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道徳的相対主義 - Wikipedia コンテンツにスキップ

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ(どうとくてきそうたいしゅぎ、えい: moral relativism)は、ことなる人々ひとびと文化ぶんかにおける道徳どうとくてき判断はんだんちがいにかんする哲学てつがくてき立場たちばそうじてすのにもちいられる用語ようご[1]

このようなかんがかた提唱ていしょうしゃみじかく「相対そうたい主義しゅぎしゃ」とばれることがおおい。また、倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ(しばしば「相対そうたい主義しゅぎてき倫理りんり」または「相対そうたい主義しゅぎてき道徳どうとく」としてさい定式ていしきされる)ともいう[2]

解説かいせつ

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記述きじゅつてき立場たちば道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、人々ひとびと実際じっさい道徳どうとくについて根本こんぽんてき意見いけん不一致ふいっちっているということだけを主張しゅちょうし、こののぞましさについての判断はんだん表明ひょうめいされない。メタ倫理りんりがくてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、このような意見いけん相違そういにおいて、だれもが客観きゃっかんてきただしいまたはあいだちがっていないと主張しゅちょうする[3]規範きはん倫理りんりがくてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、だれもがただしいまたはあいだちがっていないため、道徳どうとくかんするおおきな意見いけん相違そうい存在そんざいする場合ばあいでも、他者たしゃ行動こうどう寛容かんようであるべきだと主張しゅちょうする[4]。これらのことなる思想しそう運動うんどう概念がいねんは、かなり微妙びみょうであり、絶対ぜったいてき説明せつめいではない。記述きじゅつてき相対そうたい主義しゅぎしゃかならずしもメタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎ採用さいようするわけではない。また、すべてのメタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎしゃ規範きはんてき相対そうたい主義しゅぎ採用さいようするわけではない[5]

とくアメリカ哲学てつがくしゃリチャード・ローティは、「相対そうたい主義しゅぎしゃ」というレッテルがゆがめられ、一種いっしゅ軽蔑けいべつてき英語えいごばん言葉ことばとなっていると主張しゅちょうしている。かれ具体ぐたいてきには、そのようにラベル付らべるつけされた思想家しそうか通常つうじょうたんに「哲学てつがくてき意見いけん選択せんたく根拠こんきょ以前いぜんかんがえられていたよりもアルゴリズムてきでない」という信念しんねんっているだけであり、あらゆる概念的がいねんてきかんがえがのどのかんがえともおなじくらい妥当だとうであるわけではない、とべている。この精神せいしんで、ローティは「哲学てつがくしゃたちは...ますます文化ぶんかほか部分ぶぶんから孤立こりつしている」となげいている[6]

すうせんねんにわたり、文明ぶんめい歴史れきしなかで、道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎはさまざまな文脈ぶんみゃく議論ぎろんされてきた。古代こだいギリシアや歴史れきしてきなインドなどの地域ちいきとく注目ちゅうもくされる議論ぎろんおこなわれており、現代げんだいいたるまでその議論ぎろんつづいている。哲学てつがくしゃによって作成さくせいされた資料しりょう以外いがいにも、芸術げいじゅつ宗教しゅうきょう科学かがくなど、さまざまな分野ぶんやでも注目ちゅうもくあつめている[よう出典しゅってん]

変種へんしゅ

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記述きじゅつてき

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記述きじゅつてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、おな事実じじつしんであり、おな結果けっかこりそうであっても、行動こうどうただしい方向ほうこうについて根本こんぽんてき意見いけん不一致ふいっち存在そんざいするという、積極せっきょくてきまたは記述きじゅつてき立場たちばである[7]。これはことなる文化ぶんかことなる道徳どうとく基準きじゅんっているという観察かんさつ由来ゆらいするものである。

記述きじゅつてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、そのような意見いけん相違そういまえて、すべての行動こうどう寛容かんようすべきだと主張しゅちょうするわけではない。つまり、かれらはかならずしも規範きはんてき相対そうたい主義しゅぎしゃではない。同様どうように、かれらは道徳どうとくてき判断はんだん意味いみろん存在そんざいろん、または認識にんしきろんたいしてかならずしもいかなるコミットメントもっているわけではない。つまり、すべての記述きじゅつてき相対そうたい主義しゅぎしゃがメタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎしゃではない[よう出典しゅってん]

記述きじゅつてき相対そうたい主義しゅぎは、人類じんるいがく社会しゃかいがくなどの学術がくじゅつ領域りょういきひろれられており、すべての歴史れきしてきおよび文化ぶんかてき状況じょうきょうつねおな道徳どうとくてきな、そして倫理りんりてき枠組わくぐみが存在そんざいすると想定そうていすることはあやまりであることをたんみとめている[8]

メタ倫理りんりがくてき

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メタ倫理りんりがくてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、人々ひとびと道徳どうとくてき問題もんだいについて意見いけん不一致ふいっちっているだけでなく、「ぜん」「あく」「ただし」「あやま」といった用語ようご普遍ふへんてき英語えいごばん真理しんり条件じょうけんしたがうものではなく、むしろ個人こじんまたは一群いちぐん人々ひとびと伝統でんとう信念しんねん、または慣習かんしゅう相対そうたいてきであるとかんがえている[7]。アメリカの人類じんるい学者がくしゃウィリアム・グラハム・サムナーは、この見解けんかい影響えいきょうりょくのある提唱ていしょうしゃであった。かれは1906ねん著書ちょしょ民族みんぞく習慣しゅうかん』で、人々ひとびとただしいとかんがえることやあいだちがっているとかんがえることは、文化ぶんか伝統でんとう習慣しゅうかん実践じっせん完全かんぜんに(しゅとしてではなく)形成けいせいされると主張しゅちょうしている。さらに、かれ人間にんげん理解りかい分析ぶんせきにおいて、文化ぶんか地域ちいきてき道徳どうとくによって提供ていきょうされる以上いじょうたか道徳どうとく基準きじゅん存在そんざいしないため、文化ぶんか道徳どうとくただしさまたはあいだちがいにかんする横断おうだんてき判断はんだん正当せいとうされないとかんがえられる[よう出典しゅってん]

メタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、まず記述きじゅつてき相対そうたい主義しゅぎしゃである。すなわち、おな事実じじつ集合しゅうごうあたえられた場合ばあい、ある社会しゃかい個人こじんは、社会しゃかいてきまたは個人こじんてき規範きはんもとづいて、人々ひとびとが「すべき」とかんがえることやこのむことについて根本こんぽんてき意見いけん不一致ふいっちがあるとしんじている。さらに、かれらは、これらの意見いけん相違そういをどのような独立どくりつした評価ひょうか基準きじゅんもちいても裁定さいていすることはできないと主張しゅちょうする。関連かんれんする基準きじゅんへのあらゆるびかけはつね個人こじんてきなものであり、最良さいりょう場合ばあいでも社会しゃかいてきなものにぎないのである[よう出典しゅってん]

この見解けんかい道徳どうとくてき普遍ふへん主義しゅぎ英語えいごばんとは対照たいしょうてきであり、善意ぜんいのある人々ひとびと意見いけん不一致ふいっちっていたり、説得せっとくされない人々ひとびとがいたりするにもかかわらず、行動こうどうべつ行動こうどうよりも「道徳どうとくてき」(道徳どうとくてきのぞましい)であるという意味いみのあるめん依然いぜんとして存在そんざいすると主張しゅちょうする。つまり、かれらは、普遍ふへんてきれられるかどうかに関係かんけいなく、「道徳どうとくてき事実じじつ」とぶのにあたいする客観きゃっかんてき評価ひょうか基準きじゅん存在そんざいするとしんじている[よう出典しゅってん]

規範きはんてき

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規範きはんてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、メタ倫理りんりがくてき命題めいだいだけでなく、それが我々われわれおこなうべきであることに規範きはんてき意味いみつとかんがえている。規範きはんてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、メタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎが、個人こじんてきまたは文化ぶんかてき道徳どうとく基準きじゅんはんする行動こうどうであっても他者たしゃ行動こうどう寛容かんようすべきであると意味いみすると主張しゅちょうしている。おおくの哲学てつがくしゃ同意どういしない。それは部分ぶぶんてきには相対そうたい主義しゅぎてき前提ぜんていから「すべき」という結論けつろんみちびむずかしさによるものである[9]。メタ倫理りんりがくてき相対そうたい主義しゅぎは、規範きはんてき相対そうたい主義しゅぎしゃ指令しれいてき主張しゅちょう排除はいじょするようにおもわれる。いいかえれば、規範きはんてき相対そうたい主義しゅぎは、「わたしたちは行動こうどう寛容かんようすることが道徳どうとくてきである」というような声明せいめいをするさいつねに「人々ひとびと特定とくてい行動こうどうたいする『寛容かんようさ』が道徳どうとくてきである」とくわえることなく、困難こんなんかんじるかもしれない[10]。ラッセル・ブラックフォードのような哲学てつがくしゃは、ある程度ていどまで寛容かんようせい重要じゅうようであるとさえ主張しゅちょうしている。かれつぎのようにべている。「わたしたちは苦難くなん苦痛くつうこす道徳どうとくてき伝統でんとうについてしずかにれる必要ひつようはない。また、自分じぶん自身じしん社会しゃかい道徳どうとくてき規範きはんを、それが効果こうかてきでないか、ぎゃく効果こうかであるか、たん必要ひつようである場合ばあいれる必要ひつようもない」[11]。つまり、普遍ふへんてき規定きてい道徳どうとく存在そんざいしない場合ばあいでも、個人こじん集団しゅうだん自分じぶんたちの主観しゅかんてき価値かちかん他者たしゃたいしてまもることは完全かんぜん合理ごうりてき(かつ実践じっせんてき)でありるのである。また、文化ぶんかが「みずからの目標もくひょう」を効果こうかてき追求ついきゅうしていないことを批判ひはんすることもできる[12]

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、「このくにではXをすることは間違まちがっている」といった普遍ふへんてきでない声明せいめいや「わたしにとってはYをすることがただしい」といった声明せいめいにも意味いみたせようとするかもしれない[9]

道徳どうとくてき普遍ふへん主義しゅぎしゃ英語えいごばんはさらに、かれらの制度せいどがしばしば寛容かんよう正当せいとうすると主張しゅちょうし、道徳どうとくてき制度せいどたいする意見いけん相違そういつね干渉かんしょう要求ようきゅうするわけではなく、とく攻撃こうげきてき干渉かんしょう要求ようきゅうするわけではないと主張しゅちょうしている[9]たとえば、功利こうり主義しゅぎしゃ社会しゃかい慣行かんこうを「無知むち」とんだり、「より道徳どうとくてきではない」とったりするかもしれないが、行動こうどう選択せんたくかんしては議論ぎろんおおい(たとえば、より教育きょういく技術ぎじゅつ提供ていきょう焦点しょうてんてるかどうかなど)[13]

歴史れきし

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スコットランドの哲学てつがくしゃデイヴィッド・ヒューム直接的ちょくせつてき道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ視点してんつことはなかったが、かれかんがかた洗練せんれんされた意見いけんち、相対そうたい主義しゅぎ発展はってんひろ影響えいきょうあたえた[よう出典しゅってん]

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、すうせんねんにわたり、さまざまな文化ぶんか人々ひとびとってきた見解けんかい議論ぎろん包括ほうかつしている。たとえば、古代こだいジャイナきょうアネーカーンタヴァーダ原則げんそくは、真実しんじつ現実げんじつことなる視点してんからことなって認識にんしきされ、単一たんいつ視点してん完全かんぜん真実しんじつではないとべている[14][15]。また、ギリシャ哲学てつがくしゃプロタゴラス紀元前きげんぜん481ねん紀元前きげんぜん420ねん)はその有名ゆうめい言葉ことばで「人間にんげん万物ばんぶつ尺度しゃくどである」と主張しゅちょうした[16][17]。ギリシャの歴史れきしヘロドトス紀元前きげんぜん484ねん紀元前きげんぜん420ねん)は、かく社会しゃかい自身じしん信念しんねん体系たいけいややりかたのすべてよりもすぐれているとなしていることを観察かんさつした。セクストス・エンペイリコス古代こだいピュロニズム英語えいごばん哲学てつがくしゃ客観きゃっかんてき道徳どうとく存在そんざい否定ひていした[18]

近代きんだい初期しょきバールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)は、なにもが本質ほんしつてきぜんでもあくでもないとかんがえていたことが特筆とくひつされる[19]。18世紀せいき啓蒙けいもう思想家しそうかデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は、現代げんだい情緒じょうちょ主義しゅぎ道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎちちとしていくつかの重要じゅうよう側面そくめん役割やくわりたしたが、ヒューム自身じしん相対そうたい主義しゅぎ支持しじしていない。かれ事実じじつ価値かち区別くべつをし、道徳どうとくてき判断はんだん後者こうしゃ構成こうせいされると提案ていあんした。なぜなら、道徳どうとくてき判断はんだん世界せかいられる検証けんしょう可能かのう事実じじつではなく、感情かんじょう情熱じょうねつかかわるからである。しかし、ヒュームは一部いちぶ感情かんじょう普遍ふへんてきなしていた。かれ道徳どうとく客観きゃっかんてき基準きじゅん存在そんざいしないとつよ否定ひていし、宇宙うちゅうわたしたちのこのみやくるしみに関心かんしんであると示唆しさした[よう出典しゅってん]

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は、価値かち目標もくひょう自己じこ相対そうたいてきであるため、自分じぶん自身じしん価値かち評価ひょうかしなければならないとしんじていた。かれ道徳どうとくてき価値かちかん分析ぶんせきし、それがわたしたちにどれだけの影響えいきょうあたえるかを強調きょうちょうした。ニーチェによれば、道徳どうとく問題もんだいは、「ぜん」とされる人々ひとびと教育きょういくけた有力ゆうりょく貴族きぞくであり、みずからのランク以下いかだれよりもすぐれているとかんがえていたことである。したがって、ぜんとされるものは相対そうたいてきである。ぜんとされる「人間にんげん」は、自分じぶんうち誘惑ゆうわくまよいがあるかどうかについて疑問ぎもんされず、道徳どうとく観念かんねんによって人類じんるいをよりくするのに役立やくだたないとされる「わる人間にんげん」よりも重要じゅうようであるとされる。しかし、ぜんあくとされるものは相対そうたいてきであるため、それらにたいするわたしたちの重要じゅうようせい価値かち相対そうたいてきであるべきである。かれ道徳どうとくそのものが危険きけんである可能かのうせいもあると提案ていあんした[20]。ニーチェは、道徳どうとく能動のうどうてき構築こうちくされるべきであり、それらは個々人ここじん真実しんじつ平等びょうどう善悪ぜんあくなどをかんがえるうえでの相対そうたいてきなものであり、特定とくてい権力けんりょく一群いちぐん個人こじんによってつくられた道徳どうとくほう反応はんのうするべきではないと主張しゅちょうした[21]

一人ひとり学者がくしゃは、はん実在じつざいろんてき解釈かいしゃく支持しじし、「ニーチェの価値かちかんするはん実在じつざいろんてき中心ちゅうしんてき議論ぎろん説明せつめいてきである。道徳どうとくてき事実じじつ経験けいけんの『最良さいりょう説明せつめい』にまれず、客観きゃっかんてき世界せかい実在じつざい成分せいぶんではない。道徳どうとくてき価値かち英語えいごばんは、ようするに『説明せつめいできる』のである」とべている[22]

ニーチェは、たしかにプラトンの超越ちょうえつイデアとして優先ゆうせんすることを批判ひはんしている。プラトニズムの視点してんでは、「真実しんじつ」またはもっと現実げんじつてきなものは、ちょう世界せかいてきなものであり、経験けいけんの(現実げんじつてきな)世界せかいはイデアのたんなる「かげ」のようなものである。これは、プラトンの洞窟どうくつ譬喩ひゆもっと有名ゆうめい表現ひょうげんされている。ニーチェは、この超越ちょうえつせいキリスト教きりすときょうでも成長せいちょうしていったとかんがえており、キリストきょうでは卑下ひげ服従ふくじゅうという生命せいめい否定ひていする道徳どうとくてき特質とくしつ優先ゆうせんされた。(『善悪ぜんあく彼岸ひがん』、『道徳どうとく系譜けいふ』、『偶像ぐうぞう黄昏たそがれ英語えいごばん』、『はんキリスト英語えいごばん』などを参照さんしょう[よう出典しゅってん]

ルース・ベネディクト(1887-1948)などの人類じんるい学者がくしゃは、エスノセントリズム自分じぶん自身じしん文化ぶんか基準きじゅんもちいて研究けんきゅう対象たいしょう評価ひょうかすること)にたいして注意ちゅういうながしている。ベネディクトは、超越ちょうえつてき道徳どうとく存在そんざいしないとべ、存在そんざいするのは社会しゃかいてき構築こうちくされた習慣しゅうかんだけである(『文化ぶんかてき相対そうたい主義しゅぎ』を参照さんしょう)とべており、習慣しゅうかん比較ひかくするさいには、人類じんるい学者がくしゃは「人類じんるい学者がくしゃであるかぎり...一方いっぽう他方たほうたいして重視じゅうしすることをける」とべている[よう出典しゅってん]。ある程度ていど社会しゃかい科学かがくしゃ哲学てつがくしゃは、ことなる社会しゃかいあいだ信念しんねんおおきなちがいの知識ちしき増加ぞうかにより、価値かちかんする客観きゃっかんてき絶対ぜったいてき基準きじゅん存在そんざいするのか疑問ぎもんおもうようになった。これにより、相反あいはんする信念しんねん調停ちょうていのための基準きじゅん存在そんざいせず、ことなるシステムが同等どうとう妥当だとうせいつとするかんがえがまれた。フィンランドの哲学てつがくしゃ人類じんるい学者がくしゃであるエドワード・ウェスターマーク(1862-1939)は、詳細しょうさい道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ理論りろんはじめて形成けいせいした人物じんぶつ一人ひとりとして位置いちづけられる。かれは、すべての道徳どうとくてきなアイデアを、個人こじんそだちに反映はんえいされる主観しゅかんてき判断はんだんとして描写びょうしゃした。かれG.E.ムーア(1873-1958)の倫理りんりてき直観ちょっかん主義しゅぎ英語えいごばん否定ひていした。ムーアの倫理りんりてき直感ちょっかん主義しゅぎは、20世紀せいき初頭しょとう流行りゅうこうし、道徳どうとくてき命題めいだい真実しんじつまたはにせであるとし、それらをわたしたちが特別とくべつ直感ちょっかん能力のうりょくつうじてるとしたが、あきらかな信念しんねんちがいが社会しゃかいあいだ存在そんざいすることから、任意にんい固有こゆう直感ちょっかんてきちから欠如けつじょしていることの証拠しょうこであるとべた[よう出典しゅってん]

メタ倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ論拠ろんきょ

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科学かがくてき論拠ろんきょ

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道徳どうとく進化しんか

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進化しんか生物せいぶつがく認知にんち心理しんりがく動物どうぶつ行動こうどうがく、および進化しんか人類じんるいがく研究けんきゅうは、道徳どうとく進化しんかのメカニズムによって形成けいせいされた自然しぜん現象げんしょうであると主張しゅちょうしている[23]。この場合ばあい道徳どうとくたね生存せいぞん成功せいこうした繁殖はんしょく促進そくしんする相対そうたいてき社会しゃかいてき慣習かんしゅう集合しゅうごう定義ていぎされる。さらに、複数ふくすう協力きょうりょくするたねふくむこともある[24]

文学ぶんがくてき

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文学ぶんがくてき相対そうたい主義しゅぎは、ギリシャ神話しんわことなるバージョンからはじまる。象徴しょうちょう主義しゅぎ複数ふくすう提案ていあんつくした。構造こうぞう主義しゅぎ多義たぎせいおしえてくれる[よう出典しゅってん]

相対そうたい主義しゅぎてき文学ぶんがく作品さくひんれい[よう出典しゅってん]としてつぎのものをげられる。ゴーゴリの『デッド・ソウルズ』、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏しじゅうそう』、レーモン・クノーの『地下鉄ちかてつのザジ』。

メタ倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎへの批判ひはん

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哲学てつがくてき批判ひはん

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R. M. ヘア

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一部いちぶ哲学てつがくしゃたとえばリチャード・マーヴィン・ヘア(1919ねん-2002ねん)は、文化ぶんかてきまたは宗教しゅうきょうてき基準きじゅん規範きはんしたが道徳どうとくてき主張しゅちょう事実じじつ内容ないよういているとしても、道徳どうとくてき命題めいだい人間にんげん論理ろんりてき規則きそくしたがうと主張しゅちょうしている。したがって、かれらは相反あいはんする倫理りんりてき判断はんだんつことはできないと主張しゅちょうする。これにより、道徳どうとくてき標準ひょうじゅん共有きょうゆうして道徳的どうとくてき論述ろんじゅつ可能かのうとなる。かれらは道徳どうとくてき事実じじつ存在そんざい肯定こうていまたは否定ひていせず、ただし、人間にんげん論理ろんり道徳どうとくてき主張しゅちょう適用てきようされると仮定かていする。したがって、かれらは非常ひじょう限定げんていてき意味いみ客観きゃっかんてきこのましい道徳どうとくてき正当せいとう基準きじゅん想定そうていする。しかし、ヘアによれば、人間にんげん論理ろんり相対そうたい主義しゅぎひとつの非常ひじょう重要じゅうよう意味いみあやまりをしめしている(ヘアの『Sorting out Ethics』を参照さんしょう)。ヘアや哲学てつがくしゃはまた、論理ろんりてき制約せいやくのぞいて、あるしゅ道徳どうとくてき用語ようご評価ひょうかてき意味いみ同様どうようあつかうすべての制度せいど存在そんざいすることを指摘してきしている。これは、用語ようご(たとえば、計測けいそく可能かのうである)と同様どうよう普遍ふへんてき理解りかい独立どくりつした基準きじゅん依存いぞんしない用語ようご「よりすくない」または「よりおおい」のあつかいにもてはまる。これは、ぜんあく道徳どうとくてき意味いみ使用しようされる場合ばあいにもてはまる。たとえば、「これは『い』レンチである」とったり、「これは『わるい』ホイールである」とったりするときである。このような用語ようご評価ひょうかてき特性とくせいにより、ことなる信念しんねん人々ひとびと道徳どうとくてき問題もんだいについて有意義ゆういぎ議論ぎろんおこなうことができる。たとえば、かれらがある「事実じじつ」についてことなる意見いけんっているとしてもである[よう出典しゅってん]

ウォルター・テレンス・ステイス

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倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ」は、『モラルの概念がいねん』の最初さいしょの2しょうのトピックであり、ウォルター・テレンス・ステイス英語えいごばん道徳どうとくてき絶対ぜったい主義しゅぎ英語えいごばん反対はんたいし、道徳どうとくてき普遍ふへん主義しゅぎ英語えいごばん支持しじしている[25][26]

哲学てつがくてき貧困ひんこん

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批評ひひょうたちは、倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ道徳どうとくかんする議論ぎろん基本きほんてき前提ぜんてい拒否きょひしているため、または意見いけん相違そうい調停ちょうていできないため、倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ失敗しっぱいすると主張しゅちょうしている。イブン・ワラックエディ・タバッシュ英語えいごばんふくおおくの批評ひひょうは、メタ倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎしゃ本質ほんしつてき規範きはんてき道徳どうとく議論ぎろんからみずからを排除はいじょしていると指摘してきしている。なぜなら、かれらは理性りせいつうじて発見はっけんされることができるただしいこたえやあいだちがったこたえが存在そんざいするという前提ぜんてい拒否きょひしているようにえるからである。実際じっさいてきには、このような批評ひひょうは、メタ倫理りんりてき相対そうたい主義しゅぎ道徳どうとくてき虚無きょむ主義しゅぎ相当そうとうするか、あるいは矛盾むじゅんしていると主張しゅちょうする[27]

これらの批評ひひょうは、具体ぐたいてきには、道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃ規範きはんてき道徳どうとくてき議論ぎろんへの参加さんか範囲はんいを、議論ぎろんそのものの否定ひてい、または意見いけん相違そういする双方そうほうただしいとなすことに限定げんていしていると主張しゅちょうしている。たとえば、道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、個人こじん快楽かいらく主義しゅぎてき快楽かいらくのために殺人さつじん拷問ごうもんおこなうことに異議いぎとなえるためには、このみにうったえるしかない[28]。この相対そうたい主義しゅぎしゃひろれられている議論ぎろん用語ようご拒否きょひしているという非難ひなんは、の「議論ぎろん停滞ていたい要因よういん」(たとえば、どくろん一部いちぶ形式けいしき帰納きのう拒否きょひ)にたいしても使つかわれる主張しゅちょうている[よう出典しゅってん]

哲学てつがくしゃサイモン・ブラックバーン同様どうよう批判ひはんおこなっており、道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ意見いけん相違そうい調停ちょうていすることができないため、たんに「道徳どうとくてき体系たいけい」として失敗しっぱいしていると説明せつめいしている[29][30]

批判ひはん

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一部いちぶ議論ぎろんは、どのような道徳どうとくてき正当せいとう真実しんじつ相対そうたいてきであるとされるのかについて疑問ぎもんていすることからしょうじる。人々ひとびと文化ぶんか人種じんしゅ宗教しゅうきょうなどにもとづいておおくのグループに所属しょぞくしているため、そのグループの価値かちがメンバーにたいして権威けんいつと主張しゅちょうすることは困難こんなんである。道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ一部いちぶは、それらの真実しんじつがどのグループの人々ひとびとたいして相対そうたいてきであるかを特定とくていすることである。もうひとつの要素ようそは、おおくの人々ひとびと複数ふくすうのグループに所属しょぞくしているということである。一人ひとり所属しょぞくするグループの信念しんねん基本きほんてきことなる場合ばあいがあり、したがって相対そうたいてきなものと優位ゆういなものをどちらがえらぶかをめるのはむずかしい。道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ実践じっせんするひとは、いずれの意見いけんにも反対はんたいする必要ひつようはないが、自分じぶんなりの意見いけん議論ぎろん展開てんかいするであろう[31]

宗教しゅうきょう

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プロテスタント

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ローマカトリック

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カトリック教会きょうかい一部いちぶ世俗せぞくてき知識ちしきじんは、ヨーロッパの戦後せんご堕落だらく絶対ぜったいてき価値かち排除はいじょによる道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎすると主張しゅちょうしている。ベネディクト16せい教皇きょうこうマルチェッロ・ペラ英語えいごばんらは、1960ねんごろ以降いこう、ヨーロッパじんキリスト教きりすときょうざしたおおくの伝統でんとうてき規範きはんだい規模きぼ放棄ほうきし、えず変化へんかする相対そうたいてき道徳どうとくてきルールにえたと主張しゅちょうしている。この視点してんでは、性的せいてき活動かつどう生殖せいしょくからはなされ、家族かぞく重要じゅうようせい低下ていかし、少子化しょうしかこったとされている[32]。カトリック教会きょうかいによる道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎへのもっと権威けんいある反応はんのうは、ヨハネ・パウロ2せい教皇きょうこうかいみことのりVeritatis Splendor英語えいごばん』にられる。カトリック教会きょうかいによる道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎへのおも批判ひはんは、選択せんたくてき中絶ちゅうぜつなどの現代げんだいてき論争ろんそう密接みっせつ関連かんれんしている。

仏教ぶっきょう

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ビクク・ボディは、アメリカの仏教ぶっきょう僧侶そうりょであり、つぎのようにべている。「物質ぶっしつ主義しゅぎてき世界せかいかんは、私的してき主観性しゅかんせい価値かち精神せいしんせい理念りねんてることで...道徳どうとくたしかな客観きゃっかんてき基盤きばん侵害しんがいしようとする。その結果けっかわたしたちが今日きょう目撃もくげきしている道徳どうとくてき退廃たいはいひろがる。この傾向けいこう対抗たいこうするためには、たんなる道徳どうとくてき励起れいきだけでは不十分ふじゅうぶんである。道徳どうとく行動こうどう効果こうかてき指針ししんとして機能きのうするためには、それ自体じたい自己じこ正当せいとうのスキームとして提示ていじされるのではなく、道徳どうとくちょう個人こじんてき秩序ちつじょもとづかせるより包括ほうかつてき精神せいしんてきシステムに必要ひつようがある。宗教しゅうきょうは、明確めいかく言葉ことばで、道徳どうとく倫理りんりてき価値かち個人こじん意見いけん装飾そうしょくてきかざりではなく、主観しゅかんてき上部じょうぶ構造こうぞうでもなく、現実げんじつかくまれた宇宙うちゅう本質ほんしつてき法則ほうそくであることを肯定こうていしなければならない」[33]

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ倫理りんり主観しゅかん主義しゅぎ混同こんどうされやすい視点してん

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道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ倫理りんり主観しゅかん主義しゅぎちが

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道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎは、倫理りんり主観しゅかん主義しゅぎ英語えいごばん倫理りんりてき主張しゅちょう真理しんりしん独立どくりつしていないという見解けんかい)とはことなる立場たちばである[34][35]。これらの見解けんかいはしばしば一緒いっしょたれているが、たがいに必然ひつぜんてきむすびついているわけではない[34]。たとえば、「わたし所属しょぞくする文化ぶんか人々ひとびとがそれをただしいとかんがえるため、わたしにとってなにかが道徳どうとくてきただしい」と主張しゅちょうするひとは、道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃであり(ただしいかどうかはだれおこなっているかに依存いぞんする)、倫理りんり主観しゅかん主義しゅぎしゃでもある(ただしいかどうかはしん状態じょうたい、つまり人々ひとびとただしいとおもうかどうかによってまる)[36]

しかし、かみただしいとおもうことがただしいとされるものがただしいとされるかどうかとかんがえるひとは、主観しゅかん主義しゅぎしゃ道徳どうとくしん状態じょうたいもとづく)であり、相対そうたい主義しゅぎしゃ道徳どうとくすべてのひとにとっておなじである)ではない[37]。それにたいして、自分じぶん行動こうどうするさいには自国じこく法律ほうりつしたがわなければならないと主張しゅちょうするひとは、相対そうたい主義しゅぎしゃ道徳どうとくはあなたがだれであるかに依存いぞんする)であり、主観しゅかん主義しゅぎしゃではない(道徳どうとくしん状態じょうたいではなく、世界せかい事実じじつもとづく)[38]

道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ道徳どうとくはん実在じつざいろん

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道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎ立場たちばがどのように構築こうちくされるかによって、道徳どうとくてき実在じつざいろんから独立どくりつしているかどうかはことなる[38]道徳どうとくてき実在じつざい主義しゅぎしゃは、以下いかの3つの主張しゅちょうのいずれかのバージョンを支持しじしているとされる[39][40]

  1. 意味いみろん主張しゅちょう: 道徳どうとくてきぶん意味いみち、命題めいだい表現ひょうげんするか、真偽しんぎがある可能かのうせいがある。
  2. 真理しんりろん主張しゅちょう: いくつかの道徳どうとくてき命題めいだいしんである。
  3. 形而上学けいじじょうがく主張しゅちょう: 道徳どうとくてき事実じじつ形而上学けいじじょうがくてきなステータスは、世界せかい事実じじつ重要じゅうようちがいがなく、堅牢けんろうであり、一般いっぱんてきである。

おおくの道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃはこれらの主張しゅちょうのいずれかを否定ひていしており、したがって道徳どうとくはん実在じつざい主義しゅぎしゃである可能かのうせいがあるが、否定ひていする必要ひつようはない[36]自国じこく法律ほうりつしたがって行動こうどうすべきであると主張しゅちょうする道徳どうとくてき相対そうたい主義しゅぎしゃは、以下いかの3つの主張しゅちょうをすべてれる:道徳どうとくてき事実じじつ真偽しんぎがありうる命題めいだい表現ひょうげんする(特定とくてい行動こうどう法律ほうりつ違反いはんしているかどうかを確認かくにんできる)、いくつかの道徳どうとくてき命題めいだいしんである(特定とくてい行動こうどうだれかのくに法律ほうりつ適合てきごうしている)、道徳どうとくてき事実じじつ一般いっぱんてきである(法律ほうりつ心的しんてき状態じょうたいではなく、世界せかい物理ぶつりてき対象たいしょうである)。ただし、この見解けんかい国籍こくせき依存いぞんする相対そうたい主義しゅぎ立場たちばである[38]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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