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ひろしちょうめい

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ひろし ちょうめい
ひろし せいまもる


任期にんき 1940ねん11月30にち1944ねん11月10にち

任期にんき 1940ねん3月30にち1944ねん11月10にち
主席しゅせき はやしもり名目めいもくじょう
ひろしちょうめい

任期にんき 1940ねん3月24にち1944ねん11月10にち

任期にんき 1925ねん7がつ1にち1926ねん3月23にち

任期にんき 1932ねん1がつ29にち1935ねん12月16にち
主席しゅせき はやしもり
内閣ないかく ひろしちょうめいないかく

任期にんき 1939ねん3月28にち1944ねん11月10にち

中国ちゅうごく国民党こくみんとう
初代しょだい ふく総裁そうさい
任期にんき 1938ねん4がつ1にち1939ねん3月28にち
総裁そうさい 蔣介せき

出生しゅっしょう 1883ねん5月4にち
清の旗 きよし 広東かんとんしょう広州こうしゅう三水さみずけん
げん仏山ほとけやま三水さみず
死去しきょ (1944-11-10) 1944ねん11月10にち(61さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 愛知あいちけん名古屋なごや
政党せいとう 中国ちゅうごく国民党こくみんとう
中国ちゅうごく国民党こくみんとう (ひろしちょうめい政権せいけん)
出身しゅっしんこう 日本の旗 かずふつ法律ほうりつ学校がっこう
配偶はいぐうしゃ ちん璧君1891ねん-1959ねん
子女しじょ ひろしぶん嬰(長男ちょうなん
ひろしぶん惺(長女ちょうじょ
ひろしぶんあきら次女じじょ
ひろしぶんまことさんじょ
ひろしぶんやすし次男じなん
ひろしぶん悌(三男さんなん
ひろし ちょうめいひろし せいまもる
職業しょくぎょう 政治せいじ革命かくめい
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ ひろし ちょうめいひろし せいまもる
簡体字かんたいじ ひろし ちょう铭(ひろし せい卫)
拼音 Wāng Zhàomíng (Wāng Jīngwèi)
ラテン Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)
ちゅうおとしき Wāng Jàumíng
和名わみょう表記ひょうき おう ちょうめい(おう せいえい)
発音はつおん転記てんき ワン ジャオミン (ワン ジンウェイ)
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ひろし ちょうめい(おう ちょうめい、ワン・ジャオミン、1883ねん5月4にちひかりいとぐち9ねん3月28にち〉 - 1944ねんみんこく33ねん11月10にち)は、中華民国ちゅうかみんこく政治せいじ[1]行政ぎょうせい院長いんちょうだい4だい)・中国ちゅうごく国民党こくみんとうふく総裁そうさい[2]からし革命かくめいちちまごぶん側近そっきんとして活躍かつやくしてとう要職ようしょくめた。 しんごうせいまもる中華ちゅうかけんでは「ひろしせいまもる」とぶのが一般いっぱんてきである)[注釈ちゅうしゃく 1][3]

広東かんとんしょう広州こうしゅう三水さみずけんげん仏山ほとけやま三水さみず)のまれ[1][2][4]原籍げんせき浙江せっこうしょう紹興しょうこう山陰さんいんけん[5]としてられ、1940ねん3月、南京なんきん日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんであるひろしちょうめい政権せいけん樹立じゅりつし、同年どうねん11がつには正式せいしき主席しゅせきとなった[2][4]1944ねん名古屋なごやにて病死びょうし[2][4]遺体いたい南京なんきん梅花ばいかさん中国語ちゅうごくごばん埋葬まいそうされたが、戦後せんご蔣介せき政権せいけんによって爆破ばくはされた[6][7]著作ちょさくに『ひろしせいまもるぶんそん』などがある[2]

生涯しょうがい

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ひろしちょうめいは、1883ねんひかりいとぐち9ねん)、ひろし琡(ごう省斎せいさい)のよんなん、10にん兄弟きょうだい末子まっしとして広東かんとんしょう広州こうしゅう三水さみずけんまれた[5]没落ぼつらくした読書どくしょじん家庭かていそだったかれは、幼少ようしょうより俊秀しゅんしゅうさをうたわれた人物じんぶつである[5]

曾祖父そうそふひろし炌(1756ねん-1832ねん)および祖父そふひろしくも1786ねん-1844ねん)はともに浙江せっこうしょう紹興しょうこう山陰さんいんけん本籍ほんせきがあり、同地どうち墳墓ふんぼもあって、官途かんといていた[5]ひろしちょうめいちちひろし1824ねん-1897ねん)は一族いちぞく一人ひとり広東かんとんしょうけんをしていたところから、それをたよって広東かんとん移住いじゅうしてきた人物じんぶつであった[5]ちち同郷どうきょう夫人ふじんとのあいだにいちなんさんじょ広東かんとん出身しゅっしん夫人ふじんとのあいだに三男さんなんさんじょをもうけた[5]

浙江せっこうまれのちち広東かんとんることはできてもはなすことはできなかったといわれる[5]。また、官途かんとにはかず、商売しょうばいいとなんではいたが、読書どくしょじん家系かけいだけあって学識がくしきふかく、おさなひろしちょうめい古典こてん教育きょういくをほどこした[4][5]しょじゅくからかえったひろしちょうめいかなら読書どくしょ書道しょどうし、おう陽明ようめいの『伝習でんしゅうろく』を大声おおごえ朗読ろうどくさせたり、とうふかしあきらりくゆう暗唱あんしょうさせたりなどの課題かだい直前ちょくぜんまでつづけた[5]。のちに卓越たくえつした詩文しぶんしょられるひろしちょうめい文人ぶんじんとしての資質ししつは、こうした幼年ようねん父親ちちおや薫陶くんとうたまものといえるが、一方いっぽうおさなころから陽明学ようめいがくや、そこで強調きょうちょうされる知行ちぎょう合一ごういつかんがかたしたしんだことが、のちのかれ革命かくめい思想しそう行動こうどう様式ようしきにあたえた影響えいきょうもまた看過かんかできない[5]

ひろしちょうめいははは、ひろし琡の後妻ごさいおっとより30さいわかかった[4][5]ひろしちょうめい父親ちちおや以上いじょうにこのははふかあいし、また、はは生活せいかつじょう苦労くろうにはふか同情どうじょうせていた[5]。76さいまできたちち死去しきょする前年ぜんねん1896ねん)、ははは40だいなかばで死去しきょしている[5]ひろしちょうめいは、母親ははおやへの思慕しぼ同情どうじょうから、伝統でんとうてき家族かぞく制度せいどとくに婚姻こんいん制度せいど反感はんかんをいだくようになり、恋愛れんあい結婚けっこんとする価値かちかんをもつようになったという[5]

10代前半ぜんはん父母ちちはは相次あいついでくしたひろしちょうめいは、長兄ちょうけいたよって生活せいかつせざるをなくなったが、遺産いさんもろくになかったところから早々そうそう自立じりつせまられた[5]。10代後半こうはんにはしょじゅく教師きょうしとなったが、そのころ同腹どうふくあに2にん相次あいついでくしたことから、2人ふたり兄嫁あによめ1人ひとりめい面倒めんどうもみなければならなくなり、一家いっか家計かけいささえることとなった[5]かれはこの時期じきのことをふりかえって「まずしく、かなしく、いたましいものであった」と回想かいそうしている[5]

日本にっぽん留学りゅうがく革命かくめい運動うんどうへの参加さんか

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生活せいかつわれて近代きんだい教育きょういくけられなかったことをなげいていたひろしちょうめい転機てんきをむかえたのは、1904ねんひかりいとぐち30ねん)、科挙かきょ中国ちゅうごく高級こうきゅう官吏かんり任用にんよう試験しけん)に合格ごうかくし、清朝せいちょう広東かんとんしょう政府せいふ官費かんぴ留学生りゅうがくせいえらばれて、日本にっぽんへの派遣はけんまったことであった[4][5][8]にち戦争せんそうなか同年どうねん9がつひろしちょうめい東京とうきょうかずふつ法律ほうりつ学校がっこう法政ほうせい速成そくせい現在げんざい法政大学ほうせいだいがく)に進学しんがくした[1][2][4][5][8]速成そくせいは、中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせいのために特設とくせつされたものであり、授業じゅぎょう通訳つうやくつうじておこなわれていたので日本語にほんごらなくても法学ほうがく授業じゅぎょう理解りかいすることができた[5]法政ほうせいどう時期じきまなんだ人物じんぶつ同郷どうきょう胡漢民こかんみんしゅしんらがいる[8][注釈ちゅうしゃく 2]

にち戦争せんそうについてひろしは「しんから日本にっぽん支持しじする」とべ、いち東洋とうようじんとして日本にっぽん勝利しょうり歓喜かんきした[10]。また、「日本にっぽん国民こくみん熱烈ねつれつ愛国心あいこくしんは、わかわたし胸中きょうちゅう非常ひじょうえたせた」とのちに述懐じゅっかいしている[5]

留学りゅうがくちゅうひろしちょうめいは、うめ謙次郎けんじろう富井とみい政章まさあき山田やまだ三良さぶろうらの講義こうぎこのんでいたが、それにもましてかれおおきな影響えいきょうあたえたのは憲法けんぽうがく講義こうぎであった[5]。それまで「君臣くんしん」といった儒教じゅきょうてき価値かちかんしばられていたのにたいし、憲法けんぽうがくによって国家こっか観念かんねん主権しゅけん在民ざいみん思想しそうまなぶにつれ、ひろしちょうめい革命かくめいへの傾斜けいしゃつよめていったのである[5]一方いっぽうかれ明治維新めいじいしん歴史れきし興味きょうみち、とく西郷さいごう隆盛たかもりかつ海舟かいしゅう2人ふたりにはつよかれて、かれらにかんする書籍しょせきみあさった[5]

まごぶん

留学りゅうがくちゅうひろしまごぶん革命かくめい思想しそうれて「きょうちゅうかい」(1894ねん結成けっせい)にはいった。革命かくめいは、広東かんとんしょう出身しゅっしんしゃおおきょうちゅうかいのほか、湖南こなんしょう出身しゅっしんしゃおおい「はなきょうかい」(1903ねん結成けっせい)、浙江せっこうしょう出身しゅっしんしゃおおい「ひかりふくかい」(1904ねん結成けっせい)があり、それぞれよこ連絡れんらくきつつ、武装ぶそう蜂起ほうきをくりがえしていた[5]にち戦争せんそうにおける日本にっぽん勝利しょうりロシア帝国ていこくにおける日曜日にちようび事件じけんなどにより、在日ざいにち中国人ちゅうごくじんのあいだでは革命かくめい気分きぶんたかまり、宮崎みやざき滔天とうてんらの奔走ほんそうもあってきょうちゅうかいはなきょうかいひかりふくかい大同団結だいどうだんけつはかられ、1905ねん8がつ、3つの革命かくめい会派かいはまごぶん来日らいにち中国ちゅうごく同盟どうめいかい合流ごうりゅうした[1][2][4][5][8][11]。このときのまごぶん演説えんぜつわかひろしちょうめいしんち、かねてよりまごぶんたいしていていた信頼しんらい尊敬そんけいねん不動ふどうのものとなった[5]まごぶんもまた、ひろしちょうめいあつ信頼しんらいし、中国ちゅうごく同盟どうめいかい評議ひょうぎ部長ぶちょう抜擢ばってきし、のちには執行しっこう書記しょきちょう兼務けんむさせた[5][注釈ちゅうしゃく 3]。なお、同盟どうめいかいかいあきらは、きょうちんたかしはなそうきょうひとしうまくんひろしちょうめいら8にん起草きそうによるものである[11]

中国ちゅうごく革命かくめい同盟どうめいかいは、「民族みんぞく民権みんけん民生みんせい」のさん民主みんしゅよし綱領こうりょうとしてかかげた[12]。1905ねん11月には、中国ちゅうごく同盟どうめいかい機関きかんみんほう』が発行はっこうされることになり、ひろしちょうめいあきら炳麟補佐ほさして、胡漢民こかんみんちんたかしはなしゅしんそうきょうじん同志どうしとともに機関きかん編集へんしゅうスタッフをつとめ、このころから「せいまもる」というごうもちいるようになった[4][5][8][11][注釈ちゅうしゃく 4]ひろしちょうめいは『みんほう』において、その文才ぶんさいをいかんなく発揮はっきし、その発行はっこう部数ぶすうが4、5まんのぼり、ひそかに中国ちゅうごく国内こくないまれて、おおきな影響えいきょうりょくおよぼすようになると、ひろしひろられるようになった[5]

当時とうじひろしちょうめい長兄ちょうけい清朝せいちょうりょうこう総督そうとく岑春煊ぐん司令しれい勤務きんむしていたが、あるときった総督そうとく長兄ちょうけいひろしちょうめいすよう要求ようきゅうしたことがあった[5]。また、長兄ちょうけい父親ちちおやわりとしてひろしちょうめい許嫁いいなずけをすでにめていた[5]革命かくめいとして九族きゅうぞくるいおよぶことをおそれ、ふる婚姻こんいん制度せいど反対はんたい立場たちばにあったひろしちょうめいは「家庭かてい罪人ざいにん」としょうして長兄ちょうけいあてに絶縁ぜつえんじょうおくり、宗族そうぞく関係かんけい断絶だんぜつして婚約こんやく解消かいしょうつよもとめた[5]

中国ちゅうごく同盟どうめいかいの『みんほう』とりょうあきらちょう主宰しゅさいする『しんみんくさむらほう』とのあいだでは、革命かくめい共和きょうわか、君主くんしゅ立憲りっけんかをめぐってのだい論戦ろんせんひろげられた[5][12]すめらぎりょうあきらちょう当時とうじ立憲りっけん君主くんしゅせい主張しゅちょうしていたが、その確立かくりつはあくまでもとお将来しょうらいのことであるとして、当面とうめんはその準備じゅんび段階だんかいとして「開明かいめい専制せんせい」、すなわち開明かいめいてき英邁えいまい君主くんしゅによる皇帝こうてい独裁どくさい政治せいじとなえた[5]。それにたいし、ひろしちょうめいは「自由じゆう平等びょうどう博愛はくあい」が人類じんるい普遍ふへんせいざしたものであるとして民主みんしゅ主義しゅぎろんとなえ、共和きょうわ政体せいたい主張しゅちょうしたのである。ここには、ジャン=ジャック・ルソー人民じんみん主権しゅけんせつ影響えいきょうがみられる[5]りょうあきらちょうコンラート・ボルンハック穂積ほづみ八束やつか国家こっか客体かくたいせつ援用えんようすれば、ひろしちょうめいゲオルグ・イェリネック美濃部みのべ達吉たつきち国家こっか法人ほうじんせつ依拠いきょして、それに反論はんろんくわえるというように、ひろしはルソーの思想しそうにとらわれず、パラダイムことなるしょ学説がくせつ縦横無尽じゅうおうむじん引用いんようし、革命かくめいのなかでも理論りろんとしてせた[5]

1906ねん6がつひろしちょうめい法政ほうせい速成そくせいを300めいちゅう2ばんという優秀ゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょうした[5]官費かんぴ留学りゅうがく期限きげんれたが、ひろしはそのまま法政大学ほうせいだいがくせん門部かとべすすみ、革命かくめい運動うんどうつづけた[5]専門せんもん学費がくひ私費しひでまかなわざるをなかったが、かれはこれを『法規ほうき大全たいぜん』など日本にっぽん書籍しょせき翻訳ほんやくすることで捻出ひねりだした[5]。これにより官費かんぴばいちかくの収入しゅうにゅうることができたからであった[5]

ひろし(ひだり)とちん璧君
1912ねんごろペナンとうにて。

まごぶんは、中国ちゅうごく同盟どうめいかい成立せいりつ以降いこう湖南こなんしょう広東かんとんしょうで10にわたって武装ぶそう蜂起ほうきこころみていたが、いずれも鎮圧ちんあつされ、失敗しっぱいわっていた[5][14]。1907ねん、萍郷蜂起ほうき呼応こおうすべく、もとゆきあきらがまごぶん支援しえんもとめたけんでは、同盟どうめいかいから廖仲愷らが派遣はけんされたが、これには胡漢民こかんみんちんしょうしろひろしちょうめい参画さんかくしている[14]まごぶんはまた、つぎ武装ぶそう蜂起ほうき計画けいかく指導しどうしたり、華僑かきょうから軍資金ぐんしきんあつめたりするために、東南とうなんアジア欧米おうべい中国ちゅうごくあいだ奔走ほんそうしており、ひろしちょうめいもそれにしたがった[5]。このころイギリスりょうマラヤ(げんマレーシア)のペナンとう裕福ゆうふく華僑かきょう出身しゅっしんで、のちにひろしつまとなるちん璧君革命かくめい運動うんどう参加さんかしており、『みんほう編集へんしゅうにたずさわっている[8][注釈ちゅうしゃく 5]

ひろしは、1907ねんいた「革命かくめい決心けっしん」のなかで「革命かくめい決心けっしんは、だれもがっている惻隠そくいんじょう、いうならばこまっているひと見捨みすてておけない心情しんじょうからはじまるものだ」とし、また、「革命かくめいこころざものは、自己じこ身体しんたいたきぎあるいはがまとして4おくみんりたおもいをあじわわせることをめざすべき」ととなえた[8][10][16]。『みんほう』は清朝せいちょうからの依頼いらいけた日本にっぽん政府せいふ取締とりしまりにより1908ねん発行はっこう停止ていしまれたが、ひろしはその編集へんしゅう責任せきにんしゃとして秘密ひみつ出版しゅっぱんおこなった[8]。『みんほう』は1910ねんだい26をもって廃刊はいかんとなったが、「革命かくめい決心けっしん」はここに収載しゅうさいされている[8]

まごぶん根拠地こんきょちフランスりょうインドシナげんベトナム)の首府しゅふハノイ、ついでイギリスりょう海峡かいきょう植民しょくみんシンガポールへとうつした。ひろしは、まごぶん一番いちばん弟子でしとしてつよ信頼しんらいており、終始しゅうしかれ行動こうどうともにした[16]まごぶんフランスったのち東南とうなんアジアにおける中国ちゅうごく同盟どうめいかい勢力せいりょく拡充かくじゅうちからそそいでいる[8]1909ねんひろしちょうめいかこんでひね璧君、ほうくんあきら曾醒はじむなかみのるの4にんが、同志どうしとして生死せいしをともにすることをちかった[8]。この5にんは、のちに広東かんとんしょう共同きょうどうはかまでてており、このころ、ひろしひね璧君と名義めいぎじょう結婚けっこんをしたとかんがえられている[8]

一方いっぽう、たびかさなる武装ぶそう蜂起ほうき失敗しっぱいは、中国ちゅうごく同盟どうめいかい内外ないがいから動揺どうようさせた[5]りょうあきらちょうらのすめらぎは、まごぶんひろしちょうめいを「遠距離えんきょり革命かくめい」、すなわち「自分じぶんたちは豪華ごうかだい邸宅ていたく優雅ゆうがらしながら、下々しもじもひとびとをだまして武装ぶそう蜂起ほうきさせ、いたずらにかれらをいやっている」と批判ひはんしたのである[5]一方いっぽう中国ちゅうごく同盟どうめいかい内部ないぶではきゅうひかりふくかいけい大学だいがくしゃあきら炳麟らが公然こうぜんまごぶん批判ひはんするようになって、同盟どうめいかい分裂ぶんれつ危機ききおとずれたのである[5][14]。そうしたなか、ミハイル・バクーニンアナーキズム影響えいきょうけたひろしちょうめいは、ふたた同盟どうめいかい団結だんけつかため、革命かくめい運動うんどう鼓舞こぶするためには、みずか率先そっせん垂範すいはんして清朝せいちょう政府せいふ要人ようじん暗殺あんさつするよりほかないとおもめるようになる[5]まごぶんきょう胡漢民こかんみんらは、ひろし計画けいかくるや反対はんたいし、おもいとどまるようなん翻意ほんいうながしたが、ひろしはききいれなかった[5]

1910ねんせんみつる2ねん)、次第しだい直接ちょくせつ行動こうどう主義しゅぎ色彩しきさいつよめたひろしは、ふくせいたとえくもちん璧君らの同志どうしとともに清朝せいちょう要人ようじん暗殺あんさつ計画けいかくにとりかかった[2][4][5][8]えいりょうマラヤそだったひね璧君は英語えいご堪能かんのうであり、英語えいごかれたばくだん装置そうち取扱とりあつかいしょめるという理由りゆうで、この計画けいかく参加さんかした[8]

ひろし北京ぺきん写真しゃしんになりすまし、ひそかに時限じげんばくだん用意ようい摂政せっしょうおうあつし親王しんのうせんすべみかど溥儀ふぎちち)をねらったものの事前じぜんこと露見ろけんし、未遂みすいわった[2][4][8]ひろしらはそのげたものの、すぐに逮捕たいほされる気配けはいがなかったことからひろしふくせい北京ぺきんもどり、たとえくもひね璧君らは北京ぺきんはなれ、つぎ暗殺あんさつ準備じゅんびりかかった[5]。しかし、その目撃もくげきしゃあらわれ、4がつ16にちひろしふくせいとともに暗殺あんさつはんとして逮捕たいほされた[5][17]

ひろし死刑しけい宣告せんこく覚悟かくごしていたが、尋問じんもんさい堂々どうどうとした態度たいど供述きょうじゅつしょをすらすらといた様子ようすから、その才能さいのうしまれ、革命かくめいとの融和ゆうわはか民政みんせい尚書しょうしょ粛親おうよし意向いこうもあってつみ一等いっとうげんぜられ、終身しゅうしん禁固刑きんこけいしょされた[2][4][8] ちん璧君は、獄中ごくちゅうひろしちょうめいなん手紙てがみおくっている[5]

禁固刑きんこけいとなったことがつたわらなかったパリでは、同地どうち発行はっこうされていた同盟どうめいかい機関きかんしん世紀せいき週刊しゅうかん』に、ひろしちょうめい刑死けいしいた一文いちぶん掲載けいさいされた[5]ひろしは、灃の暗殺あんさつには失敗しっぱいしたものの、当初とうしょ目的もくてきひとつである中国ちゅうごく同盟どうめいかい士気しきたかめることには、ある程度ていど成功せいこうしたといえる[5]

からし革命かくめいとその動向どうこう

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からし革命かくめい

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1911ねん10がつ10日とおかたけあきら蜂起ほうきによって湖北こほくぐん政府せいふ成立せいりつし、それにつづいて湖南こなんしょう陝西せんせいしょう江西えにししょう山西さんせいしょう上海しゃんはい浙江せっこうしょう広東かんとんしょう各地かくちでも同盟どうめい会員かいいん蜂起ほうきして革命かくめいぐん勢力せいりょくひろげるなか、11月6にちにはひろしちょうめい清朝せいちょう政府せいふからの大赦たいしゃくだり、釈放しゃくほうされた[2][8][17]。11月下旬げじゅんには、24しょうちゅう14しょう清朝せいちょう支配しはいから離脱りだつし、12月には革命かくめいぐん南京なんきん占領せんりょうした[18]

たけあきら蜂起ほうき一報いっぽう米国べいこくコロラドしゅうデンバー滞在たいざいちゅういたまごぶんは、すぐにはかえらずにイギリスり、交渉こうしょうすえべいえいどくふつ四国しこく借款しゃっかんだんから清国きよくに政府せいふへの融資ゆうし中止ちゅうしする確約かくやくて、清朝せいちょう革命かくめい反撃はんげきするさい財源ざいげんってから帰国きこくした[5][17]ひろしちょうめいは、清朝せいちょうたおすのに功績こうせきのあった逸材いつざいとして脚光きゃっこうびた[8]。ただちにひね璧君がけつけ、まもなく、胡漢民こかんみん司会しかいなにしこり花嫁はなよめがわ介添かいぞえじんとして結婚式けっこんしきげた[8]。なお、釈放しゃくほうされたふくせい依然いぜんとして暗殺あんさつ主義しゅぎ立場たちばった[17]

まごぶんは1911ねんまつ帰国きこくして臨時りんじだい総統そうとう選出せんしゅつされ、1912ねんみんこく元年がんねん)1がつ1にち南京なんきん首都しゅととする中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつした(からし革命かくめい[18]まごぶん臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにん宣言せんげんしょ文案ぶんあんひろしちょうめい起草きそうしたものであった[5]ひろしちょうめいによれば、まごぶん宣言せんげんしょいちいちあらためようとしなかったが、これはひろしにとっては望外ぼうがいよろこびであったと回顧かいこしている[5][注釈ちゅうしゃく 6]

南北なんぼく和議わぎ

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1912ねん4がつ9にちはじむもとひろし湖北こほく鄂軍とく中国語ちゅうごくごばんまごぶんいちぎょう歓迎かんげいしたときの記念きねん写真しゃしん
2れつひだりよりまご曉生あきお中国語ちゅうごくごばん胡漢民こかんみんはじむもとひろしまごぶんひろしちょうめいあきらけい耀月中国語ちゅうごくごばん

中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつしたものの、戦力せんりょく不足ふそくのため清朝せいちょう政府せいふ打倒だとうするまでにはいたらなかった[5]一方いっぽう清朝せいちょうがわ帰趨きすうさだまらない北洋ほくよう軍閥ぐんばつ巨頭きょとう袁世凱さい出馬しゅつばうまでにめられており、両者りょうしゃ対立たいりつ膠着こうちゃく状態じょうたいおちいった[5]。ここで、袁世凱が、まだ幼少ようしょうであったせんすべみかど溥儀ふぎ退位たいいさせ、その代償だいしょうとしてまごぶんわって袁世凱が臨時りんじだい総統そうとうしょく就任しゅうにんするという奇策きさく浮上ふじょうした[5]。この奇策きさく実現じつげん一役ひとやくったのがひろしちょうめいであった[5]

ひろし出獄しゅつごく、袁世凱の腹心ふくしん楊度国事こくじ共済きょうさいかい組織そしきし、袁の子息しそく袁克じょう中国語ちゅうごくごばんとも接触せっしょくし、南北なんぼく和議わぎにおける南方なんぽう委員いいんとなってまごぶん代理だいりとして両者りょうしゃ連携れんけい画策かくさくし、秘密裏ひみつり協議きょうぎかさねた[5]かれ暗躍あんやくもあって南北なんぼく和議わぎ密約みつやく成立せいりつ、2がつには袁世凱の圧力あつりょくのもとせんすべみかど退位たいいして清朝せいちょう崩壊ほうかいし、始皇帝しこうてい以来いらい専制せんせい王朝おうちょう体制たいせいわりをげた[1][4][5][18]。その直後ちょくご密約みつやくどおり、まごぶん臨時りんじだい総統そうとう辞職じしょくすることを表明ひょうめいし、3月、袁世凱が臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした[2][5][18]ひろしちょうめいのこのうごきはしかし、革命かくめいのなかでは、後退こうたいした戦略せんりゃくとして問題もんだいされることもあった[1][2][17]

フランス留学りゅうがく

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ひろしちょうめいは、1912ねん2がつに、アナーキストのせき主宰しゅさいする進徳しんとくかい入会にゅうかいした[5]進徳しんとくかい会則かいそくに「官職かんしょくかない」という規定きていがあり、ひろしは、革命かくめいからは広東かんとんとく推薦すいせんされ、袁世凱からも総統そうとう高等こうとう顧問こもんさそいがあったにもかかわらず、そのいずれも固辞こじしている[5]南北なんぼく和議わぎ奔走ほんそうしたものの、そのまごぶん政治せいじ活動かつどうからは次第しだい距離きょりくようになった[5]ひろしちょうめいによれば、「みんこく元年がんねんからみんこく10ねんまで」すなわち1912ねんから1921ねんまでは、かれにとっては「修養しゅうよう時代じだい」だったのである[5]

1912ねん8がつ正式せいしき結婚けっこんしたひろしちょうめいひね璧君は新婚しんこん旅行りょこうねてのフランス留学りゅうがくたびだった[5][8]ひろしちょうめいはかねてより、系統けいとうだった近代きんだい教育きょういくみずからに欠落けつらくしていることを憂慮ゆうりょしており、短期間たんきかん日本にっぽん留学りゅうがくだけではらなかったのである[5]。しかし、有能ゆうのう部下ぶか手元てもときたいまごぶんは、ひろしわたりふつにいったんはつよ反対はんたいしている[5]

ひろしちょうめい夫妻ふさいは、パリ郊外こうがいモンタルジきょかまえ、家庭かてい教師きょうしからフランス語ふらんすごならい、フランス文学ぶんがく社会しゃかいがくまなびながら、書籍しょせきんだり翻訳ほんやくしてごした[5][8]。ときどき中国ちゅうごく帰国きこくしたもののほぼ5年間ねんかんヨーロッパらしたが、ヨーロッパには、ちん璧君のおとうとちんあきらどう志方しかたくんあきらとそのいもうとほうくん同志どうし曾醒とそのおとうと曾仲などが勉学べんがくねて同行どうこうした[8]。この生活せいかつのなかで長男ちょうなんひろしぶん嬰が1913ねん長女ちょうじょひろしぶん惺が1914ねん、それぞれフランスでまれている[8]

フランス留学りゅうがくちゅうひろしは、アナーキズムの影響えいきょうした蔡元つちかえややあきらせきらとともに「教育きょういく救国きゅうこく」の活動かつどうにもたずさわった[5]。アナーキズムは、権力けんりょく機構きこう法律ほうりつ依拠いきょしない相互そうご扶助ふじょ社会しゃかい目指めざしており、自立じりつ友愛ゆうあい精神せいしんちたひとびとの自発じはつてき結合けつごうをその前提ぜんていとしているが、そこから教育きょういく重要じゅうようせいみちびかれる[5]言論げんろん出版しゅっぱん自由じゆうとおして、国民こくみん意識いしきえ、思想しそうえることにおおいなる意義いぎかんじていたひろしは、「教育きょういく救国きゅうこく活動かつどう一環いっかんとして、各種かくしゅ雑誌ざっし発行はっこうし、ざいふつ中国人ちゅうごくじん学生がくせいのための互助ごじょかい組織そしきし、また、中仏ちゅうふつリヨン大学だいがく設立せつりつにも尽力じんりょくした[5]

修養しゅうよう時代じだい」にあっても、ひろしなん中国ちゅうごく帰国きこくしている[5]中国ちゅうごく同盟どうめいかいしょ党派とうは合流ごうりゅうさせ、議会ぎかい政党せいとうとすべく組織そしきされた国民党こくみんとうみのおやであるそうきょうひとしが、1913ねんに袁派の刺客しかくによって暗殺あんさつされてからだい革命かくめい失敗しっぱいまでの期間きかんだいいち世界せかい大戦たいせんなか1915ねんには日本にっぽんによるたいはな21かじょう要求ようきゅう受諾じゅだくしてから袁世凱が皇帝こうてい推戴すいたいされる年末ねんまつまでの期間きかん、それぞれすうげつあいだ中国ちゅうごく滞在たいざいした[5][20]。なお、だい革命かくめい失敗しっぱいまごぶん日本にっぽん亡命ぼうめいし、1914ねん6がつ東京とうきょうにて中華ちゅうか革命かくめいとう結成けっせいした[2][21]はん勢力せいりょく結集けっしゅうし、だいさん革命かくめいばれる武装ぶそう蜂起ほうき各地かくちこるなか、袁世凱は1916ねん6がつ死去しきょし、その中国ちゅうごく軍閥ぐんばつ割拠かっきょする情勢じょうせいとなった[22]

帰国きこく

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1916ねん外遊がいゆうちゅうひろし当時とうじ広東かんとんしょう革命かくめいぐん指導しどうしていたまごぶんまねかれ、1917ねん1がつにはなが旅行りょこうえてシベリア経由けいゆ帰国きこくした[1][2][4][8]まごぶんは1917ねん7がつ中旬ちゅうじゅんに「護法ごほう」(1912ねん3がつ臨時りんじやくほうまもる、の)を宣言せんげんして護法ごほう運動うんどうはじまった[23]。8月にはきゅう国会こっかい議員ぎいん広州こうしゅうまねき、定足数ていそくすうたないまま「国会こっかい非常ひじょう会議かいぎ」(護法ごほう国会こっかい)を発足ほっそくさせて、広州こうしゅう広東かんとんぐん政府せいふ樹立じゅりつすることを決議けつぎした[23]同年どうねん9がつまごぶんはみずから大元帥だいげんすい就任しゅうにんして広東かんとんぐん政府せいふ発足ほっそくさせたが、ひろしはこれにまごぶん側近そっきんとして協力きょうりょくし、「最高さいこう顧問こもん」という肩書かたがき活動かつどうした[1][2][4][8][24]。ただし、ひろしまごぶん行動こうどうともにしながらも「官職かんしょくかない」というモットーをまもり、広東かんとん政府せいふから秘書ひしょちょうへの就任しゅうにん要請ようせいがあっても固辞こじしている[5]

1919ねん1がつだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつにともなうパリ講和こうわ会議かいぎさいしても、広東かんとん政府せいふどう会議かいぎ政府せいふ代表だいひょうおくると決定けっていし、ひろし代表だいひょうへの就任しゅうにん要請ようせいされたが、これを固辞こじし、個人こじん民間みんかんじん)の資格しかく出席しゅっせきした[4][5]。なお、このとし5月4にちしん文化ぶんか運動うんどう背景はいけいとした抗日こうにち学生がくせい労働ろうどうしゃによるよん運動うんどう北京ぺきんこり、これをまごぶん従来じゅうらい愚民ぐみんてき民衆みんしゅうかんあらため、共産きょうさん主義しゅぎしゃとも接触せっしょくするようになった[5][8]ひろしわたりおうしていた1914ねん設立せつりつしていた中華ちゅうか革命かくめいとう改組かいそして、1919ねん10がつまごぶん中国ちゅうごく国民党こくみんとう結党けっとうした。よく1920ねんひろし夫妻ふさいには次女じじょひろしぶんあきらまれている。

政治せいじおもて舞台ぶたい

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1921ねんひろしちょうめい広東かんとんしょう教育きょういくかい会長かいちょう就任しゅうにん承諾しょうだくし、ようやく政治せいじてき役職やくしょくいた[5]。これをに、ひろしながい「修養しゅうよう時代じだい」はわり、これより政治せいじおもて舞台ぶたいつこととなる[5]。しかし、まごぶん広東かんとん政府せいふ1922ねん6がつちょく隷派と内通ないつうしていた広東かんとん軍閥ぐんばつちん炯明反乱はんらんにより瓦解がかいした[5]まごぶんいのちからがら上海しゃんはい脱出だっしゅつし、また、同盟どうめいかい以来いらい盟友めいゆうこした反乱はんらんであったため、失敗しっぱい裏切うらぎりにはれていたはずのまごぶん意気いき阻喪そそうした[5][25]まごぶんにとって、そこから再起さいきする方策ほうさくが「れんソ・容共ようきょう」の路線ろせんであった[25]。なお、1922ねんにはさんじょひろしぶんまことまれている。

1923ねん1がつまごぶんソビエト連邦れんぽう政府せいふ代表だいひょうアドリフ・ヨッフェとともに「中国ちゅうごくにとってもっと緊急きんきゅう課題かだいみんこく統一とういつ完全かんぜんなる独立どくりつにあり、ソ連それんはこのだい事業じぎょうたいして熱烈ねつれつ共感きょうかんをもって援助えんじょする」との共同きょうどう宣言せんげんはっし、「れんソ・容共ようきょう路線ろせん鮮明せんめいにした[25]同年どうねん3がつまごぶん北京ぺきん政府せいふ反対はんたいする地方ちほう政権せいけん広東かんとん大元帥だいげんすい組織そしきした[25][26]ソ連それんは、政治せいじ顧問こもんとしてコミンテルン活動かつどうミハイル・ボロディンを、軍事ぐんじ顧問こもんとしてヴァシーリー・ブリュヘル通称つうしょうガレン)らをおくって広東かんとん政府せいふ援助えんじょした[8][25][26]

まごぶん・ヨッフェ共同きょうどう宣言せんげんでは、ソビエト制度せいど中国ちゅうごく適合てきごうしないと言及げんきゅうされていたにもかかわらず、両者りょうしゃ思想しそうてき差異さいみとめたうえで連合れんごうし、一方いっぽうとうレベルでは「容共ようきょう」つまり、中国ちゅうごく国民党こくみんとう上位じょういったうえで中国共産党ちゅうごくきょうさんとうれる「党内とうない合作がっさく」の方法ほうほう採用さいようされた[25]。すなわち、ぜん共産きょうさん党員とういん同時どうじ個人こじん資格しかく国民党こくみんとう加入かにゅうし、じゅう党籍とうせきをもつというかたちである[25][26]中国共産党ちゅうごくきょうさんとうはこれに反対はんたいしたが、コミンテルンはその方式ほうしきった[25]。こうしてだいいち国共こっきょう合作がっさく成立せいりつした[2][25]。ただし、まごぶんの「赤化せっか」を懸念けねんするこえとう内外ないがいからがった[25]

ひろしちょうめい当初とうしょまごぶんすすめる国共こっきょう合作がっさくには消極しょうきょくてきだったといわれる[5]。かれは、急進きゅうしんてき民族みんぞく主義しゅぎものとしてまごぶんにしたがい、国民党こくみんとう左派さはひきいてはん帝国ていこく主義しゅぎ運動うんどう積極せっきょくてきすすめた一方いっぽう、アナーキズムの影響えいきょうもあってマルクス主義まるくすしゅぎほうじるソビエト連邦れんぽう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう全面ぜんめんてき信頼しんらいせることができなかったのである[2][5][8]

このとしの6がつひろし夫婦ふうふにとっては革命かくめい同志どうしであり、ともにヨーロッパでまなんだほうくんあきらひろし腹心ふくしん曾仲夫人ふじんかたくん璧のあね)が自殺じさつしている[8]彼女かのじょは、ボルドー大学だいがく数学すうがくまなび、中国人ちゅうごくじん女子じょし留学生りゅうがくせいとしてはつ博士はかせごう取得しゅとくした才女さいじょであった[7]。また、同年どうねん9がつには学校がっこう設立せつりつのために在米ざいべい華僑かきょうから募金ぼきんあつめるためアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくわたったひろし夫妻ふさいが、その次男じなんをもうけたが、1かげつらずで肺炎はいえんのためくしてしまった[8]

1924ねんみんこく13ねん)1がつ広州こうしゅうでひらかれた中国ちゅうごく国民党こくみんとうだいいちかい全国ぜんこく大会たいかいでは、ソ連それん制度せいど模倣もほうした中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい体制たいせいがつくられた[25]中央ちゅうおう執行しっこう委員いいん総員そういん24めいで、ひろしちょうめい胡漢民こかんみん廖仲愷などのほか、だいら3めい共産きょうさん党員とういんふくまれていた[25]。また、中央ちゅうおう執行しっこう委員いいん候補こうほ17めいちゅう共産きょうさん党員とういん毛沢東もうたくとうら7めいおよんだ[25]ひろしは、まごぶん個人こじんてき連絡れんらくがかりのほか、国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい委員いいん宣伝せんでん部長ぶちょう要職ようしょくにつき、胡漢民こかんみんとともにとう双璧そうへきとなった[2][8][24][25]

ひろしはこのころ、覇権はけん主義しゅぎてき姿勢しせいつよめた日本にっぽんを「中国ちゅうごく災難さいなん世界せかい不幸ふこう」とみなすようになり、「我々われわれのこされた唯一ゆいいつみちは、日本にっぽん抵抗ていこうすることである」とべ、日本にっぽんたいしてつよ敵愾心てきがいしんをいだくようになっていた[10]ひろしちょうめいは、国民党こくみんとうにあってはまごぶん直系ちょっけい位置いちにあり、配下はいか有力ゆうりょくしゃであるちん公博きみひろしゅうふつうみとも中国共産党ちゅうごくきょうさんとう設立せつりつかかわった[2]

とう改組かいそ同様どうよう重要じゅうようなのは、とう軍隊ぐんたい創設そうせつである。ひね炯明の反乱はんらん教訓きょうくんに、まごぶんソ連それん赤軍せきぐんのように思想しそうてき武装ぶそうしたとうぐん国民こくみん革命かくめいぐん)の必要ひつようせい痛切つうせつかんじており、廖仲愷をとう代表だいひょうえらび、1924ねん5がつ蔣介せき黄埔軍こうほぐんかん学校がっこう準備じゅんび委員いいんちょうめいじた[8][25]。蔣をこの学校がっこう校長こうちょうにとつよ推薦すいせんしたのはひろしつまひね璧君であった[8]。なお、ひろしは、5月3にち開校かいこうしき出席しゅっせきし、講演こうえんをおこなっている[27]

一方いっぽう北方ほっぽうでは、袁世凱あと北京ぺきん政府せいふ実権じっけんにぎっていた北方ほっぽう軍閥ぐんばつ巨頭きょとうだん祺瑞が、日本にっぽんにおける原内はらうちかく成立せいりつによってうしたてうしない、競争きょうそうしゃであるちょく隷派とそうってやぶれ、いったん失脚しっきゃくした[28]。ところがちょく隷派軍閥ぐんばつ曹錕きゅう国会こっかい議員ぎいん買収ばいしゅうしてだい総統そうとうとなったことで国民こくみん顰蹙ひんしゅくってだい混乱こんらんとなり、ちょうさくひきいる奉天ほうてんぐん北京ぺきん入城にゅうじょうしたものの民心みんしんふくさずだん祺瑞のさい出馬しゅつば要請ようせいするという事態じたいしょうじた[28]

だん祺瑞は広東かんとんにあったまごぶん招請しょうせいした[28]。1924ねん11月、まごぶん北上ほくじょう宣言せんげんはっし、ひろしをともなって日本にっぽん汽船きせんみ、北京ぺきんりして提携ていけい模索もさくしたが、途中とちゅう日本にっぽんっている[28]。しかし、日本にっぽん政府せいふは「赤化せっか」したまごぶん東京とうきょうりをゆるさなかった[25]。このとき、まごぶん神戸こうべ高等こうとう女学校じょがっこうで「だい亜細亜あじあ主義しゅぎ」の講演こうえんおこなっている[29]。このなかでまごぶんは、日本にっぽん功利こうり強権きょうけんをほしいままにする「西洋せいよう覇道はどう番犬ばんけん」となるか、それとも公理こうりった「東洋とうよう王道おうどう牙城がじょう」となるかを聴衆ちょうしゅういかけ、中国ちゅうごくのみならずぜんアジア抑圧よくあつ民族みんぞく解放かいほう助力じょりょくすることがアジアで最初さいしょ独立どくりつ富強ふきょう達成たっせいした日本にっぽん進路しんろではないかとうったえた[5][25][26]。しかし、この講演こうえんまごぶん最後さいごのものとなった[26]北京ぺきんくやかれ肝臓かんぞうがん入院にゅういんしてしまったのである[26]

ひろしちょうめいは、1925ねん3月のまごぶん死去しきょさいしては、「革命かくめいひさし成功せいこう同志どうし仍須努力どりょく革命かくめいなおいま成功せいこうせず、同志どうしよってすべから努力どりょくすべし)」との一節いっせつ有名ゆうめい遺言ゆいごんまごぶんのこしょく)をしるした[8][7]ひろしはこれを、病床びょうしょうにあったまごぶんから同意どういたとつたえられており、蔣介せき義兄ぎけいにあたるそうぶんまごぶん子息しそくまごややあきらなにしこりらが証明しょうめいしゃとしてつらね、遺書いしょにはひろしちょうめいが「筆記ひっきしゃ」として筆頭ひっとうしるされている[8]

対立たいりつ協力きょうりょくをくりがえした両雄りょうゆうひろしちょうめいと蔣介せき

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1925ねん7がつ1にち広州こうしゅうでは広東かんとんぐん政府せいふ機構きこう再編さいへんされ、国民党こくみんとう一期いっきさんちゅう全会ぜんかい国共こっきょう合作がっさく中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ広州こうしゅう国民こくみん政府せいふ)が正式せいしき成立せいりつした[30]ひろしちょうめい政府せいふ主席しゅせきつとめ、財政ざいせい部長ぶちょうにはまごぶん片腕かたうでとなって国民党こくみんとう改組かいそ推進すいしんした党内とうない左派さはの廖仲愷が就任しゅうにんした[30][31]。また、こうじん農民のうみんなどの省庁しょうちょうもうけられ、その責任せきにんしゃには国民党こくみんとうせき共産きょうさん党員とういん任命にんめいされた[30]政治せいじ顧問こもんにはボロディンが、軍事ぐんじ顧問こもんにはおなじくソ連それんのブリュヘル(ガレン)がき、ソビエト連邦れんぽうからの緊密きんみつ支援しえん関係かんけい構築こうちくされていた[30]。ところが、同年どうねん8がつ20日はつか、廖仲愷が暴徒ぼうとによって暗殺あんさつされ、その暗殺あんさつ事件じけん従兄弟いとこがかかわっていたとして胡漢民こかんみんみずか国民党こくみんとうない役職やくしょくから退しりぞいた[8][30]。このとき、蔣介せき左派さはくみし、胡漢民こかんみん一時いちじ監禁かんきんしている[31]

こうして、いったん右派うは勢力せいりょく後退こうたいしたものの、11月にはふたた台頭たいとうしてくる[31]戴季すえちょうつぎはやしもりきょただし古参こさん国民こくみん党員とういん一部いちぶが、北京ぺきん郊外こうがい西山にしやま碧雲へきうんてらあつまり、四中全会よんちゅうぜんかい共産きょうさん党員とういん国民こくみん党籍とうせき剥奪はくだつ、ボロディンの解職かいしょくひろしちょうめいの6かげつあいだ党籍とうせき剥奪はくだつなどを公然こうぜん決議けつぎした(西山にしやま会議かいぎ[31]。もとより、左派さははこれを容認ようにんせず、ただちに西山にしやま会議かいぎ決議けつぎされたしょ事項じこう無効むこう宣言せんげんした[31]

1926ねん1がつ国民党こくみんとうだい2かい全国ぜんこく代表だいひょう大会たいかいでは、ひろしちょうめい他者たしゃをおさえて中央ちゅうおう委員いいんだいいち当選とうせんした[4]ひろし国民こくみん政府せいふ主席しゅせきけん軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせき地位ちいき、名実めいじつともに国民党こくみんとう指導しどうしゃとなった[4][8]。なお、当時とうじの蔣介せきはまだ軍事ぐんじ委員いいんかい委員いいん黄埔軍こうほぐんかん学校がっこう校長こうちょうにすぎなかった[8]

広州こうしゅう国民こくみん政府せいふ時代じだい容共ようきょう路線ろせん

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蔣介せきならひろしちょうめい(1926ねん

ひろしちょうめい主席しゅせきつとめる広州こうしゅう国民こくみん政府せいふは、国民党こくみんとう右派うは排除はいじょしたもので、毛沢東もうたくとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう党員とういん参加さんかしていた[2][4][8]。なお、共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいん候補こうほであった毛沢東もうたくとう国民党こくみんとう中央ちゅうおう宣伝せんでん部長ぶちょう代理だいり任命にんめいしたのはひろしであった[32]共産党きょうさんとうだい釗、まごぶん未亡人みぼうじんそうけいよわい、廖仲愷未亡人みぼうじんなにしこりがそれぞれ中央ちゅうおう委員いいんえらばれ、広州こうしゅう国民こくみん政府せいふこそがまごぶん正統せいとう後継こうけいしゃであるというかたちしめされた[31]

広州こうしゅう政府せいふはまた、列国れっこくからの承認しょうにんなかったものの、国民党こくみんとう直接ちょくせつ掌握しょうあくし、政治せいじ軍事ぐんじ財政ざいせい外交がいこう統括とうかつする機関きかんとして、たるべき全国ぜんこく統一とういつ政権せいけん規範きはんとなるものであった[33]ひろし委員いいんちょうとする政府せいふは、上海しゃんはいこったさん事件じけんとそこから派生はせいした香港ほんこん海員かいいんスト(しょうみなとだい罷工ひこう)を支援しえんしたことにみられるように民主みんしゅてきはん帝国ていこく主義しゅぎ側面そくめんをもっており、広州こうしゅう国民こくみん革命かくめい拠点きょてんとすることに成功せいこうしたのである[2]

しかし、国共こっきょうりょうとうあいだ主導しゅどうけんあらそいがつづく情勢じょうせいのなか、1926ねん3がつ20日はつか蔣介せき戒厳かいげんれいき、共産きょうさん党員とういん逮捕たいほし、ソビエト連邦れんぽう顧問こもんだん住居じゅうきょしょうみなとストライキ委員いいんかい包囲ほういする中山なかやまかん事件じけんさん事件じけん)をこすと、ひろし蔣間の対立たいりつ激化げきかした[5][8][33]。これは、軍艦ぐんかん中山ちゅうざんかん動静どうせいをみた蔣介せきが、共産党きょうさんとうがわによるクーデタ準備じゅんびではないかと疑念ぎねんをいだいてこしたものであった[30]。この事件じけんによって、蔣は国民こくみん政府せいふれんせき会議かいぎにおいて軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせきえらばれ、とうぐんにおける権勢けんせい拡大かくだいさせた[4][8][33]ひろしは蔣介せき越権えっけん行為こうい不服ふふくとし、病気びょうき理由りゆうみずか職責しょくせき辞任じにんしてフランスに外遊がいゆうした[4][5][8][33]。しかし、これを国民党こくみんとうないにおける蔣介せきひろしちょうめい立場たちば逆転ぎゃくてんし、その一方いっぽう共産党きょうさんとう活動かつどうおおきく制限せいげんされることとなった[5][30]

1926ねん7がつ、蔣介せきはみずから国民こくみん革命かくめいぐんそう司令しれいとなって、いわゆる「きた」を開始かいしした[2][8][34]。蔣を中心ちゅうしんとするしん右派うは共産党きょうさんとう抑圧よくあつはかったが、共産党きょうさんとうが蔣に譲歩じょうほしてきた同意どういした[2][8]。また、すでにぐんけん掌握しょうあくした蔣介せき政権せいけんをもにぎろうとして江西えにししょうみなみあきらへの遷都せんとはかったが、はん蔣の左派さは共産きょうさんはこれに抵抗ていこうし、1927ねん1がつ湖北こほくしょう武漢ぶかんへの遷都せんと強行きょうこうした[2][8][34]。そして、武漢ぶかん国民こくみん政府せいふだいさんちゅう全会ぜんかいそう司令しれいしょくはいして蔣介せきいち軍事ぐんじ委員いいん格下かくさげし、国民党こくみんとう政府せいふ大権たいけんひろしちょうめいたくして蔣介せき対抗たいこうしようとした[2][8]

容共ようきょうから反共はんきょうへ-武漢ぶかん国民こくみん政府せいふ時代じだい

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1927ねん以前いぜんひろしちょうめい

とうぐんでの権力けんりょく確立かくりつしたかにみえた蔣介せきであったが、それまで党内とうない業務ぎょうむ関係かんけいしていなかった蔣が共産きょうさん党員とういん内部ないぶにかかえたとう仕切しきるのは困難こんなんで、1927ねん3がつ、蔣はひろしちょうめいにフランスからの帰国きこく要請ようせいした[4][8]

国民党こくみんとう左派さは共産党きょうさんとうは、3月で武漢ぶかんでひらかれた国民党こくみんとうだいだいさんかい中央ちゅうおう委員いいんかい優位ゆうい確保かくほしたのにたいし、蔣介せき国民こくみん革命かくめいぐん主流しゅりゅうは、上海しゃんはい財界ざいかい支持しじ背景はいけいとしてはやしもり国民党こくみんとう西山にしやま会議かいぎとも提携ていけいして、これに対抗たいこうした[35]

蔣の招電しょうでんおうじて4がつ1にちソ連それん経由けいゆ上海しゃんはい到着とうちゃくし、さい帰国きこくしたひろしは、中央ちゅうおう常務じょうむ委員いいん組織そしき部長ぶちょうかえいた[1][4]ひろしちょうめいと蔣介せき上海しゃんはい会談かいだんしたが、ひろしは蔣の国共こっきょう合作がっさく解消かいしょう要求ようきゅうにはおうじず、わりに国民党こくみんとう中央ちゅうおう全体ぜんたい会議かいぎ開催かいさいすることにより、左派さは共産党きょうさんとうと蔣介せき勢力せいりょくとのあいだ対立たいりつ調停ちょうていすべきことを提案ていあんした[5]。しかし、結局けっきょく、蔣介せき共産党きょうさんとうとの調停ちょうていには成功せいこうしなかった[4]ひろし一方いっぽう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとのはないにはいった[4]

4がつ5にちひろしちょうめい共産党きょうさんとう中心ちゅうしん人物じんぶつであるちんどくしゅうとともに「中国ちゅうごく国民党こくみんとう多数たすう同志どうし、およそ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう理論りろんおよびその中国ちゅうごく国民党こくみんとうたいする真実しんじつ態度たいど了解りょうかいする人々ひとびとは、だれも蔣総理そうりれんども政策せいさくをうたがうことはできない」との共同きょうどう声明せいめいひろしちん共同きょうどう声明せいめい)を発表はっぴょうした[4][32][36]。この声明せいめいは、ひろし国民党こくみんとうないでも蔣とのあいだに路線ろせん対立たいりつがあることをなかばみとめ、共産党きょうさんとうひろしとの協力きょうりょくのもとで蔣排斥はいせき立場たちばにあることを示唆しさしつつ、蔣が容共ようきょう政策せいさくることをもとめるという内容ないようであった[36]

ひろし上海しゃんはいから武漢ぶかんかった直後ちょくご4がつ12にち、蔣介せきひろしてにならないと判断はんだんし、反共はんきょうクーデター(上海しゃんはいクーデター)を断行だんこうし、共産党きょうさんとう弾圧だんあつした[4][5][24][32][35]。蔣介せきそうひとしぐんが、共産党きょうさんとうけい労働ろうどう団体だんたいである上海しゃんはいそうこうかい武装ぶそう行動こうどうたい武装ぶそう解除かいじょし、流血りゅうけつ惨事さんじとなったのである[34][35]。これは、3月に南京なんきん入城にゅうじょうたした国民こくみん革命かくめいぐん日本にっぽんイギリス領事館りょうじかん、アメリカけい大学だいがくなどに侵入しんにゅうして略奪りゃくだつ暴行ぼうこうをはたらいた南京なんきん事件じけん背後はいごに、はん帝国ていこく主義しゅぎかかげる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうソ連それんじん顧問こもん暗躍あんやくがあると蔣が判断はんだんし、危惧きぐしたためにこされたといわれている[5][32]

武漢ぶかん国民こくみん政府せいふは、即座そくざに蔣介せきをすべての職務しょくむから解任かいにんし、国民党こくみんとうからも除名じょめいした。しかし、4がつ18にち、蔣介せき江蘇ちぁんすーしょう南京なんきん反共はんきょうかかげるあたらしい国民こくみん政府せいふ主席しゅせき胡漢民こかんみん)を組織そしきし、共産党きょうさんとう影響えいきょうつよ武漢ぶかん国民こくみん政府せいふから離脱りだつした[35][37]。蔣は、国民党こくみんとうないから共産きょうさん党員とういんやその同調どうちょうしゃ国民党こくみんとう左派さはなどを摘発てきはつし、逮捕たいほないし殺害さつがいする「きよしとう運動うんどう」をひろげていった[35]

ひろしちょうめい武漢ぶかん政府せいふのこり、蔣介せき逮捕たいほれいはっした[24][38]。ところが4がつ下旬げじゅん武漢ぶかんかんこう埠頭ふとうにはえいべいにちふつなどの軍艦ぐんかんけい42せきそろい、武漢ぶかん政府せいふ威圧いあつくわえた[39]武漢ぶかん駐在ちゅうざい外国がいこく企業きぎょう活動かつどう停止ていしし、企業きぎょうたちは武漢ぶかんはなれ、政府せいふ破産はさん状態じょうたいおちいりかけた[39]

こうしたなか、6月1にちヨシフ・スターリンからのあたらしい訓令くんれい中国ちゅうごく在留ざいりゅうコミンテルンのインドじん革命かくめいマナベンドラ・ロイのもとにもたらされたことを契機けいきとして、ひろし変心へんしんする[8][38]。ロイはこの秘密ひみつ電報でんぽうひろしちょうめいしめし、訓令くんれい承認しょうにんをせまったが、その内容ないようは「革命かくめい法廷ほうてい」をもうけるなど、内政ないせい干渉かんしょう度合どあいがきわめてつよく、中国ちゅうごく主権しゅけんおおきく侵害しんがいし、私有しゆう財産ざいさん否定ひていする内容ないようだったのである[8][38][39] [注釈ちゅうしゃく 7]

中国ちゅうごくにおける革命かくめい運動うんどう激化げきかは、かえってひろしちょうめい共産党きょうさんとうへのつよ警戒けいかいしんけさせ、はん革命かくめい立場たちばたせることとなった[1][4][8][38]ひろしは7がつはいって共産党きょうさんとう絶縁ぜつえんすることを決意けついし、武漢ぶかんにて「ぶんとも」(=きよしとう工作こうさくすすめた[4][34][38]7がつ13にち共産党きょうさんとうはコミンテルンからの指示しじもあって武漢ぶかん政府せいふから退去たいきょし、7がつ15にち中国ちゅうごく国民党こくみんとう共産党きょうさんとう批判ひはんおこない、従来じゅうらい容共ようきょう政策せいさく破棄はき宣言せんげんして、3ねんはんにおよぶだいいち国共こっきょう合作がっさくはここに崩壊ほうかいした[34][38][39]

はん共産党きょうさんとう」の立場たちばひろしと蔣の意見いけん一致いっちしたことから、武漢ぶかん政府せいふ南京なんきん政府せいふさい統一とういつがスケジュールにのぼり、1927ねん8がつ、蔣介せき一時いちじてき下野げやすることを条件じょうけんりょう政府せいふ合体がったいすることとなった[4][24][38][41]。こうしたなか、まごぶん未亡人みぼうじんそうけいよわいのみは国民党こくみんとうのなかにあって容共ようきょう路線ろせん継続けいぞく主張しゅちょうし、ソビエト連邦れんぽう亡命ぼうめいした[41]。蔣介せきわたりし、田中たなか義一ぎいち首相しゅしょうらと会談かいだんする一方いっぽうそうけいよわいいもうとそうよしよわいとの結婚けっこんばなしすすめた[5]。1927ねん9がつ武漢ぶかん政府せいふ瓦解がかいし、南京なんきん国民こくみん政府せいふ合流ごうりゅうした[41]

南京なんきん国民こくみん政府せいふはん運動うんどう

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1930ねんごろひろしちょうめい

ひろしちょうめい南京なんきんしん政府せいふで、国民こくみん政府せいふ委員いいん軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせきだん委員いいんとう地位ちいいた[4][8]ひろし左派さはさい統合とうごう主導しゅどうけんにぎるために、きゅう西山にしやま会議かいぎなど右派うは支配しはいにある国民党こくみんとう中央ちゅうおう特別とくべつ委員いいんかい解散かいさん要求ようきゅうしたが、れられなかった[5]。そこでひろし抗議こうぎめて国民こくみん政府せいふ役職やくしょく辞任じにんし、左派さは要人ようじんとともに広州こうしゅうおもむいた[5]。しかし、その広州こうしゅうでは左派さは支持しじするちょうはつぐん国民党こくみんとう中央ちゅうおう特別とくべつ委員いいんかい支持しじするぐん襲撃しゅうげきする事件じけん発生はっせいし、中央ちゅうおう特別とくべつ委員いいんかいは、これは左派さは共産党きょうさんとう内通ないつうしてこしたものだと喧伝けんでんした[5]

さらに広州こうしゅうでは、1927ねん12月11にち中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによって広州こうしゅう蜂起ほうき広東かんとんコミューン事件じけん)がこされる[5]。これは共産党きょうさんとうつるぎえいらが指導しどうし、ちょうはつ奎軍の一部いちぶ離反りはんさせて武装ぶそう蜂起ほうきし、ちょうちょう主席しゅせきとするソビエト政府せいふ樹立じゅりつした事件じけんである[5]。これもまた、右派うはにとってはひろし左派さは共産党きょうさんとう内通ないつうしているとの格好かっこう宣伝せんでん材料ざいりょうとなった[5]ひろしちょうめい右派うはによる敵視てきしふくめ、政治せいじ混乱こんらんまねいた責任せきにんをとるとして政界せいかいからの引退いんたい表明ひょうめいよく1928ねん、フランスに旅立たびだった[8]

1928ねん1がつ機能きのう不全ふぜんおちいった国民党こくみんとうからの復職ふくしょく要請ようせいけた蔣介せきふたた国民こくみん革命かくめいぐんそう司令しれい復活ふっかつした[42]。2月には国民党こくみんとうだい四中全会よんちゅうぜんかいひらかれ、国民こくみん革命かくめいぐん委員いいんかい主席しゅせきとなり、3月には中央ちゅうおう政治せいじ会議かいぎ主席しゅせき就任しゅうにんした[42]ぐんせい実権じっけん掌握しょうあくした蔣介せきは、4がつきた再開さいかい宣言せんげんし、国民こくみん革命かくめいぐんを蔣介せき玉祥ぎょくしょう閻錫やまそうひとしの4つの集団しゅうだんぐん再編さいへんした[42]6月8にち国民こくみん革命かくめいぐんきたぐん)は逃亡とうぼうした北洋ほくよう軍閥ぐんばつぐんわって北京ぺきん入城にゅうじょうたした[8][42]きたにひとまず成功せいこうして中国ちゅうごく統一とういつげた蔣介せきであったが、やがて国内こくないでは、独裁どくさい方向ほうこううごした蔣と、そのうごきに反発はんぱつするはん蔣派との対立たいりつ顕著けんちょになった[1][43]祖国そこくはなれたひろしちょうめい情報じょうほうにうとくなり、その影響えいきょうりょく以前いぜんより低下ていかした[8]

1928ねん10がつ国民党こくみんとう中央ちゅうおう常務じょうむ委員いいんかいをひらき、立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう監察かんさつ考試こうしいん最高さいこう機関きかんとし、民衆みんしゅう運動うんどう制限せいげんして「くんせい」によるいちとう独裁どくさい政治せいじをおこなう南京なんきん国民こくみん政府せいふ正式せいしき発足ほっそくさせ、蔣介せき主席しゅせきとなった[43][44]。12月には、6月のちょうさく爆殺ばくさつ事件じけんによって日本にっぽんへの憤懣ふんまんをつのらせていたまんしゅうちょうまなぶりょうも蔣介せき陣営じんえいくわわり、これ以降いこう中国ちゅうごく全体ぜんたい代表だいひょうする唯一ゆいいつ中央ちゅうおう政府せいふとなった[8][44]

しかし、この政府せいふ反面はんめんではしん軍閥ぐんばつ不安定ふあんてい連合れんごうにすぎなかった[43]実際じっさいぐん中央ちゅうおう集権しゅうけん抵抗ていこうして広西ひろせ軍閥ぐんばつそうひとしはくたかし反旗はんきひるがえしたのを皮切かわきりに、閻錫山しゃくざん・馮玉祥ぎょくしょうちょうはつ奎をはじめとして各地かくちだい規模きぼはん運動うんどうこった[24][43]

一方いっぽうひろしちょうめい立場たちばちかいのが民衆みんしゅう運動うんどう推進すいしんなど国民党こくみんとう改組かいそ方針ほうしん継承けいしょうつよ主張しゅちょうするちん公博きみひろらの左派さは改組かいそ)で、雑誌ざっし革命かくめい評論ひょうろん』などを発行はっこうして青年せいねん党員とういんへの影響えいきょうおおきかったし、その一方いっぽうでは右派うはきゅう西山にしやま会議かいぎ胡漢民こかんみんまごらの広東かんとんといったグループも無視むしできないちからゆうしており、蔣介せき優位ゆういかならずしも絶対ぜったいではなかった[44]共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう湖南こなみ農民のうみん革命かくめい指導しどうりかかっていた[24]

こうした不穏ふおん情勢じょうせいのなか、1929ねんから1930ねんにかけて、4にわたってはん蔣戦そうこったのであった[5]改組かいそは、このうちのだいいちせんでは傍観ぼうかん姿勢しせいくずさなかったが、だいせんでははん蔣の立場たちば鮮明せんめいにしてひろしちょうめい待望たいぼうろんとなえた[5]外遊がいゆうしていたひろしはん蔣派から出馬しゅつばわれ、1929ねん10がつ、ひそかにフランスから香港ほんこんもどり、権力けんりょく回復かいふくつとめ、だいさんせんでは積極せっきょくてき関与かんよした[4][5][43]。1930ねん2がつ勃発ぼっぱつしただいよんせん壮絶そうぜつたたかいとなった[5]

ひろしちょうめい閻錫やま(1930ねん9がつ9にち

1930ねん9がつ北平きたひら北京ぺきん)で閻錫やま主席しゅせきとするしん国民こくみん政府せいふ樹立じゅりつされ、各地かくちはん蔣の政客せいかくがぞくぞくと北平きたひらあつまった[4][43][44]。ここにあつまったのは、政治せいじてきには極左きょくさから極右きょくうまでをふく雑多ざったひとびとであった[43]。そのなかにひろしちょうめいのすがたもあったが、おりしも、このとしの5月より蔣介せきひきいる中央ちゅうおう政府せいふぐんとのあいだで中原なかはら大戦たいせんばれるだい規模きぼ内戦ないせんしょうじ、最終さいしゅうてきちょうまなぶりょう東北とうほくぐん中央ちゅうおう政府せいふがわったこともあって、北平きたひら国民こくみん政府せいふ戦局せんきょく不利ふりさとって下野げや表明ひょうめいし、政権せいけん瓦解がかいした[4][43][44]ひろしちょうめいは、蔣介せきによるファシズムしょくつよい「くんせい時期じきやくほう」(1929ねん綱領こうりょう確定かくてい、1931ねん制定せいてい)にたいし、民主みんしゅてきやくほうとして「ふとげんやくほう」の制定せいていをはかったがはん連合れんごう敗北はいぼくとともに頓挫とんざした[45]ひろし国民党こくみんとうから除名じょめい処分しょぶんけたが、このころには、かつての国民党こくみんとう左派さは指導しどうしゃとしての性格せいかくはだいぶうしなわれていた[4][43]。また、当時とうじひろしちょうめいひょうして「ぬえまと」とする見解けんかいもある[24]

ひろしはそのはん運動うんどうをつづけ、しばらく香港ほんこん蟄居ちっきょしたのち、1931ねん5月、はん蔣派(広東かんとん)の結集けっしゅうする広東かんとん臨時りんじ国民こくみん政府せいふ参画さんかくした[1][2][44][45][46][47]南京なんきん政府せいふには蔣介せきそうぶんちょう静江しずえ浙江せっこう財閥ざいばつ背景はいけいにした一派いっぱつどい、広東かんとん政府せいふにはひろしのほか、まごはやしもりもとたかしさとしから紹儀はん勢力せいりょくあつまり、広西ひろせ軍人ぐんじんはん蔣介せきうごきをつよめた[47]

まんしゅう事変じへんと蔣汪合作がっさく政権せいけん

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1931ねんみんこく20ねん9月18にちやなぎじょうみずうみ事件じけん契機けいきとしてまんしゅう事変じへんこると、ひろしふたたび蔣の南京なんきん政府せいふ協力きょうりょくして日本にっぽん対峙たいじする方針ほうしんてんじた[1][4][8][44][48]。蔣介せき急遽きゅうきょみなみあきらから南京なんきんかえり、ひろしちょうめいらの広東かんとん臨時りんじ国民こくみん政府せいふたいし、一致いっちして国難こくなん対処たいしょすることを提唱ていしょうし、妥協だきょうもうれた[44][49]。その結果けっか9月28にちから29にちにかけて、南京なんきん政府せいふちんめいくるるちょうつぎ・蔡元つちかえ広東かんとん政府せいふひろしちょうめいまご参加さんかして香港ほんこん会議かいぎひらき、蔣介せき下野げや声明せいめいすると同時どうじ広東かんとん政府せいふ独立どくりつすという通電つうでんはっし、そのうえで統一とういつ会議かいぎひらいてあらたに統一とういつ政府せいふ組織そしきすることで合意ごういした[49]

上海しゃんはい到着とうちゃくしたリットン調査ちょうさだんいちぎょう

1932ねん1がつ1にちまご行政ぎょうせい院長いんちょうとする南京なんきん国民こくみん政府せいふ成立せいりつした[2][44]。しかし、日本にっぽん中国ちゅうごくたい抗日こうにち団体だんたい解散かいさん要求ようきゅうし、それにたいして抗日こうにち団体だんたいがわ排日はいにちボイコットのみならずたいにち国交こっこう断絶だんぜつ宣戦せんせん要求ようきゅうし、弱体じゃくたいまご内閣ないかくはそれをけてたいにち断交だんこう宣戦せんせん布告ふこく敢行かんこうしようとした[50]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくヘンリー・スティムソン国務こくむ長官ちょうかんは、上海しゃんはいでのこうしたうごきを危惧きぐし、たいにち断交だんこうつよ反対はんたいしていた蔣介せき政権せいけん復帰ふっきのぞんだ[50]。より穏健おんけんな蔣介せき政権せいけん復帰ふっきのぞてんでは日本にっぽんおなじであった[50]排日はいにちボイコットにかんしては、アメリカはこれを支持しじし、イギリスはむしろ日本にっぽん支持しじし、抑制よくせいすべきとの立場たちばであった[50]

国内こくないてきには蔣介せき抵抗ていこう牽制けんせいにより行政ぎょうせい能力のうりょくうしない、にちべいえいいずれからも忌避きひされたまご政権せいけんは1かげつらずで瓦解がかいした[50]まご1がつ23にち南京なんきんり、25にち上海しゃんはい辞意じい表明ひょうめいした[50]

南京なんきん国民こくみん政府せいふ中央ちゅうおう政治せいじ会議かいぎは、1がつ28にちひろし後任こうにん行政ぎょうせい院長いんちょうえらび、鉄道てつどう部長ぶちょうねさせた[1][2][4][50][51]外交がいこう部長ぶちょうにはぶんみき財政ざいせい部長ぶちょうにはあなさち就任しゅうにんし、蔣介せき軍事ぐんじ責任せきにんしゃとして復帰ふっきした[50]。蔣汪合作がっさく政権せいけん成立せいりつである[1][2][4][50]。これは、蔣介せき中心ちゅうしんとなり、それをひろしちょうめい緊密きんみつ協力きょうりょくするというかたちをとっており、ひろしは蔣介せきには軍事ぐんじをまかせ、みずからは政務せいむ分担ぶんたんした[2][44]。蔣汪合作がっさく政権せいけんはこのより1935ねん11月のひろしちょうめい狙撃そげき事件じけんまでつづくことになるが、皮肉ひにくなことに、この1月28にちには上海しゃんはいだいいち上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつしたのだった[51]

蔣介せきは、これにたいし、「世界せかい平和へいわのために暴力ぼうりょく否定ひていする」と宣言せんげんするとともに長期ちょうき抵抗ていこう方針ほうしんしめし、たいにち交渉こうしょう開始かいしすると同時どうじ河南かなんしょう洛陽らくようへの遷都せんと決定けっていした[50][51]ひろしちょうめい1がつ31にちに蔣介せき方針ほうしん支持しじする講話こうわ発表はっぴょうし、遷都せんとは、日本にっぽん暴力ぼうりょくくっしたのではなく、有効ゆうこう抵抗ていこうはかるためであると国民こくみん説明せつめいした[51]同時どうじに、日本にっぽんとの国交こっこう断絶だんぜつには断固だんことして反対はんたいしており、この方針ほうしんを「いちめん抵抗ていこういちめん交渉こうしょう」と表現ひょうげんした[8]上海しゃんはい事変じへん停戦ていせん協定きょうていは、蔣介せきひきいるだいじゅうきゅうぐん善戦ぜんせんしたこととひろしちょうめい中心ちゅうしんとする交渉こうしょう順調じゅんちょうおこなわれたことにより、中国ちゅうごくがわ有利ゆうりにはたらき、結果けっかとして日本にっぽんぐん撤退てったいした[8]

2がつ15にちひろしはあらためて「いちめん抵抗ていこういちめん交渉こうしょう」とだいする講演こうえんおこない、たいにち方針ほうしん全面ぜんめんてき開示かいじし、断交だんこうなどをともなう過激かげき徹底てってい抗戦こうせん主義しゅぎも、たたかわないで降伏ごうぶくしようとする敗北はいぼく主義しゅぎもともに間違まちがいであるとして、両論りょうろん批判ひはんした[4][8][51]ひろしちょうめいかんがかたは、抵抗ていこう裏付うらづけがあってはじめて交渉こうしょう有効ゆうこうにはたらくというものであり、そのてんからちょうまなぶりょう無抵抗むていこう主義しゅぎ反対はんたいし、ちょうへいげないならばかれへの財政ざいせいてき援助えんじょると言明げんめいした[8]各省かくしょうしょうちょう割拠かっきょして中央ちゅうおう指令しれいにしたがわないようでは国家こっかとしてのまとまりがつかず、国内こくない統一とういつがなされていない状態じょうたいでは抵抗ていこう交渉こうしょうりたないというのがひろしかんがえであった[8]。このとしの3がつひろしは、事変じへん調査ちょうさのために南京なんきんをおとずれたリットン調査ちょうさだんいちぎょう面会めんかいしている[52]

ひろしちょうめい以上いじょうのようなかんがえから無抵抗むていこう政策せいさくかかげるちょうまなぶりょう圧力あつりょくをかけ、北平きたひら綏靖おおやけしょ主任しゅにんめさせたが、このとき蔣介せきちょうすくいのべている[8]。蔣はちょうみをはかったのであるが、ひろしはこの措置そち憤慨ふんがいした[4][8]そうぶん財政ざいせい政策せいさくにも不満ふまんをいだいていたひろしは、8がつ5にち行政ぎょうせいいん院長いんちょう辞任じにんして、2かげつ病気びょうき療養りょうようとしてわたりおうした[4][8]

1933ねん3月、ひろし帰国きこくして行政ぎょうせいいん院長いんちょう復職ふくしょくし、外交がいこう部長ぶちょうをも兼任けんにんしてたいにち交渉こうしょうにあたった[2][4][8]3月26にちひろしと蔣介せきは「剿共」(全力ぜんりょく共産党きょうさんとうほろぼす)を決定けっていし、「やすない攘外(まずは共産きょうさん勢力せいりょくをおさえて国内こくない安定あんてい確保かくほしてから、外国がいこく抵抗ていこうし、対等たいとう和平わへいはなう)」の基本きほん方針ほうしん確認かくにんした[4][8]

同年どうねん5がつひろし関東軍かんとうぐんねつかわ作戦さくせんにともなう塘沽停戦ていせん協定きょうてい締結ていけつにかかわった[53]実際じっさい協定きょうてい締結ていけつしたのは華北かほく政権せいけんであったが、これはひろしまご承認しょうにんのもとにむすばれたのである[53]。この協定きょうていは、実質じっしつてきまんしゅうこく存在そんざい黙認もくにんする要素ようそふくんでいたが、これはひろしとなえる「いちめん抵抗ていこういちめん交渉こうしょう方針ほうしんあらわれでもあった[8][51]。しかし、抗日こうにちによるひろしちょうめい批判ひはんはいっそうはげしさをしていった[8]。1933ねん5月1にちひろしちょうめい抗日こうにちほう反共はんきょうよりも重要じゅうようであるという見方みかた批判ひはんし、もし、共産きょうさん匪賊ひぞくいきおいをえて長江ながえ流域りゅういきまでおかしてきたなら、いずれ中国ちゅうごく列強れっきょう各国かっこく管理かんりにおかれ、日本にっぽんによる侵略しんりゃくよりもいっそう悲惨ひさんなことになるだろうとべた[8]

たいにち宥和ゆうわ路線ろせんひろしちょうめい狙撃そげき事件じけん

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タイム表紙ひょうしかざひろしちょうめい(1935ねん3がつ18にちごう

ひろしはその政府せいふない反対はんたい批判ひはんけつつ、「日本にっぽんたたかうべからず」を前提ぜんていとしたたいにち政策せいさくすすめた[4]日本にっぽんがわからすれば、広田ひろた弘毅こうき外務がいむ大臣だいじん重光しげみつまもる外務がいむ次官じかんとする和協わきょう外交がいこうは、「にちまんささえさんこく提携ていけい共助きょうじょ」によってたい中国ちゅうごく関係かんけい改善かいぜんすすめて平和へいわ確保かくほしようとする方向ほうこうせいをもっていた[54][注釈ちゅうしゃく 8]行政ぎょうせい院長いんちょうけん外交がいこう部長ぶちょうであったひろしはこれにおうじ、南京なんきん総領事そうりょうじ須磨すまわたる吉郎よしろうたいし、まんしゅうこく承認しょうにんには同意どういできないまでも、赤化せっか防止ぼうし急務きゅうむ高調こうちょうして中国ちゅうごく国民こくみんまんしゅう問題もんだいわすれさせる以外いがいにないとかたるまでにたいにち妥協だきょう姿勢しせいしめした[54]

1935ねん11月1にちひろしちょうめいは、国民党こくみんとうろくちゅう全会ぜんかい開会かいかいしき記念きねん撮影さつえいさい、カメラマンによって狙撃そげきされた[4][56]ひろし南京なんきん中央ちゅうおう病院びょういん搬送はんそうされ、つまひね璧君とのちに女婿じょせいとなるなんぶんすぐるはすぐさまけつけた[56]ひろし2人ふたりたいし、「心配しんぱいはいらない。ぬほどのことではないから」とべた[56]ひろしみみうえ左腕さわん背中せなかに3はつたまけたが急所きゅうしょはずれており、生命せいめい別状べつじょうはなかった[56]。ただし、このとき体内たいないから摘出てきしゅつできなかった背中せなかたまが、のちに骨髄腫こつづいしゅ原因げんいんとなり、ひろし死期しきはやめたとされる[56]犯人はんにんは晨光どおり訊社の記者きしゃとしてそのにいたまごおおとりで、だいじゅうきゅうぐんはいちょう小隊しょうたいちょう)だった人物じんぶつである[56]事態じたい急変きゅうへんのなかで、いちはや犯人はんにんって犯人はんにんたおしたのはちょうまなぶりょうだった(ひろしは、これに感謝かんしゃし、のちにちょうステッキおくっている[56])。そのひろし護衛ごえいへい犯人はんにんち、ただちにらえたが、翌日よくじつ犯人はんにん死亡しぼうしており、背後はいご関係かんけいいまもってなぞのままである[56]ひろしたいにち外交がいこうへの不満ふまん犯行はんこう動機どうきとされている[56][57]

療養りょうようのためひろしは、1936ねん2がつにヨーロッパへわたり、ドイツ療養りょうようおこない、ドイツ政府せいふ関係かんけいしゃとも交流こうりゅうって、よく1937ねん1がつ中国ちゅうごく帰国きこくした[4][56]。このたびでは、ひろしひね璧君をともなっておらず、彼女かのじょ留守るすちゅう情報じょうほう収集しゅうしゅうをまかせ、腹心ふくしんの曾仲同行どうこうさせた[56]。また、このたびは、日本にっぽん中国ちゅうごく・ドイツの反共はんきょう同盟どうめい可能かのうせいさぐるのも目的もくてきのひとつであった[56]。このあいだたいにち交渉こうしょうは蔣介せきゆだねられたが、そのさなかの1936ねん12月12にち西安しーあん事件じけんこっている[4][56]帰国きこくまえひろしちょうめいは「やすない攘外」の声明せいめいはっし、反共はんきょうだいいち主張しゅちょうした[4][56]。しかし、西安しーあんちょうまなぶりょう連行れんこうされたのちすぐに釈放しゃくほうされた蔣介せきは、すでにれんども抗日こうにち路線ろせん鞍替くらがえしていたのであった[56]ひろしは、たびかさなる外遊がいゆう反共はんきょう主義しゅぎによって党内とうない権威けんいうしなっていた[4]帰国きこくしたひろしには国民党こくみんとうのポストはなかったのである[56]

にちちゅう戦争せんそうひろしちょうめい工作こうさく

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1937ねんみんこく26ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんをきっかけに、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)がはじまった。徹底てってい抗戦こうせんつらぬく蔣介せきたいし、ひろしは「抗戦こうせん」による民衆みんしゅう被害ひがい中国ちゅうごく国力こくりょく低迷ていめいしんいため、「反共はんきょう親日しんにち」の立場たちばしめし、和平わへいグループの中心ちゅうしんてき存在そんざいとなった[2][10][56][58]日本にっぽんは、つぎつぎに大軍たいぐん投入とうにゅうする一方いっぽう外相がいしょう宇垣うがき一成いっせいがイギリスの仲介ちゅうかいによる和平わへい模索もさくしていた[56][59]。しかし、宇垣うがき工作こうさく陸軍りくぐん出先でさき陸軍りくぐん内部ないぶ革新かくしん統制とうせい前身ぜんしん)からのつよ反対はんたいけ、頓挫とんざした[56][59]

11月20にち国民こくみん政府せいふ南京なんきんから四川しせんしょう重慶たーちんへの遷都せんと通告つうこくし、一部いちぶ部署ぶしょ湖北こほくしょう武漢ぶかん移転いてんはかられた。12月13にち日本にっぽんぐん国民こくみん政府せいふ首都しゅとであった南京なんきん占領せんりょうした[56]南京なんきんせん)。よく14にちには、日本にっぽんぐん指導しどう北京ぺきんおう克敏かつとし行政ぎょうせい委員いいんちょうとする中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ成立せいりつしている[56]

このころのできごととして、ひろしちょうめい次女じじょひろしぶんあきらに、「いま、ちち計画けいかくしていることが成功せいこうすれば、中国ちゅうごく国民こくみんしあわせがおとずれる。しかし失敗しっぱいすれば、家族かぞく全体ぜんたい末代まつだいまでも人々ひとびとから批判ひはんされるかもしれない。おまえはそれでもいいか」とかたったというエピソードがある[60]

ちゅうはなドイツ大使たいしオスカー・トラウトマン中心ちゅうしんとするトラウトマン工作こうさく失敗しっぱいけた近衛このえ内閣ないかくは、尾崎おざき秀実ひでみによる工作こうさく軍部ぐんぶ強硬きょうこうろん影響えいきょうもあって、1938ねん1がつに「今後こんごは蔣介せき国民こくみん政府せいふ交渉こうしょう相手あいてにしない」という趣旨しゅし近衛このえ声明せいめいだいいち)を発表はっぴょうした[56][61][62]南京なんきん占領せんりょうにちちゅう戦争せんそうじょしゅう作戦さくせん武漢ぶかん作戦さくせん広東かんとん作戦さくせん戦争せんそう長期ちょうき持久じきゅうせんとなっていった[56][61]

1938ねん3がつから4がつにかけて湖北こほくしょうかんこうひらかれた国民党こくみんとう臨時りんじ全国ぜんこく代表だいひょう大会たいかいでは、はじめて国民党こくみんとう総裁そうさいせい採用さいようされ、蔣介せき総裁そうさいひろしちょうめいふく総裁そうさい就任しゅうにんして「徹底てってい抗日こうにち」が宣言せんげんされた[56][63]。すでにとう大勢おおぜいれんども抗日こうにちかたむいており、ひろしちょうめいとしてもふく総裁そうさいとして抗日こうにち宣言せんげんからはずれるわけにはいかなかったのである[56]一方いっぽう3月28にちには南京なんきんりょうひろしこころざし行政ぎょうせい委員いいんちょうとする親日しんにち政権せいけん中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふ成立せいりつしている[56]。こうしたなか、このころからにちちゅう両国りょうこく和平わへい水面すいめんでの交渉こうしょうかさねるようになった[64]。このうごきはやがて、中国ちゅうごくがわ和平わへい中心ちゅうしん人物じんぶつであるひろしをパートナーにかつして「和平わへい」をはかろうとする、いわゆる「ひろしちょうめい工作こうさく」へと発展はってんした[56][58][59][64]

その中心ちゅうしんとなったのは、当初とうしょ国民こくみん政府せいふ外交がいこうアジアきょく日本にっぽん課長かちょうただしどうやすしみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう南京なんきん事務所じむしょちょう西にしよしあきら同盟どうめい通信つうしんしゃ上海しゃんはい支局しきょくちょう松本まつもと重治しげはるらであった[64]西にし松本まつもとただしどうやすし日本にっぽんきに賛成さんせいし、ただしどうやすし日本にっぽんでのスケジュールを陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶだいはち課長かちょうかげただしあきら大佐たいさ依頼いらいした[4][64]。1938ねん2がつまつただしどうやすし西にし部下ぶかである伊藤いとう芳男よしお同行どうこうして来日らいにちし、かげ大佐たいさった[64]かげは、ただしどうやすしとき参謀さんぼう次長じちょう多田ただ駿しゅん中将ちゅうじょうだい部長ぶちょう本間ほんま雅晴まさはる少将しょうしょうささえ班長はんちょう今井いまい武夫たけお中佐ちゅうさらに紹介しょうかいしている[4][64]3月27にちただしどうやすしただしどうやすし上司じょうしこう宗武むねたけ西にし伊藤いとう松本まつもとの5にん香港ほんこん会談かいだんおこない、和平わへい工作こうさくすすめた[64]

ひろしちょうめいは、はやくから「焦土しょうど抗戦こうせん」に反対はんたいし、全土ぜんど破壊はかいされないうちに和平わへいはかるべきだと主張しゅちょうしていた[58]。1938ねん6がつひろしとその側近そっきんであるしゅうふつうみけたこう宗武むねたけわたりして日本にっぽんがわ接触せっしょくこう会談かいだん相手あいてには多田ただ参謀さんぼう次長じちょうふくまれていた[59][64]こう宗武むねたけ自身じしん日本にっぽん和平わへい相手あいてひろしちょうめい以外いがいにないとしながらも、あくまでも蔣介せき政権せいけん維持いじしたうえでの和平わへい工作こうさくかんがえていた[64]

1938ねん10月12にちひろしロイタろいた通信つうしん記者きしゃたいして日本にっぽんとの和平わへい可能かのうせい示唆しさ、さらにそののちちょうすな焦土しょうど戦術せんじゅつたいして明確めいかく批判ひはんあらわしたことから、蔣介せきとの対立たいりつ決定的けっていてきなものとなった[58]日本にっぽんでは、11月3にち近衛このえ文麿ふみまろが「善隣ぜんりん友好ゆうこう共同きょうどう防共ぼうきょう経済けいざい提携ていけい」のさん原則げんそくからる「東亜とうあしん秩序ちつじょ声明せいめい発表はっぴょうしていた(だい近衛このえ声明せいめい[4][29][62][65]。これは、日本にっぽん提唱ていしょうする東亜とうあしん秩序ちつじょ参加さんかするならば、蔣介せき政権せいけんであってもこばまないことをしめしており、だいいち声明せいめい修正しゅうせい意味いみしていた[62][65]一方いっぽう陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ今井いまい武夫たけおによれば、ひろし11月16にちの蔣とのはないで、蔣政けんからの離脱りだつ決心けっしんしたとつたえられる[66]

かげただしあきら

11月、上海しゃんはい重光しげみつどうにおいて、ひろしこう宗武むねたけうめおもえひらたと、日本にっぽん政府せいふからだした参謀さんぼう本部ほんぶ今井いまいかげとのあいだはないがかさねられた(重光しげみつどう会談かいだん[4][64]11月20にち両者りょうしゃは「東亜とうあしん秩序ちつじょ」のれや中国ちゅうごくがわによるまんしゅうこく承認しょうにんがなされれば日本にっぽんぐんが2ねん以内いない撤兵てっぺいすることなどを内容ないようとする「にちはな協議きょうぎ記録きろく」を署名しょめい調印ちょういんした[59][62][64][66]。そして、にちはな防共ぼうきょう協定きょうていがむすばれるならば、日本にっぽん治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいし、租界そかい返還へんかん考慮こうりょするとされたのである[62][64]

この合意ごうい実現じつげんのため、ひろしがわは、「ひろし重慶たーちん脱出だっしゅつする。日本にっぽん和平わへい解決かいけつ条件じょうけん公表こうひょうし、ひろしはそれに呼応こおうするかたち時局じきょく収拾しゅうしゅう声明せいめい発表はっぴょうし、こんあきら雲南うんなんしょう)や四川しせんしょうなどの日本にっぽん占領せんりょう地域ちいきしん政府せいふ樹立じゅりつする」という計画けいかく策定さくていした[59]ひろしちょうめいは、このまま戦争せんそう長引ながびけばかならずや亡国ぼうこくいたるであろうと判断はんだんして重大じゅうだい決断けつだんくだしたのであるが、それでもなお、最終さいしゅうてき調印ちょういん条件じょうけんがもたらされたのちになって、きゅうにこれまでの決定けっていをすべてくつがえして検討けんとうしたいとべるなど、その決断けつだんにはおおきな動揺どうようをともなった[59]。なお、日本にっぽんぐん南京なんきん占領せんりょう以降いこう南京なんきんんでいたつまひね璧君は曾仲用意よういしたちいさな軍艦ぐんかん重慶たーちんにうつり、きむりょう大学だいがくげん南京なんきん大学だいがく当時とうじ四川しせんしょう成都せいと疎開そかい)を卒業そつぎょうしたなんぶんすぐるもまたひね璧君のさそいにおうじて重慶たーちんひろしちょうめいのもとにあつまった[67]

12月18にちひろしはついに重慶たーちんからの脱出だっしゅつ決行けっこうした[59][62][67][68]行動こうどうをともにしたのは、ちん璧君、なんぶんすぐる腹心ふくしんの曾仲末端まったん秘書ひしょちんつね燾、ボディガードのれんのきであった[67]脱出だっしゅつにあたってひろしは、蔣介せきにあてて長文ちょうぶん書簡しょかんをしたためたが、その末尾まつびには「きみ安易あんいみちけ、苦難くなんみちく」とかれていた[67]ひろしいちぎょうは、重慶たーちんからこんあきらかい、雲南うんなんしょう政府せいふ主席しゅせきりゅうくも協議きょうぎをもった[67]重光しげみつどう会談かいだんでは、ひろし重慶たーちん脱出だっしゅつしたら、りゅうくも雲南うんなんぐんがまず呼応こおうすることになっており、りゅうくも自身じしんもまたひろし和平わへい工作こうさくおおきな期待きたいをかけていた[67]。しかし、結果けっかとしてりゅうくもひろしいちぎょう脱出だっしゅつ便宜べんぎをあたえたにとどまった[67]

ひろしいちぎょうこんあきらに1はくし、12月20にちふつりょうインドシナ首府しゅふハノイいた[59][62][67][68]しゅうふつうみは、こんあきらひろしいちぎょう合流ごうりゅうし、ともにハノイにわたった[67]ひね璧君のおとうとちんあきらこんあきら空港くうこうはたらいていたが、のちにハノイにうつった。りゅうくもは、蔣介せきたいし、ひろしのハノイきを正直しょうじき打電だでんしている[67]ひろしらの脱出だっしゅつ前後ぜんごして、とうのぞみきよしうめおもえたいらのひろしグループなど総勢そうぜい44めいがそれぞれ重慶たーちんから脱出だっしゅつした[4][67][68]

いぬやしなえあつし三男さんなんいぬやしなえけん

しかし、ひろしグループにとって期待きたいはずれだったのは、こんあきらりゅうくもはじめ、四川しせんはんぶんはな中国語ちゅうごくごばんだいよんせん広東かんとん広西ひろせ)の司令しれいかんちょうはつ将軍しょうぐんなどの軍事ぐんじ実力じつりょくしゃたちが、だれひとりとしてひろしびかけにおうじなかったことである[58][62][67]。さらに打撃だげきだったのが、12月22にちひろし脱出だっしゅつこたえるかたち発表はっぴょうされた近衛このえ声明せいめいだいさん近衛このえ声明せいめい)である[62][67]声明せいめいは、ひろし日本にっぽんがわ事前じぜん密約みつやくはしらであった「日本にっぽんぐん撤兵てっぺい」にはまったれておらず、にちちゅう和平わへい尽力じんりょくした西にし松本まつもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいんいぬやしなえけんらをなげかせ、ひろしグループもこれにつよ失望しつぼうをいだいたのであった[67]

1938ねん12月29にちひろし通電つうでん発表はっぴょうし、ひろく「和平わへい反共はんきょう救国きゅうこく」をうったえた[62][69]。これは、いん目代もくだいによる「29にち」の日付ひづけをとって「つやでん」とばれる[62][68][69]。ここでひろしは「もっとも重要じゅうようてんは、日本にっぽん軍隊ぐんたいがすべて中国ちゅうごくから撤退てったいするということで、これは全面ぜんめんてき迅速じんそくでなけらばならない」とべ、それ以前いぜん日本にっぽんがわとの交渉こうしょう内容ないようまえ、約束やくそく履行りこうもとめたものではあったが、ひろしつづ国民党こくみんとう幹部かんぶけっしておおくなく、日本にっぽんぐん撤退てったいもなかった[62][69]

1939ねん1がつ1にち国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい中央ちゅうおう監査かんさ委員いいんかい重慶たーちん連合れんごうかい開催かいさい蒋介石しょうかいせきひろしたいして警告けいこくはっするにとどめることを主張しゅちょうしたが、出席しゅっせきしゃ大半たいはんひろしちょうめい除名じょめいもとめ、結果けっかてきひろし国民こくみん党籍とうせき永久えいきゅう剥奪はくだつ官職かんしょく剥奪はくだつ決議けつぎされた。ひろしは、除名じょめい違法いほうであり、国民こくみん政府せいふ反省はんせいうなが声明せいめい発表はっぴょうしたがくつがえることはなかった[70][71][62][68][69]一方いっぽう日本にっぽんでは1939ねん1がつ近衛このえ文麿ふみまろ突然とつぜん首相しゅしょう辞任じにんし、ひろし構想こうそう完全かんぜん頓挫とんざしてしまった[62][69]当初とうしょ構想こうそう変更へんこう余儀よぎなくされたひろしは、しばらくそのままハノイに滞在たいざいした[69]1939ねん2がつ26にち長女ちょうじょひろしぶん惺となんぶんすぐる結婚式けっこんしきがハノイのメトロポリタンホテルでひらかれている[69]

このとし3月21にち暗殺あんさつしゃがハノイのひろしいえ乱入らんにゅうひろし腹心ふくしんであったなか射殺しゃさつした[69]。蔣介せきはなった刺客しかくひろしねらったが、たまたま当日とうじつひろし寝室しんしつえていたため、身代みがわりに犠牲ぎせいになったものだった[69]。これにさきだって、ひろしちょうめいおいあね息子むすこ)で民兵みんぺいふかいつながりのあった沈次だかが蔣介せきいちにより暗殺あんさつされ、ひろしちょうめい首脳しゅのう宣伝せんでん担当たんとうしていたはやしかしわせい香港ほんこん暴漢ぼうかんおそわれた[69]

ひろしちょうめいは、3月28にちづけ雲南うんなんしょう香港ほんこん新聞しんぶんに、和平わへい工作こうさくひろし個人こじん主張しゅちょうではなく、本来ほんらいてきに蔣介せき了解りょうかい事項じこうであったことをうったえた[69]。トラウトマン工作こうさくについても、ひろしのみならず蔣も和平わへいあんみとめ、納得なっとくしていたことを暴露ばくろしたうえで、政権せいけんない工作こうさくするわけにはいかないから、ひろしがあえて政権せいけんがい政府せいふ意思いし実践じっせん着手ちゃくしゅしたのであり、そのかれ裏切うらぎものばわりするのはまことに不当ふとうであると批判ひはんした[69]

日本にっぽんがわは、ハノイが危険きけんであることを察知さっちし、ひろし同地どうちより脱出だっしゅつさせることとした[69][72]陸軍りくぐん大臣だいじん板垣いたがき征四郎せいしろうは、ひろしちょうめい意思いし尊重そんちょうしつつ安全あんぜん地帯ちたいすことを命令めいれいし、これをけたかげただしあきら陸軍りくぐんのみならず関係かんけい各省かくしょう合意ごうい必要ひつようであると主張しゅちょうして、須賀すか彦次郎ひこじろう海軍かいぐん少将しょうしょう外務省がいむしょう興亜こうあいんからは矢野やのただし書記官しょきかん国会こっかい議員ぎいんいぬやしなえけんらを同行どうこうさせることを条件じょうけんに、この工作こうさくたずさわった[72]山下やました汽船きせん北光ほっこうまるんだかげらは4がつ14にちふつりょうインドシナのハイフォン入港にゅうこうし、秘密裏ひみつりにハノイのひろし接触せっしょくした[72]4がつ25にちひろしはハノイを脱出だっしゅつしてフランスせんをチャーターしてトンキンわん北上ほくじょう汕頭おき北光ほっこうまるえて5月6にち上海しゃんはい到着とうちゃくした[68][72]

このころ次女じじょひろしぶんあきら(1938ねん上海しゃんはい大同だいどう大学だいがく付属ふぞくだかちゅう卒業そつぎょう)は、医学いがくまなぶため香港ほんこんかっていたが、あいころもしゃ(蔣介せき政権せいけんがわ秘密ひみつ結社けっしゃ)によってあやうく誘拐ゆうかいされかけた[60]。そのため、ひろしちょうめいひろしぶんあきら日本にっぽんおくり、帝国ていこく女子じょし医学いがく専門せんもん学校がっこうげん東邦大学とうほうだいがく医学部いがくぶ)で医学いがくまなばせることとした[60]

れたひろしちょうめいは蔣介せきとの決別けつべつ決意けついした一方いっぽう、蔣介せきは、ひろし和平わへい工作こうさく反対はんたいして「徹底てってい抗戦こうせん」をうったえるとともにりゅうくもそうひとしとうせいさとしといった、かつてひろしちょうめいしたしかった人物じんぶつくずしを工作こうさくした[69]。ここにいたって、両者りょうしゃ修復しゅうふく不能ふのう関係かんけいおちいったのである[69]

しん国民こくみん政府せいふ成立せいりつ

[編集へんしゅう]

一時いちじしん政府せいふ樹立じゅりつ断念だんねんしていたひろしだったが、ハノイでの狙撃そげき事件じけんをきっかけに、「日本にっぽん占領せんりょう地域ちいきないでのしん政府せいふ樹立じゅりつ」を決意けついするにいたった[72][73]。これは、日本にっぽん和平わへい条約じょうやくむすぶことによって、中国ちゅうごく日本にっぽんあいだ和平わへいのモデルケースをつくり、重慶たーちん政府せいふさぶりをかけ、最終さいしゅうてきには重慶たーちん政府せいふが「和平わへい」に転向てんこうすることを期待きたいするものだった[72]ひろしちょうめいかげたいし、しん政府せいふ設置せっちしても自分じぶん政権せいけん執着しゅうちゃくしないとべており、蔣介せきひゃくゆずってでも基本きほんてき中国ちゅうごくふたつにりたくないこと、戦火せんかによる民衆みんしゅう犠牲ぎせいをできるだけけたいことをうったえている[72]

南京なんきん国民こくみん政府せいふ国旗こっき

上海しゃんはいうつったひろしは、ただちに日本にっぽん訪問ほうもんし、しん政府せいふ樹立じゅりつへの内諾ないだくけた[74]

5月31にちひろしかれ配下はいかであったしゅうふつかいうめおもえひらめこう宗武むねたけただしどうやすしらは神奈川かながわけん横須賀よこすか海軍かいぐん飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした[74]日本にっぽんがわは、板垣いたがき征四郎せいしろうひろしちょうめい政権せいけん青天白日せいてんはくじつまんべにはたもちいることに難色なんしょくしめし、これにたいしてはひろしちょうめいがわにとってもゆずれないところであったので、青天白日せいてんはくじつに「和平わへい 反共はんきょう 建国けんこく」のスローガンをれた黄色おうしょく三角さんかくひさごたい)をくわえて和平わへいとすることでいがついた[74]

また、日本にっぽんがわ北洋ほくよう軍閥ぐんばつ佩孚くわえてひろし合作がっさくによる和平わへい工作こうさくとすることも検討けんとうし、土肥どいはら賢二けんじ中将ちゅうじょうもこれを打診だしんしたが、からは合作がっさく条件じょうけんとして日本にっぽんぐん撤退てったいされ、このあんえとなった[74]

臨時りんじ政府せいふ行政ぎょうせい委員いいんかい委員いいんちょうおう克敏かつとしひだり)、ひろしちょうめい中央ちゅうおう)、維新いしん政府せいふ行政ぎょうせい院長いんちょうりょうひろしこころざしみぎ

中国ちゅうごくもどったひろしちょうめいは1939ねん8がつに「純正じゅんせい国民党こくみんとう」をしょうし、8がつ28にちより、国民党こくみんとう法統ほうとう継承けいしょう主張しゅちょうすべく上海しゃんはいで「だいろく国民党こくみんとう全国ぜんこく大会たいかい中国語ちゅうごくごばん」を開催かいさいみずかとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい常務じょうむ委員いいんかい主席しゅせき就任しゅうにんした[4][74]。このときの大会たいかい宣言せんげんひろしは、る1938ねん12月の近衛このえ声明せいめいだい声明せいめい)に呼応こおうしてたいにち和平わへい」を決意けついしたとべ、これがまごぶんの「だい亜細亜あじあ主義しゅぎ」にもとづくものであるとして国民党こくみんとう政権せいけんとしての正統せいとうせい主張しゅちょうしたのであった[29]。そして、日本にっぽん占領せんりょうない親日しんにち政権せいけんちょうであったおう克敏かつとしりょうひろしこころざし協議きょうぎおこない、9月21にち中央ちゅうおう政務せいむ委員いいん配分はいぶんを「国民党こくみんとうひろし)がさんぶんいちおう克敏かつとし臨時りんじ政府せいふりょうひろしこころざし維新いしん政府せいふ両方りょうほうさんぶんいち、そのさんぶんいち」とすることで合意ごういたっし、かれらと合同ごうどうしてしん政府せいふ樹立じゅりつすることとなった[73]

いで10がつしん政府せいふ日本にっぽん政府せいふとのあいだ締結ていけつする条約じょうやく交渉こうしょう開始かいしされた[74]。しかし日本にっぽんがわ提案ていあんは、従来じゅうらい近衛このえ声明せいめい趣旨しゅし大幅おおはば逸脱いつだつする過酷かこくなもので、ひろし工作こうさくへのかかわりがふか今井いまい武夫たけおが「権益けんえき思想しそうあらたに政府せいふ各省かくしょうから便乗びんじょう追加ついかされた条項じょうこうすくなくなく、忌憚きたんなくって、帝国ていこく主義しゅぎてき構想こうそう露骨ろこつ暴露ばくろした要求ようきゅうそとないかわものであった」[75]回想かいそうし、かげただしあきらも「じゅうがつはつ興亜こうあいん会議かいぎ決定けってい事項じこうとして堀場ほりば中佐ちゅうさ平井ひらい主計かずえ中佐ちゅうさまいらせる交渉こうしょう原案げんあんるにおよ自分じぶん暗然あんぜんたるをきんなかつた。…堀場ほりば中佐ちゅうさ自分じぶんとえふていわく『この条件じょうけんひろし政府せいふ民衆みんしゅう把握はあくする可能かのうせいありや』と自分じぶんは『不可能ふかのうである』とこたえへざるをなかつた」とふりかえるほどであった[74][76]

あまりの過酷かこく条件じょうけんである「はな日新にっしん関係かんけい調整ちょうせい要綱ようこう」に、ひろし自身じしんもいったんはしん政府せいふ樹立じゅりつ断念だんねんしたほどであった[74]ひろしちょうめいは『中央公論ちゅうおうこうろん』1939ねん秋季しゅうき特大とくだいごう(10がつ1にち発行はっこう)に「日本にっぽんよりす」とだいするおもった論考ろんこう発表はっぴょうし、「東亜とうあ協同体きょうどうたい」や「東亜とうあしん秩序ちつじょ」という日本にっぽん言論げんろんかいでしきりにもちいられる言葉ことばたいする疑念ぎねん不信ふしんかん表明ひょうめいし、日本にっぽん中国ちゅうごくほろぼすではないかとうったえた[74]。さらにひろしちょうめいは、「はな日新にっしん関係かんけい調整ちょうせい要綱ようこう」にしめされた和平わへいあんたい白紙はくし撤回てっかいもうてもいる[74]

これにたいして、ささえ問題もんだい権威けんいとしてさかんに「東亜とうあしん秩序ちつじょ」を美化びかし、東亜とうあ協同体きょうどうたいろん提唱ていしょうしていた朝日新聞あさひしんぶん出身しゅっしんソ連それんスパイ尾崎おざき秀実ひでみは、『公論こうろん昭和しょうわ14ねん11がつごうに「ひろしせいまもる政権せいけん基礎きそ」を発表はっぴょう日本にっぽん当局とうきょくしゃかって「ひろしせいまもる運動うんどうささえ再建さいけん唯一ゆいいつ方策ほうさくであり日本にっぽんとしては全力ぜんりょくげてこれをまも以外いがい良策りょうさくなきこと、あらゆる問題もんだいなかなに一番いちばん大切たいせつかといえばともかくもおおくの困難こんなんなる条件じょうけんによって発展はってん可能かのうせい縮小しゅくしょうされているひろしせいまもる政権せいけん誕生たんじょう発展はってんとをはからなければならない」ことを力説りきせつした[77]。また、尾崎おざきおなじく近衛このえ文麿ふみまろ最高さいこう政治せいじ幕僚ばくりょうにしてひろし政権せいけん樹立じゅりつ工作こうさく主務しゅむしゃであった西園寺さいおんじ公一こういちも、『中央公論ちゅうおうこうろん昭和しょうわ14ねんじゅう12がつごうに「ひろしちょうめいへの公開こうかいじょう」を発表はっぴょうし、ひろしちょうめいむかってあくまで愛国あいこくしゃとして初志しょし貫徹かんてつつらぬくようびかけた[74]

1940ねん1がつには、ひろししん政権せいけん傀儡かいらい懸念けねんするこう宗武むねたけとうのぞみきよし和平わへい運動うんどうから離脱りだつして「内約ないやく原案げんあん外部がいぶ暴露ばくろする事件じけんしょうじた[74]最終さいしゅう段階だんかいにおいて腹心ふくしんとみられた部下ぶか裏切うらぎったことにひろしちょうめいはおおいに衝撃しょうげきけたが、日本にっぽんがわ最終さいしゅうてき若干じゃっかん譲歩じょうほおこなったこともあり、ひろしはこの条約じょうやくあん承諾しょうだくすることとなった[74]。その一方いっぽうで、ちん公博きみひろ正式せいしきひろしちょうめいがわせた[74]

2がつ2にち、これがもとでのち除名じょめい処分しょぶんける立憲りっけん民政みんせいとう斎藤さいとう隆夫たかお議員ぎいんが、日本にっぽん帝国ていこく議会ぎかいにおいて、有名ゆうめいな「反軍はんぐん演説えんぜつ」をおこなっている[74]斎藤さいとうはそのなかで、容共ようきょう抗日こうにちの蔣介せき反共はんきょう親日しんにちひろしちょうめい簡単かんたん合流ごうりゅうできるはずもないと分析ぶんせきし、日本にっぽん政府せいふが「たいとせず」といったはずの蔣介せきたいとするうごきをつよめ、その一方いっぽう基盤きばんよわひろしちょうめいしん政権せいけん根回ねまわししている矛盾むじゅんきびしく批判ひはんしている[74]。これにたいし、このころひろしちょうめいは、日本にっぽんが蔣介せき交渉こうしょうするのならばそれでもよいといういさぎよさをせている[74]

国民こくみん政府せいふの「南京なんきんかえ」を宣言せんげんするひろしちょうめい

1940ねん3がつ30にち南京なんきん国民こくみん政府せいふ設立せつりつしき挙行きょこうされた[1][4][61][65][73][78][79]

ひろしちょうめい政権せいけんは、国民党こくみんとう正統せいとう後継こうけいしゃであることを主張しゅちょうするため、首都しゅと重慶たーちんから南京なんきんもどすことをしめす「南京なんきんかえしき」の形式けいしきをとった[63][73][79]国旗こっきは、青天白日せいてんはくじつに「和平わへい 反共はんきょう 建国けんこく」のスローガンをしるした黄色おうしょく三角さんかくはたくわえたもの、国歌こっか中国ちゅうごく国民党こくみんとうとうをそのまま使用しようし、記念きねんくにはじ記念きねん中国語ちゅうごくごばんのぞけば、国民党こくみんとう国民こくみん政府せいふのものをそのまま踏襲とうしゅうした[74][80]ひろしはまた、重慶たーちん政府せいふとの合流ごうりゅう可能かのうせいをも考慮こうりょして、当面とうめんのこととしてしん政府せいふの「主席しゅせき代理だいり」に就任しゅうにんし、重慶たーちん政府せいふ主席しゅせきであるはやしもり名目めいもくじょう主席しゅせきとした[73][79]。しかし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかんは、この政府せいふ承認しょうにんしなかった[27]。蔣介せきはこの南京なんきん国民こくみん政府せいふ77めいへの逮捕たいほれいはっしている[79]

しん政府せいふではつまひね璧君も重要じゅうよう役割やくわりたし、ちん璧君の義弟ぎてい褚民よしみ臨時りんじ政府せいふおう克敏かつとし維新いしん政府せいふりょうひろしこころざしはやしかしわせいなどの「公館こうかん」としゅうふつうみ特務とくむ機関きかんひのとだま邨やぐんなども「実力じつりょく」としてつらねた[79]。また、女婿じょせいなんぶんすぐるひろし私設しせつ秘書ひしょつとめた[16]。なお、戦後せんご日本にっぽん総理そうり大臣だいじんつとめた福田ふくだ赳夫たけおひろしちょうめい政権せいけん財政ざいせい顧問こもんであり、のちに中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく主席しゅせきとなった江沢民こうたくみんちちこうしゅん)は、ひろし南京なんきん国民こくみん政府せいふ官吏かんりであった。

ひろしちょうめい政権せいけんは、1940ねん11月30にちにちはな基本きほん条約じょうやく日本国にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこく基本きほん関係かんけいかんする条約じょうやく)とまんはな共同きょうどう宣言せんげん調印ちょういんした[73]日本にっぽん南京なんきん政府せいふ正式せいしき承認しょうにんしたのは、「かえしき」より8かげつ経過けいかしたこのときであった[79]

ひろしちょうめいは、その礼服れいふく阿部あべ信行のぶゆき特派とくは全権ぜんけん大使たいしいちぎょう到着とうちゃくするまで悲痛ひつうかおちつづけ、まごぶんまつったちゅう山陵さんりょうをしばらくながめながら、やがて落涙らくるいし、突然とつぜん両手りょうてかみをつかんでこえあらげて「恨(ヘン)! 恨(ヘン)!」とさけんだといわれる[79]同時どうじひろしちょうめいは、南京なんきん国民こくみん政府せいふの「主席しゅせき」に就任しゅうにんしたが、これはにちはな基本きほん条約じょうやく調印ちょういん資格しかくとして主席しゅせき肩書かたがき必要ひつようだったからであった[81]。ただし、ひろしちょうめい自身じしんにとって、このことはかならずしも本意ほんいではなかった[81]。なお、それに先立さきだ11月27にちひろしちょうめいは蔣介せきたいし、それまでの経緯けいい自身じしんかえった決意けついつたえ、今後こんご協力きょうりょく期待きたいするという内容ないよう打電だでんしている[81]

しん政権せいけん誕生たんじょうしたものの、結局けっきょくひろし意図いとしたような「重慶たーちん政府せいふとの和平わへい」は実現じつげんせず、蔣政権せいけん日本にっぽん戦争せんそう状態じょうたいはつづいた[2][81]日本にっぽんとすれば、重慶たーちん政府せいふ交戦こうせんしながら、南京なんきんひろし政権せいけんとは和平わへいむすび、にちちゅう親善しんぜんとなえるという矛盾むじゅんした状態じょうたいにあった[80]。蔣介せきはこうしたなかで、むしろ中国ちゅうごく政治せいじにおける求心力きゅうしんりょくたかめたので、抗日こうにちナショナリズムはかえってつよめられたのである[80]一方いっぽう南京なんきん政府せいふでのひろしちょうめい演説えんぜつちゅう写真しゃしんなどには、かならずといってよいほど、背景はいけいにはまごぶん顔写真かおじゃしんかかげていることが確認かくにんできる[16]

1941ねん2がつ1にちひろしちょうめい前年ぜんねんより中国ちゅうごく各地かくち高揚こうようしていた東亜とうあ連盟れんめい運動うんどう推進すいしんし、みずか東亜とうあ連盟れんめい中国ちゅうごく総会そうかい主宰しゅさいして会長かいちょう就任しゅうにんし、直接ちょくせつ運動うんどう指導しどうした[29][注釈ちゅうしゃく 9]

かえ1周年しゅうねんぎた1941ねん5がつ南京なんきん政府せいふではひろしちょうめい日本にっぽん公式こうしき訪問ほうもん立案りつあんされた[81]6月16にち上海しゃんはいから神戸こうべこう上陸じょうりく東京とうきょうえきいたひろしいちぎょうを、日本にっぽん国民こくみん熱烈ねつれつ歓迎かんげいした[81]ひろしちょうめい元首げんしゅ待遇たいぐうとして昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつし、天皇てんのうからにちちゅうあいだの「しん提携ていけい」をねがうとの言葉ことばをかけられている[81]ひろしちょうめいは、近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょう松岡まつおか洋右ようすけ外相がいしょう杉山すぎやまはじめ参謀さんぼう総長そうちょう永野ながの修身しゅうしん軍令ぐんれい総長そうちょう東条とうじょう英機ひでき陸相りくしょうらと面談めんだんし、6月19にちにはレセプションがひらかれ、6月23にちには近衛このえ首相しゅしょうとで共同きょうどう宣言せんげん発表はっぴょうした[81]。この訪日ほうにちに、日本にっぽんから国民こくみん政府せいふたいし3おくえん武器ぶき借款しゃっかん供与きょうよされ、中部ちゅうぶシナにおける押収おうしゅう家屋かおくぐん管理かんり工場こうじょう返還へんかんがなされた[81]

1941ねん7がつ1にちひろしちょうめい政権せいけんはドイツとイタリアから承認しょうにんけ、両国りょうこくとのあいだに外交がいこう関係かんけいをひらいた[73][81]。また、このとしあきひろしちょうめいまんしゅうこくおとずれ、皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎちょうけいめぐみ国務こくむ総理そうり会見かいけんした[81]一方いっぽうかえ宣言せんげんのあと期待きたいした4しょう名乗なのりをげてこなかったことから、南京なんきん国民こくみん政府せいふ自前じまえ軍隊ぐんたいつべくうごき、すうじゅうまん兵士へいしあつまったといわれている[81]

イギリスとアメリカ、オランダとの対立たいりつふかめていた日本にっぽんは、1940ねん11月、野村のむら吉三郎きちさぶろう駐米ちゅうべい大使たいしとして和平わへい交渉こうしょうにあたらせたが事態じたい好転こうてんしなかった[82]民間みんかんにおいても日米にちべい和平わへい模索もさくされ、アメリカが日本にっぽんぐん中国ちゅうごくからの撤退てったいまんしゅうこく承認しょうにん前提ぜんていひろしちょうめい・蔣介せきりょう政権せいけん合流ごうりゅうをはかるというあんには近衛このえ陸軍りくぐん賛成さんせいしたが、アメリカ政府せいふはこれに合意ごういをあたえなかった[82]

1941ねん8がつ28にち日本にっぽん政府せいふはアメリカに、近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうフランクリン・ルーズヴェルト大統領だいとうりょうとの会談かいだんもうれたが実現じつげんしなかった[81]事情じじょうらないひろしちょうめい日米にちべい会談かいだん実現じつげんした場合ばあい想定そうていして、近衛このえ首相しゅしょうあてに書簡しょかんおくり、アメリカはにちはな基本きほん条約じょうやく修正しゅうせいもとめてくるとおもわれるが、もし安易あんい修正しゅうせいおうじれば親米しんべい反日はんにち傾向けいこうつよ中国ちゅうごく民衆みんしゅうはいっそうその傾向けいこうつよめ、結果けっかとしてアジアの不利ふりまねくこと、また、修正しゅうせい成功せいこうをアメリカが独自どくじ重慶たーちんらせれば、重慶たーちん政府せいふみずからの成果せいかであると喧伝けんでんし、民衆みんしゅうまどわされ、ひろし政権せいけん信用しんよううしなうことにつながりかねないとして、もし条約じょうやく修正しゅうせい不可避ふかひ場合ばあい事前じぜんひろし政権せいけん相談そうだんしてほしいむねつたえた[81]

また、近衛このえはアメリカにたい日米にちべい開戦かいせん回避かいひしようという趣旨しゅしの「申入もうしいれしょ」のあんり、9月3にちの「大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎ」で提案ていあんする予定よていであったが、これも実行じっこうできなかった[81]。さらにゾルゲ事件じけんへの介入かいにゅうりざたされた近衛このえは、10月18にち首相しゅしょう東条とうじょう英機ひできにゆずった[81]

太平洋戦争たいへいようせんそう/だい東亜とうあ戦争せんそうひろし政権せいけん

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東条とうじょう英機ひできひろしちょうめい(1942ねん12がつ

1941ねんみんこく30ねん昭和しょうわ16ねん12月8にち日本にっぽんはイギリスにたいするマレー作戦さくせんいでアメリカにたいする真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき敢行かんこうし、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)がはじまった[83]

事前じぜん日本にっぽん開戦かいせんについてらされていなかったひろしおどろき、「和平わへい」の実現じつげんがますますとおのいたことをさとったとおもわれる[81]。ただし、日米にちべい交渉こうしょうがことごとく不調ふちょうわったことはひろし知悉ちしつしており、きょかれたというほどではなかった[81]ひろし自身じしん日本にっぽん国力こくりょくではえいべいらん対抗たいこうできないとの判断はんだんから開戦かいせんには反対はんたいだったが、12月8にちづけで「だい東亜とうあ戦争せんそうかんする声明せいめい」をした[81]ひろしは、えいべい帝国ていこく主義しゅぎ批判ひはんしたうえで、国民こくみん政府せいふとしては日本にっぽんとこれまでむすんだ条約じょうやくおもんじ、アジアしん秩序ちつじょ建設けんせつという共同きょうどう目的もくてき達成たっせいのために日本にっぽん苦楽くらくをともにすべきこと、かつてのからし革命かくめい精神せいしんにもとづいてまごぶんだいアジア主義しゅぎ遂行すいこうし、和平わへい反共はんきょう建国けんこく使命しめいまっとうすべきことを民衆みんしゅううったえた[81]

にちえいべいらん開戦かいせん、蔣介せきひきいる重慶たーちん政府せいふ日本にっぽん・ドイツ・イタリアにたいし、宣戦せんせん布告ふこくおこなった[81][84]。つまり重慶たーちん政府せいふだい世界せかい大戦たいせん連合れんごうこくについた。ひろしちょうめいは、もはやかつての「いちめん抵抗ていこういちめん交渉こうしょう方針ほうしんはどうみても不可能ふかのう情勢じょうせいであると判断はんだんし、日本にっぽんかげただしあきら少将しょうしょう当時とうじ)にたいして南京なんきん政府せいふ日本にっぽんがわ参戦さんせんする意思いしがあるとつたえたが、慎重しんちょうかげは、まんしゅうこくにち中立ちゅうりつ条約じょうやく考慮こうりょして宣戦せんせんしていないのに、南京なんきん政府せいふがあえて参戦さんせんすることはかならずしも合理ごうりてきでないとしてむしろひろし気持きもちをなだめた[81]

ひろしちょうめいもっと信頼しんらいせていた日本にっぽん要人ようじん重光しげみつまもる

1942ねん特命とくめい全権ぜんけん大使たいしとして南京なんきん赴任ふにんした重光しげみつまもる1がつ12にちひろしちょうめい国書こくしょ奉呈ほうていし、翌日よくじつよりすうにわたって南京なんきんひろし公館こうかんにて重光しげみつひろし会談かいだんがおこなわれた[81][85]ひろし発言はつげんは、従来じゅうらい思慮しりょふかかれからするときわめて大胆だいたんかつ強硬きょうこうなものであり、「だい東亜とうあ戦争せんそう勃発ぼっぱつしたことで、あるしゅ新鮮しんせん感覚かんかくまれた」「しん時代じだいかくするだい展開てんかいでありよろこばしい」「中国ちゅうごく立場たちばとしては、当然とうぜん日本にっぽん勝利しょうりねがいつつも、政府せいふとしてどのように協力きょうりょくすればいいのか苦慮くりょしている」、さらに「重慶たーちん反省はんせいうながし、もし反省はんせいしないならかれらを壊滅かいめつさせるよう努力どりょくする」というものであった[81]。そして、当初とうしょは蔣介せき打倒だとうなどということは毛頭もうとうかんがえなかったが、重慶たーちん政府せいふえいべいむすんでビルマにまで出兵しゅっぺいするにいたった以上いじょう和平わへい工作こうさく放棄ほうきする以外いがいになく、もし重慶たーちん希望きぼうするように日本にっぽんやぶれるならば、中国ちゅうごく滅亡めつぼうし、ひがしアジア全体ぜんたい欧米おうべい植民しょくみん転落てんらくしてしまうだろうとべた[81]かれとしては、まごぶんにおける「さん民主みんしゅよし」をわきいてでも、その一方いっぽう主張しゅちょうである「だい亜細亜あじあ主義しゅぎ」を前面ぜんめんかかげ、白人はくじん帝国ていこく主義しゅぎ対抗たいこうする姿勢しせいしめすと同時どうじに、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつするまえにちちゅう戦争せんそう解決かいけつすることが肝要かんようだとかんがえていたのである[81]

3月25にち日本にっぽん政府せいふ広東かんとんのイギリス租界そかいひろしちょうめい政権せいけん移管いかんした[86]。6月1にちひろしちょうめい政権せいけん特使とくしとして褚民よしみ来日らいにちし、昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつした[87]

1942ねん7がつ7にちタイひろしちょうめい南京なんきん国民こくみん政府せいふ承認しょうにんしている[84]7がつ28にち日本銀行にっぽんぎんこう南京なんきん政府せいふ通貨つうか制度せいど混乱こんらんし、危機ききおちいっているのを救援きゅうえんするため、しゅうふつうみ中央ちゅうおうもうか銀行ぎんこうたいして1おくえん借款しゃっかん供与きょうよ契約けいやくむすんでいる[88]

9月1にち日本にっぽん政府せいふ閣議かくぎで「だい東亜とうあしょう」の設置せっち決定けっていしたが、東郷とうごう茂徳しげのり外相がいしょうげん外交がいこう原因げんいんになりかねないとしてこれを批判ひはんし、結果けっかとして辞職じしょくした[89]後任こうにんかず、東条とうじょう首相しゅしょう外相がいしょう兼務けんむした[89]

1942ねん9月22にち平沼ひらぬま騏一郎きいちろう有田ありた八郎はちろう永井ながい柳太郎りゅうたろう特使とくしとして南京なんきんおとずれた[90]ひろしちょうめいは、重慶たーちん政府せいふとの和平わへい工作こうさくはすでに限界げんかいたっしており、南京なんきん政府せいふ和平わへい地域ちいき所在しょざいする住民じゅうみんですら、和平わへいにも抗日こうにちにもつかれている実情じつじょう説明せつめいし、南京なんきん政府せいふ強化きょうかさせる手立てだてとして、

  1. 南京なんきん政府せいふ管掌かんしょうにある地方ちほう組織そしきたいし、日本にっぽんがわからあたましに直接ちょくせつ指示しじするなどして治安ちあん妨害ぼうがいしないこと。まして、所属しょぞく官吏かんり任免にんめん日本にっぽんがつかさどるのは論外ろんがいであり、かなら大使館たいしかんつうじて南京なんきん政府せいふ相談そうだんすること。
  2. 中国ちゅうごくにとっても、現下げんか日本にっぽんにとっても中国ちゅうごく農業のうぎょう工業こうぎょう商業しょうぎょう発達はったつ急務きゅうむであり、その発達はったつ阻害そがいするような規制きせい束縛そくばくは、日本にっぽん政府せいふ文書ぶんしょによって撤廃てっぱいされてしかるべきこと。

の2てんもとめた[90]。のちに傀儡かいらい政権せいけんとして断罪だんざいされたひろしちょうめい政権せいけんであったが、日本にっぽん占領せんりょう地域ちいき居住きょじゅうする中国ちゅうごく民衆みんしゅうらしには最大限さいだいげん気遣きづかいをしめしていたのである[90]

11月1にち興亜こうあいん廃止はいしされてだい東亜とうあしょう正式せいしき発足ほっそくした[90][91]12月25にち訪日ほうにちちゅうだったひろしちょうめい東京とうきょう総理そうり官邸かんてい東条とうじょう英機ひでき会談かいだんをもち、日本にっぽん占領せんりょう上海しゃんはい南京なんきんでいかにひろし政権せいけん民衆みんしゅうから信頼しんらいされにくいかをうったえ、日本にっぽんがわ善処ぜんしょもとめた[90]。なお、ひろしはこの訪日ほうにちだいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう授与じゅよされている。

結局けっきょくひろし政権せいけん枢軸すうじくこくがわとして参戦さんせんすることとなった[90][92]1943ねん1がつ9にちひろしちょうめい首班しゅはんとする南京なんきん国民こくみん政府せいふべいえいたい宣戦せんせん布告ふこくした[90][92][93]。それにともな南京なんきんちゅう山路やまじ国民こくみん政府せいふ軍隊ぐんたいによるべいえいへの宣戦せんせん布告ふこくだいパレードがおこなわれた[93]同時どうじ日本にっぽんひろしちょうめい政権せいけんとのあいだ租界そかい還付かんぷ治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱい協定きょうていむすび、べいえいもその直後ちょくご蔣介せき政権せいけんとのあいだ不平等ふびょうどう条約じょうやくによる特権とっけん放棄ほうきするしん条約じょうやくむすんだ[90][92][94]。これにより中国ちゅうごくは、中立ちゅうりつこくとフランスのヴィシー政権せいけん以外いがいのあいだにむすばれていた不平等ふびょうどう条約じょうやくをすべて解消かいしょうすることとなった[90][92][94]日本にっぽん政府せいふはまた、南京なんきん駐在ちゅうざいのヴィシー政府せいふ代表だいひょう連絡れんらくして上海しゃんはい共同きょうどう租界そかい行政ぎょうせいけん南京なんきん政府せいふ還付かんぷさせることに成功せいこうした[90]ひろしちょうめい2がつ2にちづけ訓令くんれいで、青天白日せいてんはくじつうえにつけていた「和平わへい 反共はんきょう 建国けんこく」の三角さんかく標識ひょうしき撤去てっきょするよう指示しじした[90]

なお、3月にはのべやす拠点きょてんのあった中国共産党ちゅうごくきょうさんとうひろしちょうめい政権せいけん合作がっさくすべく秘密裏ひみつり接触せっしょくしている[90]。これは、毛沢東もうたくとう指示しじのもと劉少奇りゅうしょうき共産きょうさん党員とういん馮竜使者ししゃにんじ、上海しゃんはいにおいてしゅうふつうみ面会めんかいさせたものであった[90]。この合作がっさく実現じつげんしなかったが、馮竜の叔父おじ邵式ぐん中国語ちゅうごくごばん中央ちゅうおうもうか銀行ぎんこう監事かんじだったところからしゅうふつかいしたしい一方いっぽうにちちゅう戦争せんそうさいには共産党きょうさんとうにひそかにつながっており、共産党きょうさんとう資金しきんながしていたところから、この面会めんかいは邵式ぐん手配てはいしたものとみられる[90]

1943ねん9月9にちひろしちょうめい信頼しんらいあつぐん暗殺あんさつされる事件じけんこっており、9月22にちにはひろし訪日ほうにちして昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつし、東条とうじょう首相しゅしょう面談めんだんしている[90]日本にっぽんは、このとしの8がつビルマ、10月にフィリピン自由じゆうインドかり政府せいふをそれぞれ承認しょうにんし、同時どうじ各国かっこく同盟どうめい条約じょうやくむすんだ[90][95][96]ひろしちょうめい政権せいけんとは10月30にちにちはな同盟どうめい条約じょうやくむすび、付属ふぞく議定ぎていしょでは戦争せんそう状態じょうたい終了しゅうりょう撤兵てっぺい約束やくそくした[2][90][95][96]

だい東亜とうあ会議かいぎ参加さんかしたひろしちょうめいひだりから3にん、1943ねん
日本にっぽんよりの滑空かっくう指導しどうしゃ紹介しょうかいされ挨拶あいさつけるひろしちょうめいひね璧君も同席どうせき

1943ねん11月5にちから6にちまで、東京とうきょうではだい東亜とうあ会議かいぎひらかれた[2][90][95][96]ひろしちょうめい南京なんきん国民こくみん政府せいふ代表だいひょう(ただし、肩書かたがきは行政ぎょうせい院長いんちょう)としてタイやビルマ、フィリピン、まんしゅうこく自由じゆうインドなど、のアジア諸国しょこく首脳しゅのうとともに出席しゅっせきした[2][90][95][96]

上述じょうじゅつ独立どくりつ承認しょうにん同盟どうめい条約じょうやく締結ていけつ措置そちは、ここで調印ちょういん発表はっぴょうされただい東亜とうあ宣言せんげん前提ぜんていをなすものであった[90][95]。なお、島本しまもとしん備忘びぼうメモによると、だい東亜とうあしょうならびに中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ要請ようせいにより、南京なんきん上海しゃんはい蘇州そしゅうにおいて中華民国ちゅうかみんこく滑空かっくう指導しどうしゃ講習こうしゅうかいおこなったという。

ひろしちょうめいとその南京なんきん国民こくみん政府せいふ

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南京なんきん国民こくみん政府せいふまえひろしちょうめい(1943ねん)。「忠孝ちゅうこう 仁愛じんあい 信義しんぎ 和平わへい」のきざまれた扁額へんがくえる。

1943ねん12月19にち日本にっぽん陸軍りくぐん南京なんきんだいいち病院びょういん原隊げんたい名古屋なごや陸軍りくぐん病院びょういん)で、8ねんまえ狙撃そげき事件じけんにおいて摘出てきしゅつできなかったたま手術しゅじゅつがおこなわれた[90]下半身かはんしんにしびれをかんじ、歩行ほこうがおぼつかなくなったためであるが、経過けいか順調じゅんちょう翌日よくじつには退院たいいんした[90]

12月28にち医学いがく勉強べんきょうしていた次女じじょひろしぶんあきらひね新明しんめい婚約こんやくした(ただし、のちに相手方あいてがた不祥事ふしょうじ発覚はっかくしたため、ちゅうにち大使たいしじょりょういのもと、婚約こんやく解消かいしょうしている[60])。

1944ねんはいると、1がつ上旬じょうじゅんひだり下肢かしいでみぎ下肢かし麻痺まひして歩行ほこう困難こんなんとなり、1がつ下旬げじゅんには下半身かはんしん不随ふずい重体じゅうたいとなった[90][6]ひろしちょうめいあるかたからさっすると、手術しゅじゅつ後遺症こういしょうとはかんがえられなかったが、わかころから体質たいしつてき糖尿とうにょうびょうんでおり、これが症状しょうじょうをさらに悪化あっかさせていた[90]。2月、東北とうほく帝国ていこく大学だいがく黒川くろかわ利雄としお教授きょうじゅひろし公館こうかんたずねて診察しんさつ[97]名古屋なごや帝国ていこく大学だいがく斎藤さいとうしん教授きょうじゅ応援おうえん依頼いらい斎藤さいとうしん教授きょうじゅ診察しんさつえると、即座そくざひろしちょうめい来日らいにちして入院にゅういんするよう指示しじした[90]

3月3にち南京なんきん出発しゅっぱつしたひろしちょうめいは、ちん璧君夫人ふじんなんぶんすぐる夫妻ふさい通訳つうやく医師いしらを同行どうこうし、国民こくみん政府せいふ後事こうじ立法院りっぽういん院長いんちょうちん公博きみひろ行政ぎょうせいいんふく院長いんちょうしゅうふつうみたくして岐阜ぎふけん各務原かかみがはら飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした[6]ひろしちょうめい南京なんきんから作戦さくせんは、ひろしあいしたうめはなにちなみ、「うめごう作戦さくせん」とばれた。ひろしはそのまま名古屋なごや帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういん入院にゅういんした[6]医師いしだんは、名古屋なごやみかどだいから斎藤さいとうしん外科げか)・名倉なくら重雄しげお整形せいけい外科げか)・勝沼かつぬまきよしぞう内科ないか)・田村たむら春吉はるきち放射線ほうしゃせん)・三矢みつや辰雄たつお放射線ほうしゃせん)、東北とうほくみかどだいから黒川くろかわ利雄としお内科ないか)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくから高木たかぎ憲次けんじ整形せいけい外科げか)という、当時とうじとしてはかく分野ぶんやのトップクラスがあつめられた[6]病名びょうめいはのちに多発たはつせい骨髄腫こつづいしゅ診断しんだんされ、体内たいないのこったたま摘出てきしゅつしたもののたま腐蝕ふしょくして悪影響あくえいきょうおよぼしたのが原因げんいんかんがえられた[6]患部かんぶにはれがあり、周囲しゅうい圧迫あっぱくするところから、入院にゅういん翌日よくじつにはだい4およびだい7胸椎きょうついしいゆみ切除せつじょする手術しゅじゅつがなされ、これには成功せいこうした[6]

ひろし公館こうかんつとめたほど西にしとお記録きろくによれば、見舞みまいきゃくとしては、東条とうじょう英機ひでき近衛このえ文麿ふみまろ石渡いしわた荘太そうたろう青木あおき一男かずお小倉おぐら正恒まさつね杉山すぎやまはじめ小磯こいそ国昭くにあき阿部あべ信行のぶゆき柴山しばやまけんよんろう後宮こうきゅうあつし天羽あもう英二えいじ重光しげみつまもる松井まついふとし久郎ひさおらのがあり、中国人ちゅうごくじんでは、家族かぞくのほかかたくん璧・褚民よしみしゅうふつうみ蔡培あわびぶんらが見舞みまった[6]最後さいご見舞みまいきゃく宮崎みやざき滔天とうてん子息しそく宮崎みやざき龍介りゅうすけであった[6]

敗色はいしょくくなりつつある日本にっぽんたいする連合れんごうぐん空襲くうしゅう現実げんじつしつつあるなかで、東条とうじょうひろしちょうめいのために防空壕ぼうくうごう必要ひつようだとして首相しゅしょう命令めいれい突貫とっかん工事こうじをおこない、7がつには完成かんせいした[6]ひろしちょうめいはじめて防空壕ぼうくうごうはいったのは8がつ11にちのことであった[6]11月5にちはつ空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいされ、このときも防空壕ぼうくうごうはいった[6]

ひろしちょうめい身体しんたい激痛げきつうえながら闘病とうびょう生活せいかつつづけ、なつごろには一時いちじ回復かいふくしたが、11月10にち名古屋なごやにおいて死去しきょ[4][6]。61さい遺体いたい陸軍りくぐん小牧おまき飛行場ひこうじょうから飛行機ひこうきせておくさいには、小磯こいそ国昭くにあき首相しゅしょう重光しげみつまもる外相がいしょう当時とうじ政府せいふ閣僚かくりょう近衛このえ文麿ふみまろ東条とうじょう英機ひでき重臣じゅうしん見送みおくりにおとずれた[6]。なお、名古屋大学なごやだいがく大幸だいこう医療いりょうセンターには、ひろしちょうめい死後しごかれ遺族いぞくより治療ちりょうたいする感謝かんしゃとして寄贈きぞうされたうめいまのこっている。

南京なんきんでは空港くうこうからひろし公館こうかんまでの沿道えんどう民衆みんしゅうがつめかけてかんむかえた[6]まち半旗はんきかかげてしずまりかえっており、南京なんきん市民しみんひろしちょうめい敬慕けいぼしていたことをうかがわせる[6]葬儀そうぎ委員いいんちょうちん公博きみひろで、11月18にち中央ちゅうおう政治せいじ委員いいんかいひろし国葬こくそうまったが夫人ふじんひね璧君はこれを拒否きょひし、故郷こきょう広東かんとんでひっそりと葬儀そうぎおこないたいと希望きぼうした[6]。しかし、ちん公博きみひろは、南京なんきん故人こじん生涯しょうがいをかけて設置せっちした国民こくみん政府せいふのある場所ばしょだから初代しょだい主席しゅせき葬儀そうぎはお膝元ひざもとでおこなうのが当然とうぜんであるとべ、重慶たーちんとの合体がったいがかなったならば正式せいしき国葬こくそうをおこなうとしても、とりあえず経費けいひめた質素しっそかり国葬こくそうのかたちにしてはどうかと説得せっとくした[6]夫人ふじんはこれにしたがい、南京なんきん郊外こうがい梅花ばいかさん中国語ちゅうごくごばん埋葬まいそうすることとしたが、はかあばかれるおそれから、かんコンクリートおおった[6]ひね璧君は「たましい帰来きらい祖国そこくかえってきたたましい)」の4いて、おっとれいささげた[10]

ひろしちょうめい後任こうにん南京なんきん国民こくみん政府せいふ主席しゅせきにはひろしちょうめいわたり以来いらい主席しゅせき代理だいりつとめていたちん公博きみひろ就任しゅうにんした[6]。しかし、ちん公博きみひろもまたひろしちょうめい同様どうよう対外たいがいてき必要ひつようのあるとき以外いがいは「主席しゅせき」を名乗なのらず、「行政ぎょうせいいん院長いんちょう」の肩書かたがき使用しようした[6]

国民こくみん政府せいふは、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく公表こうひょうされた翌日よくじつ1945ねん8がつ16にち解散かいさんした[29]9月9にち国民党こくみんとうだいななよんぐんひろしちょうめいはか被覆ひふくしたコンクリートの外壁がいへき爆破ばくはした[7]10がつ10日とおかちん璧君、その義弟ぎてい駐日ちゅうにち大使たいし外交がいこう部長ぶちょうつとめた褚民よしみ長男ちょうなんひろしぶん嬰、女婿じょせいなんぶんすぐる逮捕たいほされた[7]

日本にっぽん占領せんりょう治安ちあん維持いじにあたっていた南京なんきん国民こくみん政府せいふ要人ようじんは、蔣介せきによって叛逆はんぎゃくざいとして処刑しょけいされた[5][98]ちん公博きみひろも褚民よしみ銃殺じゅうさつけいしょせられた[5][99]要人ようじんたちのなかの一派いっぱは、姓名せいめいえて共産きょうさんぐんへとはしった[98]ひろしちょうめいつまひね璧君は無期むき懲役ちょうえきけいしょせられ、蘇州そしゅう獅子ししこう監獄かんごく収監しゅうかんされ、のちに上海しゃんはい獄中ごくちゅう死去しきょしている[60]

1946ねんひろしちょうめいかんからされた遺体いたい火葬かそうののち、のこはい原野げんや廃棄はいきされた[6]。「漢奸かんかん」(たいにち協力きょうりょくしゃ)のはかのこすわけにはいかないとのかんがえからとみられる[6][100]

1948ねんひろしぶん嬰となんぶんすぐる釈放しゃくほうされ、このとしから1949ねんにかけてひろし一家いっか香港ほんこんうつった[7]香港ほんこん移住いじゅう当初とうしょひろしという名前なまえわざわいして中国人ちゅうごくじん社会しゃかい自由じゆう就職しゅうしょくできない一時期いちじきがあり、いま共産党きょうさんとう政権せいけん中国ちゅうごくにはあしれていない[16][7]。アメリカにうつってからも長男ちょうなん長女ちょうじょ住所じゅうしょ公表こうひょうゆるしておらず、香港ほんこんのこった子女しじょひろしちょうめい係累けいるいであることはかくして生活せいかつしている[16][7]

河南かなんしょう三門さんもんかいにあるひろしちょうめいひね璧君の跪像。

ひろしちょうめいから50ねんった1994ねん南京なんきん梅花ばいかさんひろしちょうめい夫婦ふうふの跪像が設置せっちされた[5][99]。それは、周囲しゅういしがらみかこみ、うしにしばられたひろしちょうめいひね璧君がひざまずいたかたちですわった石像せきぞうであり、みなみそう首都しゅとであった浙江せっこうしょう杭州こうしゅう西湖さいこのほとりに所在しょざいし、きむたいして和平わへいとなえたはたひのき夫婦ふうふ銅像どうぞう(これらにつばける習慣しゅうかんがあった[5])になぞらえたものであった[99]。このぞう1999ねん撤去てっきょされている[99]

人物じんぶつぞう

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まんしゅう事変じへん国際こくさい連盟れんめい派遣はけんのリットン調査ちょうさだん同行どうこうしたハインリッヒ・シュネー南京なんきん国民こくみん政府せいふ行政ぎょうせい院長いんちょうだったひろしちょうめい会見かいけんした印象いんしょうのこしている(「満州まんしゅうこく見聞けんぶん[52]。それによれば、ひろし経歴けいれき調しらべたシュネーは、まえには断固だんこたる決意けついをもった狂信きょうしんてき革命かくめいであろうと想像そうぞうしていたのにはんし、実際じっさいったら、したしみやすく、柔和にゅうわかつ魅力みりょくてき紳士しんしであり、弁論べんろん文学ぶんがく芸術げいじゅつ才能さいのうをもった「理想りそうてきタイプの人間にんげん」という印象いんしょうをもった[52]。そして、「このような人物じんぶつから、使徒しと殉教者じゅんきょうしゃ、また場合ばあいによっては宗教しゅうきょう創始そうししゃてくるのではないか」とさえしるして、その高潔こうけつ人柄ひとがらんでいる[52]。さらに、ひろし清朝せいちょう要人ようじん暗殺あんさつ罪状ざいじょう死刑しけいくだされたのち、つみ一等いっとうげんじられたのも、その周囲しゅうい好感こうかん人柄ひとがら、また、理想りそうえた、素質そしつのすぐれた人物じんぶつであることが影響えいきょうしたのではないかと推定すいていしている[52]

長男ちょうなんひろしぶん嬰はちちのことを、「清廉せいれん潔白けっぱく紳士しんしであり、すぐれた文人ぶんじんではあったが、政治せいじとしては失敗しっぱいしゃ」「権力けんりょくにつきながら権力けんりょく使つかいきれない知識ちしきじん」とひょうしている[7]。「政治せいじというものは結果けっかがすべて」とかんがえるひろしぶん嬰は、こころざしかろうが状況じょうきょうわるかろうが、そうしたことは評価ひょうか対象たいしょうがいとすべきであり、なにしえたかだけをうべきとし、結果けっかとしてちち政治せいじとしてはなにしえなかったと評価ひょうかした[7]。そして、ひろしちょうめい非情ひじょう決断けつだんくだすというちからけ、蛮勇ばんゆうをふるうということのできるひとではなかったし、そうしたところから、政治せいじとしての資質ししつけるところもあったというべきだが、息子むすことしては、むしろ、そこがほこらしいとおもうこともあったとしている[7]。そのてん女婿じょせいなんぶんすぐるひろしちょうめいこころざし賛美さんびし、その目的もくてきとうといものとしており、長男ちょうなん見解けんかいとはおおきくことなっている[7]。ただし、ひろしぶん嬰もまた、ちち家族かぞく団欒だんらん自身じしん名誉めいよ犠牲ぎせいにして民衆みんしゅう戦火せんかからまもった愛国あいこくしゃであったことはうたがいないとしている[7]

修道しゅうどうおんなとなった次女じじょひろしぶんあきらもまた、「父親ちちおや愛国あいこくしゃであった」としている[60]。17さいのときに武漢ぶかんいたちち一言いちげんによってみずからがすくわれていると彼女かのじょべ、また、名古屋なごやみかどだい病院びょういん見舞みまったときにちちが、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ以降いこう日本にっぽん南京なんきん政府せいふ協力きょうりょくてきになり、租界そかい返還へんかんして治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいし、南京なんきん政府せいふ独立どくりつこく代表だいひょうみとめて同盟どうめい条約じょうやくみとめているから、最初さいしょはな基本きほん条約じょうやくとのちの協定きょうてい条約じょうやく見比みくらべたら、そのからちちこころざしすこしは理解りかいしてくれるだろうと満足まんぞくげにらしていたことを、のちに回想かいそうしている[60]

女婿じょせいなんぶんすぐるは、ひろしちょうめい日本にっぽんを「かしこてき如虎」(とらのようにおそれていた)とひょうするひともいるが、実際じっさいひろし憂国ゆうこくじょうち、おそれをらぬひとであったとべており、かれてて和平わへい救国きゅうこく奔走ほんそうしたことは間違まちがいないとしている[16]

女性じょせい関係かんけいについては、ほど西にしとお証言しょうげんにもあるように、まったく清廉せいれん人物じんぶつであった[101]ひろしぶん嬰は、息子むすこからみてちちひろしちょうめいはまちがいなくつま一筋ひとすじで、女性じょせいにはもくれずに生涯しょうがいえたと断言だんげんしている[7]

それにたいし、ひろしちょうめいのかつての同志どうしで1923ねん自殺じさつしたほうくんあきらひろし愛人あいじん関係かんけいにあったというせつがあり、現在げんざいひろ流布るふしている[101]。1961ねん香港ほんこん出版しゅっぱんしゃから刊行かんこうされた煥生ちょひろしせいまもる恋愛れんあい』では、ほうくんあきら自殺じさつ原因げんいんもまた痴情ちじょうのもつれとされている[101]。このてんについては、北京ぺきん師範しはん大学だいがくの蔡徳きんが『同盟どうめいかい女傑じょけつかたくんあきら』をあらわして『ひろしせいまもる恋愛れんあい』の内容ないようもない風説ふうせつだとして批判ひはんしている[101]。蔡によれば、ひろしちょうめいが「民族みんぞく裏切うらぎもの」であったことは間違まちがいないにしても、かれ生活せいかつ態度たいどはいたってまじめで、ひろしひね璧君とはなかのよいごく健全けんぜん夫婦ふうふだったとしており、ほうくんあきら自殺じさつ原因げんいんしゅとして金銭きんせん問題もんだい、そして10年間ねんかん外国がいこく生活せいかつえて中国ちゅうごく帰国きこくした彼女かのじょたりにした「わらない中国ちゅうごく社会しゃかい」への絶望ぜつぼうだったとしている[101]

若年じゃくねんひろし

戦後せんごつまひね璧君は、蔣介せき政府せいふ逮捕たいほされ、漢奸かんかん裁判さいばんにかけられたが、ひろしちょうめい愛国心あいこくしん強調きょうちょうして堂々どうどう反論はんろんし、周囲しゅうい努力どりょくによりおっとみとめれば釈放しゃくほうするというところまでいったものの、一言ひとことのもとにそれを却下きゃっかし、釈放しゃくほうされることよりも獄死ごくしえらんだのであった[102]さい晩年ばんねん病室びょうしつ一緒いっしょだった女性じょせい教師きょうしりょうあつししろのこした手記しゅきひね璧君の最後さいごの2にち』によれば、ちん璧君は、わかころひろしちょうめいいて「かれ美男びなんだった」と2くりがえしてくちにしたという[102]。そして、ひろしちょうめいひね璧君の「ざい」を、くわえて「ざい」もみとめたのだとかたった[102]

ちん璧君の回想かいそうにあるように、わかころひろしちょうめい童顔どうがん長身ちょうしん美男びなんであり、スーツこのんでこなし、女性じょせいからの注目ちゅうもくあつめた[7]。なお、このことに関連かんれんして、現代げんだい中国ちゅうごくでは、三船みふね敏郎としおわかころ白黒しろくろ写真しゃしんひろしちょうめいなどの写真しゃしん間違まちがわれる現象げんしょうこっている[103][注釈ちゅうしゃく 10]

一方いっぽう政治せいじじょうのライバルであった蔣介せきは、南京なんきん日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんをつくったひろしちょうめいについて、1938ねん12月22にちづけ日記にっき軽蔑けいべつねんをこめて「はからずも、ひろしせいまもるのでたらめと卑劣ひれつさはここにいたった。まことにすくうべきくすりはない。とう国家こっか不幸ふこうであるが、このような恥知はじしらずのみだしてしまった。誠心せいしん誠意せいいをもってかれたいしてきたが、ついにかえらせることができなかった。これは好悪こうおさいたるものである」としるしている[68]

また、中国ちゅうごく国民党こくみんとうちん立夫たつおは、ひろしちょうめい自他じたともにみとめる中華民国ちゅうかみんこく領袖りょうしゅうちゅう領袖りょうしゅうであったが、抗日こうにち戦争せんそう勝利しょうりする自信じしんのないっからの敗北はいぼく主義しゅぎしゃであったとし、頭脳ずのう明晰めいせきではあったがひとうえちたがる欠点けってんがあったとみずからの回想かいそうろく(『成敗せいばいかん』)にしるしている[68]

家族かぞく

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  • つま ちん璧君:気丈きじょう潔癖けっぺき性格せいかく女傑じょけつがた家族かぞくひょうによれば、政治せいじてきにはひろしちょうめいしたがっていたが、それ以外いがいでは自立じりつしん自己じこ主張しゅちょうがともにつよすぎる女性じょせいであった[7]纏足てんそくはしていなかった[102]
  • 子女しじょ:3なん3じょにめぐまれたが、1923ねんまれの次男じなんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく夭逝ようせいしている。
  • つま兄弟きょうだい姉妹しまい
    • ちんひろしかんひね璧君のあに):にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ当時とうじ南京なんきんだいこうじょう飛行場ひこうじょうだいいち修理しゅうり工廠こうしょうしょうちょう[115]
    • ちん耀祖ひね璧君のあに):広東かんとんしょう政府せいふ主席しゅせきけん広州こうしゅう市長しちょう。1944ねん暗殺あんさつされる[116]
    • ちんあきらひね璧君のおとうと):ひろしちょうめい夫妻ふさい祖国そこく脱出だっしゅつってハノイにき、以後いごともに行動こうどう[116]ひろしちょうめい政権せいけん空軍くうぐん中将ちゅうじょう航空こうくうしょ署長しょちょう中央大学ちゅうおうだいがく校長こうちょうちゅうせいかい軍事ぐんじ専門せんもん委員いいんかい委員いいんなどをつとめた[117]
    • ちんしゅんさだひね璧君の義妹ぎまい):おっとは、ちゅうにち大使たいし広東かんとんしょう主席しゅせき外交がいこう部長ぶちょうつとめた褚民よしみ(褚民よしみ戦後せんご漢奸かんかんとして処刑しょけいされている)[116]
    • ちんぬきくんひね璧君のいもうと):北京ぺきん大学だいがく教授きょうじゅたん熙鴻中国語ちゅうごくごばん結婚けっこんしたが、1922ねん3がつ17にち猩紅熱しょうこうねつにより病死びょうしした[118]
    • ちんよしくんひね璧君のいもうと):1922ねんあき北京ぺきん大学だいがく進学しんがくすると、たん熙鴻のいえ下宿げしゅくした[118]。やがて2人ふたりこいち、正式せいしき同棲どうせいしたが、ぬきくんによりひねたんとの関係かんけいたれたとかんがえていた璧君は激怒げきどしたという[118]

評価ひょうか

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ひろしちょうめい評価ひょうかは、現代げんだいにちちゅう両国りょうこくあいだでは対照たいしょうてき評価ひょうかくだされており、日本にっぽんではいまなお一部いちぶひとびとのあいだ中国ちゅうごく愛国あいこくしゃであり、なおかつ親日しんにちであるとして根強ねづよ人気にんきがある[5]。それにたいし、中国ちゅうごくでは、大陸たいりくにあっても台湾たいわんにあっても、たいにち協力きょうりょく政権せいけんかかわったり、日本にっぽんがわ協力きょうりょくしたりした人物じんぶつを「漢奸かんかん」と呼称こしょうし、民族みんぞく裏切うらぎもの売国奴ばいこくどとしてあつかわれるのが一般いっぱんてきであり、ひろしちょうめいはその典型てんけいてきれい、すなわち「日本にっぽん寝返ねがえった最悪さいあく裏切うらぎもの」として唾棄だきする存在そんざいとみなされ、その存在そんざいつよ否定ひていされている[5][10][119][120]。さらに、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうひろしちょうめい政権せいけん日本にっぽん完全かんぜん傀儡かいらい政権せいけんとみており、中国ちゅうごくにおいては「にせ」のかんして「ひろしにせ政権せいけん」のように表記ひょうきされることが一般いっぱんてきである[5][119]日本にっぽん敗戦はいせん中国ちゅうごくでは日本にっぽん軍民ぐんみんたいする戦犯せんぱん裁判さいばんとはべつに、中国人ちゅうごくじん漢奸かんかん摘発てきはつして「漢奸かんかん裁判さいばん」をおこない、ひろしちょうめい政権せいけん要人ようじんはそのおおくが銃殺じゅうさつけいしょせられた[119]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中学校ちゅうがっこう歴史れきし教科書きょうかしょにおいては、ひろしちょうめい政権せいけんについて、以下いかのように紹介しょうかいされている[121]

日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ勧誘かんゆうで、国民こくみん政府せいふない親日しんにち親玉おやだまひろしせいまもる公然こうぜん祖国そこく裏切うらぎり、てき陣営じんえいとうじて売国奴ばいこくどとなった。1940ねん3がつ日本にっぽんひろしせいまもる援助えんじょし、南京なんきん傀儡かいらい国民こくみん政府せいふ成立せいりつさせた。これは売国奴ばいこくど傀儡かいらい政権せいけんであり、日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ命令めいれい万事ばんじしたがい、日本にっぽん中国ちゅうごく侵略しんりゃく道具どうぐとなった。傀儡かいらい政権せいけん創設そうせつは、日本にっぽん中国ちゅうごくほろぼし、占領せんりょう植民しょくみん統治とうちおこなうための罪深つみぶか措置そちだった。

中国ちゅうごく出身しゅっしん歴史れきし学者がくしゃりゅうすぐるは、「日本人にっぽんじんひろしちょうめい愛国あいこくしゃ評価ひょうかすることはもちろんのこと、かれしめした理解りかい同情どうじょうも、中国人ちゅうごくじんかられば、歴史れきしへの無責任むせきにんうつるのかもれない」とべている[122]

ただし、りゅうすぐる一方いっぽう中国ちゅうごく国力こくりょく低迷ていめいなげいて日本にっぽんぐん占領せんりょうでの「和平わへい工作こうさく」にすべてをけたかれを、「現実げんじつてき対応たいおうてっした愛国あいこくしゃ」として評価ひょうかしており、このように、例外れいがいてきではあるが中国ちゅうごく出身しゅっしんしゃのなかにもひろし政権せいけん肯定こうていてきにとらえる見方みかたまったくないわけではない[10][60]

政治せいじとしては失敗しっぱいしゃ」とちち酷評こくひょうした長男ちょうなんひろしぶん嬰もまた、「政治せいじてきにはたいしてのないひとであったかもしれないが、その精神せいしん愛国心あいこくしんちていた」「あの時代じだい地獄じごくにおちるのを承知しょうちしながら民衆みんしゅう戦火せんかからまもるべくわりわるいコースをえらんだひろしちょうめいが、どうして漢奸かんかんであろうか」と弁護べんごしている[7]

1964ねん香港ほんこん在住ざいじゅうのジャーナリスト金雄かねおしろのもとに「最後さいご心情しんじょう ちょうめい」とかれた国事こくじ遺書いしょ送付そうふされてきた[101]女婿じょせいによれば、筆跡ひっせきひろしちょうめいのものとはおもわれないが、内容ないようとしてはひろし主張しゅちょうちかいとされ、真偽しんぎのほどは曖昧あいまいだが、日本にっぽんマスメディアでも注目ちゅうもくされ、当時とうじ日本人にっぽんじんすくなからずおおきな関心かんしんせた[101]英文えいぶんの『ジャパン・タイムズも「しん愛国あいこくしゃ?」のだい見出みだしをかかげ、「もしここにかれている言葉ことばが、20ねんまえひろしちょうめいいつわらざるしんつたえているとすれば、当時とうじ、この中国ちゅうごく指導しどうしゃ正当せいとう評価ひょうかした日本人にっぽんじんはほとんどいなかったといえそうだ。ひろしちょうめいのとったさくは、てき日本にっぽん)の警戒けいかいしんき、いちへいたりともうごかさずに勝利しょうりをおさめようとする高度こうど政治せいじ判断はんだんであった」とほうじている[101]

そして、実際じっさいてきにもひろしちょうめい政権せいけんべいえい宣戦せんせん布告ふこくしたことが、日本にっぽんがわさらにべいえいとの不平等ふびょうどう条約じょうやく解消かいしょうにつながるなど中国ちゅうごく主体性しゅたいせい確保かくほ国際こくさいてき地位ちい向上こうじょう寄与きよしたいちめんがあることも事実じじつである[60][92]ひろしちょうめい政権せいけん経済けいざい関係かんけい省庁しょうちょう文書ぶんしょをみると、水利すいり建設けんせつなどでは一定いってい主導しゅどうせいゆうしており、さらに、日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくたい宣戦せんせん布告ふこくしなかったことから、日本にっぽん国内こくない華僑かきょうのほとんどはひろしちょうめい政権せいけん管轄かんかつにあり、これは東南とうなんアジアにおける日本にっぽん占領せんりょう地域ちいき中国ちゅうごくせきひとびとについても同様どうようだった[123]ひろしちょうめい政権せいけん傀儡かいらい政権せいけんであるにしても、完全かんぜんいなりであったわけではなく、政権せいけんとしての内実ないじつをいくらかでもともなっていたことには注意ちゅうい必要ひつようである[123]

日本にっぽん国内こくないにあっても、1930年代ねんだい後半こうはん以降いこうひろしちょうめい党内とうない権威けんいうしなっていったのは「たびかさなる外遊がいゆう時代じだい逆行ぎゃっこうてき反共はんきょう主義しゅぎのため」であるとみなす宇野うの重昭しげあきなどの見解けんかい不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせいについても、日本にっぽんぐん占領せんりょうという状況じょうきょうのなかでは実効じっこうせいとぼしいという評価ひょうかがある一方いっぽうひろしちょうめいにちちゅうあいだの「拙劣せつれつ戦争せんそう」を阻止そししようと、生命せいめいして反共はんきょう和平わへいとなえた先見せんけんあかりのあるすぐれた政治せいじであるという岡田おかだかおるせいもと大本営だいほんえい参謀さんぼう)の見解けんかいもある[4][124][125]岡田おかだによれば、当時とうじ日本にっぽんにあってはひろしちょうめい構想こうそう理解りかいされず、すうひゃくまん軍隊ぐんたいおくり、50まんにんちか戦死せんししゃしながらも重慶たーちんとの和平わへいらず、国力こくりょく消耗しょうもうしてべいえいとの戦争せんそう突入とつにゅうしてしまい、一方いっぽう重慶たーちん政府せいふがわひろしちょうめい反共はんきょう和平わへい拒否きょひしたばかりに、抗戦こうせん日本にっぽん敗戦はいせんによる一時いちじてき勝利しょうりわり、ひろしちょうめい予告よこくしたとおりに共産党きょうさんとう支配しはいまねいてしまったというのである[125]

ひろしちょうめいたいにち協力きょうりょくは、ナショナリズムよりも民生みんせい安定あんてい優先ゆうせんさせてのことであったが、しかし、そこに政策せいさくはあっても具体ぐたいてき戦術せんじゅつける「あまさ」があったことを指摘してきする見解けんかいがある[126]。すなわち、和平わへい運動うんどうしん政権せいけんをつくるとき、りゅうくも佩孚連絡れんらくをとったもののひろしびかけには呼応こおうせず、国内こくない政治せいじ勢力せいりょく結集けっしゅうすることがほとんどできなかった[126]。これは、蔣介せき政権せいけん政策せいさく転換てんかんうながちからよわめ、日本にっぽんとの取引とりひき有利ゆうりすすめることを困難こんなんにした[126]。さらに、日本にっぽんとの妥協だきょう選択せんたくする場合ばあいには、国内こくないとのナショナリズムとのあいだになんらかのいをける戦略せんりゃく必要ひつようではなかったかとかんがえられる[126]。また、しん政権せいけん成立せいりつさせたことでたいえいべい工作こうさくのパイプがれてしまったことも、ひろしちょうめい意図いとからすれば痛手いたでであったとかんがえられる[126][注釈ちゅうしゃく 12]

もとより、さい晩年ばんねん親日しんにちてき政治せいじ行動こうどうにのみけるのではなく、それ以前いぜん民主みんしゅへの貢献こうけんについて正当せいとう評価ひょうかをあたえるべきとの見解けんかいもある[5]ひろしちょうめいは、20世紀せいき前半ぜんはん激動げきどう時代じだい革命かくめいこころざし、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ指導しどうてき立場たちばってからも、蔣介せきたいして民主みんしゅ果敢かかんとなえ、そのはたやくにんじてきた人物じんぶつなのであり、政治せいじ民主みんしゅいまもって中国ちゅうごく最大さいだい課題かだいにほかならないからである[5]

著作ちょさく

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  • ひろしちょうめい全集ぜんしゅう』(和訳わやく河上かわかみ純一じゅんいちやく東亜とうあ公論こうろんしゃ、1939ねん
  • ひろし主席しゅせき和平わへい建国けんこく言論げんろんしゅう中央ちゅうおうしょほう発行はっこうしょ、1940ねん
  • 中国ちゅうごくしょ問題もんだいと其解決かいけつ』(和訳わやく日本にっぽん青年せいねん外交がいこう協会きょうかい研究けんきゅうやくへん日本にっぽん青年せいねん外交がいこう協会きょうかい出版しゅっぱん、1939ねん
  • 日本にっぽんと携へて』(和訳わやく黒根くろねさちさくやく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1939ねん
  • ひろしせいまもる自叙伝じじょでん』(和訳わやく安藤あんどういさおへんやく講談社こうだんしゃ、1941ねん
  • 全面ぜんめん和平わへいへのみち』(和訳わやく東亜とうあ聯盟れんめい中国ちゅうごく総会そうかいへん改造かいぞうしゃ、1941ねん
  • ひろし主席しゅせき訪日ほうにち言論げんろんしゅう上海しゃんはい特別とくべつ政府せいふ秘書ひしょしょ出版しゅっぱんねん不明ふめい
  • そうあきらろうわら

伝記でんき

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  • 森田もりた正夫まさおひろしちょうめい』(興亜こうあ文化ぶんか協会きょうかい 昭和しょうわ14ねん(1939ねん))
  • 山中やまなか徳雄とくお和平わへい売国ばいこくか あるひろしちょうめいでん』(出版しゅっぱん 平成へいせい2ねん(1990ねん))
  • 杉森すぎもりひさえいひとわれを漢奸かんかんひろしちょうめいでん』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 平成へいせい10ねん(1998ねん))
  • 上坂かみさか冬子ふゆこ苦難くなんみちひろしちょうめい真実しんじつ』(かくうえした)、講談社こうだんしゃ 平成へいせい11ねん(1999ねん)、文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 平成へいせい14ねん(2002ねん))

脚注きゃくちゅう

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マレーシアにて
後列こうれつひだりから2人ふたりひろし、そのひだりひね璧君

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 戦前せんぜん戦中せんちゅう日本にっぽんでも、「ひろしせいまもる」の呼称こしょう使用しようするれいけっしてすくなくなかった。東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかい最新さいしんささえ要人ようじんでん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ昭和しょうわ16ねん)や『写真しゃしん週報しゅうほう』などの出版しゅっぱんぶつ、さらに週間しゅうかんニュース映画えいが日本にっぽんニュース」などでも「ひろしせいまもる」と表記ひょうきしている。
  2. ^ しゅしんは、まごぶん忠実ちゅうじつ協力きょうりょくしゃで、しゅしん父親ちちおやひろしちょうめい従姉妹いとこつまとしていた。1920ねん死去しきょ死後しごしゅかんしたしゅしん学校がっこう広東かんとん設立せつりつされ、ひろしちょうめい長女ちょうじょひろしぶん惺やそのおっとなんぶんすぐるはここでまなんだ[9]
  3. ^ 同盟どうめいかい庶務しょむ部長ぶちょうきょう)・司法しほう部長ぶちょうちょうつぎ)・評議ひょうぎ部長ぶちょうひろしちょうめい)にかれていた。各部かくぶは、それぞれ行政ぎょうせい司法しほう立法りっぽう三権さんけん対応たいおうしていた。
  4. ^ せいまもる」は、うみ溺死できししたなつほのおみかどむすめ化身けしんとされた伝説でんせつじょう小鳥ことりうらふかうみがいつかくされることを夢見ゆめみて、小石こいしくちばしにくわえてきることなくかいはことしたとされる。ひろしは、みずから革命かくめい礎石そせき、さらにはいしたらんとして、このごう名乗なのった[13]
  5. ^ ちん璧君とひろしちょうめいったのは、ひろしまごぶんにしたがって革命かくめい資金しきんあつめるべくペナンとう講演こうえん旅行りょこうをしたときであった[15]
  6. ^ この宣言せんげんしょにおける「文明ぶんめいこくくすべき義務ぎむくして、文明ぶんめいこく享受きょうじゅすべき権利けんり享受きょうじゅする」の文言もんごんは、法政ほうせい山田やまだ三良さぶろうつね日頃ひごろ学生がくせいはなしていたことからおおいに影響えいきょうけたという[19]
  7. ^ 革命かくめいぐん将校しょうこう土地とちのぞいて土地とち革命かくめい遂行すいこうしせよ。信頼しんらいできない将校しょうこう一掃いっそうし、2まんにん共産きょうさん党員とういん武装ぶそうし、5まんにん労農ろうのう分子ぶんし選抜せんばつしてあたらしい軍隊ぐんたい組織そしきせよ。国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかい改造かいぞうし、ふる委員いいん労農ろうのう分子ぶんし交代こうたいさせよ。著名ちょめい国民党こくみんとういんちょうとする革命かくめい法廷ほうてい組織そしきして反動はんどうてき将校しょうこう裁判さいばんにかけよ、というのがコミンテルンからの訓令くんれいであった[40]
  8. ^ 広田ひろた和協わきょう外交がいこうは、列強れっきょう勢力せいりょく中国ちゅうごくから排除はいじょする指向しこうをもっていたと同時どうじに、陸軍りくぐん中国ちゅうごく政策せいさく単純たんじゅん追随ついずいするものではなく、政府せいふによる外交がいこう自主じしゅせい保持ほじしようというものであった[55]
  9. ^ 日本人にっぽんじんによる東亜とうあ連盟れんめい運動うんどう嚆矢こうし石原いしはらかんなんじ信奉しんぽうしゃたちであり、中国人ちゅうごくじんでは繆斌をそのさきがけとしている[29]北平きたひらしんみんかい脱会だっかいした繆斌が1940ねん5がつ北平きたひら中国ちゅうごく東亜とうあ連盟れんめい協会きょうかいはやしなんじが1940ねん9がつ広東かんとん中華ちゅうか東亜とうあ連盟れんめい協会きょうかいしゅうがくあきらが1940ねん11月に南京なんきん東亜とうあ連盟れんめい中国ちゅうごく同志どうしかいをそれぞれ結成けっせいした[29]。しかし、1941ねん1がつ14にち日本にっぽん政府せいふ日本にっぽん国内こくない東亜とうあ連盟れんめい解散かいさん閣議かくぎ決定けっていし、日本にっぽんがわ活動かつどう停滞ていたい余儀よぎなくされ、中国ちゅうごくがわもその影響えいきょうけたが、一方いっぽう日本にっぽんがわくさ同調どうちょうしゃ真剣しんけんであることが中国ちゅうごくがわ運動うんどうしゃ理解りかいされたのであった[29]
  10. ^ だいだい新聞しんぶん』によれば、このめずらし現象げんしょう原因げんいんは、一部いちぶ教科書きょうかしょあやまってさんせん写真しゃしんひろしちょうめい写真しゃしんとしてもちいていたためであり、ひろしちょうめいかおおおくのひとっているので、すぐに誤認ごにんであることは判明はんめいしたが、実際じっさいにはだれなのかがよくわからないので、ワイルドカード(どう時代じだい人物じんぶつ紹介しょうかいするときに、その人物じんぶつ写真しゃしんつからなければ、とりあえずせるような写真しゃしん)としてもちいられ、さらに混乱こんらんしょうじたという[103]
  11. ^ 1983ねん昭和しょうわ58ねん)、ひろしぶんあきら医学いがく研修けんしゅうのために名古屋なごやおとずれ、2がつ28にちづけ中日新聞ちゅうにちしんぶん』はこれを「ひろしちょうめい二女じじょぶんあきらさん、39ねんぶり旧交きゅうこうあたためる」とほうじている[109]
  12. ^ 日本にっぽんがわも、ひろしちょうめい政権せいけん成立せいりつ交渉こうしょう相手あいてとして蔣介せき政権せいけん未練みれんをもっており、ひろし政権せいけん承認しょうにんおそくなってしまったことは、中国ちゅうごくにおけるひろしちょうめい政権せいけん求心力きゅうしんりょく低下ていかさせてしまったし、撤兵てっぺい租界そかい返還へんかん日本にっぽん劣勢れっせいになってからのことなので、「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」の構想こうそう説得せっとくりょくをもたなかった[126]。これが、早期そうきになされ、具体ぐたいてき協議きょうぎはいっていれば、ひろし政権せいけんがわにも多彩たさい人士じんしあつまり、「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」も説得せっとくりょくちえたとおもわれる[126]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p さと(1975)p.155
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak コトバンク「ひろしちょうめい
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ
先代せんだい
胡漢民こかんみん
広東かんとん大元帥だいげんすい大元帥だいげんすい
広州こうしゅう国民こくみん政府せいふ主席しゅせき委員いいん
1925ねん7がつ - 1926ねん3がつ
(1926ねんたんのべ代理だいり
次代じだい
武漢ぶかん国民こくみん政府せいふ主席しゅせき
改組かいそ
先代せんだい
広州こうしゅう国民こくみん政府せいふから改組かいそ
武漢ぶかん国民こくみん政府せいふ主席しゅせき
1926ねん12月 - 1927ねん8がつ
次代じだい
南京なんきん国民こくみん政府せいふ合流ごうりゅう
先代せんだい
集団しゅうだん指導しどうせい胡漢民こかんみんら4めい
南京なんきん国民こくみん政府せいふ常務じょうむ委員いいん
1927ねん9月 - 1928ねん1がつ
集団しゅうだん指導しどうせいたんのべ胡漢民こかんみん
蔡元つちかえれつひとし
次代じだい
集団しゅうだん指導しどうせいひろしちょうめいら9めい
先代せんだい
集団しゅうだん指導しどうせいひろしちょうめいら5めい
南京なんきん国民こくみん政府せいふ常務じょうむ委員いいん
1928ねん1がつ - 2がつ
集団しゅうだん指導しどうせいたんのべ胡漢民こかんみん
蔡元つちかえれつひとし于右にん蔣介せき
まごはやしもり
次代じだい
集団しゅうだん指導しどうせいたんのべら5めい
先代せんだい
創設そうせつ
広東かんとん国民こくみん政府せいふ常務じょうむ委員いいん
1931ねん5月 - 1932ねん
集団しゅうだん指導しどうせいから紹儀おう
鄧沢如まご
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
まご
行政ぎょうせい院長いんちょう
1932ねん1がつ - 1935ねん12月
1932ねん8がつ - 1933ねん3がつ
そうぶん代理だいり
1935ねん7がつ - 12月あなさち代理だいり
次代じだい
蔣介せき
先代せんだい
ぶんみき
外交がいこう部長ぶちょうしょ
1933ねん8がつ - 1935ねん12月
次代じだい
ちょうぐん
南京なんきん国民こくみん政府せいふひろしちょうめい政権せいけん
先代せんだい
創設そうせつ
主席しゅせき
1940ねん3月 - 1944ねん11月
(1940ねん11がつまで代理だいり
次代じだい
ちん公博きみひろ
先代せんだい
創設そうせつ
行政ぎょうせい院長いんちょう
1940ねん3月 - 1944ねん11月
次代じだい
ちん公博きみひろ