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無条件むじょうけん降伏ごうぶく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

無条件むじょうけん降伏ごうぶく(むじょうけんこうふく、unconditional surrender)とは、普通ふつうには軍事ぐんじてき意味いみ使用しようされ、軍隊ぐんたいまたは艦隊かんたい兵員へいいん武器ぶき一切いっさいげて条件じょうけんすることなくてき権力けんりょくゆだねることを[1]

概要がいよう

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降伏ごうぶく条件じょうけんあらかじめられていない場合ばあい無条件むじょうけん降伏ごうぶくであるが、“戦勝せんしょうこく提示ていじした条件じょうけんなん条件じょうけんをつけずして降伏ごうぶくした”場合ばあいも、一般いっぱんには「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」と[2][3]。この場合ばあい区別くべつのために「無条件むじょうけん受諾じゅだく」という表現ひょうげんもちいられることもある[4]無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣明のぶあきは、原則げんそくとして戦争せんそう終結しゅうけつさい一切いっさい和平わへい交渉こうしょう拒否きょひするものである[5]

古代こだいから近代きんだいいたるまでの無条件むじょうけん降伏ごうぶくは、元首げんしゅすなわち部族ぶぞくちょう盟主めいしゅおうなどの身柄みがら生殺与奪せいさつよだつ引渡ひきわたしと武装ぶそう解除かいじょ象徴しょうちょうされているが、統帥とうすいけん分立ぶんりつしているきん現代げんだい国家こっかにおいては無条件むじょうけん降伏ごうぶく判断はんだん要件ようけん容易よういではない。また戦時せんじ国際こくさいほうもとでは近代きんだい以前いぜん意味いみでの無条件むじょうけん降伏ごうぶく投降とうこう成立せいりつしない。米国べいこくの、国際こくさい慣行かんこうほうをまとめた戦時せんじほう手引てびき(野戦やせんマニュアルFM27-10『陸戦りくせんほう』)では無条件むじょうけん降伏ごうぶくについて「無条件むじょうけん降伏ごうぶくは、軍隊ぐんたい組織そしき無条件むじょうけんてきぐん管轄かんかつく。りょう当事とうじこくによる署名しょめいされた文書ぶんしょわす必要ひつようはない。戦時せんじ国際こくさいほうによる制限せいげんしたがい、てきぐん管轄かんかつかれた軍隊ぐんたいは、占領せんりょうこく指示しじふくする」(478じょう)と定義ていぎしている[注釈ちゅうしゃく 1][6]。この場合ばあい無条件むじょうけん降伏ごうぶくによる戦闘せんとう終結しゅうけつ国際こくさいほう制限せいげんけるため、交戦こうせん帰結きけつによる戦闘せんとう終結しゅうけつより厳重げんじゅうであることはない[7]

一般いっぱんつぎ戦中せんちゅう部隊ぶたいたい降伏ごうぶく条件じょうけんとして無条件むじょうけん降伏ごうぶくきつけることはきわめてまれである。この条件じょうけんしたではてき部隊ぶたい自暴自棄じぼうじき戦闘せんとう継続けいぞく意志いしけるだけであり、戦争せんそう終結しゅうけつがむしろとおのくからである。実際じっさいアドルフ・ヒトラー自殺じさつ直後ちょくごハンス・クレープスらがおこなったナチス・ドイツのソ連それんへの降伏ごうぶく交渉こうしょうにおいて、ヨシフ・スターリン即時そくじ無条件むじょうけん降伏ごうぶく以外いがいみとめないと明言めいげんしたため交渉こうしょう失敗しっぱいし、降伏ごうぶくに1週間しゅうかんようした。

無条件むじょうけん降伏ごうぶく事例じれいとしては、北米ほくべいでの南北戦争なんぼくせんそうみなみぐんや、国土こくどてきぐん蹂躙じゅうりんされ政府せいふ消滅しょうめつ征服せいふくされただい世界せかい大戦たいせんどきナチス・ドイツ(デベラチオ:せんほろび)、イラク戦争せんそう転覆てんぷくされ消滅しょうめつしたフセイン政権せいけん有名ゆうめい

国家こっか無条件むじょうけん降伏ごうぶくをしている場合ばあい講和こうわ条約じょうやく締結ていけつするさい戦勝せんしょうこくに「この条件じょうけん条約じょうやく受諾じゅだくせよ」と提示ていじされた場合ばあい法理ほうりろんてきには受諾じゅだくしなければならない[8][注釈ちゅうしゃく 2]

藤田ふじた久一ひさいちによればだい世界せかい大戦たいせんにおける連合れんごうこくによる無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣明のぶあきは、枢軸すうじくこく政府せいふとの交渉こうしょう不可能ふかのうであり、文民ぶんみん政府せいふによるてき軍隊ぐんたい内通ないつう排除はいじょし、てき国民こくみんさい教育きょういく民主みんしゅ軍事ぐんじ管理かんりしたおこな必要ひつようがあることなどを理由りゆうにしたものであったとする[9]

グローティウスは『戦争せんそう平和へいわほう』においてローマほうにおける信義しんぎ(フィデス)の重要じゅうようせい強調きょうちょうし「戦争せんそうにおいてはつね講和こうわ目標もくひょうとすべき」であり「講和こうわ締結ていけつされたときは、"その条件じょうけん如何いかわず"、信義しんぎ真性しんせいのため、絶対ぜったいにこれ(和平わへい)を遵守じゅんしゅすべきであって、すべてのみち最大さいだい良心りょうしん信義しんぎとを以ってまもるべきのみならず、敵対てきたい関係かんけいから善意ぜんい(グラチア)に回復かいふくされたものをもとくまもるべきである、とする[10]

おも事例じれい

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ペロポネソス戦争せんそう

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ペロポネソス戦争せんそう紀元前きげんぜん431ねん-紀元前きげんぜん404ねん)の紀元前きげんぜん416ねんメロスアテナイぐん攻撃こうげきけ、陥落かんらくした。そのさい、メロスは市民しみん処遇しょぐうをアテナイがわ全面ぜんめんてきまかせるという条件じょうけん降伏ごうぶくし、その結果けっか成人せいじん男子だんし全員ぜんいん処刑しょけいされ、おんな子供こども奴隷どれいにされた。

ディアドコイ戦争せんそう

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古代こだいマケドニア時代じだいアレクサンドロス3せい急逝きゅうせいその配下はいか将軍しょうぐんたちが大王だいおう後継こうけいしゃディアドコイ)のめぐってひろげた戦争せんそう末期まっき講和こうわもうカッサンドロスたいアンティゴノス1せい降伏ごうぶく要求ようきゅう。これが戦争せんそう継続けいぞく帝国ていこく分裂ぶんれつ最終さいしゅうてき要因よういんとなった。

カレー包囲ほういせん

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えいふつひゃくねん戦争せんそう初期しょき、イングランドおうエドワード3せいがフランスの港湾こうわん都市としカレー包囲ほうい開城かいじょうさせたたたかい。11ヶ月かげつ包囲ほういのち飢餓きがにより市民しみん開城かいじょうもうとき、エドワード3せいは「ぜん市民しみん処刑しょけいするも身代金みのしろきんるもエドワード3せい自由じゆう」とする無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅうした。

南北戦争なんぼくせんそう

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無条件むじょうけん降伏ごうぶく」という用語ようごは、1862ねんドネルソンとりでたたかさい旧友きゅうゆうであったみなみぐん将軍しょうぐんサイモン・B・バックナーからの休戦きゅうせんもうたいして、包囲ほういぐん司令しれいかんユリシーズ・S・グラントはっした「『無条件むじょうけん』のみを降伏ごうぶく条件じょうけんとしてみとめる」という回答かいとう初出しょしゅつであったとされる。このたたかいはきたぐんにとって最初さいしょ勝利しょうりひとつであった。このとき新聞しんぶんがグラントのイニシャルである U.S. と Unconditional Surrender とをかけて報道ほうどうしたために用語ようごひろまった。

しかしこの逸話いつわはいつしかアポマトックス・コートハウスにおいて、ロバート・E・リーきたぐん降伏ごうぶくしたさいのことであると誤解ごかいされるようになった[11]。フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうもそう認識にんしきしており[11]、「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」がどのような性質せいしつつかという説明せつめいもちいている[12]

ユーゴスラビア王国おうこくぐん

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1941ねん4がつ6にち、ドイツぐん航空こうくう部隊ぶたいユーゴスラビア侵入しんにゅう空爆くうばくをおこない、いで多方面たほうめんから国境こっきょうえたドイツぐんがユーゴスラビア王国おうこくぐん守備しゅびたい次々つぎつぎやぶった。ユーゴスラビア王国おうこくぐん総崩そうくずれとなった。休戦きゅうせんもとめるユーゴスラビアぐんたいし、ドイツがわ無条件むじょうけん降伏ごうぶくもと[13]開戦かいせんからわずか11にちの4がつ17にち無条件むじょうけん降伏ごうぶくまれた[14]。ドイツとイタリア王国おうこくはユーゴスラビア国家こっか完全かんぜん解体かいたいし、枢軸すうじくこくクロアチアどく立国りっこくによって分割ぶんかつされた[13]王室おうしつ政府せいふ国外こくがい逃亡とうぼうし、亡命ぼうめい政府せいふとなって抗戦こうせん継続けいぞくしたが、ヨシップ・ブロズ・チトーひきいるパルチザン権力けんりょく掌握しょうあくしたため、戦後せんご復帰ふっきすることは出来できなかった。

ベトナム戦争せんそう

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1975ねん4がつ30にちに、きたベトナムぐん完全かんぜん包囲ほういもとで、ベトナム共和きょうわこくみなみベトナム)政府せいふ戦闘せんとう終結しゅうけつ無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣言せんげんした。ズオン・バン・ミン大統領だいとうりょう前日ぜんじつ就任しゅうにんしたばかりであった。

だい世界せかい大戦たいせん

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1943ねんおこなわれたカサブランカ会談かいだん時点じてんでは、連合れんごうこく枢軸すうじくこくたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそくり、条件じょうけん講和こうわみとめない方針ほうしんをとることになったが、これはアメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト個人こじんてき意向いこうつよ反映はんえいされていた[15]

無条件むじょうけん降伏ごうぶく方針ほうしん発表はっぴょう経緯けいい 

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アメリカ政府せいふ内部ないぶでの検討けんとうでは、1942ねん5がつ6にちひらかれた国務省こくむしょう安全あんぜん保障ほしょう問題もんだいしょう委員いいんかいなかですでに検討けんとうされていた。この委員いいんかいではドイツと日本にっぽんたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶくもとめるという検討けんとう結果けっか満場一致まんじょういっち可決かけつした[16]。42ねん1がつ1にち連合れんごうこく共同きょうどう宣言せんげんにおいて「敵国てきこくたいする完全かんぜん勝利しょうり」という表現ひょうげんもちいていたルーズベルトにとってこの報告ほうこくみずからのかんがえにったものであり、この報告ほうこくけたルーズベルトはその結論けつろん賛成さんせいするという意向いこうつたえた[16]。この背景はいけいにはだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ降伏ごうぶくというかたちらなかったためにドイツじん敗戦はいせんめず今次こんじ大戦たいせんいたったというかんがえと、ソビエト連邦れんぽうたいどくせん最後さいごまでたたかくというメッセージをつたえる目的もくてきによるものであった[17]。ルーズベルトは1943ねん1がつ7にちのアメリカ統合とうごう参謀さんぼう会議かいぎ席上せきじょうで、枢軸すうじくこくたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶくもとめる方針ほうしんを、ソ連それんヨシフ・スターリンイギリスウィンストン・チャーチル首相しゅしょう伝達でんたつする意向いこうあきらかにし、カサブランカ会談かいだん席上せきじょうでチャーチルに伝達でんたつした。チャーチルは1がつ18にち合同ごうどう参謀さんぼう本部ほんぶ英語えいごばんにおいて、無条件むじょうけん降伏ごうぶくまで戦争せんそう継続けいぞくするという声明せいめいおこなうと発言はつげんした。しかしかれ声明せいめいはっするまえ内閣ないかく相談そうだんしたいとくわえた[18]

1がつ20日はつか、チャーチルは本国ほんごく内閣ないかく書簡しょかんおくり、無条件むじょうけん降伏ごうぶく対象たいしょうからイタリアのぞいたうえ発表はっぴょうするべきだとした[19]。しかし戦時せんじ内閣ないかく全員ぜんいん一致いっちでイタリアをふくめた無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅう方針ほうしんもとめた[19]。イギリスは、戦争せんそう終結しゅうけつ無条件むじょうけん降伏ごうぶくしかなく条件じょうけん講和こうわという方法ほうほう遮断しゃだんされていれば、枢軸すうじくこく敗戦はいせん濃厚のうこうとなっても休戦きゅうせんという決断けつだんらないで必然ひつぜんてきやぶれかぶれで戦争せんそう継続けいぞくすす可能かのうせいたかく、弊害へいがいほうおおきいとかんがえられたため、この原則げんそく賛成さんせいではなかった。しかし、たいにちせんにおいてイギリスが単独たんどく講和こうわするのではないかというアメリカの疑念ぎねん払拭ふっしょくするため、同意どういせざるをなかったという側面そくめんつよかったとされる[20]

会談かいだんおこなわれる予定よていであった記者きしゃ発表はっぴょう草案そうあんでは、ドイツと日本にっぽんたいしてのみ無条件むじょうけん降伏ごうぶくもとめるとされていたが、チャーチルが(戦時せんじ内閣ないかく意向いこうけて[19])イタリアもくわえた[21]。この草案そうあんづくりはそのつづいたが、チャーチルはその課程かてい草案そうあん無条件むじょうけん降伏ごうぶくについて言及げんきゅうしなくなったとしている[21]。しかし1がつ24にちおこなわれた記者きしゃ会見かいけん席上せきじょうで、ルーズベルトは突然とつぜん無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそくであると発言はつげんした[21]

このせきでの発表はっぴょうについては、合同ごうどう参謀さんぼう本部ほんぶでも討議とうぎされておらず、アメリカ大統領だいとうりょう軍事ぐんじ顧問こもんであったウィリアム・リーヒ大将たいしょうといったぐん首脳しゅのうには一切いっさいらされていなかった[22]ぐん関係かんけいしゃ戦線せんせんによっては無条件むじょうけん降伏ごうぶく以外いがい方法ほうほう終戦しゅうせんはやめるとかんがえており、ジョージ・マーシャル参謀さんぼう総長そうちょう無条件むじょうけん降伏ごうぶく提示ていじがドイツ・日本にっぽん降伏ごうぶくおくらせた可能かのうせいがあることを言及げんきゅうしている[23]。ただし、連合れんごうこく市民しみん勝利しょうりちかづいていると鼓舞こぶする効果こうかがあったともしている。またアメリカ国務省こくむしょうコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかん無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそく発表はっぴょうかされておらず、「われわれ(国務省こくむしょう)の計画けいかく暗影あんえいとうじることになった」と述懐じゅっかいしている[24]。そのイギリスやソ連それん、さらにアメリカのぐん政府せいふないからも原則げんそく緩和かんわ修正しゅうせい目指めざはたらきかけがなんおこなわれたが、ルーズベルトはすべ拒絶きょぜつした[25]

この原則げんそく枢軸すうじくこくにおいては、国民こくみん奴隷どれいねらっているとおおいに宣伝せんでんされることになった。

ルーズベルトの解釈かいしゃく

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ルーズベルトのカサブランカ会談かいだん説明せつめいでは、「それ(無条件むじょうけん降伏ごうぶく)は、ドイツ、イタリア、日本にっぽん国民こくみん破滅はめつ意味いみするのではなく、国民こくみん征服せいふく隷属れいぞく基礎きそをおくこれら諸国しょこく哲学てつがく破壊はかい意味いみする」としている[26]。また1944ねん7がつ29にちホノルルにおける会見かいけんで、南北戦争なんぼくせんそうさい無条件むじょうけん降伏ごうぶくれいき、戦争せんそうにおける無条件むじょうけん降伏ごうぶくは、敗者はいしゃがまず無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣明のぶあきすることが重要じゅうようであり、その対応たいおうによっては勝者しょうしゃ寛大かんだい対応たいおうりうることとしめした。ルーズベルトの認識にんしきでは勝者しょうしゃしめ条件じょうけんを、敗者はいしゃ無条件むじょうけんれるという「条件じょうけん無条件むじょうけん降伏ごうぶく」の見解けんかいはとられなかった[27]

チャーチルの解釈かいしゃく

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ルーズベルトがした「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」による戦争せんそう終結しゅうけつ過程かてい同盟どうめいこくイギリスにすくなからぬ困惑こんわくをもたらすものであった。ウィンストン・チャーチルは1944ねん2がつイギリス下院かいんにおいて「無条件むじょうけん降伏ごうぶくということはった国々くにぐに自由じゆう裁量さいりょうつという意味いみである。もちろんった国々くにぐに蛮行ばんこうをほしいままにしてもいいという意味いみでもなければ、ドイツを欧州おうしゅう諸国しょこくあいだから抹殺まっさつしてしまうことをのぞんでいるわけでもない。 もし我々われわれしばられているとするならば文明ぶんめいたいするわれわれ自身じしん良心りょうしんしばられているだけである。いろいろな取引とりひきをやる結果けっかしばられるのではない。これが無条件むじょうけん降伏ごうぶく意味いみである。」と演説えんぜつしたことがある[28]

イタリア王国おうこく

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1943ねん国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいらは連合れんごうこく極秘ごくひ休戦きゅうせん交渉こうしょうおこない、首相しゅしょうベニート・ムッソリーニ解任かいにんピエトロ・バドリオしん首相しゅしょうとした。9月3にちには連合れんごうぐんとイタリアは休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつし、9月8にちにバドリオ首相しゅしょう休戦きゅうせん条約じょうやく締結ていけつ発表はっぴょうして国王こくおう一家いっかとともに南部なんぶイタリアのブリンディシに脱出だっしゅつした。この時点じてんでの休戦きゅうせん協定きょうていには無条件むじょうけん降伏ごうぶくについて言及げんきゅうされていなかったが、9月29にち連合れんごうぐん司令しれい英語えいごばん司令しれいかんドワイト・D・アイゼンハワーはイタリアこくおよび三軍さんぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくおこなったように休戦きゅうせん協定きょうてい改定かいていすることを要求ようきゅうし、11月9にち条約じょうやく改定かいていおこなわれた[29]

ドイツはムッソリーニを救出きゅうしゅつして北部ほくぶイタリア社会しゃかい共和きょうわこく(サロ政権せいけん樹立じゅりつさせ、イタリア王国おうこくおよび連合れんごうこく交戦こうせんさせた。10月にイタリア王国おうこくはドイツに宣戦せんせん布告ふこくしているが、この時点じてんでイタリア王国おうこく連合れんごうこくきゅう敵国てきこくであるが、枢軸すうじくこくたいする共同きょうどう参戦さんせんこくという立場たちばであった。

東欧とうおう枢軸すうじくこく降伏ごうぶく問題もんだい

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1943ねん11月1にちのモスクワ宣言せんげんにおいて、無条件むじょうけん降伏ごうぶく対象たいしょうはドイツ、イタリア、日本にっぽんだけでなく、それと同盟どうめい関係かんけいにある諸国しょこくにも適用てきようされることが明確めいかくされた[30]。しかし11月のテヘラン会談かいだんにおいて、スターリンはチャーチルにたいし、無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそくてき団結だんけつまねくだけであると批判ひはんし、その修正しゅうせいもとめた[31]。ルーズベルト自身じしんソ連それん関係かんけいしゃ否定ひていしているが、イギリスの外務省がいむしょうはこの発言はつげんがルーズベルトにもつたわったとしている[32]ソ連それんやイギリスの反応はんのうたハルは、えいソと無条件むじょうけん降伏ごうぶく定義ていぎについて協議きょうぎすることを提案ていあんした。しかしルーズベルトは無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそくあらためることはなく、その意味いみについて連合れんごうこくあいだ協議きょうぎすることも拒否きょひした[33]

1944ねん、イギリスは東欧とうおう枢軸すうじくこくルーマニア王国おうこくブルガリア王国おうこくハンガリー王国おうこくフィンランド)を無条件むじょうけん降伏ごうぶく対象たいしょうからはずすことを提案ていあんした。これをうけたハルは3がつ25にちに、ルーズベルトにこれらのくに無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそくからはずすよう提案ていあんした。しかしルーズベルトは例外れいがいもうけるべきではないと反論はんろんし、一切いっさい妥協だきょうしなかった[34]

ドイツぐん代表だいひょうは1945ねん5がつ7にちにフランスのランスで降伏ごうぶく文書ぶんしょ英語えいごばん調印ちょういんし、そのさいに5月8にち2301ふんもってドイツは戦闘せんとう行為こういをやめ、占領せんりょうはいることが決定けっていされた。またあらためて5月8にちにベルリンのカールホルストで批准ひじゅん手続てつづきがはじめられ、9にちよる降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんおこなったこと降伏ごうぶくした[35]

6月5にち連合れんごうぐんベルリン宣言せんげんにおいてドイツぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくによってドイツは無条件むじょうけん降伏ごうぶくしたとしたうえで、「ドイツには中央ちゅうおう政府せいふ存在そんざいしておらず、ドイツの主権しゅけんべいえいふつソの四国しこく掌握しょうあくする」宣言せんげんした[36]

ドイツの場合ばあいはイタリアや日本にっぽん衛星えいせい諸国しょこく降伏ごうぶくとはことなり、一切いっさい事前じぜん条件じょうけん提示ていじされることのない完全かんぜん無条件むじょうけん降伏ごうぶくであった[37]連合れんごうぐんそう司令しれいドイツ問題もんだい政治せいじ担当たんとう顧問こもんつとめていたロバート・ダニエル・マーフィーは「このドイツの降伏ごうぶくは、だい大戦たいせんにおける唯一ゆいいつしん意味いみ無条件むじょうけん降伏ごうぶくであった」とひょうしている[38]

大日本帝国だいにっぽんていこく

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日本国にっぽんこく軍隊ぐんたい

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ルーズベルトの死後しご後継こうけいとなったハリー・S・トルーマン無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそく維持いじすると発表はっぴょうしたものの、日本にっぽんたいする降伏ごうぶく要求ようきゅうではその方針ほうしん修正しゅうせいし、いわゆる「条件じょうけん無条件むじょうけん降伏ごうぶく」の方針ほうしんをとることとなった[37]終戦しゅうせんともな日本国にっぽんこく軍隊ぐんたい降伏ごうぶく無条件むじょうけん降伏ごうぶくである。日本にっぽんこく受諾じゅだくしたポツダム宣言せんげんだい13じょうには、日本国にっぽんこく軍隊ぐんたい無条件むじょうけん降伏ごうぶく(と拒否きょひ言明げんめいした場合ばあい全滅ぜんめついたるまでの攻撃こうげきけるであろうこと)がさだめられている。このてん日本にっぽんこく」「日本にっぽん」の無条件むじょうけん降伏ごうぶくとは表現ひょうげんされていないてん注意ちゅういようする[39]どうだい9じょうには、「日本国にっぽんこく軍隊ぐんたい完全かんぜん武装ぶそう解除かいじょセラレタル各自かくじ家庭かてい復帰ふっき平和へいわてき生産せいさんてき生活せいかつヲ営ムノ機会きかいシメラルベシ」と日本国にっぽんこく軍隊ぐんたいかんする規定きていさだめられているので、日本国にっぽんこく軍隊ぐんたいはこれにしたが無条件むじょうけん降伏ごうぶくした。

ただしぐん内部ないぶ一部いちぶ国体こくたい論者ろんしゃ畑中はたなか健二けんじ小園こぞのやすしめいなど)は、無条件むじょうけん降伏ごうぶくすれば国体こくたいすなわち皇室こうしつほろぼされると反感はんかんいて宮城みやぎ事件じけん厚木あつぎ航空こうくうたい事件じけんなどの反乱はんらんこすことになるが、いずれもぐん上層じょうそう説得せっとくした憲兵けんぺい警備けいびたいにより鎮圧ちんあつされた。また日本にっぽん降伏ごうぶくはアジアに広範囲こうはんい拡大かくだいしたかく戦線せんせんには即座そくざ連絡れんらくがつかず、とりわけ満州まんしゅうおよび千島ちしま列島れっとうでは9がつ上旬じょうじゅんいたるまで組織そしきてき戦闘せんとうかえされた。

日本国にっぽんこく政府せいふ

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国家こっかとしての日本国にっぽんこく政府せいふ場合ばあい降伏ごうぶく無条件むじょうけん降伏ごうぶくではなかったとするせつ条件じょうけんづけ無条件むじょうけん降伏ごうぶくであったとするせつ無条件むじょうけん降伏ごうぶくであったとするせつがある。

なお、いずれのせつ立場たちばをとるにせよ、大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ大本営だいほんえい降伏ごうぶく文書ぶんしょつうじて天皇てんのうおよ日本国にっぽんこく政府せいふ国家こっか統治とうち権限けんげんは、降伏ごうぶく条項じょうこう実施じっしするため適当てきとうみとめむる処置しょち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかん制限せいげんしたかれること、ポツダム宣言せんげんカイロ宣言せんげん条項じょうこうなどをれている。このため占領せんりょうちゅうは、このかぎりにいて連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ/SCAP) の命令めいれい指示しじにしたがう必要ひつようがあった。

また連合れんごうこく占領せんりょう権限けんげんは、ポツダム宣言せんげん明示めいじされた範囲はんいえて適用てきようされた。たとえば1945ねん8がつ22にち日本にっぽん外務省がいむしょう条約じょうやくきょくは、在中ざいちゅう立国りっこく外交がいこう公館こうかんたいし「帝国ていこくべいえいささえたいし「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」をおこなったが、連合れんごうこくによっておこなわれる主権しゅけん制限せいげんはポツダム宣言せんげん明示めいじされた範囲はんいまるとして、中立ちゅうりつこくとの外交がいこう関係かんけい従来じゅうらい国際こくさい慣習かんしゅうどお存続そんぞくできると解釈かいしゃくし、中立ちゅうりつこく在外ざいがい公館こうかん存続そんぞく訓令くんれいした[40]。しかしGHQは外務省がいむしょう在外ざいがい公館こうかんとの接触せっしょくきんじ、在外ざいがい公館こうかん資料しりょう資産しさん連合れんごうこくわたすこととなり、日本にっぽん外交がいこうけんを1951ねんまでうしなうこととなった[41]

無条件むじょうけん降伏ごうぶく論争ろんそう

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1978ねん文芸ぶんげい評論ひょうろん江藤えとうあつし本多ほんだあきあいだで「無条件むじょうけん降伏ごうぶくろんそう」がおこなわれた(江藤えとうぜん文芸ぶんげい時評じひょう』『もうひとつの戦後せんご』、『本多ほんだあき全集ぜんしゅうだい13かん)。論争ろんそう文学ぶんがくしゃあいだおこなわれたもので、日本にっぽん降伏ごうぶく本質ほんしつとらかた野間のまひろしほかに代表だいひょうされる戦後せんご文学ぶんがくをどう評価ひょうかするかのてん問題もんだいとなった。降伏ごうぶくについて、江藤えとうはポツダム宣言せんげんにある条件じょうけん受諾じゅだくした降伏ごうぶくであるから無条件むじょうけん降伏ごうぶくではなく、宣言せんげんちゅうにある無条件むじょうけん降伏ごうぶく日本国にっぽんこく軍隊ぐんたいについてのみであるから、無条件むじょうけん降伏ごうぶくしたのは日本にっぽんこくではなかったと主張しゅちょうした。本多ほんだはカイロ宣言せんげんにあった日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶく思想しそうはポツダム宣言せんげんにもつうそこしていたとし、「だい括弧かっこでくくられる『無条件むじょうけん降伏ごうぶく』の思想しそうしょう括弧かっこでくくられる『ゆう条件じょうけん降伏ごうぶく』の方式ほうしきとが同時どうじ存在そんざいする」と主張しゅちょうした[42]論争ろんそうのち国際こくさいほう専門せんもんとする高野たかの雄一ゆういち朝日新聞あさひしんぶん紙上しじょう解説かいせつおこない、ドイツとことなり政府せいふ存続そんぞくみとめられたのが日本にっぽん降伏ごうぶくであるとしたうえで、無条件むじょうけん降伏ごうぶくではないというてんでは江藤えとうただしいとした。ただし、江藤えとう従属じゅうぞく制限せいげん法的ほうてき条項じょうこうには論争ろんそう全然ぜんぜんれておらず、「日本にっぽん明示めいじされたしょ条件じょうけんした主権しゅけん維持いじしつついわば約束やくそくずくの降伏ごうぶく」をしたとして、占領せんりょう管理かんり日本にっぽんをもそう理解りかいしているようであるならば、それはあやまりだと指摘してきする[43]江藤えとう講演こうえんで、“その学術がくじゅつてき高野たかのらに明確めいかく反論はんろんしたものはなく、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく条件じょうけんつき降伏ごうぶくであるとのろん有力ゆうりょくである”とかたっている[44]

無条件むじょうけん降伏ごうぶくではないというせつ
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小堀こぼり桂一郎けいいちろう以下いかのように主張しゅちょうしている。

ドイツ政府せいふ征服せいふくによって消滅しょうめつ聯合れんごうこく完全かんぜんなる支配しはいしたかれることとなったが、日本にっぽん政府せいふ聯合れんごうこくとの法的ほうてき関係かんけいはドイツのそれとはことなる基礎きそうえつものである。これは休戦きゅうせんいたった経緯けいい差異さいもとづく。日本にっぽん聯合れんごうこくポツダム宣言せんげん受諾じゅだくすることとなり、そこに条件じょうけんしめされている。そして降伏ごうぶく文書ぶんしょ自体じたいもその宣言せんげんすなわち「下名かめいはここにポツダム宣言せんげん条項じょうこう誠実せいじつ履行りこうすることなみみぎ宣言せんげん実施じっしするため聯合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん要求ようきゅうすることあるべき一切いっさい命令めいれいはっし且かかる一切いっさい処置しょちることを天皇てんのう日本にっぽん政府せいふおよぼその後継こうけいしゃためやくす。」また天皇てんのう及日本国ほんごく政府せいふ国家こっか統治とうち権限けんげんほん降伏ごうぶく条項じょうこう実施じっしするため適当てきとうみとめむる処置しょち聯合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん制限せいげんしたかるるものとす。」と援用えんようされている。この文書ぶんしょは「降伏ごうぶく文書ぶんしょ」という形式けいしきをとってはいるが、締約ていやくこく拘束こうそくする国際こくさい協定きょうてい性質せいしつつものであり、相互そうごてき義務ぎむおよ権利けんりそんすることとなったものである。 ポツダム宣言せんげん自体じたいひとつの条件じょうけんであり、だい5じょうには「われとう条件じょうけんひだりごとし。われとうみぎ条件じょうけんより離脱りだつすることなかるべし。みぎかわ条件じょうけん存在そんざいせず。」と明言めいげんされている。「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」という文字もじはポツダム宣言せんげんだいじゅうさんじょうおよ降伏ごうぶく文書ぶんしょだいこうにも使用しようされているがこれはいずれも日本にっぽん軍隊ぐんたいかんすることであって、これがためにポツダム宣言せんげんほか条項じょうこう当事とうじしゃ拘束こうそくする効力こうりょくうしなうものであるとかいすべきではない。 — 小堀こぼり東京とうきょう裁判さいばん 日本にっぽん弁明べんめい』「却下きゃっか提出ていしゅつ弁護べんごがわ資料しりょう

青山あおやま武憲たけのり日本にっぽん国体こくたい護持ごじという条件じょうけん突付つきつ戦闘せんとう行為こういえたものであり、無条件むじょうけん降伏ごうぶくではなく条件じょうけんづけ降伏ごうぶくであったと主張しゅちょうする[45]

高橋たかはし正俊まさとしはポツダム宣言せんげん条件じょうけんづけ休戦きゅうせん条約じょうやくであるとかんがえられているとする[46]政府せいふ見解けんかいでは「くに米国べいこくはサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうするまでのあいだ、それまでのあいだ国際こくさいほうじょうのいわば戦争せんそう状態じょうたいにあり、戦時せんじ国際こくさいほうである陸戦りくせん法規ほうき慣例かんれいせきスル条約じょうやく当時とうじ両国りょうこくあいだ関係かんけいについて適用てきようされていた」[47]としており、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく調印ちょういんをもって国家こっかあいだ戦争せんそう状態じょうたい終結しゅうけつとはしていない。

渡部わたなべ昇一しょういちは、「ポツダム宣言せんげん」に、「陸海りくかいぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくをせしめること」という条件じょうけんしてあることをげ、かり日本にっぽん政府せいふ無条件むじょうけん降伏ごうぶくしたとしたら、陸海りくかいぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくさせることが不可能ふかのうとなるため、日本にっぽん主権しゅけんをとどめ命令めいれいする権利けんりのこしたとし、条件じょうけん降伏ごうぶくであることはもちろん、「降伏ごうぶくかどうかすらうたがわしいはなし」であり、「外交がいこう交渉こうしょうったほうが実態じったいちかい」と主張しゅちょうしている[48]

また大西洋たいせいよう憲章けんしょうをすでに宣言せんげんした米国べいこくによる日本にっぽんへの「憲法けんぽうけ」は民族みんぞく自決じけつけん表明ひょうめいしたどう憲章けんしょう理念りねんはんしているとの意見いけんがある[49]極東きょくとう委員いいんかいやマッカーサーそう司令しれいおこなった憲法けんぽう制定せいてい検閲けんえつ言論げんろん教育きょういく統制とうせいなどの占領せんりょう政策せいさく大西洋たいせいよう憲章けんしょう趣旨しゅし反映はんえいされたポツダム宣言せんげん降伏ごうぶく文書ぶんしょ降伏ごうぶく条件じょうけんとして国体こくたい護持ごじしたときに日本にっぽんこく最終さいしゅう政治せいじ形態けいたい日本にっぽん国民こくみん自由じゆう表明ひょうめいする意志いしめるとの回答かいとう違反いはんする行為こういであった[45]

ポツダム宣言せんげん13じょうでは「日本国にっぽんこく政府せいふじか全日本ぜんにほんこく軍隊ぐんたい無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣言せんげんし且右行動こうどうけるどう政府せいふ誠意せいいづけ適当てきとう充分じゅうぶんなる保障ほしょう提供ていきょうせんことをどう政府せいふたい要求ようきゅうす」とあり(原文げんぶんカナ文字もじ)、日本国にっぽんこく政府せいふ日本国にっぽんこく軍隊ぐんたいたいする姿勢しせいは「軍隊ぐんたい無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣言せんげんする主体しゅたい」として別個べっこあつかいであり、日本国にっぽんこく政府せいふみずからの無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣言せんげんする体裁ていさい採用さいようしていない。

一方いっぽうで、カイロ宣言せんげん発表はっぴょうされた1943ねん11月のカイロ会談かいだんでは、無条件むじょうけん降伏ごうぶくおこなうのが軍隊ぐんたいなのか国家こっかなのかが議論ぎろんされ、このときは、無条件むじょうけん降伏ごうぶくおこなうのは国家こっかとされた。カイロ宣言せんげんでは、たん最後さいごこうで「みぎ目的もくてきもって、みぎさん同盟どうめいこくは、同盟どうめい諸国しょこく中日ちゅうにち本国ほんごく交戦こうせんちゅうなる諸国しょこく協調きょうちょうし、日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくをもたらすに必要ひつようなる重大じゅうだい且長行動こうどう続行ぞっこうすべし。」(原文げんぶん片仮名かたかなたい)とある。

降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん先立さきだち、アメリカ主導しゅどう組織そしきされた連合れんごう国軍こくぐんは、同年どうねん8がつ28にちからイギリスやオーストラリアニュージーランドなどによるイギリス連邦れんぽうによる協力きょうりょくけ、日本にっぽんへの進駐しんちゅう開始かいしした。連合れんごうこく日本にっぽん本土ほんどたいして軍政ぐんせい実施じっしするとの情報じょうほうがあり、重光しげみつ外務がいむ大臣だいじん9月3にちにマッカーサーに面会めんかいし、直接ちょくせつ具申ぐしんしこれを撤回てっかいさせた。永井ながいかずによれば、重光しげみつ具申ぐしんにより方針ほうしん撤回てっかいさせたことは重要じゅうようであり、日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくぐんたいするものであってくにたいするものではないことにもとづくとする[50][注釈ちゅうしゃく 3]

条件じょうけんづけ無条件むじょうけん降伏ごうぶくであったとするせつ
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藤田ふじたひろしろうによれば、無条件むじょうけん降伏ごうぶく最初さいしょしたフランクリン・ルーズベルト当初とうしょから一貫いっかんして「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」の具体ぐたいてき要件ようけんについて明確めいかくさせない方針ほうしん採用さいようした。ルーズベルトは、枢軸すうじくこく一切いっさい条件じょうけんをつけずに文字通もじどおりに無条件むじょうけん降伏ごうぶく宣明のぶあきすることが重要じゅうようで、そのに、交渉こうしょうによっては寛大かんだい処置しょちもありうるということを重視じゅうしした。またその処置しょちについても枢軸すうじく諸国しょこく国民こくみんたいしてのものであり、枢軸すうじく諸国しょこく国家こっか思想しそうおよびその指導しどうしゃべつのことであったとされる。ルーズベルトは欧州おうしゅう戦線せんせんにおけるべいえい連合れんごうぐんそう司令しれいすうにわたる無条件むじょうけん降伏ごうぶく方針ほうしん修正しゅうせい提案ていあんたいして断固だんことして拒否きょひしており、このことは米国べいこく無条件むじょうけん降伏ごうぶく主張しゅちょうが、欧州おうしゅう戦線せんせん懸念けねんされたようにドイツぐん死力しりょくくした戦闘せんとう助長じょちょうしているとかんがえられていた。英国えいこくおよびソ連それんはこの無条件むじょうけん降伏ごうぶくという米国べいこく主張しゅちょう必要ひつよう戦争せんそう長引ながびかせているとかんがえ、アイゼンハワーもこれに同意どういしていた。そこでアイゼンハワーの幕僚ばくりょうは1945ねん初頭しょとうからイタリアの降伏ごうぶくのために作成さくせいされためにた【条件じょうけんづけ無条件むじょうけん降伏ごうぶく(conditional unconditional surrender)】のさまざまな宣言せんげんぶん起草きそうしたが、いずれもワシントンのれるところではなかった[51]。ルーズベルトの意味いみするところの無条件むじょうけん降伏ごうぶくは、ともかく敗者はいしゃ無条件むじょうけん降伏ごうぶくすることをもとめており、無条件むじょうけん降伏ごうぶくという言葉ことばのもうひとつの可能かのう解釈かいしゃくである「勝者しょうしゃ敗者はいしゃ一定いってい条件じょうけんあきらかにし、敗者はいしゃがその条件じょうけん無条件むじょうけんれる」とするいわゆる【条件じょうけんづけ無条件むじょうけん降伏ごうぶくろん】の立場たちば明確めいかく否定ひていしていた[26]。ドイツの無条件むじょうけん降伏ごうぶくはルーズベルトが意図いとした一切いっさい事前じぜん条件じょうけん提示ていじのない完全かんぜん無条件むじょうけん降伏ごうぶくだった。トルーマンは、日本にっぽんたいする降伏ごうぶく要求ようきゅうについて、無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそく堅持けんじしたが、おおくの側近そっきん助言じょげんけこの原則げんそく一部いちぶ修正しゅうせいくわえ、ルーズベルトが否定ひていした条件じょうけんづけ無条件むじょうけん降伏ごうぶくろん立場たちばってたいにち降伏ごうぶく勧告かんこくのポツダム宣言せんげんはっした[37]とする。

無条件むじょうけん降伏ごうぶくであったというせつ
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日本にっぽん政府せいふは、国会こっかい答弁とうべんで「日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくをした」と説明せつめいしたことがある[52]。2007ねん平成へいせい19ねん)、安倍あべ内閣ないかく衆議院しゅうぎいん質問しつもん答弁とうべんしょで、無条件むじょうけん降伏ごうぶく定義ていぎについて一概いちがいべることが困難こんなんであるということもあり、(日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくしたかかについては)様々さまざま見解けんかいがあると承知しょうちしている、と答弁とうべんした[53]降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめい1945ねん昭和しょうわ20ねん9月6にちには、米国べいこく大統領だいとうりょうトルーマンから「連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん権限けんげんかんするマックアーサー元帥げんすいへの通達つうたつ」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文げんぶんどおり)があり、そのだい1こうで「天皇てんのうおよ日本にっぽん政府せいふ国家こっか統治とうち権限けんげんは、連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんとしてのかん従属じゅうぞくする。かんは、かん使命しめい実行じっこうするためかん適当てきとうみとめるところにしたがってかん権限けんげん行使こうしする。われわれと日本にっぽんとの関係かんけいは、契約けいやくてき基礎きそうえつているのではなく、無条件むじょうけん降伏ごうぶく基礎きそとするものである。かん権限けんげん最高さいこうであるから、かんは、その範囲はんいかんしては日本にっぽんがわからのいかなる異論いろんをもけない。」と記載きさいされている。 この通達つうたつはトルーマン大統領だいとうりょうからマッカーサー連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんへのTOP SECRETの文章ぶんしょうであり直接ちょくせつ日本にっぽん政府せいふ通告つうこくされたものではないが、降伏ごうぶく文書ぶんしょ契約けいやくてき性質せいしつ文書ぶんしょ)をわしたアメリカが実質じっしつてきにその契約けいやくせい否認ひにんしていた証拠しょうこする立場たちばがある[54][55]

国内こくない裁判さいばん

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判例はんれい日本国にっぽんこく政府せいふがGHQの指示しじしたが必要ひつようせいについて一貫いっかんして認定にんていする立場たちばである。ただ、裁判さいばんにおける「日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶく」の認定にんていについては文言もんごんじょうのばらつきがあり、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんという事実じじつにより(とく理由りゆうさずに)無条件むじょうけん降伏ごうぶく認定にんていする立場たちば理由りゆうして無条件むじょうけん降伏ごうぶく認定にんていする立場たちば無条件むじょうけん降伏ごうぶく主体しゅたいを「日本にっぽん」とする立場たちば、また事案じあんじょう被告ひこく日本国にっぽんこく政府せいふ)が国家こっか無条件むじょうけん降伏ごうぶく答弁とうべんしたもの[56] 、などがある。ただしこれらはあくまで個別こべつ案件あんけんについて判示はんじされたもの、あるいは裁判さいばん有利ゆうりにする答弁とうべんであり、この認定にんてい個別こべつ案件あんけんにもたらす効果こうかについてはさまざまである[注釈ちゅうしゃく 4][注釈ちゅうしゃく 5]

Ⅰ:とく理由りゆうさずに無条件むじょうけん降伏ごうぶく認定にんていする立場たちば

  • 補償ほしょうきん請求せいきゅう控訴こうそ事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ38ねん(ネ)だい528ごう
  • 貸金かしきん返還へんかん請求せいきゅう上告じょうこく事件じけん事件じけん番号ばんごう最高裁判所さいこうさいばんしょだいさんしょう法廷ほうてい判決はんけつ昭和しょうわ52ねん(オ)だい1395ごう判決はんけつ日付ひづけ昭和しょうわ57ねん3がつ30にち
  • 損害そんがい賠償ばいしょうとう恩給おんきゅう請求せいきゅう棄却ききゃく処分しょぶん取消とりけし請求せいきゅう控訴こうそ事件じけん事件じけん番号ばんごう大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ平成へいせい10ねんくだりコ)だい22ごう
  • 事件じけん番号ばんごう横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょ決定けってい平成へいせい10ねん(た)だい2ごう平成へいせい10ねん(た)だい3ごう平成へいせい10ねん(た)だい6ごう平成へいせい10ねん(た)だい7ごう平成へいせい10ねん(た)だい8ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい15ねん4がつ15にち
  • 公式こうしき陳謝ちんしゃとう請求せいきゅう控訴こうそ事件じけん事件じけん番号ばんごう大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ平成へいせい13ねん(ネ)だい3260ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい15ねん5がつ30にち
  • 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう札幌さっぽろ地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ平成へいせい15ねん(ワ)だい2636ごう 【判決はんけつ平成へいせい19ねん06がつ15

Ⅱ:理由りゆうして無条件むじょうけん降伏ごうぶく認定にんていする立場たちば

  • 仮処分かりしょぶん申請しんせい事件じけん事件じけん番号ばんごう大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ36ねん(ネ)だい759ごう判決はんけつ日付ひづけ昭和しょうわ39ねん6がつ30にち
  • 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう控訴こうそ事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ平成へいせい元年がんねん(ネ)だい1556ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい5ねん3がつ5にち
  • 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ平成へいせい7ねん(ワ)だい15636ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい11ねん9がつ22にち[注釈ちゅうしゃく 6]

Ⅲ:無条件むじょうけん降伏ごうぶく主体しゅたいを「日本にっぽん」とする立場たちば

  • 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう控訴こうそ事件じけん番号ばんごう東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ36ねん(ネ)だい1678ごう
  • 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ56ねん(ワ)だい4024ごう昭和しょうわ56ねん(ワ)だい8983ごう昭和しょうわ57ねん(ワ)だい731ごう昭和しょうわ60ねん(ワ)だい12166ごう
  • 香港ほんこん軍票ぐんぴょう補償ほしょう請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ平成へいせい5ねん(ワ)だい15280ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい11ねん6がつ17にち
  • 事件じけん番号ばんごう京都きょうと地方裁判所ちほうさいばんしょ平成へいせい19ねん(ワ)だい3986ごう平成へいせい20ねん(ワ)だい797ごう平成へいせい20ねん(ワ)だい2263ごう平成へいせい20ねん(ワ)だい3884ごう平成へいせい21ねん(ワ)だい1575ごう判決はんけつ日付ひづけ平成へいせい21ねん10がつ28にち

Ⅳ:事案じあんじょう被告ひこく日本国にっぽんこく政府せいふ)が国家こっか無条件むじょうけん降伏ごうぶく答弁とうべんにおいて言及げんきゅうしたもの

  • 不当ふとう利得りとく返還へんかん請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ36ねんくだりだい123ごう
  • 退職たいしょくきん請求せいきゅう事件じけん事件じけん番号ばんごう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ昭和しょうわ59ねんくだりウ)だい47ごう判決はんけつ日付ひづけ昭和しょうわ63ねん9がつ29にち


最高裁さいこうさい判決はんけつでは国家こっか公務員こうむいん労働ろうどう争議そうぎ団体だんたい交渉こうしょうけん)を禁止きんしするポツダム政令せいれい正当せいとうせい昭和しょうわ20ねんポツダムみことのりれい昭和しょうわ23ねん政令せいれい201ごう裁判さいばん[57]において国家こっか無条件むじょうけん降伏ごうぶく認定にんていしたうえで[注釈ちゅうしゃく 7]日本にっぽん国民こくみんにおいても連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんまた連合れんごうこく官憲かんけんはっする一切いっさい指示しじ誠実せいじつ迅速じんそく遵守じゅんしゅすべきことがめいぜられていると認定にんていしたことがある[58]

国家こっか賠償ばいしょう請求せいきゅうにおいて戦争せんそう被災ひさいしゃ慰安いあん共産きょうさん党員とういんなどが国家こっかの「条件じょうけんづけ降伏ごうぶく」を主張しゅちょうし、被告ひこくであるくに無条件むじょうけん降伏ごうぶく主張しゅちょうすることがしばしばみられる。

  • 国家こっか公務員こうむいん労働ろうどう争議そうぎ団体だんたい交渉こうしょうけん)を禁止きんしするポツダム政令せいれい正当せいとうせい昭和しょうわ20ねんポツダムみことのりれい昭和しょうわ23ねん政令せいれい201ごう裁判さいばん[59]

無条件むじょうけん降伏ごうぶく領土りょうど問題もんだい

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降伏ごうぶく文書ぶんしょにおいては『無条件むじょうけんてき降伏ごうぶく布告ふこくは、大本営だいほんえい日本国にっぽんこく軍隊ぐんたいならびにその支配しはい引用いんようママ)にある一切いっさい軍隊ぐんたいたいして、無条件むじょうけんてき降伏ごうぶく引用いんようママ)を布告ふこくいたしたのでありまして、この文章ぶんしょうなかには日本にっぽん国民こくみん布告ふこくしている文章ぶんしょうというものはひとつも発見はっけんできない』[60]ため、日本国にっぽんこく国民こくみん講和こうわ条約じょうやく発言はつげんけんみとめられるとの主張しゅちょうがある。これはポツダム宣言せんげん言明げんめいされた「日本にっぽん暴力ぼうりょくおよ貪欲どんよくにより奪取だっしゅした一切いっさい地域ちいき取上とりあげる」趣旨しゅし規定きていたいする日本にっぽん国民こくみん(あるいはその代表だいひょうである国会こっかい)の反論はんろん可能かのうかというてん領土りょうど問題もんだいおよ[60]。これにたいして吉田よしだ日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくをしたのであると明言めいげんしたじょう[61]で、日本にっぽん国民こくみん希望きぼうみとめられるかについては、連合れんごうこく好意こういにより反映はんえいされるだろうとの判断はんだんしめしている[62]

江藤えとうあつし日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくしていないという事実じじつげ、このうえ今日きょう日本にっぽん存立そんりつがかかり、ことたい関係かんけいにおいては北方領土ほっぽうりょうど返還へんかん要求ようきゅう合法ごうほうせいがかかっていると指摘してきする。またソ連それんたいにち参戦さんせんのちにポツダム宣言せんげん署名しょめいこく参加さんかし、この「協定きょうてい」(ポツダム宣言せんげん)の拘束こうそくけており、ソ連それんのシベリア抑留よくりゅう早期そうき帰還きかん約束やくそくしている宣言せんげんだいきゅうこう違反いはんしており、北方領土ほっぽうりょうど占拠せんきょ不当ふとうなのは、ポツダム宣言せんげん領土りょうど拡張かくちょうかかげたカイロ宣言せんげん精神せいしん継承けいしょうしているにもかかわらずその原則げんそく侵害しんがいしているためである、とする[63]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただしこの定義ていぎは1956ねん野戦やせん手引てびきのものである。
  2. ^ 一方いっぽう日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくについて西村にしむらくまゆう昭和しょうわ25ねん2がつ8にちだい7かい衆議院しゅうぎいん外務がいむ委員いいんかい以下いかのような答弁とうべんをしている(発言はつげんしゃ番号ばんごう118)。 「承知しょうちのように今度こんど戰争せんそうで、連合れんごうこく無條件むじょうけん降伏ごうぶく戰争せんそう終結しゅうけつさせるという建前たてまえ一貫いっかんしてまいりました。日本にっぽんたいしましても同様どうようでございます。ただ日本にっぽん場合ばあいにはくに場合ばあいちがいますが、降伏ごうぶく日本にっぽん取扱とりあつかいにつきまして、べいえいはなさんこくあいだ方針ほうしん決定けっていいたしまして、ポツダム宣言せんげんといたしまして発表はっぴょうし、日本にっぽんがこの宣言せんげん受諾じゅだくするならば、戰争せんそう終結しゅうけつ機会きかいあたえる、こうげんつたのでございます。日本にっぽんは20ねん8がつ14にちにこの宣言せんげん受諾じゅだくいたしました。9月2にち降伏ごうぶく文書ぶんしょはこの受諾じゅだく確認かくにんしたものでございます。この文書ぶんしょはごらんになりますとわかりますが、まずだいいち日本にっぽん代表だいひょうが、天皇てんのう政府せいふ大本営だいほんえいにおいて、さんこく政府せいふ首班しゅはん発布はっぷし、そのソ連それん参加さんかいたしました。ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくしますということをはつきりいております。そのあとに日本にっぽんがわでとります措置そち具体ぐたいてきもうしますと、軍隊ぐんたい無條件むじょうけん降伏ごうぶく布告ふこくをする。軍隊ぐんたいおよ臣民しんみん敵対てきたい行為こうい終止しゅうし各種かくしゅ資材しざい保存ほぞん政府せいふ機関きかん連合れんごうこくよりの要求ようきゅう応諾おうだくせよとの命令めいれいす。軍隊ぐんたい無條件むじょうけん降伏ごうぶく命令めいれいす。官庁かんちょう軍隊ぐんたい職員しょくいん連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん命令めいれい遵守じゅんしゅしろという命令めいれいすということをうたつております。そうしてそのつぎにポツダム宣言せんげん日本にっぽん忠実ちゅうじつ履行りこうするということを約束やくそくいたしまして、日本にっぽん支配しはいにある連合れんごうこく捕虜ほりょおよ抑留よくりゅうしゃ解放かいほうめいじますということをはつきりし、最後さいご天皇てんのうおよ政府せいふ統治とうちけん連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんのもとにつものであるということをはつきりさせております。そういうふうな條項じょうこうのあとに、日本にっぽん代表だいひょう署名しょめいしております。そうしてそのあとに承諾しょうだくする、アクセプタブル、承諾しょうだくするとげんつて、連合れんごう国軍こくぐん代表だいひょうきゅうこくのために署名しょめいしております。すなわち日本にっぽん降伏ごうぶくをよろしいと受諾じゅだくした形式けいしきをとつておるのでございます。いかえれば、8がつ14にちのわがくにのポツダム宣言せんげん受諾じゅだくによる無條件むじょうけん降伏ごうぶくかくだくであるとかんがえます。【しかしながらわがくに受諾じゅだくしましたポツダム宣言せんげんは、連合れんごうこくあいだ協定きょうていいたされました日本にっぽん処理しょり基本きほん原則げんそく確定かくていしたものでございまして、自然しぜん連合れんごうこく相互そうごあいだには法的ほうてき拘束こうそくりょくがあるとかんがえてよろしいでしょう。これを日本にっぽん受諾じゅだくしているのでございますから、連合れんごうこくが――これは全然ぜんぜんないとおもいますが、かりにポツダム宣言せんげん原則げんそくにもとるというようなことがありと――わたしほうから仮定かていするのはまことに恐縮きょうしゅくでありますが――仮定かていしますれば、たとえば四国しこく日本にっぽん領土りょうどからはなすというようなことをしようとする。あるいは日本にっぽんへい帰還きかんおくらすというようなことがあつたり、また日本人にっぽんじん奴隷どれいしようというような政策せいさくをとるということがあつたり、または日本にっぽん経済けいざい破壊はかいする措置そちをとるというようなことがあつたり、または民主みんしゅ主義しゅぎてき政策せいさくてようということがあつた、こういうことがあつたとするならば、これは日本にっぽんとしてそれはポツダム宣言せんげん條項じょうこうはなしちがいます。わたしどもの了解りょうかいとはちがいます。こういうことはえるのであろうと、こうおもいます。】」
  3. ^ 一方いっぽう南西諸島なんせいしょとうおよ小笠原諸島おがさわらしょとう停戦ていせんにすでにアメリカぐん占領せんりょうないし勢力せいりょくにあり、本土ほんど復帰ふっきまで米国べいこく施政しせいけん歴史れきしあゆむことになる。大陸たいりく南方なんぽう北方ほっぽうきゅう領土りょうどおよび占領せんりょう日本にっぽんぐんはそれぞれ現地げんち連合れんごう国軍こくぐん降伏ごうぶくし、領土りょうどおよび占領せんりょう行政ぎょうせいけん剥奪はくだつされた。
  4. ^ 一部いちぶ判決はんけつぶんについて裁判所さいばんしょ判例はんれい検索けんさくシステム[1]閲覧えつらん可能かのう
  5. ^ いわゆる判例はんれいとして法的ほうてき拘束こうそくりょく (doctrine of stare decisis)をゆうする箇所かしょ該当がいとうするかどうかはWikipedia編集へんしゅうしゃ調査ちょうさでは判然はんぜんとしておりません。読者どくしゃ利用りようされるさいにはこのてん注意ちゅういしてください。
  6. ^ 同年どうねんはちがつろくにち広島ひろしま原爆げんばく投下とうかはちがつはちにちソ連それんたいにち宣戦せんせん布告ふこくはちがつきゅうにち長崎ながさき原爆げんばく投下とうかはちがついちよんにちくにはポツダム宣言せんげん受諾じゅだくして連合れんごうこくたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶく(もとより、カイロ宣言せんげんおよびポツダム宣言せんげん記載きさい条件じょうけんによる降伏ごうぶくであって、形式けいしきてきには条件じょうけん降伏ごうぶくである。 しかし、いち項目こうもくにわたる条件じょうけんると、実質じっしつてきにはほぼ無条件むじょうけん降伏ごうぶくちか内容ないようというほかない。本裁ほんだちばんにおいてポツダム宣言せんげん受諾じゅだく無条件むじょうけん降伏ごうぶくというのは、その趣旨しゅしである。)
  7. ^ 世人せじん周知しゅうちのごとく、わがくにはポツダム宣言せんげん受諾じゅだくし、降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんして、連合れんごうこくたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶくをした。』

出典しゅってん

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  1. ^ しん法律ほうりつがく辞典じてん だいさんはん有斐閣ゆうひかく 平成へいせい元年がんねん10がつ30にち発行はっこう)「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」P.1368
  2. ^ 三省堂さんせいどう大辞林だいじりんの「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」の説明せつめいの1つに「交戦こうせんこく一方いっぽう一定いってい降伏ごうぶく条件じょうけん無条件むじょうけん受諾じゅだくして降伏ごうぶくすること」とある
  3. ^ 昭和しょうわ26ねん10がつ24にちだい12かい衆議院しゅうぎいん平和へいわ条約じょうやくおよ日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく特別とくべつ委員いいんかいにおいて、西村にしむらくまゆう条約じょうやく局長きょくちょうは「日本にっぽん連合れんごうこくがポツダム宣言せんげんというかたち提示ていじいたしました戦争せんそう終結しゅうけつ条件じょうけん無条件むじょうけんけて終戦しゅうせんいたしたのであります。無条件むじょうけん降伏ごうぶくというのは、戦勝せんしょうこく提示ていじした条件じょうけんなん条件じょうけんをつけずして降伏ごうぶくしたという意味いみであります。」と、政府せいふ公式こうしき見解けんかいしめした(出典しゅってん国会こっかい議事ぎじろく
  4. ^ たとえば、ひゃく籏頭しん米国べいこく日本にっぽん占領せんりょう政策せいさくじょう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1989ねん)、P.102
  5. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 2.
  6. ^ コンペル・ラドミール 2010, p. 4-5.
  7. ^ コンペル・ラドミール 2010.
  8. ^ 昭和しょうわ26ねん2がつ21にちだい10かい衆議院しゅうぎいん外務がいむ委員いいんかい外務がいむ事務じむかん条約じょうやく局長きょくちょう 西村にしむらくまゆう
  9. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」のこう[2]
  10. ^ いちまた正雄まさおグロチウス「戦争せんそう平和へいわほう」の研究けんきゅう-続篇ぞくへん3かん-国際こくさい法理ほうりろん中心ちゅうしんとして」『早稲田わせだ法学ほうがくだい25かんだい1ごう早稲田わせだほう学会がっかい、1949ねん6がつ、100-140ぺーじCRID 1050001202480568960NAID 120000788018 
  11. ^ a b 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 35.
  12. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 25-26.
  13. ^ a b 材木ざいもく和雄かずお 2007, pp. 32.
  14. ^ 材木ざいもく和雄かずお 2007, pp. 20.
  15. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 6-7.
  16. ^ a b 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 6.
  17. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 7-8.
  18. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 3.
  19. ^ a b c 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 3-4.
  20. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 19.
  21. ^ a b c 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 4.
  22. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 11.
  23. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 11-12.
  24. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 13-14.
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  26. ^ a b 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 27.
  27. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 25-27.
  28. ^ イギリス下院かいん議事ぎじろく1944ねん2がつ22にち[3]邦訳ほうやくは「東京とうきょう裁判さいばん正体しょうたい菅原すがわらひろし国際こくさい倫理りんり調査ちょうさかい)P.39による
  29. ^ イタリア降伏ごうぶく関連かんれん文書ぶんしょ -- イェール大学だいがく
  30. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 33-34.
  31. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 22.
  32. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 22-23.
  33. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 24.
  34. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 16-17.
  35. ^ 井上いのうえ茂子しげこ 2006, p. 241-242.
  36. ^ ベルリン宣言せんげん -- ベルリン宣言せんげん
  37. ^ a b c 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 28.
  38. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 36.
  39. ^ 13こうにthe unconditional surrender of all Japanese armed forcesと明記めいきされている。
  40. ^ 波多野はたのひろしづくり 1999, p. 6-8.
  41. ^ 波多野はたのひろしづくり 1999, p. 12.
  42. ^ 波紋はもん無条件むじょうけん降伏ごうぶくろんそう朝日新聞あさひしんぶん1978.9.16ゆう
  43. ^ 無条件むじょうけん降伏ごうぶくろんそう問題もんだいてんうえ)」朝日新聞あさひしんぶん1978.10.2ゆう9めん
  44. ^ 戦後せんごさい検討けんとう日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくはしていない三田みた演説えんぜつかんでの昭和しょうわ53ねん10がつ26にち講演こうえんろくより、インターネット三田みたかい
  45. ^ a b 大西洋たいせいよう憲章けんしょうには民族みんぞく自決じけつけんうたわれているが、降伏ごうぶく条件じょうけんとして国体こくたい護持ごじし、日本にっぽんこく最終さいしゅう政治せいじ形態けいたい日本にっぽん国民こくみん自由じゆう表明ひょうめいした意思いしめるとしたにもかかわらず、憲法けんぽう改正かいせい指示しじしたり極東きょくとう委員いいんかいによる文民ぶんみん条項じょうこうについての干渉かんしょう(ソビエトの意向いこうから極東きょくとう委員いいんかい、GHQというラインをつうじた干渉かんしょう)をおこなっており、極東きょくとう委員いいんかいとマッカーサーそう司令しれいはポツダム宣言せんげんおよ降伏ごうぶく文書ぶんしょ違反いはんしている(一部いちぶ要約ようやく)。だい147かい衆議院しゅうぎいん憲法けんぽう調査ちょうさかい 参考さんこうじん青山あおやま武憲たけのり(日本にっぽん大学だいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ)平成へいせい12ねん2がつ24にち
  46. ^ だい147国会こっかい衆議院しゅうぎいん憲法けんぽう調査ちょうさかい平成へいせい12ねん3がつ23にち参考さんこうじん高橋たかはし正俊まさとし香川大学かがわだいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ日本にっぽん受諾じゅだくいたしましたポツダム宣言せんげんというものは、じつ本来ほんらい、いわゆる条件じょうけんつき休戦きゅうせん条約じょうやくであったとかんがえられております。どうして条件じょうけんつき休戦きゅうせん条約じょうやくであったかといえば、これはじつはポツダム宣言せんげんをアメリカがわ制定せいていする過程かてい調しらべてまいりますと、とくにその起草きそうふかくかかわった国務省こくむしょうないふたつの勢力せいりょく、いわゆる中国ちゅうごくわれるひとたちと、日本にっぽんもしくはうべきなんでしょうが、一応いちおうづけておきますが、その勢力せいりょくはげしくぶつかっております。そして、その結果けっか、ポツダム宣言せんげん形成けいせいされる段階だんかいにおきまして、なながつじゅうにちのことだというふうにわれておりますが、それまで草案そうあんこうなかに、日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくまでということがうたわれておったわけですけれども、それが、日本にっぽん抵抗ていこうをやめるまでというふうに変更へんこうされておりまして、国家こっかとしての無条件むじょうけん降伏ごうぶくという言葉ことばえております。日本にっぽん軍隊ぐんたい無条件むじょうけん降伏ごうぶくだけがのこる、こういうことになるわけですね。実際じっさい、そのように意図いとしたようでございまして、ここでは、したがってポツダム宣言せんげんというのは、本来ほんらい条件じょうけん交渉こうしょうみとめない条件じょうけんつき休戦きゅうせん条約じょうやく、そういうふうなものになった、そしてそのように理解りかいされておったということでございます。』[4]
  47. ^ だい134かい参議院さんぎいん予算よさん委員いいんかい平成へいせい7ねん10がつ27にち政府せいふ委員いいん 大出おおいで峻郎たかお内閣ないかく法制ほうせいきょく長官ちょうかん
  48. ^ 渡部わたなべ昇一しょういち (2014-6). 戦後せんごレジームの原点げんてん日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくろん」の虚妄きょもう. 月刊げっかん正論せいろん. http://ironna.jp/article/1809 
  49. ^ だい147かい衆議院しゅうぎいん憲法けんぽう調査ちょうさかい 参考さんこうじん青山あおやま武憲たけのり(日本にっぽん大学だいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ)平成へいせい12ねん2がつ24にち発言はつげん番号ばんごう91)
  50. ^ 杉田すぎた一次かずつぐ回想かいそう-2-杉田すぎた一次かずつぐちょ情報じょうほうなきミズリーごう艦上かんじょう降伏ごうぶく調印ちょういん 映像えいぞう占領せんりょう日本にっぽん占領せんりょうぐん撮影さつえいフィルムをる- 永井ながいかず京都きょうと大学だいがく教授きょうじゅ
  51. ^ べいえい連合れんごうぐんそう司令しれい・ドイツ問題もんだい担当たんとう政治せいじ顧問こもんロバートDマーフィの回想かいそうによる。くわしくは 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 18および脚注きゃくちゅう参照さんしょう
  52. ^ 1949ねん昭和しょうわ24ねん)11月26にちだい6かい衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかい 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 吉田よしだしげる
  53. ^ 平成へいせいじゅうきゅうねんがつきゅうにち受領じゅりょう 答弁とうべんだいごう 内閣ないかくしゅしついちろくろくだいごう[5]
  54. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく議会ぎかいだい90かい衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ7ごう昭和しょうわ21ねん06がつ27にち吉田よしだしげる発言はつげん番号ばんごう8)[6]
  55. ^ 焦点しょうてんになる「契約けいやくてき基礎きそ」についてはだい7かい衆議院しゅうぎいん外務がいむ委員いいんかい昭和しょうわ25ねん3ごう(2がつ8にち並木なみき芳雄よしお発言はつげんしゃ番号ばんごう117)6ごう(3がつ9にち横田よこた喜三郎きさぶろう発言はつげんしゃ番号ばんごう3)、だい10かい参議院さんぎいん外務がいむ委員いいんかい昭和しょうわ26ねん2ごう(1がつ31にち黒田くろだ寿男としお発言はつげんしゃ番号ばんごう83)などでろんじられあるいは反論はんろんされている。だい24かい衆議院しゅうぎいん内閣ないかく委員いいんかい公聴こうちょうかい昭和しょうわ31ねん1ごう(3がつ16にち神川かみかわ彦松ひこまつ)でも言及げんきゅうあり。
  56. ^ 損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅう併合へいごう訴訟そしょう事件じけん」(東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ/昭和しょうわ30ねん(ワ)だい2914ごう昭和しょうわ32ねん(ワ)だい4177ごう )、「不当ふとう利得りとく返還へんかん請求せいきゅう事件じけん」(東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ昭和しょうわ36ねんくだりだい123ごう )、「退職たいしょくきん請求せいきゅう事件じけん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ昭和しょうわ63ねん9がつ29にち
  57. ^ 昭和しょうわ24ねん(れ)だい685ごう昭和しょうわ23ねん政令せいれいだい201ごう違反いはん被告ひこく事件じけん参考さんこう:[7]
  58. ^ 日本にっぽん官庁かんちょう職員しょくいんまた日本にっぽん国民こくみんは、連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんまた連合れんごうこく官憲かんけんはっする一切いっさい指示しじ誠実せいじつ迅速じんそく遵守じゅんしゅすべきことがめいぜられており、しこれらの指示しじ遵守じゅんしゅするに遅滞ちたいがあり、またはこれを遵守じゅんしゅしないときは、連合れんごう国軍こくぐん官憲かんけんおよ日本国にっぽんこく政府せいふは、厳重げんじゅう迅速じんそく制裁せいさいくわえるものとされている(指令しれいだい一号附属一般命令第一号一二項)。』(ただし少数しょうすう意見いけんあり)昭和しょうわ20ねんポツダムみことのりれい昭和しょうわ23ねん政令せいれい201ごう昭和しょうわ24ねん(れ)だい685ごう昭和しょうわ23ねん政令せいれいだい201ごう違反いはん被告ひこく事件じけん参考さんこう:[8]
  59. ^ 昭和しょうわ24ねん(れ)だい685ごう昭和しょうわ23ねん政令せいれいだい201ごう違反いはん被告ひこく事件じけん)(参考さんこう:[9]
  60. ^ a b 昭和しょうわ24ねん11月26にちだい6かい衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかい 西村にしむら栄一えいいち
  61. ^ 昭和しょうわ24ねん11月26にちだい6かい衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん吉田よしだしげるは「またこのあいだもよくもうしたのでありますが、日本にっぽんこく無条件むじょうけん降伏ごうぶくをしたのである。そしてポツダム宣言せんげんその米国べいこく政府せいふとしては、無条件むじょうけん降伏ごうぶくをした日本にっぽんがヤルタ協定きょうていあるいはポツダム宣言せんげんといいますか、それらにもとづいて権利けんり主張しゅちょうすることはみとめられない、こうおもえつております」と答弁とうべんしている。
  62. ^ 昭和しょうわ24ねん11月26にちだい6かい衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかい 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 吉田よしだしげる
  63. ^ 日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくしていない 東工大とうこうだい教授きょうじゅ江藤えとうあつし」(産経新聞さんけいしんぶん正論せいろん昭和しょうわ53ねん8がつ10日とおか掲載けいさい

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