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森山もりやま欽司きんじ

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森山もりやま欽司きんじ
もりやま きんじ
生年月日せいねんがっぴ 1917ねん1がつ10日とおか
出生しゅっしょう 東京とうきょうみなと
ぼつ年月日ねんがっぴ (1987-05-02) 1987ねん5月2にち(70さいぼつ
死没しぼつ 山梨やまなしけん南都留みなみつるぐん河口湖かわぐちこまち
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
現在げんざい東京大学とうきょうだいがく
所属しょぞく政党せいとう民主党みんしゅとう→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
あらためしんとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
配偶はいぐうしゃ つま森山もりやま眞弓まゆみ
親族しんぞく ちち森山もりやま邦雄くにお

日本の旗 だい50だい 運輸うんゆ大臣だいじん
内閣ないかく だい1大平おおひら内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1978ねん12月7にち - 1979ねん11月9にち

内閣ないかく だい2田中たなか角栄かくえいだい1改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1973ねん11月25にち - 1974ねん11月11にち

選挙せんきょ きゅう栃木とちぎ1
当選とうせん回数かいすう 13かい
在任ざいにん期間きかん 1949ねん1がつ23にち - 1953ねん3月14にち
1955ねん2がつ27にち - 1958ねん4がつ25にち
1960ねん11月20にち - 1987ねん5月2にち
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森山もりやま 欽司きんじ(もりやま きんじ、1917ねん1がつ10日とおか - 1987ねん5月2にち)は、日本にっぽん政治せいじ外務がいむ官僚かんりょう科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん運輸うんゆ大臣だいじん[1]つとめた。つま森山もりやま眞弓まゆみ没後ぼつごせいさんついたまもの愛称あいしょうはモリキン。保守ほしゅ合同ごうどう自由民主党じゆうみんしゅとう誕生たんじょうしてからは三木みき所属しょぞくし、後身こうしん河本かわもとでは代表だいひょう世話人せわにんつとめる。2衆議院しゅうぎいん社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょうどう建設けんせつ委員いいんちょうだい2池田いけだ内閣ないかく郵政ゆうせい政務次官せいむじかんとうて、1973ねんだい2田中たなか角榮かくえい内閣ないかくだい1改造かいぞうないかく科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん1978ねんだい1大平おおひら内閣ないかく運輸うんゆ大臣だいじんとして入閣にゅうかくした[1]長年ながねん自民党じみんとう労働ろうどう問題もんだい調査ちょうさかい事務じむ局長きょくちょう会長かいちょうつとめ、政府せいふさん公社こうしゃ現業げんぎょう公社こうしゃ公団こうだん特殊とくしゅ法人ほうじん労働ろうどう問題もんだいにかかわった。1987ねん4がつ29にち勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[2]

来歴らいれき

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政界せいかいりまで

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1917ねん大正たいしょう6ねん)1がつ10日とおか東京とうきょう千代田ちよだこうじまちまれる[3]父親ちちおや邦雄くにおは、鳩山はとやま一郎いちろう法律ほうりつ事務所じむしょ所属しょぞくする弁護士べんごしで、1928ねんだい1かい普通ふつう選挙せんきょ立憲りっけん政友せいゆうかいから栃木とちぎけん選挙せんきょから立候補りっこうほしたが、落選らくせんしている[4]母親ははおや初恵はつえは、和洋わよう裁縫さいほう女学校じょがっこう現在げんざい和洋女子大学わようじょしだいがく卒業そつぎょう裁縫さいほう教師きょうしをしていた[5]

1923ねん大正たいしょう12ねんこうじまち小学校しょうがっこう入学にゅうがく当初とうしょ目立めだった成績せいせきではなかったが、徐々じょじょ成績せいせきをあげて、難関なんかん東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう合格ごうかくした。中学ちゅうがくでは柔道じゅうどう所属しょぞくした。旧制きゅうせい静岡高等学校しずおかこうとうがっこう文科ぶんかおつるい[6]では山岳さんがく所属しょぞくし、3年間ねんかんりょう生活せいかつつづけた。のち東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく転学てんがくはいり、1941ねん10月に高等こうとう文官ぶんかん試験しけん外交がいこう行政ぎょうせい合格ごうかくし、同年どうねん12がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ繰上くりあ卒業そつぎょう同時どうじ外務省がいむしょう入省にゅうしょうした。ドイツ大使館たいしかんにん辞令じれいけたが、直後ちょくご歩兵ほへいだい59連隊れんたい二等兵にとうへいとして大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん入隊にゅうたい経理けいり幹部かんぶ候補こうほせい試験しけんだい14師団しだんなか一番いちばん成績せいせきをとり、小平こだいらにある陸軍りくぐん経理けいり学校がっこう入学にゅうがくした。経理けいり学校がっこう卒業そつぎょうは、陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ整備せいび配属はいぞくされた。そのあらたにできた軍需ぐんじゅしょう航空こうくう兵器へいき総局そうきょく見習みなら士官しかんとしてき、陸軍りくぐん主計しゅけい少尉しょういとして終戦しゅうせんむかえた。1945ねん5月25にち東京とうきょうだい空襲くうしゅうでは庁舎ちょうしゃ防火ぼうか活動かつどう従事じゅうじし、遠藤えんどう三郎さぶろう中将ちゅうじょうより表彰状ひょうしょうじょうけた[3]

1945ねん9がつ1にち復員ふくいんし、外務省がいむしょうもどり、終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく配属はいぞくされ、連絡れんらくかんとしてGHQ当局とうきょくとの折衝せっしょうにあたり、その物価ぶっか調査ちょうさかい事務じむ局長きょくちょうて、1946ねん3月、外務省がいむしょう退官たいかんした[4]

1946ねん4がつ10日とおかおこなわれただい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ栃木とちぎけん定員ていいん10にん)から立候補りっこうほした。外務省がいむしょう軍需ぐんじゅしょうにいたときのコネを使つかって、調達ちょうたつしたオートバイりくおうサイドカーけて、選挙せんきょめぐりをおこなったが、58にんちゅう18落選らくせんした。父親ちちおや門下生もんかせいだった、鳩山はとやま一郎いちろう公職こうしょく追放ついほうされたため、日本にっぽん自由党じゆうとうへの入党にゅうとうをあきらめ、1947ねん4がつ民主党みんしゅとう入党にゅうとうした。4月25にちおこなわれただい23かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、前回ぜんかい栃木とちぎけん全県ぜんけんいちおこなわれた選挙せんきょ12ぶんされ、1から立候補りっこうほしたが7落選らくせんした。昭和電工しょうわでんこう事件じけん芦田あしだひとし逮捕たいほされるなかむかえた1949ねん1がつ23にちだい24かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは28,281ひょう獲得かくとくし、2はつ当選とうせんたした[7]

自由民主党じゆうみんしゅとう結党けっとうまで

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はつ当選とうせん民主みんしゅ自由党じゆうとう吉田よしだ内閣ないかくへの連立れんりつ問題もんだいめぐり、連立れんりつ分裂ぶんれつした野党やとうぞくした。野党やとうは、その国民こくみん協同きょうどうとうしん政治せいじ協議きょうぎかい合併がっぺいし、1950ねん4がつ28にち国民こくみん民主党みんしゅとう結成けっせい国民こくみん民主党みんしゅとうはさらに、1952ねん2がつ8にち農民のうみん協同きょうどうとう新政しんせいクラブ合併がっぺいし、あらためしんとう結成けっせい、さらに1954ねん1がつ24にち自由党じゆうとう新党しんとう準備じゅんび会派かいはあらためしんとう日本にっぽん自由党じゆうとう合併がっぺいし、日本にっぽん民主党みんしゅとう結成けっせいされた。こうしたなか民主党みんしゅとう政調せいちょう理事りじ国民こくみん民主党みんしゅとう組織そしき企画きかく部長ぶちょうなどをつとめ、たばこ問題もんだい、けいはいびょう問題もんだいなどにんだ[8]

はつ当選とうせんは、たばこ収納しゅうのう代金だいきん概算がいさんばら制度せいど前年ぜんねん収納しゅうのうがくやく20%を7がつ支払しはらう。)にかんする法律ほうりつ成立せいりつ尽力じんりょくした。この制度せいどはその米作べいさくにも導入どうにゅうされた[9]はつ当選とうせんした1949ねん7がつ25にちに、旧制きゅうせい静岡しずおか高校こうこう恩師おんし桜井さくらい和市かずいちより東京大学とうきょうだいがく在学ざいがくちゅうだった眞弓まゆみわされ結婚けっこんした[10]

1952ねん10月1にちだい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは34,573ひょう獲得かくとくだい4当選とうせんしたが、選挙せんきょ違反いはん容疑ようぎ警察けいさつ手入ていれをけた[8]バカヤロー解散かいさんけて1953ねん4がつ19にちおこなわれただい26かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは31,208ひょう次々つぎつぎてんの7落選らくせんした[8]

落選らくせんちゅうは、けいはい法案ほうあん実現じつげん奔走ほんそう鳩山はとやまブームにった1955ねん2がつだい27かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、52,528ひょうでトップ当選とうせんした[11]同年どうねん7がつに「けいはいおよ外傷がいしょうせいせきずい障害しょうがいかんする特別とくべつ保護ほごほう」が成立せいりつした[12]

自由民主党じゆうみんしゅとう時代じだい

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保守ほしゅ合同ごうどう1957ねん7がつには、自由民主党じゆうみんしゅとう労働ろうどう局長きょくちょうとう労働ろうどう問題もんだい調査ちょうさかい事務じむ局長きょくちょう就任しゅうにんした。同年どうねん12がつには社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょう選任せんにんされた[11]

1958ねん勤務きんむ評定ひょうじょう闘争とうそうおこなわれたさい日教組にっきょうそからの脱退だったいしゃによる組合くみあい育成いくせい日教組にっきょうそ幹部かんぶ労働ろうどう貴族きぞく主張しゅちょうして一般いっぱん教師きょうし喧伝けんでんするなど、日教組にっきょうそ攻撃こうげき奔走ほんそう。1962ねん1がつまでに過半数かはんすう組合くみあいいん脱退だったいなど、1963ねんまでの5年間ねんかん栃木とちぎ県内けんない日教組にっきょうそ組織そしきりつ低下ていかさせた[13]

1958ねん5月22にちだい28かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは国鉄こくてつ労働ろうどう組合くみあい日教組にっきょうそ反撃はんげきにより、37,288ひょうで7落選らくせんした[11]1960ねん11月20にちだい29かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは50,406ひょう獲得かくとくだい2当選とうせん[11]同年どうねん12がつ9にちけでだい2池田いけだ内閣ないかく郵政ゆうせい政務次官せいむじかん就任しゅうにんした。しょうきむ義照よしてる郵政ゆうせい大臣だいじんから全逓信労働組合ぜんていしんろうどうくみあいとの問題もんだいまかされた。郵政省ゆうせいしょうへのはつ登庁とうちょうのその玄関げんかんにある郵政省ゆうせいしょう銅板どうばんよりおおきい木製もくせい全逓信労働組合ぜんていしんろうどうくみあい本省ほんしょう本部ほんぶ看板かんばんただちにはずさせた[よう出典しゅってん][14]。また勤務きんむ時間じかんちゅう一時いちじあいだ以上いじょう職場しょくば大会たいかい参加さんかしゃたいしてのみ戒告かいこく処分しょぶんおこなわれてきた慣習かんしゅうあらため、よんじゅうふん以上いじょう職場しょくば大会たいかい参加さんかしゃは、戒告かいこく処分しょぶんとするようにあらため、在任ざいにん7ヶ月かげつあいだ過去かこ20ねんぶんにあたる組合くみあいいんたいする処分しょぶん実施じっしした。1961ねん春闘しゅんとうでは全逓ぜんてい一切いっさい妥協だきょうせず勝利しょうりをあげた[2]

1960ねん三井みつい三池みいけ争議そうぎでは、日本にっぽん共産党きょうさんとうけい自由じゆう法曹ほうそうだん総評そうひょう弁護べんごだん対抗たいこうして、みずからがそだげた労政ろうせい法曹ほうそうだん派遣はけんした。かれらは1961ねん春闘しゅんとうでの全逓ぜんていによる奈良ならけん上市かみいち下市しもいちきょく闘争とうそうにも派遣はけんされた。

1961ねん7がつ18にち内閣ないかく改造かいぞうともない、郵政ゆうせい政務次官せいむじかん退任たいにん自民党じみんとう全国ぜんこく組織そしき委員いいんかいふく委員いいんちょうけん労働ろうどう局長きょくちょう就任しゅうにん1962ねん10月、列国議会同盟れっこくぎかいどうめい派遣はけんされた。1963ねん内閣ないかく改造かいぞうさいには、自民党じみんとう広報こうほう委員いいんかいふく委員いいんちょう教育きょういく正常せいじょう委員いいんかいふく委員いいんちょう就任しゅうにんした。同年どうねん11がつ21にちだい30かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、60,748ひょうだい4当選とうせんした[15]

1964ねん6がつ国会こっかいでは、ILOの87ごう条約じょうやく結社けっしゃ自由じゆうおよ団結だんけつけん保護ほごかんする条約じょうやく)の批准ひじゅん問題もんだい関連かんれんして、大橋おおはし武夫たけお労働ろうどう大臣だいじん往生おうじょうさせたこともあった。同年どうねん7がつ自民党じみんとう政調せいちょう住宅じゅうたく対策たいさく特別とくべつ委員いいんかいふく委員いいんちょう就任しゅうにん、1965ねん1がつ25にちには、衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんし、建設省けんせつしょう職員しょくいん組合くみあいであるぜんけんろう住宅じゅうたく公団こうだん労組ろうそ問題もんだい中小ちゅうしょう建設けんせつぎょう問題もんだいんだ。ぜんけんろう加入かにゅうしゃへのはたらきかけを実施じっしし、組合くみあいいんまんにんからせんにんまでらした。1966ねん1がつ自民党じみんとう建設けんせつ部会ぶかい中小ちゅうしょう建設けんせつぎょう振興しんこう対策たいさくしょう委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんし、建設けんせつ事務次官じむじかん通達つうたつ中小ちゅうしょう建設けんせつぎょうたいする受注じゅちゅう機会きかい確保かくほについて」をまとめた[15]

1967ねん1がつ29にちだい31かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、64,955ひょう獲得かくとくし、4当選とうせんした。同年どうねん11がつ1にち衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんかいで、裁判所さいばんしょ職員しょくいんとう構成こうせいされるぜん司法しほう労働ろうどう組合くみあい関係かんけいしゃが「日本にっぽん裁判所さいばんしょ資本しほん政府せいふ手先てさきとなっている」という発言はつげんをしたり、組合くみあいいん職員しょくいんが「リボン闘争とうそう」に参加さんかして法廷ほうていない政治せいじ運動うんどう支援しえんするリボンを着用ちゃくようしたことをげ、職員しょくいんがそのような認識にんしきっているとすれば裁判さいばん公平こうへいせい観点かんてんから問題もんだいであると主張しゅちょうした[16]1968ねん1がつ佐世保させぼエンタープライズ寄港きこう阻止そし闘争とうそうさいには、河野こうの洋平ようへい佐藤さとう文生ふみお坂本さかもとさんじゅうともな現地げんち調査ちょうさおこなった[17]同年どうねん7がつだい11かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょでは、選対せんたい委員いいんちょうつとめた[18]

1968ねん11月27にち自民党じみんとう総裁そうさい選挙せんきょでは、佐藤さとう栄作えいさくさんせん阻止そしのために立候補りっこうほした三木みき武夫たけおのために党内とうない工作こうさくうごき、大方おおかた予想よそうはんして三木みき前尾まえおしげる三郎さぶろうおさえて2となった。1969ねん12月27にちだい32かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、68,527ひょう獲得かくとくだい2当選とうせんした[17]

1970ねん2がつ自民党じみんとう政調せいちょう審議しんぎかい審議しんぎ委員いいん就任しゅうにんした。1971ねん6がつ27にちだい9かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょの7がつ14にち召集しょうしゅうされただい66臨時りんじ国会こっかいで、14ねんぶりに社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょう就任しゅうにんした。1969ねん衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ自民党じみんとう強行きょうこう突破とっぱはかってだい混乱こんらんし、石井いしい光次郎みつじろう小平こだいら久雄ひさお衆議院しゅうぎいんせいふく議長ぎちょう辞任じにんした健康けんこう保険ほけんほう改正かいせい目指めざして、日本にっぽん社会党しゃかいとうとも協議きょうぎおこない、社会しゃかい労働ろうどう委員いいんかい衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ通過つうかさせたが、参議院さんぎいん社会党しゃかいとうにストップされ、健康けんこう保険ほけんほう改正かいせいあん成立せいりつは、1973ねんまでずれんだ[17]

1972ねん12がつ10日とおかだい33かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょで8かい当選とうせんたしたのち、1973ねん11月25にちだい2田中たなか内閣ないかく科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかくたした。科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん時代じだいには、事務次官じむじかん原子力げんしりょく局長きょくちょう2にん更迭こうてつした[19]。また、だい1オイルショックによる混乱こんらんからの脱却だっきゃくのため、代替だいたいエネルギーとなる原子力げんしりょく発電はつでん推進すいしんみ、安全あんぜん研究けんきゅう予算よさん追加ついか要求ようきゅうし、前年度ぜんねんどの70おくえんから150おくえん倍増ばいぞうさせた。また建設けんせつ地元じもと住民じゅうみんへの優遇ゆうぐうさくとなる電源でんげんさんほうを1974ねん6がつ3にち通常つうじょう国会こっかい最終さいしゅう成立せいりつさせた。1974ねん1がつ29にち日本にっぽん共産党きょうさんとう不破ふわ哲三てつぞう書記しょき局長きょくちょう指摘してきした日本にっぽん分析ぶんせき化学かがく研究所けんきゅうじょ放射能ほうしゃのう測定そくてい結果けっかねつぞう問題もんだい善処ぜんしょ約束やくそく当時とうじ原子力げんしりょく局長きょくちょう放射能ほうしゃのう課長かちょう更迭こうてつあらたな検査けんさ組織そしき設立せつりつ目指めざした。そのさいくに全額ぜんがく出資しゅっしする場合ばあい法律ほうりつ作成さくせいする必要ひつようがあるが、野党やとう賛成さんせいられないことから、日本にっぽん原子力げんしりょく研究所けんきゅうじょ動力炉・核燃料開発事業団どうりょくろかくねんりょうかいはつじぎょうだんなどが出資しゅっししたかたちで、同年どうねん6がつ財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん分析ぶんせきセンター樹立じゅりつした。1974ねん4がつ3にち衆議院しゅうぎいん科学かがく技術ぎじゅつ特別とくべつ委員いいんかいでは社会党しゃかいとう公明党こうめいとう共産党きょうさんとうから那覇なはホワイトビーチで漁獲ぎょかくされたハリセンボンから60ピコキュリー放射能ほうしゃのう検出けんしゅつされたことについて、論争ろんそうひろげた。ラジオ・アイソトープ行政ぎょうせい刷新さっしんにもみ、行政管理庁ぎょうせいかんりちょうが1974ねん1がつ28にちした「放射線ほうしゃせん障害しょうがい防止ぼうしかんする行政ぎょうせい監察かんさつ結果けっかもとづく勧告かんこく」にたいして、労働省ろうどうしょう文部省もんぶしょう厚生省こうせいしょう協力きょうりょくけた[20]

原子力げんしりょくせんむつ問題もんだいにもんだ。1974ねん8がつ26にち大湊おおみなとこうから「むつ」を出港しゅっこうさせた。出港しゅっこうから7にちの9がつ1にちうえ甲板かんぱん設置せっちされたはがねせい原子げんしハッチの側面そくめんにある測定そくていが、ガンマ線がんません感知かんち警報けいほうはっした。このとき検出けんしゅつされた放射線ほうしゃせんりょう最高さいこうでも毎時まいじ0.2ミリレントゲンで、連続れんぞく500あいだびても、胸部きょうぶレントゲン写真しゃしん1回分かいぶん相当そうとう極微きょくびりょうであったが、マスコミはこれをセンセーショナルに報道ほうどう野党やとう各党かくとうから森山もりやまはげしく非難ひなんされた[21]

田中たなか金脈きんみゃく問題もんだい田中たなか内閣ないかく退陣たいじんし、三木みき内閣ないかく誕生たんじょうすると、丹羽にわ兵助へいすけ毛利もうり松平まつへいとともに、党内とうない基盤きばんよわ三木みき内閣ないかくささえるために、他派たは野党やとうへの工作こうさくうごまわり、おじぎさんにんしゅばれた。1975ねんあき公労協こうろうきょうストけんスト実施じっししたさい自民党じみんとうないにもストけん付与ふよするべきだという意見いけんがあるなか、ストけん付与ふよつよ反対はんたいした[22]

1975ねん12月、自民党じみんとう総務そうむ就任しゅうにんした。1976ねん5がつ20日はつか朝日新聞あさひしんぶんでははん主流しゅりゅうである三木みきおろしおこなっている大平おおひら幹部かんぶ福永ふくなが健司けんじ対談たいだんした。9月15にちとう役員やくいん人事じんじで、内田うちだ常雄つねお幹事かんじちょうした幹事かんじちょう代理だいり就任しゅうにん三木みきおろしたいする防戦ぼうせん尽力じんりょくした。自民党じみんとう選挙せんきょ資金しきんすくないなか任期にんき満了まんりょうむかえた12月5にちだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは37おくえんほどで選挙せんきょ実施じっしした[23]

1977ねん2がつ1にち倉石くらいし忠雄ただおわり、自民党じみんとう労働ろうどう問題もんだい調査ちょうさ会長かいちょう就任しゅうにん、その運輸うんゆ大臣だいじん在任ざいにんちゅうのぞ死去しきょするまでじゅういちつとめた。おなじく1977ねん2がつ27にち船田ふなだなか小平こだいら久雄ひさお(1976ねんそう選挙せんきょ落選らくせん)にいでだいさんだい自民党じみんとう栃木とちぎ県連けんれん会長かいちょう就任しゅうにん、1983ねん10がつ23にちまでつとめた。1980ねん衆参しゅうさんダブル選挙せんきょさいつま眞弓まゆみ参議院さんぎいん栃木とちぎけん選挙せんきょ候補者こうほしゃとなり、議席ぎせき独占どくせんしたが、つま立候補りっこうほには積極せっきょくてきではなかった[18]同年どうねん7がつだい11かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょでは、選対せんたい委員いいんちょうつとめた[18]

1978ねん3月2にち永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん表彰ひょうしょう保利ほりしげる衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうからけ、慣例かんれいにより自民党じみんとう顧問こもん就任しゅうにんした。25年間ねんかん在職ざいしょくした議員ぎいんかれで171にんであった。そのとし自民党じみんとう総裁そうさい選挙せんきょでは、河本かわもと敏夫としお選対せんたい事務じむ局長きょくちょうつとめた[18]同年どうねん運輸うんゆ大臣だいじん就任しゅうにん、12月20にちからの値上ねあげが決定けっていしていた私鉄してつ運賃うんちん値上ねあげを大臣だいじん就任しゅうにん直後ちょくご延期えんきした。12月26にちには高木たかぎ文雄ふみお総裁そうさい国鉄こくてつ役員やくいんのボーナス半額はんがくカットを指示しじした。1979ねん1がつ12にち、それまで受験じゅけん資格しかく男子だんし限定げんていされていた航空こうくう管制かんせいかん気象きしょう観測かんそくかん海上かいじょう保安ほあんかんなどの職種しょくしゅ女子じょしにも受験じゅけん資格しかくあたえるよう指示しじした。1月23にちろく大都市だいとしのタクシー運賃うんちん値上ねあげにストップをかけた[18]。1月29にち鉄道てつどう労働ろうどう組合くみあい辻本つじもとしげるけい組合くみあいちょうらと懇談こんだんし、国鉄こくてつ再建さいけんへの協力きょうりょく要請ようせいおこなった[24]。3月30にち尖閣諸島せんかくしょとう魚釣島うおつりしまヘリポート建設けんせつ指示しじした[18]。3月26にち笹川ささかわ良一りょういち日本にっぽん船舶せんぱく振興しんこうかいちょうへの勇退ゆうたい勧告かんこく[25]全日空ぜんにっくう若狭わかさ得治とくじ会長かいちょう辞任じにん要求ようきゅうおこなった[26]。6月には国会こっかいで、「国鉄こくてつ財政ざいせい改善かいぜんのため、効率こうりつ夜行やこう列車れっしゃ廃止はいしすべき」と表明ひょうめいし、議論ぎろんんだ[27]だい1大平おおひら内閣ないかく発足ほっそくに(運輸うんゆ大臣だいじんは)「森山もりやまさん以外いがいならだれでもいい」と発言はつげんした住田すみた正二しょうじ運輸うんゆ事務次官じむじかんを1979ねん7がつ辞任じにんんだ[19]

日本にっぽん領土りょうど領海りょうかい確保かくほについて積極せっきょくてきみ、水路すいろ測量そくりょうげんしるべ実施じっし督励とくれいした。1979ねん7がつ5にちには下地島しもじしま空港くうこう開港かいこうしき臨席りんせきし、グラマン ガルフストリーム II試乗しじょうした[18]。そのどう空港くうこうよりYS-11にり、西銘にしめ順治じゅんじ沖縄おきなわ県知事けんちじとともに、尖閣諸島せんかくしょとうしゅういき視察しさつおこなった[28]

三木みき河本かわもととなってからは、代表だいひょう世話人せわにんくなるまでつとめた[8]

1979ねん4がつ25にち国労こくろう動労どうろうによるストライキがおこなわれたが、6月1にちおこなわれた閣議かくぎで、当局とうきょくがわ予定よていしているスト参加さんかしゃへの処分しょぶん凍結とうけつをするべきと表明ひょうめいした。同年どうねん7がつ2にちには、みずか作成さくせいした「国鉄こくてつ再建さいけん基本きほん構想こうそうあん」を国鉄こくてつ総裁そうさいかおてるために、国鉄こくてつ発表はっぴょうさせた[29]同年どうねん11がつ9にちだい2大平おおひら内閣ないかく発足ほっそくとともに運輸うんゆ大臣だいじんった[29]

1982ねん政府せいふ財政ざいせい再建さいけん行政ぎょうせい改革かいかく推進すいしん見地けんちから人事院じんじいん勧告かんこく凍結とうけつしたさい労働ろうどう三権さんけん制約せいやくされることとの均衡きんこうから勧告かんこく実施じっしつよ主張しゅちょうした[22]

1985ねん10月、みずからのびかけで自民党じみんとうない教科書問題きょうかしょもんだいかんがえる議員ぎいん連盟れんめい結成けっせいされた。晩年ばんねんには、教育きょういく基本きほんほうやそれにもとづく教育きょういく体制たいせい教育きょういく内容ないよう教科書きょうかしょ是正ぜせいなど、戦後せんご教育きょういくそう決算けっさんつよ意欲いよくしめした[13]

1986ねん10月19にちがん鉄道てつどう会津鬼怒川線あいづきぬがわせん開通かいつうしきでは、がんせん完成かんせい促進そくしん議員ぎいん連盟れんめい会長かいちょうとしてテープカットをおこなった[30]

1987ねん5がつ2にち静養せいようさきであった山梨やまなしけん河口湖かわぐちこまち急性きゅうせい心不全しんふぜんのため、死去しきょした[31][1]。70さいぼつ死没しぼつ日付ひづけをもってせいさんじょされた。自民党じみんとうそうがおこなわれ、旧制きゅうせい静岡しずおか高校こうこういち後輩こうはいだった中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょう弔辞ちょうじんだ[3]追悼ついとう演説えんぜつ同年どうねん5がつ26にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎで、広瀬ひろせ秀吉ひでよしによりおこなわれた。

地盤じばん簗瀬やなせすすむ継承けいしょうした。

人物じんぶつ

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眞弓まゆみとのあいだいちなん二女じじょもうけた。長男ちょうなんは、桐蔭学園とういんがくえん高等こうとう学校がっこう1ねん在学ざいがくちゅうの1973ねん1がつ28にち柔道じゅうどう公式こうしき試合しあいちゅうだいそとかりをかけたさいかえわざたたみち、くびほね死亡しぼうした[32]

毎日新聞まいにちしんぶん記者きしゃつとめた内藤ないとう国夫くにおは、著書ちょしょ郵政ゆうせいマルせい内幕うちまく・ハガキ無宿むしゅく』で「森山もりやまマルせい運動うんどう元凶げんきょうで、組合くみあい弾圧だんあつしただい悪人あくにん」としつつも、「その是非ぜひはともかく、驚異きょういてき政治せいじりょく・・・」とひょうした[2]自民党じみんとう左派さは三木みきぞくしたが、党内とうないでは文教ぶんきょうぞくとしてられ、教育きょういく労働ろうどう領土りょうど領海りょうかい問題もんだいなどに保守ほしゅてき立場たちばからんだ。

カメラ業界ぎょうかいとのかかわりがふかく、日本にっぽん写真しゃしん光学こうがく検査けんさ協会きょうかい現在げんざい日本にっぽんカメラ財団ざいだん)をみずか創立そうりつくなるまで理事りじちょうつとめ、海外かいがいでは「ミスター・ジャパニーズカメラ」の異名いみょうられていた[33]。また切手きって収集しゅうしゅうにもきょうじており、日本にっぽん郵趣協会きょうかい主催しゅさい全国ぜんこく切手きっててん審査しんさいんつとめたこともある。1984ねんには選挙せんきょよう葉書はがきコレクションを全国ぜんこく切手きっててん出品しゅっぴんし、郵政ゆうせい大臣だいじんしょう受賞じゅしょうしている[10]

従姉妹いとこまご相馬そうまたかしじん

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 森山もりやま欽司きんじ”. コトバンク. 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいいちしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  5. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうよんしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  6. ^ 旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう物語ものがたり だい10」財界ざいかい評論ひょうろんしゃ 1965ねん
  7. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいさんしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいななしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  9. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいよんしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  10. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいろくしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいはちしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  12. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいきゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  14. ^ 1957ねん郵政ゆうせい大臣だいじん就任しゅうにんした田中たなか角栄かくえいは、『歴代れきだい郵政ゆうせい大臣だいじん回顧かいころくだいさんかん逓信ていしん研究けんきゅうかい、1974ねん)のなかで、自分じぶん就任しゅうにん直後ちょくご全逓ぜんてい看板かんばんはずすよう指示しじしたとべている。
  15. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅういちしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  16. ^ 衆議院しゅうぎいん会議かいぎろくによる。
  17. ^ a b c 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうさんしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  18. ^ a b c d e f g 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  19. ^ a b [視界しかい]"住田すみた解任かいにん"運輸省うんゆしょうはし森山もりやま批判ひはん本音ほんねがたたった? 1979ねん7がつ24にち 朝刊ちょうかん9ページ
  20. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうろくしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  21. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうななしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  22. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうはちしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  23. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうきゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  24. ^ 国鉄こくてつ再建さいけん組合くみあい協力きょうりょく要請ようせい 森山もりやま運輸うんゆしょう 読売新聞よみうりしんぶん 1979ねん1がつ29にち 夕刊ゆうかん2ページ
  25. ^ 笹川ささかわさん、おめになっては… 森山もりやま運輸うんゆしょう"勇気ゆうきある勧奨かんしょう" 読売新聞よみうりしんぶん 1974ねん3がつ28にち 朝刊ちょうかん22ページ
  26. ^ 全日空ぜんにっくう若狭わかさ会長かいちょういかがなものか」 森山もりやま運輸うんゆしょうまた"苦言くげん" 安西あんざい社長しゃちょう会談かいだん 読売新聞よみうりしんぶん 1979ねん4がつ12にち 朝刊ちょうかん3ページ
  27. ^ 参考さんこう参議院さんぎいん運輸うんゆ委員いいんかい会議かいぎろく(1979ねん6がつ5にち[1]
  28. ^ 開港かいこう式典しきてん参加さんか森山もりやま大臣だいじん 突然とつぜんの"尖閣せんかく視察しさつ" 読売新聞よみうりしんぶん 1979ねん7がつ6にち 朝刊ちょうかん22ページ
  29. ^ a b 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅういちしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  30. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうさんしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  31. ^ だい108かい 衆議院しゅうぎいん ほん会議かいぎ だい22ごう 昭和しょうわ62ねん5がつ26にち - 国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステム
  32. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  33. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうしょう” (PDF). 2013ねん8がつ18にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
福永ふくなが健司けんじ
日本の旗 運輸うんゆ大臣だいじん
だい50だい:1978ねん - 1979ねん
次代じだい
地崎じさき宇三郎うさぶろう
先代せんだい
前田まえだけいおとこ
日本の旗 科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん
だい27だい:1973ねん - 1974ねん
次代じだい
佐々木ささき義武よしたけ
先代せんだい
前田まえだけいおとこ
日本の旗 総理府そうりふ原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょう
だい27だい:1973ねん - 1974ねん
次代じだい
佐々木ささき義武よしたけ
議会ぎかい
先代せんだい
丹羽にわたかし四郎しろう
日本の旗 衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんちょう
1964ねん - 1966ねん
次代じだい
田村たむらはじめ
先代せんだい
藤本ふじもと捨助
倉成くらなりただし
日本の旗 衆議院しゅうぎいん社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょう
1957ねん - 1958ねん
1971ねん - 1972ねん
次代じだい
園田そのだただし
小沢おざわ辰男たつお