(Translated by https://www.hiragana.jp/)
枢軸国 - Wikipedia コンテンツにスキップ

枢軸すうじくこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
  枢軸すうじくこくおよびその植民しょくみん
  連合れんごうこくおよびその植民しょくみん
  真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのち参加さんかした連合れんごうこく
  中立ちゅうりつこく

枢軸すうじくこく(すうじくこく、きゅう字体じたい樞軸すうじくこくどく: Achsenmächteふつ: Les forces de l'axe: Potenze dell'Asseえい: Axis powers)とは、だい世界せかい大戦たいせんとき連合れんごうこくたたかった諸国しょこくのことである。

具体ぐたいてきにはドイツイタリア日本にっぽんにちどくさんこく同盟どうめい中心ちゅうしんに、ハンガリールーマニアブルガリア東欧とうおう諸国しょこく、さらにフィンランドタイなどのくにふくまれる[1]連合れんごうこく承認しょうにんしていない国家こっかとしては、フィリピンだい共和きょうわこくビルマこくスロバキアだいいち共和きょうわこくクロアチアどく立国りっこくまんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん政府せいふなどがあるが、これらはすべにちどくなどの傀儡かいらい政権せいけんとされるため、枢軸すうじくこくにはふくまれない場合ばあいもある。

ヴェルサイユ体制たいせいにおける植民しょくみんを「たざるくに」であることと反共はんきょう主義しゅぎ共通きょうつう基盤きばんとしていた[2]

前史ぜんし

[編集へんしゅう]

アドルフ・ヒトラーひきいるナチスとう政権せいけんドイツと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい国王こくおうもとベニート・ムッソリーニひきいるファシズム体制たいせいイタリア王国おうこくはどちらも類似るいじした権威けんい主義しゅぎてき体制たいせいであり、思想しそうてきちかいものがあった。しかし両国りょうこく関係かんけいかならずしも良好りょうこうではなく、1934ねんにヒトラーとムッソリーニのはつ会談かいだんおこなわれたときもとく成果せいかまれなかった。この会談かいだん直後ちょくごの6がつ24にちに、ハンガリー王国おうこく首相しゅしょうゲンベシュ・ジュラは、「ベルリンとローマとは、枢軸すうじくりょうはししている」と演説えんぜつおこない、両国りょうこく関係かんけい均衡きんこう状態じょうたいであることがヨーロッパの平和へいわにつながるとかたっている[3]。しかし同年どうねん7がつに、オーストリア・ナチスとう主導しゅどうによるオーストリア首相しゅしょうエンゲルベルト・ドルフース暗殺あんさつ事件じけんこると、ドイツとイタリアのあいだには緊張きんちょう状態じょうたいまれた。

ベルリン・ローマ枢軸すうじく

[編集へんしゅう]

1935ねん、イタリア王国おうこくエチオピア侵攻しんこうだいエチオピア戦争せんそう)すると、イタリア王国おうこく国際こくさい社会しゃかいからはげしく非難ひなんされた。オーストリアの合邦がっぽうアンシュルス)のためにイタリアとの両国りょうこく関係かんけい改善かいぜんのぞんでいたヒトラーは、この両国りょうこく関係かんけい改善かいぜんしようとうごした。1936ねん9月、ドイツは無任所むにんしょしょうハンス・フランクをイタリアに派遣はけんし、首相しゅしょうであるベニート・ムッソリーニ訪独ほうどく要請ようせいした。しかし、ムッソリーニは外相がいしょうガレアッツォ・チャーノ訪独ほうどくさせると発言はつげんしたにとどまり、自身じしん訪独ほうどく明言めいげんしなかった。10月にチャーノが訪独ほうどくし、ヒトラーと会談かいだんした。この会談かいだんではいくつかの合意ごういおこなわれたが、条約じょうやく協定きょうていむすばれたわけではなく、とく重要じゅうよう関係かんけい成立せいりつしたわけではなかった。

しかしチャーノが帰国きこくすると、ムッソリーニはつぎのような声明せいめいした。

チアノ外相がいしょうのベルリン訪問ほうもんによって、おおくの問題もんだいについてどく両国りょうこくあいだ諒解りょうかい成立せいりつしたが、そのうちの若干じゃっかん現下げんか国際こくさい情勢じょうせいにおいてとく重要じゅうようなものである。 このドイツとイタリヤをむすきずな、ローマ=ベルリンせん他国たこくへだてる隔壁かくへきではない。協調きょうちょう平和へいわ意志いしつすべてのヨーロッパ諸国しょこくが、そのまわりをまわることができる枢軸すうじくである。 — 児島こじまじょうわけだい世界せかい大戦たいせん ヒトラーのたたか文春ぶんしゅん文庫ぶんこかん 1かん P497

こののち、「ローマ・ベルリン枢軸すうじく」という言葉ことば両国りょうこく関係かんけいあらわ言葉ことばとして世界せかい浸透しんとうした。この発言はつげんをヒトラーは、実態じったいのない合意ごういおおげさにせるムッソリーニのパフォーマンスていた。よく1937ねん9月にはムッソリーニの訪独ほうどくおこなわれ、両国りょうこく協調きょうちょう関係かんけいつよまるにつれ、枢軸すうじくかたりひろ使つかわれるようになった。

1938ねん3月のオーストリアの併合へいごう、5月にヒトラーはイタリアを訪問ほうもんした。すでにドイツの優勢ゆうせいあきらかであり、各国かっこく新聞しんぶん呼称こしょうも「ベルリン・ローマ枢軸すうじく」とあらためられた。1939ねん5月22にちには条約じょうやくむすばれ、両国りょうこく協力きょうりょく関係かんけい軍事ぐんじ同盟どうめい発展はってんした。この条約じょうやく通称つうしょう鋼鉄こうてつ協約きょうやく』とばれる。

日本にっぽんについて

[編集へんしゅう]

日本にっぽんは1936ねん昭和しょうわ11ねん)11月に国際こくさい政治せいじじょう実体じったいてき効果こうかはともかくとしてにちどく防共ぼうきょう協定きょうていむすび、さらに1937ねん昭和しょうわ12ねん)11月のにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい成立せいりつによって、にちどく3こく関係かんけいについてローマ・ベルリン・東京とうきょう枢軸すうじくという言葉ことばまれたとされる。防共ぼうきょう協定きょうてい成立せいりつ当初とうしょは、えいふつとの外交がいこう関係かんけいへの配慮はいりょから防共ぼうきょう強調きょうちょうされていたようだが、まんしゅうこく問題もんだい国際こくさい連盟れんめいからの脱退だったい国際こくさい社会しゃかい孤立こりつふかめていた日本にっぽんにとってどく両国りょうこく数少かずすくない友好国ゆうこうこくであった。また、国際こくさい政治せいじじょう現状げんじょう維持いじ指向しこうするえいふつたいし"たざるくに"として武力ぶりょくによる領土りょうど拡大かくだい目指めざ傾向けいこうくわえ、さらに国内こくない政治せいじじょう大正たいしょうデモクラシー時代じだいわり、はん民主みんしゅ主義しゅぎはん自由じゆう主義しゅぎてき傾向けいこうつよめつつある日本にっぽんどく体制たいせいてきにもちかくにと、たがいにあるいは国際こくさいてきにもみなされるようになった。1937ねん昭和しょうわ12ねん)のにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい成立せいりつ東京とうきょううちでそれをいわ提灯ちょうちん行列ぎょうれつきたとされる[4]が、1938ねん12月にはラジオ番組ばんぐみちゅうの「だい建設けんせつうた」〈柴野しばのため作詞さくし〉のなかで「防共ぼうきょう東西とうざいいち枢軸すうじくいまいむたり」とうたわれ[5]、その意識いしき相当そうとう程度ていどひろめられていたとかんがえられる。これは、多少たしょう紆余曲折うよきょくせつはあったものの1940ねん9がつにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめいいたる。そのだい世界せかい大戦たいせんなかにおいてにちどくがわにたった交戦こうせんこく枢軸すうじくこくとよばれた。

だい世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんにおける枢軸すうじくこく連合れんごうこく交戦こうせんした国々くにぐにであるが、枢軸すうじくこく全体ぜんたい統合とうごうされた戦争せんそう指導しどう最後さいごまでおこなわれなかった。このためドイツのたい開戦かいせん日本にっぽんたいべい開戦かいせん事前じぜん通知つうち宣戦せんせん布告ふこく)されておらず、交戦こうせん相手あいて統一とういつされていないなど、枢軸すうじくこく足並あしなみがそろうことはかった。

1939ねん

[編集へんしゅう]

1939ねん勃発ぼっぱつしたポーランド侵攻しんこう参加さんかした枢軸すうじくこくはドイツとその影響えいきょう独立どくりつしたスロバキア共和きょうわこくのみであった。

1940ねん

[編集へんしゅう]

1940ねんおこなわれたドイツによるフランス侵攻しんこう成功せいこうすると、イタリアと、前年ぜんねんにイタリアの侵攻しんこうけて同君どうくん連合れんごう形成けいせいしていたアルバニア王国おうこく枢軸すうじくこくくわわり、連合れんごうこく宣戦せんせん布告ふこくした。8月16にちおこなわれただいウィーン裁定さいていによって、ドイツはルーマニア王国おうこくへの駐屯ちゅうとんけん獲得かくとくし、ルーマニアを枢軸すうじくこく影響えいきょうにおいた。

9月にはにちどくさんこく条約じょうやく以降いこう、『枢軸すうじく条約じょうやく』と表記ひょうき)がむすばれた。ただし、この時点じてんではこの条約じょうやく加入かにゅうすることは枢軸すうじくこくとして参戦さんせんすることとおなじではなかった。11月にはハンガリー王国おうこく、ルーマニア、スロバキアが『枢軸すうじく条約じょうやく』に加入かにゅうした。

1941ねん

[編集へんしゅう]

1941ねん3月1にち、ドイツぐんブルガリア王国おうこく進駐しんちゅうして『枢軸すうじく条約じょうやく』に参加さんかさせた。3月25にち、ユーゴスラビア王国おうこくも『枢軸すうじく条約じょうやく』に参加さんかしたが、2にち3月27にちにはクーデターが発生はっせいした。ユーゴスラビアしん政府せいふはドイツとの協調きょうちょう関係かんけい維持いじすると声明せいめいしたが、ヒトラーはゆるさずユーゴスラビア侵攻しんこうった。戦後せんご、ユーゴスラビアはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、そして独立どくりつしたクロアチアどく立国りっこくセルビア救国きゅうこく政府せいふモンテネグロ王国おうこくによって占領せんりょうされた。

6月22にちどくせんはじまった。ハンガリー、ルーマニア、クロアチアも参戦さんせんし、さらにふゆ戦争せんそうソ連それん侵略しんりゃくけていたフィンランドも7がつ10日とおか参戦さんせんした(継続けいぞく戦争せんそう)。どくせん開始かいしさいにヒトラーはフィンランドを同盟どうめいこくんだが、実際じっさいにはフィンランドはドイツと同盟どうめいむすんでおらず、あくまで共同きょうどう参戦さんせんこくであるという主張しゅちょうおこなっていた[6]。しかしフィンランド領内りょうないにはドイツぐん駐屯ちゅうとんしており、11月25にち防共ぼうきょう協定きょうてい参加さんかしている。フィンランドはソ連それんがわからの講和こうわ交渉こうしょう拒絶きょぜつし、イギリスによる宣戦せんせんけている[7]

12月8にち日本にっぽんコタバル上陸じょうりくマレー作戦さくせんおよ真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきおこない、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとイギリスに宣戦せんせん布告ふこくした。 オランダ政府せいふは12月10にち日本にっぽん政府せいふたいして「日本にっぽんがオランダと密接みっせつ不可分ふかぶん関係かんけいにあるべいえい両国りょうこくたい戦端せんたんひらいたので、にちらんあいだ戦争せんそう状態じょうたい存在そんざいするにいたった」と通告つうこくした。12月11にち、ドイツは条約じょうやくじょう参戦さんせん義務ぎむかったがアメリカに宣戦せんせん布告ふこくし、条約じょうやく参加さんかこく追随ついずいした。しかし日本にっぽんソ連それんとのあいだにち中立ちゅうりつ条約じょうやくむすんでおり、ソ連それん宣戦せんせんすることはなかった。 にちちゅう戦争せんそう日本にっぽん交戦こうせんちゅうであった中国ちゅうごく日本にっぽんとドイツ、イタリアにたいして正式せいしき宣戦せんせん布告ふこくおこない、連合れんごうこく加入かにゅうした。12月11にちにはにちどく単独たんどく講和こうわ協定きょうていむすばれ、枢軸すうじくこく陣営じんえい成立せいりつした。また同日どうじつ日本にっぽんタイ王国おうこくあいだにちたい攻守こうしゅ同盟どうめい条約じょうやくむすばれた。

1942ねん

[編集へんしゅう]

1がつ8にち条約じょうやく締結ていけつ反応はんのうしたイギリスぐんとアメリカぐんがタイにたいして攻撃こうげきおこなった。このため1がつ25にちにタイ王国おうこくはアメリカ・イギリスにたいして宣戦せんせん布告ふこくした。11月21にちきたアフリカの植民しょくみんうしなったヴィシー政権せいけんごうやしたドイツは、フランス全土ぜんど占領せんりょうした(アントン作戦さくせん)。

1943ねん

[編集へんしゅう]

前年ぜんねんからのスターリングラード攻防こうぼうせんはドイツの敗北はいぼくわり、枢軸すうじくこくにとって戦局せんきょく悪化あっか一途いっとをたどるようになった。フィンランドはこの時期じきからアメリカを仲介ちゅうかいとしてソ連それん休戦きゅうせん交渉こうしょうおこなっている[8]7がつ24にち、イタリア王国おうこくでクーデターが発生はっせいした。ムッソリーニは逮捕たいほ監禁かんきんされたがドイツによって救出きゅうしゅつされた。9月8にちイタリア王国おうこく連合れんごうこくとの休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつ発表はっぴょうしたが(イタリアの降伏ごうぶく)、9月23にちにはドイツによってムッソリーニを首班しゅはんとするイタリア社会しゃかい共和きょうわこく成立せいりつし、枢軸すうじくこくとして戦闘せんとうつづけた。またアルバニアはドイツの占領せんりょうかれ、ドイツ主導しゅどうによる傀儡かいらい政権せいけん統治とうちかれた。10月3にち、イタリア王国おうこくはドイツに宣戦せんせん布告ふこくした。

10月21にち日本にっぽん支援しえんした自由じゆうインドかり政府せいふ成立せいりつした。自由じゆうインドかり政府せいふぐんはインドの宗主そうしゅこくであるイギリスにたいして戦闘せんとうおこなった。11月16にちだい東亜とうあ会議かいぎにおいてだい東亜とうあ共同きょうどう宣言せんげん宣言せんげんされた。この宣言せんげんは「だい東亞とうあ各國かっこくしょう提携ていけいシテだい東亞とうあ戰爭せんそう完遂かんすいシ」とあるように、日本にっぽん同盟どうめいしアメリカ・イギリスとたたかうという内容ないようであった。このさい日本にっぽん会議かいぎ参加さんかこくたいしてべいえいへの宣戦せんせん布告ふこく要求ようきゅうした。ビルマこくはイギリス・アメリカに宣戦せんせん布告ふこくしたものの、フィリピンだい共和きょうわこく宣戦せんせん拒絶きょぜつした。

1944ねん

[編集へんしゅう]

このとし後半こうはんになると東部とうぶ戦線せんせん崩壊ほうかいはじめた。8月24にち、ルーマニアはクーデターによって連合れんごうこくがわにつき、ドイツにたいして宣戦せんせん布告ふこくおこなった。9月9にちにはブルガリアでもクーデターが発生はっせいし、連合れんごうこくがわについて枢軸すうじくこく宣戦せんせんした。9月19にち継続けいぞく戦争せんそうたたかっていたフィンランドはソ連それん休戦きゅうせん条約じょうやくむすんだ。そのフィンランドは駐留ちゅうりゅうドイツぐん交戦こうせんした(ラップランド戦争せんそう)。10月15にちにはハンガリーもたい休戦きゅうせん発表はっぴょうしようとしたが、ナチス・ドイツとおやどくじゅうとう共謀きょうぼうするクーデターであるパンツァーファウスト作戦さくせんによって「国民こくみん統一とういつ政府せいふ」が成立せいりつし、枢軸すうじくこくがわとどまった。

西部せいぶ戦線せんせんでも8がつ26にちパリが連合れんごうぐんによって奪回だっかいされるなど、ヴィシー政権せいけんとドイツによるフランス支配しはい終焉しゅうえんむかえた。

1945ねん

[編集へんしゅう]

3月、日本にっぽん支配しはいいていたふつりょうインドシナからベトナム帝国ていこくラオス王国おうこくカンボジア王国おうこく独立どくりつさせ、傀儡かいらい政権せいけん樹立じゅりつした。しかしヨーロッパは完全かんぜん連合れんごうこくがわち、欧州おうしゅう枢軸すうじくこく次々つぎつぎ降伏ごうぶくし、脱落だつらくしていった。4がつ25にちにはイタリア社会しゃかい共和きょうわこく崩壊ほうかいし、5月8にちにはドイツぐん降伏ごうぶくした。最後さいごのこった日本にっぽんソ連それんたいにち参戦さんせん8がつ15にち降伏ごうぶくれを表明ひょうめいし、9月2にちには正式せいしき降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんおこなった。

枢軸すうじくこく一覧いちらん

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこく

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこく影響えいきょうによって成立せいりつした国家こっか政権せいけん

[編集へんしゅう]

これらの国家こっか政権せいけんはいずれも枢軸すうじくこく諸国しょこく傀儡かいらい国家こっかとして、とくにドイツおよび日本にっぽんつよ影響えいきょうにあり、国内こくないから枢軸すうじくこく勢力せいりょく消滅しょうめつした時点じてん崩壊ほうかいしている。現在げんざい、これらの政権せいけんは、現存げんそんする国家こっかにつながる正統せいとう政権せいけんであったとなされていない(継承けいしょうこく)。

宣戦せんせん布告ふこくおこなった政権せいけん

[編集へんしゅう]

宣戦せんせん布告ふこくおこなっていない政権せいけん

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこく影響えいきょうによって成立せいりつした組織そしき

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこくりの中立ちゅうりつこく

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこく占領せんりょうにあったが枢軸すうじくこくなされないくに

[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこくりの態度たいどをとったくに

[編集へんしゅう]

備考びこう

[編集へんしゅう]

戦後せんごにおける枢軸すうじくこく

[編集へんしゅう]

連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうかれ、連合れんごうこくによる内政ないせい指導しどうけた。また主立おもだった枢軸すうじくこく戦後せんご国際こくさい連合れんごう敵国てきこく条項じょうこうで「きゅう敵国てきこく」として不当ふとう指定していされ、国連こくれんげん加盟かめいこくになることができなかった。日本にっぽん、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドがこれに該当がいとうするとされている[10]。タイは自由じゆうタイ抗日こうにち運動うんどうなどの活動かつどうみとめられ、敵国てきこくとはならなかった。また、連合れんごうこく植民しょくみん枢軸すうじくこく占領せんりょう成立せいりつしたくに現存げんそんする国家こっかにつながるとなされておらず、敵国てきこくあつかいをけていない。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてんしょう項目こうもく事典じてん枢軸すうじくこく」 コトバンク
  2. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん枢軸すうじくこく」 コトバンク
  3. ^ 斎藤さいとうたかしせんあいだ国際こくさい政治せいじ』(1978ねん)、208p
  4. ^ “けふのだい祝賀しゅくが”. 読売新聞よみうりしんぶん. (1937ねん11月7にち) 
  5. ^ そのやすな ; だい建設けんせつうた : 陸軍りくぐんしょう情報じょうほう發表はっぴょう - Webcat Plus”. Webcat Plus. 2022ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  6. ^ 百瀬ももせひろし 1975, pp. 99–100.
  7. ^ 百瀬ももせひろし 1975, pp. 100–104.
  8. ^ 百瀬ももせひろし 1975, pp. 106–107.
  9. ^ 長崎ながさき暢子ようこ自由じゆうインドかり政府せいふをめぐって--だい2世界せかい大戦たいせんにおけるインド民族みんぞく運動うんどう日本にっぽん」『東洋とうよう研究けんきゅう』50(2)、東洋とうよう研究けんきゅうかい、1991ねん、231-255ぺーじNAID 40002660173 
  10. ^ 1990ねん6がつ11にち衆議院しゅうぎいん安全あんぜん保障ほしょう特別とくべつ委員いいんかいにおける赤尾あかお信敏のぶとし外務省がいむしょう国際こくさい連合れんごう局長きょくちょう答弁とうべん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 百瀬ももせひろしだい大戦たいせんちゅうソ連それんのフィンランド政策せいさく : 戦後せんごへの展望てんぼうによせて (I) (20周年しゅうねん記念きねんごう)」『スラヴ研究けんきゅうだい20かん北海道大学ほっかいどうだいがく、1975ねん、97-113ぺーじNAID 110000189249 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]