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きのれい

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きのれい
呂布の轅門射戟によって引き下がらされる紀霊
りょぬのながえもんしゃ戟によってがらされるれい
こうかんなか王朝おうちょう
拼音 Jì Líng
主君しゅくん 袁術
テンプレートを表示ひょうじ

きの れい(き れい、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき武将ぶしょう

正史せいし事跡じせき

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袁術配下はいか。『三国志さんごくししょりょぬのつてによると、たてやすし元年がんねん196ねん)、りょぬのりゅうからしもうばったため、りゅう備はりょぬのってしょう沛に駐屯ちゅうとんした。それをた袁術は、きのれいに3まんぐんひきいさせ、りゅう備を攻撃こうげきさせた。

りょぬのは、袁術がもしりゅう備をほろぼしたならば、臧覇らとむすんで自分じぶん包囲ほういしようとたくらむであろうと見抜みぬき、きのれいりゅう備の仲裁ちゅうさいた。りょぬのれいたいし、ながえもん軍門ぐんもんのこと、ながえもん袁門けている)の地面じめんした戟の小枝さええびす)にてたらぐんげよ、ともうわたし、見事みごとそこにてた。れい約束やくそくによりむをへいいたが、その動向どうこう不明ふめいである。

演義えんぎにおけるきのれい

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、山東さんとう出身しゅっしんとの設定せっていで、おもさ50きんやく11キロ)におよぶさんとんがかたな使つかとして登場とうじょうする。りゅう備軍との攻防こうぼうでは、せきはねとのいちで30ごうあまう。しかしれい休憩きゅうけい提案ていあんし、のち再戦さいせんもとめるせきもう拒絶きょぜつしている。わりに副将ふくしょう荀正すが、1ごうかんられてしまう。その結果けっかきのれいぐん進軍しんぐん停止ていし余儀よぎなくされ、りゅう備軍も戦力せんりょく不足ふそくから積極せっきょくてき攻勢こうせいこと出来できず、戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたいになる。そのりょぬの反乱はんらんわせた袁術の謀略ぼうりゃくにより、こうじゅんともりゅう備の挟撃きょうげきはかるも失敗しっぱいし、りゅうつぶさ逃亡とうぼうゆるすこととなる。りゅう備は講和こうわしたりょぬのしたびている。

りゅう備がりょぬのによってしょう沛にいやられたときに、ふたたび袁術の命令めいれいりゅう備を攻撃こうげきするが、正史せいし同様どうようりょぬの仲裁ちゅうさいにより撤退てったいしている。激怒げきどする袁術に、袁術の息子むすこりょぬのむすめ縁談えんだん献策けんさくりょぬのぐんちんみや思惑おもわくとも合致がっちするが、この縁談えんだん曹操そうそうりゅう備方に密通みっつうするちんさくにより頓挫とんざする。その、袁術のじょしゅうおやせいにはゆうぐんひきいて参加さんかするが、裏切うらぎった楊奉かん撃破げきはされてしまう。

やがて袁術がみかど僭称せんしょうし、敗戦はいせん暴政ぼうせいのため人心じんしんうしな孤立こりつすると、おおくの配下はいかは袁術を見限みかぎなかで、最後さいごまで袁術にしたがっている。しかし、袁術が領土りょうど袁紹したびる途中とちゅう曹操そうそうから追討ついとうめいじられたりゅう備軍とたたかい、ちょうとの一騎討いっきうちちで10ごうあまわたったのちられてしまっている。前半ぜんはんあれだけの強者きょうしゃとしてえがかれているが、後半こうはん完全かんぜんちょう武勇ぶゆうてるやくにまわされている。

参考さんこう文献ぶんけん

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