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たけしげるけんつな

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たけしげるけんつな
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 天正てんしょう10ねん1582ねん[1]
改名かいめい 弥五郎やごろう幼名ようみょう)→けんつな
官位かんい みぎ兵衛ひょうえじょう
氏族しぞく 下野しもの宇都宮うつのみやたけしげる
父母ちちはは ちち宇都宮うつのみやただしつなはは石塚いしづか義親よしちかむすめ
兄弟きょうだい 宇都宮うつのみやしげるつな宇都宮うつのみやきょうつな[注釈ちゅうしゃく 1]けんつな
塩谷しおやたかしつな興野おきのもちたかししつ
まもりつなしゅうつな
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たけしげる けんつな(むも かねつな)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょうたけしげる6だい当主とうしゅ

略歴りゃくれき

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宇都宮うつのみやただしつなとして誕生たんじょうちちせいつな断絶だんぜつしていたたけしげる名跡みょうせきぎ、たけ茂太郎しげたろうしょうしてたけしげる再興さいこうしたが、ひろしただし4ねん11月13にち1463ねん11月23にち)、宇都宮うつのみやあきらつなぼっすると下野しもの宇都宮うつのみやいだために、ふたた武茂たけしげ断絶だんぜつする。

その長兄ちょうけいなりつないのちによってけんつなたけしげる養子ようしとなり、たけしげる再興さいこうする。このころたけしげる宇都宮うつのみやなりつな宇都宮うつのみや家督かとくいだとき対立たいりつしており、関係かんけいくなかった。けんつなたけしげる継承けいしょうせいつな以降いこう断絶だんぜつしている武茂たけしげ再興さいこうさせるだけでなく、関係かんけい悪化あっかしていた一門いちもんふたたむという意味いみ重要じゅうようであった。また、これによって手薄てうすだったきたまもりをととのえるという宇都宮うつのみや当主とうしゅなるつな思惑おもわく成功せいこうした。しかし、そのなりつなたいして不満ふまんいたけんつな反乱はんらんこしていることが確認かくにんできる[注釈ちゅうしゃく 2]反乱はんらん具体ぐたいてき時期じき不明ふめいであるが、初代しょだい古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ白河しらかわ結城ゆうき一門いちもんである小峯こみねなりつなけんつな和解わかい仲介ちゅうかい依頼いらいした書状しょじょう[2]や、なりつなかたについてけんつなたたかった宇都宮うつのみや家臣かしんやなみぎきょうあきらたいする感状かんじょう[3]つたえられており、古河ふるかわ公方くぼうたけしげる反乱はんらんたいして宇都宮うつのみや擁護ようごしていたことがかる[4]

その勢力せいりょく着実ちゃくじつ拡大かくだいさせている常陸ひたちこく佐竹さたけあらそった。また、けんつなだいたけしげるじょう修復しゅうふく整備せいびされた。

あかりおう8ねん1499ねん)には、乾徳けんとくてら[注釈ちゅうしゃく 3]開基かいきとなり、たけしげる菩提寺ぼだいじとした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ きょうつなについては、宇都宮うつのみやしげるつなとするせつ宇都宮うつのみや忠綱ただつなとするせつもある。
  2. ^ 一説いっせつにはけんつなほうあにであったという。
  3. ^ げん栃木とちぎけん那珂川なかがわまち

出典しゅってん

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  1. ^ 栃木とちぎけん 史料しりょうへん 中世ちゅうせい掲載けいさい 須記 まき十一といち 資晴すけはる武茂たけしげじょう責付せめつけ東光寺とうこうじ縁起えんぎこと
  2. ^ 国学院大学こくがくいんだいがく白河しらかわ結城ゆうき文書ぶんしょ所収しょしゅう小峯こみね三河守宛足利成氏書状
  3. ^ 秋田あきたはん家蔵かぞう文書ぶんしょ所収しょしゅうやなみぎきょうあきらあて足利あしかが成氏しげうじ感状かんじょう
  4. ^ 江田えだ郁夫いくお戦国せんごく大名だいみょう宇都宮うつのみや家中かちゅう岩田いわた書院しょいん、2014ねん、P39-40