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聚楽第じゅらくだい

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聚楽第じゅらくだい
京都きょうと
『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)
聚楽第じゅらくだい屏風びょうぶ部分ぶぶん三井みつい記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
別名べつめい 聚楽じゅらくてい聚楽じゅらくじょうなど
城郭じょうかく構造こうぞう 平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい諸説しょせつあり)
築城ちくじょうぬし 豊臣とよとみ秀吉ひでよし前野まえのちょうやすし(造営ぞうえい奉行ぶぎょう)
築城ちくじょうねん 1586ねん天正てんしょう14ねん
おも改修かいしゅうしゃ 豊臣とよとみ秀次しゅうじ
おも城主じょうしゅ 豊臣とよとみ
はいじょうねん 1595ねんぶんろく4ねん
遺構いこう 移築いちくもん
位置いち
北緯ほくい3501ふん30びょう 東経とうけい13544ふん45びょう / 北緯ほくい35.02500 東経とうけい135.74583 / 35.02500; 135.74583座標ざひょう: 北緯ほくい3501ふん30びょう 東経とうけい13544ふん45びょう / 北緯ほくい35.02500 東経とうけい135.74583 / 35.02500; 135.74583
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聚楽第じゅらくだい(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土あづち桃山ももやま時代じだい豊臣とよとみ秀吉ひでよしが「内野ないや(うちの)」(平安京へいあんきょう大内裏だいだいりあと現在げんざい京都きょうと上京かみぎょう)にてた政庁せいちょう邸宅ていたく城郭じょうかく竣工しゅんこう8ねんこわされたため、不明ふめいてんおおい。前野まえのちょうやすし造営ぞうえい奉行ぶぎょうつとめた。

歴史れきし

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聚楽第じゅらくだい関白かんぱくになった豊臣とよとみ秀吉ひでよし政庁せいちょうけん邸宅ていたくとして1586ねん天正てんしょう14ねん)2がつ着工ちゃっこうされ、よく1587ねん天正てんしょう15ねん)9がつ完成かんせいしたために、秀吉ひでよし妙顕寺みょうけんじじょうよりうつった。

九州きゅうしゅう征伐せいばつえた秀吉ひでよし大坂おおさかよりうつり、ここで政務せいむをみた。1588ねん5がつ9にち旧暦きゅうれき天正てんしょう16ねん4がつ14にち)にはこう陽成ようぜい天皇てんのう行幸ぎょうこうむかえてこれを饗応きょうおうしている。また天正てんしょう少年しょうねん使節しせつ徳川とくがわ家康いえやす謁見えっけんもここでおこなわれた。

1591ねん天正てんしょう19ねん)12月に秀吉ひでよし豊臣とよとみ長者ちょうじゃ家督かとくおよび関白かんぱくしょくおいあね日秀ひびり豊臣とよとみ秀次しゅうじゆずったあと聚楽第じゅらくだい秀次しゅうじ邸宅ていたくとなった。よく、1592ねん天正てんしょう20ねん)1がつには再度さいどこう陽成ようぜい天皇てんのう行幸ぎょうこうむかえている。短期間たんきかんおな場所ばしょに2行幸ぎょうこうおこなわれたのは稀有けうなことである。ぶんろく3ねんごろにはきたまる秀次しゅうじにより増築ぞうちくされた。しかし、1595ねんぶんろく4ねん)7がつ秀次しゅうじは、秀吉ひでよしによって高野山こうのやま追放ついほうさせられ、切腹せっぷくした。その秀吉ひでよしは、秀次しゅうじ謀反ぼうほんじんとして印象いんしょうけるため、よく8がつから聚楽第じゅらくだい徹底的てっていてきやぶ却した。

竣工しゅんこうからやぶ却まで、聚楽第じゅらくだい存在そんざいしたのは8ねんじゃくであった。

聚楽第じゅらくだいやぶ却した豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、御所ごしょ参内さんだいするための便宜上べんぎじょうあらたに豊臣とよとみ京屋きょうやじき建設けんせつする必要ひつようせまられ、現在げんざい仙洞せんとう御所ごしょに「京都きょうと新城しんじょうのち北政所きたのまんどころ居住きょじゅう)」がもうけられた。

規模きぼ

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聚楽じゅらく古城こじょう』にえがかれた聚楽第じゅらくだい図面ずめんひだりきた方向ほうこう

聚楽第じゅらくだいは、「だい」(= 殿しんがりだいやしき)とあるが、本丸ほんまる中心ちゅうしんに、西にしまるみなみまるおよきたまる豊臣とよとみ秀次しゅうじ増築ぞうちく)のみっつの曲輪くるわち、ほりめぐらせていたため、形態けいたいとしては平城ひらじろであった。

建物たてものには金箔きんぱくかわらもちいられ、白壁しらかべ天守てんしゅのような重層じゅうそう建物たてもの姿すがた国宝こくほう三井みついほん 聚楽第じゅらくだい屏風びょうぶ」や「洛中らくちゅう洛外らくがい」(江戸えど初期しょき)などにえがかれている。さらに国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん広島ひろしま市立しりつ図書館としょかん浅野あさの文庫ぶんこ)などが所蔵しょぞうする「聚楽じゅらく古城こじょう」では本丸ほんまる北西ほくせいすみに「天守てんしゅ」のれがあり、天守てんしゅ存在そんざい推定すいていされているが[1]一方いっぽう天守てんしゅはなかったのではないかという指摘してきもある[2]秀次しゅうじ家臣かしん駒井こまい重勝しげかつの『駒井こまい日記にっき』によると、本丸ほんまる石垣いしがきじょうかべ延長えんちょうけい486あいだみっつの曲輪くるわふくめたよんしゅうめぐらされたしがらみ延長えんちょうけい1031あいだであった。吉田よしだけんの『けんみるきょう』によれば、ほりはばじゅうあいだふかさはさんあいだであった。

域内いきない数カ所すうかしょほり痕跡こんせき発掘はっくつされ、そのうちカ所かしょ石垣いしがきれつ発見はっけんされている。そのいずれもが方位ほういたいして時計とけいまわりにやくさんかたむきをっていることが最近さいきん発見はっけんされた[3]。よって聚楽第じゅらくだい縄張なわばりにはさんかたむきがあったとかんがえられ、さら城下じょうかまちにも同様どうようかたむきがあった可能かのうせいかんがえられる。従来じゅうらいからこの附近ふきんとおりには、時計とけいまわりにかたむ傾向けいこうみとめられ、聚楽第じゅらくだい縄張なわばりには同様どうようかたむきがあったのではとの憶測おくそくんでいたが、それが実際じっさい確認かくにんされたことになる。聚楽第じゅらくだい南方なんぽう位置いちする徳川とくがわ家康いえやす創建そうけん二条城にじょうじょうにも同様どうようさんかたむきがられるが、このかたむきが聚楽第じゅらくだい影響えいきょうによるものとの主張しゅちょうまれた。

京都きょうと屏風びょうぶ地図ちず屏風びょうぶ)」によれば本丸ほんまるは、北堀きたほり一条通いちじょうどおり南方みなかた東堀ひがしほり大宮おおみやとおる南堀みなみほり上長じょうちょうしゃまちどおり西堀にしぼり裏門うらもんどおり付近ふきんにあったものと推定すいていされ、それにくわえて北之きたのまる北堀きたほり横神明よこしんめいどおりみなみまる南堀みなみほり出水しゅっすいどおり北方ほっぽう西之にしのまる西堀にしぼり浄福寺じょうふくじどおり付近ふきんにあったものと推定すいていされる。

聚楽じゅらく行幸ぎょうこう』には、内郭ないかくほりよんしゅうかこんで「いしのついがき」が「やまのごとく」めぐっていたとあり、その様子ようす聚楽じゅらく古城こじょうにもうかがえ(太線ふとせん表示ひょうじ)、また「聚楽第じゅらくだい屏風びょうぶ」をはじめとする聚楽第じゅらくだいえがいたすべての屏風びょうぶからも確認かくにんできるから、外郭がいかくほりともなわない「ついがき」すなわちこうへいであったとかんがえられる。北側きたがわもと誓願寺せいがんじどおり付近ふきん東側ひがしがわ黒門くろもんどおり付近ふきん南側みなみがわした立売たちうりどおり出水しゅっすいどおりとのなかあいだ付近ふきんきずかれていたとかんがえられ、西側にしがわ土屋つちやまちどおり付近ふきんにあったものと推定すいていされる[4]最近さいきんになって、当初とうしょ外郭がいかくこうへいであったが、のちに外堀そとぼりられそれが完成かんせいわったとするせつ[5]あらわれた。ただし文献ぶんけん伝承でんしょうなどに、外堀そとぼりられたことやこうへいこわされたこと、大名だいみょう屋敷やしき退かせたことなどはえない。

聚楽じゅらく古城こじょう」によれば、外郭がいかくない豊臣とよとみ秀長ひでなが大和やまと大納言だいなごん)、三好みよし孫七まごしち豊臣とよとみ秀次しゅうじ)などの秀吉ひでよし親族しんぞくや、前田まえだ利家としいえ黒田くろだ孝高よしたか細川ほそかわ忠興ただおき蒲生がもうきょうほり秀政ひでまさなど秀吉ひでよし配下はいかにあってとく信頼しんらいされていた大名だいみょう屋敷やしきならんでいた。千利休せんのりきゅう(「むねえき」としるす)も外郭がいかくない北東ほくとうすみきた御門みかどちかく、現在げんざいもと誓願寺せいがんじどおり南側みなみがわ大宮おおみやどおり黒門くろもんどおりあいだあたりに屋敷やしきあたえられていた。

外郭がいかく外側そとがわには、縦横じゅうおう街路がいろつくり、秀吉ひでよし配下はいか大名だいみょう屋敷やしき配置はいちした[6]。その範囲はんいは、きたもと誓願寺せいがんじどおりみなみ丸太町まるたまちどおりひがし堀川ほりかわ西にし千本せんぼんどおりかこまれた地域ちいきであったと推測すいそくされている。のちにまち堀川ほりかわひがしにもひろげられ聚楽第じゅらくだい御所ごしょあいだ金箔きんぱくかわらいた大名だいみょう屋敷やしきくされたとかんがえられている。

名称めいしょう

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陽成ようぜい天皇てんのう聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこうさかい博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞう

聚楽第じゅらくだいは、「聚楽じゅらくてい」「聚楽じゅらくじょう」「聚楽じゅらく屋敷やしき」「聚楽じゅらくてい」「聚楽じゅらくかん」などともしるされる。たんに「聚楽じゅらく」とのみしるしたれい[7][8]がある一方いっぽうで、『聚楽じゅらく行幸ぎょうこう』などには「聚楽第じゅらくだい」「聚楽じゅらくてい」の表記ひょうきられる。[9]

みにかんして「じゅらくてい」「じゅらくだい」「じゅらくやしき」のかくせつあるが、「だい」の漢音かんおんは「テイ」であり、正保まさやす版本はんぽん小瀬こせはじめあんの『太閤たいこう』には「聚楽第じゅらくだい」の表記ひょうきに「じゅらくてい」のふりがながられており、当時とうじ「じゅらくてい」とんでいたことが確認かくにんできる。また同書どうしょには「聚楽じゅらくてい(じゅらくてい)」「聚楽じゅらくごうさとだい(りてい)を構へ」の、ふりがなきの表記ひょうきられる。明治めいじ以降いこう文献ぶんけんには「じゅらくだい」としたものもある。ぐんしょ類従るいじゅう解題かいだい』(1960ねん)には「『ジュラクダイ』ともくんむが、『だい』『ちんあいつうじ、(中略ちゅうりゃく)、古文書こもんじょるいにも『ちん』としたものがあるから、まさしくは『ジュラクテイ』とくんむべきであろうとしている」と[10]。なお桜井さくらいしげるひろは、「じゅらくやしき」とむべきとしている。

聚楽第じゅらくだいは、建造けんぞうちゅうは「内野ないや御構おかまい(うちの おかまい、-の おんかまえ)ばれていた[11]

聚楽じゅらく」という由来ゆらいについては、『聚楽じゅらく行幸ぎょうこう』に「長生ちょうせい不老ふろうらく(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。またフロイスの『日本にっぽん』には「かれ秀吉ひでよし)はこのしろ聚楽じゅらく(juraku)と命名めいめいした。それはかれらの言葉ことば悦楽えつらく歓喜かんき集合しゅうごう意味いみする」(松田まつだあつし川崎かわさきももたいやく)とある。これら以外いがいに「聚楽じゅらく」の出典しゅってんいだせないことから、秀吉ひでよし造語ぞうごかんがえられている。

現況げんきょう

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聚楽第じゅらくだい』の石碑せきひ 1992ねん平成へいせい4ねん)に聚楽第じゅらくだい本丸ほんまる東堀ひがしほりあとから大量たいりょう金箔きんぱくかわら出土しゅつどした。この石碑せきひはその東堀ひがしほりあとてられている

上述じょうじゅつのように、聚楽第じゅらくだい徹底的てっていてきやぶ却されたので、明確めいかく遺構いこうのこっていない。

現在げんざい聚楽第じゅらくだい』の石碑せきひちゅう立売たちうりどおり大宮おおみや西北せいほくかく聚楽第じゅらくだい本丸ほんまる東堀ひがしほりあと写真しゃしんみぎ】)と中立ちゅうりつうりどおり裏門うらもん南西なんせいかく聚楽第じゅらくだい本丸ほんまる西堀にしぼりあと)の2箇所かしょてられている。

1992ねん平成へいせい4ねん)、西陣にしじん公共こうきょう職業しょくぎょう安定あんていしょ(ハローワーク西陣にしじん大宮おおみやどおりちゅう立売たちうりル)の工事こうじさいに、本丸ほんまる東堀ひがしほりあと検出けんしゅつされ、金箔きんぱくかわらやく600てん出土しゅつどした。本丸ほんまるがわから投棄とうきされたように層状そうじょう堆積たいせきしていたため、本丸ほんまる建物たてものかれていたかわらかんがえられる。2002ねん平成へいせい14ねんこく重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。

1997ねん平成へいせい9ねん)には、一条通いちじょうどおり松屋まつやまち西入にしいり北側きたがわのマンション建築けんちく工事こうじさいに、東西とうざいびるそこせきれつれつ検出けんしゅつされた。このいしれつ京都きょうと屏風びょうぶなどから北之きたのまる北堀きたほり南側みなみがわ石垣いしがきのものとかんがえられる[12]

2012ねん平成へいせい24ねん)には、京都きょうと府警ふけい西陣にしじん待機たいき宿舎しゅくしゃ智恵ちえひかりどおり上長じょうちょうしゃ町下まちした東側ひがしがわ)の工事こうじさいに、本丸ほんまる南堀みなみほり北側きたがわ石垣いしがき基部きぶ東西とうざいあいだやく32メートル)が検出けんしゅつされた。

聚楽第じゅらくだいやぶ却にさいし、建物たてものおおくは伏見ふしみじょううち移築いちくされたとされる。西本願寺にしほんがんじくもかく妙覚寺みょうかくじ大門おおもん妙心寺みょうしんじ播桃いん玄関げんかん山口やまぐちけんはぎ常念寺じょうねんじ山門さんもんなども、聚楽第じゅらくだいから移築いちくされたという伝承でんしょうがあるが、いずれも伝承でんしょういきず、いまのところ聚楽第じゅらくだい遺構いこうみとめられている建造けんぞうぶつ大徳寺だいとくじからもんだけである[13]

また「梅雨つゆ」(松屋まつやまちどおりした長者ちょうじゃまちあがひがしにゅうル)は聚楽第じゅらくだい遺構いこうであると伝承でんしょうされてきたが、近年きんねん研究けんきゅうではこの地点ちてん東堀ひがしほりなかたるので、遺構いこうではない可能かのうせい指摘してきされている。

また松林寺しょうりんじ智恵ちえひかりいんどおり出水しゅっすいル)付近ふきん一帯いったい周辺しゅうへんより3mほどひくくなっており、ふるくから聚楽第じゅらくだいほりあととされてきた。1997ねん試掘しくつ調査ちょうさ[14]おこなわれ、報告ほうこくしゃ外堀そとぼり一部いちぶとしている[15]一方いっぽうで、桃山ももやまから江戸えど初期しょきにかけての文献ぶんけん史料しりょう絵画かいがとうに、聚楽第じゅらくだい外堀そとぼりのあったことがえないところから、江戸えど時代じだい以降いこう壁土かべつちとしてさかんに利用りようされた「聚楽じゅらく」の採掘さいくつあと可能かのうせい指摘してきするこえもある[16]。1997ねん試掘しくつ調査ちょうさでもふかさ3mほどでやまたっておりげんきょうからはふかさ3あいだはば20あいだあったという聚楽第じゅらくだいほり想定そうていすることはむずかしい。また、平成へいせい27ねん(2015ねん)の京都きょうと大学だいがく防災ぼうさい研究所けんきゅうじょらによる「表面ひょうめん探査たんさ」では、ほり確認かくにんできなかった[17]京都きょうと出水いずみ老人ろうじんデイサービスセンターのきたかい(智恵ちえひかりいんどおり出水しゅっすいル)には加藤かとう清正きよまさ寄贈きぞうつたえられている庭石にわいしのこる。

江戸えど時代じだいあいだは「聚楽じゅらくむら」とばれる農村のうそんであったが、近代きんだい以降いこう市街地しがいちされた。町名ちょうめいには、「須浜すはままち」「須浜池すはまいけまち」「天秤丸てんびんまるまち」「山里やまざとまち」「北之御門きたのごもんまち」「高台院こうだいいんきゅうみだい)まち」「東堀ひがしほりまち」など、当時とうじ名残なごり色濃いろこのこっている。「黒門くろもんどおり」は聚楽第じゅらくだい東門ひがしもん(「くろがねのもん」)にちなむとされ、また「藤五郎とうごろうまち」「如水にょすいまち」「小寺こでらまち」「浮田うきたまち」「中村なかむらまち」「飛弾殿ひだどのまち」「福島ふくしままち」「中書ちゅうしょまち」「直家なおいえきゅうなおゑ)まち」など秀吉ひでよし麾下きか武将ぶしょうかんした町名ちょうめいおおのこる。

はい却後、聚楽第じゅらくだい縁辺えんぺんにあった聚楽じゅらくまちんでいた住民じゅうみんまちごと伏見ふしみ城下じょうか移転いてんさせられ、現在げんざい京都きょうと伏見ふしみには聚楽じゅらくまち地名ちめいのこっている。どう区内くないにはこのほか聚楽第じゅらくだいゆかりの「(ひがし西にし朱雀すざくまち」「(うえした神泉苑しんせんえんまち」の地名ちめいのこる。

資料しりょう

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文献ぶんけん
絵画かいが

聚楽第じゅらくだいえがいた絵画かいが以下いかのものが確認かくにんされている[19]

  • 聚楽第じゅらくだい屏風びょうぶろくきょくいちせき 桃山ももやま時代じだい 三井みつい記念きねん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう聚楽第じゅらくだいえがいたものとしてはもっとふるいとかんがえられている。
  • 聚楽第じゅらくだい大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかく所蔵しょぞう
  • 御所ごしょ参内さんだい聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこう屏風びょうぶろくきょく一双いっそう 桃山ももやま時代じだい 個人こじんぞう上越じょうえつ市立しりつ歴史れきし博物館はくぶつかん寄託きたく[20]
図面ずめん資料しりょう

以下いかの1~6はいずれもおな原図げんずによるものとかんがえられ、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞうのものが一番いちばんオリジナルにちかいとかんがえられる。ほりもん天守てんしゅなどの位置いちおよ大名だいみょう屋敷やしき位置いち街路がいろきこまれ、ちくかきおもわれる太線ふとせん記入きにゅうされている。

京都きょうと屏風びょうぶ』はいちめい地図ちず屏風びょうぶ』ともばれ、寛永かんえい2ねん二条城にじょうじょう拡張かくちょう工事こうじ)から4ねん水尾みずおいん御所ごしょ着工ちゃっこう)ごろまでにえがかれたとかんがえられ、ほぼ6500ぶんの1の正確せいかく京都きょうと地図ちずで、聚楽第じゅらくだいほり形状けいじょう位置いちしる唯一ゆいいつ資料しりょうである。

このほか表千家おもてせんけには聚楽第じゅらくだいないにあった利休りきゅう屋敷やしき部分ぶぶんてき平面へいめんのこされている。

  • 1.『日本にっぽん古城こじょう絵図えず』「聚楽じゅらく古城こじょう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう同館どうかんデジタル資料しりょう閲覧えつらん
  • 2.『諸国しょこく古城こじょう』(浅野あさの文庫本ぶんこぼん)「山城やましろ 聚楽じゅらく広島ひろしま市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかん所蔵しょぞう同館どうかんデジタル資料しりょう閲覧えつらん
  • 3.『太閤たいこう縄張なわばり聚楽じゅらくじょう個人こじんぞう 安土あづちじょう考古こうこ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 4.『聚楽じゅらく古城こじょう臼杵きゅうしょ教育きょういく委員いいんかい所蔵しょぞう
  • 5.『聚楽じゅらくじょういにしえみことけいかく文庫ぶんこ 前田まえだいくとくかい所蔵しょぞう
  • 6.『太閤たいこう縄張なわばり聚楽じゅらくこれ京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ所蔵しょぞう
  • 7.『京都きょうと屏風びょうぶ個人こじんぞう。『慶長けいちょう昭和しょうわ京都きょうと地図ちず集成しゅうせい所収しょしゅう 柏書房かしわしょぼう 1994
  • 8.『きょう聚楽じゅらく大広間おおひろま平面へいめん岸上きしがみ家伝かでんしょ
  • 9.『ゆたかこうちくしょ聚楽じゅらく城址じょうし形勝けいしょう名倉なくらのぞみげんによる天保てんぽう14ねん調査ちょうさ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃへん 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう復原ふくげん 名城めいじょう天守てんしゅ学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、 1996ねん
  2. ^ 真田さなだ勘兵衛かんべえ本当ほんとう実在じつざいしたの?絵画かいが史料しりょうえがかれているような聚楽第じゅらくだい天守てんしゅ
  3. ^ 加藤かとう繁生しげお聚楽第じゅらくだい二条城にじょうじょう縄張なわばりについての試論しろん」(『ふみ迹と美術びじゅつ』907ごう 2022)
  4. ^ 『フロイス日本にっぽん』は「石壁いしかべいし密接みっせつしてはいないが、漆喰しっくい接合はぎあわされており、技術ぎじゅつすぐれ、かべあついために遠方えんぽうからは石造せきぞう建築けんちくあやまるほどであった。」としる
  5. ^ 古川ふるかわたくみらによる表面ひょうめん調査ちょうさ報告ほうこく
  6. ^ 日本にっぽん』・「聚楽じゅらく古城こじょう」。
  7. ^ 駒井こまい日記にっき』『フロイス日本にっぽんおよ政権せいけんがわ文書ぶんしょなど。
  8. ^ ときけい天正てんしょう15ねん正月しょうがつ27にちじょう、「したがえ法印ほういんゆう折紙おりがみ内野ないや関白かんぱく殿でん新殿にいどのごう聚楽じゅらく内野ないや関白かんぱく殿でん新殿にいどのを「聚楽じゅらく」とごう(なづ)く)、しか折紙おりがみに曰、聚楽じゅらく首尾しゅび次第しだい行幸ぎょうこうさるこう」とある。
  9. ^ 工事こうじちゅう天正てんしょう15ねん文書ぶんしょ(『ちく山上さんじょう半町はんじょう神田かんだ文書ぶんしょ』)には「聚楽じゅらくしろ」のかたりられる。
  10. ^ 北山きたやまだい室町むろまちだいはともに「てい」とんだとされる。
  11. ^ はつは『多聞たもんいん日記にっき天正てんしょう14ねん2がつ27にちじょう
  12. ^ 平成へいせい9年度ねんど京都きょうと市内しない遺跡いせき試掘しくつ調査ちょうさがいほう」(京都きょうと文化ぶんか市民しみんきょく)。
  13. ^ 2003ねん修理しゅうりさいかざ金物かなものから「天正てんしょう」のめい発見はっけんされた(京都きょうと教育きょういく委員いいんかい国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大徳寺だいとくじとうもん勅使ちょくしもん修理しゅうり工事こうじ報告ほうこくしょ』2003ねん)。加藤かとう繁生しげおは、このとうもんについてむねさつのこされた記述きじゅついて、聚楽じゅらく東大手ひがしおおてもん門前もんぜんかまえていた村上むらかみ周防すおうまもるよりゆきかち屋敷やしきにあった「御成門おなりもん秀吉ひでよし訪問ほうもんそなえたもん)」との推測すいそくべている(「聚楽第じゅらくだい余聞よぶん1 『国宝こくほう大徳寺だいとくじとうもん素性すじょう』」『ふみ迹と美術びじゅつ』905ごう、2020ねん所収しょしゅう)。
  14. ^ 平成へいせい9年度ねんど京都きょうと市内しない遺跡いせき試掘しくつ調査ちょうさがいほう』(京都きょうと文化ぶんか市民しみんきょく)。「検出けんしゅつされたやましん出水しゅっすいどおりとのだかが3.3mであり‥きわめてあさい。ほりはばたいしていなふかさであり、みなみ墓地ぼち付近ふきん急激きゅうげきむものとかんがえたい」としるす(報告ほうこくしゃ馬瀬まぜ智光ともみつ)。ただしここにあるように「ふかさんあいだ」(『けんみるきょう』)のほりがあったことは確認かくにんできていない。報告ほうこくしゃしめ地層ちそう断面だんめん底部ていぶにわずかに聚楽じゅらくそうがあるから、近年きんねん指摘してきのある「聚楽じゅらく採掘さいくつあと」とのせつ無視むしできない。
  15. ^ 江戸えど末期まっき名倉なくらのぞみげんあらわした『ゆたかこうちくしょ聚楽じゅらく城址じょうし形勝けいしょう』(天保てんぽう14ねん)をはじめ、『京都きょうとぼう』(大正たいしょう2ねん)・『京都きょうと史蹟しせき調査ちょうさかい報告ほうこく』(西田にしだただし二郎じろう大正たいしょう8ねん)も外濠そとぼりあととしている。近年きんねんでは森島もりしま康雄やすおもと京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ担当たんとうしゃ)、馬瀬まぜ智光ともみつもと京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ担当たんとうしゃ)らも付近ふきんうめぶん調査ちょうさ結果けっかなどを根拠こんきょどうせつ主張しゅちょうしている。
  16. ^ 加藤かとう繁生しげお聚楽第じゅらくだい石垣いしがき」『ふみ迹と美術びじゅつ』837・840・843ごう、2013・2014ねん
  17. ^ 京都きょうと考古学こうこがく資料しりょう 平成へいせい28ねん3がつ10日とおか~4がつ10日とおか」(京都きょうと考古こうこ資料しりょうかん)。「この一帯いったい現在げんざい地形ちけい周辺しゅうへんよりへこんでおり、江戸えど時代じだい後期こうきから聚楽第じゅらくだい外濠そとぼりかんがえられてきたが、探査たんさではほり確認かくにんされなかった。周辺しゅうへん発掘はっくつ調査ちょうさでもあさ地点ちてんやまていることから、この地点ちてんほりではない可能かのうせいがある。」
  18. ^ 執筆しっぴつたっては山科やましなげんけい(やましな ときつね)になん相談そうだんをしている(『げんけいきょう』)。小瀬こせはじめあんの『太閤たいこう』にも引用いんようされているが、この引用いんようされたもののほうがぐんしょ類従るいじゅうほんよりもオリジナルにちかいとかんがえられる。現在げんざい仁和寺本にわじほん押小路おしこうじほん宮内庁くないちょうしょりょうほん内閣ないかく文庫本ぶんこぼんなどの写本しゃほんのこる。
  19. ^ このほか、秀次しゅうじ一族いちぞく供養くようとう悪逆あくぎゃくづか」がある[[瑞泉寺ずいせんじ (京都きょうと)|]]所蔵しょぞうの「瑞泉寺ずいせんじ縁起えんぎ」には聚楽第じゅらくだい姿すがたえがかれているが、江戸えど後期こうきさくかんがえられている。
  20. ^ 狩野かの博幸ひろゆき秀吉ひでよし御所ごしょ参内さんだい聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこう屏風びょうぶ』(あおまぼろししゃ、2010ねん
  21. ^ 聚楽第じゅらくだい同時どうじには存在そんざいしないはずの二条城にじょうじょう伏見ふしみじょうえがかれており、17世紀せいき初頭しょとう景観けいかん秀吉ひでよし時代じだい景観けいかんをオーバーラップさせたものと見做みなせる。加藤かとう繁生しげお研究けんきゅうでは慶長けいちょう16ねんから19ねんごろえがかれたものとする。
  22. ^ 石垣いしがきほりかこわれた本丸ほんまるあとでは農夫のうふはたけたがやし、きたまるあとではのう興行こうぎょうおこなわれている。
  23. ^ 狩野かの博幸ひろゆきちょ秀吉ひでよし御所ごしょ参内さんだい聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこう屏風びょうぶ所収しょしゅう京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかんきょうえがく」てん図録ずろく(2015ねん所収しょしゅう
  24. ^ 桃山ももやま聚楽第じゅらくだい現存げんそんしない)を参考さんこう名倉なくらのぞみげん自身じしん調査ちょうさ結果けっかくわえたもの。聚楽第じゅらくだい南西なんせい方面ほうめんには外濠そとぼりえがく。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桜井さくらいしげるひろ豊臣とよとみ秀吉ひでよし居城きょじょう 聚楽第じゅらくだい/伏見ふしみじょうへん』(日本にっぽん城郭じょうかく資料しりょうかん出版しゅっぱんかい、1971ねん)。詳細しょうさい聚楽第じゅらくだい復元ふくげん掲載けいさいする。
  • 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃへん 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう復原ふくげん 名城めいじょう天守てんしゅ学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 1996ねん
  • 二木ふたき謙一けんいち秀吉ひでよし接待せったい』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2008ねん
  • 村川むらかわ浩平こうへい天正てんしょうじゅうろくねん毛利もうり輝元てるもと上洛じょうらく意義いぎ」『史学しがく論集ろんしゅう』26ごう、1996ねん(『日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん』、2000ねん
  • 中西なかにし宏次こうじ聚楽第じゅらくだい 梅雨づゆ物語ものがたり』(阿吽あうんしゃ、1999ねんISBN 4900590622
  • 京都きょうと歴史れきし資料しりょうかん へん聚楽第じゅらくだい京都きょうと』(2000ねん)。京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ調査ちょうさいん当時とうじ馬瀬まぜ智光ともみつ作製さくせいの「聚楽第じゅらくだい復元ふくげん」を掲載けいさいする。
  • 日本にっぽん研究けんきゅうかい へん豊臣とよとみ秀吉ひでよし京都きょうと 聚楽第じゅらくだい土居とい伏見ふしみじょう』(文理ぶんりかく、2001ねんISBN 4892593915京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ研究けんきゅうセンター調査ちょうさいん当時とうじ森島もりしま康雄やすお作製さくせいの「聚楽第じゅらくだいあとこうじょう」を所収しょしゅうする。
  • 狩野かの博幸ひろゆき秀吉ひでよし御所ごしょ参内さんだい聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこう屏風びょうぶ』(あおまぼろししゃ、2010ねんISBN 978-4-86152-269-7
  • 松本まつもと利治としはる京都きょうと町名まちみょう変遷へんせん』(紀伊国屋きのくにや書店しょてん、1989ねん)- 町名ちょうめい変遷へんせん由来ゆらい考察こうさつし、貴重きちょう伝聞でんぶん紹介しょうかいされている。
  • 加藤かとう繁生しげお聚楽第じゅらくだい石垣いしがき」『ふみ迹と美術びじゅつ』(ふみ美術びじゅつどう攷会)837・840・843ごう所収しょしゅう、2013-4ねん残存ざんそん地名ちめい絵図えず発掘はっくつ結果けっかなどから『聚楽第じゅらくだいない外郭がいかく推定すいてい』を提示ていじしている。
  • 加藤かとう繁生しげお聚楽第じゅらくだい余聞よぶん(1)国宝こくほう大徳寺だいとくじとうもん素性すじょう」・「聚楽第じゅらくだい余聞よぶん(2)聚楽第じゅらくだい外郭がいかく千利休せんのりきゅう聚楽じゅらく屋敷やしき」・「聚楽第じゅらくだい余聞よぶん(3)聚楽第じゅらくだい二条城にじょうじょう縄張なわばりについての試論しろん」『ふみ迹と美術びじゅつ』(ふみ美術びじゅつどう攷会)905・906・907ごう所収しょしゅう、2020ねん
  • 古川ふるかわたくみ釜井かまい俊孝としたか坂本さかもとしゅん中塚なかつかりょうちゅう近世きんせい城郭じょうかく研究けんきゅうにおける表面ひょうめん探査たんさほう活用かつよう京都きょうと聚楽第じゅらくだいあと対象たいしょうにー」『日本にっぽん考古学こうこがく』(日本にっぽん考古学こうこがく協会きょうかい)45ごう所収しょしゅう、2018ねん
  • 山田やまだ邦和くにかず聚楽第じゅらくだい復元ふくげんへの試論しろん」『実証じっしょう考古学こうこがく松藤まつふじ和人かずと先生せんせい退職たいしょく記念きねんろん文集ぶんしゅうー』(同志社大学どうししゃだいがく考古学こうこがくシリーズⅫ)所収しょしゅう、2018ねん駒井こまい日記にっき聚楽じゅらく古城こじょう根拠こんきょに「聚楽第じゅらくだい想定そうてい復元ふくげん」をしめしている。
  • 特集とくしゅう 豊臣とよとみ風景ふうけい洛中らくちゅう洛外らくがい」『聚美』11ごう、2014ねんISBN 978-4-88546-278-8 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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北緯ほくい3501ふん30びょう 東経とうけい13544ふん45びょう / 北緯ほくい35.024937 東経とうけい135.745964 / 35.024937; 135.745964 (聚楽第じゅらくだい石碑せきひ西にしほりあと)聚楽第じゅらくだい石碑せきひ西にしほりあと))