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浜口はまぐち陽三ようぞう

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浜口はまぐち 陽三ようぞう
浜口はまぐち陽三ようぞう中央ちゅうおう)とつまみなみ桂子けいこ中央ちゅうおうみぎ
生誕せいたん (1909-04-05) 1909ねん4がつ5にち
和歌山わかやまけん有田ありたぐんひろむらげん有田ありたぐん広川ひろかわまち
死没しぼつ 2000ねん12月25にち(2000-12-25)(91さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう
著名ちょめい実績じっせき 版画はんが
配偶はいぐうしゃ みなみ桂子けいこ版画はんが
受賞じゅしょう サンパウロ国際こくさい版画はんがビエンナーレ版画はんが大賞たいしょう(1957)
東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレ国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんしょう(1957)
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浜口はまぐち 陽三ようぞう(はまぐち ようぞう、1909ねん4がつ5にち - 2000ねん12月25にち)は、和歌山わかやまけん有田ありたぐんひろむらげん有田ありたぐん広川ひろかわまち出身しゅっしん版画はんが

どう版画はんが一種いっしゅであるメゾチント復興ふっこうし、カラーメゾチント技法ぎほう開拓かいたくしゃとなった。おなじく版画はんがみなみ桂子けいこつま本名ほんみょう濱口はまぐち 陽三ようぞう(はまぐち ようぞう)だが、筆名ひつめいとしてはしん字体じたいの「はま」をもちいていた。

経歴けいれき

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濱口はまぐちただし兵衛ひょうえ

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1909ねん明治めいじ42ねん)4がつ5にち和歌山わかやまけん有田ありたぐんひろむらげん有田ありたぐん広川ひろかわまち)にまれた[1]生家せいか濱口はまぐちただし兵衛ひょうえいえヤマサ醤油じょうゆ創業そうぎょうであり、陽三ようぞう濱口はまぐち梧洞(10代目だいめ濱口はまぐちただし兵衛ひょうえ)の三男さんなんである[1]幼少ようしょう一家いっか千葉ちばけん銚子ちょうし転居てんきょした[1]

戦前せんぜん活動かつどう

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東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく)では彫刻ちょうこく塑造入学にゅうがくしたが、2ねん退学たいがくパリ渡航とこうした[1]。パリ滞在たいざいちゅうの1937ねん昭和しょうわ12ねんごろからドライポイント(銅板どうばん直接ちょくせつはり図柄ずがらえがく、どう版画はんが技法ぎほう一種いっしゅ)の制作せいさくこころみ、版画はんがへのいちしるはじめた。戦時せんじしょくくなるなか、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に日本にっぽん帰国きこく自由じゆう美術家びじゅつか協会きょうかい創立そうりつ会員かいいんとして参加さんかするが、戦時せんじにはなかなか作品さくひん発表はっぴょうかった。1942ねん昭和しょうわ17ねん)には経済けいざい視察しさつだん通訳つうやくとしてふつりょうインドシナベトナム)に渡航とこうし、1945ねん昭和しょうわ20ねん帰国きこくしている。

戦後せんご活動かつどう

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浜口はまぐち本格ほんかくてき版画はんが制作せいさくはじめるのは、だい世界せかい大戦たいせんの1950ねん昭和しょうわ25ねん前後ぜんこう、40さいごろのことであった。1953ねん昭和しょうわ28ねん)には再度さいどわたりぼとけし、以後いごおもにフランスで制作せいさくつづけた。1957ねん昭和しょうわ32ねん)にはサンパウロ国際こくさい版画はんがビエンナーレ版画はんが大賞たいしょう東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレにおける国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんしょうをダブル受賞じゅしょうし、国際こくさいてき評価ひょうかたかまった。そのおおくの国際こくさいてきしょうけている。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)から1972ねん昭和しょうわ47ねん)にはブラジル滞在たいざい。フランスにいったんもどったのち、1981ねん昭和しょうわ56ねん)には拠点きょてんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくサンフランシスコうつした。版画はんがすりさがすところまでかえり、制作せいさく活動かつどう再開さいかい。パリとサンフランシスコそれぞれでがけたおなじモチーフの作品さくひん比較ひかくすると、色調しきちょう変化へんかられる[2]

死去しきょ

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1996ねん平成へいせい8ねん)には日本にっぽんもどり、2000ねん平成へいせい12ねん)12月に死去しきょするまでのすう年間ねんかん日本にっぽんごした。浜口はまぐち葉巻はまき愛好あいこうだった。

まとまった作品さくひんはヤマサコレクション施設しせつと、浜口はまぐち生前せいぜん受贈じゅぞうした武蔵野むさしの市立しりつ吉祥寺きちじょうじ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされる。後者こうしゃ記念きねんしつもうけ、作品さくひん制作せいさく道具どうぐ展示てんじする[3]

作風さくふう

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技法ぎほう

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浜口はまぐちは20世紀せいきにおけるメゾチント技法ぎほう復興ふっこうしゃとして国際こくさいてきられる。メゾチントは「マニエル・ノワール(くろ技法ぎほう)」の別名べつめいでもばれる銅版どうはん技法ぎほうの1つで、鏡面きょうめんのような銅板どうばん表面ひょうめんに「ベルソー」という道具どうぐもちいて、いちめん微細びさいてんち、微妙びみょうくろ濃淡のうたん表現ひょうげんするものである。こうしてつくったくろを「スクレイパー」「バニッシャー」とばれる道具どうぐもちいてり、図柄ずがら微妙びみょう濃淡のうたんあらわす。この技法ぎほう写真しゃしんじゅつ発達はったつともなってなが途絶とだえていたものである。浜口はまぐちはこの技法ぎほう復興ふっこうさせるとともに、いろばんかさねてる「カラー・メゾチント」の技法ぎほう発展はってんさせたことでられる[4]

題材だいざい

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浜口はまぐち作品さくひんのモチーフとして、ブドウ、さくらんぼ、くるみなどのちいさな果物くだものかいちょうなどのしょう動物どうぶつおおげ、空間くうかんひろった画面がめん構成こうせいぎゃくちいさな対象たいしょうぶつ際立きわだたせる手法しゅほうこのんでもちいた。版画はんが作品さくひんは、通常つうじょうがったじゅんにシリアル番号ばんごうけるが、浜口はまぐちがりの作品さくひんじゅん番号ばんごうけていた[5]

代表だいひょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 浜口はまぐち陽三ようぞう ひがしぶんけんアーカイブ
  2. ^ 浜口はまぐち陽三ようぞう記念きねんしつ パリからサンフランシスコへ”. 武蔵野むさしの市立しりつ吉祥寺きちじょうじ美術館びじゅつかん (2019ねん). 2019ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ 濱口はまぐち 陽三ようぞう (制作せいさく)『濱口はまぐち 陽三ようぞうてん武蔵野むさしの市民しみん生活せいかつ文化ぶんか美術館びじゅつかん構想こうそう担当たんとう (編集へんしゅう)、武蔵野むさしの武蔵野むさしの企画きかく展覧てんらんかい図録ずろく〉、1994ねん 
  4. ^ 神林かんばやし菜穂子なほこ (2010ねん11月1にち). “高校こうこう教科書きょうかしょ×美術館びじゅつかん高等こうとう学校がっこう 美術びじゅつ工芸こうげい”. 日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱん. 2019ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  5. ^ 『パリとわたし 浜口はまぐち陽三ようぞう著述ちょじゅつしゅうれいふう書房しょぼう、2002ねん
  6. ^ “アートぷらざ 千葉ちば収蔵しゅうぞう作品さくひん ぎょ果物くだもの 浜口はまぐち陽三ようぞうくろ」の諧調かいちょうひかりのたまもの”. 千葉ちば日報にっぽう (千葉ちば日報にっぽうしゃ): p. 朝刊ちょうかん12. (1994ねん9がつ15にち) 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 浜口はまぐち陽三ようぞうぜん版画はんが作品さくひんしゅう中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、2000ねん
  • 浜口はまぐち陽三ようぞうてん 20世紀せいき版画はんが巨匠きょしょう国立こくりつ国際こくさい美術館びじゅつかん、2002ねん

外部がいぶリンク

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