(Translated by https://www.hiragana.jp/)
東京大学総合図書館 - Wikipedia コンテンツにスキップ

東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん
General Library, The University of Tokyo
耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじえた本館ほんかん外観がいかん
まど創建そうけん意匠いしょうちかいものに復元ふくげんされた。 地図
施設しせつ情報じょうほう
前身ぜんしん 東京大学とうきょうだいがく図書館としょかん (~1886ねん)
帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん (~1897ねん)
東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん本館ほんかん (~1945ねん)
東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん本館ほんかん (~1963ねん)
事業じぎょう主体しゅたい 東京大学とうきょうだいがく
管理かんり運営うんえい 東京大学とうきょうだいがく
建物たてもの設計せっけい 内田うちだ祥三しょうぞう
開館かいかん 1877ねん
所在地しょざいち 113-0033
東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう7丁目ちょうめ3ばん1ごう
位置いち 北緯ほくい3542ふん41びょう 東経とうけい13945ふん39びょう / 北緯ほくい35.71139 東経とうけい139.76083 / 35.71139; 139.76083座標ざひょう: 北緯ほくい3542ふん41びょう 東経とうけい13945ふん39びょう / 北緯ほくい35.71139 東経とうけい139.76083 / 35.71139; 139.76083
ISIL JP-1003306
統計とうけい組織そしき情報じょうほう
蔵書ぞうしょすう 図書としょ 1,355,027さつ
逐次ちくじ刊行かんこうぶつ 21,890種類しゅるい[1]2022ねん3月31にち時点じてん
貸出かしだしすう 172,033さつ[1](2021年度ねんど
来館らいかんしゃすう 377,648にん[1](2021年度ねんど
館長かんちょう 坂井さかい修一しゅういち
職員しょくいんすう 55にん常勤じょうきん41にん[注釈ちゅうしゃく 1]非常勤ひじょうきん14にん
(2022ねん4がつ19にち時点じてん[1]
公式こうしきサイト 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん
地図ちず
地図
プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館としょかん
テンプレートを表示ひょうじ

東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん(とうきょうだいがくそうごうとしょかん)は、国立こくりつ大学だいがく法人ほうじん東京大学とうきょうだいがく附属ふぞくしてもうけられた大学だいがく図書館としょかんひとつである。

東京大学とうきょうだいがく附属ふぞくする大学だいがく図書館としょかんとしては、3かん拠点きょてん図書館としょかん[注釈ちゅうしゃく 2] および27かんしつ部局ぶきょく図書館としょかん[注釈ちゅうしゃく 3] があり、これらは総称そうしょうして東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかんばれるが、総合そうごう図書館としょかんはそのなかでも最大さいだい規模きぼ図書館としょかんであり、立地りっちする東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパス拠点きょてん図書館としょかんとしての役割やくわりたす。

施設しせつは、本館ほんかん別館べっかんからなる。本館ほんかん地上ちじょう5かい地下ちか1かいからなる鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリートづくり建物たてものであり、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん時代じだいの1928ねん昭和しょうわ3ねん)に竣工しゅんこうした。2020ねんれい2ねん)10がつ1にちより、本館ほんかん4かいにはアジアしょ地域ちいき研究けんきゅう関連かんれんする資料しりょう集約しゅうやくてき所蔵しょぞうするアジア研究けんきゅう図書館としょかん設置せっちされている。別館べっかん本館ほんかん前庭ぜんてい新設しんせつされ、地下ちか1かいのライブラリープラザと、地下ちか2-4かい自動じどう書庫しょこからなり、2018ねん平成へいせい30ねん)に開館かいかんした[2][3]

蔵書ぞうしょ図書としょが130まんさつきょう逐次ちくじ刊行かんこうぶつが2まん種類しゅるいきょうおよび、和漢洋わかんよう典籍てんせきなどをおお所蔵しょぞうしている。みなみあおい文庫ぶんこ鴎外おうがい文庫ぶんこなどコレクションとしてまとまったかたち寄贈きぞうけて蔵書ぞうしょくわえられたものもおおく、これらも貴重きちょう資料しりょうぐんとなっている。

沿革えんかく

[編集へんしゅう]

東京大学とうきょうだいがく創立そうりつから関東大震災かんとうだいしんさいまえまで

[編集へんしゅう]

現在げんざい総合そうごう図書館としょかん淵源えんげんとなった存在そんざいとして、幕府ばくふ開設かいせつしたしげるしょ調ちょうしょがある。同所どうしょでは書物しょもつ保存ほぞんするだけではなく、目録もくろく作成さくせい教科書きょうかしょたる書物しょもつ貸出かしだしなど、当時とうじからあるしゅ図書館としょかん活動かつどうおこなっていた。しげるしょ調ちょうしょはのちに改称かいしょうされて開成かいせいしょとなり、明治めいじしん政府せいふした大学南だいがくみなみこうとして改組かいそされる。大学南だいがくみなみこう規則きそくには、書籍しょせき貸出かしだし払下はらいさげは書籍しょせききょくもうるべきこととするじょうがある。また、大学南だいがくみなみこうとも開設かいせつされた大学だいがくひがしこう規則きそくにも、書籍しょせき目録もくろく作成さくせい貸出かしだしなどをおこな典籍てんせききょくという部局ぶきょく記述きじゅつされている。

大学南だいがくみなみこうは、まもなく東京とうきょう開成かいせい学校がっこう改組かいそされる。明治めいじ8ねんの『東京とうきょう開成かいせい学校がっこう一覧いちらん』では、「講習こうしゅう必用ひつよう書籍しょせき」の貸出かしだしや、蔵書ぞうしょ点検てんけん縦覧じゅうらんしつ設置せっちなどがべられている[4]翌年よくねんの『東京とうきょう開成かいせい学校がっこう一覧いちらん』では、あらたに「圖書としょしつ」のしょうもうけられ、縦覧じゅうらんしつ閲覧えつらんしつ名前なまえあらためられている。当時とうじ蔵書ぞうしょは34,778さつで、うち6,798さつ国書こくしょで、のこりは漢書かんしょ洋書ようしょとなっていた[5]。またこの時期じき校長こうちょう浜尾はまおしん要請ようせいによって、構内こうないには東京書籍とうきょうしょせきかん分館ぶんかんとして法律ほうりつ書庫しょこもうけられた。東京書籍とうきょうしょせきかん明治めいじ10ねん廃止はいしされ、分館ぶんかんである法律ほうりつ書庫しょこ一般いっぱん利用りよう停止ていししたが、生徒せいと閲覧えつらん継続けいぞくされた[6]

1877ねん明治めいじ10ねん)4がつ12にち東京とうきょう開成かいせい学校がっこう東京とうきょう学校がっこう大学だいがくひがしこう改組かいそしたもの)が統合とうごうして東京大学とうきょうだいがくきゅう発足ほっそくし、東京とうきょう開成かいせい学校がっこう東京大学とうきょうだいがくほうぶん3学部がくぶとなる。10月には神田かんだ一ツ橋ひとつばしこうないにあった教師きょうしかん利用りようし、書庫しょこ3むねくわえてあらたな図書館としょかんもうけられた。閲覧えつらんしつ法学部ほうがくぶ文学部ぶんがくぶ予備よびもんけられていて、学生がくせい所属しょぞくしたがって閲覧えつらんしつおよび敷設ふせつされた書庫しょこ利用りようした。医学部いがくぶはすでに本郷ほんごうにあり、本館ほんかんの2かい書籍しょせきしつもうけていた[7]

神田かんだ一ツ橋ひとつばしにあった法理ほうりぶん3学部がくぶ本郷ほんごう移転いてんしたのは、1884ねん明治めいじ17ねん)8がつのことである。このさい図書館としょかん本郷ほんごう新築しんちくされた法文学部ほうぶんがくぶ建物たてものの2かいはいった。1886ねん明治めいじ19ねん)3がつ1にち公布こうふされた帝国ていこく大学だいがくれいによって、東京とうきょう大学だいがくきゅう)は帝国ていこく大学だいがくとなったが、同年どうねん10がつ14にちにはあたらしい「帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん規則きそく」が制定せいていされた。この規則きそくでは、従来じゅうらい法理ほうりぶん3学部がくぶ医学部いがくぶけられていた図書館としょかん形式けいしきじょう統合とうごうされ、ぜん学部がくぶ図書としょ帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん貯蔵ちょぞうすることがさだめられたが、実際じっさいにはかく部局ぶきょくそなけられる状態じょうたいわりはなかった。1918ねん大正たいしょう7ねん)の「東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん規則きそく」の改正かいせいは、実情じつじょう反映はんえいしたものとなり、図書館としょかん図書としょは「本館ほんかん備付そなえつけ図書としょ」と「教室きょうしつ研究けんきゅうしつ其他ノ部局ぶきょく備付そなえつけ図書としょ」の2しゅ区分くぶんされることとなった[8]

法理ほうりぶん3学部がくぶ本郷ほんごう移転いてん直後ちょくご図書館としょかん建物たてものない入居にゅうきょしていたが、1890ねん明治めいじ23ねん)にはあらたな図書館としょかん工事こうじ開始かいしされた。1892ねん明治めいじ25ねん)に竣工しゅんこうし、翌年よくねんの7がつ5にち移転いてん完了かんりょうした。このしん図書館としょかん学生がくせい閲覧えつらんしつ職員しょくいん閲覧えつらんしつ事務じむしつ喫煙きつえんしつ、3そう書庫しょこなどをそなえ、学生がくせい閲覧えつらんしつは300にん収容しゅうようした[9]夏目なつめ漱石そうせきさんよんろう描写びょうしゃされた図書館としょかんは、この当時とうじ建物たてものである。

その翌日よくじつからさんよんろうよんじゅうあいだ講義こうぎをほとんど半分はんぶんらしてしまった。そうして図書館としょかんにはいった。ひろく、ながく、天井てんじょうたかく、左右さゆうまどのたくさんある建物たてものであった。書庫しょこ入口いりくちしかえない。こっちの正面しょうめんからのぞくとおくには、書物しょもつがいくらでもそなえつけてあるようにおもわれる。ってていると、書庫しょこなかから、あつほんさんさつかかえて、出口でぐちひだりれてものがある。職員しょくいん閲覧えつらんしつひとである。なかには必要ひつようほん書棚しょだなからとりおろして、むねいっぱいにひろげて、ちながら調しらべているひともある。三四郎さんしろうはうらやましくなった。おくまでってかいがって、それからさんかいがって、本郷ほんごうよりたかところで、きたものをちかづけずに、かみのにおいをかぎながら、――んでみたい。けれどもなにむかにいたっては、べつにはっきりしたかんがえがない。んでみなければわからないが、なにかあのおくにたくさんありそうにおもう。 — 夏目なつめ漱石そうせき、『三四郎さんしろう

書庫しょこ完成かんせいしたすうねんはやくも逼迫ひっぱくするようになり、1907ねん明治めいじ40ねんまつ増築ぞうちくおこなわれた。1909ねん明治めいじ42ねんには事務じむしつ閲覧えつらんしつとう改築かいちくされた。これらの工事こうじ図書館としょかん十字じゅうじがた建物たてものとなり、東側ひがしがわ書庫しょこ西側にしがわ閲覧えつらんしつ南側みなみがわ事務じむしつとう北側きたがわ玄関げんかん新聞しんぶんしつ法律ほうりつ書庫しょこ閲覧えつらんしつとうとなった[10]

この建物たてものについては創建そうけん当初とうしょ資料しりょう十分じゅうぶんのこされていない。しかし、後述こうじゅつする別館べっかん設置せっち工事こうじともな図書館としょかんぜん広場ひろば整備せいび工事こうじちゅうきゅう図書館としょかん基礎きそ出土しゅつどし、解体かいたいする作業さぎょうおこなっていたさい基礎きそまれた金属きんぞくせいはこ発見はっけんされた。はこなかからは金属きんぞくプレートがつかり、その刻印こくいんから、工事こうじ監理かんりしゃ山口やまぐちはんろく文部もんぶ技師ぎし)、設計せっけいしゃ久留くる正道せいどう文部もんぶ技師ぎし、1881ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう)であったことがあきらかになった[11]

関東大震災かんとうだいしんさい復興ふっこう

[編集へんしゅう]

1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち南関東みなみかんとう一帯いったい激震げきしんおそった。関東大震災かんとうだいしんさいである。帝国ていこく大学だいがくのあるほん富士ふじまち震度しんどは5じゃくから5きょう程度ていどであったとおもわれる[12]当時とうじ図書館としょかん業務ぎょうむにあたっていた西村にしむら貞雄さだお回想かいそうによると、地震じしんのゆれによって館内かんないでは一部いちぶ書架しょかたおれ、またならべられていた図書としょちて散乱さんらんするなどの被害ひがいしょうじた。十字じゅうじがた図書館としょかん建物たてものでは、南北なんぼくびる事務じむ部分ぶぶん玄関げんかんとう一部いちぶ壁面へきめん損傷そんしょうしょうじたが、閲覧えつらんしつ書庫しょこ目立めだった破壊はかい部分ぶぶんはなかったという。この時点じてんでは所蔵しょぞう資料しりょうへのおおきな被害ひがいしょうじていなかった。

関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつした図書館としょかん

しかし、図書館としょかんちかく(現在げんざい図書館としょかん団地だんち南側みなみがわたる教育きょういく学部がくぶとう位置いち)にあった医学部いがくぶやく化学かがく教室きょうしつにおいて、ゆれで薬品やくひんゆかちて発火はっかし、建物たてものうつって火災かさい発生はっせいした。この薬物やくぶつがく教室きょうしつて、破壊はかいしょうじていた図書館としょかん南側みなみがわ屋根やねから館内かんない侵入しんにゅうし、そのままひろがって図書館としょかん全体ぜんたいほのおつつまれた。所蔵しょぞう資料しりょうは1週間しゅうかんにわたってつづけた。当時とうじ図書館としょかん書庫しょこ防火ぼうかなどの耐火たいか設備せつびもうけられていたものの、原因げんいん不明ふめいだが結果けっかてきには延焼えんしょうふせぐことができなかった。図書館としょかん煉瓦れんがづくりかべだけがのこり、おおくの蔵書ぞうしょ屋根やねもろともかれくしてしまった[13]焼失しょうしつした図書としょたしかなかずあきらかでなく、『東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくじゅうねん』はやく76まんさつ[14]、『東京とうきょう大学だいがくひゃくねん 通史つうし』は75まんさつ[15]図書館としょかん復興ふっこうたずさわることになったざいは70まんかん[16]とし、震災しんさい当時とうじ図書館としょかん職員しょくいんであった植松うえまつやすしは、火災かさいなか図書としょ救出きゅうしゅつおこなったがせたのは閲覧えつらんしつ備付そなえつけの1まんさつ程度ていどだったとかえりみている[17]一方いっぽうで、おなじく職員しょくいんであった男澤おざわ文部省もんぶしょう往復おうふくとうもとに、焼失しょうしつ冊数さっすうを56-57まんさつ[13]比較的ひかくてきすくなく見積みつもっている。灰燼かいじんかえした資料しりょうなかには、マックスミューラー文庫ぶんこ曲亭馬琴きょくていばきん日記にっき自筆じひつ稿本こうほん(15さつちゅう1さつのみはされる[13])など、貴重きちょうなものもおおかった[18]。この火災かさいによってえてはいになった図書としょ一部いちぶや、直前ちょくぜんされてなんのがれた図書としょなどは、たてふみ資料しりょうとして現在げんざい総合そうごう図書館としょかん所蔵しょぞうされている[19]

震災しんさいから4にちの9がつ5にち事務じむしつ工学部こうがくぶ新館しんかん現在げんざい工学部こうがくぶ2号館ごうかん旧館きゅうかん)にうつされる。11月1にちには耳鼻咽喉科じびいんこうか研究けんきゅうしつ現在げんざいみなみ研究けんきゅうとう)の地下ちかしつうつる。よく1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつには、バラック建築けんちくやく150せきかり閲覧えつらんしつもうけられる。このころには耳鼻咽喉科じびいんこうか研究けんきゅうしつ地階ちかい事務じむしつ書庫しょことして使つかっていた[20]。また、かり閲覧えつらんしつ道路どうろはさんで耳鼻咽喉科じびいんこうか研究けんきゅうしつかい、現在げんざい附属ふぞく病院びょういん外来がいらい診療しんりょうとうあたりにてられていたようである[21]

かり体制たいせいでの開館かいかんこころみられるなかで、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん焼失しょうしつぜん世界せかいられるところとなり、様々さまざま支援しえんべられるようになった。震災しんさいきた9月の17にちには、はやくも国際こくさい連盟れんめい東大とうだい図書館としょかん復興ふっこう援助えんじょ決議けつぎされた。国内こくないでは10がつから、海外かいがいからは11月のアメリカからのだい1かい寄贈きぞう図書としょをはじめとして、国内外こくないがいからの寄贈きぞう図書としょ相次あいついでせられた。

1924ねん大正たいしょう13ねん)6がつには、ロックフェラー財団ざいだんフレドリック・F・リュッセル英語えいごばんいちぎょう図書館としょかんかり事務じむしつおとずれ、姉崎あねざき館長かんちょう面会めんかいした。この時点じてんで、図書としょ購入こうにゅう図書館としょかん建築けんちくかんするほのめかしがあったとおもわれる。8月にはニューヨーク領事りょうじから外務省がいむしょうたいして東大とうだい図書館としょかん復興ふっこうかんするわせがあり、姉崎あねざき館長かんちょう必要ひつよう金額きんがくとうかんして回答かいとうしている。また、姉崎あねざきが9月に友人ゆうじんのJames Woodsあてした手紙てがみでは、寄附きふかんして建物たてもの名前なまえたとえばあたらしい図書館としょかんをロックフェラー図書館としょかんとする)を条件じょうけんとされた場合ばあいへの憂慮ゆうりょや、あらたな図書館としょかんには記念きねんしつもうけられなければならないとかんがえていること、当時とうじ国内こくないにおいてたいべい感情かんじょう悪化あっかしていたため、米国べいこくのロックフェラーから寄附きふけることにたいして議論ぎろんこるかもしれないといった見通みとおしなどがつづられている。同年どうねん12がつ30にち、ロックフェラーから400まんえん寄付きふするという電報でんぽうが、当時とうじざい由直よしなお総長そうちょうあておくられてきた[13]憂慮ゆうりょされていた建物たてものへの命名めいめい条件じょうけんどころか、建設けんせつ費用ひよう図書としょ購入こうにゅう費用ひようとの配分はいぶんなどもふくめて一切いっさい条件じょうけんさなかった。ロックフェラーからの書簡しょかんのうち、以下いか引用いんようする最後さいご一節いっせつきわめて丁重ていちょうなものであり、関係かんけいしゃふか感心かんしんさせ、米国べいこくからの寄附きふ反対はんたいするこえおさまることとなった。

……
I quite realize that in time the Japanese people will themselves accomplish the complete restoration of their cities and institutions which have been destroyed. However, I shall regard it as a great privilege to be permitted to hasten the day when your University., which stands among the foremost institutions of learning in the world, will again be provided with adequate facilities.
訳文やくぶん日本にっぽん國民こくみんが、その破壊はかいせられた都市とし學府がくふかんなる回復かいふく自力じりきにて成就じょうじゅすべきことは、自分じぶん確信かくしんするところ御座ぎょざこうしかしこれとともまた世界せかい學界がっかい優秀ゆうしゅうなる位置いちめらるゝ大學だいがくが、ふたた滿足まんぞくなる圖書館としょかん設備せつびゆうせらるべきことはやむるについて、微力びりょくをそのあいだふるをようされむごとは、自分じぶんだいに欣懐とするところゆうこう[16]。) — ジョン・ロックフェラー本文ほんぶん本館ほんかん記念きねんしつ展示てんじ書簡しょかん複製ふくせい)より

以降いこう図書館としょかん建設けんせつ経緯けいいは、「現在げんざい建物たてもの」のしょうくわしくしるすこととしてここでは要点ようてんれるにめる。あたらしい図書館としょかん建設けんせつたっては、当時とうじざい由直よしなお総長そうちょう委員いいんちょうとする図書館としょかん建設けんせつ委員いいんかい設立せつりつされ、設計せっけい部長ぶちょうには内田うちだ祥三しょうぞう就任しゅうにんした。1926ねん大正たいしょう15ねん)1がつ26にち地鎮祭じちんさいおこなって着工ちゃっこうし、1928ねん12月1にち竣工しゅんこう同日どうじつ竣工しゅんこうしきひらかれている[22]国内外こくないがいからせられたおおくの援助えんじょによって、図書館としょかん再建さいけんった1928年度ねんど年度ねんどまつには東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく蔵書ぞうしょが590,509さつ冊数さっすう図書としょおよび製本せいほん雑誌ざっしのみ)となり、蔵書ぞうしょめんでも復興ふっこうすすんだ[22]あらたな図書館としょかん開館かいかんたっては、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん規則きそく改定かいていや、目録もくろく作成さくせい事業じぎょう指定していしょ制度せいど開始かいしなど、制度せいどめんにおいてもあらたな取組とりくみがおこなわれた[22]

戦時せんじちゅう動向どうこう

[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそう以降いこうは、図書館としょかん戦争せんそう影響えいきょうけることになった。いわゆる文科ぶんかけい学問がくもん軽視けいしされる風潮ふうちょうつよまったため、文科ぶんかけいぞくする分野ぶんや蔵書ぞうしょ中心ちゅうしんであった附属ふぞく図書館としょかん受入うけいれ図書としょすう減少げんしょうしていった。また、職員しょくいん徴兵ちょうへい相次あいついだ。さらには、戦時せんじちゅう資材しざい欠乏けつぼうのために学内がくない建物たてもの新築しんちく困難こんなんとなったことから、あらたに設置せっちされることとなった東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ附属ふぞく図書館としょかんひがしつばさ一部いちぶ提供ていきょうされることとなり、附属ふぞく図書館としょかんとして利用りようできるスペースも減少げんしょうすることとなった。屋上おくじょうには陸軍りくぐんによって高射こうしゃほう設置せっち検討けんとうされたこともあったが、これは大学だいがく要請ようせいによって阻止そしされている[22]陸軍りくぐんでは敗戦はいせん間近まぢかの1945ねんになると、大学だいがくキャンパス全体ぜんたいを(上野公園うえのこうえん一帯いったいもりわせて)皇居こうきょまも防衛ぼうえいせんとして使用しようするために接収せっしゅうするといったあんすらもされていたが、当時とうじ総長そうちょうとなっていた内田うちだ祥三しょうぞう交渉こうしょうにあたり、未遂みすいわっている[23]

大学だいがく接収せっしゅう計画けいかくされたように、戦局せんきょくいちじるしく悪化あっかし、東京とうきょう幾度いくど空襲くうしゅう被害ひがいけていた。このため、学内がくないかく図書館としょかん図書としょしつでは図書としょ疎開そかいすすめられていた。附属ふぞく図書館としょかんでは、疎開そかい先駆さきがけて1944ねん4がつ21にちには『和漢わかんしょ疎開そかい図書としょりゃく目録もくろく』、『洋書ようしょ疎開そかい図書としょりゃく目録もくろく』が作成さくせいされた。疎開そかいさきとなったのは山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐん市川大門いちかわだいもんまち現在げんざいどうけんどうぐん市川いちかわ三郷みさとまち市川大門いちかわだいもん地区ちく)の渡辺わたなべ土蔵どぞうである。同家どうけ蔵書ぞうしょとしてられた渡辺わたなべしん旧家きゅうかであり、渡辺わたなべしん蔵書ぞうしょ附属ふぞく図書館としょかん震災しんさいあおしゅう文庫ぶんことして購入こうにゅうしていたというえんがあった。すなわち附属ふぞく図書館としょかん蔵書ぞうしょ購入こうにゅうしたことでいていたくらを、附属ふぞく図書館としょかん疎開そかいのために利用りようすることになったということである。疎開そかいは2かいけておこなわれ、だい1は1944ねん7がつまつから10がつはじめごろにかけてばこめた図書としょ308はこぶん移動いどうし、だい2は1945ねん6がつちゅうに50はこ移動いどうしている。いずれも市川大門いちかわだいもんえきまで日本通運にほんつううん貨車かしゃ移送いそうされた。このさい疎開そかいされたのは貴重きちょうしょ22,917さつであり、内訳うちわけ和漢わかんしょ20,542さつ洋書ようしょ2,375さつであった[24][25]一方いっぽうおおくの図書としょ本郷ほんごうのこされたが、上層じょうそう図書としょ地下ちかろす、重複じゅうふく図書としょかさねて防壁ぼうへきわりとするなどの工夫くふうらされた。さらに、建物たてもの安全あんぜんせい見込みこまれてしょ官庁かんちょうから資料しりょうまれることもあった。また建物たてものにもなわもうによって迷彩めいさいほどこされるなどの工夫くふうもされた[26]

これらの対策たいさくられていたが、本郷ほんごうキャンパスは敗戦はいせんまで空襲くうしゅう被害ひがいをほとんどけなかった。1945ねん3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅうでキャンパス南端なんたんにあるふところとくかん洋館ようかんかん焼失しょうしつした程度ていどである[27][28]。これは、GHQ本郷ほんごうキャンパスを占領せんりょう拠点きょてんとして使用しようするためにばくげき標的ひょうてきからはずしたためであるというせつがある[29]。また、附属ふぞく図書館としょかん史料しりょう編纂へんさんしょ書庫しょことともに、米国べいこく作成さくせいされたいわゆるウォーナー・リストばれる文化財ぶんかざいリストに掲載けいさいされ、無印むじるしから3つまでの範囲はんい重要じゅうようあらわす「*」のしるしが2つされていて、(このことがすなわばくげき回避かいひ対象たいしょうとなったことをあらわすわけではないが)重要じゅうようせいはある程度ていど認知にんちされていたとることもできる[30]。さらにこのリストが掲載けいさいされた米国べいこく陸軍りくぐん便覧びんらんでは、附属ふぞく図書館としょかん中国ちゅうごく接収せっしゅうされた図書としょ所蔵しょぞうしていることに言及げんきゅうし、この資料しりょうぐん中国ちゅうごく返還へんかんされることを想定そうていして注意ちゅういはらうよううなが記述きじゅつもあった[31]

戦後せんご

[編集へんしゅう]

戦時せんじちゅうにあらゆる困難こんなんはあったものの、図書館としょかん建物たてもの資料しりょう被害ひがいけることなく、1945ねん8がつ15にち敗戦はいせんむかえた。疎開そかいされていた図書としょは、10月には疎開そかいさき山梨やまなしけんから図書館としょかんもどされた。また、戦時せんじちゅう発送はっそうめられていた海外かいがい雑誌ざっしのバックナンバーなども、次々つぎつぎれられた。徴兵ちょうへいされていた職員しょくいん続々ぞくぞく復員ふくいんし、一方いっぽうしゅたる利用りようしゃである学生がくせい徴兵ちょうへい勤労きんろう動員どういんから解放かいほうされて大学だいがくもどってきた[22]さきべたように本郷ほんごうキャンパスはGHQのそう司令しれいとして接収せっしゅうされる計画けいかくがあり、終戦しゅうせん直後ちょくごの9がつごろにはべいぐん関係かんけいしゃ本郷ほんごうキャンパスを度々たびたび視察しさつしていたが、つづ総長そうちょうつとめていた内田うちだ祥三しょうぞう南原なんばらしげる当時とうじ法学部ほうがくぶちょう)とともに文部省もんぶしょうやGHQ司令しれいとうとの折衝せっしょうにあたり、かろうじて接収せっしゅう回避かいひした[32]。ただ、実現じつげんはしなかったが、図書館としょかんではこの接収せっしゅう騒動そうどう関連かんれんして図書としょはこして避難ひなんするあんていたという[33]

一方いっぽうで、一部いちぶ資料しりょうにはうごきがあった。戦時せんじちゅう中国ちゅうごく民衆みんしゅう教化きょうか団体だんたいしんみんかいによって接収せっしゅうされ、その東大とうだい図書館としょかん譲受じょうじゅされていた学校がっこう教科書きょうかしょるいは、東大とうだい図書館としょかん手続てつづきとしては国内こくないほうのっとったものであったが、GHQに略奪りゃくだつひんとして做されて返還へんかん指令しれいされたため、作成さくせいされた目録もくろくけて中国ちゅうごくがわわたされた[31]。また、海軍かいぐんからまれて海軍かいぐん文庫ぶんこばれた資料しりょうも、GHQによって没収ぼっしゅうされた[26]

占領せんりょうちゅうは、進駐軍しんちゅうぐん軍人ぐんじん様々さまざま情報じょうほうもとめて図書館としょかんをたびたびおとずれたため、職員しょくいんたちはレファレンス業務ぎょうむわれることとなった。このなかで、3かい西側にしがわわた廊下ろうかにインフォメーションデスクがもうけられ、レファレンスの対応たいおうたることとなった。ほかにも、米国べいこく各州かくしゅう判例はんれいしゅう法令ほうれいしゅうまれて判例はんれいしつもうけられるなどの変化へんかがあった[34]附属ふぞく図書館としょかん運営うんえいにも、アメリカしき図書館としょかん運営うんえい方式ほうしきれられるようになって規則きそく改正かいせい組織そしき体制たいせい変更へんこうおこなわれ、職員しょくいんたいしてはアメリカ方式ほうしきによる司書ししょさい教育きょういくおこなわれた[22]。このように図書館としょかん様々さまざま変容へんようげていくなか附属ふぞく図書館としょかんちょう岸本きしもと英夫ひでお就任しゅうにんし、抜本ばっぽんてき改革かいかくおこなわれることとなる。

岸本きしもと館長かんちょうにおける近代きんだい

[編集へんしゅう]

建設けんせつ当時とうじさい新鋭しんえい設備せつびれてつくられた図書館としょかんであったが、開館かいかんから30ねんちかった昭和しょうわ30年代ねんだいには(学内がくないかく部局ぶきょく図書館としょかんなどもふくめて)あらゆる問題もんだい顕在けんざいしていた。このころだい17だいかや誠司せいじ総長そうちょう依頼いらいけて、1960ねん昭和しょうわ35ねん)4がつ図書館としょかんちょう就任しゅうにんしたのが、当時とうじ文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅつとめていた岸本きしもと英夫ひでおである。岸本きしもと館長かんちょう就任しゅうにんにあたって、親交しんこうのあったチャールズ・B・ファーズ(当時とうじのロックフェラー財団ざいだん極東きょくとう関係かんけい人文じんぶん社会しゃかい科学かがくけい緊急きんきゅう援助えんじょ担当たんとうかん戦前せんぜんには東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくへの留学りゅうがく経験けいけんもあった)に相談そうだんして図書館としょかん徹底的てっていてき改革かいかく決意けついし、かや総長そうちょうたいして図書館としょかん改革かいかくへのバックアップをもとめた[35]

就任しゅうにん、6がつにはロックフェラー財団ざいだんにおいて図書館としょかん改善かいぜんのための調査ちょうさとうやく1,000まんえん寄附きふ決定けっていされ、岸本きしもと館長かんちょうは7がつから9がつまで、また幹部かんぶ職員しょくいん3にんが11月から12がつにかけて渡米とべいし、アメリカの先進せんしんてき大学だいがく図書館としょかん視察しさつした。9月28にち臨時りんじ調査ちょうさしつ設置せっちされて、同年どうねんちゅう中央ちゅうおう図書館としょかんのみならずかく部局ぶきょく図書館としょかんふくめて、東大とうだい図書館としょかん全体ぜんたいかんする調査ちょうさすすめられた。よく1961ねん昭和しょうわ46ねん)2がつと3がつには、アメリカからキーズ・D・メトカフ英語えいごばんハーバード大学だいがく図書館としょかん英語えいごばんで18年間ねんかん館長かんちょうつとめ、在任ざいにんちゅうどう大学だいがく全学ぜんがくてき図書館としょかん機構きこう再建さいけん成功せいこうしていた)を招聘しょうへいして、助言じょげんた。5月までに改善かいぜん計画けいかくあん完成かんせいし、6がつ評議ひょうぎかい承認しょうにんされた[36][37]

図書館としょかん改革かいかくは、「もはや、図書としょをしまっておく場所ばしょではない、図書としょをひろく、効果こうかてきに、ませる、利用りようさせるようなはたらきをする」近代きんだいてき大学だいがく図書館としょかん実現じつげんし、「全学ぜんがく教授きょうじゅ学生がくせい研究けんきゅうしゃのすべてが、全学ぜんがくのすべての図書としょを、たやすく利用りようできるように」するといった目的もくてき意識いしきもとづいていて[35]計画けいかく焦点しょうてんとして岸本きしもとは「全学ぜんがく総合そうごう図書としょ目録もくろく130まんまい(ユニオンカタログ)の作成さくせい」「東大とうだい機構きこうとしての附属ふぞく図書館としょかん体制たいせい確立かくりつ、および部局ぶきょく図書館としょかん連絡れんらく調整ちょうせい」「指定していしょ制度せいど強化きょうか」「総合そうごう図書館としょかん中央ちゅうおう図書館としょかんしん名称めいしょう)の近代きんだいてき改装かいそう」の4項目こうもくげている[37]。ここではそのうち中央ちゅうおう図書館としょかん総合そうごう図書館としょかん)に関連かんれんする事項じこうげる。

ユニオンカタログについて、当時とうじ東京大学とうきょうだいがくは、10学部がくぶ・14附置ふち研究所けんきゅうじょに250まんさつ蔵書ぞうしょゆうしていたが、これらすべてを対象たいしょうとした目録もくろく存在そんざいしなかった。中央ちゅうおう図書館としょかんにはかんおよび8学部がくぶ教養きょうよう学部がくぶ農学部のうがくぶ以外いがい)の蔵書ぞうしょをカバーするカード目録もくろく存在そんざいしていたが、全学ぜんがく所蔵しょぞうされる図書としょたいしてのカバーりつ半分はんぶん程度ていどであった。全学ぜんがく所蔵しょぞうされている図書としょ総合そうごうてき利用りようをはかるために、全学ぜんがく総合そうごう目録もくろく作成さくせい必須ひっすであった。この作業さぎょうかく図書としょしつのカード目録もくろく状態じょうたい調査ちょうさからはじまり、いで教養きょうよう学部がくぶ農学部のうがくぶおよびかく附置ふち研究所けんきゅうじょ目録もくろくカード70まんまい撮影さつえいおこなわれ、撮影さつえいされたフィルムはボストンのゼロックスしゃおくられてカードが複製ふくせいされた。このカードに加筆かひつ修正しゅうせいおこなったうえで、全学ぜんがく総合そうごう目録もくろくとして整備せいびされ、総合そうごう図書館としょかん設置せっちされた[38]。カード目録もくろく機能きのうがOPACに移動いどうした現在げんざい更新こうしんおこなわれていないものの、全学ぜんがく総合そうごう目録もくろくつづだい階段かいだん設置せっちされている。

総合そうごう図書館としょかん建物たてもの改装かいそうは、「モニュメントとしての性格せいかくつよ表現ひょうげんしている」図書館としょかんを、「利用りようしゃ本位ほんい機能きのうてきな、近代きんだいてき図書館としょかんにつくりかえる」ことに主眼しゅがんをおいてまれた[38]おおきなうごきとして、利用りようしゃ一般いっぱんたいする施設しせつを1かいろしたことがげられる。図書館としょかんは3かいおもかいとしてつくられていて、閲覧えつらんしつ出納すいとうだいなど、利用りようしゃたいする施設しせつせんら3かい集約しゅうやくされていたため、利用りようしゃ入館にゅうかんするとまずだい階段かいだんを3かいまでがらなければならなかった。1かい入口いりくちりょうわきには記念きねんしつ新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつもうけられていたが、前者ぜんしゃ賓客ひんきゃくむかえる一室いっしつとしてもちいられていて、利用りようしゃには開放かいほうされていなかった。そのため1かい利用りようしゃ利用りようできる空間くうかんは、ほぼ新聞しんぶん雑誌ざっししつのみであった。この状況じょうきょう改善かいぜんするため、まず書庫しょこつうずる出納すいとうだいを1かいだい階段かいだんうらうつし、天井てんじょうたか新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつにはちゅう2かいもうけて学生がくせい閲覧えつらんしつとし、1かい参考さんこうしつて、従来じゅうらい開放かいほうされていなかった記念きねんしつ自由じゆう閲覧えつらんしつとして利用りようしゃ開放かいほうされることとなった。当初とうしょ予定よていでは記念きねんしつにもちゅう2かいもうける予定よていがあったが、これは実現じつげんしなかった[38]。ほか、3かい北側きたがわ一般いっぱん閲覧えつらんしつ一部いちぶ書架しょか設置せっち開架かいか閲覧えつらんしつとし、4かいしたかいからのけをふさいで専門せんもんべつ閲覧えつらんしつとしてのアジアセンター、外国がいこくほう資料しりょうセンターや閲覧えつらん個室こしつ設置せっち地階ちかい改装かいそうおこなって書庫しょこ収容しゅうよう冊数さっすう増加ぞうかはかるなど、館内かんない全体ぜんたいにわたって根本こんぽんてき改修かいしゅうおこなわれた[38]

岸本きしもと館長かんちょう就任しゅうにん以前いぜんからがんとの闘病とうびょうおこなっていたが、11月15にち外国がいこくほう文献ぶんけんセンター開設かいせつしき出席しゅっせき自宅じたく療養りょうようとなり、12月8にち東大とうだい病院びょういん入院にゅういんしたのちよく1964ねん昭和しょうわ39ねん)1がつ25にち黒色こくしょくしゅのため死去しきょした。2月6にちには総合そうごう図書館としょかんちょう宗教しゅうきょうによる附属ふぞく図書館としょかんそういとなまれ、正面しょうめんだい階段かいだんのぼったさきの3かいホールに祭壇さいだん設置せっちされた。図書館としょかんかい大学だいがく文部省もんぶしょう関係かんけいしゃのほか、岸本きしもと専門せんもんとしていた宗教しゅうきょう学界がっかい関係かんけいしゃ、さらに学生がくせいなど1,500にん参列さんれつした[39][40][41]

東大とうだい紛争ふんそうにおける混乱こんらん

[編集へんしゅう]

1968ねん昭和しょうわ43ねん)には、いわゆる東大とうだい紛争ふんそう勃発ぼっぱつし、医学部いがくぶ筆頭ひっとうおおくの学部がくぶにおいて授業じゅぎょう中止ちゅうしとなり、学生がくせいらによる建物たてもの封鎖ふうさ相次あいついだ。東大とうだい紛争ふんそう情勢じょうせいとして、大学だいがく執行しっこうがわがしばしば強硬きょうこう姿勢しせいしめしたことにたいして全共闘ぜんきょうとうとくつよ反発はんぱつし、またしばしば譲歩じょうほ姿勢しせいぜる民青みんせいなどともはげしく衝突しょうとつしていた。1968ねん後半こうはんには泥沼どろぬました紛争ふんそう疲弊ひへいし、学生がくせいなかでは紛争ふんそう解決かいけつもとめる風潮ふうちょうこり、それをけて民青みんせい主導しゅどうする東大とうだい民主みんしゅ行動こうどう委員いいんかい学生がくせい代表だいひょうとして大学だいがく当局とうきょくとの折衝せっしょうたろうとしていた。全共闘ぜんきょうとうがわはこれを闘争とうそう収拾しゅうしゅう策動さくどうとしてはげしく批判ひはんし、さらなる強硬きょうこう、ゲバルト加速かそくした。全共闘ぜんきょうとうはもはや、「一般いっぱん学生がくせい」を収拾しゅうしゅう策動さくどうするてきとしてりはなし、批判ひはんすることをはばからなくなっていた。そのなかおこなわれたのが11月22にち東大とうだい日大にちだい闘争とうそう勝利しょうり時計とけいだいぜんそう決起けっき集会しゅうかい」であり、集会しゅうかいつづいてぜんもん図書館としょかん封鎖ふうさかかげた「全学ぜんがく封鎖ふうさ闘争とうそう」が目論もくろまれ、予告よこくされた。

これにたいして収拾しゅうしゅう本郷ほんごう正門せいもんで11に「封鎖ふうさ阻止そしほう独自どくじ集会しゅうかい」、12には図書館としょかんまえぜん東大とうだいそう決起けっき集会しゅうかいなどをおこなうことが予告よこくし、全共闘ぜんきょうとうによる全学ぜんがく封鎖ふうさ抑止よくししようとしていた。だが全共闘ぜんきょうとうはこのうらをかき、22にち午前ごぜんちゅう武装ぶそうした集団しゅうだんによって図書館としょかん封鎖ふうさ完了かんりょうした[42]

この封鎖ふうさによって総合そうごう図書館としょかん閉館へいかん余儀よぎなくされた。一部いちぶしつ封鎖ふうさされずにのこされたため、最小限さいしょうげん事務じむ地階ちかいかれたかり事務じむしつおこなわれることとなった[43]。また、有斐閣ゆうひかく好意こういによって大学だいがくちかくの白山はくさん某所ぼうしょ作業場さぎょうば用意よういされ、受入うけいとう業務ぎょうむおこなわれた[44]全共闘ぜんきょうとう建物たてもの封鎖ふうさにあっては、マイクロフィルムやすなどの蛮行ばんこう横行おうこうしておおきな被害ひがいしょうぜしめた法学部ほうがくぶ研究けんきゅうしつのようなれいもあったが、このようなれいくらべると総合そうごう図書館としょかんでは秩序ちつじょたもたれ、破壊はかい行為こういおこなわれることもなく粛々しゅくしゅく封鎖ふうさおこなわれた。封鎖ふうさおこな学生がくせい当時とうじ附属ふぞく図書館としょかんちょう伊藤いとうよんじゅうとの会見かいけんたれ、そのさい伊藤いとう提示ていじした「(1)重要じゅうよう箇所かしょ施錠せじょう何人なんにんらないよう責任せきにんをもってかんもりし、それぞれのしつとびらにはそのむねがみをする。(2)施設しせつ設備せつび損傷そんしょうしない。(3)火気かきには十分じゅうぶん注意ちゅういをする。(4)かぎをこわさない。(5)私物しぶつにはれない。(6)近日きんじつちゅうにあらためてわせの会談かいだんおこなう。」[45]といった遵守じゅんしゅ事項じこう受諾じゅだくされた。そのうえ伊藤いとう自身じしんによって、書庫しょこ参考さんこうしつ整理せいりしつ総務そうむしつ館長かんちょうしつ秘書ひしょしつ事務じむ部長ぶちょうしつ開架かいか閲覧えつらんしつ外国がいこく資料しりょうセンターおよびアジア資料しりょうしつ教官きょうかん個室こしつ施錠せじょうされた。その11がつ25にちには正門せいもんまえにあった喫茶きっさにんじんで、全共闘ぜんきょうとう代表だいひょう山本やまもと義隆よしたか総合そうごう図書館としょかん事務じむ部長ぶちょうの颯田大通だいつうとの面会めんかいもうけられたが、封鎖ふうさ解除かいじょ交渉こうしょう決裂けつれつした[44]

よく1969ねん昭和しょうわ44ねん)1がつ11にちには、紛争ふんそう収拾しゅうしゅう目指めざ団体だんたい交渉こうしょう実現じつげん実行じっこう委員いいんかい団交だんこう)に結集けっしゅうした学生がくせい中心ちゅうしんにして、本郷ほんごうキャンパスのおおくの建物たてもの封鎖ふうさ解除かいじょされ、総合そうごう図書館としょかん封鎖ふうさ解除かいじょされた[46]。1月24にち総合そうごう図書館としょかん運営うんえい委員いいんかいにおいて、伊藤いとう館長かんちょう封鎖ふうさ期間きかんちゅうにおける器物きぶつ損傷そんしょうなどが一切いっさいなかったことを報告ほうこくしている[47]。また全共闘ぜんきょうとうとの交渉こうしょうにあたった颯田事務じむ部長ぶちょうも、封鎖ふうさによって事務じむ作業さぎょう停滞ていたい企画きかく延期えんきといった影響えいきょうけたことは遺憾いかんとしながらも、回想かいそうにて「全共闘ぜんきょうとう諸君しょくん館長かんちょうとの協定きょうていをよくまもってくれ、図書館としょかん意義いぎについても若干じゃっかん理解りかいしめしてくれた」とひょうしている[44]。このように封鎖ふうさにおける図書館としょかん直接的ちょくせつてき物的ぶってき被害ひがいかったものの、暖房だんぼう工事こうじおくれがしょうじたために再開さいかいかん翌月よくげつにずれこみ、2がつ5にちに2かげつぶりの開館かいかんたした。この段階だんかいでは学内がくない情勢じょうせいかならずしも安定あんていしていなかったことから、930ふんから16までの短縮たんしゅく開館かいかんとしたほか、封鎖ふうさ期間きかんちゅう業務ぎょうむ停滞ていたいどう時期じきおこなわれていた改修かいしゅう工事こうじ都合つごうなどから、雑誌ざっし閲覧えつらんしつ開架かいか閲覧えつらんしつなども休止きゅうしし、その徐々じょじょ再開さいかいをしていった[48]

館長かんちょうとして紛争ふんそう対応たいおうにあたった伊藤いとうよんじゅうは、定年ていねんのため規定きていによって1969ねん昭和しょうわ44ねん)の3がつ館長かんちょうしょく退しりぞいている[49]

うら館長かんちょう改修かいしゅう電算でんさんへの対応たいおう

[編集へんしゅう]
平成へいせいまつ耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじ着手ちゃくしゅされるまえ総合そうごう図書館としょかん姿すがた

岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅう以降いこう総合そうごう図書館としょかんではおおきな改修かいしゅうおこなわれてこなかったが、1981ねん昭和しょうわ56ねん)に館長かんちょう就任しゅうにんしたうらでん武夫たけおもとで、1983ねん昭和しょうわ58ねん)からふたた全面ぜんめんてき改修かいしゅうおこなわれることになった。改修かいしゅうようとなったのは、開架かいか図書としょ充実じゅうじつである。岸本きしもと館長かんちょう時代じだいに3かい閲覧えつらんしつ新設しんせつされていた開架かいか閲覧えつらんしつは、身分みぶんしょうあづけて利用りようする仕組しくみであり、実質じっしつてきには安全あんぜん開架かいかしきというべきものであった。しかもその冊数さっすうも4まんさつ程度ていどであり、比較的ひかくてき充実じゅうじつした公共こうきょう図書館としょかん学内がくない生協せいきょう書籍しょせきでは10まんさつ程度ていどならべられていることと比較ひかくすれば、十分じゅうぶんとはがた状況じょうきょうであった。うら館長かんちょう開架かいか閲覧えつらんしつ運用うんようあらためて手続てつづきなく書架しょか利用りようできるように運用うんよう変更へんこうすることとしたうえで、3かい開架かいか閲覧えつらんしつにおける書架しょか追加ついか、3かいホールへの書架しょか設置せっち、4かい開架かいか閲覧えつらんしつへの変更へんこうなどによって、利用りようせい収容しゅうよう冊数さっすう両方りょうほう向上こうじょうはか方針ほうしんめた。またそのにもくち自動じどうドア不正ふせい帯出たいしゅつ防止ぼうしのためのブックディテクションシステム導入どうにゅう雑誌ざっし閲覧えつらんしつ強化きょうか拡充かくじゅう職員しょくいん厚生こうせい施設しせつ整備せいび電動でんどうしゅう密書みっしょ導入どうにゅうなど、さまざまな改善かいぜんおこなわれることとなった[50][51]改修かいしゅう工事こうじ後任こうにんやま﨑弘ろう館長かんちょうにもがれ、4けておこなわれた[52][53][54][55]。また、改修かいしゅう同時どうじ並行へいこう従来じゅうらいから構想こうそうされていた業務ぎょうむ電算でんさん実施じっしされることとなり、1986ねん1がつには総合そうごう図書館としょかん日立ひたちせい大型おおがたコンピュータHITAC M-260Dが搬入はんにゅうされ、3月3にちからは目録もくろくサービスとう一部いちぶサービスを開始かいしした[56]。5月には開架かいか図書としょ貸出かしだし電算でんさんされ[57]、7がつにはオンライン目録もくろくOPACによる蔵書ぞうしょ検索けんさくサービスが開始かいしされた[58]一連いちれん改修かいしゅうは1987ねん昭和しょうわ62ねん)3がつまでにおおむ終了しゅうりょうした[59]

しん図書館としょかん建設けんせつ耐震たいしん改修かいしゅう

[編集へんしゅう]

総合そうごう図書館としょかん昭和しょうわ3ねん創建そうけん以来いらいおもなものとしては岸本きしもと館長かんちょううら館長かんちょう時代じだいに2かいおおきな改修かいしゅうおこなっていて、いずれも収容しゅうよう冊数さっすう増加ぞうかはかられてきたが、抜本ばっぽんてき解決かいけつとはなっていなかった。文学部ぶんがくぶとう本郷ほんごうキャンパスない文系ぶんけいしょ学部がくぶかれた図書としょしつ逼迫ひっぱくしていて、書庫しょこ増設ぞうせつ要求ようきゅうがりつづけていた。また、大学だいがく図書館としょかんもとめられる機能きのうもデジタル進展しんてん学習がくしゅう機能きのうへの要求ようきゅうなどにともなって変化へんかしょうじていたことから、これらの課題かだい対応たいおうするあらたな図書館としょかんもとめられていた。しかし本館ほんかんちく90ねん経過けいかしているため、おおくの既存きそん適格てきかく存在そんざいしていて、増築ぞうちくなどによる抜本ばっぽんてき改善かいぜんおこなうためには現行げんこうほう制度せいど適合てきごうさせる必要ひつようがあることから、歴史れきしてき建築けんちくにおける空間くうかんおおきく改変かいへんしなければならない。ただ増築ぞうちく以外いがい選択肢せんたくし検討けんとうするにも、本郷ほんごうキャンパスないまりがいちじるしく、建物たてもの新設しんせつできる場所ばしょはほとんど存在そんざいしなかった[60]

そのなか図書館としょかんぜん広場ひろばは、総合そうごう図書館としょかん隣接りんせつしてのこされた最後さいごおおきなオープンスペースとなっていた。広場ひろば東西とうざい立地りっちする法学部ほうがくぶ4号館ごうかん文学部ぶんがくぶ3号館ごうかん地下ちか図書としょしつもうけているため、これらの図書としょしつとの接続せつぞくはかじょうでも、図書館としょかんぜん広場ひろば地下ちかというのは好適こうてき場所ばしょであった。地上ちじょうにおけるオープンスペースの確保かくほ図書館としょかん増築ぞうちく両立りょうりつするために、新館しんかん図書館としょかんぜん広場ひろば地下ちか建設けんせつすることとされた。新館しんかん地下ちか1かいには従来じゅうらい図書館としょかんとはことなって活発かっぱつ議論ぎろんおこなうことができる空間くうかんとしてライブラリープラザがもうけられることとなり、地下ちか2かいから4かいにかけては300まんさつ書籍しょせき保管ほかんできる自動じどう書庫しょこ設置せっちすることとなった[60]。また、新館しんかんわせて本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅう機能きのう改良かいりょうはかることとし、これらの計画けいかくは「しん図書館としょかん構想こうそう」(具現ぐげんともないのちに「しん図書館としょかん計画けいかく」)とばれて検討けんとうおこなわれた。

着工ちゃっこうまえ、2013ねん9がつから2014ねんにかけて図書館としょかんぜん広場ひろば埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさおこなわれた。その結果けっか近代きんだい遺跡いせきとしては関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつしたきゅう図書館としょかん建物たてもの基礎きそや、震災しんさいともな火災かさいによるはい焦土しょうど近世きんせい遺跡いせきとしては一帯いったいが溶姫御殿ごてんとして使用しようされていたころ排水溝はいすいこう石組いしぐみや井戸いど便所べんじょなどの遺構いこう、その縄文じょうもん時代じだいしょうピットや土器どきへん旧石器時代きゅうせっきじだい石器せっきなどが出土しゅつどした[61]。これらの遺跡いせきのうち、きゅう図書館としょかん基礎きそと溶姫御殿ごてん水路すいろ石組いしぐみについては、空間くうかん歴史れきしてき重層じゅうそうせい象徴しょうちょうする存在そんざいとして広場ひろばのデザインにまれることとなり、前者ぜんしゃはそのかたちかしてベンチとなり、後者こうしゃはスライスされてもと位置いち地面じめんまれた[3]

新館しんかん建物たてものは2014ねん平成へいせい26ねん)12月11にち起工式きこうしきおこない、翌年よくねん4がつから本格ほんかくてき工事こうじ開始かいし、2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ下旬げじゅんには竣工しゅんこう同年どうねん8がつには自動じどう書庫しょこ整備せいび完了かんりょうした。7月からは本館ほんかん改修かいしゅう工事こうじによって不足ふそくする閲覧えつらんスペースの代替だいたいに、学習がくしゅうスペースとして利用りようきょうされることとなった[62]本館ほんかん工事こうじ進捗しんちょくともなって、2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ22にちには、当初とうしょ計画けいかくされていたとおりの会話かいわができる学習がくしゅう空間くうかんとして、ライブラリープラザはリニューアルオープンした[63]

本館ほんかんは、当初とうしょ別館べっかん完成かんせいして蔵書ぞうしょ地下ちか書庫しょこうつしたのち耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじおこな予定よていであったものの、別館べっかん建設けんせつちゅうの2015年度ねんど図書館としょかん西にしつばさふく図書館としょかん団地だんち工事こうじ予算よさんとおったために、予定よてい前倒まえだおしして別館べっかん建設けんせつ同時どうじ並行へいこう工事こうじすすめられることとなった。2015年度ねんどから2016年度ねんどにかけてⅡ工事こうじ西にしつばさ)、2016年度ねんどから2017年度ねんどにかけてⅢ-1工事こうじ北西ほくせい)、2017年度ねんどにはさらにⅢ-2工事こうじ中央ちゅうおう)、2018年度ねんどにはⅢ-3工事こうじ書庫しょこ)、2019年度ねんどから2020年度ねんどにかけてはⅣ工事こうじあずまつばさ)がおこなわれた。一連いちれん工事こうじは2020ねんれい2ねん)に完了かんりょうし、11月26にちにはグランドオープンの式典しきてんおこなわれた[64]。この工事こうじにおいては、内部ないぶ各室かくしつのうちとく歴史れきしせいたか空間くうかん(1かい記念きねんしつだい階段かいだん、3かいホール、3かい閲覧えつらんしつ)は歴史れきしてき価値かち尊重そんちょうすることとし、シャンデリアの意匠いしょうけのさい開口かいこうなど、創建そうけん形態けいたいへの復元ふくげんおこなわれた[65]。また、従来じゅうらいだい開架かいか閲覧えつらんしつとしてもちいられていた4かいには、アジア研究けんきゅう図書館としょかんはいることとなり、アジア研究けんきゅうする学術がくじゅつ資料しりょう蔵書ぞうしょあつめられることとなったほか、連携れんけい研究けんきゅう機構きこうヒューマニティーズセンターU-Parl(アジア研究けんきゅう図書館としょかんじょうこう倫理りんり財団ざいだん寄付きふ研究けんきゅうふたつの研究けんきゅう機関きかんかれ、本館ほんかん2かいにはグループで利用りようができる個室こしつがたのプロジェクトボックスが設置せっちされるなど、あらたな設備せつび追加ついかされた[64]

年表ねんぴょう

[編集へんしゅう]
  • 1868ねん明治めいじ元年がんねん
    • 9月12にち 明治めいじしん政府せいふによって開成かいせいしょ開成かいせい学校がっこう改称かいしょうされる。
  • 1870ねん明治めいじ2ねん
    • 12月14にち 開成かいせい学校がっこう大学南だいがくみなみこうとなる。
  • 1876ねん明治めいじ9ねん
    • 東京とうきょう開成かいせい学校がっこうしょ規則きそくに「圖書としょしつ」のしょうもうけられる。
    • 9月22にち 構内こうない東京書籍とうきょうしょせきかん分館ぶんかんとして法律ほうりつ書庫しょこ設置せっちされる。
  • 1877ねん明治めいじ10ねん
    • 3がつ 東京書籍とうきょうしょせきかん閉館へいかんにより、法律ほうりつ書庫しょこ一般いっぱん利用りよう停止ていしされる。
    • 4がつ12にち 東京とうきょう開成かいせい学校がっこう東京とうきょう学校がっこう統合とうごうされて東京とうきょう大学だいがくきゅう)となる。
    • 10月 一ツ橋ひとつばし法理ほうりぶん3学部がくぶこうあらたな図書館としょかんもうけられる。
  • 1886ねん明治めいじ19ねん
    • 3月1にち 帝国ていこく大学だいがくれい公布こうふされ、東京とうきょう大学だいがくきゅう)は帝国ていこく大学だいがくとなる。
    • 10月14にち 帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん規則きそく制定せいていされる。
  • 1890ねん明治めいじ23ねん
    • 帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく改称かいしょうされる。
    • 図書館としょかん新館しんかん建設けんせつ工事こうじ開始かいしされる。
  • 1892ねん明治めいじ25ねん
    • あらたな図書館としょかん竣工しゅんこうする。
  • 1893ねん明治めいじ26ねん
    • 5月8にち 図書館としょかん本館ほんかん事務じむしつあらたな建物たてものうつされる。
    • 7がつ1にち 図書としょ移動いどうはじめられる。5にちまでに完了かんりょうし、図書館としょかんとして利用りようされていた法文学部ほうぶんがくぶ建物たてものの1しつはらわれる。
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん
    • 11月1にち東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん規則きそく」が実情じつじょうわせておおきくあらためられ、しん規則きそく実施じっしされる。
  • 1923ねん大正たいしょう11ねん
    • 9月1にち 関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせい医学部いがくぶやく化学かがく教室きょうしつ発生はっせいした火災かさいひろがり、図書館としょかんおおくの蔵書ぞうしょとともに焼失しょうしつ
    • 9月17にち 国際こくさい連盟れんめい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん復興ふっこう援助えんじょ決議けつぎ
    • 9がつ下旬げじゅん 図書としょ収蔵しゅうぞうのために理学部りがくぶ物理ぶつり教室きょうしつ化学かがく教室きょうしつ利用りようされる。
    • 11月1にち かり事務じむしつ耳鼻咽喉科じびいんこうか研究けんきゅうしつ地階ちかいかれる(のちの附属ふぞく病院びょういんみなみ研究けんきゅうとう)。
    • 12月 かり事務じむ室内しつない定員ていいん20めい閲覧えつらんしつ開設かいせつされる。
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん
    • 1がつ上旬じょうじゅん 150せきかり閲覧えつらんしつ建設けんせつされる。
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん
    • 12月28にち じく外装がいそう工事こうじかんして大林組おおばやしぐみ契約けいやくむすばれる。
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん
    • 1がつ28にち 地鎮祭じちんさいおこなわれる。
    • 5月 鉄骨てっこつ工事こうじ着手ちゃくしゅする。
    • 9月 骨組ほねぐみが完成かんせいする。
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん
    • 9月 じくコンクリートしつらえ工事こうじ終了しゅうりょうし、外装がいそうのタイルりがはじめられる。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん
    • 12月1にち 午後ごご2より、新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつ現在げんざい事務じむスペース)で落成らくせいしきおこなわれる。つづく2-4にちまなべ内外ないがいから賓客ひんきゃく招待しょうたいし、式典しきてんおこなわれる。
    • 12月10にち 図書としょ貸出かしだし開始かいしされる。
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん
    • 4月 指定していしょ制度せいど実施じっし
    • 11月 ロックフェラー・ジュニアが来訪らいほうする。
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん
    • 10がつ10日とおか 記念きねんしつ一角いっかく設置せっちされた戦没せんぼつしゃ記念きねんしつささえ事変じへん戦没せんぼつしゃ慰霊いれいさいおこなわれる[66]
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん
    • 10がつ20日はつか 戦没せんぼつしゃ記念きねんしつだい2かい慰霊いれいさいおこなわれる[66]
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん
    • 8がつ 図書としょ疎開そかいおこなわれる。疎開そかいさき山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐん市川大門いちかわだいもんまちきゅうあおしゅう文庫ぶんこ土蔵どぞう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん
    • 10月26にち 山梨やまなしけんきゅうあおしゅう文庫ぶんこ土蔵どぞう疎開そかいされていた図書としょ図書館としょかんもどされることとなり、この現地げんち発送はっそうする[22]
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん
    • 4がつ 西北せいほくすみ自由じゆう閲覧えつらんしつ参考さんこう図書としょ閲覧えつらんしつとなる。
    • 10がつ ひがしつばさ図書館としょかんがく資料しりょうしつもうけられる。
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん
    • 6がつ ロックフェラー財団ざいだん東大とうだい図書館としょかん改善かいぜんのための調査ちょうさとう寄附きふ決定けっていする。
    • 7がつ 岸本きしもと英夫ひでお館長かんちょう渡米とべいし、米国べいこく大学だいがく図書館としょかん視察しさつする。9月まつ帰国きこく
    • 10月6にち だい1かい全学ぜんがく図書館としょかん連絡れんらく集会しゅうかい開催かいさい
  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん
    • 1がつ下旬げじゅん だい1改善かいぜん計画けいかくあん作成さくせいされる。
    • 2がつ7にち 改善かいぜん計画けいかく助言じょげんのためキーズ・D・メトカフが来日らいにちする。14にちまい
    • 3月15にち キーズ・D・メトカフがふたた来日らいにち。30にちまい滞在たいざいちゅうに2かい講演こうえんかいひらかれる。
    • 5月 改善かいぜん計画けいかく最終さいしゅうあん完成かんせい翌月よくげつ27にち評議ひょうぎかいにおいて承認しょうにん
    • 9がつ ロックフェラー財団ざいだん改善かいぜんのための援助えんじょ決定けってい総額そうがく8,460まんえん初年度しょねんどは1,296まんえんぶん
    • 10月 改善かいぜんさいして国費こくひ640まんえん支出ししゅつ決定けってい
    • 11月15にち 全学ぜんがく総合そうごう目録もくろく作成さくせい作業さぎょう開始かいし
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん
    • 1がつ 1962年度ねんど政府せいふ予算よさんあん改善かいぜん予算よさんまれる。
    • 2がつ1にち 3かい一般いっぱん閲覧えつらんしつ開架かいか閲覧えつらんしつ(340せき)となる。閲覧えつらんせき一部いちぶ撤去てっきょされ、指定していしょ一般いっぱんしょ開架かいかしき配置はいちする。
    • 2がつ5にち 部局ぶきょく図書としょしつ目録もくろくカードの撮影さつえい開始かいしされる。
    • 4がつ 中央ちゅうおう図書館としょかん機構きこう改革かいかく決定けっていし、316かけに。
    • 6月4にち 大学院だいがくいん学生がくせいけにキャレル(個室こしつ閲覧えつらんせき)125せき開設かいせつされた。
    • 9がつ10日とおか 改装かいそう工事こうじだい1)が開始かいしされる。工事こうじ範囲はんい地階ちかい、4かい、5かい
    • 10月1にち 岸本きしもと館長かんちょうプリンストン大学ぷりんすとんだいがく招聘しょうへいされて渡米とべいし、このあいだ米国べいこくにおける図書館としょかん協力きょうりょく現状げんじょう視察しさつ。ロックフェラー財団ざいだんなどへの改善かいぜん現状げんじょう報告ほうこくおこなう。
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねん
    • 5月1にち 工事こうじ進捗しんちょくともない、1かい西側にしがわもと新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつしん参考さんこうしつ東側ひがしがわには日刊にっかん新聞しんぶん閲覧えつらんしつ雑誌ざっし閲覧えつらんしつひらけしつしん参考さんこうしつない新設しんせつされた2かいは、となりもと判例はんれいしつとともに学生がくせい閲覧えつらんしつとなる。ほか1かいには出納すいとうだい複写ふくしゃかけなどが移設いせつされた[67]
    • 5月4にち 工事こうじ開始かいし以来いらい閉鎖へいさされていた正面しょうめん玄関げんかん再開さいかいされる。ちがや総長そうちょう学生がくせい職員しょくいんなどが茶話ちゃばなしかいひら[68]
    • 9月17にち 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん基本きほん規則きそくあん図書としょ行政ぎょうせい商議しょうぎかい規定きてい改正かいせいあん附属ふぞく図書館としょかんちょう選考せんこう内規ないきあんの3あん評議ひょうぎかい承認しょうにんた。従来じゅうらい通称つうしょうとして「中央ちゅうおう図書館としょかん」とばれていたが、この基本きほん規則きそくもとづいて「総合そうごう図書館としょかん」に呼称こしょうあらためられることとなった。一方いっぽう附属ふぞく図書館としょかん」の呼称こしょうは、学内がくない図書館としょかん図書としょしつ総称そうしょうとなった。
    • 11月9にち 図書館としょかんぜん広場ひろば附属ふぞく図書館としょかん改善かいぜん記念きねん式典しきてんひらかれる。図書館としょかん関係かんけいしゃ学内がくない関係かんけいしゃ文部省もんぶしょう関係かんけいかんなどが招待しょうたいされた。
  • 1964ねん昭和しょうわ39ねん
    • 2がつ6にち 館長かんちょうとして図書館としょかん改善かいぜんすすめた岸本きしもと英夫ひでお葬儀そうぎ附属ふぞく図書館としょかんそう)がちょう宗教しゅうきょうおこなわれる。
    • 2がつ13にち 教官きょうかんよう閲覧えつらんせきしつ使用しよう開始かいし。21にちにはどう個室こしつ使用しよう開始かいし[69]
    • 3がつ 全学ぜんがく総合そうごう目録もくろく編成へんせい終了しゅうりょうする。
    • 8がつ14にち エレベーター2使用しよう開始かいしされる。
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん
    • 4がつ1にち 複写ふくしゃセンターが開設かいせつされる。複写ふくしゃ代金だいきん払込はらいこみ手続てつづきを簡素かんそし、製品せいひんわたしまでの期日きじつ短縮たんしゅくした[70]
    • 5がつ10日とおか 5かいにビュッフェが開設かいせつされる。やく100せき、11から19までの営業えいぎょう[71]
  • 1966ねん昭和しょうわ41ねん
  • 1967ねん昭和しょうわ42ねん
    • 5月 文献ぶんけん複写ふくしゃ業務ぎょうむ開始かいし
    • 7がつ 東京大学とうきょうだいがく国連こくれん寄託きたく図書館としょかん指定していされる[72]
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん
    • 1がつ 前年ぜんねん7がつ指定していもとづき、ひがしつばさ1かい国連こくれん資料しりょうしつ開設かいせつされる[72]
    • 参考さんこうしつにマイクロカードリーダーを設置せっち[73]
    • 11月22にち 全共闘ぜんきょうとうけい学生がくせいらによって封鎖ふうさされる。「全学ぜんがく封鎖ふうさ闘争とうそう」の一環いっかん
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん
    • 1がつ11にち 封鎖ふうさ解除かいじょされる。
    • 2がつ5にち 封鎖ふうさ解除かいじょ復旧ふっきゅうおおむ終了しゅうりょうし、2かげつぶりに開館かいかんする。ただし雑誌ざっし整理せいり業務ぎょうむ停滞ていたいのため、雑誌ざっし閲覧えつらんしつは1週間しゅうかんおくれて再開さいかいしつされた。またどう時期じきおこなわれていた天井てんじょう改修かいしゅう工事こうじのため、3かい開架かいか閲覧えつらんしつは2がつ10にちぎまで利用りよう停止ていしつづいた[48]
    • 4がつ サッシのアルミサッシへのえ、書庫しょこ照明しょうめいゆか張替はりかえ、暖房だんぼう改修かいしゅう消火しょうか設備せつび設置せっちなどの改修かいしゅう完了かんりょうする[74]
    • 5月30にち 武装ぶそうした全共闘ぜんきょうとう学生がくせいらががつさい襲撃しゅうげきおこなう。総合そうごう図書館としょかんまどガラスをられる被害ひがいけた。
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん
    • 7がつ14にち 評議ひょうぎかいで、だい講堂こうどうのうち居住きょじゅうせいわるい1、2かい部分ぶぶん暫定ざんていてき保存ほぞん書庫しょことし、総合そうごう図書館としょかん保存ほぞん書庫しょこから資料しりょう移動いどうすることが決定けっていされる[75][76]
    • 9月 視聴覚しちょうかく資料しりょう利用りようのためのオーディオ・ルームを暫定ざんていてき供用きょうよう開始かいし同室どうしつでの視聴しちょう紛争ふんそうまえからはじめられていた[77][78]
  • 1973ねん昭和しょうわ48ねん
    • 6月16にち 図書館としょかんがく資料しりょうしつ参考さんこうしつちゅう2かいから、西にしつばさ4かいきゅう演習えんしゅうしつうつされる。岸本きしもと改善かいぜん以前いぜん場所ばしょもどったかたちとなる[79]
  • 1978ねん昭和しょうわ53ねん
    • 12月1にち 1かい自由じゆう閲覧えつらんしつきゅう記念きねんしつ)で図書館としょかん再建さいけん50ねん記念きねん式典しきてんおこなわれる。列席れっせきしゃには記念きねんパンフレット「図書館としょかん再建さいけん50ねん」が配布はいふされる。このから9にちまで、関連かんれんした記念きねん展示てんじかいおこなわれた[80]
  • 1980ねん昭和しょうわ55ねん
    • 4がつ7にち 雑誌ざっし閲覧えつらんしつ本館ほんかんひがしつばさ)が改装かいそうされる。収容しゅうよう能力のうりょく向上こうじょう全面ぜんめん開架かいかしきへの変更へんこうなどの改善かいぜんおこなわれた[81]
  • 1981ねん昭和しょうわ56ねん
    • 1がつ17にち エドマンド・ブランデンのレリーフが寄贈きぞうされ、午後ごご2から除幕じょまくしきおこなわれる[82]
  • 1982ねん昭和しょうわ57ねん
    • うら館長かんちょうによる「東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん改善かいぜん計画けいかく試案しあん」が公表こうひょうされる。
  • 1983ねん昭和しょうわ58ねん
    • 7がつ東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん改善かいぜん計画けいかく試案しあん」の修正しゅうせい補足ほそくばん公表こうひょうされる。
    • 12月 改修かいしゅうだい1工事こうじ開始かいし正面しょうめん玄関げんかん自動じどうドア照明しょうめい改善かいぜん自動じどういれ退すさかん装置そうち新設しんせつ、1かいサービスカウンター新設しんせつなど。工期こうき翌年よくねん6がつまで[50]
  • 1984ねん昭和しょうわ59ねん
    • 2がつ27にち 館内かんない改修かいしゅう工事こうじともない、正面しょうめん入口いりくち封鎖ふうさされる。西側にしがわ玄関げんかん臨時りんじ出入口でいりぐちとなる。受付うけつけとうのカウンターは3かいホール南側みなみがわ移動いどう[83]
    • 7がつ10にち 前月ぜんげつまつだい1改修かいしゅう工事こうじ完了かんりょうし、1かいサービスカウンターとう使用しよう開始かいしされる[84]
    • 10月 改修かいしゅうだい2工事こうじ開始かいし西側にしがわエレベーター更新こうしん研修けんしゅうしつ新設しんせつ書庫しょこない改修かいしゅう参考さんこうしつ雑誌ざっし閲覧えつらんしつ、マイクロ資料しりょうしつ国連こくれん資料しりょうしつ整備せいびなど。工期こうきよく3がつまで[50]
    • 12月17にち 駒場こまば教養きょうよう学部がくぶ図書館としょかんとのあいだで、高速こうそくファクシミリによる文献ぶんけん複写ふくしゃぶつ事務じむ文書ぶんしょ送受信そうじゅしん開始かいし[85]
  • 1985ねん昭和しょうわ60ねん
    • 1がつごろ 実物じつぶつだいのロゼッタストーンのレプリカが玄関げんかん入口いりくち右手みぎて設置せっちされる。はら資料しりょう所蔵しょぞうするだいえい博物館はくぶつかんによる製作せいさく[86]
    • 4がつごろ 参考さんこうしつ改修かいしゅう完了かんりょうする。内装ないそうとう整備せいびされたほか、スペースが拡張かくちょうされた[87]
    • 10月 改修かいしゅうだい3工事こうじ開始かいし計算けいさんしつ新設しんせつ文学部ぶんがくぶ視聴覚しちょうかく教育きょういくセンターの5かいへの移転いてんなど。工期こうきよく3がつまで[50]
  • 1986ねん昭和しょうわ61ねん
    • 1がつ31にち 図書館としょかん中央ちゅうおうシステムで運用うんようされる日立ひたちせい大型おおがたコンピュータHITAC M-260D装置そうち一式いっしき導入どうにゅうされる。準備じゅんび期間きかんて、3月から順次じゅんじサービスを開始かいし[56]
    • 5月12にち 開架かいか資料しりょうしが電算でんさんされる。これにわせて従来じゅうらい開架かいか貸出かしだしひょうわり、教養きょうよう学部がくぶ図書館としょかん共通きょうつう利用りようしょう発行はっこうされることとなった。開架かいか資料しりょうにはハンドスキャナで可能かのう資料しりょうIDラベルがられるようになった[57]
    • 7がつ1にち オンライン目録もくろくOPACのサービス提供ていきょう開始かいしされる[58]。4にちには電算でんさんされたシステムの披露ひろうかいひらかれた[88]
    • 9月 改修かいしゅうだい4工事こうじ開始かいし。3かい開架かいか閲覧えつらんしつ・ホール整備せいび、4かい開架かいか閲覧えつらんしつ新設しんせつ書庫しょこないエレベータ更新こうしんなど。工期こうきよく3がつまで[50]
    • NACSIS-CATによる目録もくろく業務ぎょうむ開始かいしされる[89]
  • 1987ねん昭和しょうわ62ねん
    • 3月 1983年度ねんどよりおこなわれてきた改修かいしゅう工事こうじ終了しゅうりょう(4かいのぞく)。一連いちれん改修かいしゅうにより、開架かいか閲覧えつらんしつ増設ぞうせつ参考さんこうしつ整備せいび電算でんさんへの対応たいおうなどがたされた[59]
    • よう図書としょ総合そうごう目録もくろく遡及そきゅう入力にゅうりょくはじめられる。
  • 1990ねん平成へいせい2ねん
    • CD-ROM検索けんさくサービス開始かいし
  • 1996ねん平成へいせい8ねん
    • 5月7にち あずまつばさ北側きたがわ閲覧えつらんしつ改修かいしゅうし、コンセントをもうけた閲覧えつらん座席ざせき教育きょういくよう計算けいさんシステムはしまつ(ワークステーション・パソコン)を設置せっち情報じょうほう機器きき利用りようスペース「メディアプラザ」として開設かいせつされる[90]
  • 1997ねん平成へいせい9ねん
    • 1がつ 本郷ほんごう駒場こまばキャンパスあいだ資料しりょう配送はいそうのサービスを試験しけんてき開始かいし[91]
    • 8がつ 3かいホールでかん資料しりょう常設じょうせつ展示てんじ開始かいし蔵書ぞうしょいん震災しんさい関連かんれん資料しりょうなどが展示てんじされる[92]
  • 2000ねん平成へいせい12ねん
    • 10がつ カウンターが改編かいへんされ、1かい資料しりょうサービスカウンターと情報じょうほうサービスカウンター、3かい国際こくさい資料しりょうしつカウンターの3カウンターとなる。3かい設置せっちされていた開架かいか閲覧えつらんカウンターは廃止はいしされる[93]
  • 2001ねん平成へいせい13ねん
    • 開架かいか図書としょ分類ぶんるい変更へんこう着手ちゃくしゅされる。従来じゅうらい独自どくじ分類ぶんるいもちいていたが、洋書ようしょ国際こくさいじゅうしん分類ぶんるいほう和書わしょ日本にっぽんじゅうしん分類ぶんるいほうしんてい9はんあらためられることとなった。分類ぶんるい変更へんこう洋書ようしょ先行せんこうしておこなわれ、順次じゅんじ開架かいか和書わしょ参考さんこう図書としょつづいた[94][95]
  • 2002ねん平成へいせい14ねん
    • 3がつ 自動じどう貸出かしだし開始かいしされ、バーコードカードによる自動じどう貸出かしだし可能かのうとなる[96]
    • 6月28にち 分類ぶんるい変更へんこう作業さぎょうともない、開架かいか図書としょ貸出かしだし停止ていしされる。翌月よくげつ22にちからは閲覧えつらん停止ていしされ、9月2にちまでは利用りよう不可ふかとなった[97]
  • 2004ねん平成へいせい16ねん
    • 附属ふぞく図書館としょかん基本きほん規則きそく改正かいせいされた。岸本きしもと館長かんちょう時代じだい以来いらい標榜ひょうぼうされていた「連絡れんらく調整ちょうせいされた分散ぶんさん主義しゅぎ」の運営うんえい原則げんそくが、「きょうはたらけするひとつのシステム」に転換てんかんされた[98]
  • 2005ねん平成へいせい17ねん
    • 附属ふぞく図書館としょかん研究けんきゅう開発かいはつしつに「総合そうごう図書館としょかん整備せいび計画けいかく研究けんきゅうプロジェクト」がもうけられ、図書館としょかんさい整備せいび検討けんとう開始かいしされる[99]
  • 2008ねん平成へいせい20ねん
    • 総合そうごう図書館としょかんだい規模きぼ改修かいしゅうけ、館内かんないにプロジェクトチームが設置せっちされた[100]
  • 2009ねん平成へいせい21ねん
    • 12月22にち 戦時せんじちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつはずされていた正面しょうめん玄関げんかんポーチ外灯がいとう復元ふくげんされ、披露ひろうおよび点灯てんとうしきおこなわれた。復元ふくげん募金ぼきん東京大学とうきょうだいがく基金ききんによって資金しきん調達ちょうたつ[101]
  • 2010ねん平成へいせい22ねん
    • 9月 しん図書館としょかん構想こうそう検討けんとう準備じゅんび部会ぶかい発足ほっそくした[102]
  • 2012ねん平成へいせい24ねん
    • 6月11にち しん図書館としょかん建設けんせつ工事こうじ先駆さきがけて、図書館としょかんぜん広場ひろばの2ほんのクスノキの移植いしょく開始かいしされる。29にちまでに医学部いがくぶぜん広場ひろばへの移植いしょく完了かんりょうした[103]
  • 2013ねん平成へいせい25ねん
    • 9がつ10日とおか 図書館としょかんぜん広場ひろば埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ開始かいしされた[104]
    • 9月26にち 正面しょうめん玄関げんかん閉鎖へいさされる。翌月よくげつ1にちには東側ひがしがわかり入口いりくちもうけられてサービスが再開さいかい東側ひがしがわ雑誌ざっし閲覧えつらんしつがカウンターや事務じむしつ改修かいしゅうされた[104]
  • 2014ねん平成へいせい26ねん
    • 7がつ 図書館としょかん共同きょうどう利用りようとう工事こうじちゅうにおける図書館としょかん事務じむかり移転いてんのためのプレハブ)の設置せっち工事こうじ開始かいしされる[105]
    • 12月11にち 「アカデミックコモンズ(仮称かしょう)」しん工事こうじ起工式きこうしきおこなわれる[105]
    • 図書館としょかんぜん広場ひろばでは新館しんかん建設けんせつ準備じゅんび工事こうじおこなわれる[105]
  • 2015ねん平成へいせい27ねん
    • 2がつ 事務じむ部門ぶもん図書館としょかん共同きょうどう利用りようとうへの移転いてん完了かんりょうする[105]
    • 4がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじ工事こうじ開始かいしされる。新館しんかん地下ちか工事こうじ本格ほんかく[106]
  • 2016ねん平成へいせい28ねん
    • 10がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅうⅢ-1工事こうじ開始かいしされる[107]
    • 11月22にち 総合そうごう図書館としょかん来年度らいねんど1年間ねんかん工事こうじため閉館へいかんするとの方針ほうしん掲示けいじする。25にちには有志ゆうし学生がくせいによって「閉館へいかん反対はんたいする学生がくせいかい」が結成けっせいされ、署名しょめいあつめられる。まもなく総合そうごう図書館としょかんからは、図書館としょかんサービスが完全かんぜん停止ていしするわけではないとする通知つうちされる[108]
  • 2017ねん平成へいせい29ねん
    • 5月 別館べっかんライブラリープラザが竣工しゅんこうする[62]
    • 7がつ 本館ほんかん改修かいしゅう工事こうじともな代替だいたい閲覧えつらんスペースとして、別館べっかん供用きょうよう開始かいし[62]
  • 2018ねん平成へいせい30ねん
    • 3がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅうⅢ-1、2工事こうじ完了かんりょうする[63]
    • 5月22にち 工事こうじ進捗しんちょくともない、正面しょうめん玄関げんかんが4ねんぶりに再開さいかいされる[63]
    • 10がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅうⅢ-3工事こうじ開始かいしされる。対象たいしょう範囲はんい書庫しょこ1-6かい[63]
    • 10月2にち 別館べっかん会話かいわ可能かのう学習がくしゅう空間くうかんとしての位置いちづけでリニューアルオープンされる[63]
  • 2019ねん平成へいせい31ねん
    • 3がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅうⅢ-3工事こうじ完了かんりょう本館ほんかん中央ちゅうおう部分ぶぶん書庫しょこ書庫しょこぜんスペースが整備せいびされた[109]
  • 2020ねんれい2ねん
    • 1がつ 本館ほんかん耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじ開始かいしされる。対象たいしょう範囲はんいあずまつばさ[109]
    • 11月26にち 一連いちれん総合そうごう図書館としょかん改修かいしゅう工事こうじおおむ終了しゅうりょうし、グランドオープン。プロジェクトボックス(個室こしつ)やラウンジなどがあらたにオープンした[64]

年表ねんぴょう記載きさいちゅう事項じこうについて、特記とっきなきは以下いか資料しりょうにおける年表ねんぴょう参考さんこうとしている。

現在げんざい建物たてもの

[編集へんしゅう]

本館ほんかん

[編集へんしゅう]
再建さいけんされた東京帝大とうきょうていだい図書館としょかん

本館ほんかんは、1925ねん大正たいしょう14ねん)7がつ1にち着工ちゃっこうし、1928ねん昭和しょうわ3ねん)11がつ10日とおか竣工しゅんこうどう12がつ1にち開館かいかんした。鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリートづくりで、正面しょうめんかって左右さゆう両翼りょうよく地上ちじょう3かい中央ちゅうおう地上ちじょう4かい、また一部いちぶ地上ちじょう5かい書庫しょこ地上ちじょう6かいてで、地下ちか1かいそなえる。

竣工しゅんこう附属ふぞく図書館としょかんばれ、のちには中央ちゅうおう図書館としょかんともばれていたが、1973ねん昭和しょうわ38ねん)の「東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん基本きほん規則きそく制定せいていによって現在げんざいられるように「総合そうごう図書館としょかん」とばれるようになった。後述こうじゅつ新館しんかん建設けんせつされてからは、従来じゅうらいからあるこの建物たてものを「本館ほんかん」とぶようになっている。ほん記事きじでも、基本きほんてきには「本館ほんかん」とぶ。

1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい以前いぜんには、現在げんざい本館ほんかんがある付近ふきん木骨もっこつ煉瓦れんがづくり図書館としょかんがあったものの、震災しんさいともなって本郷ほんごうキャンパス構内こうない発生はっせいした火災かさい延焼えんしょうし、この図書館としょかんは75まんさつもの資料しりょうとともに焼失しょうしつした。再建さいけんにあたっては、ジョン・ロックフェラー2せいから400まんえん寄付きふもうがあり、これをもとにしてあらたな図書館としょかん建設けんせつされることとなった。この寄付きふはロックフェラー財団ざいだんではなく、ロックフェラー2せいのポケットマネーとして支出ししゅつされたものであり[110]寄付きふきん用途ようと図書としょ購入こうにゅう使用しようするか、図書館としょかん新築しんちく費用ひようてるか、など)やその利用りようかんするしょ問題もんだいすべ資金しきん管理かんり委員いいんかい一任いちにんされ、一切いっさい条件じょうけんけなかった。このもうけて、委員いいんちょうざい由直よしなお当時とうじ総長そうちょう)、設計せっけい部長ぶちょう内田うちだ祥三しょうぞう委員いいんには姉崎あねざき正治しょうじ再建さいけんには館長かんちょう就任しゅうにん)、山田やまだ三良さぶろう当時とうじ法学部ほうがくぶちょう)がくわわって図書館としょかん建築けんちく委員いいんかい結成けっせいされ、内田うちだ祥三しょうぞう主宰しゅさいしていた東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく営繕えいぜん技師ぎしや、工学部こうがくぶ建築けんちく教室きょうしつ若手わかて教官きょうかんらがおお建築けんちくたずさわった。

場所ばしょ選定せんていにあたって、当初とうしょ正門せいもんからだい講堂こうどうけるとおりにめんして、陳列ちんれつかん工学部こうがくぶれつひんしつ)のかい(現在げんざい法学部ほうがくぶ3号館ごうかんがある位置いち)に設置せっちすることがかんがえられていた。これは、当時とうじ学内がくない教授きょうじゅらが収集しゅうしゅうしてきたあらゆる貴重きちょうなコレクションが、十分じゅうぶん整理せいりされない状態じょうたい廊下ろうかとうかれていた状態じょうたい内田うちだが、ミュージアムの必要ひつようせい痛切つうせつ認識にんしきし、自然しぜん科学かがくけいのミュージアム、文科ぶんかてき方面ほうめん図書館としょかんせいたいさせて配置はいちする構想こうそうっていたためである。しかしこの構想こうそう法学部ほうがくぶからのつよ反対はんたいにより断念だんねんされ、震災しんさい焼失しょうしつしたきゅう図書館としょかんとほぼおな位置いちてられることとなった[111][112][113]

設計せっけいにあたっては、内田うちだ弟子でしら10にんによって内輪うちわのコンクールがおこなわれた。日本にっぽん建築けんちく学会がっかい発行はっこうしている『建築けんちく雑誌ざっし』の通巻つうかん471ごう(1925ねん1がつ)には「東京とうきょう帝國ていこく大学だいがく圖書館としょかん建築けんちく圖案ずあん」として、内田うちだによってえがかれた平面へいめんあんのほか、長谷部はせべするどよし堀口ほりぐち捨巳すてみ岸田きしだ日出刀ひでと野田のだ俊彦としひこ渡邊わたなべひとし吉田よしだ鐵郎てつおの6にんによる外観がいかんデザインの草案そうあん掲載けいさいされており、これがさきのコンクールでされたあんたるものとおもわれる。このコンペで一等いっとうをとったのは、図書館としょかん建築けんちく委員いいん建築けんちく嘱託しょくたく技師ぎしとしてつらねていた岸田きしだあんであった。当時とうじ岸田きしだ表現ひょうげん流行りゅうこうとくメンデルゾーン影響えいきょうつよけていたため、装飾そうしょくはいして水平すいへい強調きょうちょうしたデザインとして仕上しあがっていた(現存げんそんする建物たてものとしてはみなみ研究けんきゅうとうなどに類似るいじしている)。しかし設計せっけい部長ぶちょうである内田うちだはメンデルゾーンをこのまなかったことから、このコンペでされた岸田きしだあん採用さいようされることがなく、結局けっきょく内田うちだ自身じしんで1/200の設計せっけいえがき、現在げんざい建物たてもの基本きほんあんとしている。

そのため、現在げんざい本館ほんかん外観がいかんは、周囲しゅうい法文ほうぶん2号館ごうかん法学部ほうがくぶ3号館ごうかんなどと調和ちょうわしたものとなった。おおくの内田うちだ祥三しょうぞうによる建築けんちく同様どうよう本館ほんかん左右さゆう対称たいしょうつくりとなっている。蔵書ぞうしょ増加ぞうかした場合ばあいには、書庫しょこおくほう拡張かくちょうすることがかんがえられていた[114]が、実際じっさいには戦後せんご総合そうごうがくたまき教育きょういく学部がくぶなどにたる建物たてものてられることとなり、現在げんざいではこれらの区画くかくが「図書館としょかん団地だんち」と総称そうしょうされるようになっている[115]設計せっけいにあたってコンペがおこなわれたことは先述せんじゅつとおりであるが、基本きほん設計せっけい担当たんとうすることとなった内田うちだ祥三しょうぞうと、初代しょだい館長かんちょうとなった姉崎あねざき正治しょうじとのあいだでも論争ろんそうしょうじていた。立場たちばとしては、内田うちだがキャンパス復興ふっこう計画けいかく全体ぜんたいとの整合せいごうせい図書館としょかん建物たてもの完結かんけつせい主張しゅちょうし、一方いっぽう姉崎あねざき図書館としょかん機能きのう沿った建築けんちく主張しゅちょうしていた。のこされた内田うちだによる1/200図面ずめんでは、1、2かいかいだかひくいものとたかいもの(実施じっしあんちかいもの)の2あん存在そんざいしていたことがかる。かいだかたかくした場合ばあいだい階段かいだんながさがび、館内かんないにおいて階段かいだんめる面積めんせきおおきくなるため、よりおおくのゆか面積めんせき有効ゆうこう活用かつようするためにはかいだかひくほうい。しかしながら、結局けっきょく内田うちだあんり、現在げんざいるように1、2かいかいだかたかかたち実現じつげんされた[116]

建築けんちく細部さいぶにはゴシック様式ようしき意匠いしょうれられ、外装がいそうには茶褐色ちゃかっしょくスクラッチタイルもちいられることで、意匠いしょうてきにはいわゆる典型てんけいてき内田うちだゴシック様相ようそうしめ建物たてものとして完成かんせいしている。正面しょうめんファサードは、バットレスふうづけばしらやスクラッチタイルの外装がいそうなど、基本きほんてき造作ぞうさく内田うちだゴシックの基本形きほんけい沿ったものとなっているが、かくばしらはさまれた壁面へきめん三面さんめんられて出窓でまどじょう台形だいけいじょう)にせりしているてんは、内田うちだゴシックにはられない特徴とくちょうてき形態けいたいとなっていて、しばしば書架しょかならべられたほんのようであるとひょうされるものである[117][118]。このうち正面しょうめん中央ちゅうおう壁面へきめんは、スクラッチタイルりではなく、人造じんぞう大理石だいりせきりとなっている。当初とうしょはポーチ部分ぶぶんおなじく日出にっしゅつせきることになっていたが、地震じしんさいにおける安全あんぜんせい考慮こうりょして、構造こうぞうじょうより適切てきせつである人造じんぞうせきりとしたものである。ただ完成かんせいするとおもいのほか面積めんせきひろく、いろうすかったため、内田うちだいしったほうがよかったとかえりみている[119]

なお、岸田きしだはコンペで一等いっとうったあん建築けんちくとして実現じつげんされることはなかったものの、図書館としょかん建築けんちく施設しせつ設備せつび調査ちょうさするための海外かいがい出張しゅっちょうおこなっていて、この調査ちょうさ結果けっか設計せっけい反映はんえいされたという。ほかにも、電気でんき設備せつびかんしては大山おおやま松次郎まつじろう暖房だんぼう機械きかい設備せつびでは丹羽にわ重光しげみつ造園ぞうえんでは田村たむらつよし助言じょげんている[120]。また、工事こうじにあたっては、おも相手あいてとして以下いか各社かくしゃ請負うけおい契約けいやくおこなった[121]

図書館としょかん建設けんせつ費用ひようつくられた広場ひろばわきのパビリオン。東西とうざいつくられたが東側ひがしがわのみ現存げんそん

図書館としょかん建設けんせつ予算よさんでは前庭ぜんてい整備せいびおこなわれ、広場ひろばにはピンコロの花崗みかげせき青海あおみなみじょうならべられた石畳いしだたみかれた(改修かいしゅうによってうしなわれている、同様どうようのものはだい講堂こうどうまえなどに現存げんそんする)ほか、噴水ふんすいパビリオンなどももうけられた。噴水ふんすい岸田きしだ日出刀ひでとがデザインしたもので、五重塔ごじゅうのとういただきたる九輪くりん薬師寺やくしじなどのもの)を参考さんこうにした日本にっぽんふうのものになっている[110]。パビリオンは広場ひろば左右さゆうもうけられたが、三四郎さんしろうめんする東側ひがしがわのものは文学部ぶんがくぶ3号館ごうかん建設けんせつ解体かいたいされた。西側にしがわのものは現存げんそんし、上部じょうぶにはふじしげっている。現存げんそんする西側にしがわのパビリオンには井戸いどもうけられていて、ここからげられたみず地下水ちかすいそう貯水ちょすいされ、非常時ひじょうじ外部がいぶ水道すいどうらずみず使用しようできるように工夫くふうされていた。平時へいじには図書館としょかんない空気くうき清浄せいじょう使つかわれて、その排水はいすいさんよんろう一角いっかくもうけられたたきからながされる仕組しくみになっていた[122][113]

建物たてもの正面しょうめんのポーチは半円はんえんアーチが9つならんだものであり、医学部いがくぶ本館ほんかんなどに類似るいじしたものとなっているが、アーチあいだかくはしら上部じょうぶに8まいレリーフ設置せっちされているのは建物たてものられない特徴とくちょうである。これらのレリーフは新海しんかい竹蔵たけぞうによってつくられたものである[115]が、竣工しゅんこうしきおこなわれた1928ねん12がつごろの写真しゃしんにはうつっていない[123]竣工しゅんこうからやく2ねん、1930ねん暑中しょちゅう休暇きゅうかちゅう足場あしばをかけてけたものだという[124]もっと内田うちだによる図面ずめんでは、このレリーフの外形がいけい相当そうとうする長方形ちょうほうけいえがかれていることからもかるように、設計せっけい時点じてんでレリーフの設置せっち設計せっけい時点じてん予定よていされていたものである[125]内田うちだ本人ほんにんから新海しんかい竹蔵たけぞうたいしてはげん獅子しし)、かずふじえだ)、なま若芽わかめ)、慈(母子ぼしもしくははちす)、燈明とうみょう)、よし天秤てんびん)、じょ砂時計すなどけい)、ちからすな)のテーマが提示ていじされ、レリーフの製作せいさく依頼いらいされた。ただ、新海しんかい彫刻ちょうこく題材だいざいとして人工じんこうぶつよりも自然しぜんぶつこのんでいたことから、一部いちぶなかばこじつけによってモチーフの変更へんこう提案ていあんされた。たとえば「」は植物しょくぶつとしてとらえ、いちごとすることが提案ていあんされ、内田うちだ岸田きしだおおむ了承りょうしょうしていたが、姉崎あねざきつよ反発はんぱつしたため却下きゃっかされた。実現じつげんしたレリーフは、現在げんざいならびに沿ってみぎからじゅんに、げんりゅう)、慈(ひつじ)、かずふじ)、なま若芽わかめ小鳥ことり)、燈明とうみょう)、よし常緑樹じょうりょくじゅ霜雪そうせつにもえることになぞらえ、まつ)、じょいちご経緯けいい不明ふめい)、ちから獅子しし)となっている[124][126]。これらのレリーフのうち2まいと慈については、1930ねん再興さいこうだい17かい院展いんてん出展しゅってんされている[115]

館内かんない記念きねんせいたせることを念頭ねんとう設計せっけいされ、入口いりくち正面しょうめんだい階段かいだん記念きねんしつはその象徴しょうちょうとなっているほか、しつにも彫刻ちょうこく作品さくひんとうおおはいされるなど、豪華ごうかつくりとなっている。内田うちだ図書館としょかん設計せっけいについて、「気風きふうというような一種いっしゅ記念きねんせいっているものだから、これがロックフェラーが寄付きふしたんだと説明せつめいする場合ばあいにも相当そうとう堂々どうどうたるものであることがいいだろう」[110]とのかんがえのもとに、「階段かいだんしつ廣間ひろま記念きねんしつ一般いっぱん閲覧えつらんしつにはなりの費用ひようとうずる」[120]こととしたとはなす。そのしつ堅実けんじつ質素しっそむねとしてつくったものの、設備せつびかんしてはしむことなく費用ひようとうじ、最新さいしんしきのものを各所かくしょ採用さいようしている[120]

創建そうけん以降いこうおこなわれた主要しゅよう改修かいしゅう工事こうじとしては、岸本きしもと館長かんちょうおこなわれた工事こうじうら館長かんちょうによる計画けいかくしたおこなわれた工事こうじ、2010年代ねんだい耐震たいしん改修かいしゅうしん図書館としょかん設置せっちわせておこなわれた工事こうじの3つがげられる。これらの改修かいしゅう工事こうじでは、館内かんない全体ぜんたい改善かいぜんすることを目的もくてきとして各室かくしつ機能きのう大幅おおはば変更へんこうされ、それにともなってかべ位置いち変更へんこうとう閉塞へいそくによるぞうゆかなどの構造こうぞうてき変更へんこうおこなわれている。なお、2010年代ねんだい工事こうじかんしては、建築けんちく研究けんきゅうしゃじょう智也ともや建築けんちく川添かわぞえ善行よしゆき設計せっけい監修かんしゅうおこなった。

館内かんない主要しゅよう各室かくしつについては、以下いか個別こべつ記述きじゅつする。

だい階段かいだん

[編集へんしゅう]
正面玄関付近から見た大階段 内田祥三が特に記念性を持たせて設計した空間の一つ 平成末の改修工事で復元された大階段上部の吹き抜け
正面しょうめん玄関げんかん付近ふきんからだい階段かいだん
内田うちだ祥三しょうぞうとく記念きねんせいたせて設計せっけいした空間くうかんひと
平成へいせいまつ改修かいしゅう工事こうじ復元ふくげんされただい階段かいだん上部じょうぶ
正面しょうめん入口いりくちはいって目前もくぜんにあり、1かいから3かいのホールにつうじている。はばはおよそ3あいだ(5メートルきょう[127]大理石だいりせきめられている[128]先述せんじゅつとおり、内田うちだ意識いしきてき記念きねんせいたせて、多額たがく費用ひようをかけてもうけたものであり、現在げんざい総合そうごう図書館としょかん代表だいひょうする空間くうかんとなっている。創建そうけん当時とうじ大理石だいりせきゆかあらわれていたようである[129]が、その階段かいだん全幅ぜんぷくにわたるあか絨毯じゅうたんかれるようになった。創建そうけん当時とうじだい階段かいだん上部じょうぶの4かいにはけがもうけられ、階段かいだんには自然しぜんこうつくりとなっていた。このけは岸本きしもと館長かんちょう時代じだい改装かいそう工事こうじふさがれていたが、近年きんねん改修かいしゅう工事こうじさい開口かいこう一部いちぶ復元ふくげんされ、ふたた自然しぜんこうむようになった。

1かい記念きねんしつ

[編集へんしゅう]
1階北東隅にある記念室 記念室に飾られている鹿頭の剥製
1かい北東ほくとうすみにある記念きねんしつ
記念きねんしつかざられている鹿頭ししず剥製はくせい
1かい北東ほくとうはし位置いちする。この部屋へやは2かいぶんたかさがある。かべいちめんにはチークざいつくられたパネルがられていて、照明しょうめい天井てんじょうからシャンデリアががっている。竣工しゅんこう記念きねんしつとしてつくられ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく歴史れきし図書館としょかん復興ふっこうかんする資料しりょうなどを展示てんじしていた[130]
戦時せんじなかには東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく出身しゅっしん戦没せんぼつしゃ供養くようするための戦没せんぼつしゃ記念きねんしつかれ、白木しらきはこおさめられた戦没せんぼつしゃ肖像しょうぞう写真しゃしん安置あんちする祭壇さいだん設置せっちされた。1941ねんと1943ねんあきには遺族いぞくらを招待しょうたいして慰霊いれいさいもよおされた[131]
岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅう工事こうじでは、従来じゅうらい記念きねんしつとして利用りようされていたこの空間くうかん自由じゆう閲覧えつらんしつとされた。
うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅう工事こうじでは、とうしつ雑誌ざっし閲覧えつらんしつあらためられた。これは、とうしつせっしてもうけられていたひがしつばさ雑誌ざっし閲覧えつらんしつ拡張かくちょうして、自由じゆう閲覧えつらんしつとして利用りようされていたとうしつにも雑誌ざっしはいするようになったものである。南側みなみがわには新着しんちゃく雑誌ざっしはいする書架しょかならべられ、西側にしがわ正面しょうめん玄関げんかんがわ)にはパンフレットや機関きかんとうをおくてい書架しょか設置せっちされた。のこりの部分ぶぶん閲覧えつらんせき設置せっちされ、しつめいこそあらためられたものの、つづ自由じゆう閲覧えつらんしつとしての利用りよう可能かのうであった[51]
2015ねんからの改修かいしゅう工事こうじ期間きかんちゅうは、一時期いちじき利用りようしゃようのECCSはしまつ設置せっちされ、メディアプラザとして利用りようされた。改修かいしゅう工事こうじにあわせて、戦時せんじちゅう撤去てっきょされていたとおもわれるシャンデリア復元ふくげんされ、設置せっちされた。2020ねん11月17にちには、ふたた記念きねんしつとしてひらきしつされた(通常つうじょう閲覧えつらんしつとして利用りよう可能かのう)。
記念きねんしつとしてつくられ、ながらく利用りようされていたことから、おおくの文物ぶんぶつかん関係かんけいする資料しりょうなどがこのしつかざられるようになった。現在げんざい展示てんじされているものとしては、以下いかのようなものがある。
  • グヒエーシヴァリー寺院じいん模型もけい ネパールカトマンズ郊外こうがいにある寺院じいん模型もけいで、1967ねん昭和しょうわ42ねん)、ネパールこく王子おうじビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ東京とうきょう大学だいがく留学りゅうがくしたさい寄贈きぞうしたものである。どう寺院じいんは、ヒンドゥーきょうにおけるさんだいかみいちであるシヴァまつっている[124][132]
  • 図書館としょかん模型もけい 関東大震災かんとうだいしんさい図書館としょかん復興ふっこうたいする寄附きふ返礼へんれいとして、図書館としょかん完成かんせいにロックフェラー・ジュニアおくられた模型もけいおながたつくられたどうせい模型もけいである[133]。なお、竣工しゅんこうしきではおなじく図書館としょかんったインクつぼ灰皿はいざらくばられているが、この模型もけいよりも一回ひとまわちいさい[124]
  • 鹿頭ししず剥製はくせい アカシカ頭部とうぶ剥製はくせいである。台座だいざけられたプレートによれば、ウィンザーグレートパーク英語えいごばん捕獲ほかくされたアカシカで、1913ねん英国えいこくおうジョージ5せい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくおくったものであるという。震災しんさい以前いぜん大学だいがく本部ほんぶ御殿ごてん)のかべおなじものが複数ふくすうけられていて、震災しんさい火災かさいなかでそのなかひとつが救出きゅうしゅつされたものである、との証言しょうげんがある[124][134]
  • ダゴール肖像しょうぞう たかさ2メートルにおよおおきな油絵あぶらえである。1957ねん10がつ8にちに、インドの首相しゅしょうジャワハルラール・ネルー東京とうきょう大学だいがく訪問ほうもんしたさい、Calcutta Art Societyをつうじて寄贈きぞうしたもの[124]
  • みなみまもる文庫ぶんこ扁額へんがく 関東大震災かんとうだいしんさいみなみまもる文庫ぶんこ蔵書ぞうしょ寄贈きぞうされたさい同時どうじ寄贈きぞうされたもの。この扁額へんがく掲示けいじ蔵書ぞうしょ寄贈きぞう条件じょうけんとされたとつたえられる。徳川とくがわ慶喜よしのぶによるふで[135]

1かいきゅう新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつ

[編集へんしゅう]
1かい北西ほくせいはし記念きねんしつただしたいする位置いちにある。記念きねんしつ同様どうよう、2かいぶんたかさがあるしつとしてつくられている。1928ねん12月1にち図書館としょかん完成かんせいにあたっての竣工しゅんこうしきは、このしつおこなわれた[136]内部ないぶ壁面へきめんにはチークざい格子こうしじょう装飾そうしょくはいされている[128]開館かいかんには製本せいほんされていない新刊しんかん新聞しんぶん雑誌ざっし設置せっちされ、一部いちぶ自由じゆう閲覧えつらんのこりは出納すいとうしきでの閲覧えつらんができるようになっていた[130]岸本きしもと館長かんちょう改装かいそうによって、2かいたるたかさ(廊下ろうかよりはややひくい)にあらたなしつもうけられ、学生がくせい閲覧えつらんしつとして使用しよう開始かいしされた。1かい部分ぶぶん参考さんこうしつとなり、参考さんこう書類しょるいかれるようになった。参考さんこうしつ1かいからは新設しんせつされた2かい学生がくせい閲覧えつらんしつがることのできる階段かいだんもうけられていた[38]うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅうでは、2かい部分ぶぶん案内あんないじょう(1かい一体いったいの)参考さんこうしつばれることになったが、閲覧えつらんせきはそのまま存置そんちされていた。2010年代ねんだい改修かいしゅう工事こうじでは、とうしつの1かい部分ぶぶん事務じむしつ転用てんようされることとなったため、利用りようしゃることはできなくなった。それにともなって1かいと2かいとのあいだ階段かいだん撤去てっきょされた。2かい部分ぶぶん工事こうじちゅう一時いちじ期間きかんちゅう開架かいか書架しょか配置はいちされたが、のちに撤去てっきょ移動いどう)されて最終さいしゅうてきにはセミナールームとなっている[50]

2かい閲覧えつらんしつ

[編集へんしゅう]
2かい北側きたがわ閲覧えつらんしつ
開館かいかんには陳列ちんれつしつとしてつくられたもので、図書館としょかん所蔵しょぞうする稀少きしょうしょとう展示てんじおこなわれていた[137]月曜げつよう木曜もくようしゅう2かいかく2あいだはん程度ていどのみひらかれた[130]戦後せんごには判例はんれいなどのコレクションがおかれるようになり、判例はんれいしつとして使つかわれた時期じきがあった。判例はんれいはのちに記念きねんしつうつされている[34]岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅう工事こうじでは、この部屋へや学生がくせい閲覧えつらんしつとして利用りようされるようになった。うら館長かんちょう計画けいかくした改修かいしゅうでも、ひきつづきこの場所ばしょ一般いっぱん閲覧えつらんしつとしてきょうされ、2010年代ねんだい改修かいしゅう工事こうじでも用途ようと変更へんこうしょうじていない。同室どうしつは3かいだい閲覧えつらんしつ同様どうようだいつくえ配置はいちされている。創建そうけんはこの部屋へやだいつくえ配置はいちかったため、これらのだいつくえは3かい閲覧えつらんしつ開架かいか設置せっちするために撤去てっきょされた閲覧えつらんせき移設いせつしたものであろう。

2かいあずまつばさ

[編集へんしゅう]
創建そうけんひがしつばさ1、2かいには研究けんきゅうしつ設置せっちされていた。これは図書館としょかん蔵書ぞうしょ利用りようした研究けんきゅうおこな施設しせつとしてつくられたものである。設計せっけいした内田うちだは、しゅとして外国がいこくじん研究けんきゅうしゃ利用りよう想定そうていしていたという[110]大学だいがく教員きょういんや、学部がくぶちょう推薦すいせんけた大学院生だいがくいんせい卒業生そつぎょうせいなどが利用りようすることをできた(ただし卒業生そつぎょうせいふく学外がくがいしゃ使用しようりょうおさめる必要ひつようがあった)[130]岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅうでは研究けんきゅうしつ廃止はいしされることとなり、2かいひがしつばさのうち南側みなみがわには16しつ閲覧えつらん個室こしつ中央ちゅうおうには談話だんわしつせきしつ北側きたがわには大学院だいがくいん学生がくせい閲覧えつらんしつ設置せっちされた[38]うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅうでは、北側きたがわ大学院だいがくいん学生がくせい閲覧えつらんしつ一般いっぱん閲覧えつらんしつとして利用りようする一方いっぽうで、南側みなみがわ閲覧えつらん個室こしつ撤去てっきょし、電動でんどうしゅう密書みっしょ配置はいちした漢籍かんせき書庫しょことしたうえで、開架かいかとのあいだかべもうけて書庫しょこ一部いちぶとして利用りようするようになった[50]。1996ねん5がつには、北側きたがわ一般いっぱん閲覧えつらんしつ計算けいさんはしまつ設置せっちされ、メディアプラザとして利用りようきょうされるようになった[90]。2010年代ねんだい改修かいしゅう工事こうじでは、ふたた書庫しょことははなされて開架かいかエリアと一体いったい運用うんようされることとなり、北側きたがわにはグループ学習がくしゅうおこなえるプロジェクトボックス、南側みなみがわはパソコンを設置せっちするECCSルームとして利用りようされることとなった[138]

3かいホール

[編集へんしゅう]
3階ホール エドマンド・ブランデンレリーフ
3かいホール
エドマンド・ブランデンレリーフ
3かいの3かいだい階段かいだん中心ちゅうしんとしてひろがっている区画くかくである。はしらあいだにはアーチがわたされていて、その内側うちがわにはメダリオンによって装飾そうしょくほどこされている。メダリオンの意匠いしょうはしらあいだごとにことなるものとなっている。南側みなみがわかべへだてて書庫しょこめんしているため、創建そうけん出納すいとうおこなうカウンターがかれていた。カウンターまえ空間くうかんは、4かいまでのけとなり、その上部じょうぶはガラス天井てんじょうとなっていたため、自然しぜんこう構造こうぞうとなっていた。だい階段かいだんまわりには目録もくろく配置はいちされ、蔵書ぞうしょ閲覧えつらん希望きぼうする利用りようしゃ入館にゅうかんだい階段かいだんで3かいがり、ホールにかれた目録もくろくによって資料しりょう確認かくにんして、カウンターで出納すいとうもとめるようになっていた[130]岸本きしもと館長かんちょうによる改修かいしゅう工事こうじでは、書庫しょこ出納すいとうなどをおこなうカウンターが1かいうつされることとなったため、3かいのカウンターは廃止はいしされた。また、4かいにあった開口かいこうふさいでゆかもうけられたため、自然しぜんこうまなくなった。うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅう工事こうじでは、南側みなみがわにインフォメーションカウンターがもうけられることとなった[50]
  • エドマンド・ブランデンレリーフ 東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがくもと教授きょうじゅ船越ふなこしたもつたけ製作せいさくし、文学部ぶんがくぶ斎藤さいとういさむ名誉めいよ教授きょうじゅ寄贈きぞうした[82]。ブランデンは関東大震災かんとうだいしんさい直後ちょくご東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくえい文学ぶんがく教師きょうしつとめた。鉄骨てっこつ組立くみたて工事こうじすす図書館としょかん建設けんせつ現場げんばで、ねっせられたてつ様子ようす題材だいざいとしてつくられた「BUILDING THE LIBRARY, TOKYO UNIVERSITY: Night Scene」という写生しゃせいのこされている[139]。なおブランデンは図書館としょかん完成かんせいまえ日本にっぽんっている[140]

3かい閲覧えつらんしつ

[編集へんしゅう]
3かい北側きたがわだい閲覧えつらんしつ
建物たてもの正面しょうめんがわ北側きたがわ)にめんする閲覧えつらんしつである。開館かいかんには、指定していしょやその別置べっち雑誌ざっしのぞ一般いっぱん図書としょ閲覧えつらんきょうする一般いっぱん閲覧えつらんしつとされていて、500にん収容しゅうようする館内かんない最大さいだい閲覧えつらんしつであった。利用りようしゃは、証票しょうひょう学生がくせいしょう一般いっぱん閲覧えつらんがかりあづけるのとえに、座席ざせき番号ばんごうしるされた金属きんぞくせい座席ざせきひょうって座席ざせき指定していけ、借覧しゃくらんしょう氏名しめい利用りようする図書としょ書名しょめいなどを記入きにゅうして出納すいとうがかりわたすことで、図書としょ貸付かしつけけることとなっていた[130]岸本きしもと館長かんちょう時代じだい改装かいそうでは開架かいか閲覧えつらんしつあらためられ、閲覧えつらんしつ全面ぜんめんにわたってならんでいた閲覧えつらんせき一部いちぶやく160せきぶん撤去てっきょし、中央ちゅうおう3ぶんの1ほどの面積めんせきやく3まんさつ収容しゅうようする開架かいか書架しょかスペースをもうけ、指定していしょ一般いっぱんしょはいされることとなった。1962ねん2がつ1にち総長そうちょう臨席りんせきしたひらけしつしきおこなわれた[38][141]。ただしこの開架かいか閲覧えつらんしつは、学生がくせいしょうあづけて入室にゅうしつすることとなっていて、安全あんぜん開架かいかしきちかいものであった[52]うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅう工事こうじによって配置はいちあらためられることとなり、北側きたがわ窓側まどがわ)には閲覧えつらんせきならべられる一方いっぽうで、南側みなみがわには全幅ぜんぷくわたって書架しょか配置はいちされることとなり、分類ぶんるいじゅんはいされた。壁面へきめんつくけの書棚しょだなには、大型おおがた図書としょ個人こじん全集ぜんしゅうなどがはいされた[51]。2010年代ねんだい改修かいしゅうでは、書架しょか閲覧えつらんせき配置はいちおおきな変更へんこうくわえられていない。ふさがれていた屋上おくじょうのトップライトがふたた開口かいこうされたため、自然しぜんこうむようになった。また、ゆかが85mmかさげされ、床下ゆかした冷暖房れいだんぼうシステムが設置せっちされた[142]
閲覧えつらんせき使用しようされているだいつくえは、配置はいちこそなん変更へんこうされているものの開館かいかん以来いらい使つかわれつづけているものであり、上部じょうぶには蛍光けいこうとうける改造かいぞうほどこされている。南北なんぼく方向ほうこうわたされているはり側面そくめんには、メダリオンによる装飾そうしょくほどこされている。

3かいあずまつばさ

[編集へんしゅう]
3かいひがしつばさは、創建そうけん指定していしょ閲覧えつらんしつとされていた。授業じゅぎょう参考さんこうしょとして教員きょういん指定していした図書としょそなえられていて、利用りようしゃ中央ちゅうおう出納すいとうだい借覧しゃくらん手続てつづきをおこない、閲覧えつらんせき利用りようすることとなっていた。このしつ学生がくせいのみが利用りようすることができた[130]岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅうでは、北側きたがわ閲覧えつらんしつひがし閲覧えつらんしつ)としてつづ供用きょうようされたが、南側みなみがわにはハマショールドがたというタイプの細分さいぶんされた閲覧えつらん個室こしつもうけられた。中央ちゅうおうにはせきしつ談話だんわしつかれた[38]うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅうでは、南側みなみがわ閲覧えつらん個室こしつ仕切じきりは撤去てっきょされて、国連こくれん資料しりょうしつかれた。北側きたがわにはマイクロ資料しりょうしつかれることとなった[50]。2010年代ねんだい改修かいしゅうでは、北側きたがわ南側みなみがわ開架かいか書架しょかかれる部屋へやとされ、閲覧えつらんせき設置せっちされていない。中央ちゅうおう東側ひがしがわはセミナールーム3となり、授業じゅぎょうやセミナーに利用りようできる部屋へやとされたが、常時じょうじ閲覧えつらんしつとして利用りようできるような運用うんようおこなわれている[138]
開館かいかんは3かい出納すいとうだいぜんホール上部じょうぶだい階段かいだん上部じょうぶがそれぞれ3あいだ*5あいだ、2.5あいだ*9あいだけとなっていたため、4かい中央ちゅうおう開口かいこうとなり、利用りようできる面積めんせきかぎられていた。階段かいだんしつなどのしょしつのぞいて、4かいおおきく北側きたがわ中央ちゅうおう南側みなみがわと3つの空間くうかんけられていた。北側きたがわ開館かいかん帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶんによれば喫茶きっさしつとして使つかわれていて[128]実際じっさいにテーブルとイスがならんだ同室どうしつ写真しゃしんのこされている[143]一方いっぽうで、同室どうしつには休養きゅうようしつとしてもちいられ、日光にっこう東照宮とうしょうぐう模型もけいかれていた写真しゃしんのこされている[144]中央ちゅうおう岸本きしもと館長かんちょう時代じだい改装かいそう直前ちょくぜん時点じてん喫煙きつえんしつとして使つかわれていたとのことで[38]開館かいかん当時とうじ写真しゃしんでもテーブルセットのわきには灰皿はいざら設置せっちされている[145]のこ南側みなみがわは、けの開口かいこう中心ちゅうしん椅子いすならべられた自由じゆう閲覧えつらんしつとなっていて、小説しょうせつなどが自由じゆう利用りようできる状態じょうたいかれていた。とびらからは屋上おくじょう庭園ていえんることもできた[128]
1960年代ねんだい岸本きしもと館長かんちょう改革かいかくでは、このかいまった様相ようそうあらためられた。まずしたかいからのけはすべてふさがれ、ゆか面積めんせき増加ぞうかはかられた。かべ位置いちまったあらためられた。あらたに外国がいこくほう資料しりょうセンターとアジアセンターがかれたほか、演習えんしゅうしつ談話だんわしつおおくの閲覧えつらんよう個室こしつせきしつもうけられた[38]
その1980年代ねんだいうら館長かんちょう改装かいそうでは、従来じゅうらいアジア資料しりょうセンターと外国がいこくほう文献ぶんけんセンターがかれていたスペースが利用りようできることになったため、(だい開館かいかん閲覧えつらんしつもうけられることとなった。もっともさき改修かいしゅうでは開口かいこうめてぞうゆかがされていたものの、4かい全域ぜんいき書架しょか配置はいちすると設計せっけいえた過重かじゅうくわえることとなるため、中央ちゅうおう書架しょかはいし、北側きたがわ南側みなみがわには閲覧えつらんせきおおもうけることとなった。教官きょうかん個室こしつとう改修かいしゅううえつづ利用りようされた[50][51]
2010年代ねんだい改装かいそうでは、連携れんけい研究けんきゅう機構きこうヒューマニティーズセンター、U-PARL(アジア研究けんきゅう図書館としょかんじょうこう倫理りんり財団ざいだん寄付きふ研究けんきゅう部門ぶもん)、そしてあらたにアジア研究けんきゅう図書館としょかんかれることとなり、総合そうごう図書館としょかん開架かいかとはことなる分類ぶんるいによって、本郷ほんごうキャンパスない分散ぶんさん配置はいちされていたあらゆるアジア関係かんけい資料しりょう集中しゅうちゅうさせてはいされることとされた。5まんさつ収容しゅうよう可能かのうで、2020ねんれい2ねん)10がつ1にち開館かいかん時点じてんでは2まんさつはいされ、今後こんご学内がくない図書館としょかん図書としょしつから移管いかんすすめられていく方針ほうしんである[146]。また、この改装かいそうにおいて3かいだい階段かいだんじょうけが復元ふくげんされ、スラブでふさがれていた開口かいこうさい開口かいこうされた。このけのよんしゅうには創建そうけん当初とうしょ石造せきぞう欄干らんかん[147]もうけられていたが[148]、この改装かいそうでは欄干らんかん復元ふくげんされず、開口かいこうめんした箇所かしょガラス張がらすばりのかべとなった。南側みなみがわ3かいきゅう出納すいとうだいじょうの、東西とうざい方向ほうこうながけは復元ふくげんされなかったが(3かいホールの開口かいこうあと位置いち天井てんじょうにはひかりまく天井てんじょう設置せっちされて光源こうげん再現さいげんされている)、そのうえのハイサイドライトは屋上おくじょう塔屋とうやもうけて復元ふくげんされている[142]
5かいけんとなっているのは本館ほんかん中心ちゅうしん一部分いちぶぶんであり、面積めんせきとしてはさほどおおきくない。開館かいかん以来いらい、この空間くうかん倉庫そうこなどの事務じむスペースとして利用りようされていた。岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅうて、1965ねん5がつ11にちからはビュッフェが開業かいぎょうした。ビュッフェの業者ぎょうしゃ選定せんていにあたっては大学だいがく当局とうきょく出店しゅってん目指めざ東大とうだい生協せいきょうあいだ対立たいりつしょうじていたが、当時とうじ東大とうだい病院びょういん付近ふきん営業えいぎょうしていたレストランモナミが営業えいぎょうになうこととなった[149]。その、ビュッフェの営業えいぎょう終了しゅうりょうしている。うら館長かんちょう計画けいかく改修かいしゅうでは、この空間くうかん談話だんわ休息きゅうそくきょうするための学生がくせいラウンジが計画けいかくされていたが、実際じっさいには文学部ぶんがくぶ視聴覚しちょうかく教育きょういくセンターが移転いてんしてはいることとなった[50]視聴覚しちょうかく教育きょういくセンターは耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじ先駆さきがけて2017ねん総合そうごう図書館としょかんから退去たいきょすることとなり[150]現在げんざいでは飲食いんしょく可能かのうなラウンジとして開放かいほうされている[151]

書庫しょこ

[編集へんしゅう]
書庫内1層から3層には床と一体となった鋼鉄製の階段が設けられている。 周囲の床はガラス張りである。 書庫に利用されている鋼鉄材には「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印が見られる
書庫しょこない1そうから3そうにはゆか一体いったいとなった鋼鉄こうてつせい階段かいだんもうけられている。
周囲しゅういゆかガラス張がらすばりである。
書庫しょこ利用りようされている鋼鉄こうてつざいには「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印こくいんられる
書庫しょこ本館ほんかん南側みなみがわもうけられている。地上ちじょう本館ほんかん地階ちかい(1、2かい相当そうとう)とおもかい硝子がらすゆかによってそれぞれ3そうけられていて、地上ちじょう6そう地下ちか1かいとなっている(本館ほんかん3かい書庫しょこ4そう同一どういつたかさである)[152]書架しょかすべ鋼鉄こうてつせいでのつくけで、各層かくそう硝子がらすゆか一体いったいとなったものである。利用りようしゃは3かい出納すいとうだい出納すいとう手続てつづきをおこなうと、カウンターからは真空しんくうかんでカードが書庫しょこないおくられて、書架しょかからされた図書としょ昇降しょうこうによって運搬うんぱんされることとなっていた[153]書庫しょこは閉架しきとして運用うんようされていたが、のちに安全あんぜん開架かいかしきとして一部いちぶ利用りようしゃることができる運用うんようあらためられている。
書庫しょこには50まんさつ図書としょ収容しゅうよう可能かのうであると見込みこまれていた。これにくわえて、地下ちかには75つぼ安全あんぜん(5しつ)が設置せっちされ、とく貴重きちょう資料しりょう保存ほぞんてられることとされていたほか、新聞しんぶん書庫しょこ雑誌ざっし書庫しょこ設置せっちされていた[154]
岸本きしもと館長かんちょう改修かいしゅう工事こうじでは、当時とうじかり書庫しょことして使つかわれていたあずまつばさ地下ちか空間くうかん利用りようして保存ほぞん書庫しょことしたほか、大学院だいがくいん学生がくせい利用りよう見込みこんで書庫しょこないに125せきのキャレルが設置せっちされた。この工事こうじにおいて、出納すいとうおこなうカウンターは3かいから1かい移設いせつされている。
うら館長かんちょう計画けいかくした改修かいしゅう工事こうじでは、地下ちかしゅう密書みっしょ設置せっちされて収容しゅうよう冊数さっすう増加ぞうかはかられた[51]
2010年代ねんだい改修かいしゅう工事こうじでは、1-3そう書庫しょこ北側きたがわ一部いちぶ撤去てっきょされて、開架かいかとして新着しんちゃく新聞しんぶん雑誌ざっしかれるようになった。開架かいか書庫しょこあいだ硝子がらすかべ仕切しきられ、はできない。書庫しょこ入口いりくち地下ちか1かい設置せっちされている。

別館べっかん

[編集へんしゅう]

本館ほんかんまえ図書館としょかんぜん広場ひろばあらたにもうけられた、地下ちか4かいけん施設しせつである。東京大学とうきょうだいがくキャンパス計画けいかくしつじょう智也ともや川添かわぞえ善行よしゆき)、東京とうきょう大学だいがく施設しせつ設計せっけい監修かんしゅうおこない、設計せっけい施工しこう清水建設しみずけんせつ請負うけおっている。

図書館としょかんぜん広場ひろばは、南側みなみがわ総合そうごう図書館としょかん本館ほんかん東西とうざい法学部ほうがくぶ4号館ごうかん文学部ぶんがくぶ3号館ごうかん北側きたがわには法文ほうぶん2号館ごうかん法学部ほうがくぶ3号館ごうかんがあり、四方しほう建物たてものかこまれていた。これらの周囲しゅうい隣接りんせつ建物たてもの影響えいきょうあたえることなく工事こうじおこなうために、別館べっかん建設けんせつにあたっては清水建設しみずけんせつ提案ていあんもとづいてニューマチックケーソン工法こうほう採用さいようされている。この工法こうほうは、ケーソンしもそこ圧縮あっしゅく空気くうきおくんで地下水ちかすい浸入しんにゅうふせ作業さぎょうしつもうけて掘削くっさくはいおこない、ケーソン上部じょうぶでは構築こうちく工事こうじすすめて、徐々じょじょにケーソンを沈下ちんかさせていく工法こうほうである。通常つうじょう橋脚きょうきゃく工事こうじとうもちいられる土木どぼく工法こうほうであり、それを建築けんちくぶつ応用おうようした別館べっかん建設けんせつ技術ぎじゅつじょうきわめて特異とくい工事こうじとなった[155]

地下ちかもうけられることから、浸水しんすいあつへの対策たいさく必要ひつようがあり、むくろたいはしら一体いったいとなったはば1,900-2,300mmのむくろたいかべもうけられ、その外周がいしゅうはさらに6mmのとめすい鋼板こうはんおおわれ、かく鋼板こうはん境目さかいめ溶接ようせつによって処理しょりされている。これらの構造こうぞうは、地下水ちかすいなか建築けんちくぶつ全体ぜんたい浮上ふじょうするのを、重量じゅうりょうによってふせぐという役割やくわりたしている[60][155]

別館べっかん建築けんちくは、以下いかしょう受賞じゅしょうしている。

  • 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん照明しょうめい学会がっかい だい17かい照明しょうめいデザインしょう 入賞にゅうしょう(2019ねん[156]
  • 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん東京とうきょう建築けんちく事務所じむしょ協会きょうかい 東京とうきょう建築けんちくしょうだい45かい建築けんちく作品さくひんコンクール 一般いっぱんるい部門ぶもん 最優秀さいゆうしゅうしょう(2019ねん[157]

地下ちか1かいライブラリープラザ

[編集へんしゅう]
この空間くうかんは、学生がくせい教職員きょうしょくいんだれもが利用りようできる全学ぜんがくてきアクティブ・ラーニングとして計画けいかくされたものである。議論ぎろんともなうグループワークや、トークセッションなどの利用りよう想定そうていされている[65]
空間くうかんはおおよそ円形えんけい平面へいめんとなっていて、東西とうざい両側りょうがわ出入口でいりぐちもうけられている。これらの入口いりくちは、法学部ほうがくぶ4号館ごうかん文学部ぶんがくぶ3号館ごうかん地下ちかにある図書としょしつめんしてもうけられたサンクンガーデンせっしている。室内しつない中央ちゅうおう上部じょうぶは、ガラスのられたトップライトとなっているが、この直上ちょくじょう噴水ふんすいがある。この噴水ふんすいは、みず機能きのうはいしてモニュメントとして相輪そうりんとうのみをのこすことも検討けんとうされたが、関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつした図書館としょかん復興ふっこうにおいて防火ぼうか水槽すいそうとしての役割やくわりあたえられてつくられたものであるため、その経緯けいい歴史れきしせい尊重そんちょうして、あさみずって噴水ふんすいとしての機能きのう存続そんぞくすることとされた。このため、ライブラリープラザには水面すいめんとおしてゆらぎのある自然しぜんこうむようになっている[3][158]。トップライトはアクリルパネルとあみりガラスのじゅう構造こうぞうとすることで、とめ水性すいせい確保かくほしている。またロールスクリーンが設置せっちされていて、必要ひつようおうじて開閉かいへいされる[159]。このトップライトの周囲しゅうい天井てんじょうには、岐阜ぎふけん東白川ひがししらかわむら天然てんねんすぎ利用りようしたルーバーが同心円どうしんえんじょう配置はいちされている[3]。この木製もくせいルーバーは、照明しょうめい器具きぐかくしてひかり直接ちょくせつはいるのをふせぎ、ルーバーに反射はんしゃして均一きんいつあかるさを確保かくほするとともに、天井てんじょう設置せっちされる吸音ざいとともに反響はんきょう防止ぼうしする機能きのうもある[3][159]
ライブラリープラザは2017ねん平成へいせい27ねん)7がつに、耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじおこな本館ほんかん閲覧えつらんせき代替だいたいスペースとしてかりオープンした。このときは本館ほんかん閲覧えつらんしつ使つかわれていた閲覧えつらんせきさい利用りようしていた。2018ねん10がつには本来ほんらいのアクティブラーニングのとしてリニューアルオープンをたし、これにともなって設置せっちされていた閲覧えつらんつくえ椅子いす一新いっしんし、可動かどうせいがあって柔軟じゅうなん利用りようできるものにえた。以降いこう能動のうどうてき学習がくしゅう空間くうかんとして運用うんようされている[3]

地下ちか2-4かい自動じどう書庫しょこ

[編集へんしゅう]
やく300まんさつ書籍しょせき収容しゅうよう可能かのう自動じどう書庫しょことして設計せっけいされた空間くうかんである。各階かくかいは、それぞれやく10メートルほどのたかさがある。
書庫しょこという機能きのう地下ちか実現じつげんすることから、とめすいめんでは万全ばんぜん対策たいさくほどこされ、先述せんじゅつしたむくろたいかべとめすい鋼板こうはんくわえて、むくろたいあお内側うちがわには1,200mmはばバッファゾーンもうけられて、まんいちたいかべ内側うちがわへの浸水しんすいこった場合ばあいでもバッファゾーンまでで浸水しんすいめて、地下ちかから排水はいすいおこな計画けいかくとなっている[155]
これらの空間くうかんには、日本にっぽんファイリング株式会社かぶしきがいしゃ自動じどう書庫しょこ設置せっちされている。資料しりょうはコンテナにおさめられて収容しゅうようされるが、このかずはA5サイズ25,184、B5サイズ25,032、A4サイズ9,516、フリーサイズ(A4以上いじょう)3,000となっている。本館ほんかん地下ちか1かいと1かい出納すいとうステーションがもうけられ、図書館としょかん館内かんない出庫しゅっこ指示しじされた資料しりょうせたコンテナは、クレーンとうによってこれらのステーションにはこばれる。図書館としょかんいんがコンテナから出庫しゅっこ要求ようきゅうされた資料しりょうし、利用りようしゃはカウンターで図書館としょかんいんから目的もくてき資料しりょうることとなる。コンテナをすスタッカークレーンは13だい垂直すいちょく搬送はんそうは3だいそなえられている[3][65]
現在げんざいでは製本せいほん雑誌ざっし利用りよう頻度ひんどすくない開架かいか図書としょ状態じょうたい書庫しょこ図書としょ学位がくい論文ろんぶんおさめられる運用うんようとなっている。300まんさつという収容しゅうよう冊数さっすう計画けいかくは、人文じんぶん社会しゃかいけい資料しりょう今後こんご30年間ねんかん増加ぞうか対応たいおうしたものとなっている[3]

歴代れきだい館長かんちょう一覧いちらん

[編集へんしゅう]

歴代れきだい東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんちょうについてのひょうである[注釈ちゅうしゃく 4]

氏名しめい 就任しゅうにん年月日ねんがっぴ 退任たいにん年月日ねんがっぴ 所属しょぞく 備考びこう
末岡すえおか精一せいいち 1881ねん明治めいじ14ねん)8がつ5にち 文学部ぶんがくぶじゅん講師こうし 図書としょ取締とりしまり
田中たなか稲城いなぎ 1882ねん明治めいじ15ねん)3がつ4にち 1882ねん明治めいじ15ねん)7がつ22にち 文学部ぶんがくぶじゅん講師こうし 図書としょ取締とりしまり
谷田部やたべ梅吉うめきち 1882ねん明治めいじ15ねん)7がつ22にち 1883ねん明治めいじ16ねん)12月11にち 理学りがく 図書としょ取締とりしまり
松井まつい直吉なおきち 1883ねん明治めいじ16ねん)12月13にち 1885ねん(明治めいじ18ねん)11月 理学部りがくぶ教授きょうじゅ 図書としょ監督かんとく
木下きのした廣次ひろつぐ 1886ねん明治めいじ19ねん)3がつ9にち 1889ねん明治めいじ22ねん)10がつ23にち 法科ほうか大学だいがく教授きょうじゅ 当初とうしょ図書館としょかん管理かんり心得こころえ
1886ねん明治めいじ19ねん)3がつ19にちから図書館としょかん管理かんり
宮崎みやざきどう三郎さぶろう 1889ねん明治めいじ22ねん)10がつ23にち 1890ねん明治めいじ23ねん)3がつ24にち 法科ほうか大学だいがく教授きょうじゅ 図書館としょかん管理かんり
田中たなか稲城いなぎ 1890ねん明治めいじ23ねん)3がつ24にち 1893ねん明治めいじ26ねん)9がつ6にち 文科ぶんか大学だいがく教授きょうじゅ 図書館としょかん管理かんり
和田わだ萬吉まんきち 1893ねん明治めいじ26ねん)11月7にち 1923ねん大正たいしょう12ねん)11月29にち 当初とうしょ文科ぶんか大学だいがく助教授じょきょうじゅ
1918ねん大正たいしょう7ねん)からどう教授きょうじゅ
当初とうしょ図書館としょかん管理かんり心得こころえ
1896ねん明治めいじ19ねん)7がつ27にちから図書館としょかん管理かんり
1897ねん明治めいじ30ねん)6がつ28にちから附属ふぞく図書館としょかんちょう
姉崎あねざき正治しょうじ 1923ねん大正たいしょう12ねん)11月29にち 1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ30にち 文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ 附属ふぞく図書館としょかんちょう以下いかおなじ)
高柳たかやなぎ賢三けんぞう 1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ31にち 1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ14にち 法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ
市河いちかわ三喜さんき 1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ15にち 1946ねん昭和しょうわ21ねん)10がつ4にち 文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ
高木たかぎはちしゃく 1946ねん昭和しょうわ21ねん)10がつ5にち 1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ30にち 法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ
高木たかぎ貞二ていじ 1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ31にち 1953ねん昭和しょうわ28ねん)4がつ9にち 文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ
末延すえのぶさん 1953ねん昭和しょうわ28ねん)4がつ10日とおか 1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ31にち 法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ
岸本きしもと英夫ひでお 1960ねん昭和しょうわ35ねん)4がつ1にち 1964ねん昭和しょうわ39ねん)1がつ25にち 文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ
伊藤いとうよんじゅう 1964ねん昭和しょうわ39ねん)1がつ26にち 1969ねん昭和しょうわ44ねん)3がつ31にち 薬学部やくがくぶ教授きょうじゅ
松田まつだ智雄ともお 1969ねん昭和しょうわ44ねん)4がつ1にち 1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ31にち 経済学部けいざいがくぶ教授きょうじゅ
今井いまいいさお 1972ねん昭和しょうわ47ねん)4がつ1にち 1975ねん昭和しょうわ50ねん)3がつ31にち 文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ
安藤あんどう良雄よしお 1975ねん昭和しょうわ50ねん)4がつ1にち 1978ねん昭和しょうわ53ねん)3がつ31にち 経済学部けいざいがくぶ教授きょうじゅ
藤原ふじわら鎮男しずお 1978ねん昭和しょうわ53ねん)4がつ1にち 1981ねん昭和しょうわ56ねん)3がつ31にち 理学部りがくぶ教授きょうじゅ
うらでん武夫たけお 1981ねん昭和しょうわ56ねん)4がつ1にち 1985ねん昭和しょうわ60ねん)3がつ31にち 教育きょういく学部がくぶ教授きょうじゅ
山崎やまざきひろしろう 1985ねん昭和しょうわ60ねん)4がつ1にち 1988ねん昭和しょうわ63ねん)3がつ31にち 工学部こうがくぶ教授きょうじゅ
黒田くろだ晴雄はるお 1988ねん昭和しょうわ63ねん)4がつ1にち 1991ねん平成へいせい3ねん)3がつ31にち 理学部りがくぶ教授きょうじゅ
清水しみず忠雄ただお 1991ねん平成へいせい3ねん)4がつ1にち 1994ねん平成へいせい6ねん)3がつ31にち 理学部りがくぶ教授きょうじゅ
開原かいはら成允しげこと 1994ねん平成へいせい6ねん)4がつ1にち 1996ねん平成へいせい8ねん)3がつ31にち 医学部いがくぶ教授きょうじゅ
ろくほんひらた 1996ねん平成へいせい8ねん)4がつ1にち 1999ねん平成へいせい11ねん)3がつ31にち 大学院だいがくいん法学ほうがく政治せいじがく研究けんきゅう教授きょうじゅ
落合おちあいたく四郎しろう 1999ねん平成へいせい11ねん)4がつ1にち 2002ねん平成へいせい14ねん)3がつ31にち 大学院だいがくいん数理すうり科学かがく研究けんきゅう教授きょうじゅ
こうわたり清吾せいご 2002ねん平成へいせい14ねん)4がつ1にち 2003ねん平成へいせい15ねん)3がつ31にち ふく学長がくちょう社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅ
小宮山こみやまひろし 2003ねん平成へいせい15ねん)4がつ1にち 2005ねん平成へいせい17ねん)3がつ31にち 理事りじふく学長がくちょう)、大学院だいがくいん工学こうがくけい研究けんきゅう教授きょうじゅ
西郷さいごう和彦かずひこ 2005ねん平成へいせい17ねん)4がつ1にち 2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ31にち 大学院だいがくいん工学こうがくけい研究けんきゅう教授きょうじゅ
古田ふるた元夫もとお 2009ねん平成へいせい21ねん)4がつ1にち 2015ねん平成へいせい27ねん)3がつ31にち 大学院だいがくいん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう教授きょうじゅ
久留島くるしま典子のりこ 2015ねん平成へいせい27ねん)4がつ1にち 2018ねん平成へいせい30ねん)3がつ31にち 史料しりょう編纂へんさんしょ教授きょうじゅ
熊野くまのじゅん 2018ねん平成へいせい30ねん)4がつ1にち 2021ねんれい3ねん)3がつ31にち 大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう教授きょうじゅ
坂井さかい修一しゅういち 2021ねんれい3ねん)4がつ1にち 現職げんしょく 大学院だいがくいん情報じょうほう理工りこうがくけい研究けんきゅう教授きょうじゅ

蔵書ぞうしょ

[編集へんしゅう]

現在げんざいでは、オンラインやCD-ROMなどによる電子でんし出版しゅっぱん対応たいおうするため、ネットワークをかいした学内がくないへの情報じょうほう提供ていきょうサービスもおこなっている。学外がくがいけては、ホームページからさまざまな情報じょうほう発信はっしんしている。また、展示てんじかい開催かいさいするなど、総合そうごう図書館としょかんゆたかなコンテンツを一般いっぱん公開こうかいしている。

紀州きしゅう徳川とくがわより寄贈きぞうされた「みなみまもる文庫ぶんこ」をはじめ、「あおしゅう文庫ぶんこ」、「鷗外文庫ぶんこ」、「田中たなか文庫ぶんこ」、「亀井かめい文庫ぶんこひとしおおくのコレクションがある。これらのうち、江戸えど時代じだい文学ぶんがくしょのコレクション「霞亭かてい(かてい)文庫ぶんこ」や、明治めいじ大正たいしょう文豪ぶんごうもり鷗外のきゅう蔵書ぞうしょのうち鷗外自筆じひつ写本しゃほんしょにゅうほんなどを掲載けいさいした「鷗外文庫ぶんこしょいれほん画像がぞうデータベース」は電子でんししてホームページじょう公開こうかいしている。

分類ぶんるい

[編集へんしゅう]

1928ねんあらたな図書館としょかん開館かいかんするにあたって、蔵書ぞうしょ整理せいりには独自どくじいちかん分類ぶんるいほう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん図書としょ分類ぶんるいひょう[160]、のちに東京とうきょう大学だいがく総合そうごう図書館としょかん和漢わかんしょ分類ぶんるいひょう[97])が使用しようされた。この分類ぶんるいほうは、アルファベットの大綱たいこうと3けた数字すうじ細目さいもくによって分類ぶんるいあらわされるものである。『東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん利用りようしゃ案内あんない[130]掲載けいさいされたところによれば、大綱たいこう以下いかとおりである。

  • A 総記そうき
  • B 哲学てつがく
  • C 宗教しゅうきょう 神道しんとう
  • D 語学ごがく
  • E 文学ぶんがく
  • F 芸術げいじゅつ
  • G 歴史れきし
  • H 伝記でんき
  • J 地理ちり
  • K 教育きょういく
  • L 法律ほうりつ
  • M 政治せいじ 行政ぎょうせい
  • N 経済けいざい
  • P 商業しょうぎょう
  • Q 財政ざいせい
  • R 統計とうけい
  • S 社会しゃかい
  • T 理学りがく
  • U 工学こうがく
  • V 医学いがく
  • W 兵事へいじ
  • XA 農業のうぎょう
  • XB ざつ産業さんぎょう
  • YA 家政かせい
  • YB しょげい 遊戯ゆうぎ

これらのアルファベットと数字すうじあらわされる分類ぶんるいくわえ、受入うけいれじゅんはこ記号きごうすることで図書としょ記号きごうけていた[97]

この独自どくじ分類ぶんるいはおよそ70年間ねんかんにわたって蔵書ぞうしょ大半たいはん適用てきようされてきたが、長年ながねん利用りようにあたって問題もんだいてん顕在けんざいしてきた。最大さいだい問題もんだいてん考案こうあんからときつにつれて、昭和しょうわ初期しょき分類ぶんるいひょうでは最新さいしん研究けんきゅう分野ぶんや対応たいおうすることがむずかしくなったことである。さらにかく分類ぶんるいした受入うけいれじゅんならべられることから、どういち著者ちょしゃ図書としょはなれてはいされるという問題もんだいもあった。これらのてん対応たいおうするため、総合そうごう図書館としょかんでは2001ねん分類ぶんるい基準きじゅん変更へんこう着手ちゃくしゅした。よう図書としょは4がつまでに分類ぶんるい変更へんこう作業さぎょう[94]かず図書としょ新着しんちゃく図書としょから順次じゅんじしん分類ぶんるい使用しようし、2002年度ねんどまでに開架かいかぜん対象たいしょう図書としょ分類ぶんるい変更へんこう完了かんりょうした[95][97]。このさい採用さいようされた分類ぶんるいほうは、よう図書としょにはデューイじゅうしん分類ぶんるいほうかず図書としょには日本にっぽんじゅうしん分類ぶんるいほうで、いずれも一般いっぱん分類ぶんるいひょうとしてひろ通用つうようしているものである。また、かく分類ぶんるい記号きごうした著者ちょしゃ記号きごうでさらに順序じゅんじょ規定きていされることにより、どういち主題しゅだいどういち著者ちょしゃによる著作ちょさく隣接りんせつしてはいされるようになり、ブラウジングによる探索たんさくがしやすくなった。これらの分類ぶんるいほう教養きょうよう学部がくぶ図書館としょかん先行せんこうして採用さいようされていたことから、教養きょうよう学部がくぶから進学しんがくしてきた学生がくせいにとって使つかいやすいという利点りてんもあった[97]一方いっぽう書庫しょこない蔵書ぞうしょ分類ぶんるいについては変更へんこうされず、独自どくじ分類ぶんるいをそのまま使つかつづけることとなった。

現在げんざいでは、開架かいか図書としょ日本にっぽんじゅうしん分類ぶんるいほう開架かいかよう図書としょがデューイじゅうしん分類ぶんるいほう保存ほぞん書庫しょこ資料しりょう東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん和漢わかんしょ分類ぶんるいひょうによって分類ぶんるいされているほか、自動じどう書庫しょこ分類ぶんるいによってはい位置いち規定きていされない(分類ぶんるい書誌しょし分類ぶんるいとしてのみ使用しようされる)ため、これらの分類ぶんるいほう混用こんようされている。ほか、よん分類ぶんるい適用てきようされる漢籍かんせきなど、一部いちぶ特殊とくしゅ分類ぶんるいほう使用しようされる蔵書ぞうしょぐんがある。

利用りよう

[編集へんしゅう]

開館かいかん日程にってい時間じかん

[編集へんしゅう]

休館きゅうかん不定期ふていき

8, 3月以外いがい

つきからかね 8:30-22:30 にち祝日しゅくじつ 9:00-19:00

8, 3がつ

つきからかね 8:30-21:00 にち祝日しゅくじつ 9:00-17:00

交通こうつう機関きかん

[編集へんしゅう]

最寄駅もよりえき

都営とえいバス

  • 東大とうだい赤門あかもんまえまたは東大とうだい正門せいもんまえちゃ51・ひがし43系統けいとう下車げしゃ 徒歩とほ3ふん
  • 東大とうだい病院びょういんまえがく01・がく07系統けいとう下車げしゃ 徒歩とほ5ふん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 常勤じょうきんには職域しょくいき時間じかん限定げんてい職員しょくいんふくむ。
  2. ^ 本郷ほんごうキャンパスの総合そうごう図書館としょかん駒場こまばキャンパスの駒場こまば図書館としょかん大学院だいがくいん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう図書館としょかん機能きのうあわつ)、かしわキャンパスのかしわ図書館としょかんの3 つの拠点きょてん図書館としょかんのことである。
  3. ^ 1)法学部ほうがくぶ研究けんきゅうしつ図書としょしつ、2)大学院だいがくいん法学ほうがく政治せいじがく研究けんきゅう附属ふぞく近代きんだい日本にっぽん法政ほうせい史料しりょうセンター(明治めいじ新聞しんぶん雑誌ざっし文庫ぶんこ)、3)医学いがく図書館としょかん、4)工学こうがく情報じょうほう理工りこうがく図書館としょかん、5)大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう文学部ぶんがくぶ図書としょしつ、6)理学りがく図書館としょかん、7)農学のうがく生命せいめい科学かがく図書館としょかん、8)経済けいざいがく図書館としょかん、9)大学院だいがくいん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう図書館としょかん、10)大学院だいがくいん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう自然しぜん科学かがく図書としょしつ、11)大学院だいがくいん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう附属ふぞくグローバル地域ちいき研究けんきゅう機構きこうアメリカ太平洋たいへいよう地域ちいき研究けんきゅうセンター図書としょしつ、12)大学院だいがくいん教育きょういくがく研究けんきゅう教育きょういく学部がくぶ図書としょしつ、13)薬学やくがく図書館としょかん、14)大学院だいがくいん数理すうり科学かがく研究けんきゅう図書としょしつ、15)大学院だいがくいん情報じょうほうがくたまき学際がくさい情報じょうほう学府がくふ図書としょしつ、16)大学院だいがくいん情報じょうほうがくたまき附属ふぞく社会しゃかい情報じょうほう研究けんきゅう資料しりょうセンター、17)医科いかがく研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、18)地震じしん研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、19)東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、20)社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、21)生産せいさん技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、22)史料しりょう編纂へんさんしょ図書としょしつ、23)宇宙うちゅうせん研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、24)物性ぶっせい研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、25)大気たいき海洋かいよう研究所けんきゅうじょ図書としょしつ、26)先端せんたん科学かがく技術ぎじゅつ研究けんきゅうセンター図書としょしつ、27)総合そうごう研究けんきゅう博物館はくぶつかん図書としょしつの27かしょ部局ぶきょく図書館としょかんのことである。
  4. ^ 組織そしきとして、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんした総合そうごう図書館としょかん位置いちすることになるが、実際じっさいには、附属ふぞく図書館としょかんちょう総合そうごう図書館としょかんちょうねている。職制しょくせいにおいて、附属ふぞく図書館としょかんちょうしたに、駒場こまば図書館としょかんちょうかしわ図書館としょかんちょうならんで附属ふぞく図書館としょかんふく館長かんちょう配置はいちされている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d “8. ぜん図書館としょかんしつ統計とうけい (PDF). れい3年度ねんど 附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ. 東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん. (2022ねん7がつ20日はつか). pp. 26-27. オリジナルの2022ねん8がつ13にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12315533/www.lib.u-tokyo.ac.jp/sites/default/files/2022-07/annualreport_2021.pdf 
  2. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん概要がいよう 2020/2021』2020ねん
  3. ^ a b c d e f g h はらかおり寿子ひさこ守屋もりやぶん東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん別館べっかん」『大学だいがく図書館としょかん研究けんきゅう』(110)、2018ねん
  4. ^ 書籍しょせき器械きかいとう」『東京とうきょう開成かいせい学校がっこう一覧いちらん. 明治めいじ8ねん2がつ』1875ねん、32-34ちょう
  5. ^ 東京とうきょう開成かいせい学校がっこう一覧いちらん. 明治めいじきゅうねん』1876ねん、24ちょう
  6. ^ 東京大学とうきょうだいがく法理ほうりぶんさん学部がくぶ年報ねんぽう. だい5年報ねんぽう』1878ねん、6ぺーじ
  7. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん 1987, pp. 1188–1196「だいしょう 東京大学とうきょうだいがく創設そうせつから本郷ほんごう集結しゅうけつまで」
  8. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん 1987, pp. 1197–1200「だいさんしょう 本郷ほんごう集結しゅうけつから関東大震災かんとうだいしんさいまで だいいちせつ 規則きそく職制しょくせい
  9. ^ だいじゅうはちしょう 帝國ていこく大學だいがく圖書館としょかん」『東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく一覽いちらん. 明治めいじ27-28ねん』1912ねん、275-284ぺーじ
  10. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん 1987, pp. 1205–1207「だいさんしょう 本郷ほんごう集結しゅうけつから関東大震災かんとうだいしんさいまで だいさんせつ 建物たてもの
  11. ^ 東京大学とうきょうだいがく本部ほんぶ設計せっけい「アカデミックコモンズ(仮称かしょうしん工事こうじちゅうにおけるきゅう図書館としょかんかんする発見はっけんについて(附属ふぞく図書館としょかん)」
  12. ^ 中央ちゅうおう防災ぼうさい会議かいぎ災害さいがい教訓きょうくん継承けいしょうかんする専門せんもん調査ちょうさかい「1923関東大震災かんとうだいしんさい報告ほうこくしょだい1へん―」2006ねん、111ぺーじ
  13. ^ a b c d 男澤おざわあつし図書館としょかん復興ふっこう姉崎あねざき館長かんちょう」『図書館としょかん再建さいけん50ねん東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん、1978ねん、24-28ぺーじ
  14. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくじゅうねんしもさつ、1932ねん、1116ぺーじ
  15. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかい東京大学とうきょうだいがくひゃくねん 通史つうし』(PDF)東京大学とうきょうだいがく、1985ねん3がつ、385ぺーじISBN 4130010522https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/53865/files/02_hyakunenshi_tsushi02.pdf#page=4592021ねん6がつ14にち閲覧えつらん。「とりわけ創立そうりつ以来いらい集積しゅうせきされて書籍しょせきななまんさつが、図書館としょかん全焼ぜんしょうによってうしなわれたこと打撃だげききわめておおきいものであった。」 
  16. ^ a b ざい由直よしなお復興ふっこう經過けいか報告ほうこく」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にち、2めん
  17. ^ 植松うえまつやすししたものはさん日間にちかんずのばん」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にち、5めん
  18. ^ 西村にしむら貞雄さだお関東大震災かんとうだいしんさい附属ふぞく図書館としょかん」『図書館としょかんまど』16(4,5)、1977ねん、37-39ぺーじ
  19. ^ その参考さんこうすべきものとして、大野おおのさとし関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつしたしゅう書類しょるい」(東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん月報げっぽう図書館としょかんまど』Vol.16, no.2 1977.2 pp19-20)がげられる。https://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000248149-00
  20. ^ 東京とうきょう大学だいがくひゃくねん部局ぶきょくよん、1212ぺーじ
  21. ^ 森田もりた義雄よしお「"閲覧えつらんしつ模様もよう"」『図書館としょかんまど』16(4,5)、1977ねん、43-46ぺーじ
  22. ^ a b c d e f g 安藤あんどう良雄よしお東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかんあゆんだみち再建さいけんの50ねんりゃく―」『図書館としょかん再建さいけん50ねん東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん、1978ねん、7-16ぺーじ
  23. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう東京大学とうきょうだいがく接収せっしゅうまぬかれた経緯けいいについて」『学士がくしかい会報かいほう』(660)、1955ねん
  24. ^ 青野あおの山梨やまなしほん疎開そかい」『図書館としょかんまど』16(4,5)、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1977ねん、58-60ぺーじ
  25. ^ 渋川しぶかわ驍「戦時せんじ図書館としょかん」『図書館としょかんまど』16(4,5)、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1977ねん、60-63ぺーじ
  26. ^ a b 柳生やぎゅう四郎しろう戦後せんご図書館としょかん」『図書館としょかんまど』16(4,5)、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1977ねん、68-70ぺーじ
  27. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかいへん東京とうきょう大学だいがくひゃくねん通史つうし東京大学とうきょうだいがく、846ぺーじ
  28. ^ 藤井ふじいめぐみかい東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパスの歴史れきし建築けんちく
  29. ^ 尾崎おざきしん戦後せんご高度こうど成長せいちょうのキャンパス開発かいはつ」『東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパス 140ねん歴史れきしをたどる』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2018ねん、130-131ぺーじ
  30. ^ 中西なかにしひろし「「ウォーナー・リスト」は図書館としょかん空襲くうしゅうからまもったか」『学苑がくえん文化ぶんか創造そうぞう学科がっか紀要きよう』(841)、2010ねん、49-68ぺーじ
    とう論文ろんぶんではウォーナー・リストを爆撃ばくげき回避かいひのリストとして做すことには否定ひていてきであるが、本郷ほんごうキャンパスにかんしては例外れいがいてきに「東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく周辺しゅうへんかれたなかでほぼ無傷むきずのこった。なんらかの意思いしはたらいたとのせつにはそれなりに説得せっとくりょくがあり、完全かんぜん否定ひていしがたい部分ぶぶんのこる」(p.65)ともべる。
  31. ^ a b 鞆谷純一じゅんいつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん略奪りゃくだつ図書としょ中華民国ちゅうかみんこくしんみんかい所管しょかん資料しりょう搬入はんにゅう返還へんかん―」『図書館としょかんかい』60(1)、日本にっぽん図書館としょかん研究けんきゅうかい、2008ねん、2-12ぺーじ
  32. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう東京大学とうきょうだいがく接収せっしゅうまぬかれた経緯けいいについて()」『学士がくしかい会報かいほう』(661)、1955ねん
  33. ^ 男沢おざわあつし敗戦はいせん前後ぜんこう東大とうだい図書館としょかんにいて」『図書館としょかん雑誌ざっし』59(8)、日本にっぽん図書館としょかん協会きょうかい、1965ねん、286-289ぺーじ
  34. ^ a b 男沢おざわあつし終戦しゅうせんころおも」『図書館としょかんまど』 16(4,5)、1977ねん5がつ、73-75ぺーじ
  35. ^ a b 岸本きしもと英夫ひでお東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん改善かいぜん記念きねん式典しきてんにあたつて(式辞しきじ)」『大学だいがく図書館としょかん近代きんだいをめざして:東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん改善かいぜん記念きねん論集ろんしゅうだい2しゅう東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1964ねん、49-56ぺーじ
  36. ^ 黒住くろずみたけし臨時りんじ調査ちょうさしつのこと」『図書館としょかんまど』10(10,11)、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1971ねん、105-106ぺーじ
  37. ^ a b 岸本きしもと英夫ひでお東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん改善かいぜん計画けいかく趣意しゅいとその経過けいか』、1963ねん
  38. ^ a b c d e f g h i j 岸本きしもと英夫ひでお 「東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん近代きんだいのめざすもの〈その計画けいかく経過けいか〉」『図書館としょかん雑誌ざっし』 57(2)、日本にっぽん図書館としょかん協会きょうかい、1963ねん、48-55ぺーじ
  39. ^ 岸本きしもと英夫ひでお附属ふぞく図書館としょかんちょうく」『図書館としょかんまど』3(2) 1964ねん2がつ、10ぺーじ
  40. ^ 破壊はかい建設けんせつ岸本きしもと館長かんちょうの4年間ねんかん」『図書館としょかんまど』3(3)、1964ねん3がつ、16-20ぺーじ
  41. ^ 「さようなら岸本きしもと館長かんちょう」『図書館としょかんまど』3(3)、1964ねん3がつ、14ぺーじ
  42. ^ 山本やまもと義隆よしたかへん東大とうだい闘争とうそう資料集しりょうしゅう』no.7、1992ねん
  43. ^ 図書館としょかんまど』7(12)、1968ねん、94ぺーじ
  44. ^ a b c 颯田大通だいつう図書館としょかん封鎖ふうさ前後ぜんこうのこと」『図書館としょかん再建さいけん50ねん』、東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん、1978ねん、20-21ぺーじ
  45. ^ 伊藤いとうよんじゅう総合そうごう図書館としょかん利用りようしゃ各位かくいへ」『図書館としょかんまど』8(1)、1969ねん、1-3ぺーじ
  46. ^ 「11にち 本郷ほんごう一気いっき封鎖ふうさ解除かいじょ 安田やすだ講堂こうどうなどきゅうむねのこる」『東京大学とうきょうだいがく新聞しんぶん』1969ねん1がつ13にち、1めん
  47. ^ 総合そうごう図書館としょかん運営うんえい委員いいんかいだい24かい昭和しょうわ44ねん1がつ24にちかね総合そうごう図書館としょかん地階ちかい だい25かい昭和しょうわ44ねん2がつ1にち総合そうごう図書館としょかんちょう応接おうせつしつ」『図書館としょかんまど』8(3)、1969ねん、25-26ぺーじ
  48. ^ a b 伊藤いとうよんじゅう総合そうごう図書館としょかん開館かいかんのおらせ」『図書館としょかんまど』8(2)、1969ねん2がつ、11-12ぺーじ
  49. ^ 伊藤いとうよんじゅう附属ふぞく図書館としょかんちょうしょくするにあたって」『図書館としょかんまど』8(3)、1969ねん、15-18ぺーじ
  50. ^ a b c d e f g h i j k 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん1987.11:改修かいしゅう記念きねん』1987ねん
  51. ^ a b c d e うらでん武夫たけお東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん改善かいぜん計画けいかく試案しあん修正しゅうせい補足ほそく東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん、1983ねん
  52. ^ a b うらでん武夫たけおよん年間ねんかんつとめをえて」『図書館としょかんまど』24(4)、1985ねん4がつ、41-43ぺーじ
  53. ^ やま﨑弘ろう就任しゅうにんたって」『図書館としょかんまど』24(5)、1985ねん5がつ、55-56ぺーじ
  54. ^ 総合そうごう図書館としょかん改修かいしゅう工事こうじ開始かいしについて」『図書館としょかんまど』25(10)、1986ねん10がつ、103ぺーじ
  55. ^ 総合そうごう図書館としょかん改修かいしゅう工事こうじ日程にってい予定よてい)」『図書館としょかんまど』25(11)、1986ねん11月、108ぺーじ
  56. ^ a b 図書館としょかん中央ちゅうおうシステムのコンピュータ(紹介しょうかい)」『図書館としょかんまど』25(4)、1986ねん4がつ、43ぺーじ
  57. ^ a b 閲覧えつらん業務ぎょうむ電算でんさんについて」『図書館としょかんまど』25(6)、1986ねん6がつ、73ぺーじ
  58. ^ a b 「OPAC(利用りようしゃようオンライン目録もくろく検索けんさくサービスの開始かいしについて(案内あんない)」『図書館としょかんまど』25(7)、1986ねん7がつ、79ぺーじ
  59. ^ a b 総合そうごう図書館としょかん改修かいしゅう工事こうじ完了かんりょう」『図書館としょかんまど』26(4)、1987ねん4がつ、37ぺーじ
  60. ^ a b c 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん 別館べっかん」『しん建築けんちく』43(14)、新建築社しんけんちくしゃ、76-85ぺーじ
  61. ^ 「4. 本郷ほんごう146・168 アカデミックコモンズ (HAC13)」『東京大学とうきょうだいがく構内こうない遺跡いせき調査ちょうさ研究けんきゅう年報ねんぽう10 2013・2014年度ねんど東京大学とうきょうだいがく埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさしつ、2017ねん、98-109ぺーじ
  62. ^ a b c 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい29年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  63. ^ a b c d e 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい30年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  64. ^ a b c 総合そうごう図書館としょかん改修かいしゅう工事こうじ完了かんりょう あらたにグループ作業さぎょうよう個室こしつなどオープン;東大とうだい新聞しんぶんオンライン」 東京大学とうきょうだいがく新聞しんぶんしゃ、2020ねん12月18にち
  65. ^ a b c 図書館としょかんまど 増刊ぞうかん New Library Project』 東京とうきょう大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんしん図書館としょかん計画けいかく推進すいしんしつ、2016ねん
  66. ^ a b 木下きのした直之なおゆき大学だいがく戦争せんそう」『東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパス案内あんない東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん、118-121ぺーじ
  67. ^ しん閲覧えつらんしつひらけしつ」『図書館としょかんまど』 2(5)、1963ねん5がつ、24ぺーじ
  68. ^ 昭和しょうわ37年度ねんど改装かいそう工事こうじおわる」『図書館としょかんまど』 2(6)、1963ねん6がつ、30ぺーじ
  69. ^ 教官きょうかんよう閲覧えつらん個室こしつせきしつ使用しよう開始かいし」『図書館としょかんまど』 3(2)、1964ねん2がつ、8-9ぺーじ
  70. ^ 文献ぶんけん複写ふくしゃサービスの改善かいぜんはかる:総合そうごう図書館としょかん複写ふくしゃセンター設置せっち」『図書館としょかんまど』 4(4)、1965ねん4がつ、27ぺーじ
  71. ^ 「ビュッフェひらく」『図書館としょかんまど』4(6)、1965ねん6がつ、49ぺーじ
  72. ^ a b 学内がくない図書館としょかんめぐり<総合そうごう図書館としょかん国連こくれん資料しりょうしつ」『図書館としょかんまど』7(1)、1968ねん1がつ、6ぺーじ
  73. ^ 「マイクロカードリーダーをそなける<総合そうごう図書館としょかん参考さんこうしつ>」『図書館としょかんまど』7(10)、1968ねん10がつ、69ぺーじ
  74. ^ 新装しんそうなる総合そうごう図書館としょかん」『図書館としょかんまど』8(5)、1969ねん5がつ、37ぺーじ
  75. ^ だい講堂こうどう一部いちぶ保存ほぞん書庫しょこ利用りようまる」『図書館としょかんまど』9(8)、1970ねん8がつ、96ぺーじ
  76. ^ だい講堂こうどう利用りよう保存ほぞん図書館としょかん問題もんだいについて」『図書館としょかんまど』9(3)、1970ねん3がつ、25-31ぺーじ
  77. ^ 総合そうごう図書館としょかんオーディオ・ルーム利用りよう暫定ざんてい)のご案内あんない」『図書館としょかんまど』9(10)、1970ねん10がつ、130ぺーじ
  78. ^ 「オーディオ・ルームの試聴しちょう開始かいし」『図書館としょかんまど』7(12)、1968ねん12月、91ぺーじ
  79. ^ 総合そうごう図書館としょかん書誌しょし目録もくろくかけ図書館としょかんがく資料しりょうしつ移転いてんさいして」『図書館としょかんまど』12(9)、1973ねん9がつ、82-83ぺーじ
  80. ^ 図書館としょかん再建さいけん50ねん記念きねん式典しきてんぎょうわる」『図書館としょかんまど』18(2)、1979ねん2がつ、17ぺーじ
  81. ^ 雑誌ざっし閲覧えつらんしつ改装かいそうさる<総合そうごう図書館としょかん>」『図書館としょかんまど』19(5)、1980ねん5がつ、51ぺーじ
  82. ^ a b 「エドマンド・ブランデンのレリーフ寄贈きぞうされる」『図書館としょかんまど』 20(3)、1981ねん3がつ、26ぺーじ
  83. ^ 総合そうごう図書館としょかん工事こうじ期間きかんちゅう臨時りんじ措置そち」『図書館としょかんまど』23(3)、1984ねん3がつ、21ぺーじ
  84. ^ 総合そうごう図書館としょかんだい1改修かいしゅう工事こうじ完了かんりょう」『図書館としょかんまど』23(9)、1984ねん9がつ、87ぺーじ
  85. ^ 総合そうごう図書館としょかん教養きょうよう学部がくぶ図書館としょかんをファクシミリで連結れんけつ」『図書館としょかんまど』23(12)、1984ねん12月、129ぺーじ
  86. ^ 「ロゼッタせき実物じつぶつだい模型もけい設置せっち」『図書館としょかんまど』24(1)、1985ねん1がつ、3ぺーじ
  87. ^ 総合そうごう図書館としょかん参考さんこうしつ改編かいへんについて」『図書館としょかんまど』24(5)、1985ねん5がつ、58ぺーじ
  88. ^ 附属ふぞく図書館としょかん業務ぎょうむ電算でんさんシステム披露ひろうかい」『図書館としょかんまど』25(8,9)、1986ねん9がつ、87ぺーじ
  89. ^ 図書館としょかんサービスの概略がいりゃく年表ねんぴょう昭和しょうわ28〜平成へいせい5ねん)」『東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん報告ほうこく―ひろがりとつながり―』東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん、9ぺーじ
  90. ^ a b 総合そうごう図書館としょかん2かいに『メディアプラザ』を新設しんせつ!」『図書館としょかんまど』35(2,3)、1996ねん6がつ、32ぺーじ
  91. ^ 本郷ほんごう-駒場こまばキャンパスあいだ図書館としょかん資料しりょう配送はいそうサービスの試行しこうについて」『図書館としょかんまど』35(6)、1996ねん12月、89ぺーじ
  92. ^ 「②総合そうごう図書館としょかんで「常設じょうせつ展示てんじJを開始かいししました」『図書館としょかんまど』36(4)、1997ねん、103ぺーじ
  93. ^ 総合そうごう図書館としょかん 総合そうごう図書館としょかん利用りようしゃサービスカウンターを統合とうごう」『図書館としょかんまど』39(5)、2000ねん10がつ、74ぺーじ
  94. ^ a b 総合そうごう図書館としょかん洋書ようしょ分類ぶんるい変更へんこうについて」『図書館としょかんまど』 40(2)、2001ねん4がつ、38ぺーじ
  95. ^ a b 開架かいか図書としょ参考さんこう図書としょ分類ぶんるい変更へんこうについて」『図書館としょかんまど』40(6)、2001ねん12月、94ぺーじ
  96. ^ 図書としょ自動じどう貸出かしだしがスタート」『図書館としょかんまど』41(2)、2002ねん、38ぺーじ
  97. ^ a b c d e 総合そうごう図書館としょかん開架かいか図書としょ分類ぶんるいについて」『図書館としょかんまど』 41(3)、2002ねん6がつ、59ぺーじ
  98. ^ 附属ふぞく図書館としょかん基本きほん規則きそく改正かいせいについて」『図書館としょかんまど』43(3)、2004ねん6がつ、57ぺーじ
  99. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい17年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  100. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい20年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  101. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい21年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  102. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい22年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  103. ^ 「Q おしえて図書館としょかん! クスノキはどこへ?」『図書館としょかんまど増刊ぞうかん、2016ねん3がつ、20ぺーじ
  104. ^ a b 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい25年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  105. ^ a b c d 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい26年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  106. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい27年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  107. ^ 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん平成へいせい28年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  108. ^ 総合そうごう図書館としょかん利用りよう制限せいげん反対はんたいする学生がくせい有志ゆうし文科ぶんかしょう会見かいけん段階だんかいてき工事こうじを」;東大とうだい新聞しんぶんオンライン」東京大学とうきょうだいがく新聞しんぶんしゃ、2016ねん12月11にち
  109. ^ a b 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかんれいもと年度ねんど附属ふぞく図書館としょかん活動かつどう報告ほうこくしょ
  110. ^ a b c d 内田うちだ祥三しょうぞう談話だんわ速記そっきろく」(さん)」『東京大学とうきょうだいがく紀要きようだい21かん東京とうきょう大学だいがく史料しりょうしつ、2003ねん3がつ、57-91ぺーじhdl:2261/0002001277ISSN 03867684CRID 1050855522046573696 
  111. ^ ミュージアムは当初とうしょ構想こうそうよりも規模きぼ縮小しゅくしょうされ、工学部こうがくぶれつひんかんとして実現じつげんした。予算よさん計画けいかくよりもやす完成かんせいした工学部こうがくぶ2号館ごうかん建築けんちく費用ひよう予算よさんのこりが使つかわれた(内田うちだ祥三しょうぞう談話だんわ速記そっきろく」())。
  112. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう談話だんわ速記そっきろく」(なな」『東京大学とうきょうだいがく紀要きようだい25かん東京とうきょう大学だいがく史料しりょうしつ、2007ねん3がつ、41-84ぺーじhdl:2261/0002001300ISSN 03867684CRID 1050292572144927616 
  113. ^ a b 内田うちだ祥三しょうぞう談話だんわ速記そっきろく」().
  114. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん復興ふっこうじょう所載しょさい配置はいち参照さんしょう
  115. ^ a b c 木下きのした直之なおゆき書物しょもつ新聞しんぶん宝庫ほうこ」『東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパス案内あんない東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん、110-113ぺーじ
  116. ^ 藤井ふじいめぐみかい関東大震災かんとうだいしんさいとその復興ふっこう」『東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパスのひゃくねん東京大学とうきょうだいがく総合そうごう研究けんきゅう博物館はくぶつかんへん、1988ねん、94-97ぺーじ
  117. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう先生せんせい作品さくひんしゅう, p. 66.
  118. ^ 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん総合そうごう図書館としょかん文物ぶんぶつ常設じょうせつてん:2003ねん7がつ~10がつ館内かんない文物ぶんぶつ 2/4」
  119. ^ 藤尾ふじお直史なおふみ東京大学とうきょうだいがくだい講堂こうどう図書館としょかん設計せっけいをめぐって:学術がくじゅつ標本ひょうほん一般いっぱん建築けんちく物的ぶってき基盤きばん生産せいさんかんする基礎きそ研究けんきゅう」『日本にっぽん建築けんちく学会がっかい四国しこく支部しぶ研究けんきゅう報告ほうこくしゅう』2004ねん5がつ、47-48ぺーじ
  120. ^ a b c 内田うちだ祥三しょうぞう工事こうじ擔當たんとうして 内部ないぶ設備せつびほどこした苦心くしん」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』 1928ねん12月1にち、3めん
  121. ^ 工事こうじ関係かんけいしゃ」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にち、3めん
  122. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう先生せんせい作品さくひんしゅう, p. 72.
  123. ^ 帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』 昭和しょうわ3ねん12月1にちごう、1めん所載しょさい写真しゃしん参照さんしょう
  124. ^ a b c d e f 東京大学とうきょうだいがく附属ふぞく図書館としょかん総務そうむ企画きかくかけ図書館としょかん資料しりょう担当たんとう)「本館ほんかん保管ほかん設置せっちされている記念きねん品等ひんとう文物ぶんぶつ調査ちょうさについて」1981ねん
  125. ^ 東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパスのひゃくねん』44ぺーじ掲載けいさいの「附属ふぞく図書館としょかん計画けいかくあん」を参照さんしょう
  126. ^ 藤尾ふじお直史なおふみ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかんのレリーフについて:学術がくじゅつ標本ひょうほん一般いっぱん建築けんちく物的ぶってき基盤きばん生産せいさんかんする基礎きそ研究けんきゅう5」『日本にっぽん建築けんちく学会がっかい東海とうかい支部しぶ研究けんきゅう報告ほうこくしゅう』43ごう、2005ねん2がつ、737-740ぺーじ
  127. ^ 内田うちだ祥三しょうぞう先生せんせい作品さくひんしゅう, p. 71 所載しょさい図面ずめん.
  128. ^ a b c d 宏壯こうそう大理石だいりせき階段かいだん でんかざりかがや目録もくろくしつ」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にち、2めん
  129. ^ 帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にちごう、1めん所載しょさい写真しゃしん参照さんしょう
  130. ^ a b c d e f g h 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん利用りようしゃ案内あんない』1928ねん
  131. ^ 木下きのした直之なおゆき図書館としょかん戦没せんぼつしゃ追悼ついとう された戦争せんそう記憶きおく」『東京大学とうきょうだいがく本郷ほんごうキャンパス』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2018ねん、120-121ぺーじ
  132. ^ 図書館としょかんまど』6(12)、90ぺーじ
  133. ^ 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん歴史れきしかたるものたち(3かい)」
  134. ^ 総合そうごう図書館としょかん総合そうごう図書館としょかん閲覧えつらんしつ鹿しか剥製はくせいについて」『図書館としょかんまど』40(4)、62-63ぺーじ
  135. ^ 総合そうごう図書館としょかんにある文物ぶんぶつ」『図書館としょかんまど』37(5)、1998ねん、74-76ぺーじ
  136. ^ さかえあるしき次第しだい」『帝国ていこく大学だいがく新聞しんぶん』1928ねん12月1にちごう、2めん
  137. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん復興ふっこうじょう所載しょさい「(じゅう閲覽えつらんしつ陳列ちんれつしつ参照さんしょう
  138. ^ a b 総合そうごう図書館としょかんフロアマップ&利用りよう案内あんない東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん
  139. ^ 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附属ふぞく圖書館としょかん復興ふっこうじょう』に所載しょさい
  140. ^ かいしまたかし「エドモンド・ブランデンこう」『比治山大学ひじやまだいがく紀要きよう』25ごう、2018ねん、37-47ぺーじ
  141. ^ 附属ふぞく図書館としょかん改善かいぜん経過けいか覚書おぼえがき―1962.9.20―」『図書館としょかんまど』1(1)、1962ねん10がつ
  142. ^ a b 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん 改修かいしゅう工事こうじ」『しん建築けんちく』96(3)、新建築社しんけんちくしゃ、44-55ぺーじ
  143. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく営繕えいぜん工事こうじ記録きろく写真しゃしんちょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん写真しゃしんちょう だい写真しゃしん番号ばんごう84
  144. ^ 「(じゅうざつしつ」『東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附属ふぞく圖書館としょかん復興ふっこうじょう
  145. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく営繕えいぜん工事こうじ記録きろく写真しゃしんちょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん写真しゃしんちょう だい写真しゃしん番号ばんごう82
  146. ^ 「アジア研究けんきゅう図書館としょかん開館かいかん」『アジア研究けんきゅう圖書館としょかん東京大学とうきょうだいがくアジア研究けんきゅう図書館としょかんニューズレター』1、2020ねん10がつ、1ぺーじ
  147. ^ 3かいホールだい階段かいだんまわりにられるのと同様どうようのもの
  148. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく営繕えいぜん工事こうじ記録きろく写真しゃしんちょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかん写真しゃしんちょう だい写真しゃしん番号ばんごう81
  149. ^ 「ビュッフェ営業えいぎょうはじまる カレーななじゅうえん 価格かかく不満ふまんこえも」『東京大学とうきょうだいがく新聞しんぶん』1965ねん5がつ17にち、7めん
  150. ^ 視聴覚しちょうかく教育きょういくセンター」
  151. ^ 「【総合そうごう図書館としょかんあたらしくオープンしたエリアのご案内あんない
  152. ^ 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附属ふぞく圖書館としょかん復興ふっこうじょう所載しょさいの「縦斷じゅうだんめん」のかりやすい
  153. ^ しん圖書館としょかん建築けんちく」『東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附属ふぞく圖書館としょかん復興ふっこうじょう
  154. ^ 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附屬ふぞく圖書館としょかん圖書館としょかん復興ふっこう報告ほうこくだいさん』1926ねん2がつ
  155. ^ a b c 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん 新館しんかん」『しん建築けんちく』91(10)、新建築社しんけんちくしゃ、190-193ぺーじ
  156. ^ 入賞にゅうしょう東京とうきょう大学だいがく総合そうごう図書館としょかん
  157. ^ 「コア東京とうきょうWeb:東京とうきょう大学だいがく総合そうごう図書館としょかん 別館べっかん
  158. ^ 川添かわぞえ善行よしゆき中澤なかざわ公彦きみひこ東京大学とうきょうだいがく 総合そうごう図書館としょかん別館べっかん」『照明しょうめい学会がっかい』104(1)、2020ねん、25-28ぺーじ
  159. ^ a b 笠原かさはら真紀子まきこ中澤なかざわ公彦きみひこ野村のむら圭吾けいご竣工しゅんこうフラッシュ② 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかん別館べっかん」『建築けんちく設備せつび建築けんちく設備せつび技術ぎじゅつしゃ協会きょうかい、2018ねん9がつ、9-15ぺーじ
  160. ^ 東京大学とうきょうだいがくOPAC:東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附屬ふぞく圖書館としょかん圖書としょ分類ぶんるいひょう(書庫しょこない) / 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく附屬ふぞく圖書館としょかん [へん」]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]