいせん まで空襲 くうしゅう の被害 ひがい をほとんど受 う けなかった。1945年 ねん 3月 がつ 10日 とおか の東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう でキャンパス南端 なんたん にある懐 ふところ 徳 とく 館 かん 洋館 ようかん ・和 わ 館 かん が焼失 しょうしつ した程度 ていど である[ 27] [ 28] 。これは、GHQ が本郷 ほんごう キャンパスを占領 せんりょう 後 ご の拠点 きょてん として使用 しよう するために爆 ばく 撃 げき の標的 ひょうてき から外 はず したためであるという説 せつ がある[ 29] 。また、附属 ふぞく 図書館 としょかん は史料 しりょう 編纂 へんさん 所 しょ 書庫 しょこ とともに、米国 べいこく で作成 さくせい されたいわゆるウォーナー・リスト と呼 よ ばれる文化財 ぶんかざい リストに掲載 けいさい され、無印 むじるし から3つまでの範囲 はんい で重要 じゅうよう 度 ど を表 あらわ す「*」の印 しるし が2つ付 ふ されていて、(このことが即 すなわ ち爆 ばく 撃 げき の回避 かいひ 対象 たいしょう となったことを表 あらわ すわけではないが)重要 じゅうよう 性 せい はある程度 ていど 認知 にんち されていたと見 み ることもできる[ 30] 。さらにこのリストが掲載 けいさい された米国 べいこく 陸軍 りくぐん の便覧 びんらん では、附属 ふぞく 図書館 としょかん が中国 ちゅうごく で接収 せっしゅう された図書 としょ を所蔵 しょぞう していることに言及 げんきゅう し、この資料 しりょう 群 ぐん が中国 ちゅうごく に返還 へんかん されることを想定 そうてい して注意 ちゅうい を払 はら うよう促 うなが す記述 きじゅつ もあった[ 31] 。
戦時 せんじ 中 ちゅう にあらゆる困難 こんなん はあったものの、図書館 としょかん は建物 たてもの や資料 しりょう に被害 ひがい を受 う けることなく、1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち の敗戦 はいせん を迎 むか えた。疎開 そかい されていた図書 としょ は、10月には疎開 そかい 先 さき の山梨 やまなし 県 けん から図書館 としょかん に戻 もど された。また、戦時 せんじ 中 ちゅう に発送 はっそう が止 と められていた海外 かいがい 雑誌 ざっし のバックナンバーなども、次々 つぎつぎ と受 う け入 い れられた。徴兵 ちょうへい されていた職員 しょくいん が続々 ぞくぞく 復員 ふくいん し、一方 いっぽう で主 しゅ たる利用 りよう 者 しゃ である学生 がくせい も徴兵 ちょうへい や勤労 きんろう 動員 どういん から解放 かいほう されて大学 だいがく に戻 もど ってきた[ 22] 。先 さき に述 の べたように本郷 ほんごう キャンパスはGHQの総 そう 司令 しれい 部 ぶ として接収 せっしゅう される計画 けいかく があり、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の9月 がつ ごろには米 べい 軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ が本郷 ほんごう キャンパスを度々 たびたび 視察 しさつ していたが、引 ひ き続 つづ き総長 そうちょう を務 つと めていた内田 うちだ 祥三 しょうぞう が南原 なんばら 繁 しげる (当時 とうじ の法学部 ほうがくぶ 長 ちょう )とともに文部省 もんぶしょう やGHQ司令 しれい 部 ぶ 等 とう との折衝 せっしょう にあたり、辛 かろ うじて接収 せっしゅう を回避 かいひ した[ 32] 。ただ、実現 じつげん はしなかったが、図書館 としょかん ではこの接収 せっしゅう 騒動 そうどう に関連 かんれん して図書 としょ を運 はこ び出 だ して避難 ひなん する案 あん も出 で ていたという[ 33] 。
一方 いっぽう で、一部 いちぶ の資料 しりょう には動 うご きがあった。戦時 せんじ 中 ちゅう に中国 ちゅうごく で民衆 みんしゅう 教化 きょうか 団体 だんたい の新 しん 民 みん 会 かい によって接収 せっしゅう され、その後 ご 東大 とうだい 図書館 としょかん に譲受 じょうじゅ されていた学校 がっこう の教科書 きょうかしょ 類 るい は、東大 とうだい 図書館 としょかん の手続 てつづ きとしては国内 こくない 法 ほう に則 のっと ったものであったが、GHQに略奪 りゃくだつ 品 ひん として見 み 做されて返還 へんかん の指令 しれい が出 だ されたため、作成 さくせい された目録 もくろく を付 つ けて中国 ちゅうごく 側 がわ に引 ひ き渡 わた された[ 31] 。また、海軍 かいぐん から持 も ち込 こ まれて海軍 かいぐん 文庫 ぶんこ と呼 よ ばれた資料 しりょう も、GHQによって没収 ぼっしゅう された[ 26] 。
占領 せんりょう 中 ちゅう は、進駐軍 しんちゅうぐん の軍人 ぐんじん が様々 さまざま な情報 じょうほう を求 もと めて図書館 としょかん をたびたび訪 おとず れたため、職員 しょくいん たちはレファレンス業務 ぎょうむ に追 お われることとなった。この中 なか で、3階 かい 西側 にしがわ の渡 わた り廊下 ろうか にインフォメーションデスクが設 もう けられ、レファレンスの対応 たいおう に当 あ たることとなった。ほかにも、米国 べいこく 各州 かくしゅう の判例 はんれい 集 しゅう 、法令 ほうれい 集 しゅう が持 も ち込 こ まれて判例 はんれい 室 しつ が設 もう けられるなどの変化 へんか があった[ 34] 。附属 ふぞく 図書館 としょかん の運営 うんえい にも、アメリカ式 しき の図書館 としょかん 運営 うんえい 方式 ほうしき が取 と り入 い れられるようになって規則 きそく の改正 かいせい や組織 そしき 体制 たいせい の変更 へんこう が行 おこな われ、職員 しょくいん に対 たい してはアメリカ方式 ほうしき による司書 ししょ 再 さい 教育 きょういく が行 おこな われた[ 22] 。このように図書館 としょかん が様々 さまざま な変容 へんよう を遂 と げていく中 なか で附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう に岸本 きしもと 英夫 ひでお が就任 しゅうにん し、抜本 ばっぽん 的 てき な改革 かいかく が行 おこな われることとなる。
岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か における近代 きんだい 化 か の取 と り組 く み[ 編集 へんしゅう ]
建設 けんせつ 当時 とうじ は最 さい 新鋭 しんえい の設備 せつび を取 と り入 い れて造 つく られた図書館 としょかん であったが、開館 かいかん から30年 ねん 近 ちか く経 た った昭和 しょうわ 30年代 ねんだい には(学内 がくない の各 かく 部局 ぶきょく 図書館 としょかん なども含 ふく めて)あらゆる問題 もんだい が顕在 けんざい 化 か していた。この頃 ころ 第 だい 17代 だい 茅 かや 誠司 せいじ 総長 そうちょう の依頼 いらい を受 う けて、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )4月 がつ に図書館 としょかん 長 ちょう に就任 しゅうにん したのが、当時 とうじ 文学部 ぶんがくぶ の教授 きょうじゅ を務 つと めていた岸本 きしもと 英夫 ひでお である。岸本 きしもと は館長 かんちょう 就任 しゅうにん にあたって、親交 しんこう のあったチャールズ・B・ファーズ(当時 とうじ のロックフェラー財団 ざいだん の極東 きょくとう 関係 かんけい 人文 じんぶん ・社会 しゃかい 科学 かがく 系 けい 緊急 きんきゅう 援助 えんじょ 担当 たんとう 官 かん 、戦前 せんぜん には東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく への留学 りゅうがく 経験 けいけん もあった)に相談 そうだん して図書館 としょかん の徹底的 てっていてき な改革 かいかく を決意 けつい し、茅 かや 総長 そうちょう に対 たい して図書館 としょかん 改革 かいかく へのバックアップを求 もと めた[ 35] 。
就任 しゅうにん 後 ご 、6月 がつ にはロックフェラー財団 ざいだん において図書館 としょかん 改善 かいぜん のための調査 ちょうさ 費 ひ 等 とう 約 やく 1,000万 まん 円 えん の寄附 きふ が決定 けってい され、岸本 きしもと 館長 かんちょう は7月 がつ から9月 がつ まで、また幹部 かんぶ 職員 しょくいん 3人 にん が11月から12月 がつ にかけて渡米 とべい し、アメリカの先進 せんしん 的 てき な大学 だいがく 図書館 としょかん を視察 しさつ した。9月28日 にち は臨時 りんじ 調査 ちょうさ 室 しつ が設置 せっち されて、同年 どうねん 中 ちゅう は中央 ちゅうおう 図書館 としょかん のみならず各 かく 部局 ぶきょく 図書館 としょかん も含 ふく めて、東大 とうだい 図書館 としょかん の全体 ぜんたい に関 かん する調査 ちょうさ が進 すす められた。翌 よく 1961年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )2月 がつ と3月 がつ には、アメリカからキーズ・D・メトカフ (英語 えいご 版 ばん ) (ハーバード大学 だいがく 図書館 としょかん (英語 えいご 版 ばん ) で18年間 ねんかん 館長 かんちょう を務 つと め、在任 ざいにん 中 ちゅう に同 どう 大学 だいがく の全学 ぜんがく 的 てき 図書館 としょかん 機構 きこう の再建 さいけん に成功 せいこう していた)を招聘 しょうへい して、助言 じょげん を得 え た。5月までに改善 かいぜん 計画 けいかく 案 あん が完成 かんせい し、6月 がつ に評議 ひょうぎ 会 かい で承認 しょうにん された[ 36] [ 37] 。
図書館 としょかん の改革 かいかく は、「もはや、図書 としょ をしまっておく場所 ばしょ ではない、図書 としょ をひろく、効果 こうか 的 てき に、読 よ ませる、利用 りよう させるような働 はたら きをする」近代 きんだい 的 てき 大学 だいがく 図書館 としょかん を実現 じつげん し、「全学 ぜんがく の教授 きょうじゅ 、学生 がくせい 、研究 けんきゅう 者 しゃ のすべてが、全学 ぜんがく のすべての図書 としょ を、たやすく利用 りよう できるように」するといった目的 もくてき 意識 いしき に基 もと づいていて[ 35] 、計画 けいかく の焦点 しょうてん として岸本 きしもと は「全学 ぜんがく 総合 そうごう 図書 としょ 目録 もくろく 130万 まん 枚 まい (ユニオンカタログ)の作成 さくせい 」「東大 とうだい の機構 きこう としての附属 ふぞく 図書館 としょかん 体制 たいせい の確立 かくりつ 、および部局 ぶきょく 図書館 としょかん の連絡 れんらく 調整 ちょうせい 」「指定 してい 書 しょ 制度 せいど の強化 きょうか 」「総合 そうごう 図書館 としょかん (中央 ちゅうおう 図書館 としょかん の新 しん 名称 めいしょう )の近代 きんだい 的 てき 改装 かいそう 」の4項目 こうもく を挙 あ げている[ 37] 。ここではその内 うち 、中央 ちゅうおう 図書館 としょかん (総合 そうごう 図書館 としょかん )に関連 かんれん する事項 じこう を取 と り上 あ げる。
ユニオンカタログについて、当時 とうじ の東京大学 とうきょうだいがく は、10学部 がくぶ ・14附置 ふち 研究所 けんきゅうじょ に250万 まん 冊 さつ の蔵書 ぞうしょ を有 ゆう していたが、これら全 すべ てを対象 たいしょう とした目録 もくろく は存在 そんざい しなかった。中央 ちゅうおう 図書館 としょかん には自 じ 館 かん および8学部 がくぶ (教養 きょうよう 学部 がくぶ ・農学部 のうがくぶ 以外 いがい )の蔵書 ぞうしょ をカバーするカード目録 もくろく が存在 そんざい していたが、全学 ぜんがく に所蔵 しょぞう される図書 としょ に対 たい してのカバー率 りつ は半分 はんぶん 程度 ていど であった。全学 ぜんがく で所蔵 しょぞう されている図書 としょ の総合 そうごう 的 てき な利用 りよう をはかるために、全学 ぜんがく 総合 そうごう 目録 もくろく の作成 さくせい は必須 ひっす であった。この作業 さぎょう は各 かく 図書 としょ 室 しつ のカード目録 もくろく の状態 じょうたい 調査 ちょうさ から始 はじ まり、次 つ いで教養 きょうよう 学部 がくぶ 、農学部 のうがくぶ および各 かく 附置 ふち 研究所 けんきゅうじょ の目録 もくろく カード70万 まん 枚 まい の撮影 さつえい が行 おこな われ、撮影 さつえい されたフィルムはボストンのゼロックス社 しゃ に送 おく られてカードが複製 ふくせい された。このカードに加筆 かひつ 修正 しゅうせい を行 おこな った上 うえ で、全学 ぜんがく 総合 そうごう 目録 もくろく として整備 せいび され、総合 そうごう 図書館 としょかん に設置 せっち された[ 38] 。カード目録 もくろく の機能 きのう がOPACに移動 いどう した現在 げんざい 、更新 こうしん は行 おこな われていないものの、全学 ぜんがく 総合 そうごう 目録 もくろく は引 ひ き続 つづ き大 だい 階段 かいだん 下 か に設置 せっち されている。
総合 そうごう 図書館 としょかん 建物 たてもの の改装 かいそう は、「モニュメントとしての性格 せいかく を強 つよ く表現 ひょうげん している」図書館 としょかん を、「利用 りよう 者 しゃ 本位 ほんい の機能 きのう 的 てき な、近代 きんだい 的 てき な図書館 としょかん につくりかえる」ことに主眼 しゅがん をおいて取 と り組 く まれた[ 38] 。大 おお きな動 うご きとして、利用 りよう 者 しゃ 一般 いっぱん に対 たい する施設 しせつ を1階 かい に下 お ろしたことが挙 あ げられる。図書館 としょかん は3階 かい を主 おも 階 かい として造 つく られていて、閲覧 えつらん 室 しつ や出納 すいとう 台 だい など、利用 りよう 者 しゃ に対 たい する施設 しせつ は専 せん ら3階 かい に集約 しゅうやく されていたため、利用 りよう 者 しゃ は入館 にゅうかん するとまず大 だい 階段 かいだん を3階 かい まで上 あ がらなければならなかった。1階 かい 入口 いりくち の両 りょう 脇 わき には記念 きねん 室 しつ と新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ が設 もう けられていたが、前者 ぜんしゃ は賓客 ひんきゃく を迎 むか える一室 いっしつ として用 もち いられていて、利用 りよう 者 しゃ には開放 かいほう されていなかった。そのため1階 かい で利用 りよう 者 しゃ が利用 りよう できる空間 くうかん は、ほぼ新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 室 しつ のみであった。この状況 じょうきょう を改善 かいぜん するため、まず書庫 しょこ に通 つう ずる出納 すいとう 台 だい を1階 かい 大 だい 階段 かいだん 裏 うら に移 うつ し、天井 てんじょう の高 たか い新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ には中 ちゅう 2階 かい を設 もう けて学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ とし、1階 かい は参考 さんこう 室 しつ に充 あ て、従来 じゅうらい 開放 かいほう されていなかった記念 きねん 室 しつ は自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう 者 しゃ に開放 かいほう されることとなった。当初 とうしょ 予定 よてい では記念 きねん 室 しつ にも中 ちゅう 2階 かい を設 もう ける予定 よてい があったが、これは実現 じつげん しなかった[ 38] 。ほか、3階 かい 北側 きたがわ の一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ は一部 いちぶ に書架 しょか を設置 せっち し開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ とし、4階 かい は下 した 階 かい からの吹 ふ き抜 ぬ けを塞 ふさ いで専門 せんもん 別 べつ 閲覧 えつらん 室 しつ としてのアジアセンター、外国 がいこく 法 ほう 資料 しりょう センターや閲覧 えつらん 個室 こしつ を設置 せっち 、地階 ちかい の改装 かいそう を行 おこな って書庫 しょこ の収容 しゅうよう 冊数 さっすう 増加 ぞうか を図 はか るなど、館内 かんない 全体 ぜんたい にわたって根本 こんぽん 的 てき な改修 かいしゅう が行 おこな われた[ 38] 。
岸本 きしもと は館長 かんちょう 就任 しゅうにん 以前 いぜん から癌 がん との闘病 とうびょう を行 おこな っていたが、11月15日 にち の外国 がいこく 法 ほう 文献 ぶんけん センター開設 かいせつ 式 しき 出席 しゅっせき 後 ご は自宅 じたく 療養 りょうよう となり、12月8日 にち に東大 とうだい 病院 びょういん に入院 にゅういん した後 のち 、翌 よく 1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )1月 がつ 25日 にち に黒色 こくしょく 腫 しゅ のため死去 しきょ した。2月6日 にち には総合 そうごう 図書館 としょかん で超 ちょう 宗教 しゅうきょう による附属 ふぞく 図書館 としょかん 葬 そう が営 いとな まれ、正面 しょうめん 大 だい 階段 かいだん を上 のぼ った先 さき の3階 かい ホールに祭壇 さいだん が設置 せっち された。図書館 としょかん 界 かい や大学 だいがく 、文部省 もんぶしょう の関係 かんけい 者 しゃ のほか、岸本 きしもと が専門 せんもん としていた宗教 しゅうきょう 学界 がっかい 関係 かんけい 者 しゃ 、さらに学生 がくせい など1,500人 にん が参列 さんれつ した[ 39] [ 40] [ 41] 。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )には、いわゆる東大 とうだい 紛争 ふんそう が勃発 ぼっぱつ し、医学部 いがくぶ を筆頭 ひっとう に多 おお くの学部 がくぶ において授業 じゅぎょう が中止 ちゅうし となり、学生 がくせい らによる建物 たてもの の封鎖 ふうさ も相次 あいつ いだ。東大 とうだい 紛争 ふんそう の情勢 じょうせい として、大学 だいがく 執行 しっこう 部 ぶ 側 がわ がしばしば強硬 きょうこう な姿勢 しせい を示 しめ したことに対 たい して全共闘 ぜんきょうとう は特 とく に強 つよ く反発 はんぱつ し、またしばしば譲歩 じょうほ の姿勢 しせい を見 み ぜる民青 みんせい などとも激 はげ しく衝突 しょうとつ していた。1968年 ねん の後半 こうはん には泥沼 どろぬま 化 か した紛争 ふんそう に疲弊 ひへい し、学生 がくせい の中 なか では紛争 ふんそう の解決 かいけつ を求 もと める風潮 ふうちょう が起 お こり、それを受 う けて民青 みんせい の主導 しゅどう する東大 とうだい 民主 みんしゅ 化 か 行動 こうどう 委員 いいん 会 かい を学生 がくせい の代表 だいひょう として大学 だいがく 当局 とうきょく との折衝 せっしょう に当 あ たろうとしていた。全共闘 ぜんきょうとう 側 がわ はこれを闘争 とうそう 収拾 しゅうしゅう 策動 さくどう として激 はげ しく批判 ひはん し、さらなる強硬 きょうこう 化 か 、ゲバルト化 か を加速 かそく した。全共闘 ぜんきょうとう 派 は はもはや、「一般 いっぱん 学生 がくせい 」を収拾 しゅうしゅう を策動 さくどう する敵 てき として切 き りはなし、批判 ひはん することを憚 はばか らなくなっていた。その中 なか で行 おこな われたのが11月22日 にち 「東大 とうだい 日大 にちだい 闘争 とうそう 勝利 しょうり 時計 とけい 台 だい 前 ぜん 総 そう 決起 けっき 集会 しゅうかい 」であり、集会 しゅうかい に引 ひ き続 つづ いて全 ぜん 門 もん と図書館 としょかん の封鎖 ふうさ を掲 かか げた「全学 ぜんがく 封鎖 ふうさ 闘争 とうそう 」が目論 もくろ まれ、予告 よこく された。
これに対 たい して収拾 しゅうしゅう 派 は は本郷 ほんごう 正門 せいもん で11時 じ に「封鎖 ふうさ 阻止 そし 法 ほう 実 み 委 い 独自 どくじ 集会 しゅうかい 」、12時 じ には図書館 としょかん 前 まえ で全 ぜん 東大 とうだい 総 そう 決起 けっき 集会 しゅうかい などを行 おこな うことが予告 よこく し、全共闘 ぜんきょうとう による全学 ぜんがく 封鎖 ふうさ を抑止 よくし しようとしていた。だが全共闘 ぜんきょうとう はこの裏 うら をかき、22日 にち の午前 ごぜん 中 ちゅう に武装 ぶそう した集団 しゅうだん によって図書館 としょかん の封鎖 ふうさ を完了 かんりょう した[ 42] 。
この封鎖 ふうさ によって総合 そうごう 図書館 としょかん は閉館 へいかん を余儀 よぎ なくされた。一部 いちぶ の室 しつ は封鎖 ふうさ されずに残 のこ されたため、最小限 さいしょうげん の事務 じむ は地階 ちかい に置 お かれた仮 かり 事務 じむ 室 しつ で行 おこな われることとなった[ 43] 。また、有斐閣 ゆうひかく の好意 こうい によって大学 だいがく 近 ちか くの白山 はくさん 某所 ぼうしょ に作業場 さぎょうば が用意 ようい され、受入 うけい れ等 とう の業務 ぎょうむ が行 おこな われた[ 44] 。全共闘 ぜんきょうとう の建物 たてもの 封鎖 ふうさ にあっては、マイクロフィルム を燃 も やすなどの蛮行 ばんこう が横行 おうこう して大 おお きな被害 ひがい を生 しょう ぜしめた法学部 ほうがくぶ 研究 けんきゅう 室 しつ のような例 れい もあったが、このような例 れい と比 くら べると総合 そうごう 図書館 としょかん では秩序 ちつじょ が保 たも たれ、破壊 はかい 行為 こうい が行 おこな われることもなく粛々 しゅくしゅく と封鎖 ふうさ が行 おこな われた。封鎖 ふうさ を行 おこな う学生 がくせい と当時 とうじ の附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう 伊藤 いとう 四 よん 十 じゅう 二 に との会見 かいけん の場 ば も持 も たれ、その際 さい 伊藤 いとう が提示 ていじ した「(1)重要 じゅうよう 箇所 かしょ は施錠 せじょう し何人 なんにん も立 た ち入 い らないよう責任 せきにん をもって監 かん 守 もり し、それぞれの室 しつ の扉 とびら にはその旨 むね の張 は り紙 がみ をする。(2)施設 しせつ ・設備 せつび は損傷 そんしょう しない。(3)火気 かき には十分 じゅうぶん 注意 ちゅうい をする。(4)鍵 かぎ をこわさない。(5)私物 しぶつ には手 て を触 ふ れない。(6)近日 きんじつ 中 ちゅう にあらためて打 う ち合 あ わせの会談 かいだん を行 おこ なう。」[ 45] といった遵守 じゅんしゅ 事項 じこう は受諾 じゅだく された。その上 うえ で伊藤 いとう 自身 じしん の手 て によって、書庫 しょこ 、参考 さんこう 室 しつ 、整理 せいり 課 か 室 しつ 、総務 そうむ 課 か 室 しつ 、館長 かんちょう 室 しつ 、秘書 ひしょ 室 しつ 、事務 じむ 部長 ぶちょう 室 しつ 、開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ 、外国 がいこく 資料 しりょう センターおよびアジア資料 しりょう 室 しつ 、教官 きょうかん 個室 こしつ が施錠 せじょう された。その後 ご 11月 がつ 25日 にち には正門 せいもん 前 まえ にあった喫茶 きっさ にんじんで、全共闘 ぜんきょうとう 代表 だいひょう の山本 やまもと 義隆 よしたか と総合 そうごう 図書館 としょかん 事務 じむ 部長 ぶちょう の颯田大通 だいつう との面会 めんかい の場 ば が設 もう けられたが、封鎖 ふうさ 解除 かいじょ の交渉 こうしょう は決裂 けつれつ した[ 44] 。
翌 よく 1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )1月 がつ 11日 にち には、紛争 ふんそう 収拾 しゅうしゅう を目指 めざ す団体 だんたい 交渉 こうしょう 実現 じつげん 実行 じっこう 委員 いいん 会 かい (団交 だんこう 委 い )に結集 けっしゅう した学生 がくせい を中心 ちゅうしん にして、本郷 ほんごう キャンパスの多 おお くの建物 たてもの の封鎖 ふうさ が解除 かいじょ され、総合 そうごう 図書館 としょかん の封鎖 ふうさ も解除 かいじょ された[ 46] 。1月24日 にち の総合 そうごう 図書館 としょかん 運営 うんえい 委員 いいん 会 かい において、伊藤 いとう 館長 かんちょう は封鎖 ふうさ 期間 きかん 中 ちゅう における器物 きぶつ の損傷 そんしょう などが一切 いっさい なかったことを報告 ほうこく している[ 47] 。また全共闘 ぜんきょうとう との交渉 こうしょう にあたった颯田事務 じむ 部長 ぶちょう も、封鎖 ふうさ によって事務 じむ 作業 さぎょう の停滞 ていたい や企画 きかく の延期 えんき といった影響 えいきょう を受 う けたことは遺憾 いかん としながらも、回想 かいそう にて「全共闘 ぜんきょうとう の諸君 しょくん も館長 かんちょう との協定 きょうてい をよく守 まも ってくれ、図書館 としょかん の意義 いぎ についても若干 じゃっかん の理解 りかい を示 しめ してくれた」と評 ひょう している[ 44] 。このように封鎖 ふうさ における図書館 としょかん の直接的 ちょくせつてき な物的 ぶってき 被害 ひがい は無 な かったものの、暖房 だんぼう 工事 こうじ に遅 おく れが生 しょう じたために再開 さいかい 館 かん は翌月 よくげつ にずれこみ、2月 がつ 5日 にち に2か月 げつ ぶりの開館 かいかん を果 は たした。この段階 だんかい では学内 がくない 情勢 じょうせい が必 かなら ずしも安定 あんてい していなかったことから、9時 じ 30分 ふん から16時 じ までの短縮 たんしゅく 開館 かいかん としたほか、封鎖 ふうさ 期間 きかん 中 ちゅう の業務 ぎょうむ 停滞 ていたい や同 どう 時期 じき に行 おこな われていた改修 かいしゅう 工事 こうじ の都合 つごう などから、雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ や開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ なども休止 きゅうし し、その後 ご 徐々 じょじょ に再開 さいかい をしていった[ 48] 。
館長 かんちょう として紛争 ふんそう 対応 たいおう にあたった伊藤 いとう 四 よん 十 じゅう 二 に は、定年 ていねん のため規定 きてい によって1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )の3月 がつ に館長 かんちょう の職 しょく を退 しりぞ いている[ 49] 。
裏 うら 田 た 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう と電算 でんさん 化 か への対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
平成 へいせい 末 まつ に耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ が着手 ちゃくしゅ される前 まえ の総合 そうごう 図書館 としょかん の姿 すがた
岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう 以降 いこう 、総合 そうごう 図書館 としょかん では大 おお きな改修 かいしゅう は行 おこな われてこなかったが、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )に館長 かんちょう に就任 しゅうにん した裏 うら 田 でん 武夫 たけお の下 もと で、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )から再 ふたた び全面 ぜんめん 的 てき な改修 かいしゅう が行 おこな われることになった。改修 かいしゅう の要 よう となったのは、開架 かいか 図書 としょ の充実 じゅうじつ である。岸本 きしもと 館長 かんちょう 時代 じだい に3階 かい 閲覧 えつらん 室 しつ に新設 しんせつ されていた開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ は、身分 みぶん 証 しょう を預 あづ けて利用 りよう する仕組 しく みであり、実質 じっしつ 的 てき には安全 あんぜん 開架 かいか 式 しき というべきものであった。しかもその冊数 さっすう も4万 まん 冊 さつ 程度 ていど であり、比較的 ひかくてき 充実 じゅうじつ した公共 こうきょう 図書館 としょかん や学内 がくない の生協 せいきょう 書籍 しょせき 部 ぶ では10万 まん 冊 さつ 程度 ていど が並 なら べられていることと比較 ひかく すれば、十分 じゅうぶん とは言 い い難 がた い状況 じょうきょう であった。裏 うら 田 た 館長 かんちょう は開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ の運用 うんよう を改 あらた めて手続 てつづ きなく書架 しょか を利用 りよう できるように運用 うんよう を変更 へんこう することとした上 うえ で、3階 かい 開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ における書架 しょか の追加 ついか 、3階 かい ホールへの書架 しょか 設置 せっち 、4階 かい の開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ への変更 へんこう などによって、利用 りよう 性 せい と収容 しゅうよう 冊数 さっすう 両方 りょうほう の向上 こうじょう を図 はか る方針 ほうしん を決 き めた。またその他 た にも入 い り口 くち の自動 じどう ドア化 か 、不正 ふせい 帯出 たいしゅつ 防止 ぼうし のためのブックディテクションシステム の導入 どうにゅう 、雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ の強化 きょうか 拡充 かくじゅう 、職員 しょくいん 厚生 こうせい 施設 しせつ の整備 せいび 、電動 でんどう 集 しゅう 密書 みっしょ 架 か の導入 どうにゅう など、さまざまな改善 かいぜん が行 おこな われることとなった[ 50] [ 51] 。改修 かいしゅう 工事 こうじ は後任 こうにん の山 やま 﨑弘郎 ろう 館長 かんちょう にも引 ひ き継 つ がれ、4期 き に分 わ けて行 おこな われた[ 52] [ 53] [ 54] [ 55] 。また、改修 かいしゅう と同時 どうじ 並行 へいこう で従来 じゅうらい から構想 こうそう されていた業務 ぎょうむ の電算 でんさん 化 か が実施 じっし されることとなり、1986年 ねん 1月 がつ には総合 そうごう 図書館 としょかん に日立 ひたち 製 せい の大型 おおがた コンピュータHITAC M-260Dが搬入 はんにゅう され、3月3日 にち からは目録 もくろく サービス等 とう の一部 いちぶ サービスを開始 かいし した[ 56] 。5月には開架 かいか 図書 としょ の貸出 かしだし が電算 でんさん 化 か され[ 57] 、7月 がつ にはオンライン目録 もくろく OPACによる蔵書 ぞうしょ の検索 けんさく サービスが開始 かいし された[ 58] 。一連 いちれん の改修 かいしゅう は1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )3月 がつ までに概 おおむ ね終了 しゅうりょう した[ 59] 。
新 しん 図書館 としょかん の建設 けんせつ と耐震 たいしん 改修 かいしゅう [ 編集 へんしゅう ]
総合 そうごう 図書館 としょかん は昭和 しょうわ 3年 ねん の創建 そうけん 以来 いらい 、主 おも なものとしては岸本 きしもと 館長 かんちょう と裏 うら 田 た 館長 かんちょう 時代 じだい に2回 かい の大 おお きな改修 かいしゅう を行 おこな っていて、いずれも収容 しゅうよう 冊数 さっすう の増加 ぞうか が図 はか られてきたが、抜本 ばっぽん 的 てき な解決 かいけつ とはなっていなかった。文学部 ぶんがくぶ 等 とう の本郷 ほんごう キャンパス内 ない の文系 ぶんけい 諸 しょ 学部 がくぶ に置 お かれた図書 としょ 室 しつ も逼迫 ひっぱく していて、書庫 しょこ 増設 ぞうせつ の要求 ようきゅう が上 あ がり続 つづ けていた。また、大学 だいがく 図書館 としょかん に求 もと められる機能 きのう もデジタル化 か の進展 しんてん 、学習 がくしゅう 機能 きのう への要求 ようきゅう などに伴 ともな って変化 へんか が生 しょう じていたことから、これらの課題 かだい に対応 たいおう する新 あら たな図書館 としょかん が求 もと められていた。しかし本館 ほんかん は築 ちく 90年 ねん を経過 けいか しているため、多 おお くの既存 きそん 不 ふ 適格 てきかく が存在 そんざい していて、増築 ぞうちく などによる抜本 ばっぽん 的 てき な改善 かいぜん を行 おこな うためには現行 げんこう の法 ほう 制度 せいど に適合 てきごう させる必要 ひつよう があることから、歴史 れきし 的 てき 建築 けんちく における空間 くうかん を大 おお きく改変 かいへん しなければならない。ただ増築 ぞうちく 以外 いがい の選択肢 せんたくし を検討 けんとう するにも、本郷 ほんごう キャンパス内 ない は建 た て詰 づ まりが著 いちじる しく、建物 たてもの を新設 しんせつ できる場所 ばしょ はほとんど存在 そんざい しなかった[ 60] 。
その中 なか で図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば は、総合 そうごう 図書館 としょかん に隣接 りんせつ して残 のこ された最後 さいご の大 おお きなオープンスペースとなっていた。広場 ひろば の東西 とうざい に立地 りっち する法学部 ほうがくぶ 4号館 ごうかん 、文学部 ぶんがくぶ 3号館 ごうかん は地下 ちか に図書 としょ 室 しつ を設 もう けているため、これらの図書 としょ 室 しつ との接続 せつぞく を図 はか る上 じょう でも、図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の地下 ちか というのは好適 こうてき な場所 ばしょ であった。地上 ちじょう におけるオープンスペースの確保 かくほ と図書館 としょかん の増築 ぞうちく を両立 りょうりつ するために、新館 しんかん は図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の地下 ちか に建設 けんせつ することとされた。新館 しんかん の地下 ちか 1階 かい には従来 じゅうらい の図書館 としょかん とは異 こと なって活発 かっぱつ な議論 ぎろん を行 おこな うことができる空間 くうかん としてライブラリープラザが設 もう けられることとなり、地下 ちか 2階 かい から4階 かい にかけては300万 まん 冊 さつ の書籍 しょせき を保管 ほかん できる自動 じどう 化 か 書庫 しょこ を設置 せっち することとなった[ 60] 。また、新館 しんかん と合 あ わせて本館 ほんかん も耐震 たいしん 改修 かいしゅう 、機能 きのう の改良 かいりょう を図 はか ることとし、これらの計画 けいかく は「新 しん 図書館 としょかん 構想 こうそう 」(具現 ぐげん 化 か に伴 ともな いのちに「新 しん 図書館 としょかん 計画 けいかく 」)と呼 よ ばれて検討 けんとう が行 おこな われた。
着工 ちゃっこう 前 まえ 、2013年 ねん 9月 がつ から2014年 ねん にかけて図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の埋蔵 まいぞう 文化財 ぶんかざい 調査 ちょうさ が行 おこな われた。その結果 けっか 、近代 きんだい の遺跡 いせき としては関東大震災 かんとうだいしんさい で焼失 しょうしつ した旧 きゅう 図書館 としょかん 建物 たてもの の基礎 きそ や、震災 しんさい に伴 ともな う火災 かさい による灰 はい と焦土 しょうど 、近世 きんせい の遺跡 いせき としては一帯 いったい が溶姫御殿 ごてん として使用 しよう されていた頃 ころ の排水溝 はいすいこう 石組 いしぐ みや井戸 いど 、便所 べんじょ などの遺構 いこう 、その他 た 縄文 じょうもん 時代 じだい の小 しょう ピットや土器 どき 片 へん 、旧石器時代 きゅうせっきじだい の石器 せっき などが出土 しゅつど した[ 61] 。これらの遺跡 いせき のうち、旧 きゅう 図書館 としょかん 基礎 きそ と溶姫御殿 ごてん 水路 すいろ 石組 いしぐ みについては、空間 くうかん の歴史 れきし 的 てき 重層 じゅうそう 性 せい を象徴 しょうちょう する存在 そんざい として広場 ひろば のデザインに取 と り込 こ まれることとなり、前者 ぜんしゃ はその形 かたち を活 い かしてベンチとなり、後者 こうしゃ はスライスされて元 もと の位置 いち の地面 じめん に埋 う め込 こ まれた[ 3] 。
新館 しんかん の建物 たてもの は2014年 ねん (平成 へいせい 26年 ねん )12月11日 にち に起工式 きこうしき を行 おこな い、翌年 よくねん 4月 がつ から本格 ほんかく 的 てき な工事 こうじ を開始 かいし 、2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )4月 がつ 下旬 げじゅん には竣工 しゅんこう 、同年 どうねん 8月 がつ には自動 じどう 書庫 しょこ の整備 せいび も完了 かんりょう した。7月からは本館 ほんかん の改修 かいしゅう 工事 こうじ によって不足 ふそく する閲覧 えつらん スペースの代替 だいたい に、学習 がくしゅう スペースとして利用 りよう に供 きょう されることとなった[ 62] 。本館 ほんかん 工事 こうじ の進捗 しんちょく に伴 ともな って、2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )10月 がつ 22日 にち には、当初 とうしょ 計画 けいかく されていた通 とお りの会話 かいわ ができる学習 がくしゅう 空間 くうかん として、ライブラリープラザはリニューアルオープンした[ 63] 。
本館 ほんかん は、当初 とうしょ 別館 べっかん が完成 かんせい して蔵書 ぞうしょ を地下 ちか 書庫 しょこ に移 うつ した後 のち に耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ を行 おこな う予定 よてい であったものの、別館 べっかん 建設 けんせつ 中 ちゅう の2015年度 ねんど に図書館 としょかん 西 にし 翼 つばさ を含 ふく む図書館 としょかん 団地 だんち Ⅱ期 き 工事 こうじ の予算 よさん が通 とお ったために、予定 よてい を前倒 まえだお しして別館 べっかん 建設 けんせつ と同時 どうじ 並行 へいこう で工事 こうじ が進 すす められることとなった。2015年度 ねんど から2016年度 ねんど にかけてⅡ期 き 工事 こうじ (西 にし 翼 つばさ )、2016年度 ねんど から2017年度 ねんど にかけてⅢ-1期 き 工事 こうじ (北西 ほくせい 部 ぶ )、2017年度 ねんど にはさらにⅢ-2期 き 工事 こうじ (中央 ちゅうおう 部 ぶ )、2018年度 ねんど にはⅢ-3期 き 工事 こうじ (書庫 しょこ )、2019年度 ねんど から2020年度 ねんど にかけてはⅣ期 き 工事 こうじ (東 あずま 翼 つばさ )が行 おこな われた。一連 いちれん の工事 こうじ は2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )に完了 かんりょう し、11月26日 にち にはグランドオープンの式典 しきてん が行 おこな われた[ 64] 。この工事 こうじ においては、内部 ないぶ の各室 かくしつ のうち特 とく に歴史 れきし 性 せい の高 たか い空間 くうかん (1階 かい 記念 きねん 室 しつ 、大 だい 階段 かいだん 、3階 かい ホール、3階 かい 閲覧 えつらん 室 しつ )は歴史 れきし 的 てき 価値 かち を尊重 そんちょう することとし、シャンデリアの意匠 いしょう や吹 ふ き抜 ぬ けの再 さい 開口 かいこう など、創建 そうけん 時 じ の形態 けいたい への復元 ふくげん も行 おこな われた[ 65] 。また、従来 じゅうらい 第 だい 二 に 開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ として用 もち いられていた4階 かい には、アジア研究 けんきゅう 図書館 としょかん が入 はい ることとなり、アジア研究 けんきゅう に資 し する学術 がくじゅつ 資料 しりょう や蔵書 ぞうしょ が集 あつ められることとなったほか、連携 れんけい 研究 けんきゅう 機構 きこう ヒューマニティーズセンター とU-Parl(アジア研究 けんきゅう 図書館 としょかん 上 じょう 廣 こう 倫理 りんり 財団 ざいだん 寄付 きふ 研究 けんきゅう 部 ぶ ) の二 ふた つの研究 けんきゅう 機関 きかん が置 お かれ、本館 ほんかん 2階 かい にはグループで利用 りよう ができる個室 こしつ 型 がた のプロジェクトボックスが設置 せっち されるなど、新 あら たな設備 せつび が追加 ついか された[ 64] 。
1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )
9月12日 にち 明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ によって開成 かいせい 所 しょ が開成 かいせい 学校 がっこう と改称 かいしょう される。
1870年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )
12月14日 にち 開成 かいせい 学校 がっこう が大学南 だいがくみなみ 校 こう となる。
1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )
東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう の諸 しょ 規則 きそく に「圖書 としょ 室 しつ 」の章 しょう が設 もう けられる。
9月22日 にち 構内 こうない に東京書籍 とうきょうしょせき 館 かん の分館 ぶんかん として法律 ほうりつ 書庫 しょこ が設置 せっち される。
1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )
3月 がつ 東京書籍 とうきょうしょせき 館 かん 閉館 へいかん により、法律 ほうりつ 書庫 しょこ の一般 いっぱん 利用 りよう が停止 ていし される。
4月 がつ 12日 にち 東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう と東京 とうきょう 医 い 学校 がっこう が統合 とうごう されて東京 とうきょう 大学 だいがく (旧 きゅう )となる。
10月 一ツ橋 ひとつばし の法理 ほうり 文 ぶん 3学部 がくぶ 校 こう 地 ち に新 あら たな図書館 としょかん が設 もう けられる。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )
3月1日 にち 帝国 ていこく 大学 だいがく 令 れい が公布 こうふ され、東京 とうきょう 大学 だいがく (旧 きゅう )は帝国 ていこく 大学 だいがく となる。
10月14日 にち 帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん 規則 きそく が制定 せいてい される。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )
帝国 ていこく 大学 だいがく が東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく と改称 かいしょう される。
図書館 としょかん 新館 しんかん の建設 けんせつ 工事 こうじ が開始 かいし される。
1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )
5月8日 にち 図書館 としょかん 本館 ほんかん 事務 じむ 室 しつ が新 あら たな建物 たてもの に移 うつ される。
7月 がつ 1日 にち 図書 としょ の移動 いどう が始 はじ められる。5日 にち までに完了 かんりょう し、図書館 としょかん として利用 りよう されていた法文学部 ほうぶんがくぶ 建物 たてもの の1室 しつ は引 ひ き払 はら われる。
1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )
11月1日 にち 「東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 規則 きそく 」が実情 じつじょう に合 あ わせて大 おお きく改 あらた められ、新 しん 規則 きそく が実施 じっし される。
1923年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )
9月1日 にち 関東大震災 かんとうだいしんさい が発生 はっせい 。医学部 いがくぶ 薬 やく 化学 かがく 教室 きょうしつ で発生 はっせい した火災 かさい が広 ひろ がり、図書館 としょかん は多 おお くの蔵書 ぞうしょ とともに焼失 しょうしつ 。
9月17日 にち 国際 こくさい 連盟 れんめい で東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 図書館 としょかん の復興 ふっこう 援助 えんじょ が決議 けつぎ 。
9月 がつ 下旬 げじゅん 図書 としょ 収蔵 しゅうぞう のために理学部 りがくぶ 物理 ぶつり 教室 きょうしつ 、化学 かがく 教室 きょうしつ が利用 りよう される。
11月1日 にち 仮 かり 事務 じむ 室 しつ が耳鼻咽喉科 じびいんこうか 研究 けんきゅう 室 しつ 地階 ちかい に置 お かれる(のちの附属 ふぞく 病院 びょういん 南 みなみ 研究 けんきゅう 棟 とう )。
12月 仮 かり 事務 じむ 室内 しつない に定員 ていいん 20名 めい の閲覧 えつらん 室 しつ が開設 かいせつ される。
1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )
1月 がつ 上旬 じょうじゅん 150席 せき の仮 かり 閲覧 えつらん 室 しつ が建設 けんせつ される。
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )
12月28日 にち 軸 じく 部 ぶ 、外装 がいそう 工事 こうじ に関 かん して大林組 おおばやしぐみ と契約 けいやく が結 むす ばれる。
1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )
1月 がつ 28日 にち 地鎮祭 じちんさい が行 おこな われる。
5月 鉄骨 てっこつ 工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ する。
9月 骨組 ほねぐ みが完成 かんせい する。
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )
9月 軸 じく 部 ぶ コンクリート打 だ 設 しつらえ 工事 こうじ が終了 しゅうりょう し、外装 がいそう のタイル張 は りが始 はじ められる。
1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )
12月1日 にち 午後 ごご 2時 じ より、新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ (現在 げんざい は事務 じむ スペース)で落成 らくせい 式 しき が行 おこな われる。続 つづ く2-4日 にち も学 まなべ 内外 ないがい から賓客 ひんきゃく を招待 しょうたい し、式典 しきてん が行 おこな われる。
12月10日 にち 図書 としょ の貸出 かしだし が開始 かいし される。
1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )
4月 指定 してい 書 しょ 制度 せいど を実施 じっし 。
11月 ロックフェラー・ジュニアが来訪 らいほう する。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )
10月 がつ 10日 とおか 記念 きねん 室 しつ の一角 いっかく に設置 せっち された戦没 せんぼつ 者 しゃ 記念 きねん 室 しつ で支 ささえ 那 な 事変 じへん 戦没 せんぼつ 者 しゃ 慰霊 いれい 祭 さい が執 と り行 おこな われる[ 66] 。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )
10月 がつ 20日 はつか 戦没 せんぼつ 者 しゃ 記念 きねん 室 しつ で第 だい 2回 かい の慰霊 いれい 祭 さい が執 と り行 おこな われる[ 66] 。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )
8月 がつ 図書 としょ の疎開 そかい が行 おこな われる。疎開 そかい 先 さき は山梨 やまなし 県 けん 西八代 にしやつしろ 郡 ぐん 市川大門 いちかわだいもん 町 まち 、旧 きゅう 青 あお 洲 しゅう 文庫 ぶんこ 土蔵 どぞう 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )
10月26日 にち 山梨 やまなし 県 けん 旧 きゅう 青 あお 洲 しゅう 文庫 ぶんこ 土蔵 どぞう に疎開 そかい されていた図書 としょ が図書館 としょかん に戻 もど されることとなり、この日 ひ に現地 げんち を発送 はっそう する[ 22] 。
1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )
4月 がつ 西北 せいほく 隅 すみ の自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ が参考 さんこう 図書 としょ 閲覧 えつらん 室 しつ となる。
10月 がつ 東 ひがし 翼 つばさ に図書館 としょかん 学 がく 資料 しりょう 室 しつ が設 もう けられる。
1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )
6月 がつ ロックフェラー財団 ざいだん が東大 とうだい 図書館 としょかん 改善 かいぜん のための調査 ちょうさ 費 ひ 等 とう の寄附 きふ を決定 けってい する。
7月 がつ 岸本 きしもと 英夫 ひでお 館長 かんちょう が渡米 とべい し、米国 べいこく の大学 だいがく 図書館 としょかん を視察 しさつ する。9月末 まつ 帰国 きこく 。
10月6日 にち 第 だい 1回 かい 全学 ぜんがく 図書館 としょかん 連絡 れんらく 集会 しゅうかい 開催 かいさい
1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )
1月 がつ 下旬 げじゅん 第 だい 1次 じ 改善 かいぜん 計画 けいかく 案 あん が作成 さくせい される。
2月 がつ 7日 にち 改善 かいぜん 計画 けいかく の助言 じょげん のためキーズ・D・メトカフが来日 らいにち する。14日 にち 帰 き 米 まい 。
3月15日 にち キーズ・D・メトカフが再 ふたた び来日 らいにち 。30日 にち 帰 き 米 まい 。滞在 たいざい 中 ちゅう に2回 かい の講演 こうえん 会 かい が開 ひら かれる。
5月 改善 かいぜん 計画 けいかく 最終 さいしゅう 案 あん が完成 かんせい 。翌月 よくげつ 27日 にち 評議 ひょうぎ 会 かい において承認 しょうにん 。
9月 がつ ロックフェラー財団 ざいだん が改善 かいぜん のための援助 えんじょ を決定 けってい 。総額 そうがく 8,460万 まん 円 えん 、初年度 しょねんど は1,296万 まん 円 えん 分 ぶん 。
10月 改善 かいぜん に際 さい して国費 こくひ 640万 まん 円 えん の支出 ししゅつ が決定 けってい 。
11月15日 にち 全学 ぜんがく 総合 そうごう 目録 もくろく 作成 さくせい 作業 さぎょう 開始 かいし 。
1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )
1月 がつ 1962年度 ねんど 政府 せいふ 予算 よさん 案 あん に改善 かいぜん 予算 よさん が組 く み込 こ まれる。
2月 がつ 1日 にち 3階 かい 一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ が開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ (340席 せき )となる。閲覧 えつらん 席 せき の一部 いちぶ が撤去 てっきょ され、指定 してい 書 しょ や一般 いっぱん 書 しょ を開架 かいか 式 しき で配置 はいち する。
2月 がつ 5日 にち 部局 ぶきょく 図書 としょ 室 しつ 目録 もくろく カードの撮影 さつえい が開始 かいし される。
4月 がつ 中央 ちゅうおう 図書館 としょかん の機構 きこう 改革 かいかく が決定 けってい し、3課 か 16掛 かけ に。
6月4日 にち 大学院 だいがくいん 学生 がくせい 向 む けにキャレル(個室 こしつ 閲覧 えつらん 席 せき )125席 せき が開設 かいせつ された。
9月 がつ 10日 とおか 改装 かいそう 工事 こうじ (第 だい 1期 き )が開始 かいし される。工事 こうじ 範囲 はんい は地階 ちかい 、4階 かい 、5階 かい 。
10月1日 にち 岸本 きしもと 館長 かんちょう がプリンストン大学 ぷりんすとんだいがく に招聘 しょうへい されて渡米 とべい し、この間 あいだ に米国 べいこく における図書館 としょかん 協力 きょうりょく の現状 げんじょう を視察 しさつ 。ロックフェラー財団 ざいだん などへの改善 かいぜん の現状 げんじょう 報告 ほうこく も行 おこな う。
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )
5月1日 にち 工事 こうじ の進捗 しんちょく に伴 ともな い、1階 かい 西側 にしがわ 元 もと 新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ に新 しん 参考 さんこう 室 しつ 、東側 ひがしがわ には日刊 にっかん 新聞 しんぶん 閲覧 えつらん 室 しつ 、雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ が開 ひらけ 室 しつ 。新 しん 参考 さんこう 室 しつ 内 ない に新設 しんせつ された2階 かい は、隣 となり の元 もと 判例 はんれい 室 しつ とともに学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ となる。ほか1階 かい には出納 すいとう 台 だい や複写 ふくしゃ 掛 かけ などが移設 いせつ された[ 67] 。
5月4日 にち 工事 こうじ 開始 かいし 以来 いらい 閉鎖 へいさ されていた正面 しょうめん 玄関 げんかん が再開 さいかい される。茅 ちがや 総長 そうちょう や学生 がくせい ・職員 しょくいん などが茶話 ちゃばなし 会 かい を開 ひら く[ 68] 。
9月17日 にち 東京大学 とうきょうだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 基本 きほん 規則 きそく 案 あん 、図書 としょ 行政 ぎょうせい 商議 しょうぎ 会 かい 規定 きてい 改正 かいせい 案 あん 、附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう 選考 せんこう 内規 ないき 案 あん の3案 あん が評議 ひょうぎ 会 かい で承認 しょうにん を得 え た。従来 じゅうらい は通称 つうしょう として「中央 ちゅうおう 図書館 としょかん 」と呼 よ ばれていたが、この基本 きほん 規則 きそく に基 もと づいて「総合 そうごう 図書館 としょかん 」に呼称 こしょう が改 あらた められることとなった。一方 いっぽう 「附属 ふぞく 図書館 としょかん 」の呼称 こしょう は、学内 がくない の図書館 としょかん ・図書 としょ 室 しつ の総称 そうしょう となった。
11月9日 にち 図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば で附属 ふぞく 図書館 としょかん 改善 かいぜん 記念 きねん 式典 しきてん が開 ひら かれる。図書館 としょかん 関係 かんけい 者 しゃ 、学内 がくない 関係 かんけい 者 しゃ 、文部省 もんぶしょう 関係 かんけい 官 かん などが招待 しょうたい された。
1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )
2月 がつ 6日 にち 館長 かんちょう として図書館 としょかん 改善 かいぜん を推 お し進 すす めた岸本 きしもと 英夫 ひでお の葬儀 そうぎ (附属 ふぞく 図書館 としょかん 葬 そう )が超 ちょう 宗教 しゅうきょう で行 おこな われる。
2月 がつ 13日 にち 教官 きょうかん 用 よう 閲覧 えつらん 個 こ 席 せき 室 しつ の使用 しよう を開始 かいし 。21日 にち には同 どう 個室 こしつ も使用 しよう 開始 かいし [ 69] 。
3月 がつ 全学 ぜんがく 総合 そうごう 目録 もくろく の編成 へんせい が終了 しゅうりょう する。
8月 がつ 14日 にち エレベーター2基 き の使用 しよう が開始 かいし される。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )
4月 がつ 1日 にち 複写 ふくしゃ センターが開設 かいせつ される。複写 ふくしゃ 代金 だいきん 払込 はらいこみ の手続 てつづ きを簡素 かんそ 化 か し、製品 せいひん 渡 わた しまでの期日 きじつ を短縮 たんしゅく した[ 70] 。
5月 がつ 10日 とおか 5階 かい にビュッフェが開設 かいせつ される。約 やく 100席 せき 、11時 じ から19時 じ までの営業 えいぎょう [ 71] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )
5月 文献 ぶんけん 複写 ふくしゃ 業務 ぎょうむ を開始 かいし 。
7月 がつ 東京大学 とうきょうだいがく が国連 こくれん 寄託 きたく 図書館 としょかん に指定 してい される[ 72] 。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )
1月 がつ 前年 ぜんねん 7月 がつ の指定 してい に基 もと づき、東 ひがし 翼 つばさ 1階 かい に国連 こくれん 資料 しりょう 室 しつ が開設 かいせつ される[ 72] 。
参考 さんこう 室 しつ にマイクロカードリーダーを設置 せっち [ 73] 。
11月22日 にち 全共闘 ぜんきょうとう 系 けい の学生 がくせい らによって封鎖 ふうさ される。「全学 ぜんがく 封鎖 ふうさ 闘争 とうそう 」の一環 いっかん 。
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )
1月 がつ 11日 にち 封鎖 ふうさ が解除 かいじょ される。
2月 がつ 5日 にち 封鎖 ふうさ 解除 かいじょ 後 ご の復旧 ふっきゅう が概 おおむ ね終了 しゅうりょう し、2か月 げつ ぶりに開館 かいかん する。ただし雑誌 ざっし 整理 せいり 業務 ぎょうむ の停滞 ていたい のため、雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ は1週間 しゅうかん 遅 おく れて再開 さいかい 室 しつ された。また同 どう 時期 じき に行 おこな われていた天井 てんじょう 改修 かいしゅう 工事 こうじ のため、3階 かい 開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ は2月 がつ 10日 にち 過 す ぎまで利用 りよう 停止 ていし が続 つづ いた[ 48] 。
4月 がつ サッシのアルミサッシへの取 と り換 か え、書庫 しょこ 照明 しょうめい 、床 ゆか の張替 はりか え、暖房 だんぼう 改修 かいしゅう 、消火 しょうか 設備 せつび 設置 せっち などの改修 かいしゅう が完了 かんりょう する[ 74] 。
5月30日 にち 武装 ぶそう した全共闘 ぜんきょうとう の学生 がくせい らが五 ご 月 がつ 祭 さい で襲撃 しゅうげき を行 おこな う。総合 そうごう 図書館 としょかん は窓 まど ガラスを割 わ られる被害 ひがい を受 う けた。
1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )
7月 がつ 14日 にち 評議 ひょうぎ 会 かい で、大 だい 講堂 こうどう のうち居住 きょじゅう 性 せい の悪 わる い1、2階 かい 部分 ぶぶん を暫定 ざんてい 的 てき な保存 ほぞん 書庫 しょこ とし、総合 そうごう 図書館 としょかん 保存 ほぞん 書庫 しょこ から資料 しりょう を移動 いどう することが決定 けってい される[ 75] [ 76] 。
9月 視聴覚 しちょうかく 資料 しりょう 利用 りよう のためのオーディオ・ルームを暫定 ざんてい 的 てき に供用 きょうよう 開始 かいし 。同室 どうしつ での視聴 しちょう は紛争 ふんそう 前 まえ から始 はじ められていた[ 77] [ 78] 。
1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )
6月16日 にち 図書館 としょかん 学 がく 資料 しりょう 室 しつ が参考 さんこう 室 しつ 中 ちゅう 2階 かい から、西 にし 翼 つばさ 4階 かい 旧 きゅう 演習 えんしゅう 室 しつ に移 うつ される。岸本 きしもと 改善 かいぜん 以前 いぜん の場所 ばしょ に戻 もど った形 かたち となる[ 79] 。
1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )
12月1日 にち 1階 かい 自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ (旧 きゅう 記念 きねん 室 しつ )で図書館 としょかん 再建 さいけん 50年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん が行 おこな われる。列席 れっせき 者 しゃ には記念 きねん パンフレット「図書館 としょかん 再建 さいけん 50年 ねん 」が配布 はいふ される。この日 ひ から9日 にち まで、関連 かんれん した記念 きねん 展示 てんじ 会 かい も行 おこな われた[ 80] 。
1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )
4月 がつ 7日 にち 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ (本館 ほんかん 東 ひがし 翼 つばさ )が改装 かいそう される。収容 しゅうよう 能力 のうりょく の向上 こうじょう 、全面 ぜんめん 開架 かいか 式 しき への変更 へんこう などの改善 かいぜん が行 おこな われた[ 81] 。
1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )
1月 がつ 17日 にち エドマンド・ブランデンのレリーフが寄贈 きぞう され、午後 ごご 2時 じ から除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われる[ 82] 。
1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )
裏 うら 田 た 館長 かんちょう による「東京大学 とうきょうだいがく 総合 そうごう 図書館 としょかん 改善 かいぜん 計画 けいかく 試案 しあん 」が公表 こうひょう される。
1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )
7月 がつ 「東京大学 とうきょうだいがく 総合 そうごう 図書館 としょかん 改善 かいぜん 計画 けいかく 試案 しあん 」の修正 しゅうせい 補足 ほそく 版 ばん が公表 こうひょう される。
12月 改修 かいしゅう 第 だい 1期 き 工事 こうじ 開始 かいし 。正面 しょうめん 玄関 げんかん の自動 じどう ドア化 か 、照明 しょうめい の改善 かいぜん 、自動 じどう 入 いれ 退 すさ 館 かん 装置 そうち 新設 しんせつ 、1階 かい サービスカウンター新設 しんせつ など。工期 こうき は翌年 よくねん 6月 がつ まで[ 50] 。
1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )
2月 がつ 27日 にち 館内 かんない 改修 かいしゅう 工事 こうじ に伴 ともな い、正面 しょうめん の入口 いりくち が封鎖 ふうさ される。西側 にしがわ 玄関 げんかん が臨時 りんじ の出入口 でいりぐち となる。受付 うけつけ 等 とう のカウンターは3階 かい ホール南側 みなみがわ に移動 いどう [ 83] 。
7月 がつ 10日 にち 前月 ぜんげつ 末 まつ に第 だい 1期 き 改修 かいしゅう 工事 こうじ が完了 かんりょう し、1階 かい サービスカウンター等 とう が使用 しよう 開始 かいし される[ 84] 。
10月 改修 かいしゅう 第 だい 2期 き 工事 こうじ 開始 かいし 。西側 にしがわ エレベーター更新 こうしん 、研修 けんしゅう 室 しつ 新設 しんせつ や書庫 しょこ 内 ない の改修 かいしゅう 、参考 さんこう 室 しつ や雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ 、マイクロ資料 しりょう 室 しつ 、国連 こくれん 資料 しりょう 室 しつ の整備 せいび など。工期 こうき は翌 よく 3月 がつ まで[ 50]
12月17日 にち 駒場 こまば の教養 きょうよう 学部 がくぶ 図書館 としょかん との間 あいだ で、高速 こうそく ファクシミリによる文献 ぶんけん 複写 ふくしゃ 物 ぶつ 、事務 じむ 文書 ぶんしょ の送受信 そうじゅしん を開始 かいし [ 85]
1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )
1月 がつ ごろ 実物 じつぶつ 大 だい のロゼッタストーンのレプリカが玄関 げんかん 入口 いりくち 右手 みぎて に設置 せっち される。原 はら 資料 しりょう を所蔵 しょぞう する大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん による製作 せいさく [ 86] 。
4月 がつ ごろ 参考 さんこう 室 しつ の改修 かいしゅう が完了 かんりょう する。内装 ないそう 等 とう が整備 せいび されたほか、スペースが拡張 かくちょう された[ 87] 。
10月 改修 かいしゅう 第 だい 3期 き 工事 こうじ 開始 かいし 。計算 けいさん 機 き 室 しつ 新設 しんせつ 、文学部 ぶんがくぶ 視聴覚 しちょうかく 教育 きょういく センターの5階 かい への移転 いてん など。工期 こうき は翌 よく 3月 がつ まで[ 50] 。
1986年 ねん (昭和 しょうわ 61年 ねん )
1月 がつ 31日 にち 図書館 としょかん 中央 ちゅうおう システムで運用 うんよう される日立 ひたち 製 せい 大型 おおがた コンピュータHITAC M-260D装置 そうち 一式 いっしき が導入 どうにゅう される。準備 じゅんび 期間 きかん を経 へ て、3月から順次 じゅんじ サービスを開始 かいし [ 56] 。
5月12日 にち 開架 かいか 資料 しりょう の貸 か し出 だ しが電算 でんさん 化 か される。これに合 あ わせて従来 じゅうらい の開架 かいか 貸出 かしだし 票 ひょう に代 か わり、教養 きょうよう 学部 がくぶ 図書館 としょかん と共通 きょうつう の利用 りよう 証 しょう が発行 はっこう されることとなった。開架 かいか 資料 しりょう にはハンドスキャナで読 よ み取 と り可能 かのう な資料 しりょう IDラベルが貼 は られるようになった[ 57] 。
7月 がつ 1日 にち オンライン目録 もくろく OPACのサービス提供 ていきょう が開始 かいし される[ 58] 。4日 にち には電算 でんさん 化 か されたシステムの披露 ひろう 会 かい が開 ひら かれた[ 88] 。
9月 改修 かいしゅう 第 だい 4期 き 工事 こうじ 開始 かいし 。3階 かい 開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ ・ホール整備 せいび 、4回 かい 開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ の新設 しんせつ 、書庫 しょこ 内 ない エレベータ更新 こうしん など。工期 こうき は翌 よく 3月 がつ まで[ 50] 。
NACSIS-CAT による目録 もくろく 業務 ぎょうむ が開始 かいし される[ 89] 。
1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )
3月 1983年度 ねんど より行 おこな われてきた改修 かいしゅう 工事 こうじ が終了 しゅうりょう (4階 かい は除 のぞ く)。一連 いちれん の改修 かいしゅう により、開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ の増設 ぞうせつ や参考 さんこう 室 しつ の整備 せいび 、電算 でんさん 化 か への対応 たいおう などが果 は たされた[ 59] 。
洋 よう 図書 としょ の総合 そうごう 目録 もくろく 遡及 そきゅう 入力 にゅうりょく が始 はじ められる。
1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん )
1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )
5月7日 にち 東 あずま 翼 つばさ 北側 きたがわ の閲覧 えつらん 室 しつ を改修 かいしゅう し、コンセントを設 もう けた閲覧 えつらん 座席 ざせき や教育 きょういく 用 よう 計算 けいさん 機 き システム端 はし 末 まつ (ワークステーション・パソコン)を設置 せっち 。情報 じょうほう 機器 きき 利用 りよう スペース「メディアプラザ」として開設 かいせつ される[ 90] 。
1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん )
1月 がつ 本郷 ほんごう 、駒場 こまば キャンパス間 あいだ で資料 しりょう 配送 はいそう のサービスを試験 しけん 的 てき に開始 かいし [ 91] 。
8月 がつ 3階 かい ホールで館 かん 史 し 資料 しりょう の常設 じょうせつ 展示 てんじ を開始 かいし 。蔵書 ぞうしょ 印 いん や震災 しんさい 関連 かんれん 資料 しりょう などが展示 てんじ される[ 92] 。
2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )
10月 がつ カウンターが改編 かいへん され、1階 かい の資料 しりょう サービスカウンターと情報 じょうほう サービスカウンター、3階 かい の国際 こくさい 資料 しりょう 室 しつ カウンターの3カウンターとなる。3階 かい に設置 せっち されていた開架 かいか 閲覧 えつらん カウンターは廃止 はいし される[ 93] 。
2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )
開架 かいか 図書 としょ の分類 ぶんるい 変更 へんこう が着手 ちゃくしゅ される。従来 じゅうらい は独自 どくじ の分類 ぶんるい を用 もち いていたが、洋書 ようしょ は国際 こくさい 十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう 、和書 わしょ は日本 にっぽん 十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう 新 しん 訂 てい 9版 はん に改 あらた められることとなった。分類 ぶんるい 変更 へんこう は洋書 ようしょ が先行 せんこう して行 おこな われ、順次 じゅんじ 開架 かいか 和書 わしょ 、参考 さんこう 図書 としょ と続 つづ いた[ 94] [ 95] 。
2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )
3月 がつ 自動 じどう 貸出 かしだし 機 き が開始 かいし され、バーコードカードによる自動 じどう 貸出 かしだし が可能 かのう となる[ 96] 。
6月28日 にち 分類 ぶんるい 変更 へんこう 作業 さぎょう に伴 ともな い、開架 かいか 和 わ 図書 としょ の貸出 かしだし が停止 ていし される。翌月 よくげつ 22日 にち からは閲覧 えつらん も停止 ていし され、9月2日 にち までは利用 りよう 不可 ふか となった[ 97] 。
2004年 ねん (平成 へいせい 16年 ねん )
附属 ふぞく 図書館 としょかん 基本 きほん 規則 きそく が改正 かいせい された。岸本 きしもと 館長 かんちょう 時代 じだい 以来 いらい 標榜 ひょうぼう されていた「連絡 れんらく 調整 ちょうせい された分散 ぶんさん 主義 しゅぎ 」の運営 うんえい 原則 げんそく が、「共 きょう 働 はたらけ する一 ひと つのシステム」に転換 てんかん された[ 98] 。
2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )
附属 ふぞく 図書館 としょかん 研究 けんきゅう 開発 かいはつ 室 しつ に「総合 そうごう 図書館 としょかん 整備 せいび 計画 けいかく 研究 けんきゅう プロジェクト」が設 もう けられ、図書館 としょかん 再 さい 整備 せいび の検討 けんとう が開始 かいし される[ 99] 。
2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )
総合 そうごう 図書館 としょかん の大 だい 規模 きぼ 改修 かいしゅう に向 む け、館内 かんない にプロジェクトチームが設置 せっち された[ 100] 。
2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )
12月22日 にち 戦時 せんじ 中 ちゅう の金属 きんぞく 供出 きょうしゅつ で取 と り外 はず されていた正面 しょうめん 玄関 げんかん ポーチ外灯 がいとう が復元 ふくげん され、披露 ひろう および点灯 てんとう 式 しき が執 と り行 おこな われた。復元 ふくげん 募金 ぼきん 、東京大学 とうきょうだいがく 基金 ききん によって資金 しきん を調達 ちょうたつ [ 101] 。
2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )
9月 新 しん 図書館 としょかん 構想 こうそう 検討 けんとう 準備 じゅんび 部会 ぶかい が発足 ほっそく した[ 102] 。
2012年 ねん (平成 へいせい 24年 ねん )
6月11日 にち 新 しん 図書館 としょかん の建設 けんせつ 工事 こうじ に先駆 さきが けて、図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の2本 ほん のクスノキの移植 いしょく が開始 かいし される。29日 にち までに医学部 いがくぶ 前 ぜん 広場 ひろば への移植 いしょく を完了 かんりょう した[ 103] 。
2013年 ねん (平成 へいせい 25年 ねん )
9月 がつ 10日 とおか 図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば の埋蔵 まいぞう 文化財 ぶんかざい 調査 ちょうさ が開始 かいし された[ 104] 。
9月26日 にち 正面 しょうめん 玄関 げんかん が閉鎖 へいさ される。翌月 よくげつ 1日 にち には東側 ひがしがわ に仮 かり 入口 いりくち が設 もう けられてサービスが再開 さいかい 。東側 ひがしがわ の和 わ 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ がカウンターや事務 じむ 室 しつ に改修 かいしゅう された[ 104] 。
2014年 ねん (平成 へいせい 26年 ねん )
7月 がつ 図書館 としょかん 共同 きょうどう 利用 りよう 棟 とう (工事 こうじ 中 ちゅう における図書館 としょかん 事務 じむ 部 ぶ の仮 かり 移転 いてん のためのプレハブ)の設置 せっち 工事 こうじ が開始 かいし される[ 105] 。
12月11日 にち 「アカデミックコモンズ(仮称 かしょう )」新 しん 営工事 こうじ の起工式 きこうしき が行 おこな われる[ 105] 。
図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば では新館 しんかん 建設 けんせつ の準備 じゅんび 工事 こうじ が行 おこな われる[ 105] 。
2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )
2月 がつ 事務 じむ 部門 ぶもん が図書館 としょかん 共同 きょうどう 利用 りよう 棟 とう への移転 いてん を完了 かんりょう する[ 105] 。
4月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ Ⅱ期 き 工事 こうじ が開始 かいし される。新館 しんかん の地下 ちか 工事 こうじ も本格 ほんかく 化 か [ 106] 。
2016年 ねん (平成 へいせい 28年 ねん )
10月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう Ⅲ-1期 き 工事 こうじ が開始 かいし される[ 107] 。
11月22日 にち 総合 そうごう 図書館 としょかん が来年度 らいねんど 1年間 ねんかん 工事 こうじ の為 ため 閉館 へいかん するとの方針 ほうしん を掲示 けいじ する。25日 にち には有志 ゆうし の学生 がくせい によって「閉館 へいかん に反対 はんたい する学生 がくせい の会 かい 」が結成 けっせい され、署名 しょめい が集 あつ められる。まもなく総合 そうごう 図書館 としょかん からは、図書館 としょかん サービスが完全 かんぜん に停止 ていし するわけではないとする通知 つうち が出 だ される[ 108] 。
2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )
5月 別館 べっかん ライブラリープラザが竣工 しゅんこう する[ 62] 。
7月 がつ 本館 ほんかん 改修 かいしゅう 工事 こうじ に伴 ともな う代替 だいたい 閲覧 えつらん スペースとして、別館 べっかん が供用 きょうよう 開始 かいし [ 62] 。
2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )
3月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう Ⅲ-1、2期 き 工事 こうじ が完了 かんりょう する[ 63] 。
5月22日 にち 工事 こうじ の進捗 しんちょく に伴 ともな い、正面 しょうめん 玄関 げんかん が4年 ねん ぶりに再開 さいかい される[ 63] 。
10月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう Ⅲ-3期 き 工事 こうじ が開始 かいし される。対象 たいしょう 範囲 はんい は書庫 しょこ 1-6階 かい [ 63] 。
10月2日 にち 別館 べっかん が会話 かいわ 可能 かのう な学習 がくしゅう 空間 くうかん としての位置 いち づけでリニューアルオープンされる[ 63] 。
2019年 ねん (平成 へいせい 31年 ねん )
3月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう Ⅲ-3期 き 工事 こうじ が完了 かんりょう 。本館 ほんかん 中央 ちゅうおう 部分 ぶぶん 書庫 しょこ と書庫 しょこ 前 ぜん スペースが整備 せいび された[ 109] 。
2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )
1月 がつ 本館 ほんかん 耐震 たいしん 改修 かいしゅう Ⅳ期 き 工事 こうじ が開始 かいし される。対象 たいしょう 範囲 はんい は東 あずま 翼 つばさ [ 109] 。
11月26日 にち 一連 いちれん の総合 そうごう 図書館 としょかん 改修 かいしゅう 工事 こうじ が概 おおむ ね終了 しゅうりょう し、グランドオープン。プロジェクトボックス(個室 こしつ )やラウンジなどが新 あら たにオープンした[ 64] 。
※年表 ねんぴょう 記載 きさい 中 ちゅう の事項 じこう について、特記 とっき なきは以下 いか の資料 しりょう における年表 ねんぴょう を参考 さんこう としている。
再建 さいけん された東京帝大 とうきょうていだい 図書館 としょかん
本館 ほんかん は、1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )7月 がつ 1日 にち に着工 ちゃっこう し、1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )11月 がつ 10日 とおか に竣工 しゅんこう 、同 どう 12月 がつ 1日 にち に開館 かいかん した。鉄骨 てっこつ 鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり で、正面 しょうめん に向 む かって左右 さゆう の両翼 りょうよく は地上 ちじょう 3階 かい 、中央 ちゅうおう 部 ぶ は地上 ちじょう 4階 かい 、また一部 いちぶ 地上 ちじょう 5階 かい 、書庫 しょこ 部 ぶ は地上 ちじょう 6階 かい 建 だ てで、地下 ちか 1階 かい を備 そな える。
竣工 しゅんこう 時 じ は附属 ふぞく 図書館 としょかん と呼 よ ばれ、のちには中央 ちゅうおう 図書館 としょかん とも呼 よ ばれていたが、1973年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )の「東京大学 とうきょうだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 基本 きほん 規則 きそく 」制定 せいてい によって現在 げんざい 見 み られるように「総合 そうごう 図書館 としょかん 」と呼 よ ばれるようになった。後述 こうじゅつ の新館 しんかん が建設 けんせつ されてからは、従来 じゅうらい からあるこの建物 たてもの を「本館 ほんかん 」と呼 よ ぶようになっている。本 ほん 記事 きじ でも、基本 きほん 的 てき には「本館 ほんかん 」と呼 よ ぶ。
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )の関東大震災 かんとうだいしんさい 以前 いぜん には、現在 げんざい の本館 ほんかん がある付近 ふきん に木骨 もっこつ 煉瓦 れんが 造 づくり の図書館 としょかん があったものの、震災 しんさい に伴 ともな って本郷 ほんごう キャンパス構内 こうない で発生 はっせい した火災 かさい が延焼 えんしょう し、この図書館 としょかん は75万 まん 冊 さつ もの資料 しりょう とともに焼失 しょうしつ した。再建 さいけん にあたっては、ジョン・ロックフェラー2世 せい から400万 まん 円 えん の寄付 きふ の申 もう し出 で があり、これを基 もと にして新 あら たな図書館 としょかん が建設 けんせつ されることとなった。この寄付 きふ はロックフェラー財団 ざいだん ではなく、ロックフェラー2世 せい のポケットマネーとして支出 ししゅつ されたものであり[ 110] 、寄付 きふ 金 きん の用途 ようと (図書 としょ 購入 こうにゅう に使用 しよう するか、図書館 としょかん 新築 しんちく 費用 ひよう に充 あ てるか、など)やその他 た 利用 りよう に関 かん する諸 しょ 問題 もんだい は全 すべ て資金 しきん 管理 かんり 委員 いいん 会 かい に一任 いちにん され、一切 いっさい の条件 じょうけん を付 つ けなかった。この申 もう し出 で を受 う けて、委員 いいん 長 ちょう に古 こ 在 ざい 由直 よしなお (当時 とうじ の総長 そうちょう )、設計 せっけい 部長 ぶちょう に内田 うちだ 祥三 しょうぞう 、委員 いいん には姉崎 あねざき 正治 しょうじ (再建 さいけん 後 ご には館長 かんちょう に就任 しゅうにん )、山田 やまだ 三良 さぶろう (当時 とうじ の法学部 ほうがくぶ 長 ちょう )が加 くわ わって図書館 としょかん 建築 けんちく 委員 いいん 会 かい が結成 けっせい され、内田 うちだ 祥三 しょうぞう が主宰 しゅさい していた東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 営繕 えいぜん 課 か の技師 ぎし や、工学部 こうがくぶ 建築 けんちく 教室 きょうしつ の若手 わかて 教官 きょうかん らが多 おお く建築 けんちく に携 たずさ わった。
場所 ばしょ の選定 せんてい にあたって、当初 とうしょ は正門 せいもん から大 だい 講堂 こうどう へ抜 ぬ ける通 とお りに面 めん して、陳列 ちんれつ 館 かん (工学部 こうがくぶ 列 れつ 品 ひん 室 しつ )の向 む かい(現在 げんざい の法学部 ほうがくぶ 3号館 ごうかん がある位置 いち )に設置 せっち することが考 かんが えられていた。これは、当時 とうじ の学内 がくない で教授 きょうじゅ らが収集 しゅうしゅう してきたあらゆる貴重 きちょう なコレクションが、十分 じゅうぶん に整理 せいり されない状態 じょうたい で廊下 ろうか 等 とう に置 お かれていた状態 じょうたい を見 み た内田 うちだ が、ミュージアムの必要 ひつよう 性 せい を痛切 つうせつ に認識 にんしき し、自然 しぜん 科学 かがく 系 けい のミュージアム、文科 ぶんか 的 てき 方面 ほうめん の図書館 としょかん を正 せい 対 たい させて配置 はいち する構想 こうそう を持 も っていたためである。しかしこの構想 こうそう は法学部 ほうがくぶ からの強 つよ い反対 はんたい により断念 だんねん され、震災 しんさい で焼失 しょうしつ した旧 きゅう 図書館 としょかん とほぼ同 おな じ位置 いち に建 た てられることとなった[ 111] [ 112] 。
設計 せっけい にあたっては、内田 うちだ の弟子 でし ら10人 にん によって内輪 うちわ のコンクールが行 おこな われた。日本 にっぽん 建築 けんちく 学会 がっかい が発行 はっこう している『建築 けんちく 雑誌 ざっし 』の通巻 つうかん 471号 ごう (1925年 ねん 1月 がつ )には「東京 とうきょう 帝國 ていこく 大学 だいがく 圖書館 としょかん 建築 けんちく 圖案 ずあん 」として、内田 うちだ によって画 えが かれた平面 へいめん 案 あん のほか、長谷部 はせべ 鋭 するど 吉 よし 、堀口 ほりぐち 捨巳 すてみ 、岸田 きしだ 日出刀 ひでと 、野田 のだ 俊彦 としひこ 、渡邊 わたなべ 仁 ひとし 、吉田 よしだ 鐵郎 てつお の6人 にん による外観 がいかん デザインの草案 そうあん が掲載 けいさい されており、これが先 さき のコンクールで出 だ された案 あん に当 あ たるものと思 おも われる。このコンペで一等 いっとう をとったのは、図書館 としょかん 建築 けんちく 委員 いいん に建築 けんちく 部 ぶ 嘱託 しょくたく 技師 ぎし として名 な を連 つら ねていた岸田 きしだ の案 あん であった。当時 とうじ の岸田 きしだ は表現 ひょうげん 派 は の流行 りゅうこう 、特 とく にメンデルゾーン の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けていたため、装飾 そうしょく を廃 はい して水平 すいへい を強調 きょうちょう したデザインとして仕上 しあ がっていた(現存 げんそん する建物 たてもの としては南 みなみ 研究 けんきゅう 棟 とう などに類似 るいじ している)。しかし設計 せっけい 部長 ぶちょう である内田 うちだ はメンデルゾーンを好 この まなかったことから、このコンペで出 だ された岸田 きしだ 案 あん は採用 さいよう されることがなく、結局 けっきょく は内田 うちだ が自身 じしん で1/200の設計 せっけい 図 ず を描 えが き、現在 げんざい の建物 たてもの の基本 きほん 案 あん としている。
そのため、現在 げんざい の本館 ほんかん の外観 がいかん は、周囲 しゅうい の法文 ほうぶん 2号館 ごうかん や法学部 ほうがくぶ 3号館 ごうかん などと調和 ちょうわ したものとなった。他 た の多 おお くの内田 うちだ 祥三 しょうぞう による建築 けんちく と同様 どうよう 、本館 ほんかん は左右 さゆう 対称 たいしょう の造 つく りとなっている。蔵書 ぞうしょ が増加 ぞうか した場合 ばあい には、書庫 しょこ を奥 おく の方 ほう に拡張 かくちょう することが考 かんが えられていた[ 114] が、実際 じっさい には戦後 せんご に総合 そうごう 学 がく 環 たまき 、教育 きょういく 学部 がくぶ などに当 あ たる建物 たてもの が建 た てられることとなり、現在 げんざい ではこれらの区画 くかく が「図書館 としょかん 団地 だんち 」と総称 そうしょう されるようになっている[ 115] 。設計 せっけい にあたってコンペが行 おこな われたことは先述 せんじゅつ の通 とお りであるが、基本 きほん 設計 せっけい を担当 たんとう することとなった内田 うちだ 祥三 しょうぞう と、初代 しょだい 館長 かんちょう となった姉崎 あねざき 正治 しょうじ との間 あいだ でも論争 ろんそう が生 しょう じていた。立場 たちば としては、内田 うちだ がキャンパス復興 ふっこう 計画 けいかく 全体 ぜんたい との整合 せいごう 性 せい と図書館 としょかん 建物 たてもの の完結 かんけつ 性 せい を主張 しゅちょう し、一方 いっぽう の姉崎 あねざき は図書館 としょかん 機能 きのう に沿 そ った建築 けんちく を主張 しゅちょう していた。残 のこ された内田 うちだ による1/200図面 ずめん では、1、2階 かい の階 かい 高 だか が低 ひく いものと高 たか いもの(実施 じっし 案 あん に近 ちか いもの)の2案 あん が存在 そんざい していたことが分 わ かる。階 かい 高 だか を高 たか くした場合 ばあい は大 だい 階段 かいだん の長 なが さが伸 の び、館内 かんない において階段 かいだん が占 し める面積 めんせき も大 おお きくなるため、より多 おお くの床 ゆか 面積 めんせき を有効 ゆうこう に活用 かつよう するためには階 かい 高 だか が低 ひく い方 ほう が良 よ い。しかしながら、結局 けっきょく は内田 うちだ が自 じ 案 あん を押 お し切 き り、現在 げんざい 見 み るように1、2階 かい の階 かい 高 だか は高 たか い形 かたち で実現 じつげん された[ 116] 。
建築 けんちく の細部 さいぶ にはゴシック様式 ようしき の意匠 いしょう が取 と り入 い れられ、外装 がいそう には茶褐色 ちゃかっしょく のスクラッチタイル が用 もち いられることで、意匠 いしょう 的 てき にはいわゆる典型 てんけい 的 てき な内田 うちだ ゴシック の様相 ようそう を示 しめ す建物 たてもの として完成 かんせい している。正面 しょうめん のファサード は、バットレス 風 ふう の付 づけ 柱 ばしら やスクラッチタイルの外装 がいそう など、基本 きほん 的 てき な造作 ぞうさく は内田 うちだ ゴシックの基本形 きほんけい に沿 そ ったものとなっているが、各 かく 付 ふ 柱 ばしら に挟 はさ まれた壁面 へきめん が三面 さんめん に折 お られて出窓 でまど 状 じょう (台形 だいけい 状 じょう )にせり出 だ している点 てん は、他 た の内田 うちだ ゴシックには見 み られない特徴 とくちょう 的 てき な形態 けいたい となっていて、しばしば書架 しょか に並 なら べられた本 ほん の背 せ のようであると評 ひょう されるものである[ 118] 。この内 うち 正面 しょうめん 中央 ちゅうおう 部 ぶ の壁面 へきめん は、スクラッチタイル張 ば りではなく、人造 じんぞう 大理石 だいりせき 塗 ぬ りとなっている。当初 とうしょ はポーチ部分 ぶぶん と同 おな じく日出 にっしゅつ 石 せき を張 は ることになっていたが、地震 じしん の際 さい における安全 あんぜん 性 せい を考慮 こうりょ して、構造 こうぞう 上 じょう より適切 てきせつ である人造 じんぞう 石 せき 塗 ぬ りとしたものである。ただ完成 かんせい すると思 おも いの外 ほか 面積 めんせき が広 ひろ く、色 いろ が薄 うす かったため、内田 うちだ は石 いし を張 は った方 ほう がよかったと顧 かえり みている[ 119] 。
なお、岸田 きしだ はコンペで一等 いっとう を取 と った自 じ 案 あん が建築 けんちく として実現 じつげん されることはなかったものの、図書館 としょかん 建築 けんちく の施設 しせつ 、設備 せつび を調査 ちょうさ するための海外 かいがい 出張 しゅっちょう を行 おこな っていて、この調査 ちょうさ の結果 けっか は設計 せっけい に反映 はんえい されたという。ほかにも、電気 でんき 設備 せつび に関 かん しては大山 おおやま 松次郎 まつじろう 、暖房 だんぼう ・機械 きかい 設備 せつび では丹羽 にわ 重光 しげみつ 、造園 ぞうえん では田村 たむら 剛 つよし の助言 じょげん を得 え ている[ 120] 。また、工事 こうじ にあたっては、主 おも な相手 あいて として以下 いか の各社 かくしゃ と請負 うけおい 契約 けいやく を行 おこな った[ 121] 。
図書館 としょかん 建設 けんせつ 費用 ひよう で造 つく られた広場 ひろば 脇 わき のパビリオン。東西 とうざい に造 つく られたが東側 ひがしがわ のみ現存 げんそん 。
図書館 としょかん 建設 けんせつ の予算 よさん では前庭 ぜんてい の整備 せいび も行 おこな われ、広場 ひろば にはピンコロの花崗 みかげ 石 せき が青海 あおみ 波 なみ 状 じょう に並 なら べられた石畳 いしだたみ が敷 し かれた(改修 かいしゅう によって失 うしな われている、同様 どうよう のものは大 だい 講堂 こうどう 前 まえ などに現存 げんそん する)ほか、噴水 ふんすい やパビリオン なども設 もう けられた。噴水 ふんすい は岸田 きしだ 日出刀 ひでと がデザインしたもので、五重塔 ごじゅうのとう の頂 いただき 部 ぶ に当 あ たる九輪 くりん (薬師寺 やくしじ などのもの)を参考 さんこう にした日本 にっぽん 風 ふう のものになっている[ 110] 。パビリオンは広場 ひろば の左右 さゆう に設 もう けられたが、三四郎 さんしろう 池 ち に面 めん する東側 ひがしがわ のものは文学部 ぶんがくぶ 3号館 ごうかん 建設 けんせつ 時 じ に解体 かいたい された。西側 にしがわ のものは現存 げんそん し、上部 じょうぶ には藤 ふじ が茂 しげ っている。現存 げんそん する西側 にしがわ のパビリオンには井戸 いど が設 もう けられていて、ここから汲 く み上 あ げられた水 みず が地下水 ちかすい 槽 そう に貯水 ちょすい され、非常時 ひじょうじ に外部 がいぶ 水道 すいどう に依 よ らず水 みず を使用 しよう できるように工夫 くふう されていた。平時 へいじ には図書館 としょかん 内 ない の空気 くうき 清浄 せいじょう に使 つか われて、その排水 はいすい は三 さん 四 よん 郎 ろう 池 ち の一角 いっかく に設 もう けられた滝 たき から流 なが される仕組 しく みになっていた。
建物 たてもの 正面 しょうめん のポーチは半円 はんえん アーチが9つ並 なら んだものであり、医学部 いがくぶ 本館 ほんかん などに類似 るいじ したものとなっているが、アーチ間 あいだ 各 かく 柱 はしら の上部 じょうぶ に8枚 まい のレリーフ が設置 せっち されているのは他 た の建物 たてもの で見 み られない特徴 とくちょう である。これらのレリーフは新海 しんかい 竹蔵 たけぞう によって造 つく られたものである[ 115] が、竣工 しゅんこう 式 しき が行 おこな われた1928年 ねん 12月 がつ ごろの写真 しゃしん には写 うつ っていない[ 123] 。竣工 しゅんこう から約 やく 2年 ねん 後 ご 、1930年 ねん の暑中 しょちゅう 休暇 きゅうか 中 ちゅう に足場 あしば をかけて取 と り付 つ けたものだという[ 124] 。最 もっと も内田 うちだ による図面 ずめん では、このレリーフの外形 がいけい に相当 そうとう する長方形 ちょうほうけい が描 えが かれていることからも分 わ かるように、設計 せっけい 時点 じてん でレリーフの設置 せっち は設計 せっけい 時点 じてん で予定 よてい されていたものである[ 125] 。内田 うちだ 本人 ほんにん から新海 しんかい 竹蔵 たけぞう に対 たい しては玄 げん (獅子 しし )、和 かず (藤 ふじ の枝 えだ )、生 なま (若芽 わかめ )、慈(母子 ぼし もしくは蓮 はちす )、實 み (燈明 とうみょう )、義 よし (天秤 てんびん )、序 じょ (砂時計 すなどけい )、力 ちから (砂 すな )のテーマが提示 ていじ され、レリーフの製作 せいさく が依頼 いらい された。ただ、新海 しんかい が彫刻 ちょうこく の題材 だいざい として人工 じんこう 物 ぶつ よりも自然 しぜん 物 ぶつ を好 この んでいたことから、一部 いちぶ は半 なか ばこじつけによってモチーフの変更 へんこう が提案 ていあん された。たとえば「實 み 」は植物 しょくぶつ の実 み として捉 とら え、苺 いちご の実 み とすることが提案 ていあん され、内田 うちだ と岸田 きしだ は概 おおむ ね了承 りょうしょう していたが、姉崎 あねざき が強 つよ く反発 はんぱつ したため却下 きゃっか された。実現 じつげん したレリーフは、現在 げんざい の並 なら びに沿 そ って右 みぎ から順 じゅん に、玄 げん (龍 りゅう )、慈(羊 ひつじ )、和 かず (藤 ふじ )、生 なま (若芽 わかめ と小鳥 ことり )、實 み (燈明 とうみょう )、義 よし (常緑樹 じょうりょくじゅ で霜雪 そうせつ にも耐 た えることになぞらえ、松 まつ )、序 じょ (苺 いちご 、経緯 けいい 不明 ふめい )、力 ちから (獅子 しし )となっている[ 124] [ 126] 。これらのレリーフのうち2枚 まい 、義 ぎ と慈については、1930年 ねん の再興 さいこう 第 だい 17回 かい 院展 いんてん に出展 しゅってん されている[ 115] 。
館内 かんない は記念 きねん 性 せい を持 も たせることを念頭 ねんとう に設計 せっけい され、入口 いりくち 正面 しょうめん の大 だい 階段 かいだん や記念 きねん 室 しつ はその象徴 しょうちょう となっているほか、他 た の室 しつ にも彫刻 ちょうこく 作品 さくひん 等 とう が多 おお く配 はい されるなど、豪華 ごうか な造 つく りとなっている。内田 うちだ は図書館 としょかん の設計 せっけい について、「気風 きふう というような一種 いっしゅ の記念 きねん 性 せい を持 も っているものだから、これがロックフェラーが寄付 きふ したんだと説明 せつめい する場合 ばあい にも相当 そうとう 堂々 どうどう たるものであることがいいだろう」[ 110] との考 かんが えのもとに、「階段 かいだん 室 しつ 、廣間 ひろま 、記念 きねん 室 しつ 、一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ には可 か なりの費用 ひよう を投 とう ずる」[ 120] こととしたと話 はな す。その他 た の室 しつ は堅実 けんじつ 質素 しっそ を旨 むね として造 つく ったものの、設備 せつび に関 かん しては惜 お しむことなく費用 ひよう を投 とう じ、最新 さいしん 式 しき のものを各所 かくしょ に採用 さいよう している[ 120] 。
創建 そうけん 以降 いこう に行 おこな われた主要 しゅよう な改修 かいしゅう 工事 こうじ としては、岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か に行 おこな われた工事 こうじ 、裏 うら 田 た 館長 かんちょう による計画 けいかく の下 した 行 おこな われた工事 こうじ 、2010年代 ねんだい に耐震 たいしん 改修 かいしゅう 、新 しん 図書館 としょかん 設置 せっち に合 あ わせて行 おこな われた工事 こうじ の3つが挙 あ げられる。これらの改修 かいしゅう 工事 こうじ では、館内 かんない の全体 ぜんたい を改善 かいぜん することを目的 もくてき として各室 かくしつ の機能 きのう が大幅 おおはば に変更 へんこう され、それに伴 ともな って壁 かべ の位置 いち の変更 へんこう や吹 ふ き抜 ぬ け等 とう の閉塞 へいそく による増 ぞう 床 ゆか などの構造 こうぞう 的 てき な変更 へんこう も行 おこな われている。なお、2010年代 ねんだい の工事 こうじ に関 かん しては、建築 けんちく 研究 けんきゅう 者 しゃ の野 の 城 じょう 智也 ともや と建築 けんちく 家 か の川添 かわぞえ 善行 よしゆき が設計 せっけい 監修 かんしゅう を行 おこ なった。
館内 かんない の主要 しゅよう な各室 かくしつ については、以下 いか で個別 こべつ に記述 きじゅつ する。
正面 しょうめん 玄関 げんかん 付近 ふきん から見 み た大 だい 階段 かいだん 内田 うちだ 祥三 しょうぞう が特 とく に記念 きねん 性 せい を持 も たせて設計 せっけい した空間 くうかん の一 ひと つ
平成 へいせい 末 まつ の改修 かいしゅう 工事 こうじ で復元 ふくげん された大 だい 階段 かいだん 上部 じょうぶ の吹 ふ き抜 ぬ け
正面 しょうめん 入口 いりくち を入 はい って目前 もくぜん にあり、1階 かい から3階 かい のホールに通 つう じている。幅 はば はおよそ3間 あいだ (5メートル強 きょう )、大理石 だいりせき が張 は り詰 つ められている[ 128] 。先述 せんじゅつ の通 とお り、内田 うちだ が意識 いしき 的 てき に記念 きねん 性 せい を持 も たせて、多額 たがく の費用 ひよう をかけて設 もう けたものであり、現在 げんざい の総合 そうごう 図書館 としょかん を代表 だいひょう する空間 くうかん となっている。創建 そうけん 当時 とうじ は大理石 だいりせき の床 ゆか が顕 あらわ れていたようである[ 129] が、その後 ご 階段 かいだん 全幅 ぜんぷく にわたる赤 あか 絨毯 じゅうたん が敷 し かれるようになった。創建 そうけん 当時 とうじ 、大 だい 階段 かいだん 上部 じょうぶ の4階 かい には吹 ふ き抜 ぬ けが設 もう けられ、階段 かいだん には自然 しぜん 光 こう が差 さ し込 こ む造 つく りとなっていた。この吹 ふ き抜 ぬ けは岸本 きしもと 館長 かんちょう 時代 じだい の改装 かいそう 工事 こうじ で塞 ふさ がれていたが、近年 きんねん の改修 かいしゅう 工事 こうじ の際 さい に開口 かいこう 部 ぶ が一部 いちぶ 復元 ふくげん され、再 ふたた び自然 しぜん 光 こう が差 さ し込 こ むようになった。
1階 かい 北東 ほくとう 隅 すみ にある記念 きねん 室 しつ
記念 きねん 室 しつ に飾 かざ られている鹿頭 ししず の剥製 はくせい
1階 かい 北東 ほくとう 端 はし に位置 いち する。この部屋 へや は2階 かい 分 ぶん の高 たか さがある。壁 かべ 一 いち 面 めん にはチーク材 ざい で造 つく られたパネルが張 は られていて、照明 しょうめい は天井 てんじょう からシャンデリアが下 さ がっている。竣工 しゅんこう 時 じ は記念 きねん 室 しつ として造 つく られ、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく の歴史 れきし や図書館 としょかん 復興 ふっこう に関 かん する資料 しりょう などを展示 てんじ していた[ 130] 。
戦時 せんじ 中 なか には東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 出身 しゅっしん の戦没 せんぼつ 者 しゃ を供養 くよう するための戦没 せんぼつ 者 しゃ 記念 きねん 室 しつ が置 お かれ、白木 しらき の箱 はこ に納 おさ められた戦没 せんぼつ 者 しゃ の肖像 しょうぞう 写真 しゃしん を安置 あんち する祭壇 さいだん が設置 せっち された。1941年 ねん と1943年 ねん の秋 あき には遺族 いぞく らを招待 しょうたい して慰霊 いれい 祭 さい が催 もよお された[ 131] 。
岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、従来 じゅうらい 記念 きねん 室 しつ として利用 りよう されていたこの空間 くうかん は自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ とされた。
裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、当 とう 室 しつ は雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ に改 あらた められた。これは、当 とう 室 しつ に接 せっ して設 もう けられていた東 ひがし 翼 つばさ の雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ を拡張 かくちょう して、自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう されていた当 とう 室 しつ にも雑誌 ざっし を配 はい 架 か するようになったものである。南側 みなみがわ には新着 しんちゃく 雑誌 ざっし を配 はい 架 か する書架 しょか が並 なら べられ、西側 にしがわ (正面 しょうめん 玄関 げんかん 側 がわ )にはパンフレットや機関 きかん 誌 し 等 とう をおく低 てい 書架 しょか が設置 せっち された。残 のこ りの部分 ぶぶん は閲覧 えつらん 席 せき が設置 せっち され、室 しつ 名 めい こそ改 あらた められたものの、引 ひ き続 つづ き自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ としての利用 りよう も可能 かのう であった[ 51] 。
2015年 ねん からの改修 かいしゅう 工事 こうじ 期間 きかん 中 ちゅう は、一時期 いちじき 利用 りよう 者 しゃ 用 よう のECCS端 はし 末 まつ が設置 せっち され、メディアプラザとして利用 りよう された。改修 かいしゅう 工事 こうじ にあわせて、戦時 せんじ 中 ちゅう に撤去 てっきょ されていたと思 おも われるシャンデリア が復元 ふくげん され、設置 せっち された。2020年 ねん 11月17日 にち には、再 ふたた び記念 きねん 室 しつ として開 ひらき 室 しつ された(通常 つうじょう 時 じ は閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう 可能 かのう )。
記念 きねん 室 しつ として造 つく られ、長 なが らく利用 りよう されていたことから、多 おお くの文物 ぶんぶつ や館 かん 史 し に関係 かんけい する資料 しりょう などがこの室 しつ に飾 かざ られるようになった。現在 げんざい 展示 てんじ されているものとしては、以下 いか のようなものがある。
グヒエーシヴァリー寺院 じいん の模型 もけい ネパール のカトマンズ 郊外 こうがい にある寺院 じいん の模型 もけい で、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )、ネパール国 こく の王子 おうじ ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ が東京 とうきょう 大学 だいがく に留学 りゅうがく した際 さい に寄贈 きぞう したものである。同 どう 寺院 じいん は、ヒンドゥー教 きょう における三 さん 大 だい 神 かみ の一 いち であるシヴァ の妃 ひ を祀 まつ っている[ 124] [ 132] 。
図書館 としょかん 模型 もけい 関東大震災 かんとうだいしんさい 後 ご の図書館 としょかん 復興 ふっこう に対 たい する寄附 きふ の返礼 へんれい として、図書館 としょかん 完成 かんせい 時 じ にロックフェラー・ジュニア氏 し に贈 おく られた模型 もけい と同 おな じ型 がた で造 つく られた鋳 い 銅 どう 性 せい の模型 もけい である[ 133] 。なお、竣工 しゅんこう 式 しき では同 おな じく図書館 としょかん を模 も ったインク壺 つぼ 、灰皿 はいざら が配 くば られているが、この模型 もけい よりも一回 ひとまわ り小 ちい さい[ 124] 。
鹿頭 ししず 剥製 はくせい アカシカ の頭部 とうぶ の剥製 はくせい である。台座 だいざ に付 つ けられたプレートによれば、ウィンザーグレートパーク (英語 えいご 版 ばん ) で捕獲 ほかく されたアカシカで、1913年 ねん に英国 えいこく 王 おう ジョージ5世 せい が東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく に贈 おく ったものであるという。震災 しんさい 以前 いぜん は大学 だいがく 本部 ほんぶ (御殿 ごてん )の壁 かべ に同 おな じものが複数 ふくすう 掛 か けられていて、震災 しんさい 後 ご の火災 かさい の中 なか でその中 なか の一 ひと つが救出 きゅうしゅつ されたものである、との証言 しょうげん がある[ 124] [ 134] 。
ダゴール肖像 しょうぞう 高 たか さ2メートルに及 およ ぶ大 おお きな油絵 あぶらえ である。1957年 ねん 10月 がつ 8日 にち に、インドの首相 しゅしょう ジャワハルラール・ネルー が東京 とうきょう 大学 だいがく を訪問 ほうもん した際 さい 、Calcutta Art Societyを通 つう じて寄贈 きぞう したもの[ 124] 。
南 みなみ 葵 まもる 文庫 ぶんこ 扁額 へんがく 関東大震災 かんとうだいしんさい 後 ご 、南 みなみ 葵 まもる 文庫 ぶんこ の蔵書 ぞうしょ が寄贈 きぞう された際 さい に同時 どうじ に寄贈 きぞう されたもの。この扁額 へんがく の掲示 けいじ が蔵書 ぞうしょ 寄贈 きぞう の条件 じょうけん とされたと伝 つた えられる。徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ による筆 ふで [ 135] 。
1階 かい 旧 きゅう 新聞 しんぶん 雑誌 ざっし 閲覧 えつらん 室 しつ [ 編集 へんしゅう ]
1階 かい 北西 ほくせい 端 はし 、記念 きねん 室 しつ と正 ただし 対 たい する位置 いち にある。記念 きねん 室 しつ 同様 どうよう 、2階 かい 分 ぶん の高 たか さがある室 しつ として造 つく られている。1928年 ねん 12月1日 にち の図書館 としょかん 完成 かんせい 時 じ にあたっての竣工 しゅんこう 式 しき は、この室 しつ で行 おこな われた[ 136] 。内部 ないぶ 壁面 へきめん にはチーク材 ざい で格子 こうし 状 じょう の装飾 そうしょく が配 はい されている[ 128] 。開館 かいかん 時 じ には製本 せいほん に出 だ されていない新刊 しんかん の新聞 しんぶん 、雑誌 ざっし が設置 せっち され、一部 いちぶ は自由 じゆう 閲覧 えつらん 、残 のこ りは出納 すいとう 式 しき での閲覧 えつらん ができるようになっていた[ 130] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改装 かいそう によって、2階 かい に当 あ たる高 たか さ(廊下 ろうか よりはやや低 ひく い)に新 あら たな室 しつ が設 もう けられ、学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ として使用 しよう が開始 かいし された。1階 かい 部分 ぶぶん は参考 さんこう 室 しつ となり、参考 さんこう 図 ず 書類 しょるい が置 お かれるようになった。参考 さんこう 室 しつ 1階 かい からは新設 しんせつ された2階 かい 学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ に上 あ がることのできる階段 かいだん が設 もう けられていた[ 38] 。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう では、2階 かい 部分 ぶぶん は案内 あんない 上 じょう (1階 かい と一体 いったい の)参考 さんこう 室 しつ と呼 よ ばれることになったが、閲覧 えつらん 席 せき はそのまま存置 そんち されていた。2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、当 とう 室 しつ の1階 かい 部分 ぶぶん は事務 じむ 室 しつ に転用 てんよう されることとなったため、利用 りよう 者 しゃ が立 た ち入 い ることはできなくなった。それに伴 ともな って1階 かい と2階 かい との間 あいだ の階段 かいだん も撤去 てっきょ された。2階 かい 部分 ぶぶん は工事 こうじ 中 ちゅう の一時 いちじ 期間 きかん 中 ちゅう 開架 かいか 書架 しょか が配置 はいち されたが、のちに撤去 てっきょ (移動 いどう )されて最終 さいしゅう 的 てき にはセミナールームとなっている[ 50] 。
2階 かい 北側 きたがわ 閲覧 えつらん 室 しつ
開館 かいかん 時 じ には陳列 ちんれつ 室 しつ として造 つく られたもので、図書館 としょかん が所蔵 しょぞう する稀少 きしょう 書 しょ 等 とう の展示 てんじ が行 おこな われていた[ 137] 。月曜 げつよう と木曜 もくよう の週 しゅう 2回 かい 、各 かく 2時 じ 間 あいだ 半 はん 程度 ていど のみ開 ひら かれた[ 130] 。戦後 せんご には判例 はんれい などのコレクションがおかれるようになり、判例 はんれい 室 しつ として使 つか われた時期 じき があった。判例 はんれい はのちに記念 きねん 室 しつ に移 うつ されている[ 34] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、この部屋 へや は学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう されるようになった。裏 うら 田 た 館長 かんちょう が計画 けいかく した改修 かいしゅう でも、ひきつづきこの場所 ばしょ は一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ として供 きょう され、2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう 工事 こうじ でも用途 ようと に変更 へんこう は生 しょう じていない。同室 どうしつ は3階 かい 大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ と同様 どうよう の大 だい 机 つくえ が配置 はいち されている。創建 そうけん 時 じ はこの部屋 へや に大 だい 机 つくえ の配置 はいち は無 な かったため、これらの大 だい 机 つくえ は3階 かい 閲覧 えつらん 室 しつ に開架 かいか を設置 せっち するために撤去 てっきょ された閲覧 えつらん 席 せき を移設 いせつ したものであろう。
創建 そうけん 時 じ の東 ひがし 翼 つばさ 1、2階 かい には研究 けんきゅう 室 しつ が設置 せっち されていた。これは図書館 としょかん の蔵書 ぞうしょ を利用 りよう した研究 けんきゅう を行 おこな う施設 しせつ として造 つく られたものである。設計 せっけい した内田 うちだ は、主 しゅ として外国 がいこく 人 じん 研究 けんきゅう 者 しゃ の利用 りよう を想定 そうてい していたという[ 110] 。大学 だいがく の教員 きょういん や、学部 がくぶ 長 ちょう の推薦 すいせん を受 う けた大学院生 だいがくいんせい 、卒業生 そつぎょうせい などが利用 りよう することをできた(ただし卒業生 そつぎょうせい を含 ふく む学外 がくがい 者 しゃ は使用 しよう 料 りょう を納 おさ める必要 ひつよう があった)[ 130] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう では研究 けんきゅう 室 しつ は廃止 はいし されることとなり、2階 かい 東 ひがし 翼 つばさ のうち南側 みなみがわ には16室 しつ の閲覧 えつらん 個室 こしつ 、中央 ちゅうおう には談話 だんわ 室 しつ や個 こ 席 せき 室 しつ 、北側 きたがわ には大学院 だいがくいん 学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ が設置 せっち された[ 38] 。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう では、北側 きたがわ の大学院 だいがくいん 学生 がくせい 閲覧 えつらん 室 しつ は一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう する一方 いっぽう で、南側 みなみがわ の閲覧 えつらん 個室 こしつ は撤去 てっきょ し、電動 でんどう の集 しゅう 密書 みっしょ 架 か を配置 はいち した漢籍 かんせき 書庫 しょこ とした上 うえ で、開架 かいか との間 あいだ に壁 かべ を設 もう けて書庫 しょこ の一部 いちぶ として利用 りよう するようになった[ 50] 。1996年 ねん 5月 がつ には、北側 きたがわ の一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ に計算 けいさん 機 き 端 はし 末 まつ が設置 せっち され、メディアプラザとして利用 りよう に供 きょう されるようになった[ 90] 。2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、再 ふたた び書庫 しょこ とは切 き り離 はな されて開架 かいか エリアと一体 いったい で運用 うんよう されることとなり、北側 きたがわ にはグループ学習 がくしゅう が行 おこな えるプロジェクトボックス、南側 みなみがわ はパソコンを設置 せっち するECCSルームとして利用 りよう されることとなった[ 138] 。
3階 かい ホール
エドマンド・ブランデンレリーフ
3階 かい の3階 かい の大 だい 階段 かいだん を中心 ちゅうしん として広 ひろ がっている区画 くかく である。柱 はしら の間 あいだ にはアーチが渡 わた されていて、その内側 うちがわ にはメダリオンによって装飾 そうしょく が施 ほどこ されている。メダリオンの意匠 いしょう は柱 はしら 間 あいだ ごとに異 こと なるものとなっている。南側 みなみがわ は壁 かべ を隔 へだ てて書庫 しょこ と面 めん しているため、創建 そうけん 時 じ は出納 すいとう を行 おこな うカウンターが置 お かれていた。カウンター前 まえ の空間 くうかん は、4階 かい までの吹 ふ き抜 ぬ けとなり、その上部 じょうぶ はガラス天井 てんじょう となっていたため、自然 しぜん 光 こう が差 さ し込 こ む構造 こうぞう となっていた。大 だい 階段 かいだん の周 まわ りには目録 もくろく が配置 はいち され、蔵書 ぞうしょ の閲覧 えつらん を希望 きぼう する利用 りよう 者 しゃ は入館 にゅうかん 後 ご 大 だい 階段 かいだん で3階 かい に上 あ がり、ホールに置 お かれた目録 もくろく によって資料 しりょう を確認 かくにん して、カウンターで出納 すいとう を求 もと めるようになっていた[ 130] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か による改修 かいしゅう 工事 こうじ では、書庫 しょこ の出納 すいとう などを行 おこな うカウンターが1階 かい に移 うつ されることとなったため、3階 かい のカウンターは廃止 はいし された。また、4階 かい にあった開口 かいこう 部 ぶ を塞 ふさ いで床 ゆか が設 もう けられたため、自然 しぜん 光 こう は差 さ し込 こ まなくなった。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、南側 みなみがわ にインフォメーションカウンターが設 もう けられることとなった[ 50] 。
エドマンド・ブランデン レリーフ 東京藝術大学 とうきょうげいじゅつだいがく 元 もと 教授 きょうじゅ の船越 ふなこし 保 たもつ 武 たけ が製作 せいさく し、文学部 ぶんがくぶ の斎藤 さいとう 勇 いさむ 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ が寄贈 きぞう した[ 82] 。ブランデンは関東大震災 かんとうだいしんさい 直後 ちょくご の東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく で英 えい 文学 ぶんがく の教師 きょうし を務 つと めた。鉄骨 てっこつ の組立 くみたて 工事 こうじ が進 すす む図書館 としょかん の建設 けんせつ 現場 げんば で、熱 ねっ せられた鉄 てつ が飛 と び交 か う様子 ようす を題材 だいざい として作 つく られた「BUILDING THE LIBRARY, TOKYO UNIVERSITY: Night Scene」という詩 し や写生 しゃせい 画 が が残 のこ されている[ 139] 。なおブランデンは図書館 としょかん 完成 かんせい 前 まえ に日本 にっぽん を去 さ っている[ 140] 。
3階 かい 北側 きたがわ の大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ
建物 たてもの の正面 しょうめん 側 がわ (北側 きたがわ )に面 めん する閲覧 えつらん 室 しつ である。開館 かいかん 時 じ には、指定 してい 書 しょ やその他 た 別置 べっち 雑誌 ざっし を除 のぞ く一般 いっぱん 図書 としょ の閲覧 えつらん に供 きょう する一般 いっぱん 閲覧 えつらん 室 しつ とされていて、500人 にん を収容 しゅうよう する館内 かんない 最大 さいだい の閲覧 えつらん 室 しつ であった。利用 りよう 者 しゃ は、証票 しょうひょう や学生 がくせい 証 しょう を一般 いっぱん 閲覧 えつらん 係 がかり に預 あづ けるのと引 ひ き換 か えに、座席 ざせき 番号 ばんごう が記 しる された金属 きんぞく 製 せい の座席 ざせき 票 ひょう を受 う け取 と って座席 ざせき の指定 してい を受 う け、借覧 しゃくらん 証 しょう に氏名 しめい や利用 りよう する図書 としょ の書名 しょめい などを記入 きにゅう して出納 すいとう 係 がかり に渡 わた すことで、図書 としょ の貸付 かしつけ を受 う けることとなっていた[ 130] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 時代 じだい の改装 かいそう では開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ に改 あらた められ、閲覧 えつらん 室 しつ の全面 ぜんめん にわたって並 なら んでいた閲覧 えつらん 席 せき の一部 いちぶ 、約 やく 160席 せき 分 ぶん を撤去 てっきょ し、中央 ちゅうおう 部 ぶ 3分 ぶん の1ほどの面積 めんせき に約 やく 3万 まん 冊 さつ を収容 しゅうよう する開架 かいか の書架 しょか スペースを設 もう け、指定 してい 書 しょ や一般 いっぱん 書 しょ が配 はい 架 か されることとなった。1962年 ねん 2月 がつ 1日 にち に総長 そうちょう 臨席 りんせき の下 した で開 ひらけ 室 しつ 式 しき が行 おこな われた[ 38] [ 141] 。ただしこの開架 かいか 閲覧 えつらん 室 しつ は、学生 がくせい 証 しょう を預 あづ けて入室 にゅうしつ することとなっていて、安全 あんぜん 開架 かいか 式 しき に近 ちか いものであった[ 52] 。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう 工事 こうじ によって配置 はいち が改 あらた められることとなり、北側 きたがわ (窓側 まどがわ )には閲覧 えつらん 席 せき が並 なら べられる一方 いっぽう で、南側 みなみがわ には全幅 ぜんぷく に渡 わた って書架 しょか が配置 はいち されることとなり、分類 ぶんるい 順 じゅん に配 はい 架 か された。壁面 へきめん の造 つく り付 づ けの書棚 しょだな には、大型 おおがた 図書 としょ や個人 こじん 全集 ぜんしゅう などが配 はい 架 か された[ 51] 。2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう では、書架 しょか や閲覧 えつらん 席 せき の配置 はいち に大 おお きな変更 へんこう は加 くわ えられていない。塞 ふさ がれていた屋上 おくじょう のトップライトが再 ふたた び開口 かいこう されたため、自然 しぜん 光 こう が差 さ し込 こ むようになった。また、床 ゆか が85mmかさ上 あ げされ、床下 ゆかした に冷暖房 れいだんぼう システムが設置 せっち された[ 142] 。
閲覧 えつらん 席 せき に使用 しよう されている大 だい 机 つくえ は、配置 はいち こそ何 なん 度 ど か変更 へんこう されているものの開館 かいかん 以来 いらい 使 つか われ続 つづ けているものであり、上部 じょうぶ には蛍光 けいこう 灯 とう を取 と り付 つ ける改造 かいぞう が施 ほどこ されている。南北 なんぼく 方向 ほうこう に渡 わた されている梁 はり の側面 そくめん には、メダリオンによる装飾 そうしょく が施 ほどこ されている。
3階 かい 東 ひがし 翼 つばさ は、創建 そうけん 時 じ は指定 してい 書 しょ 閲覧 えつらん 室 しつ とされていた。授業 じゅぎょう の参考 さんこう 書 しょ として教員 きょういん が指定 してい した図書 としょ が備 そな えられていて、利用 りよう 者 しゃ は中央 ちゅうおう 部 ぶ の出納 すいとう 台 だい で借覧 しゃくらん の手続 てつづ きを行 おこな い、閲覧 えつらん 席 せき を利用 りよう することとなっていた。この室 しつ は学生 がくせい のみが利用 りよう することができた[ 130] 。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう では、北側 きたがわ は閲覧 えつらん 室 しつ (東 ひがし 閲覧 えつらん 室 しつ )として引 ひ き続 つづ き供用 きょうよう されたが、南側 みなみがわ にはハマショールド型 がた というタイプの細分 さいぶん 化 か された閲覧 えつらん 個室 こしつ が設 もう けられた。中央 ちゅうおう 部 ぶ には個 こ 席 せき 室 しつ 、談話 だんわ 室 しつ が置 お かれた[ 38] 。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう では、南側 みなみがわ の閲覧 えつらん 個室 こしつ 仕切 じき りは撤去 てっきょ されて、国連 こくれん 資料 しりょう 室 しつ が置 お かれた。北側 きたがわ にはマイクロ資料 しりょう 室 しつ が置 お かれることとなった[ 50] 。2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう では、北側 きたがわ と南側 みなみがわ は開架 かいか 書架 しょか が置 お かれる部屋 へや とされ、閲覧 えつらん 席 せき は設置 せっち されていない。中央 ちゅうおう 部 ぶ 東側 ひがしがわ はセミナールーム3となり、授業 じゅぎょう やセミナーに利用 りよう できる部屋 へや とされたが、常時 じょうじ は閲覧 えつらん 室 しつ として利用 りよう できるような運用 うんよう が行 おこな われている[ 138] 。
開館 かいかん 時 じ は3階 かい の出納 すいとう 台 だい 前 ぜん ホール上部 じょうぶ 、大 だい 階段 かいだん 上部 じょうぶ がそれぞれ3間 あいだ *5間 あいだ 、2.5間 あいだ *9間 あいだ の吹 ふ き抜 ぬ けとなっていたため、4階 かい は中央 ちゅうおう が開口 かいこう 部 ぶ となり、利用 りよう できる面積 めんせき が限 かぎ られていた。階段 かいだん 室 しつ などの諸 しょ 室 しつ を除 のぞ いて、4階 かい は大 おお きく北側 きたがわ 、中央 ちゅうおう 、南側 みなみがわ と3つの空間 くうかん に分 わ けられていた。北側 きたがわ は開館 かいかん 時 じ の帝国 ていこく 大学 だいがく 新聞 しんぶん によれば喫茶 きっさ 室 しつ として使 つか われていて[ 128] 、実際 じっさい にテーブルとイスが並 なら んだ同室 どうしつ の写真 しゃしん が残 のこ されている[ 143] 。一方 いっぽう で、同室 どうしつ には休養 きゅうよう 室 しつ として用 もち いられ、日光 にっこう 東照宮 とうしょうぐう の模型 もけい が置 お かれていた写真 しゃしん も残 のこ されている[ 144] 。中央 ちゅうおう 部 ぶ は岸本 きしもと 館長 かんちょう 時代 じだい の改装 かいそう の直前 ちょくぜん 時点 じてん で喫煙 きつえん 室 しつ として使 つか われていたとのことで[ 38] 、開館 かいかん 当時 とうじ の写真 しゃしん でもテーブルセットの脇 わき には灰皿 はいざら が設置 せっち されている[ 145] 。残 のこ る南側 みなみがわ は、吹 ふ き抜 ぬ けの開口 かいこう 部 ぶ を中心 ちゅうしん に椅子 いす が並 なら べられた自由 じゆう 閲覧 えつらん 室 しつ となっていて、小説 しょうせつ などが自由 じゆう に利用 りよう できる状態 じょうたい で置 お かれていた。扉 とびら からは屋上 おくじょう 庭園 ていえん に出 で ることもできた[ 128] 。
1960年代 ねんだい の岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改革 かいかく では、この階 かい は全 まった く様相 ようそう が改 あらた められた。まず下 した 階 かい からの吹 ふ き抜 ぬ けはすべて塞 ふさ がれ、床 ゆか 面積 めんせき の増加 ぞうか が図 はか られた。壁 かべ の位置 いち も全 まった く改 あらた められた。新 あら たに外国 がいこく 法 ほう 資料 しりょう センターとアジアセンターが置 お かれたほか、演習 えんしゅう 室 しつ や談話 だんわ 室 しつ 、多 おお くの閲覧 えつらん 用 よう 個室 こしつ や個 こ 席 せき 室 しつ が設 もう けられた[ 38] 。
その後 ご 1980年代 ねんだい の裏 うら 田 た 館長 かんちょう 下 か の改装 かいそう では、従来 じゅうらい アジア資料 しりょう センターと外国 がいこく 法 ほう 文献 ぶんけん センターが置 お かれていたスペースが利用 りよう できることになったため、(第 だい 二 に )開館 かいかん 閲覧 えつらん 室 しつ が設 もう けられることとなった。もっとも先 さき の改修 かいしゅう では開口 かいこう 部 ぶ を埋 う めて増 ぞう 床 ゆか がされていたものの、4階 かい 全域 ぜんいき に書架 しょか を配置 はいち すると設計 せっけい を超 こ えた過重 かじゅう を加 くわ えることとなるため、中央 ちゅうおう 部 ぶ に書架 しょか を配 はい し、北側 きたがわ と南側 みなみがわ には閲覧 えつらん 席 せき を多 おお く設 もう けることとなった。教官 きょうかん 個室 こしつ 等 とう は改修 かいしゅう の上 うえ 引 ひ き続 つづ き利用 りよう された[ 50] [ 51] 。
2010年代 ねんだい の改装 かいそう では、連携 れんけい 研究 けんきゅう 機構 きこう ヒューマニティーズセンター、U-PARL(アジア研究 けんきゅう 図書館 としょかん 上 じょう 廣 こう 倫理 りんり 財団 ざいだん 寄付 きふ 研究 けんきゅう 部門 ぶもん )、そして新 あら たにアジア研究 けんきゅう 図書館 としょかん が置 お かれることとなり、総合 そうごう 図書館 としょかん 開架 かいか とは異 こと なる分類 ぶんるい によって、本郷 ほんごう キャンパス内 ない に分散 ぶんさん 配置 はいち されていたあらゆるアジア関係 かんけい 資料 しりょう を集中 しゅうちゅう させて配 はい 架 か されることとされた。5万 まん 冊 さつ が収容 しゅうよう 可能 かのう で、2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )10月 がつ 1日 にち の開館 かいかん 時点 じてん では2万 まん 冊 さつ が配 はい 架 か され、今後 こんご 学内 がくない の他 た 図書館 としょかん ・図書 としょ 室 しつ から移管 いかん が進 すす められていく方針 ほうしん である[ 146] 。また、この改装 かいそう において3階 かい 大 だい 階段 かいだん 上 じょう の吹 ふ き抜 ぬ けが復元 ふくげん され、スラブで塞 ふさ がれていた開口 かいこう 部 ぶ が再 さい 開口 かいこう された。この吹 ふ き抜 ぬ けの四 よん 周 しゅう には創建 そうけん 当初 とうしょ 石造 せきぞう の欄干 らんかん [ 147] が設 もう けられていたが[ 148] 、この改装 かいそう では欄干 らんかん は復元 ふくげん されず、開口 かいこう 部 ぶ に面 めん した箇所 かしょ はガラス張 がらすば りの壁 かべ となった。南側 みなみがわ 3階 かい 旧 きゅう 出納 すいとう 台 だい 上 じょう の、東西 とうざい 方向 ほうこう に長 なが い吹 ふ き抜 ぬ けは復元 ふくげん されなかったが(3階 かい ホールの開口 かいこう 部 ぶ 跡 あと 位置 いち 天井 てんじょう には光 ひかり 膜 まく 天井 てんじょう が設置 せっち されて光源 こうげん が再現 さいげん されている)、その上 うえ のハイサイドライトは屋上 おくじょう に塔屋 とうや を設 もう けて復元 ふくげん されている[ 142] 。
5階 かい 建 けん となっているのは本館 ほんかん 中心 ちゅうしん の一部分 いちぶぶん であり、面積 めんせき としてはさほど大 おお きくない。開館 かいかん 以来 いらい 、この空間 くうかん は倉庫 そうこ などの事務 じむ スペースとして利用 りよう されていた。岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう を経 へ て、1965年 ねん 5月 がつ 11日 にち からはビュッフェが開業 かいぎょう した。ビュッフェの業者 ぎょうしゃ 選定 せんてい にあたっては大学 だいがく 当局 とうきょく と出店 しゅってん を目指 めざ す東大 とうだい 生協 せいきょう の間 あいだ で対立 たいりつ が生 しょう じていたが、当時 とうじ 東大 とうだい 病院 びょういん 付近 ふきん で営業 えいぎょう していたレストランモナミが営業 えいぎょう を担 にな うこととなった[ 149] 。その後 ご 、ビュッフェの営業 えいぎょう は終了 しゅうりょう している。裏 うら 田 た 館長 かんちょう 計画 けいかく の改修 かいしゅう では、この空間 くうかん は談話 だんわ や休息 きゅうそく に供 きょう するための学生 がくせい ラウンジが計画 けいかく されていたが、実際 じっさい には文学部 ぶんがくぶ の視聴覚 しちょうかく 教育 きょういく センターが移転 いてん して入 はい ることとなった[ 50] 。視聴覚 しちょうかく 教育 きょういく センターは耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ に先駆 さきが けて2017年 ねん に総合 そうごう 図書館 としょかん から退去 たいきょ することとなり[ 150] 、現在 げんざい では飲食 いんしょく 可能 かのう なラウンジとして開放 かいほう されている[ 151] 。
書庫 しょこ 内 ない 1層 そう から3層 そう には床 ゆか と一体 いったい となった鋼鉄 こうてつ 製 せい の階段 かいだん が設 もう けられている。周囲 しゅうい の床 ゆか はガラス張 がらすば りである。
書庫 しょこ に利用 りよう されている鋼鉄 こうてつ 材 ざい には「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印 こくいん が見 み られる
書庫 しょこ は本館 ほんかん 南側 みなみがわ に設 もう けられている。地上 ちじょう は本館 ほんかん の地階 ちかい (1、2階 かい 相当 そうとう )と主 おも 階 かい が硝子 がらす 床 ゆか によってそれぞれ3層 そう に分 わ けられていて、地上 ちじょう 6層 そう 地下 ちか 1階 かい となっている(本館 ほんかん 3階 かい と書庫 しょこ 4層 そう が同一 どういつ の高 たか さである)[ 152] 。書架 しょか は全 すべ て鋼鉄 こうてつ 製 せい での造 つく り付 づ けで、各層 かくそう の硝子 がらす 床 ゆか と一体 いったい となったものである。利用 りよう 者 しゃ は3階 かい 出納 すいとう 台 だい で出納 すいとう の手続 てつづ きを行 おこな うと、カウンターからは真空 しんくう 管 かん でカードが書庫 しょこ 内 ない に送 おく られて、書架 しょか から取 と り出 だ された図書 としょ は昇降 しょうこう 機 き によって運搬 うんぱん されることとなっていた[ 153] 。書庫 しょこ は閉架式 しき として運用 うんよう されていたが、のちに安全 あんぜん 開架 かいか 式 しき として一部 いちぶ の利用 りよう 者 しゃ が立 た ち入 い ることができる運用 うんよう に改 あらた められている。
書庫 しょこ には50万 まん 冊 さつ の図書 としょ が収容 しゅうよう 可能 かのう であると見込 みこ まれていた。これに加 くわ えて、地下 ちか には75坪 つぼ の安全 あんぜん 庫 こ (5室 しつ )が設置 せっち され、特 とく に貴重 きちょう な資料 しりょう の保存 ほぞん に充 あ てられることとされていたほか、新聞 しんぶん 書庫 しょこ や雑誌 ざっし 書庫 しょこ も設置 せっち されていた[ 154] 。
岸本 きしもと 館長 かんちょう 下 か の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、当時 とうじ 仮 かり 書庫 しょこ として使 つか われていた東 あずま 翼 つばさ 地下 ちか の空間 くうかん を利用 りよう して保存 ほぞん 書庫 しょこ としたほか、大学院 だいがくいん 学生 がくせい の利用 りよう を見込 みこ んで書庫 しょこ 内 ない に125席 せき のキャレルが設置 せっち された。この工事 こうじ において、出納 すいとう を行 おこな うカウンターは3階 かい から1階 かい に移設 いせつ されている。
裏 うら 田 た 館長 かんちょう が計画 けいかく した改修 かいしゅう 工事 こうじ では、地下 ちか に集 しゅう 密書 みっしょ 架 か が設置 せっち されて収容 しゅうよう 冊数 さっすう の増加 ぞうか が図 はか られた[ 51] 。
2010年代 ねんだい の改修 かいしゅう 工事 こうじ では、1-3層 そう の書庫 しょこ の北側 きたがわ 一部 いちぶ が撤去 てっきょ されて、開架 かいか として新着 しんちゃく の新聞 しんぶん ・雑誌 ざっし が置 お かれるようになった。開架 かいか と書庫 しょこ の間 あいだ は硝子 がらす の壁 かべ で仕切 しき られ、行 い き来 き はできない。書庫 しょこ の入口 いりくち は地下 ちか 1階 かい に設置 せっち されている。
本館 ほんかん 前 まえ の図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば に新 あら たに設 もう けられた、地下 ちか 4階 かい 建 けん の施設 しせつ である。東京大学 とうきょうだいがく キャンパス計画 けいかく 室 しつ (野 の 城 じょう 智也 ともや 、川添 かわぞえ 善行 よしゆき )、東京 とうきょう 大学 だいがく 施設 しせつ 部 ぶ が設計 せっけい 監修 かんしゅう を行 おこな い、設計 せっけい 施工 しこう は清水建設 しみずけんせつ が請負 うけお っている。
図書館 としょかん 前 ぜん 広場 ひろば は、南側 みなみがわ に総合 そうごう 図書館 としょかん 本館 ほんかん 、東西 とうざい に法学部 ほうがくぶ 4号館 ごうかん と文学部 ぶんがくぶ 3号館 ごうかん 、北側 きたがわ には法文 ほうぶん 2号館 ごうかん と法学部 ほうがくぶ 3号館 ごうかん があり、四方 しほう を建物 たてもの に囲 かこ まれていた。これらの周囲 しゅうい 隣接 りんせつ 建物 たてもの に影響 えいきょう を与 あた えることなく工事 こうじ を行 おこな うために、別館 べっかん の建設 けんせつ にあたっては清水建設 しみずけんせつ の提案 ていあん に基 もと づいてニューマチックケーソン工法 こうほう が採用 さいよう されている。この工法 こうほう は、ケーソン の下 しも 底 そこ に圧縮 あっしゅく 空気 くうき を送 おく り込 こ んで地下水 ちかすい の浸入 しんにゅう を防 ふせ ぐ作業 さぎょう 室 しつ を設 もう けて掘削 くっさく や排 はい 土 ど を行 おこな い、ケーソン上部 じょうぶ では構築 こうちく 工事 こうじ を進 すす めて、徐々 じょじょ にケーソンを沈下 ちんか させていく工法 こうほう である。通常 つうじょう は橋脚 きょうきゃく 工事 こうじ 等 とう で用 もち いられる土木 どぼく 工法 こうほう であり、それを建築 けんちく 物 ぶつ に応用 おうよう した別館 べっかん の建設 けんせつ は技術 ぎじゅつ 上 じょう 極 きわ めて特異 とくい な工事 こうじ となった[ 155] 。
地下 ちか に設 もう けられることから、浸水 しんすい や土 ど 圧 あつ への対策 たいさく の必要 ひつよう があり、躯 むくろ 体 たい は柱 はしら と一体 いったい となった幅 はば 1,900-2,300mmの躯 むくろ 体 たい 壁 かべ が設 もう けられ、その外周 がいしゅう はさらに6mmの止 とめ 水 すい 鋼板 こうはん で覆 おお われ、各 かく 鋼板 こうはん の境目 さかいめ は溶接 ようせつ によって処理 しょり されている。これらの構造 こうぞう は、地下水 ちかすい の中 なか で建築 けんちく 物 ぶつ 全体 ぜんたい が浮上 ふじょう するのを、重量 じゅうりょう によって防 ふせ ぐという役割 やくわり も果 は たしている[ 60] [ 155] 。
別館 べっかん の建築 けんちく は、以下 いか の賞 しょう を受賞 じゅしょう している。
一般 いっぱん 社団 しゃだん 法人 ほうじん 照明 しょうめい 学会 がっかい 第 だい 17回 かい 照明 しょうめい デザイン賞 しょう 入賞 にゅうしょう (2019年 ねん )[ 156]
一般 いっぱん 社団 しゃだん 法人 ほうじん 東京 とうきょう 都 と 建築 けんちく 士 し 事務所 じむしょ 協会 きょうかい 東京 とうきょう 建築 けんちく 賞 しょう ・第 だい 45回 かい 建築 けんちく 作品 さくひん コンクール 一般 いっぱん 二 に 類 るい 部門 ぶもん 最優秀 さいゆうしゅう 賞 しょう (2019年 ねん )[ 157]
この空間 くうかん は、学生 がくせい や教職員 きょうしょくいん の誰 だれ もが利用 りよう できる全学 ぜんがく 的 てき なアクティブ・ラーニング の場 ば として計画 けいかく されたものである。議論 ぎろん を伴 ともな うグループワークや、トークセッションなどの利用 りよう が想定 そうてい されている[ 65] 。
空間 くうかん はおおよそ円形 えんけい の平面 へいめん となっていて、東西 とうざい の両側 りょうがわ に出入口 でいりぐち が設 もう けられている。これらの入口 いりくち は、法学部 ほうがくぶ 4号館 ごうかん と文学部 ぶんがくぶ 3号館 ごうかん の地下 ちか にある図書 としょ 室 しつ に面 めん して設 もう けられたサンクンガーデン に接 せっ している。室内 しつない 中央 ちゅうおう の上部 じょうぶ は、ガラスの張 は られたトップライトとなっているが、この直上 ちょくじょう に噴水 ふんすい がある。この噴水 ふんすい は、水 みず が出 で る機能 きのう を廃 はい してモニュメントとして相輪 そうりん 塔 とう のみを残 のこ すことも検討 けんとう されたが、関東大震災 かんとうだいしんさい で焼失 しょうしつ した図書館 としょかん の復興 ふっこう において防火 ぼうか 水槽 すいそう としての役割 やくわり も与 あた えられて造 つく られたものであるため、その経緯 けいい の歴史 れきし 性 せい を尊重 そんちょう して、浅 あさ く水 みず を張 は って噴水 ふんすい としての機能 きのう を存続 そんぞく することとされた。このため、ライブラリープラザには水面 すいめん を通 とお してゆらぎのある自然 しぜん 光 こう が差 さ し込 こ むようになっている[ 3] [ 158] 。トップライトはアクリルパネルと網 あみ 入 い りガラスの二 に 重 じゅう 構造 こうぞう とすることで、止 とめ 水性 すいせい を確保 かくほ している。またロールスクリーンが設置 せっち されていて、必要 ひつよう に応 おう じて開閉 かいへい される[ 159] 。このトップライトの周囲 しゅうい の天井 てんじょう には、岐阜 ぎふ 県 けん 東白川 ひがししらかわ 村 むら の天然 てんねん 杉 すぎ を利用 りよう したルーバーが同心円 どうしんえん 状 じょう に配置 はいち されている[ 3] 。この木製 もくせい ルーバーは、照明 しょうめい の器具 きぐ を隠 かく して光 ひかり が直接 ちょくせつ 目 め に入 はい るのを防 ふせ ぎ、ルーバーに反射 はんしゃ して均一 きんいつ な明 あか るさを確保 かくほ するとともに、天井 てんじょう に設置 せっち される吸音材 ざい とともに反響 はんきょう を防止 ぼうし する機能 きのう もある[ 3] [ 159] 。
ライブラリープラザは2017年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )7月 がつ に、耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ を行 おこな う本館 ほんかん の閲覧 えつらん 席 せき の代替 だいたい スペースとして仮 かり オープンした。このときは本館 ほんかん の閲覧 えつらん 室 しつ で使 つか われていた閲覧 えつらん 席 せき を再 さい 利用 りよう していた。2018年 ねん 10月 がつ には本来 ほんらい のアクティブラーニングの場 ば としてリニューアルオープンを果 は たし、これに伴 ともな って設置 せっち されていた閲覧 えつらん 机 つくえ や椅子 いす を一新 いっしん し、可動 かどう 性 せい があって柔軟 じゅうなん に利用 りよう できるものに取 と り換 か えた。以降 いこう 、能動 のうどう 的 てき な学習 がくしゅう 空間 くうかん として運用 うんよう されている[ 3] 。
約 やく 300万 まん 冊 さつ の書籍 しょせき を収容 しゅうよう 可能 かのう な自動 じどう 化 か 書庫 しょこ として設計 せっけい された空間 くうかん である。各階 かくかい は、それぞれ約 やく 10メートルほどの高 たか さがある。
書庫 しょこ という機能 きのう を地下 ちか に実現 じつげん することから、止 とめ 水 すい の面 めん では万全 ばんぜん の対策 たいさく が施 ほどこ され、先述 せんじゅつ した躯 むくろ 体 たい 壁 かべ や止 とめ 水 すい 鋼板 こうはん に加 くわ えて、躯 むくろ 体 たい 碧 あお の内側 うちがわ には1,200mm幅 はば のバッファゾーン が設 もう けられて、万 まん が一 いち 躯 く 体 たい 壁 かべ の内側 うちがわ への浸水 しんすい が起 お こった場合 ばあい でもバッファゾーンまでで浸水 しんすい を食 く い止 と めて、地下 ちか から排水 はいすい を行 おこな う計画 けいかく となっている[ 155] 。
これらの空間 くうかん には、日本 にっぽん ファイリング株式会社 かぶしきがいしゃ の自動 じどう 書庫 しょこ が設置 せっち されている。資料 しりょう はコンテナに収 おさ められて収容 しゅうよう されるが、この数 かず はA5サイズ25,184個 こ 、B5サイズ25,032個 こ 、A4サイズ9,516個 こ 、フリーサイズ(A4以上 いじょう )3,000個 こ となっている。本館 ほんかん の地下 ちか 1階 かい と1階 かい に出納 すいとう ステーションが設 もう けられ、図書館 としょかん の館内 かんない で出庫 しゅっこ の指示 しじ が出 だ された資料 しりょう を載 の せたコンテナは、クレーン等 とう によってこれらのステーションに運 はこ ばれる。図書館 としょかん 員 いん がコンテナから出庫 しゅっこ 要求 ようきゅう が出 だ された資料 しりょう を取 と り出 だ し、利用 りよう 者 しゃ はカウンターで図書館 としょかん 員 いん から目的 もくてき の資料 しりょう を受 う け取 と ることとなる。コンテナを取 と り出 だ すスタッカークレーンは13台 だい 、垂直 すいちょく 搬送 はんそう 機 き は3台 だい が備 そな えられている[ 3] [ 65] 。
現在 げんざい では製本 せいほん 雑誌 ざっし 、利用 りよう 頻度 ひんど が少 すく ない開架 かいか 図書 としょ 、状態 じょうたい の良 よ い書庫 しょこ の図書 としょ 、学位 がくい 論文 ろんぶん が収 おさ められる運用 うんよう となっている。300万 まん 冊 さつ という収容 しゅうよう 冊数 さっすう の計画 けいかく は、人文 じんぶん 社会 しゃかい 系 けい 資料 しりょう の今後 こんご 30年間 ねんかん の増加 ぞうか に対応 たいおう したものとなっている[ 3] 。
歴代 れきだい の東京 とうきょう 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう についての表 ひょう である[ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。
氏名 しめい
就任 しゅうにん 年月日 ねんがっぴ
退任 たいにん 年月日 ねんがっぴ
所属 しょぞく
備考 びこう
末岡 すえおか 精一 せいいち
1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )8月 がつ 5日 にち
文学部 ぶんがくぶ 準 じゅん 講師 こうし
図書 としょ 課 か 取締 とりしまり
田中 たなか 稲城 いなぎ
1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )3月 がつ 4日 にち
1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )7月 がつ 22日 にち
文学部 ぶんがくぶ 準 じゅん 講師 こうし
図書 としょ 課 か 取締 とりしまり
谷田部 やたべ 梅吉 うめきち
1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )7月 がつ 22日 にち
1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )12月11日 にち
理学 りがく 士 し
図書 としょ 課 か 取締 とりしまり
松井 まつい 直吉 なおきち
1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )12月13日 にち
1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )11月
理学部 りがくぶ 教授 きょうじゅ
図書 としょ 課 か 監督 かんとく
木下 きのした 廣次 ひろつぐ
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )3月 がつ 9日 にち
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )10月 がつ 23日 にち
法科 ほうか 大学 だいがく 教授 きょうじゅ
当初 とうしょ 図書館 としょかん 管理 かんり 心得 こころえ 1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )3月 がつ 19日 にち から図書館 としょかん 管理 かんり
宮崎 みやざき 道 どう 三郎 さぶろう
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )10月 がつ 23日 にち
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )3月 がつ 24日 にち
法科 ほうか 大学 だいがく 教授 きょうじゅ
図書館 としょかん 管理 かんり
田中 たなか 稲城 いなぎ
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )3月 がつ 24日 にち
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )9月 がつ 6日 にち
文科 ぶんか 大学 だいがく 教授 きょうじゅ
図書館 としょかん 管理 かんり
和田 わだ 萬吉 まんきち
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )11月7日 にち
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )11月29日 にち
当初 とうしょ 文科 ぶんか 大学 だいがく 助教授 じょきょうじゅ 1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )から同 どう 教授 きょうじゅ
当初 とうしょ 図書館 としょかん 管理 かんり 心得 こころえ 1896年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )7月 がつ 27日 にち から図書館 としょかん 管理 かんり 1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )6月 がつ 28日 にち から附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう
姉崎 あねざき 正治 しょうじ
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )11月29日 にち
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )3月 がつ 30日 にち
文学部 ぶんがくぶ 教授 きょうじゅ
附属 ふぞく 図書館 としょかん 長 ちょう (以下 いか 同 おな じ)
高柳 たかやなぎ 賢三 けんぞう
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )3月 がつ 31日 にち
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )6月 がつ 14日 にち
法学部 ほうがくぶ 教授 きょうじゅ
市河 いちかわ 三喜 さんき
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )6月 がつ 15日 にち
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )10月 がつ 4日 にち
文学部 ぶんがくぶ 教授 きょうじゅ
高木 たかぎ 八 はち 尺 しゃく
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )10月 がつ 5日 にち
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )3月 がつ 30日 にち
法学部 ほうがくぶ 教授 きょうじゅ
高木 たかぎ 貞二 ていじ
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )3月 がつ 31日 にち
1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )4月 がつ 9日 にち
文学部 ぶんがくぶ 教授 きょうじゅ
末延 すえのぶ 三 さん 次 じ
1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )4月 がつ 10日 とおか
1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )3月 がつ 31日 にち
法学部 ほうがくぶ 教授 きょうじゅ
岸本 きしもと 英夫 ひでお
1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )1月 がつ 25日 にち
文学部 ぶんがくぶ 教授 きょうじゅ
伊藤 いとう 四 よん 十 じゅう 二 に
1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )1月 がつ 26日 にち
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )3月 がつ 31日 にち
薬学部 やくがくぶ 教授 きょうじゅ
松田 まつだ 智雄 ともお
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )3月 がつ 31日 にち
経済学部 けいざいがくぶ 教授 きょうじゅ
今井 いまい 功 いさお
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )3月 がつ 31日 にち
文学部 ぶんがくぶ 教授 きょうじゅ
安藤 あんどう 良雄 よしお
1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )3月 がつ 31日 にち
経済学部 けいざいがくぶ 教授 きょうじゅ
藤原 ふじわら 鎮男 しずお
1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )3月 がつ 31日 にち
理学部 りがくぶ 教授 きょうじゅ
裏 うら 田 でん 武夫 たけお
1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )3月 がつ 31日 にち
教育 きょういく 学部 がくぶ 教授 きょうじゅ
山崎 やまざき 弘 ひろし 郎 ろう
1985年 ねん (昭和 しょうわ 60年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1988年 ねん (昭和 しょうわ 63年 ねん )3月 がつ 31日 にち
工学部 こうがくぶ 教授 きょうじゅ
黒田 くろだ 晴雄 はるお
1988年 ねん (昭和 しょうわ 63年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん )3月 がつ 31日 にち
理学部 りがくぶ 教授 きょうじゅ
清水 しみず 忠雄 ただお
1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )3月 がつ 31日 にち
理学部 りがくぶ 教授 きょうじゅ
開原 かいはら 成允 しげこと
1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )3月 がつ 31日 にち
医学部 いがくぶ 教授 きょうじゅ
六 ろく 本 ほん 佳 よ 平 ひらた
1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )4月 がつ 1日 にち
1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )3月 がつ 31日 にち
大学院 だいがくいん 法学 ほうがく 政治 せいじ 学 がく 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
落合 おちあい 卓 たく 四郎 しろう
1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )3月 がつ 31日 にち
大学院 だいがくいん 数理 すうり 科学 かがく 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
廣 こう 渡 わたり 清吾 せいご
2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )3月 がつ 31日 にち
副 ふく 学長 がくちょう 、社会 しゃかい 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 教授 きょうじゅ
小宮山 こみやま 宏 ひろし
2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )3月 がつ 31日 にち
理事 りじ (副 ふく 学長 がくちょう )、大学院 だいがくいん 工学 こうがく 系 けい 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
西郷 さいごう 和彦 かずひこ
2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )3月 がつ 31日 にち
大学院 だいがくいん 工学 こうがく 系 けい 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
古田 ふるた 元夫 もとお
2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )3月 がつ 31日 にち
大学院 だいがくいん 総合 そうごう 文化 ぶんか 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
久留島 くるしま 典子 のりこ
2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )3月 がつ 31日 にち
史料 しりょう 編纂 へんさん 所 しょ 教授 きょうじゅ
熊野 くまの 純 じゅん 彦
2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )4月 がつ 1日 にち
2021年 ねん (令 れい 和 わ 3年 ねん )3月 がつ 31日 にち
大学院 だいがくいん 人文 じんぶん 社会 しゃかい 系 けい 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
坂井 さかい 修一 しゅういち
2021年 ねん (令 れい 和 わ 3年 ねん )4月 がつ 1日 にち
(現職 げんしょく )
大学院 だいがくいん 情報 じょうほう 理工 りこう 学 がく 系 けい 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ
現在 げんざい では、オンラインやCD-ROMなどによる電子 でんし 出版 しゅっぱん に対応 たいおう するため、ネットワークを介 かい した学内 がくない への情報 じょうほう 提供 ていきょう サービスも行 おこな っている。学外 がくがい に向 む けては、ホームページからさまざまな情報 じょうほう を発信 はっしん している。また、展示 てんじ 会 かい を開催 かいさい するなど、総合 そうごう 図書館 としょかん の豊 ゆた かなコンテンツを一般 いっぱん に公開 こうかい している。
紀州 きしゅう 徳川 とくがわ 家 か より寄贈 きぞう された「南 みなみ 葵 まもる 文庫 ぶんこ 」をはじめ、「青 あお 洲 しゅう 文庫 ぶんこ 」、「鷗外文庫 ぶんこ 」、「田中 たなか 文庫 ぶんこ 」、「亀井 かめい 文庫 ぶんこ 」等 ひとし 多 おお くのコレクションがある。これらのうち、江戸 えど 時代 じだい の文学 ぶんがく 書 しょ のコレクション「霞亭 かてい (かてい)文庫 ぶんこ 」や、明治 めいじ 大正 たいしょう 期 き の文豪 ぶんごう ・森 もり 鷗外の旧 きゅう 蔵書 ぞうしょ のうち鷗外自筆 じひつ 写本 しゃほん 、書 しょ 入 にゅう 本 ほん などを掲載 けいさい した「鷗外文庫 ぶんこ 書 しょ 入 いれ 本 ほん 画像 がぞう データベース」は電子 でんし 化 か してホームページ上 じょう に公開 こうかい している。
1928年 ねん 、新 あら たな図書館 としょかん が開館 かいかん するにあたって、蔵書 ぞうしょ の整理 せいり には独自 どくじ の一 いち 館 かん 分類 ぶんるい 法 ほう (東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 図書 としょ 分類 ぶんるい 表 ひょう [ 160] 、のちに東京 とうきょう 大学 だいがく 総合 そうごう 図書館 としょかん 和漢 わかん 書 しょ 分類 ぶんるい 表 ひょう [ 97] )が使用 しよう された。この分類 ぶんるい 法 ほう は、アルファベットの大綱 たいこう と3桁 けた の数字 すうじ の細目 さいもく によって分類 ぶんるい が表 あらわ されるものである。『東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん 利用 りよう 者 しゃ 案内 あんない 』[ 130] に掲載 けいさい されたところによれば、大綱 たいこう は以下 いか の通 とお りである。
A 総記 そうき
B 哲学 てつがく
C 宗教 しゅうきょう 神道 しんとう
D 語学 ごがく
E 文学 ぶんがく
F 芸術 げいじゅつ
G 歴史 れきし
H 伝記 でんき
J 地理 ちり
K 教育 きょういく
L 法律 ほうりつ
M 政治 せいじ 行政 ぎょうせい
N 経済 けいざい
P 商業 しょうぎょう
Q 財政 ざいせい
R 統計 とうけい
S 社会 しゃかい
T 理学 りがく
U 工学 こうがく
V 医学 いがく
W 兵事 へいじ
XA 農業 のうぎょう
XB 雑 ざつ 産業 さんぎょう
YA 家政 かせい
YB 諸 しょ 芸 げい 遊戯 ゆうぎ
これらのアルファベットと数字 すうじ で表 あらわ される分類 ぶんるい に加 くわ え、受入 うけいれ 順 じゅん の函 はこ 架 か 記号 きごう を付 ふ することで図書 としょ 記号 きごう を付 つ けていた[ 97] 。
この独自 どくじ 分類 ぶんるい はおよそ70年間 ねんかん にわたって蔵書 ぞうしょ の大半 たいはん に適用 てきよう されてきたが、長年 ながねん の利用 りよう にあたって問題 もんだい 点 てん も顕在 けんざい 化 か してきた。最大 さいだい の問題 もんだい 点 てん は考案 こうあん から時 とき が経 た つにつれて、昭和 しょうわ 初期 しょき の分類 ぶんるい 表 ひょう では最新 さいしん の研究 けんきゅう 分野 ぶんや に対応 たいおう することが難 むずか しくなったことである。さらに各 かく 分類 ぶんるい の下 した が受入 うけいれ 順 じゅん で並 なら べられることから、同 どう 一 いち 著者 ちょしゃ の図書 としょ が離 はな れて配 はい 架 か されるという問題 もんだい もあった。これらの点 てん に対応 たいおう するため、総合 そうごう 図書館 としょかん では2001年 ねん に分類 ぶんるい 基準 きじゅん の変更 へんこう を着手 ちゃくしゅ した。洋 よう 図書 としょ は4月 がつ までに分類 ぶんるい 変更 へんこう 作業 さぎょう を終 お え[ 94] 、和 かず 図書 としょ は新着 しんちゃく 図書 としょ から順次 じゅんじ 新 しん 分類 ぶんるい を使用 しよう し、2002年度 ねんど までに開架 かいか の全 ぜん 対象 たいしょう 図書 としょ の分類 ぶんるい 変更 へんこう を完了 かんりょう した[ 95] [ 97] 。この際 さい に採用 さいよう された分類 ぶんるい 法 ほう は、洋 よう 図書 としょ にはデューイ十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう 、和 かず 図書 としょ には日本 にっぽん 十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう で、いずれも一般 いっぱん 分類 ぶんるい 表 ひょう として広 ひろ く通用 つうよう しているものである。また、各 かく 分類 ぶんるい 記号 きごう の下 した に著者 ちょしゃ 記号 きごう でさらに順序 じゅんじょ が規定 きてい されることにより、同 どう 一 いち 主題 しゅだい の同 どう 一 いち 著者 ちょしゃ による著作 ちょさく が隣接 りんせつ して配 はい 架 か されるようになり、ブラウジングによる探索 たんさく がしやすくなった。これらの分類 ぶんるい 法 ほう が教養 きょうよう 学部 がくぶ 図書館 としょかん で先行 せんこう して採用 さいよう されていたことから、教養 きょうよう 学部 がくぶ から進学 しんがく してきた学生 がくせい にとって使 つか いやすいという利点 りてん もあった[ 97] 。一方 いっぽう で書庫 しょこ 内 ない の蔵書 ぞうしょ の分類 ぶんるい については変更 へんこう されず、独自 どくじ 分類 ぶんるい をそのまま使 つか い続 つづ けることとなった。
現在 げんざい では、開架 かいか 和 わ 図書 としょ が日本 にっぽん 十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう 、開架 かいか 洋 よう 図書 としょ がデューイ十 じゅう 進 しん 分類 ぶんるい 法 ほう 、保存 ほぞん 書庫 しょこ 資料 しりょう が東京大学 とうきょうだいがく 総合 そうごう 図書館 としょかん 和漢 わかん 書 しょ 分類 ぶんるい 表 ひょう によって分類 ぶんるい されているほか、自動 じどう 書庫 しょこ は分類 ぶんるい によって配 はい 架 か 位置 いち が規定 きてい されない(分類 ぶんるい は書誌 しょし 分類 ぶんるい としてのみ使用 しよう される)ため、これらの分類 ぶんるい 法 ほう が混用 こんよう されている。ほか、四 よん 部 ぶ 分類 ぶんるい が適用 てきよう される漢籍 かんせき など、一部 いちぶ 特殊 とくしゅ な分類 ぶんるい 法 ほう が使用 しよう される蔵書 ぞうしょ 群 ぐん がある。
※ 休館 きゅうかん 日 び は不定期 ふていき
8, 3月以外 いがい
月 つき から金 かね 8:30-22:30 土 ど ・日 にち ・祝日 しゅくじつ 9:00-19:00
8, 3月 がつ
月 つき から金 かね 8:30-21:00
土 ど ・日 にち ・祝日 しゅくじつ 9:00-17:00
最寄駅 もよりえき
都営 とえい バス
東大 とうだい 赤門 あかもん 前 まえ または東大 とうだい 正門 せいもん 前 まえ (茶 ちゃ 51・東 ひがし 43系統 けいとう )下車 げしゃ 徒歩 とほ 3分 ふん
東大 とうだい 病院 びょういん 前 まえ (学 がく 01・学 がく 07系統 けいとう )下車 げしゃ 徒歩 とほ 5分 ふん
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学部 がくぶ 大学院 だいがくいん 附属 ふぞく 病院 びょういん 附置 ふち 研究所 けんきゅうじょ 附属 ふぞく 機関 きかん 国際 こくさい 高等 こうとう 研究所 けんきゅうじょ 附属 ふぞく 図書館 としょかん
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