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浅沼 あさぬま 萬里 ばんり (あさぬま ばんり[ 1] 、1935年 ねん [ 1] - 1996年 ねん 3月23日 にち [ 1] )[ 2] は、日本 にっぽん の経済 けいざい 学者 がくしゃ 。専 せん 門 もん は取引 とりひき 費用 ひよう の経済 けいざい 学 がく と契約 けいやく 理論 りろん 。京都大学 きょうとだいがく 教授 きょうじゅ である。浅沼 あさぬま 万里 ばんり とも書 か く[ 1] 。
母親 ははおや が出産 しゅっさん のために一時 いちじ 帰国 きこく していたため京都 きょうと で生 う まれるが、幼少 ようしょう 期 き を中国 ちゅうごく で過 す ごしており、名前 なまえ は万里 ばんり の長城 ちょうじょう にちなむ[ 2] 。浅沼 あさぬま が小学校 しょうがっこう 4年 ねん 時 じ に終戦 しゅうせん となり、翌年 よくねん の8月 がつ に日本 にっぽん に戻 もど る[ 2] 。
同志社 どうししゃ 中学校 ちゅうがっこう ・高等 こうとう 学校 がっこう で学 まな び、生徒 せいと 会長 かいちょう とテニス部 ぶ のキャプテンを務 つと める[ 2] 。このとき、アメリカのキリスト教会 きょうかい からの奨学 しょうがく 金 きん の支援 しえん を受 う けており、そのことを生涯 しょうがい 感謝 かんしゃ していた[ 2] 。高校 こうこう 3年 ねん 時 じ に病気 びょうき になり、病院 びょういん で1年 ねん 、自宅 じたく で2年 ねん 療養 りょうよう し、1956年 ねん 、21歳 さい のときに同志社 どうししゃ 高校 こうこう 3年 ねん に復学 ふくがく する[ 2] 。
1957年 ねん に京都大学 きょうとだいがく 経済学部 けいざいがくぶ に入学 にゅうがく する。1961年 ねん に経済学部 けいざいがくぶ を卒業 そつぎょう し助手 じょしゅ となり、助教授 じょきょうじゅ になってからはハーバード燕 つばめ 京 きょう 研究所 けんきゅうじょ で2年間 ねんかん 客員 きゃくいん 研究 けんきゅう 員 いん として研究 けんきゅう に取 と り組 く む[ 2] 。1984年 ねん に教授 きょうじゅ となり、1993年 ねん から2年間 ねんかん は経済学部 けいざいがくぶ 長 ちょう と経済 けいざい 学 がく 研究 けんきゅう 科 か 長 ちょう を務 つと める[ 2] 。1970年 ねん 代 だい 後半 こうはん に京都大学 きょうとだいがく 経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ で青木 あおき 昌彦 まさひこ とともに「比較 ひかく 経済 けいざい 体制 たいせい 論 ろん 」というワークショップを開講 かいこう した[ 3] 。
1995年 ねん 5月の検診 けんしん で胃癌 いがん と診断 しんだん され、7月 がつ に手術 しゅじゅつ をし退院 たいいん するも、1996年 ねん 3月 がつ に再発 さいはつ し、3月23日 にち に逝去 せいきょ する[ 2] 。最後 さいご の激痛 げきつう が襲 おそ ってきたときは「もう私 わたし はペンをとれないのか」と振 ふ り絞 しぼ るように妻 つま に問 と うた[ 4] 。
指導 しどう 教授 きょうじゅ は田 た 杉 すぎ 競 けい で、赤岡 あかおか 功 いさお はゼミの後輩 こうはい にあたる[ 2] 。
企業 きぎょう 内部 ないぶ における設備 せつび 投資 とうし の意思 いし 決定 けってい 理論 りろん 、日本 にっぽん 企業 きぎょう における受注 じゅちゅう と生産 せいさん の調整 ちょうせい の仕組 しく みついての理論 りろん 的 てき 考察 こうさつ 、情報 じょうほう ネットワークの企業 きぎょう 組織 そしき への影響 えいきょう などについての研究 けんきゅう を行 おこな った[ 2] 。さらに、メーカーとサプライヤー間 あいだ における部品 ぶひん や原材料 げんざいりょう の長期 ちょうき 継続 けいぞく 取引 とりひき の実証 じっしょう 研究 けんきゅう を行 おこな った[ 2] 。日米 にちべい 通商 つうしょう 摩擦 まさつ が深刻 しんこく 化 か すると以前 いぜん にも増 ま して浅沼 あさぬま の研究 けんきゅう に注目 ちゅうもく が集 あつ まり、学術 がくじゅつ 論文 ろんぶん でも多 おお く引用 いんよう された[ 2] 。「職場 しょくば の労働 ろうどう 組織 そしき と会社 かいしゃ の人的 じんてき 資本 しほん 管理 かんり 」という題目 だいもく のワーキングペーパーでは、労働 ろうどう 者 しゃ が長期 ちょうき 雇用 こよう の下 した で技能 ぎのう を高 たか め、それが企業 きぎょう 経営 けいえい を強 つよ くするということが主張 しゅちょう されている[ 2] 。
スタンフォード大学 だいがく で日本 にっぽん 経済 けいざい 論 ろん の講義 こうぎ を担当 たんとう した青木 あおき 昌彦 まさひこ は、小池 こいけ 和男 かずお の業績 ぎょうせき と共 とも に浅沼 あさぬま の業績 ぎょうせき を欠 か かすことのできない2本 ほん 柱 ばしら として講義 こうぎ で取 と り扱 あつか ったと述 の べている[ 3] 。
公正 こうせい 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい 、通商 つうしょう 産業 さんぎょう 研究所 けんきゅうじょ 、総合 そうごう 研究 けんきゅう 開発 かいはつ 機構 きこう などで研究 けんきゅう 成果 せいか を報告 ほうこく し、日本 にっぽん 経済 けいざい の仕組 しく みを理解 りかい する上 じょう で貢献 こうけん を果 は たした[ 2] 。
京都大学 きょうとだいがく 経済学部 けいざいがくぶ でアタッシュ・ケースを使 つか ったのは浅沼 あさぬま が最初 さいしょ だった[ 5] 。A4サイズの紙 かみ を2列 れつ に形 かたち を崩 くず さずに入 い れられるため愛用 あいよう していた[ 5] 。
ハーバード燕 つばめ 京 きょう 研究所 けんきゅうじょ で在外 ざいがい 研究 けんきゅう に取 と り組 く んでいたときは、1968年 ねん 型式 けいしき のシボレー・カマロ のスポーツカーに乗 の っていた[ 5] 。告別 こくべつ 式 しき でもシボレーの霊柩車 れいきゅうしゃ で見送 みおく られた[ 5] 。
熊沢 くまさわ 誠 まこと は、1957年 ねん に浅沼 あさぬま と同期 どうき で京都 きょうと 大学 だいがく に入学 にゅうがく して以来 いらい 、浅沼 あさぬま を兄 あに として慕 した っていた[ 6] 。資本 しほん 論 ろん の読 よ み方 かた や報告 ほうこく の仕方 しかた 、工場 こうじょう 見学 けんがく では工場 こうじょう 経営 けいえい 者 しゃ への挨拶 あいさつ の仕方 しかた などを教 おし えてくれたと述 の べている[ 6] 。さらに、浅沼 あさぬま は青年 せいねん 期 き にも大病 たいびょう を患 わずら い闘病 とうびょう の経験 けいけん があることから、「病気 びょうき になったらどんなことを考 かんが えたらいいかというようなこと、伸 の びていく松 まつ に大 おお きな石 いし がめり込 こ んでも松 まつ は石 いし を包 つつ んだまま伸 の びていくんだ」ということを文章 ぶんしょう に書 か いて熊沢 くまざわ に伝 つた えてくれたと述 の べている[ 6] 。
菊谷 きくや 達弥 たつや は、研究 けんきゅう の進 すす め方 かた について、「君 きみ は体 からだ が丈夫 じょうぶ だから道草 みちくさ が多 おお すぎる。私 わたし は体 からだ が弱 よわ いからそんな訳 わけ にはいかないのだ。」と言 い われたことを紹介 しょうかい している[ 4] 。
『日本 にっぽん の企業 きぎょう 組織 そしき 革新 かくしん 的 てき 適応 てきおう のメカニズム: 長期 ちょうき 取引 とりひき 関係 かんけい の構造 こうぞう と機能 きのう 』(東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ , 1997年 ねん )
(青木 あおき 昌彦 まさひこ )『経済 けいざい 体制 たいせい 論 ろん 』(東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ , 1977年 ねん )
(土屋 つちや 守 まもる 章 あきら , 三輪 みわ 芳朗 よしろう )『日本 にっぽん の中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう 』(東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい , 1989年 ねん )
(藤本 ふじもと 隆宏 たかひろ , 西口 にしぐち 敏宏 としひろ , 伊藤 いとう 秀 しげる 史 し )『リーディングスサプライヤー・システム : 新 あたら しい企業 きぎょう 間 あいだ 関係 かんけい を創 つく る』(有斐閣 ゆうひかく , 1998年 ねん )
(伊丹 いたみ 敬之 たかゆき , 藤本 ふじもと 隆宏 たかひろ , 岡崎 おかざき 哲二 てつじ , 伊藤 いとう 秀 しげる 史 し , 沼上 ぬまがみ 幹 みき )『組織 そしき とコーディネーション』(有斐閣 ゆうひかく , 2006年 ねん )
^ a b c d “浅沼 あさぬま 万里 ばんり - Webcat Plus ”. 国立 こくりつ 情報 じょうほう 学 がく 研究所 けんきゅうじょ . 2023年 ねん 7月 がつ 8日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e f g h i j k l m n o 赤岡 あかおか , 功 いさお (1996).「追悼 ついとう 講演 こうえん 故 こ 浅沼 あさぬま 教授 きょうじゅ の略歴 りゃくれき と業績 ぎょうせき 」 『經濟 けいざい 論叢 ろんそう 』(京都 きょうと 大學 だいがく 經濟 けいざい 學會 がっかい )158巻 かん 1号 ごう : 107-112頁 ぺーじ , hdl :2433/45074 。
^ a b 青木 あおき , 昌彦 まさひこ (1996).「故 こ 浅沼 あさぬま 教授 きょうじゅ の学問 がくもん をふりかえって」 『經濟 けいざい 論叢 ろんそう 』(京都 きょうと 大學 だいがく 經濟 けいざい 學會 がっかい )158巻 かん 1号 ごう : 112-118頁 ぺーじ , hdl :2433/45075 。
^ a b 菊谷 きくや , 達弥 たつや (1996).「浅沼 あさぬま 先生 せんせい の古今 ここん 伝授 でんじゅ 」 『經濟 けいざい 論叢 ろんそう 』(京都 きょうと 大學 だいがく 經濟 けいざい 學會 がっかい )158巻 かん 1号 ごう : 126-129頁 ぺーじ , hdl :2433/45077 。
^ a b c d 瀬 せ 地 ち 山 やま , 敏 さとし (1996).「故 こ 浅沼 あさぬま 教授 きょうじゅ の人柄 ひとがら を偲 しの ぶ」 『經濟 けいざい 論叢 ろんそう 』(京都 きょうと 大學 だいがく 經濟 けいざい 學會 がっかい )158巻 かん 1号 ごう : 107-112頁 ぺーじ , hdl :2433/45076 。
^ a b c 熊沢 くまさわ , 誠 まこと (1996).「追悼 ついとう 談 だん 浅沼 あさぬま 萬里 ばんり さんの思 おも い出 で 」 『經濟 けいざい 論叢 ろんそう 』(京都 きょうと 大學 だいがく 經濟 けいざい 學會 がっかい )158巻 かん 1号 ごう : 124-126頁 ぺーじ , hdl :2433/45077 。
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