(Translated by https://www.hiragana.jp/)
東大紛争 - Wikipedia コンテンツにスキップ

東大とうだい紛争ふんそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

東大とうだい紛争ふんそう(とうだいふんそう)は、1968ねんから1969ねんにかけてつづいた東京大学とうきょうだいがくにおける大学だいがく紛争ふんそうで、東大とうだい闘争とうそうともばれる。おも学部がくぶせい大学院生だいがくいんせい当局とうきょくあいだで、医学部いがくぶ処分しょぶん問題もんだい大学だいがく運営うんえい民主みんしゅなどの課題かだいめぐあらそわれた。

沿革えんかく

[編集へんしゅう]

1960年代ねんだい後半こうはん[注釈ちゅうしゃく 1]全国ぜんこく医学部いがくぶ学部がくぶせい研修けんしゅうによって、全学ぜんがくれん医学いがくきょうあおれんはじめたインターン制度せいど廃止はいしじくとした研修けんしゅう待遇たいぐう改善かいぜん運動うんどう台頭たいとうし、東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶはその中心ちゅうしんてき拠点きょてんこうであった[1]

1968ねん1がつ医学部いがくぶ学生がくせい大会たいかい登録とうろくせい導入どうにゅう阻止そし附属ふぞく病院びょういん研修けんしゅう内容ないよう改善かいぜんなどをかかげて、期限きげんストライキ突入とつにゅう決議けつぎし、医学部いがくぶ紛争ふんそう状態じょうたいはいった[2]。2月、学生がくせい医局いきょくいん衝突しょうとつ事件じけんきると、大学だいがく当局とうきょく学生がくせい研修けんしゅう17めい処分しょぶんしたが、まもなくそのなか学生がくせい1人ひとり誤認ごにん処分しょぶんされたうたがいがつよまる[3]

学生がくせいがわ処分しょぶん撤回てっかいもとめたが、東京とうきょう大学だいがくがわいちゆずらず、紛争ふんそう停滞ていたい局面きょくめんはいった。6がつ中旬ちゅうじゅんには、局面きょくめん打開だかい意図いとした一部いちぶ急進きゅうしん学生がくせいが、自治じちかい統制とうせいはなれて安田やすだ講堂こうどう占拠せんきょした。これにたいし、大河内おおこうち一男かずお総長そうちょうは6がつ17にち警視庁けいしちょう機動きどうたい学内がくない導入どうにゅうし、占拠せんきょ学生がくせい退去たいきょさせた。

この機動きどうたい導入どうにゅうは、当局とうきょく自身じしんによる大学だいがく自治じち放棄ほうきであるとして、学部がくぶえて多数たすう学生がくせい教職員きょうしょくいん反発はんぱつまねき、紛争ふんそう全学ぜんがく拡大かくだいさせる結果けっかとなった[4]自治じちかい中央ちゅうおうなど東大とうだいななしゃ連絡れんらく協議きょうぎかい[注釈ちゅうしゃく 2]びかけで、法学部ほうがくぶのぞ全学ぜんがく自治じちかいは1968ねん6がつ20日はつか機動きどうたい導入どうにゅう抗議こうぎするいちにちストをおこない、安田やすだ講堂こうどうまえひらかれた抗議こうぎ集会しゅうかいにはやく6,000にん参加さんかした。

1968ねん7がつ上旬じょうじゅんには、かく自治じちかい執行しっこうより急進きゅうしんてき一部いちぶ大学院生だいがくいんせいらにより安田やすだ講堂こうどうふたた占拠せんきょされ、これにしん左翼さよくセクトくわわり、東大とうだい闘争とうそう全学ぜんがく共闘きょうとう会議かいぎ結成けっせいされた[5]東大とうだい全共闘ぜんきょうとう当局とうきょく医学部いがくぶ処分しょぶん撤回てっかい機動きどうたい導入どうにゅう自己じこ批判ひはんなどをもとめる「なな項目こうもく要求ようきゅう」をかか[6]自治じちかい中央ちゅうおうわって学生がくせい支持しじあつめた。当局とうきょくは8がつ10日とおかなな項目こうもく要求ようきゅうのうち6項目こうもくれる解決かいけつあん告示こくじしたが、全共闘ぜんきょうとうはこれを拒否きょひし、紛争ふんそう後期こうきにもつれこんだ。10月上旬じょうじゅんには全共闘ぜんきょうとう主導しゅどうぜん学部がくぶ自治じちかい期限きげんストにはいった[7]

1968ねんあきはいると、全共闘ぜんきょうとうが「東大とうだい解体かいたい」を主張しゅちょうし、「全学ぜんがくバリケード封鎖ふうさ」へと戦術せんじゅつ過激かげきさせたのにくわえ、ストの長期ちょうき民青みんせいけいかえしにより、11月には学部がくぶせいあいだ東大とうだい民主みんしゅ行動こうどう委員いいんかい民青みんせいけい)と無党派むとうは学生がくせいグループ(クラス連合れんごう有志ゆうし連合れんごう大学だいがく革新かくしん会議かいぎなど)が台頭たいとうし、全共闘ぜんきょうとうはげしく対立たいりつした。授業じゅぎょう停止ていしし、セクト同士どうしにらい、どこかでうちゲバ悲鳴ひめいこえるという状況じょうきょうになっていた[8]

一方いっぽう東京とうきょう大学だいがく首脳しゅのうでは、1968ねん11月1にち大河内おおこうち総長そうちょう以下いか学部がくぶちょう全員ぜんいん辞任じにんし、後日ごじつ加藤かとう一郎いちろう総長そうちょう代行だいこうとするしん執行しっこう構築こうちくされ、紛争ふんそう収拾しゅうしゅううごはじめた[9]加藤かとう代行だいこうは11月中旬ちゅうじゅん学生がくせいがわ紛争ふんそう解決かいけつのために全学ぜんがく集会しゅうかい開催かいさいびかけ、これにななしゃきょう民主みんしゅ行動こうどう呼応こおうしてかく学部がくぶいんけいから「統一とういつ代表だいひょうだん」を選出せんしゅつする運動うんどうはじめた[10]。11月から12がつにかけて民主みんしゅ行動こうどう無党派むとうはグループは共同きょうどうしてかく学部がくぶ学生がくせい大会たいかい代表だいひょうだん選挙せんきょさせ、統一とういつ代表だいひょうだん形成けいせい

1969ねん昭和しょうわ44ねん)1がつ10日とおか全学ぜんがく集会しゅうかい加藤かとう代行だいこう統一とういつ代表だいひょうだんは「確認かくにんしょ」をわした[11]確認かくにんしょは10項目こうもくからなり、医学部いがくぶ処分しょぶん白紙はくし撤回てっかい自治じち活動かつどう自由じゆう今後こんご大学だいがく改革かいかく方向ほうこうせいなどをさだめていた。全学ぜんがく集会しゅうかい前後ぜんごしてかく学部がくぶいんけいのストは相次あいついで解除かいじょされ、東大とうだいせい多数たすう警視庁けいしちょう相手あいてとする紛争ふんそうから離脱りだつした。

一方いっぽう少数しょうすうとなった全共闘ぜんきょうとう闘争とうそう継続けいぞく主張しゅちょうして安田やすだ講堂こうどうとう校舎こうしゃ占拠せんきょ封鎖ふうさつづけたため、1969ねん1がつ18にちから19にちにかけて、警視庁けいしちょう出動しゅつどう要請ようせいけた機動きどうたいが、安田やすだ講堂こうどう封鎖ふうさ解除かいじょ共闘きょうとう学生がくせい大量たいりょう検挙けんきょおこなった(東大とうだい安田やすだ講堂こうどう事件じけん)。これで全共闘ぜんきょうとうおおきな打撃だげきけ、紛争ふんそう収拾しゅうしゅうされた。さらに1969ねん昭和しょうわ43年度ねんど)の東大とうだい入試にゅうしは、佐藤さとう内閣ないかく中止ちゅうし決定けってい全共闘ぜんきょうとう安田やすだ講堂こうどう事件じけん以後いご急速きゅうそく退潮たいちょうし1969ねんちゅうには東大とうだい紛争ふんそう完全かんぜん収束しゅうそくするにいたった。

安田やすだ講堂こうどう事件じけんふくめた東大とうだい紛争ふんそうでは、767にん逮捕たいほされ、616にん起訴きそされた。いちしん判決はんけつで133にん実刑じっけい判決はんけつ、400にんちょう執行しっこう猶予ゆうよ有罪ゆうざい判決はんけつ無罪むざい判決はんけつ12にんであった。

年表ねんぴょう

[編集へんしゅう]
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん
    • 1がつ29にち 東大とうだい医学部いがくぶ学生がくせいインターン制度せいどわる登録とうろく制度せいど反対はんたいし、期限きげんスト突入とつにゅう
    • 3月12にち 医学部いがくぶは、2がつ19にち医局いきょくちょう缶詰かんづめ事件じけんで17にん処分しょぶん発表はっぴょう
    • 3月26にち 処分しょぶんされた学生がくせいのうち1にんにつき、東大とうだいがわ誤認ごにん可能かのうせいがあると教授きょうじゅ懇談こんだんかい医学部いがくぶ講師こうし2めい報告ほうこく
    • 3月28にち 医学部いがくぶぜん闘委とうい学生がくせい安田やすだ講堂こうどうでの卒業そつぎょうしき実力じつりょく阻止そしはかったため大学だいがくがわ卒業そつぎょうしき中止ちゅうし
    • 4がつ12にち 入学にゅうがくしき強行きょうこう
    • 6月15にち 医学部いがくぶぜん闘委とうい学生がくせい安田やすだ講堂こうどう占拠せんきょ
    • 6月17にち 大河内おおこうち総長そうちょう要請ようせいで、警視庁けいしちょう機動きどうたい1200にんどう大学だいがく構内こうない出動しゅつどうし、学生がくせいらは退去たいきょ
    • 6月18にち 全学ぜんがく闘争とうそう連合れんごう(ぜんれん)が結成けっせい。(大学院生だいがくいんせい中心ちゅうしんとした組織そしき)
    • 6がつ20日はつか 警察けいさつ導入どうにゅう抗議こうぎして、法学部ほうがくぶのぞく9学部がくぶ一斉いっせいいちにちスト。1960ねん安保あんぽ闘争とうそうとき以来いらいはつ
    • 6月26にち 東大とうだい文学部ぶんがくぶ期限きげんストに突入とつにゅう
    • 6月28にち 大河内おおこうち一男かずお総長そうちょう出席しゅっせき安田やすだ講堂こうどうでの「総長そうちょう会見かいけん」。やく3000にん参加さんかし、あふれた2000にんもの学生がくせいはテレビ中継ちゅうけいしたべつ教室きょうしつ集会しゅうかい参加さんかという形式けいしきった。
    • 7がつ2にち はんにちどもたん共産党きょうさんとう)の日本にっぽんしん左翼さよくけい学生がくせいら、250にん安田やすだ講堂こうどうをバリケードで封鎖ふうさ
    • 7がつ5にち 東大とうだい闘争とうそう全学ぜんがく共闘きょうとう会議かいぎ東大とうだい全共闘ぜんきょうとう結成けっせい全共闘ぜんきょうとう議長ぎちょう山本やまもと義隆よしたか)。教養きょうよう学部がくぶ期限きげんストに突入とつにゅう
    • 7がつ9にち テントむら開設かいせつ
    • 7がつ16にち 全共闘ぜんきょうとうなな項目こうもく要求ようきゅう確認かくにん。 
    • 7がつ24にち 東大とうだい全学ぜんがく助手じょしゅ共闘きょうとう会議かいぎ結成けっせい
    • 8がつ10日とおか 『8・10告示こくじ』といわれる大学だいがくがわ最終さいしゅうあんされるが、一方いっぽうてき告示こくじという形式けいしきされたこと反発はんぱつう。
    • 8がつ28にち 全学ぜんがく共闘きょうとう会議かいぎ学生がくせいやく200にん医学部いがくぶ本館ほんかん占拠せんきょ
    • 9月7にち 病院びょういん封鎖ふうさ反対はんたいさけんで学外がくがい民青みんせい同盟どうめい行動こうどう
    • 9月9にち 医学部いがくぶ卒業そつぎょう試験しけん極秘ごくひおこなわれ、受験じゅけん対象たいしょうしゃうち過半数かはんすうたない45めいのみが受験じゅけんのこり60めいはボイコット。
    • 9月16にち 本郷ほんごう構内こうないの5学部がくぶ学生がくせい大会たいかい学部がくぶ大会たいかいひらく。医学部いがくぶ学部がくぶ集会しゅうかいには教官きょうかん学生がくせいやく1300にん参加さんか。9月9にち試験しけん延期えんき提唱ていしょうし、その試験しけん受験じゅけんした45めいはショックをける。
    • 9月18にち 医学部いがくぶ緊急きんきゅう教授きょうじゅかいで、卒業そつぎょう試験しけん一時いちじ延期えんき当分とうぶん休講きゅうこう発表はっぴょう
    • 9月22にち 全共闘ぜんきょうとう学生がくせいやく250にん医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういん外科げかけい医局いきょく研究けんきゅうとうにバリケードをきずき、封鎖ふうさする。
    • 9月27にち 医学部いがくぶあかレンガかん封鎖ふうさはつ自主じしゅ封鎖ふうさ
    • 10月12にち 法学部ほうがくぶ期限きげんスト突入とつにゅう開校かいこう以来いらいはつの10学部がくぶ期限きげんスト」
    • 10月18にち 東大とうだい医学部いがくぶ神経しんけい内科ないか医局いきょくいん15にん全員ぜんいん教授きょうじゅかい抗議こうぎし、25にち以降いこうスト終了しゅうりょうまで一切いっさい診察しんさつ有給ゆうきゅうしゃのみでおこなうと決議けつぎ無給むきゅう診療しんりょう拒否きょひ
    • 11月1にち 東大とうだい評議ひょうぎかい大河内おおこうち一男かずお総長そうちょう辞任じにん承認しょうにん紛争ふんそう発端ほったんとなった医学部いがくぶ豊川とよかわ行平こうへいぜん医学いがく部長ぶちょう上田うえだ英雄ひでおぜん東大とうだい病院びょういん院長いんちょう東大とうだい教授きょうじゅ退官たいかん承認しょうにん。10学部がくぶ当時とうじ学部がくぶちょう全員ぜんいん辞任じにん
    • 11月4にち しん学部がくぶちょう会議かいぎ加藤かとう一郎いちろう法学部ほうがくぶちょう学長がくちょう事務じむ取扱とりあつかい代行だいこう)に選出せんしゅつ文学部ぶんがくぶ法文ほうぶん2号館ごうかん文学部ぶんがくぶ学生がくせい処分しょぶんめぐる「大衆たいしゅう団交だんこう」がはじめる。
    • 11月6にち はやし健太郎けんたろう文学ぶんがく部長ぶちょう岩崎いわさき堀米ほりごめりょう評議ひょうぎいんの3にん禁足きんそく成瀬なるせ助教授じょきょうじゅ疲労ひろう退場たいじょう教授きょうじゅがわは「不法ふほう監禁かんきん」と掲示けいじ
    • 11月8にち 100あいだえ、教官きょうかん有志ゆうしは「基本きほんてき人権じんけん重大じゅうだい侵害しんがい大学だいがく無法むほう地帯ちたいとする愚挙ぐきょ。」と声明せいめい発表はっぴょう。35めい署名しょめい三島みしま由紀夫ゆきお阿川あがわ弘之ひろゆき学者がくしゃ文化ぶんかじんグループは「緊急きんきゅううったえ」をす。
    • 11月12にち はやし文学ぶんがく部長ぶちょうドクターストップのため、173あいだぶりに解放かいほう緊急きんきゅう入院にゅういんをする。総合そうごう図書館としょかんまえ全共闘ぜんきょうとう民主みんしゅ行動こうどう委員いいんかい民青みんせいけい)(議長ぎちょう三浦みうらさとし医学部いがくぶせい)が全学ぜんがく封鎖ふうさめぐ乱闘らんとう
    • 11月14にち 法学ほうがくせい大会たいかい全学ぜんがく封鎖ふうさ反対はんたい決議けつぎ全共闘ぜんきょうとうがわ敗色はいしょく濃厚のうこうとなる。
    • 11月18にち 全学ぜんがく集会しゅうかい東大とうだい当局とうきょく全共闘ぜんきょうとうとの予備よび折衝せっしょう物別ものわかれとなる。
    • 11月19にち 工学こうがくせい大会たいかい全学ぜんがくバリ封鎖ふうさ反対はんたい可決かけつ総長そうちょう代行だいこうらと統一とういつ代表だいひょうだん準備じゅんびかいにちどもけい)との予備よび折衝せっしょう。このころから大学だいがく活動かつどう全共闘ぜんきょうとう参加さんかするようになった。
    • 11月22にち 「東大とうだい日大にちだい闘争とうそう勝利しょうり全国ぜんこく学生がくせいそう決起けっき大会たいかい開催かいさい東大とうだい闘争とうそう天王山てんのうざん全学ぜんがくバリケード封鎖ふうさ強行きょうこう挫折ざせつ図書館としょかん封鎖ふうさ学生がくせいがわ自主じしゅ管理かんり駒場こまばさい開催かいさい
    • 12月29にち 加藤かとう学長がくちょう代行だいこう坂田さかたみちふとし文相ぶんしょう会談かいだん、「現状げんじょうのままでは入試にゅうし中止ちゅうし。1969ねん1がつ15にちまでにスト解除かいじょ授業じゅぎょう再開さいかい見通みとおしがてばその時点じてん再考さいこう」とすることで意見いけん一致いっちした。文部省もんぶしょう当時とうじ)が、大学だいがくがわ意向いこう無視むしし1969年度ねんど東大とうだい入試にゅうし中止ちゅうし発表はっぴょうする。東京教育大学とうきょうきょういくだいがく体育たいいく学部がくぶのぞ入試にゅうし中止ちゅうし決定けってい
    • 12月31にち 大晦日おおみそかよる解放かいほう講堂こうどうから「歓喜かんきの頌歌」が時計とけいだい放送ほうそうにより同時どうじ放送ほうそうされる。
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん
    • 1がつ1にち 元旦がんたんあさ教育きょういく学部がくぶ赤門あかもん周辺しゅうへん民青みんせい同盟どうめいによる「あかつきだい合唱がっしょう」がもよおされる。
    • 1がつ4にち 加藤かとう総長そうちょう非常ひじょう事態じたい宣言せんげん
    • 1がつ9にち 全共闘ぜんきょうとう教育きょういく経済学部けいざいがくぶ民青みんせい攻撃こうげき加藤かとう総長そうちょう要請ようせい機動きどうたい大学だいがく構内こうないはいる。
    • 1がつ10日とおか 秩父宮ちちぶのみやラグビーじょうで7学部がくぶ代表だいひょうだん大学だいがくがわ集会しゅうかいじゅう項目こうもく確認かくにんしょ作成さくせい駒場こまば共闘きょうとう100にん以上いじょう逮捕たいほ
    • 1がつ14にち 駒場こまば共闘きょうとう駒場こまばキャンパスだい8本館ほんかん籠城ろうじょう民青みんせい一般いっぱん学生がくせい教官きょうかん機動きどうたい攻防こうぼう。(21にち撤収てっしゅう)
    • 1がつ15にち 「ぜんろうがく決起けっき集会しゅうかい開催かいさい
    • 1がつ16にち 加藤かとう総長そうちょう機動きどうたい本郷ほんごうキャンパスのバリケード撤去てっきょ要請ようせいする。
    • 1がつ18にちからよく19にちにかけて、封鎖ふうさ解除かいじょ実行じっこう安田やすだ講堂こうどう攻防こうぼうせん)。東大とうだいないでの逮捕たいほしゃは600めい以上いじょう学生がくせい支援しえんのため神田かんだ本郷ほんごう界隈かいわい神田かんだカルチェ・ラタン闘争とうそう発生はっせい
    • 1がつ20日はつか 東大とうだい当局とうきょく入試にゅうし中止ちゅうしれる。
    • 3月3にち 学生がくせい学校がっこうがわ団交だんこうちゅう佐藤さとう重平じゅうへいがふざけた態度たいどをしたとして、柏崎かしわざき千枝子ちえこ佐藤さとうなぐる。4月22にち監禁かんきん容疑ようぎ柏木かしわぎ目黒めぐろしょ逮捕たいほされる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 具体ぐたいてきには、1965ねん昭和しょうわ40ねん)から1969ねん昭和しょうわ44ねん)までの期間きかん
  2. ^ 学生がくせい自治じちかい中央ちゅうおう委員いいんかい東大とうだい全学ぜんがく大学院生だいがくいんせい協議きょうぎかい東大とうだいりょうれん東大とうだいしょくぐみ生協せいきょうしょくぐみ生協せいきょう理事りじかいこうじんかい労組ろうそからなる、東大とうだいかく階層かいそう代表だいひょう団体だんたい連絡れんらく協議きょうぎ機関きかん

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 小熊こぐま (2009) p. 674
  2. ^ 小熊こぐま (2009) p. 678
  3. ^ 小熊こぐま (2009) pp. 682-685
  4. ^ 小熊こぐま (2009) p. 705-708
  5. ^ 小熊こぐま (2009) pp.721,728
  6. ^ 小熊こぐま (2009) p. 737
  7. ^ 小熊こぐま (2009) p. 782
  8. ^ 川口かわぐち事件じけん現在げんざい 1.うちゲバの歴史れきし外山とやま恒一つねかず|note
  9. ^ 小熊こぐま (2009) p. 828
  10. ^ 小熊こぐま (2009) p.860
  11. ^ 小熊こぐま (2009) p.918-919

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 山本やまもと義隆よしたかわたしの1960年代ねんだい金曜日きんようび、2015ねん
  • 柏崎かしわざき千枝子ちえこ「ゲバルト・ローザ闘争とうそう手記しゅき 太陽たいようあらし自由じゆうを」(ノーベル書房しょぼう) 1969ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]