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白旗はっき少女しょうじょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1945ねん6がつ25にちべい陸軍りくぐん戦闘せんとうカメラマンのジョン・ヘンドリクソンにより撮影さつえいされた比嘉ひか当時とうじ松川まつかわ富子とみこ

白旗はっき少女しょうじょ』(しらはたのしょうじょ)は、1945ねん6がつ太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき沖縄おきなわせんにおいて、アメリカぐんによって撮影さつえいされた写真しゃしんおよびその被写体ひしゃたいとなった女性じょせい[1]、さらにその女性じょせい比嘉ひか富子とみこ)が自身じしん体験たいけんもと執筆しっぴつした小説しょうせつである。小説しょうせつは、1990ねんにはフジテレビで、2009ねんにはテレビ東京てれびとうきょうで、それぞれテレビドラマされている。

ほん記事きじでは写真しゃしん撮影さつえいとそれが一般いっぱんられるようになり、比嘉ひか小説しょうせつ執筆しっぴつするにいたった経緯けいいについても説明せつめいする。

経緯けいい

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写真しゃしん撮影さつえい一般いっぱんへの周知しゅうち

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該当がいとう写真しゃしんは、沖縄おきなわせん終盤しゅうばんとなっていた1945ねん6がつ25にちに、アメリカぐんのジョン・ヘンドリクソンが撮影さつえいしたものである。おかっぱあたま少女しょうじょぼうさき白旗はっきをつけて様子ようすとらえられている。

この写真しゃしんは、沖縄おきなわせん研究けんきゅうたっていた大田おおた昌秀まさひでのち沖縄おきなわ県知事けんちじ)が調査ちょうさ研究けんきゅう過程かてい発見はっけん収集しゅうしゅうし、1977ねん刊行かんこうした『写真しゃしん記録きろく これが沖縄おきなわせんだ』(琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ)に掲載けいさいされた[2]

1984ねん、アメリカぐんによる沖縄おきなわせん記録きろく映画えいが募金ぼきんによってる「どもたちにフィルムをとおして沖縄おきなわせんつたえるかい」の「1フィート運動うんどう」でもたらされたフィルムに、この写真しゃしんおな場面ばめん撮影さつえいしたものがふくまれていることが判明はんめいし、テレビニュースなどで紹介しょうかいされる[2]。1986ねんからは運動うんどうあつめられたほかのフィルムとともに編集へんしゅうされた『沖縄おきなわせん 未来みらいへの証言しょうげん』が公開こうかいされた[2]。この映画えいがでは、少女しょうじょのちすうにん日本にっぽんへいがついてある様子ようすうつっており、「少女しょうじょたてにして投降とうこうしたのではないか」「兵士へいし少女しょうじょ白旗はっきってあるくことを強要きょうようしたのではないか」といった反応はんのうしめされた[2]。また、写真しゃしんとフィルムをもとにして創作そうさくされた絵本えほん『りゅうしろはた 沖縄おきなわいくさものがたり』(ぶん新川しんかわあきら儀間ぎま比呂志ひろし)が1985ねん刊行かんこうされている[2][ちゅう 1]

比嘉ひかによる名乗なの小説しょうせつ執筆しっぴつ

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1987ねん10がつ比嘉ひか富子とみこ自分じぶん白旗はっき少女しょうじょであると名乗なの[2]当時とうじ比嘉ひかは48さいで、沖縄おきなわタイムスのインタビューにおうじるかたちであった[2]。1988ねん6がつにはニューヨークでの「平和へいわだい行進こうしん」に参加さんか、そのさい自分じぶん撮影さつえいしたカメラマンにいたいというプラカードをかかげた[2]。7月に比嘉ひかはヘンドリクソンと再会さいかいたしている[2]

よく1989ねん講談社こうだんしゃから、子供こどもようのシリーズ「講談社こうだんしゃのノンフィクション」の1さつとして『白旗はっき少女しょうじょ』を刊行かんこうする。比嘉ひかほんの「あとがき」のなかで、映画えいが公開こうかい以来いらい日本にっぽんへい自分じぶんたてにしたかのような誤解ごかいけてきたことを残念ざんねんおもっていること、日本にっぽんへい直前ちょくぜんにたまたまべつみちから合流ごうりゅうしたためにのちつづかたちになっただけであることをしるしている[2]

小説しょうせつ白旗はっき少女しょうじょ

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挿絵さしえ依光よりみつたかし担当たんとう、その写真しゃしんおお収録しゅうろくされている。

冒頭ぼうとうは、主人公しゅじんこうニューヨーク平和へいわ行進こうしん参加さんかするところからはじまる。そこで彼女かのじょ写真しゃしんさがはじめた。その写真しゃしん面会めんかいするところから回想かいそうはいる。

彼女かのじょ当時とうじ松川まつかわ富子とみこ)はくびさとまれ、平和へいわらしていた。そこでは沖縄おきなわ伝統でんとうつよのこした生活せいかつのことがかたられている。そのなかで1944ねん昭和しょうわ19ねん)、ははくなる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)にはいよいよ沖縄おきなわ戦線せんせんちかづく。その4がつ1にち沖縄おきなわ本島ほんとう中部ちゅうぶにアメリカぐんかんほう射撃しゃげきくわえ、それとおもわれるおとくびさとにまでひびいた。それから1かげつすると、いえ周辺しゅうへんにも砲弾ほうだんがくるようになり、防空壕ぼうくうごう避難ひなんすることがおおくなった。5月10日とおかころ、父親ちちおやが「なにかあったら子供こどもたちで判断はんだんして行動こうどうするように」といいのこしていえて、これがちちとの別離べつりになった。

それから3にちって、通信つうしんたいちち安否あんぴたずねると、「それよりはやみなみ避難ひなんするよう」とわれ、兄弟きょうだい姉妹しまい4めい長姉ちょうし17さいあね13さいあに9さい本人ほんにん6さい11かげつ)は荷物にもつをまとめていえた。昼間ひるま洞穴どうけつなどにかくし、夜間やかんあるいた。まずはちち消息しょうそくたずねて真壁まかべくがやはり不明ふめいで、それ以降いこうてもなくとにかくみなみ移動いどうする。そのさなか、米須こめす一緒いっしょにいたあにながだまたって死亡しぼう、さらにみなみ移動いどうするさなか、主人公しゅじんこうあねたちとはぐれてしまう。それから彼女かのじょ1人ひとり避難ひなんぎょうつづけることになる。

夜道よみち逃亡とうぼうするさいあね2にんとはぐれてしまい、たった1人ひとりになった彼女かのじょにはたよりになるものはなにもない。記憶きおくのこっている肉親にくしん言葉ことばをたよりに戦場せんじょうをさまよう。必要ひつようなものはみず食料しょくりょうほか肉親にくしん愛情あいじょうである。ひとりでガマにはいっていこうとしてもはらわれてしまう。子供こどもおおきなこえしたりするため、てきへいねらわれてしまうからだ。

彼女かのじょちちっていたことをいろいろとおもしながら行動こうどうしている。「人間にんげんというものは、運命うんめいにあるときは、どこにいてもぬものだ。きるときは、どんな危険きけんにさらされても、きるものだ」という言葉ことばおもすと、砲弾ほうだん銃弾じゅうだんけるため、必死ひっし洞穴どうけつさがすことをやめて平気へいきそとあるまわったりする。ガマからガマへ「ネエネエ(おねえさんいる?)」とこえをかけてまわる。そのため「ヤナ、ウーマク、イナグワラビ(わるくて、きかんぼうのおんな)」という評判ひょうばんった。住民じゅうみんてきはアメリカぐんだけでなく、日本にっぽんぐんてきってもよい存在そんざいであった。日本にっぽんへい沖縄おきなわ人々ひとびとまもってはくれなかった。彼女かのじょ日本にっぽんへい軍刀ぐんとうりつけられようとさえした。んだ日本にっぽんへいはなんどもにしこわくはなかったが、きている日本にっぽんへいおそろしい存在そんざいだった。

動物どうぶつおしえられたこともなんかある。あり行列ぎょうれつつくっている場面ばめんくわすとそのさきなにかがあるのかをかんじる。見届みとどけようとさきすすむと、日本にっぽんへいたおれていて背負せおっているざつのうにありむらがっている。ざつのうのなか金平糖こんぺいとうつける。缶詰かんづめつけたときはかたらないままにいしえだ中身なかみしたりしている。ちいさないもかかえたネズミからそのいもをもらったこともある。砲弾ほうだんおびえたウサギをつけると、したしかったあに身代みがわりとして「ニイニイ」と名前なまえけてしばらくともにごす。彼女かのじょ愛情あいじょうえていたのだ。 そうして彼女かのじょおおくの戦死せんししゃ自殺じさつする兵隊へいたい集団しゅうだん自決じけつする住民じゅうみんなどをにしながらさまよい、あるガマでは日本にっぽんへいころされかける。一人ひとりきりでの移動いどうが1かげつほどになったとき、とあるガマにはいったところ、そこにはろう夫婦ふうふがこもっていた。その老人ろうじん両手りょうて両足りょうあしがなく、不自由ふじゆう老婆ろうばまわりの世話せわをさせ、その洞窟どうくつらしていた。かれらは彼女かのじょやさしくれ、彼女かのじょはここではじめてそのやすめることが出来できた。そのそとでは、戦闘せんとう刻一刻こくいっこくはげしくなっていた。彼女かのじょろう夫婦ふうふにここで一緒いっしょらして、一緒いっしょにたいとったが、それにたいして、いのち大切たいせつさやびることの価値かちかれる。数日すうじつ洞窟どうくつそとからアメリカぐんびかけがこえた。これからばくだんむから、そのまえ投降とうこうすることをびかけるものだった。老人ろうじん老婆ろうば指示しじし、自分じぶんふんどし白旗はっきつくらせ、そのはた彼女かのじょたせた。そして「世界中せかいじゅう約束やくそくだから、これをってれば大丈夫だいじょうぶだ」といいきかせ、自分じぶんたちをのこして1人ひとり投降とうこうするよううながした。

彼女かのじょはほかの住民じゅうみんじってすすんだ。1人ひとり米兵べいへいなにかをかまえ、こっちをねらうようにしているのをて、カメラのようだが、武器ぶきかもれないとおもいながら、かつてのちちわれた言葉ことばおもし、かおげ、笑顔えがおせた。彼女かのじょはほかの避難ひなんしゃ一緒いっしょになり、そこで2人ふたりあね再会さいかいした。1945ねん6月25にちのことだった。

テレビドラマ

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1990年版ねんばん

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1990ねん8がつ17にちの21:03 - 23:22 (JST) に、フジテレビ系列けいれつにて放送ほうそう

出演しゅつえん

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スタッフ

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2009年版ねんばん

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テレビ東京てれびとうきょう開局かいきょく45周年しゅうねん記念きねんドラマスペシャル・白旗はっき少女しょうじょ』(テレビとうきょうかいきょくよんじゅうごしゅうねんきねん ドラマスペシャル・しらはたのしょうじょ)として、同局どうきょく系列けいれつにて、2009ねん9月30にちの21:00 - 23:14に放送ほうそう沖縄おきなわでは琉球放送りゅうきゅうほうそうTBS系列けいれつ)にて同年どうねん11月3にち放送ほうそう

出演しゅつえん

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スタッフ

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おくれネット

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

  1. ^ この絵本えほんは1988ねんに『白旗はっき少女しょうじょ 琉子』としてアニメ映画えいがされている。

出典しゅってん

  1. ^ “(沖縄おきなわせんさいろく:10)あらわれた白旗はっき少女しょうじょ機関きかんじゅうおとやむ”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2016ねん6がつ23にち). オリジナルの2020ねん6がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.ph/waavm 2017ねん6がつ13にち閲覧えつらん 
  2. ^ a b c d e f g h i j なかほど昌徳まさのり沖縄おきなわせんをめぐる言説げんせつ - 「しろはた」の少女しょうじょをめぐって」『日本にっぽん東洋とうよう文化ぶんか論集ろんしゅうだい15ごう琉球大学りゅうきゅうだいがく、9–39ぺーじ、mar 2009。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:10281001https://hdl.handle.net/20.500.12000/99672022ねん9がつ27にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 比嘉ひか富子とみこ白旗はっき少女しょうじょ講談社こうだんしゃ、1989ねんISBN 4-06-204326-2

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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