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琉球りゅうきゅうこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

琉球りゅうきゅうこく(りゅうきゅうのくに)は、かつての琉球りゅうきゅう王国おうこく版図はんと沖縄おきなわけん)に相当そうとうする地域ちいきもちいられた地名ちめい

なお、ほん項目こうもくにおいては簡便かんべんのため、太平洋戦争たいへいようせんそう以降いこう期間きかん考慮こうりょしない。

概要がいよう

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下記かきのいずれも、れいせいこくあつかい(後述こうじゅつ)に影響えいきょうあたえるものではない。

琉球りゅうきゅう王国おうこく正式せいしき名称めいしょうとして

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政体せいたい国号こくごうとしての「琉球りゅうきゅうこく」、「琉球りゅうきゅうこく」(りゅうきゅうこく、琉球りゅうきゅう:ルーチューククまたはドゥーチュークク[1])は、琉球りゅうきゅう王国おうこく正式せいしき名称めいしょうである。

なお「琉球りゅうきゅう王国おうこく自体じたいは、きん現代げんだいから歴史れきしてき呼称こしょうであり、琉球りゅうきゅう王国おうこく時代じだい琉球りゅうきゅう内外ないがい文献ぶんけんでは「琉球りゅうきゅうこくくに)」との表記ひょうき数多かずおおられる。

琉球りゅうきゅう王国おうこく消滅しょうめつ過渡かとてき国名こくめいとして

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琉球りゅうきゅうこく」は、琉球りゅうきゅうはん廃止はいしおよび沖縄おきなわけん設置せっち[2]においても、法令ほうれいじょうあるいは行政ぎょうせいじょう地域ちいきす「国名こくめい」としてももちいられた[3]

律令制りつりょうせいから江戸えど時代じだい幕末ばくまつまで(正確せいかくには日本にっぽん本土ほんど廃藩置県はいはんちけんまで)おおやけ制度せいどとしてもれいせいこく効力こうりょくっていたが、本土ほんど廃藩置県はいはんちけん以降いこう次第しだい本土ほんど関連かんれんするおおやけ法令ほうれい公文書こうぶんしょにおいてもちいられなくなっていった。一方いっぽう明治めいじ都道府県とどうふけんせいぐんせい市町村しちょうそんせいなどの改変かいへんには旧慣きゅうかんとしておおやけ法令ほうれい公文書こうぶんしょ国名こくめいもちいられること多々たたった。

これと同様どうように、このような過渡かとてき地名ちめい国名こくめい)としての「琉球りゅうきゅうこく」もやがてもちいられなくなり、わってけんめいである「沖縄おきなわけん」が地名ちめいとしてもちいられるようになった。

ただし、国土こくど地理ちりいん発行はっこうする地勢ちせいにおいては、現在げんざい刊行かんこうされている[4]においても、1895ねん沖縄おきなわけん編入へんにゅうされた尖閣諸島せんかくしょとうふくめ、「国名こくめい」として「琉球りゅうきゅうこく」としめされている。

琉球りゅうきゅう処分しょぶん便宜べんぎてき国名こくめいとして

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琉球りゅうきゅう王国おうこく成立せいりつ以前いぜん創建そうけんされたとられる護国寺ごこくじなみ上宮かみみやは(神仏しんぶつ分離ぶんり以降いこう)「琉球りゅうきゅうこくしん一宮いちのみや」であるが、琉球りゅうきゅう政体せいたいとは関係かんけいなく、沖縄おきなわけん設置せっち以降いこう便宜べんぎてきに「琉球りゅうきゅうこく…」とばれている。神社じんじゃ統括とうかつする宗教しゅうきょう法人ほうじん神社じんじゃ本庁ほんちょう解釈かいしゃくと、政体せいたい変更へんこう敗戦はいせんによる領土りょうど縮小しゅくしょう台湾たいわん神社じんじゃ参照さんしょう)、または律令りつりょう法令ほうれいじょうれいせいこくあつかい(後述こうじゅつ)とは、直接ちょくせつ関係かんけいはない。

その

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因幡いなばこく大名だいみょうであった亀井かめい茲矩天正てんしょう10ねん1582ねん)からぶんろく2ねん1592ねん以前いぜんにかけ、琉球りゅうきゅうこく国司こくし意味いみする「琉球りゅうきゅうもり」の名乗なのりもちい、これは豊臣とよとみ秀吉ひでよしにも公認こうにんされている[5]豊臣とよとみ政権せいけん当時とうじ琉球りゅうきゅう日本にっぽん一部いちぶとみなしていたか「外国がいこく」とみなしていたかについては研究けんきゅうしゃあいだでも議論ぎろんがある[6]

経緯けいい

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  • 1869ねん明治めいじ2ねん日本にっぽん版籍はんせき奉還ほうかんあんりょうじょう盛昭もりあきは、琉球りゅうきゅう王国おうこく影響えいきょうあたえなかった可能かのうせいたかいとしている。[7]
  • 1871ねん明治めいじ4ねん日本にっぽん全国ぜんこくてき廃藩置県はいはんちけんおこなわれ、薩摩さつまはん鹿児島かごしまけん改組かいそ。この時点じてんでは、当時とうじ琉球りゅうきゅう王国おうこく実効じっこう支配しはい領域りょういき沖縄おきなわ本島ほんとう以西いせい与那国島よなぐにじま以東いとうと、硫黄鳥島いおうとりしま[8])は廃藩置県はいはんちけん対象たいしょうがい
    • 明治維新めいじいしんのち琉球りゅうきゅう王国おうこく一時いちじてき鹿児島かごしまけん管轄かんかつとなる。[9]
    • 廃藩置県はいはんちけん布告ふこくである明治めいじ4ねん11月14にち太政官だじょうかん布告ふこくだい595)には「そと琉球りゅうきゅうこく」との記載きさいがある(下記かき
  • 1872ねん明治めいじ5ねん琉球りゅうきゅうはん設置せっち。このさい琉球りゅうきゅう管理かんり鹿児島かごしまけんから外務省がいむしょうへと移行いこう。また日本にっぽん政府せいふ琉球りゅうきゅう王国おうこくがわたいし「国体こくたい政体せいたい永久えいきゅうあいがえ」と約束やくそくした。[10]
    • 同年どうねん5がつ大蔵おおくら大輔だいすけ井上いのうえかおるが「琉球りゅうきゅう版籍はんせき接収せっしゅうし、くにぐん設置せっちするべき」と上申じょうしんしたがれられなかった。[11]
    • 日本にっぽん明治めいじ政府せいふにより琉球りゅうきゅう国王こくおうなおやすしは「琉球りゅうきゅうはんおう」とされる。これにより形式けいしきてきにはきゅう薩摩さつまはん鹿児島かごしまけん支配しはいからはずれた。はんおうとされたなおやすしはそれ以降いこうきよしへの朝貢ちょうこうつづけたためきよからは琉球りゅうきゅう国王こくおうさつふうされつづけるじゅう体制たいせいとなった。
  • 1879ねん明治めいじ12ねん沖縄おきなわけん設置せっち
    • なおやすし東京とうきょうへの移住いじゅう決意けつい沖縄おきなわけん設置せっち[12]内務ないむぐん派遣はけんする。これにより名実めいじつともに廃位はいいとなり、琉球りゅうきゅう王国おうこく滅亡めつぼうした。(琉球りゅうきゅう処分しょぶん

明治めいじ4ねん11月14にち太政官だじょうかん布告ふこくだい595) ウィキソース「小倉こくらけん以下いかじゅういちけんおけキ管きかんていム」

鹿児島かごしまけん
 大隅おおすみこく
  熊毛くまげぐん 馭謨ぐん
 薩摩さつまこくいちえん
  がい琉球りゅうきゅうこく

れいせいこく経緯けいい

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れいせいこく制度せいど経緯けいいとしては、明治維新めいじいしん江戸えど幕府ばくふ終焉しゅうえん版籍はんせき奉還ほうかん)によって、国司こくし制度せいど名実めいじつともに廃止はいしされたため、行政ぎょうせい区分くぶんとしてのれいせいこくはそれ以降いこう都道府県とどうふけんせい完全かんぜん施行しこうされるまでのあいだ過渡かとてき意義いぎだけをつこととなった。

ただし、明治維新めいじいしん1869ねん1がつ19にち明治めいじ元年がんねん12月7にち)に、つちのえたつ東北とうほく戦争せんそう処分しょぶんとして、布告ふこくにより陸奥みちのくこく(むつ)磐城いわきこく岩代いわしろこく陸前りくぜんこく(りくぜん)りく中国ちゅうごく(りくちゅう)陸奥みちのくこく(りくおう)の5こくに、出羽でわこく羽前うぜんこく羽後うごこくの2こく分割ぶんかつされた[13]。またつちのえたつばこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくごの1869ねん9がつ20日はつか明治めいじ2ねん8がつ15にち)、和人わじんおよび蝦夷えぞきたしゅう)に北海道ほっかいどう11かこくあらたにもうけ、これにより畿七どうから畿八どうとした[14]

これにたいし、琉球りゅうきゅう王国おうこく実効じっこう支配しはい領域りょういき沖縄おきなわ本島ほんとう以西いせいと、硫黄鳥島いおうとりしま)が、律令りつりょううわ法令ほうれいじょうれいせいこくまれたこと現在げんざいいたるまでいちもない。そのため「琉球りゅうきゅうこく」はれいせいこくの1つではなく畿八どうにもふくまれない

薩南諸島しょとうとの差異さい

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南西諸島なんせいしょとうのうち薩南諸島しょとう大隅おおすみ諸島しょとうトカラ列島れっとう奄美あまみ群島ぐんとう)はことなる経緯けいい辿たどっている。

まず大隅おおすみ諸島しょとう日本にっぽん古代こだいから禰国、のち、大隅おおすみこく編入へんにゅうされ、日本にっぽん領域りょういきである。

トカラ列島れっとう1227ねん安貞やすさだ元年がんねん)に薩摩さつまこく川辺かわべぐんとなる[15][16]実効じっこう支配しはいてき側面そくめんでは、一時期いちじき臥蛇島がじやしまなどがにち琉両ぞく体制たいせいとなったり、七島ななしましゅうなど日和見ひよりみてき立場たちば勢力せいりょくあらわれる[17][18]近世きんせいには薩摩さつまはん島津しまつ直轄ちょっかつりょうとなりしまやくざいばんかれるが、これが琉球りゅうきゅう侵攻しんこうともなうものかどうかは諸説しょせつある[17]1897ねん大隅おおすみこく大島おおしまぐん再編さいへんされた[19]れいせい国名こくめいもちいられなくなってひさしい1973ねん昭和しょうわ48ねん)に大島おおしまぐんから鹿児島かごしまぐん転属てんぞくとなり、ふたた薩摩さつまこくもどった格好かっこうになっている。

奄美あまみ群島ぐんとう琉球りゅうきゅう王国おうこく征服せいふく支配しはいはいったが(那覇なは)、琉球りゅうきゅう侵攻しんこうこう薩摩さつまはん直轄ちょっかつりょうとされ琉球りゅうきゅう王国おうこく支配しはいからは分離ぶんりされた(大和やまと)。ただし名目めいもくじょう琉球りゅうきゅう王国おうこく領域りょういきとされた。奄美あまみ群島ぐんとう廃藩置県はいはんちけんにより実効じっこう支配しはいじょう先行せんこうして鹿児島かごしまけん編入へんにゅうって1879ねん明治めいじ12ねん)4がつ太政官だじょうかん通達つうたつ[20]により大隅おおすみこく編入へんにゅうされて正式せいしき日本にっぽん領域りょういきとなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 国立こくりつ国語こくご研究所けんきゅうじょ資料集しりょうしゅう5『沖縄おきなわ辞典じてん』(1963ねん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく)は、外国がいこくたいして琉球りゅうきゅう全体ぜんたいさきとうふくむ)の国名こくめいとしてもちいたかたりを「琉球りゅうきゅう」(ruucuu。duucuuともいう)としており、「琉球りゅうきゅうこく」あるいは「くに(こく、琉球りゅうきゅうみでクク)」はたてこうされていない。
  2. ^ 明治めいじ12ねん1879ねん)4がつ4にち太政官だじょうかん布告ふこくだい14ごう琉球りゅうきゅうはんはい沖縄おきなわけんおけけん」。
  3. ^ 琉球りゅうきゅうこく設置せっちするとの太政官だじょうかん布告ふこく太政官だじょうかんたちなどの公文書こうぶんしょつかっていないが、法令ほうれいにおける用例ようれいとして、1.沖縄おきなわけん琉球りゅうきゅうこくくびさとじょう陸軍りくぐんしょう受領じゅりょうス(明治めいじ15ねん3がつ15にち太政官だじょうかんたち)、2.沖縄おきなわけん琉球りゅうきゅうこくくびさとじょう陸軍りくぐんしょう受領じゅりょうス(明治めいじ15ねん3がつ20日はつか陸軍りくぐんしょうたち) 3.琉球りゅうきゅうこく那覇なはこうニ於テ清国きよくに貿易ぼうえきせきスル船舶せんぱく出入でいり及貨ぶつせきおろし許可きょか法律ほうりつ明治めいじ27ねん法律ほうりつだい3ごう)、4.千島ちしま大隅おおすみ琉球りゅうきゅう諸島しょとう設置せっちスル郵便ゆうびん電信でんしんきょく職員しょくいん手当てあてきん給与きゅうよけん明治めいじ30ねんみことのりれいだい250ごう)、5.千島大隅琉球国諸島ニ設置せっちスル郵便ゆうびん電信でんしんきょく職員しょくいんがつ手当てあてきん給与きゅうよ細則さいそくけん明治めいじ30ねん8がつ5にち逓信ていしん省令しょうれいだい27ごう)、6.裁判所さいばんしょ設立せつりつ廃止はいし管轄かんかつ区域くいき変更へんこうせきスル法律ほうりつ明治めいじ32ねん法律ほうりつだい20ごう)、7.千島ちしまこく国後くなしりとう同国どうこく択捉えとろふとう大隅おおすみ国大こくだいとう琉球りゅうきゅうこく八重山やえやまとう設置せっちスル二等郵便及電信局職員在勤月手当給与細則(明治めいじ34ねん4がつ4にち逓信ていしん省令しょうれいだい20ごう)、8.明治めいじさんじゅうねんみことのりれいだいひゃくじゅうごう千島ちしま大隅おおすみ琉球りゅうきゅうこく諸島しょとう設置せっちスル郵便ゆうびん電信でんしんきょく職員しょくいんがつ手当てあてけんちゅう改正かいせいけん明治めいじ36ねん12月5にちみことのりれいだい265ごう)など。そのほか、琉球りゅうきゅうこく運天うんてんこう琉球りゅうきゅうこく国場こくばむら屯所とんしょ用地ようちといった地図ちず名称めいしょうにももちいられ、また、住所じゅうしょ一部いちぶ(「沖縄おきなわけん琉球りゅうきゅうこく…」のかたち)としてももちいられた(たとえば、古賀こがたつよんろうによる内務ないむ大臣だいじん明治めいじ28ねん6がつ10にちづけ官有かんゆう拝借はいしゃく御願ごがん」など)。
  4. ^ 本島ほんとうおよ久米島くめじまについては2009ねん7がつに、さきとうについては2010ねん9がつにそれぞれ発行はっこうされた。
  5. ^ 湯浅ゆあさたかし小島こじまみちひろし[資料しりょう紹介しょうかい] 石見いわみ亀井かめい文書ぶんしょ」『国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく = Bulletin of the National Museum of Japanese History』だい45かん国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん、1992ねんdoi:10.15024/00000589ISSN 02867400NAID 120005747901 
  6. ^ 三鬼みき清一郎せいいちろう朝鮮ちょうせんやくにおける国際こくさい条件じょうけんについて」『名古屋大学なごやだいがく文学部ぶんがくぶ研究けんきゅう論集ろんしゅう. 史学しがくだい21かん名古屋大学なごやだいがく文学部ぶんがくぶ、1974ねん、185-184ぺーじdoi:10.18999/jouflh.21.192ISSN 04694716NAID 120000976185 
  7. ^ あんりょうじょう盛昭もりあき琉球りゅうきゅう処分しょぶんろん」(桑原くわばら真人まさと我部がぶ政男まさおへん蝦夷えぞ琉球りゅうきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001ねん
  8. ^ なお、大東諸島だいとうしょとうはこの当時とうじ無人島むじんとうだったと推定すいていされている。
  9. ^ 新城しんじょう俊昭としあき高等こうとう学校がっこう 琉球りゅうきゅう沖縄おきなわ歴史れきし文化ぶんか 教科書きょうかしょ編集へんしゅう工房こうぼう東洋とうよう企画きかく2009ねん
  10. ^ 安良やすらじょう
  11. ^ 辺土名へんとなちょうゆう琉球りゅうきゅう処分しょぶん」(鹿野かの政直まさなお由井ゆい正臣まさおみへん近代きんだい日本にっぽん統合とうごう抵抗ていこう1』日本にっぽん評論ひょうろんしゃ1982ねん
  12. ^ 明治めいじ12ねん(1879ねん)4がつ4にち太政官だじょうかん布告ふこくだい14ごう琉球りゅうきゅうはんはい沖縄おきなわけんおけけん
  13. ^ 前略ぜんりゃく)『いん陸奥みちのくこくわり磐城いわき岩代いわしろ陸前りくぜん陸中りくちゅう陸奥みちのくこくためシ、出羽いずはこくわりまえ羽後うごこくためス』 【べい文夫ふみお, 今泉いまいずみ芳邦よしくに地名ちめい三陸さんりく地方ちほう」の起源きげんかんする地理ちりがくてきならびに社会しゃかいがくてき問題もんだい : 地名ちめい三陸さんりく」をめぐる社会しゃかい教育きょういくろんだい1ほう」『岩手大学いわてだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう年報ねんぽうだい54かんだい1ごう岩手大学いわてだいがく教育きょういく学部がくぶ、1994ねん、131-144ぺーじdoi:10.15113/00011572ISSN 0367-7370NAID 110000109138 
  14. ^ ウィキソース出典 蝦夷えぞ北海道ほっかいどうしょうじゅういちこく分割ぶんかつ國名こくめいぐんめいてい』。ウィキソースより閲覧えつらん 明治めいじ2ねん8がつ15にち太政官だじょうかん布告ふこく
  15. ^ 義富よしとみ(2007)
  16. ^ せんかまど処分しょぶんじょう』(せんかまど文書ぶんしょ
  17. ^ a b 高良こうら倉吉くらよし, 山里やまざと純一じゅんいち, 池田いけださかえ, 赤嶺あかみね政信まさのぶ, 狩俣かりまたしげるひさ, 真栄平まえひらぼうあきら, ゆたか見山みやま和行かずゆき, 鈴木すずき寛之ひろゆき研究けんきゅう報告ほうこくしょ琉球りゅうきゅう日本にっぽん本土ほんど遷移せんい地域ちいきとしてのトカラ列島れっとう歴史れきしてき位置いちづけをめぐる総合そうごうてき研究けんきゅう」『平成へいせい13・14・15年度ねんど科学かがく研究けんきゅう補助ほじょきん(基盤きばん研究けんきゅうB)研究けんきゅう成果せいか報告ほうこくしょ』、高良こうら倉吉くらよし、2004ねん3がつ 
  18. ^ みなむらたけいち 2006.
  19. ^ 鹿兒島かごしまけん國界こっかいなみぐんかい變更へんこう及郡はいおけ明治めいじ29ねん法律ほうりつだい55ごう 原文げんぶん
  20. ^ 明治めいじ12ねん4がつ8にち太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ通達つうたつ鹿児島かごしまけん管轄かんかつ大島おおしま喜界きかいとうとくしま沖永良部おきのえらぶとう与論島よろんとうヲ以テ大島おおしまぐんためシ,大隅おおすみこくぞくこうじょう,此旨布告ふこくこうごと

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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