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篠塚しのづか和典かずのり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠塚しのづか 和典かずのり篠塚しのづか 利夫としお
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 千葉ちばけん銚子ちょうし
生年月日せいねんがっぴ (1957-07-16) 1957ねん7がつ16にち(67さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
176 cm
68 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうひだり
ポジション 二塁手にるいしゅ
プロ 1975ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1977ねん8がつ5にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1994ねん10がつ26にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

篠塚しのづか 和典かずのり(しのづか かずのり、本名ほんみょうきゅう登録とうろくめい篠塚しのづか 利夫としお〈しのづか としお〉1957ねん昭和しょうわ32ねん7がつ16にち - )は、東京とうきょう豊島としままれ、千葉ちばけん銚子ちょうし出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅみぎとうひだり)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

愛称あいしょうは「シノ」「シノさん」。

経歴けいれき

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プロりまで

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千葉ちば県立けんりつ銚子ちょうし商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう2年生ねんせいとき1974ねん)、3年生ねんせいエース土屋つちや正勝まさかつようし、はるだい46かい選抜せんばつ)・なつだい56かい全国ぜんこく選手権せんしゅけん)の甲子園こうしえん大会たいかいに4ばん打者だしゃ三塁手さんるいしゅとして連続れんぞく出場しゅつじょうはる準々じゅんじゅん決勝けっしょう報徳ほうとく学園がくえんに2-1で惜敗せきはい[1]なつすべ圧勝あっしょう順調じゅんちょうすすみ、8がつ19にち決勝けっしょう防府ほうふしょうを7-0でくだなつ甲子園こうしえん同校どうこうはつ優勝ゆうしょうかざる。この大会たいかいから金属きんぞくバットがはつ導入どうにゅうされたが篠塚しのづかはプロ野球やきゅうすすんだとき適応てきおうできるようにのバットで打席だせきはい[2]、2本塁打ほんるいだはなった。

翌年よくねんなつ千葉ちば大会たいかい準決勝じゅんけっしょう小川おがわ淳司あつしのいた習志野ならしのだかに1-2で敗退はいたい習志野ならしのだかなつ甲子園こうしえん優勝ゆうしょう[3]し、2ねん連続れんぞく千葉ちば県勢けんせい優勝ゆうしょうした。

甲子園こうしえん優勝ゆうしょうのち湿性しっせい肋膜炎ろくまくえんにかかり3かげつあいだ入院にゅういん一時いちじ野球やきゅう生命せいめいまであやぶまれたものの半年はんとし復帰ふっきした。病室びょうしつでの静養せいようちゅうはベッドから天井てんじょうをめがけて延々えんえんとスローイングの練習れんしゅうおこない、指先ゆびさき感覚かんかくやしない、ひじかたおぼえた[4]当時とうじ巨人きょじん監督かんとくだった長嶋ながしま茂雄しげお見込みこまれ、1975年度ねんどドラフト会議かいぎにて巨人きょじんから1指名しめいけて入団にゅうだん高校こうこうの1学年がくねん後輩こうはい宇野うのまさるがいる[5]

元々もともと本人ほんにん入院にゅういんてすぐにプロりは体力たいりょくてききびしそうだとかんがえて高校こうこう卒業そつぎょう社会しゃかいじん野球やきゅう日本石油にほんせきゆげんENEOS)にすす方針ほうしんかためていたが、当時とうじ長嶋ながしま茂雄しげお監督かんとく球団きゅうだん幹部かんぶやスカウトが「体力たいりょくてき無理むり」と反対はんたいするのをって指名しめいめたことから入団にゅうだんいたった。長嶋ながしま篠塚しのづかの2年生ねんせいとき打撃だげきをテレビ中継ちゅうけいみ、指名しめい決意けついしたという。以来いらい篠塚しのづか引退いんたいまでのあいだ、「長嶋ながしまさんにはじをかかせられない」というおもいをプロ野球やきゅう生活せいかつにおける原動力げんどうりょくとした[4]のち篠塚しのづかいたところによると、長嶋ながしま篠塚しのづか入院にゅういんした病院びょういん電話でんわけ、篠塚しのづか病気びょうきかんなおしていることを確認かくにんしたうえで「球団きゅうだんわせてきたら、まだなおっていないとってくれませんか」とたのんだという[4]

現役げんえき時代じだい

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プロ2ねんの1977ねんはつ一軍いちぐん昇格しょうかく1979ねんには一軍いちぐん定着ていちゃくおも二塁手にるいしゅ遊撃手ゆうげきしゅとして18試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょう。1979ねんオフに地獄じごく伊東いとうキャンプ参加さんかした。1980ねんにはジョン・シピン二塁手にるいしゅてい位置いちあらそい、6がつにはレギュラーを奪取だっしゅして2ばん打者だしゃすわる。

1981ねん開幕かいまく当初とうしょは、藤田ふじたもとつかさ監督かんとくわりこのとしのルーキーであったはらたつとく二塁にるいまもったため出場しゅつじょう機会きかい減少げんしょう。しかし5がつには三塁手さんるいしゅ中畑なかはたきよし故障こしょうはら三塁さんるいまわり、篠塚しのづか二塁手にるいしゅのレギュラーに復帰ふっき以降いこうおもに3ばん打者だしゃにすわり、内野ないやじん固定こていされた。藤田ふじたたいら阪神はんしん)と首位しゅい打者だしゃあらそいし、ちょう接戦せっせんといわれるほどの打率だりつ勝負しょうぶをしつづ[6]最終さいしゅうてきにわずか1りんでタイトルをのがすものの自身じしん現役げんえき生活せいかつ歴代れきだいで.357という最高さいこう打率だりつ記録きろく[7]日本にっぽんハムファイターズとの日本にっぽんシリーズでは4試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょうだい5せんでは木田きだいさむから駄目押だめおしの3てん本塁打ほんるいだはなち、最終さいしゅうだい6せんではあいだしばしげるゆうから2かい先制せんせい適時てきじ勝利しょうり打点だてん記録きろくした。1973ねん最後さいごのV9以来いらい、8ねんぶりの日本一にっぽんいち貢献こうけん

1982ねん、9月15にち後楽園こうらくえん球場きゅうじょう開催かいさいされた中日ちゅうにちドラゴンズとの23回戦かいせん無死むしいち二塁にるい場面ばめんおくりバントをしたさい相手あいて投手とうしゅかく源治げんじ三塁さんるいあく送球そうきゅうし、外野がいやころがったがそのボールを左翼さよくしゅ大島おおしま康徳やすのりがトンネルし、さらに大島おおしまいかけてったボールが三塁手さんるいしゅ中継ちゅうけいされ本塁ほんるいげたが、捕手ほしゅ中尾なかお孝義たかよしそこない、そのあいだ打者だしゃ走者そうしゃ篠塚しのづかもホームインした(記録きろくじょう失策しっさくであったがランニング本塁打ほんるいだのような出来事できごとだった)[8]。このプレーはフジテレビけい番組ばんぐみトリビアのいずみ素晴すばらしきムダ知識ちしき』で紹介しょうかいされ、どう番組ばんぐみのVTRに篠塚しのづか本人ほんにんていないものの、補足ほそくトリビアで「あの守備しゅびはプロとしてずかしいプレー。あってはならないことだとおもう」とコメントしている[8]

1984ねん打率だりつ.334、12本塁打ほんるいだおう監督かんとく1ねんのシーズンに自身じしんはつ首位しゅい打者だしゃかがやく。二塁打にるいだ35も最多さいただった。このとしウォーレン・クロマティはつ来日らいにちしたが、3ばん篠塚しのづか、4ばんはら、5ばんレジー・スミス、6ばんクロマティ、7ばん中畑なかはたという打順だじゅんおお採用さいようされた。

1987ねん広島ひろしま正田しょうだ耕三こうぞう同率どうりつで2度目どめ首位しゅい打者だしゃった。同率どうりつでの首位しゅい打者だしゃはセ・リーグでははつ出来事できごとであった。りょうリーグをわせても1969ねん東映とうえい張本ちょうほんくん近鉄きんてつ永淵ながふち洋三ようぞうにつぐ2度目どめ。いずれも打率だりつは.333だった。正田しょうだとはおな二塁手にるいしゅで、ベストナインが注目ちゅうもくされたが、チーム順位じゅんい安打あんだすう本塁打ほんるいだすう上回うわまわ篠塚しのづか受賞じゅしょうした。

1987ねん10月18にち吉村よしむらただしあきらの30ごうが「2ストライク4ボールからの本塁打ほんるいだ」だったが、中畑なかはたきよし談話だんわによると、日本にっぽんシリーズまえにした消化しょうか試合しあい吉村よしむら打席だせきにはだれ興味きょうみがなく、ベンチで異変いへんづいた選手せんしゅ篠塚しのづかひとりだったという。その西武せいぶとの日本にっぽんシリーズでは最後さいご打者だしゃとなったが、このとし最後さいご後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでの試合しあい開催かいさい終了しゅうりょうしたため、後楽園こうらくえん球場きゅうじょうにとっても最後さいご打者だしゃとなった。日本にっぽんシリーズは西武せいぶに2しょう4はい敗退はいたいしたが篠塚しのづかは22打数だすう9安打あんだ3打点だてん1本塁打ほんるいだ記録きろくで、シリーズ敢闘かんとうしょう獲得かくとくしている。

線審せんしんはい審判しんぱん6にんせいから4にんせいになった1990ねん開幕かいまくせんヤクルトに1たい3とけていた8かいうら好投こうとうつづけていた内藤ないとう尚行なおゆきから右翼うよくポールぎわへの飛球ひきゅうはなち、一塁いちるい審判しんぱん本塁打ほんるいだ判定はんていした。そのとしのバラエティ番組ばんぐみ上記じょうき疑惑ぎわく本塁打ほんるいだについてコメントをもとめられ「あれはファウルでしたね」と発言はつげんしている。原因げんいんはポールがボールと類似るいじしょくしろ塗料とりょうられていたため判定はんてい非常ひじょうにわかりづらかったことであり、このけんのち東京とうきょうドームのポールはしろのちにオレンジに再度さいど変更へんこう)にえられた。

晩年ばんねん1990ねんから1993ねんまでは持病じびょう腰痛ようつう悪化あっかなどもあり、若手わかて緒方おがた耕一こういち二塁にるいまも機会きかいおおくなったことなどから300打席だせき前後ぜんこう出場しゅつじょうとなった。1991ねん8がつには出場しゅつじょう機会きかい減少げんしょうたいしての不満ふまんから「必要ひつようじゃなければトレードにしてほしい」とある夕刊ゆうかんにて発言はつげん、19にち球団きゅうだんから首脳しゅのうじん批判ひはん言動げんどう理由りゆう厳重げんじゅう注意ちゅうい罰金ばっきん100まんえん処分しょぶんけた[9]

1992ねん6がつ30にちから名前なまえを「利夫としお」から「和典かずのり」にえた。「『利夫としおという名前なまえには分裂ぶんれつ分離ぶんり意味いみがある』ということでいのうち気功きこう先生せんせいからすすめられた」という[10][11]

1993ねんは、66試合しあい打率だりつ.337、4本塁打ほんるいだ、23打点だてん記録きろく。5月15にち広島ひろしませんで1991ねん7がつ以来いらい2ねんぶりの本塁打ほんるいだとなる自身じしん通算つうさん3ほん満塁まんるい本塁打ほんるいだ[12]。6月9にちたいヤクルトせん石川いしかわ県立けんりつ野球やきゅうじょう)では、8かい2/3まで失点しってん、16だつ三振さんしん当時とうじセ・リーグタイ記録たいきろく)の投球とうきゅうつづけていた当時とうじのルーキー伊藤いとう智仁ともひとから9かい二死にしからのサヨナラ本塁打ほんるいだはなった[13]。この試合しあいはスタメンをはずれており、ベンチから伊藤いとう投球とうきゅうて「みんな、スライダーかフォークでやられている」と観察かんさつしていた。当時とうじおさやくだった石毛いしげ博史ひろふみがブルペンで投球とうきゅう練習れんしゅう開始かいしすると、打席だせきってらした。9かいひょう二塁手にるいしゅとして途中とちゅうから出場しゅつじょうし、そのうらはつ打席だせきむかえた。間合まあいをるために2打席だせきはずしたが、そのあいだに「なにかグッとくるものがあった」とい、伊藤いとう初球しょきゅう右中間うちゅうかんスタンドへはこんだ[13]

1994ねん持病じびょう腰痛ようつう悪化あっか影響えいきょうもあり57試合しあい出場しゅつじょうして打率だりつ.238、2本塁打ほんるいだ、13打点だてん成績せいせきにとどまる。シーズン終了しゅうりょう現役げんえき続行ぞっこう引退いんたいするかでなやむが、チーム事情じじょう今後こんご自分じぶん野球やきゅう人生じんせいかんがえ、「過去かこにしがみつくよりしまれながらやめたい」として、このとしかぎりでの現役げんえき引退いんたいめた[14]

引退いんたい

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引退いんたい巨人きょじん一軍いちぐん打撃だげきコーチ、一軍いちぐん内野ないや守備しゅびコーチ、一軍いちぐん内野ないや守備しゅび走塁そうるいコーチ、一軍いちぐん総合そうごうコーチを歴任れきにん2004ねんから2005ねんまでは日本にほんテレビアール・エフ・ラジオ日本にっぽん野球やきゅう解説かいせつしゃ日刊にっかんスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんつとめた。

2006ねん巨人きょじん内野ないや守備しゅび走塁そうるいコーチに就任しゅうにん2007ねんから2010ねんまで打撃だげきコーチをつとめた。また、イチローの中前ちゅうぜん安打あんだ勝負しょうぶけっした、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本にっぽん代表だいひょう打撃だげきコーチも兼任けんにんした。

2011ねんからはふたた日本にほんテレビ、ラジオ日本にっぽん野球やきゅう解説かいせつしゃ日刊にっかんスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんなどをつとめている。2012ねん1がつには韓国かんこくプロ野球やきゅうLGツインズ臨時りんじコーチをつとめた。

人物じんぶつ

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プレースタイル

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たくみなバットコントロールと華麗かれい守備しゅびらし、"芸術げいじゅつてき"とわれるプレーで、シーズン打率だりつ3わり以上いじょうを5ねん連続れんぞくふくめて7かい記録きろく通算つうさん打率だりつも.304と3わりえている。年間ねんかん失策しっさくかずわずか2かいのみのとしがあるなど、守備しゅび機会きかいおおゆうあいだ選手せんしゅとしては驚異きょういてきであった。1981ねんきょじんではおもに3ばん打者だしゃや2ばん、6ばん打者だしゃ晩年ばんねんは1ばん打者だしゃ打順だじゅんになった。1981ねんの.357というこう打率だりつ巨人きょじん日本人にっぽんじん野手やしゅとして1973ねんおう貞治さだはる(.355)、1961ねん長嶋ながしま(.353)の記録きろくしのぐ、こう打率だりつであった(1951ねん川上かわかみ哲治てつじは91試合しあいで.377)。ただし本塁打ほんるいだは、最多さいたとしでも13ほん通算つうさんでも100ほんたない。打順だじゅんならともかく3ばん打者だしゃとしては、長打ちょうだりょく物足ものたりなかった(どう時代じだいたタイプで、おもに3ばんになった打者だしゃとして若松わかまつつとむがいるが、こちらは20本塁打ほんるいだ以上いじょうったとしが2り、通算つうさんでも220ほんっている)。

高校こうこう時代じだいはスラッガーだったが、肋膜炎ろくまくえんわずらったことで巨人きょじん以外いがい球団きゅうだん指名しめい回避かいひされ、さらに細身ほそみからだをカバーするため阪神はんしん藤田ふじたたいらのバッティングを参考さんこうにし、その藤田ふじたとは首位しゅい打者だしゃあらそった[ちゅう 1]

長打ちょうだねらうバッティングに瞬時しゅんじえたり、広角こうかく打球だきゅうあやつ器用きよう選手せんしゅで、すすむ塁打るいだてたものの、バントなどをものにしてはいなかったため、制約せいやくのある2ばん打者だしゃまかされた1985ねん・1986ねん打率だりつ.307、.291と成績せいせきとしている。1985ねん犠打ぎだ26を記録きろくした。ぎゃくに、自由じゆうたかかった1984ねんには.334で首位しゅい打者だしゃ獲得かくとく。1987ねん首位しゅい打者だしゃ獲得かくとくもチームは優勝ゆうしょうしている。規定きてい打席だせきには9かい到達とうたつしているが、腰痛ようつうちであり、夏場なつばなどにスタメンをはずれていた。最後さいご規定きてい打席だせき到達とうたつした1989ねんには、梅雨つゆに10すう試合しあいスタメンをはずれている。1982ねん、1984ねん、1985ねん、1986ねんは520打席だせき以上いじょうをクリアしており(当時とうじは130試合しあいせい)、チームの選手せんしゅなかもっとおお打席だせきっていたとしもある。

公式こうしきせん通算つうさん打率だりつは.304を記録きろくしており、オールスターせんでの通算つうさん打率だりつも.327(55打数だすう18安打あんだ)をのこしている。日本にっぽんシリーズでも1987ねん打率だりつ.409を記録きろくするなどしているものの、シリーズ通算つうさん打率だりつは.292(106打数だすう31安打あんだ)で、あと1ほん安打あんだはなっていれば、公式こうしきせん、オールスターせん日本にっぽんシリーズすべてで通算つうさん打率だりつ3わり達成たっせいできていた(この記録きろく達成たっせいしている選手せんしゅ日本にっぽんプロ野球やきゅうでは2012ねん時点じてん記録きろくでは長嶋ながしま茂雄しげお鈴木すずきしょうてんのみであった)。

選手せんしゅ生活せいかつとおしては2けた本塁打ほんるいだシーズンが2かいのみ、通算つうさん本塁打ほんるいだりつ日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょう通算つうさん打率だりつ上位じょうい30すぐる(4000打数だすう以上いじょう、2019ねん現在げんざい14)では最小さいしょう数字すうじとなっている。一方いっぽう二塁打にるいだについては1980年代ねんだい中畑なかはたはらしのぎチーム最多さいたであり、典型てんけいてき中距離ちゅうきょり打者だしゃとして一貫いっかんした選手せんしゅ生活せいかつであった。

その

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槙原まきはらひろしおのれにスライダーをおしえたという逸話いつわのこっている。1986ねん槙原まきはら試合しあいまえ投球とうきゅう練習れんしゅうをしていたところ、篠塚しのづかもそこであそびで投球とうきゅうはじめ、スライダーをげた。そのスライダーをすごいとおもった槙原まきはら篠塚しのづかにぎかたおそわり、そのにぎりでためしにげてみると「おどろくほどよこすべるようなかんじでがった」という[15]。それまでストレート主体しゅたい一本いっぽん調子ちょうしで、おう監督かんとく時代じだいバックスクリーン3連発れんぱつや9連勝れんしょうストップなど勝負しょうぶどころでよい結果けっかのこせなかった槙原まきはらが、その完全かんぜん試合しあい達成たっせいしたり、西武せいぶたお日本にっぽんシリーズMVPにかがやくなど投球とうきゅうはばひろげるきっかけのひとつになったとわれている。

コーチとして

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試合しあいまえ練習れんしゅう風景ふうけいでは、監督かんとくはらたつとく打撃だげきコーチの村田むらた真一しんいち若手わかて中堅ちゅうけん選手せんしゅ担当たんとうしているのにたいして、不調ふちょう小笠原おがさわらみちだいアレックス・ラミレスなどの主軸しゅじく打者だしゃ笑顔えがおでトスバッティングの相手あいてつとめる様子ようすうつっている。また、2010ねんシーズン前半ぜんはん打撃だげき不振ふしんおちいっていたエドガー・ゴンザレスは、7がつまつごろから好調こうちょうになったことについて8がつ13にちたい横浜よこはま戦後せんごヒーローインタビューわれたさいに、「篠塚しのづかコーチとの打撃だげき練習れんしゅうがいいがたむすんでいる」とかたった。結果けっかてき篠塚しのづかコーチ時代じだいにはチーム打率だりつつねにリーグ上位じょういだった。コーチ時代じだいには、高橋たかはしゆかりしん阿部あべまことこれすけおか智宏ともひろ坂本さかもと勇人はやと亀井かめい義行よしゆき長野ながの久義ひさよしらの選手せんしゅそだっていったがいずれも打率だりつく、スランプ指導しどうなどをしていた。

打撃だげき理論りろん指導しどう理論りろんは、理想りそうのフォームを綿密めんみつかためたうえで、準備じゅんびととのえ、シンプルに「たまつ」というスタイルである。

長嶋ながしまだい2時代じだいにはながらく内野ないや守備しゅびコーチを担当たんとうしていた。はらだい1時代じだい総合そうごうコーチを担当たんとうはらとも攻撃こうげきめん作戦さくせんめん統括とうかつしていた。

用具ようぐ

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現在げんざいでも篠塚しのづか使つかっていたバット、グラブなどを基本きほんにして自分じぶんモデルとして使用しようしているプロ選手せんしゅすくなくなく、もと横浜よこはま石井いしい琢朗たくろうもと中日ちゅうにち立浪たつなみ和義かずよしひだりのアベレージヒッターのおおくは影響えいきょうけたとかたっている。とくイチロー篠塚しのづかモデルのバットをほとんど修正しゅうせいすることなく使用しようしていた[16][17][18]立浪たつなみは、少年しょうねん時代じだいあこがれた選手せんしゅ篠塚しのづかで、1ねんの1988ねんに、巨人きょじんせん出塁しゅつるいしたさい二塁にるいベースじょうで「篠塚しのづかさんのバットをください」とこえをかけたところ、篠塚しのづかはこれにこたえ、試合しあい中日ちゅうにちベンチにとどけたという逸話いつわもある。(このときのバットは、引退いんたい自宅じたくかざってあると後年こうねんかたっている。)グラブは素手すでつかむのにちかいようにちいさめのものを愛用あいようし、その感覚かんかく大事だいじにして手袋てぶくろはせずに使用しようしていた。そのためあせいたんでしまいすうねんごとにえていたという。

家族かぞく

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おもに1950年代ねんだい活躍かつやくした映画えいがプロデューサーの三上みかみさとし丹波たんば哲郎てつろう上原うえはらけん金子かねこ信雄のぶお高島たかしま忠夫ただおらと親交しんこうがあった)と女優じょゆう折原おりはら啓子けいこつま父母ちちははで、俳優はいゆう三上みかみ博史ひろふみつまのいとこにあたる。長男ちょうなん篠塚しのづかむべせい青山学院大学あおやまがくいんだいがく在籍ざいせきしたのち、2012ねんはるから社会しゃかいじん野球やきゅうHonda所属しょぞく。2012ねん4がつ9にち神宮じんぐうでのHonda vs 立教大学りっきょうだいがくせんで、ルーキーとして2てんリードの7かい代打だいだ登場とうじょうし、3きゅう直球ちょっきゅう右翼うよくスタンドへ社会しゃかいじんはつ本塁打ほんるいだはなった。おなじくみぎとうひだり二塁手にるいしゅ。2020ねん11月の都市とし対抗たいこうで、日本一にっぽんいちに。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1977 巨人きょじん 18 26 24 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0 .208 .269 .208 .478
1978 3 7 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .286 .286 .286 .571
1979 76 97 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 0 0 14 7 .278 .323 .444 .767
1980 115 351 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 22 0 1 31 9 .260 .309 .378 .687
1981 116 457 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 29 6 1 39 9 .357 .400 .468 .868
1982 124 523 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 35 3 3 32 10 .315 .361 .441 .802
1983 115 473 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 38 1 1 42 8 .307 .362 .458 .819
1984 126 524 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 51 2 2 49 7 .334 .402 .497 .899
1985 122 538 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 42 1 3 45 6 .307 .367 .408 .775
1986 128 529 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 2 0 54 8 .291 .320 .404 .724
1987 115 454 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 14 0 1 52 8 .333 .353 .455 .808
1988 116 456 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 29 3 2 31 12 .316 .362 .408 .770
1989 119 494 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 20 3 2 38 9 .291 .322 .395 .716
1990 71 253 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 15 1 1 27 5 .284 .329 .405 .734
1991 97 328 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 32 3 1 49 4 .266 .338 .343 .681
1992 67 257 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 3 0 35 4 .266 .305 .307 .612
1993 66 226 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 13 0 2 21 4 .337 .379 .433 .812
1994 57 161 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 9 2 1 15 5 .238 .285 .313 .598
通算つうさん:18ねん 1651 6154 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 394 30 21 580 115 .304 .351 .415 .766
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 37(1976ねん - 1978ねん
  • 6(1979ねん - 1994ねん
  • 81(1995ねん - 2003ねん、2006ねん - 2010ねん

登録とうろくめい

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  • 篠塚しのづか 利夫としお(しのづか としお、1976ねん - 1992ねん6がつ30にち
  • 篠塚しのづか 和典かずのり(しのづか かずのり、1992ねん7がつ1にち - )

関連かんれん情報じょうほう

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著書ちょしょ

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  • 熱球ねっきゅう悲願ひがん あらしをこえて(1981ねん恒文社こうぶんしゃ
  • ミスターがくれた19ねん(1995ねん、ベースボールマガジンしゃ
  • プロがおしえるバッティング入門にゅうもん(2002ねん大泉おおいずみ書店しょてん
  • 6さいからの広角こうかくほう(2007ねん、MCプレス)
  • 篠塚しのづか和典かずのり ながちの極意ごくい(2013ねん、ベースボールマガジンしゃ
  • 篠塚しのづか和典かずのりおしえる広角こうかくほう(2019ねん日東にっとう書院しょいん本社ほんしゃ

シングル

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  • RAINY HEART/黄昏たそがれにもう一度いちど(1988ねん1がつバップ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 2007ねん小学生しょうがくせいへの指導しどう経験けいけんから出版しゅっぱんした「6さいからの広角こうかくほう」という指導しどうしょでは、当初とうしょは「阪神はんしんファンだったので藤田ふじたたいらさんにあこがれていた」としている。

出典しゅってん

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  1. ^ 選抜せんばつ高等こうとう学校がっこう野球やきゅう大会たいかい60ねん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃへん 1989ねん
  2. ^ 長嶋ながしま監督かんとくじきでんして病院びょういんに“懇願こんがん”…もときょじん篠塚しのづか入団にゅうだん左右さゆうした高校こうこう時代じだい入院にゅういん秘話ひわ(1/3ページ) Full-Count 2020ねん10がつ20日はつか(2021ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  3. ^ 全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい70ねん朝日新聞社あさひしんぶんしゃへん 1989ねん
  4. ^ a b c 長嶋ながしま監督かんとくじきでんして病院びょういんに“懇願こんがん”…もときょじん篠塚しのづか入団にゅうだん左右さゆうした高校こうこう時代じだい入院にゅういん秘話ひわ(2/3ページ) Full-Count 2020.10.20 (2021ねん8がつ22にち閲覧えつらん)
  5. ^ (2ページ)宇野うのまさる本人ほんにんかたった! 「ヘディング事件じけん」や「かけぬのとのHRおうあらそい」の真相しんそう」『AERA dot.』2020ねん6がつ12にち。2024ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん
  6. ^ いまでもやぶられていない「6いと」の首位しゅい打者だしゃあらそい いち34
  7. ^ 【あのめい場面ばめん裏側うらがわ】G戦士せんしへん はつのクリーンアップでもうしょうめい選手せんしゅ篠塚しのづか誕生たんじょう 「二塁にるいはらまり」の絶望ぜつぼうかんやぶる (1/3ページ) - zakzak:夕刊ゆうかんフジ公式こうしきサイト
  8. ^ a b フジテレビトリビア普及ふきゅう委員いいんかい『トリビアのいずみ〜へぇのほん〜 11』講談社こうだんしゃ、2005ねん
  9. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1991ねん8がつ20日はつか21めん巨人きょじん篠塚しのづか罰金ばっきんひゃくまんえん読売新聞よみうりしんぶん1991ねん8がつp.853
  10. ^ 日刊にっかんスポーツ1992ねん7がつ1にち2めん
  11. ^ 別冊べっさつベースボール『よみがえる1990年代ねんだいのプロ野球やきゅう PART9 1992ねんへん』(2021ねん10月刊げっかん)76ぺーじ
  12. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1993ねん5がつ16にち21めん内角ないかくだまにマトみがズバリ」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1993ねん5がつp.579
  13. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん1993ねん6がつ10日とおか17めん「SBO たった1きゅう失投しっとう 9かい二死にし篠塚しのづかのがさず」読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1993ねん6がつp.457
  14. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1994ねん11月16にち18めん「『しまれてやめます』篠塚しのづか読売新聞よみうりしんぶん縮刷しゅくさつばん1994ねん11月p.776
  15. ^ 槙原まきはらひろしおのれ『パーフェクトとKOのあいだ ここ一番いちばん投球とうきゅう心理しんり』カッパ・ブックス、2002ねん、p.114
  16. ^ 【イチローのあこがれ&おどろ秘話ひわ本物ほんもののプロはここまでこだわる!バット・グローブろん篠塚しのづかモデル】【篠塚しのづか和典かずのりさん4/5】
  17. ^ 【vol.6】イチローのバットの起源きげん バットのにぎりにかくされた秘密ひみつとは
  18. ^ かずある角材かくざいなかから、良質りょうしつ一本いっぽんえらく。イチローがメジャーで3000かいひびかせてきた快音かいおんは、バット職人しょくにん妥協だきょうなき姿勢しせいんだものだった。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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