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楊洪

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楊洪
成都武侯祠の楊洪塑像(中央)
しょくかん
しょくぐん太守たいしゅえつこうじょう
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
えきしゅう犍為ぐんたけようけん
死去しきょ けんきょう6ねん228ねん
拼音 Yáng Hóng
きゅう
主君しゅくん りゅうあきらりゅうりゅうぜん
テンプレートを表示ひょうじ

ひろし(よう こう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい政治せいじきゅうえきしゅう犍為ぐんたけようけんひと

経歴けいれき

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最初さいしょりゅうあきらつかえ、しょぐん官吏かんり歴任れきにんした。りゅうえきしゅう平定へいてい、犍為太守たいしゅとなったいわおからこう曹に任命にんめいされる。いわおぐん役所やくしょ移転いてんしようとしたところ、楊洪はこれにつよ反対はんたいしている。のちいわお推薦すいせんにより、しょく従事じゅうじ任命にんめいされた(しゅうかんしょくぐん1ぐん監察かんさつかんしょく郡部ぐんぶぐん従事じゅうじりゃく太守たいしゅ代行だいこうちかい。誤記ごきの「しょくぐん従事じゅうじ」はしょくぐん太守たいしゅ幹部かんぶ)。

りゅう備がかんちゅうめぐって曹操そうそうあらそっているとき、至急しきゅうへい徴発ちょうはつせよとってきた。そのことについてしょかずらあきらかれると、「かんちゅうはすなわちえきしゅう急所きゅうしょで、もしかんちゅううしなえばえきしゅううしなうでしょう。なにをためらうことがありましょうか」と進言しんげんした。また、りゅうつぶさ随行ずいこうしていた法正のりまさわってしょくぐん太守たいしゅ代行だいこうし、とどこおりなく職務しょくむまっとうしたので正式せいしきしょくぐん太守たいしゅとなった。のちえきしゅうちゅう従事じゅうじ転任てんにんした。

えびすりょうたたかでの敗戦はいせんりゅう備はしろみかどじょうにおいて危篤きとくとなり、しょかずらあきら見舞みまいのため成都せいと留守るすにしていた。このほういたかんよしみ太守たいしゅもと反乱はんらんこすと、留守るすまも太子たいしりゅうぜん適切てきせつ助言じょげんおこない、ちんてい綽にもとらえさせた。

けんきょう元年がんねん223ねん)、関内かんないこうふうじられ、ふたたしょくぐん太守たいしゅとなり忠節ちゅうせつ将軍しょうぐんにんじられた。のちしょくぐん太守たいしゅのままでこしこうじょうになった。

けんきょう5ねん227ねん)、しょかずらあきらからとめちょうちょう任用にんようしたいとの相談そうだんけ、ちょう裔の能力のうりょくたか評価ひょうかするもその性格せいかくなんがあると、これにこととなむかいあきら推薦すいせんした。二人ふたりはかつて友人ゆうじんであったが、楊洪はちょう裔のちょういく微罪びざいばっけたさい特段とくだん温情おんじょうをかけてゆるすことはなかったため、かれうらみをっていた。そのため、あるものは、自分じぶんこそがちょうになりたいのではないかとうたがい、あるものは、ちょう裔が要職ようしょくいて後事こうじ仕切しきるのをねがわなかったのだろうとうたがった。のちちょう裔が岑述いさかいをこししょかずらあきら叱責しっせきされると、人々ひとびとは楊洪が私心ししんってちょう裔の任官にんかん反対はんたいしたわけではなかったとった。

けんきょう6ねん228ねん)、在任ざいにんちゅうくなった。

人物じんぶつ

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三国志さんごくししょくしょ「楊洪でん」によれば、「わかいころは学問がくもんこのまなかったが、忠義ちゅうぎ清廉せいれん誠実せいじつ明晰めいせき人物じんぶつであり、公事こうじうれえること、まさ自分じぶんいえうれえるようであった。」とある。また、「継母けいぼつかえて孝行こうこうかぎりをくした」ともある。

なに才能さいのう見抜みぬいててたところ、あっというに楊洪と同格どうかく太守たいしゅにまで出世しゅっせしたため、人々ひとびとは楊洪とかれしたしょかずらあきら賞賛しょうさんした。

参考さんこう文献ぶんけん

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