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せい神社じんじゃ (秩父ちちぶ)

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せい神社じんじゃ

拝殿はいでん
所在地しょざいち 埼玉さいたまけん秩父ちちぶ黒谷くろたにかんひとし2191
位置いち 北緯ほくい3603ふん00.3びょう 東経とうけい13906ふん09.3びょう / 北緯ほくい36.050083 東経とうけい139.102583 / 36.050083; 139.102583 (せい神社じんじゃ (秩父ちちぶ))座標ざひょう: 北緯ほくい3603ふん00.3びょう 東経とうけい13906ふん09.3びょう / 北緯ほくい36.050083 東経とうけい139.102583 / 36.050083; 139.102583 (せい神社じんじゃ (秩父ちちぶ))
主祭しゅさいしん 金山かなやま彦命
くにつねたてみこと
大日だいにち孁貴みこと
かみ日本にっぽんいわあまり彦命
元明もとあききんいのち
社格しゃかくひとし きゅう村社そんしゃ神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしん神社じんじゃ
創建そうけん つて 和銅わどう元年がんねん(708ねん
本殿ほんでん様式ようしき 一間いっけんしゃ流造ながれづくりどう板葺いたぶき
例祭れいさい 4がつ13にち
おも神事しんじ 黒谷くろたに獅子舞ししまい(4がつ13にち・11月3にち
地図ちず
聖神社の位置(埼玉県内)
聖神社
せい神社じんじゃ
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せい神社じんじゃ(ひじりじんじゃ)は、埼玉さいたまけん秩父ちちぶ黒谷くろたに鎮座ちんざする神社じんじゃである。秩父盆地ちちぶぼんち中央ちゅうおうややきたりにそびえる簑山みのやまから南西なんせいにかけてびた支脈しみゃくである和銅わどうさん山麓さんろく鎮座ちんざし、簑山みのやま水源すいげんとするかわ流下りゅうかする社前やしろまえ和銅わどうさわ旧称きゅうしょうどうあらいさわ)としょうされている。西暦せいれき708ねんけいくも5ねん)に自然しぜんどう発見はっけんされ、和銅わどう改元かいげん和同開珎わどうかいちん鋳造ちゅうぞう契機けいきとなった神社じんじゃとされる。きゅう村社そんしゃ

祭神さいじん

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金山かなやま彦命くにつねたてみこと大日だいにち孁貴みことてんあきら大神おおがみかみ日本にっぽんいわあまり彦命(神武じんむ天皇てんのうの4はしら元明もとあききんいのち(げんめいかがねのみこと。当初とうしょは「はじめあかがねのみこと」とまれた可能かのうせいもある。元明もとあき天皇てんのう)を合祀ごうしする。

なお、境内けいだい石碑せきひには『…当社とうしゃはこの歴史れきしてき由緒ゆいしょある「自然しぜんどう主神しゅしん」としてまつり、さら金山かなやま彦命、元明もとあききんいのち合祀ごうしし…』たとある。

和同開珎わどうかいちんゆかりの神社じんじゃということから「ぜに神様かみさま」ともばれ、きむはこぶ隆昌りゅうしょう利益りえきにあやかろうという参拝さんぱいしゃおおい。

由緒ゆいしょ

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だい43だい元明もとあき天皇てんのう時代じだいに、武蔵むさしこく秩父ちちぶぐんから日本にっぽんはじめてこう純度じゅんど自然しぜんどう(ニギアカガネ、和銅わどう)が産出さんしゅつし、けいくも5ねん708ねん正月しょうがつ11にち郡司ぐんじつうじて朝廷ちょうてい献上けんじょうされた。これをよろこんだ朝廷ちょうてい同日どうじつに「和銅わどう」と改元かいげんし、多治比たじひ真人しんじん三宅みやけ麻呂まろ鋳銭司すぜんじ任命にんめいして、和同開珎わどうかいちん鋳造ちゅうぞうさせた[1]。この和銅わどう発見はっけんとう神社じんじゃ周辺しゅうへんであるとつたわる。

しゃでんによれば、当地とうちでは自然しぜんどう発見はっけん祈念きねんして和銅わどう沢上さわかみりゅう祝山ほりやま(はうりやま)にかみませて、この自然しぜんどう神体しんたいとして金山かなやま彦命をまつった。

どう献上けんじょうけた朝廷ちょうていは、銅山どうざん検分けんぶんどう採掘さいくつ鋳造ちゅうぞう監督かんとくさせるために三宅みやけ麻呂まろらを勅使ちょくしとして当地とうち派遣はけんし、とも盛大せいだい祝典しゅくてんげた。和銅わどう元年がんねん(708ねん)2がつ13にち清浄せいじょうであるとしてげん社地しゃちかみませうつすと、採掘さいくつされた和銅わどう13かたまり以下いか自然しぜんどうを「和銅わどう」としるす)を内陣ないじん安置あんちし、金山かなやま彦命とくにつねたてみこと大日だいにち孁貴みことかみ日本にっぽんいわあまり彦命の4はしら神体しんたいとし、三宅みやけ麻呂まろ天皇てんのうから下賜かしされ帯同たいどうしたどうせい百足むかで雌雄しゆう1ついおさめたのがそうまつである。のち元明もとあき天皇てんのうもとあかりきんいのちとして合祀ごうしし「父母ちちはは惣社そうしゃ」としょうしたとつたわる[2]

ひじりみや記録きろくひかえ』(きた谷戸たんど文書ぶんしょ)によると、内陣ないじんおさめた神体しんたい石板せきばん2たい和銅わどうせき13かたまり百足むかで1つい紛失ふんしつふせぐため、寛文ひろふみ年間ねんかんからきた谷戸たんど土蔵どぞうにて保管ほかんされた。1953ねん昭和しょうわ28ねん)のれい大祭たいさいあわせて挙行きょこうされた元明もとあき天皇てんのう合祀ごうし1230ねんさい神寶しんぽううつりかえ奉告ほうこくさいさいし、これらは神社じんじゃ宝蔵ほうぞううつりかえされたが[3]現存げんそんする和銅わどうは2かたまりのみである[4]

秩父ちちぶぐんからの和銅わどう献上けんじょう記録きろくする『ぞく日本にっぽんとうでは、産出さんしゅつについて「秩父ちちぶぐん」とのみしるされ、つまり以降いこう具体ぐたいてき地名ちめいしるさないため、その地点ちてん当地とうちであったとはかぎらない。地質ちしつがくじょう秩父盆地ちちぶぼんち一帯いったいにかけてその可能かのうせいがあったと考察こうさつされている[5][6]

だが、とう神社じんじゃ周辺しゅうへんには中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて使用しようされた和銅わどう選鉱せんこうじょうせいところあとがあり(指定してい史跡しせき黒谷くろたにどうせいところ[7]平坦へいたんには埋没まいぼつした鉱石こうせき破片はへん散乱さんらん、また「どうあらいさわ」や「どうあらい(どうでんぼう)」、三宅みやけ麻呂まろとう勅使ちょくし滞在たいざいしたとつたわる「殿しんがり(どんぢ)」とう銅山どうざん経営けいえいちな地名ちめいのこるため、一帯いったいどう採掘さいくつ重要じゅうよう拠点きょてんのひとつであったこと確実視かくじつしされている[3][5]和銅わどう採掘さいくつ露天ろてん跡地あとちは、和銅わどう採掘さいくつ遺跡いせき名称めいしょう埼玉さいたまけん指定してい旧跡きゅうせき指定していされている[6]

これは近世きんせい初頭しょとうると推定すいていされるが、祝山ほりやまつらなる金山かなやま中腹ちゅうふくには8ほんこうあなそんしている。

神社じんじゃ西方せいほうながれる荒川あらかわ対岸たいがん大字だいじ寺尾てらお飯塚いいづか、招木(まねき)の一帯いったいには、比較的ひかくてきだい規模きぼえんふん周囲しゅうい小規模しょうきぼのものをはいするかたち群集ぐんしゅうふんがある。現在げんざい124確認かくにんされているが、開墾かいこんにより破壊はかいされたものを考慮こうりょすると開墾かいこんまえ状態じょうたいは200えると推定すいていされ、秩父盆地ちちぶぼんちないでは最大さいだい規模きぼ古墳こふんぐん形成けいせいしている(けん指定してい史跡しせき飯塚いいづか・招木古墳こふんぐん[3]

築造ちくぞう年代ねんだい古墳こふん時代じだい最終さいしゅう末期まっき(7世紀せいきまつから8世紀せいき初頭しょとう)と看做みなされているが[8]被葬ひそうしゃ和銅わどう発見はっけん採掘さいくつとを関連かんれんづけるせつがあり、さらにその主体しゅたい渡来とらいけい氏族しぞくであったととらえるせつとなえられている[5]荒川あらかわ横瀬よこせがわ合流ごうりゅう地点ちてん南方なんぽう段丘だんきゅううえ神社じんじゃ西南せいなん)からは和同開珎わどうかいちんふく古銭こせんともに、わらび手刀てがたな出土しゅつどしている(後述こうじゅつ)。

当社とうしゃから1キロメートルほどはなれた位置いちに、秩父ちちぶ地方ちほう有数ゆうすう横穴よこあなしき石室いしむろをもつ古墳こふんである埼玉さいたまけん指定してい史跡しせきえんふん大塚おおつか古墳こふんがあり、722ねん養老ようろう6ねん)にとう社内しゃないじんおさめられた神体しんたいぐりばん彫刻ちょうこく裏面りめんによると、当時とうじこの古墳こふん周辺しゅうへんくろ谷郷やごう大浜おおはまむらであった可能かのうせいがある。古墳こふんじょうほこらには金山かなやま彦命がまつられている。

また、えんふん大塚おおつか古墳こふんからほどちかむくげ公園こうえん(リトリートフィールドMahora稲穂いなほさんうちには、さらにふる古墳こふん推定すいていされる稲穂いなほさん古墳こふんもあり、こちらも埋葬まいそうしゃ和銅わどうとの関連かんれんせいかんがえられる。

鎮座ちんざ和銅わどうさん主峰しゅほうである簑山みのやまには、初代しょだいおっと国造くにのみやつこちな故事こじがある[9]いのち美濃みのこく南宮なんぐう大社たいしゃ境内けいだい居住きょじゅうしていたとのつてがあり[10]南宮なんぐう大社たいしゃ古来こらい鉱山こうざん冶金やきんかみとして信仰しんこうあつめていることや「美濃みの(みの)」と「みの(みの)」との照応しょうおう注目ちゅうもくされる[5]

708ねん和銅わどう元年がんねん)の創建そうけんより、すうかい新築しんちく改築かいちくおこなわれたと記録きろくされている。

1623ねん元和がんわ9ねん)に、甲斐かいこくより神道しんとう流人るにんである弾正だんじょうかんかいよし2人ふたり当地とうちまいったおり、ひじりあきら神社じんじゃしゃばんたのく。

1804ねん文化ぶんか元年がんねん)に、寺社じしゃ奉行ぶぎょうちょく支配しはいしゃとして免許めんきょける。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)に、社務しゃむしょ完成かんせい神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしん神社じんじゃ指定していされる[11]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)に、三笠みかさみやたかしじん親王しんのう参拝さんぱい社前やしろまえまつ手植てうえ、よく1954ねん昭和しょうわ29ねん)に雍仁親王やすひとしんのう勢津子せつこ参拝さんぱい

2008ねん平成へいせい20ねん)1がつ11にちには、和銅わどう奉献ほうけん1300ねんいわう「和銅わどうさい」がときぎょうされた(1300ねんまえの1がつ11にちが「和銅わどう改元かいげんであることから)。

黒谷くろたに上郷かみさとにはとう神社じんじゃ祭神さいじんおなじくして和銅わどう年間ねんかん創建そうけんされたとつたえる上社かみやしろ鎮座ちんざし、あねしゃともばれるなかしゃ現存げんそんする。

秩父ちちぶぐん三澤みさわむらげん 秩父ちちぶぐん皆野みなのまち三沢みさわ)には1907ねん明治めいじ40ねん)までかくしゃせい神社じんじゃ鎮座ちんざをしていた。

祭祀さいし

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祭事さいじれき
1がつ 1にち 元旦がんたんさい
2がつ 3にち 節分せつぶんさい
23にち 祈年祭としごいのまつり
4がつ 13にち せい神社じんじゃ れい大祭たいさい
7がつ 13にち ふせさい
11月 3にち 和銅わどう出雲神いずものかみしゃ れい大祭たいさい
12月 13にち 新穀しんこく感謝かんしゃさい
31にち 大祓おおはらいしき

4がつ13にち春季しゅんき大祭たいさい例祭れいさい)がときぎょうされる。祭日さいじつふるくは2がつ13にちであったが、13にちとされたのはとう神社じんじゃまつ旧家きゅうかが13ありそれに由来ゆらいするものといわれる[5]

大祭たいさいに「黒谷くろたにあめ乞ササラ」とばれる獅子ししまい奉納ほうのうされ、この獅子舞ししまい文化ぶんか14ねん1817ねん)の年紀としのりつ『あめ興業こうぎょうねがい下書したがき』(きた谷戸たんど文書ぶんしょ)から雨乞あまご目的もくてき奉納ほうのうされていたことれるが[3]元禄げんろくすえとし(17・18世紀せいきの交)から奉納ほうのうされるようになったという。

その由来ゆらいは、ひだり甚五郎じんごろう当地とうちおとずれたさい龍頭りゅうずきざんで神社じんじゃ奉納ほうのう元禄げんろくにこの龍頭りゅうずして獅子頭ししがしらきざんだ。そして、大畑おおはたひだりもんなるもの三河みかわこく岡崎おかざきから獅子舞ししまい師匠ししょうまねいて15しゅまい伝授でんじゅさせたことはじまるといい、別名べつめいを「岡崎おかざき下妻しもづまりゅう」としょうするという[12]

春季しゅんき大祭たいさいほかに、境内けいだいしゃ 和銅わどう出雲神いずものかみしゃの11月3にち例祭れいさいにも奉納ほうのうされる。1957ねん昭和しょうわ32ねん)2がつ8にち秩父ちちぶ無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされた。

なお、和銅わどうさわ水源すいげん明夜みょうや(あきや)明神みょうじんというほこらまつられており、1955ねん昭和しょうわ30ねん)までは12月14にちおこなわれるその祭礼さいれいよるとう神社じんじゃからほこらまで108ほん灯火ともしびともしていたという[5]

社殿しゃでん

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本殿ほんでん

本殿ほんでん一間いっけんしゃ流造ながれづくりどう板葺いたぶき1709ねん宝永ほうえい6ねん)から1710ねん宝永ほうえい7ねん)にかけ、大宮おおみやきょうげん秩父ちちぶ)の工匠こうしょうである大曽根おおそね与兵衛よへえにより市内しない中町なかまち今宮いまみや神社じんじゃ本殿ほんでんとして建立こんりゅうされた。

1964ねん昭和しょうわ39ねん)にとう神社じんじゃ社殿しゃでんとして移築いちくされた。

彫刻ちょうこく安土あづち桃山ももやま時代じだい遺風いふうわずかにのこり、秩父ちちぶ市内しないにおける江戸えど時代じだい中期ちゅうき建造けんぞうぶつとしてすぐれていることから[13]、1965ねん昭和しょうわ40ねん)1がつ25にち秩父ちちぶ有形ゆうけい文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)となる。

拝殿はいでんかた3あいだ入母屋いりもやづくりひらたにゅうどう板葺いたぶき

境内けいだいしゃ

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和銅わどう出雲神いずものかみしゃ
  • 本殿ほんでんひだりわき大国たいこく主命しゅうめいまつ和銅わどう出雲神いずものかみしゃ鎮座ちんざする。11月3にち例祭れいさいときぎょうされ、黒谷くろたに獅子舞ししまい奉納ほうのうされる。

1964ねん昭和しょうわ39ねん)にきゅう本殿ほんでん(1807ねん文化ぶんか4ねん)の竣工しゅんこう)を移築いちくしたもので、一間いっけんしゃ流造ながれづくりどう板葺いたぶきこうはい中央ちゅうおう唐破風からはふわき障子しょうじ彫刻ちょうこくかざる。

  • 本殿ほんでんみぎわきには、八坂神社やさかじんじゃ鎮座ちんざする。
  • 本殿ほんでん裏山うらやまには、山神さんじんしゃ鎮座ちんざする。

文化財ぶんかざい

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埼玉さいたまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • わらび手刀てがたな1くちあし金物かなもの2てん) - 1908ねん明治めいじ41ねん)10がつ大野原おおのはら古墳こふんぐん埼玉さいたまけん選定せんてい重要じゅうよう遺跡いせき)にぞくするげん原谷はらや小学校しょうがっこう校庭こうてい存在そんざいしたえんふんから出土しゅつどした全長ぜんちょう44.8センチ刀身とうしん32.6センチのわらび手刀てがたな
飛鳥あすか時代ときよ(7世紀せいきから8世紀せいき初頭しょとう)の制作せいさくられ、全体ぜんたい銹化しているが関東かんとう地方ちほう出土しゅつどわらび手刀てがたな稀有けう遺品いひんとして[14]1987ねん昭和しょうわ62ねん)3がつ24にちけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい考古こうこ資料しりょう)となる。

秩父ちちぶ指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • せい神社じんじゃ社殿しゃでん1むねもと 今宮いまみや神社じんじゃ社殿しゃでん)…有形ゆうけい文化財ぶんかざい建物たてもの
  • 黒谷くろたに獅子ししまい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

その

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  • 和銅わどう(ニギアカガネ) - 創建そうけん当時とうじ採掘さいくつされた和銅わどうつたえられる。
  • 百足むかで1つい - 元明もとあき天皇てんのうから下賜かしされたとされる雌雄しゆう1つい和銅わどうせいひゃくそくぞう[15]
百足むかでとう神社じんじゃ眷属けんぞくとされ[16]百足むかで地下ちか鉱脈こうみゃくあらわすとのせつ[17]や、毘沙門天びしゃもんてんかみ使とされること由来ゆらいするせつもあることから[18]和銅わどう鉱山こうざんどうとの関連かんれんせい指摘してきされている。
だきほお』の「のぼりわたるへん」でも採鉱さいこうしゃ百足むかでれたたけかんたずさえて入山にゅうざんするようすすめるひとし百足むかでには鉱山こうざんぎょうにおける信仰しんこう形跡けいせきみとめられる[19]
  • 和同開珎わどうかいちん和銅わどうぜに
  • 龍頭りゅうずめん - ひだり甚五郎じんごろうせい大明神だいみょうじんせい神社じんじゃ)に奉納ほうのうしたとつたえられる。質量しつりょう分析ぶんせきにより年代ねんだい特定とくていおこなわれた。

交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ぞく日本にっぽん和銅わどう元年がんねん正月しょうがつおつ(11にちじょう
  2. ^ 秩父ちちぶぐん神社じんじゃ明細めいさいちょう』。
  3. ^ a b c d 埼玉さいたまけん地名ちめい』。
  4. ^ 1かたまりながさ2すん3ぶんやく7センチ)・はば1すん5ふんやく4.5センチ)・あつさ1すんやく3センチ)・おもさ120もんめやく450グラム)であり、もう1かたまりながさ1しゃく8すん7ふんやく57センチ)・はば6すんやく18センチ)・あつさ1すん5ふんおもさ4ぬき700もんめやく18キロ)(『秩父ちちぶぐん神社じんじゃ』)。
  5. ^ a b c d e f せんしま寿ひさしせい神社じんじゃ」(『日本にっぽんかみ々』所収しょしゅう)。
  6. ^ a b 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく文化財ぶんかざい保護ほご. “和銅わどう採掘さいくつ遺跡いせき”. 秩父ちちぶ. 2022ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  7. ^ 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく文化財ぶんかざい保護ほご. “黒谷くろたにどうせいところ”. 秩父ちちぶ. 2022ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  8. ^ 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい秩父ちちぶ文化財ぶんかざい飯塚いいづか・招木古墳こふんぐん」。
  9. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』。とう地方ちほうを霖雨がおそったときいのちがこれをめんと登山とざんして祈願きがんしたといい、そのさいていたみの山頂さんちょうまつけたことによって「簑山みのやま」とばれるようになったという。
  10. ^ 吉田よしだ東伍とうご増補ぞうほだい日本にっぽん地名ちめい辞書じしょ武蔵むさしこく秩父ちちぶぐんじょう冨山とやまぼう、1980ねん昭和しょうわ55ねん)。
  11. ^ 埼玉さいたまけんほう』《告示こくじだい729ごう》「秩父ちちぶぐん原谷はらだにむらきよし神社じんじゃ神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしん神社じんじゃ指定してい」。
  12. ^ 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい秩父ちちぶ文化財ぶんかざい黒谷くろたに獅子舞ししまい」。
  13. ^ 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい秩父ちちぶ文化財ぶんかざいせい神社じんじゃ社殿しゃでん」。
  14. ^ 秩父ちちぶ教育きょういく委員いいんかい秩父ちちぶ文化財ぶんかざいわらび手刀てがたな」。
  15. ^ 1たいながさ5すん4ふん3りんやく16センチ)・はば3ふん5りんやく1センチ)・あつさ1ふん8りんやく5ミリ)・おもさ17もんめやく64グラム)・ふしあし21せつみぎ12ほんひだり15ほん欠落けつらく)であり、もう1たいはばあつともりゃくひとしくながさ4すん8ふん3りんやく15センチ)・おもさ13もんめやく49グラム)・ふしあし19せつ(『秩父ちちぶぐん神社じんじゃ』)。
  16. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』。
  17. ^ 若尾わかお五雄いつお百足むかで金工きんこう」(『日本にっぽん民俗みんぞくがくだい67ごう、1970ねん昭和しょうわ45ねん所収しょしゅう)。
  18. ^ 谷川たにがわ健一けんいち青銅せいどうかみ足跡あしあと』(小学館しょうがくかんライブラリー69)、小学館しょうがくかん、1995ねん
  19. ^ 田島たじまかつらおとこ赤城あかぎ神社じんじゃ」(『日本にっぽんかみ々』所収しょしゅう)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 谷川たにがわけんいちへん日本にっぽんかみ神社じんじゃ聖地せいちだい11かん関東かんとう白水しろみずしゃ、1984ねんISBN 4-560-02221-6
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 11埼玉さいたまけん』、角川書店かどかわしょてん昭和しょうわ55ねん
  • 埼玉さいたまけん地名ちめい』(日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい11)、平凡社へいぼんしゃ、1993ねんISBN 4-582-49011-5

関連かんれん項目こうもく

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  • 和銅わどう黒谷くろたにえき - 秩父鉄道ちちぶてつどう秩父本線ちちぶほんせん最寄もよえきで、昭和しょうわ20・30ねん(1945ねん~1964ねんだいふう懐古かいこてき雰囲気ふんいき駅舎えきしゃホームには和同開珎わどうかいちん記念きねんモニュメント設置せっちされている。

外部がいぶリンク

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