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草莽そうもう

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草莽そうもう(そうもう)は、民間みんかんにあって地位ちいもとめず、国家こっかてき危機ききさい国家こっかへの忠誠ちゅうせいしんもとづく行動こうどうひと草莽そうもうしん[1]す。

とく幕末ばくまつ日本にっぽんにおいては特殊とくしゅ意味いみゆうする。

日本にっぽんにおける概要がいよう

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まくはん体制たいせい動揺どうようをきたした18世紀せいき後半こうはん以後いご在野ざいやもしくはそれにじゅんじた豪農ごうのう知識ちしきじんそう江戸えど幕府ばくふたいして直接ちょくせつ意見いけん進言しんげんできるルートのない人々ひとびと)のなかに、みずからを「草莽そうもう」になぞらえ政治せいじてき主張しゅちょうをするもの出現しゅつげんした。それが19世紀せいきはいると尊王そんのうろん攘夷じょういろんむすびつき活発かっぱつする。

黒船くろふね来航らいこうなど西洋せいようからの圧力あつりょくおおきくなった1850年代ねんだいはいると、吉田よしだ松陰しょういん[2]らによって「草莽そうもう崛起」ろんとなえられた。吉田よしだらは武士ぶし以外いがい人々ひとびと、すなわち豪農ごうのう豪商ごうしょう郷士ごうしなどの階層かいそう、そして武士ぶしとしての社会しゃかいてき身分みぶんてた脱藩だっぱん浪士ろうしを「草莽そうもう」としょうし、かれらが身分みぶんえて、国家こっかろんじて変革へんかく寄与きよしてくべきであると主張しゅちょうした。これをけて、1860年代ねんだいにはこうした草莽そうもう尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう討幕とうばく運動うんどう参加さんかしていくことになる(兵隊へいたい天誅てんちゅうぐみ生野いくのぐみちゅうぐみ花山院かさんのいんたいあかほうたいなど)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 草莽そうもうしん』 - コトバンク
  2. ^ 1859ねん5がつ9にち旧暦きゅうれき4がつ7にち北山きたやま安世やすよあて書簡しょかんなど

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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