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松平まつだいらやすしこく

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松平まつだいら やすしこく(まつだいら やすくに、文久ぶんきゅう3ねん4がつ11にち1863ねん5月28にち) - 昭和しょうわ20ねん1945ねん1がつ30にち)は、長崎ながさき出身しゅっしん漢学かんがくしゃひろしてんぎょう破天荒はてんこうときごうする。早稲田大学わせだだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ東洋とうよう文化ぶんか學會がっかい理事りじ東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ教頭きょうとう

経歴けいれき

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幕府ばくふ旗本はたもと大久保おおくぼ忠恕ただひろまれ、交代こうたい寄合よりあいかくであった旗本はたもと久松ひさまつ松平まつへいきゅう下総しもうさ飯笹いいざさ領主りょうしゅ)の養子ようしとなった。実父じっぷ忠恕ただひろ豊後ぶんごまもる、のちに主膳しゅぜんせいしょうし、長崎ながさき奉行ぶぎょう在任ざいにんちゅう出生しゅっしょう)や京都きょうとまち奉行ぶぎょう陸軍りくぐん奉行ぶぎょうなみとうにんじられ、幕末ばくまつ難局なんきょくしょして国事こくじ尽瘁じんすいした。

このような気風きふう継承けいしょうしたやすしこくは、少壮しょうそうよりしん国事こくじめ、つつみ正勝まさかつ重野しげのしげるとき三島みしま中洲ちゅうしゅうなどのしょ儒について学問がくもん文章ぶんしょう修行しゅぎょうをし、大学だいがく予備よびもんえてミシガン大学だいがくすうねんせん政治せいじがくおさめる。帰国きこくして読売新聞よみうりしんぶん記者きしゃ主筆しゅひつされる。のち、まねかれて東京とうきょう専門せんもん学校がっこう史学しがく漢学かんがくとをこうじ、昭和しょうわ18ねん1943ねん)3がつ定年ていねん退職たいしょくまで早稲田大学わせだだいがく教授きょうじゅとして上下じょうげ信頼しんらいするところとなり、名誉めいよ教授きょうじゅとなる。

このあいだ早稲田大学わせだだいがく西洋せいようこうじたこともあり、またかたわ新聞しんぶん雑誌ざっしふでるって政治せいじじょう意見いけん発表はっぴょうすることもあり、名声めいせいたかまってついきよしすえ鴻章こうしうならしょうされたみずうみこう総督そうとくちょうほらへいするところとなり、その政治せいじ顧問こもんとしてすうねんささえにあり、立憲りっけん政治せいじ創設そうせつ苦心くしん経営けいえいした(明治めいじ39ねん1906ねん)から清国きよくにちょくしょうへんやくしょ主事しゅじちょうほら政治せいじ顧問こもんとしてねん活躍かつやく)。

大正たいしょう10ねん(1921ねん)に東洋とうよう文化ぶんか学会がっかい創設そうせつ大正たいしょう13ねん(1924ねん)には大東だいとう文化ぶんか学院がくいん創立そうりつ中心ちゅうしんてき存在そんざいとして尽力じんりょくのち学院がくいんしたが、無窮むきゅうかい東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょにはぼっするまで教頭きょうとうとしてこうした。

昭和しょうわ20ねん(1945ねん)1がつ30にちぼつ

かんこく資性しせい磊落らいらく漢学かんがくしゃとしての風貌ふうぼう愛国あいこく至情しじょうとが国士こくしてき風格ふうかく形成けいせいし、つねしん国家こっかことめ、苟くも大義名分たいぎめいぶんかんすることがあれば、文章ぶんしょう弁舌べんぜつをもってひろくこれを天下てんかまんしゅうったえて、かなら正道せいどうもどさねばやまないというふうであった。明治めいじ44-45ねんきた南北なんぼくあさ正閏せいじゅん問題もんだいにおいても、盟友めいゆう牧野まきの謙次郎けんじろうひとしとも南朝なんちょう正統せいとう主張しゅちょうし、かつら太郎たろう総理そうりせまった結果けっかつい政府せいふ国定こくてい教科書きょうかしょ改定かいていさせるにいたったのは面目めんぼく躍如やくじょたるものがある。このほかにも大義名分たいぎめいぶんかんし、名利みょうりふしこごめせず権威けんいしんみださず、身命しんめいしてあらそった問題もんだいすこぶおおい。大正たいしょう昭和しょうわつうじ、だいいちきゅうかん文章ぶんしょう作家さっかひょうされる。

著書ちょしょ韓非子かんぴし史記しきからそうはちいえぶん各国かっこく字解じかいてんぎょう詩文しぶん鈔(さつ)、英国えいこくとうとう

外部がいぶリンク

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