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はまかん

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はまかん
熊本くまもとけん
別名べつめい じん内浜うちはま御所ごしょはま御殿ごてん
城郭じょうかく構造こうぞう しろかん
築城ちくじょうぬし 阿蘇あそ
築城ちくじょうねん 中世ちゅうせい
おも城主じょうしゅ 阿蘇あそ
はいじょうねん 天正てんしょう14ねん1586ねん)または翌年よくねん
位置いち 北緯ほくい3241ふん14.4びょう 東経とうけい13059ふん37.9びょう / 北緯ほくい32.687333 東経とうけい130.993861 / 32.687333; 130.993861
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はまかん(はまのやかた)は、熊本くまもとけん上益城かみましきぐん山都やまとまちにあった中世ちゅうせい日本にっぽんしろしろかん)。阿蘇あそ最盛さいせい中心ちゅうしんである。

中世ちゅうせい肥後ひご中部ちゅうぶ勢力せいりょくった阿蘇あそが、阿蘇あそ南郷谷なんごうたにより拠点きょてん当地とうちうつし、ながらく居館きょかんとした。

立地りっち

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上益城かみましきぐん山都やまとまち城平じょうひら小高こだかおかにあり、げん県立けんりつ矢部やべ高校こうこう敷地しきち位置いちする。北側きたがわ丘陵きゅうりょう東側ひがしがわには轟川とどろきがわみなみりゅうする。かんあと東西とうざい220m・南北なんぼく180mの方形ほうけい推定すいていされ、きた堀切ほりきり、そのさんぽうほりめぐらされていた。(みずほりせつもあるが確証かくしょうはない)

プールがわ校舎こうしゃ校庭こうてい看板かんばんっており、一部いちぶ遺構いこう移設いせつ保存ほぞんされている。

西側にしがわ高低こうていおおきく、みなみ轟川とどろきがわげんろう滝川たきかわ 下流かりゅうつうじゅんきょうろうたきがある)をへだてた岩尾いわおしろ山城やましろ大手門おおてもんへのみちつうじていたとみられる。

周囲しゅういには、武家ぶけ屋敷やしきがあり、対岸たいがん武家ぶけ屋敷やしき往来おうらいするための「前渡まえわたし」とよばれるかわみちがあった。

遺構いこう

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矢部やべ高校こうこう改築かいちくともない、1973ねんから1976ねんにかけて発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた。だいIでは桁行けたゆき7あいだ梁間はりま4あいだの、かや入母屋いりもやづくり対面たいめんしょらしき建物たてものあと検出けんしゅつされた。丘陵きゅうりょう斜面しゃめん庭園ていえんには庭石にわいしいけあとのこり、ほとりあなからはガラスせいの坏、白磁はくじ獅子しし置物おきもの黄金おうごんいたなどがかんがたひんとして出土しゅつどした。出土しゅつどひんのうち21てんが1986ねんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、熊本くまもと県立けんりつ美術館びじゅつかん保管ほかんされている。だいIIではすうひゃくはしらあな検出けんしゅつされ、C14年代ねんだい測定そくていによるとすくなくともえいひとし3ねん1295ねん)、えいとおる2ねん1430ねん)、えいただし7ねん1510ねん)の3かいわたって焼失しょうしつしてえられている。最後さいごえいただし7ねん建造けんぞうぶつは、3あいだ四方しほう間取まどりを儀式ぎしき神殿しんでんだとかんがえられる。

また、たてあとには「弾正だんじょうすぎ」とばれるすぎ大木たいぼく19世紀せいき後半こうはんごろまであり、現在げんざいは「弾正だんじょうさん」とよばれる百日紅さるすべり古木ふるきがある。阿蘇あそなかで「弾正だんじょうちゅう」をつとめたもの記録きろくじょうのこっていない。弾正だんじょうすぎ西にしには阿蘇あそ息女そくじょないし侍女じじょはかいしほこら女性じょせいぞうがあり、母乳ぼにゅう効能こうのうがあるとして信仰しんこうされている。

むら神社じんじゃ

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敷地しきちないにある高台たかだいのう実習じっしゅうじょうちかく)には「むら神社じんじゃ」(現存げんそん)がある。寛弘かんこう3ねん1006ねん)に阿蘇あそ神社じんじゃ末社まっしゃ(まっしゃ)として創建そうけんされた。 阿蘇あそ矢部やべうつってきょかまえるさい弓矢ゆみやはなち、ここに白羽しらはがささり、「はまかん」をかまえたといういわれがのこっている。

その

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はまかん」の周囲しゅういには、阿蘇あそえんのある寺院じいん福王寺ふくおうじ: 阿蘇あそ菩提寺ぼだいじ)や墓所はかしょびょう(びょう) - 阿蘇あそおもんみゆたかおおやけ墓所はかしょ華蔵寺けぞうじあと石碑せきひぐん墓地ぼちはかだんぐん阿蘇あそおもんみしゅはか)、城郭じょうかく岩尾いわおしろ: 別名べつめい矢部やべじょう)、恋愛れんあいかみとして注目ちゅうもくされはじめたしょういちりょう神社じんじゃこい一路いちろ神社じんじゃ)などが徒歩とほ圏内けんない点在てんざいしている。

歴史れきし

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事蹟じせきどおりこう』にはうけたまわもと元年がんねん1207ねん)に阿蘇あそおもんみ本拠ほんきょ阿蘇あそ南郷なんごうからじんないうつしたとあるが、確証かくしょうはない。かん設置せっち確実視かくじつしされるのは、室町むろまち時代ときよ阿蘇あそおもんみただしないし惟時これときころである。大友おおともとの関係かんけい密接みっせつだったことなどから阿蘇あそおもんみゆたかころ阿蘇あそ勢力せいりょく最大さいだいになり、阿蘇あそ益城ましき宇土うとのほか肥後ひご国外こくがいにもおよび、はまかんはその政庁せいちょうとなった。天文てんもん13ねん1544ねん)にしたがえさんじょせられたさいには、勅使ちょくし烏丸からすま光康みつやす下向げこうしている。

やがて島津しまつとのたたかいがはげしくなり、御船みふねしろ拠点きょてんとする島津しまづぜい天正てんしょう14ねん1586ねん)に野尻のじりしろ攻撃こうげきしたさい阿蘇あそおもんみこう目丸山めまるやまちゅう逃亡とうぼうし、はまかん焼失しょうしつした。『じつしゅう昔語むかしがたり』には、このさい宝物ほうもつかんあなかくしたと記述きじゅつされている。よく15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう征伐せいばつわると大宮おおみやつかさ佐々ささしげるせいくま本城ほんじょううつされ、はまかんはいされた。17世紀せいき後半こうはんかんあと整備せいびされ水田すいでんとなった。

出典しゅってん

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  1. ^ 熊本くまもとけん上益城かみましきぐんへん上益城かみましきぐん』1921ねん、424ぺーじ名著めいちょ出版しゅっぱん復刻ふっこく、1973ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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