道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ (どうとくてきそうたいしゅぎ、英 えい : moral relativism )は、異 こと なる人々 ひとびと や文化 ぶんか における道徳 どうとく 的 てき な判断 はんだん の違 ちが いに関 かん する哲学 てつがく 的 てき な立場 たちば を総 そう じて指 さ すのに用 もち いられる用語 ようご [ 1] 。
このような考 かんが え方 かた の提唱 ていしょう 者 しゃ は短 みじか く「相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ 」と呼 よ ばれることが多 おお い。また、倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ (しばしば「相対 そうたい 主義 しゅぎ 的 てき 倫理 りんり 」または「相対 そうたい 主義 しゅぎ 的 てき 道徳 どうとく 」として再 さい 定式 ていしき 化 か される)ともいう[ 2] 。
「記述 きじゅつ 的 てき 」立場 たちば の道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、人々 ひとびと が実際 じっさい に道徳 どうとく について根本 こんぽん 的 てき に意見 いけん の不一致 ふいっち を持 も っているということだけを主張 しゅちょう し、この望 のぞ ましさについての判断 はんだん は表明 ひょうめい されない。メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、このような意見 いけん の相違 そうい において、誰 だれ もが客観 きゃっかん 的 てき に正 ただ しいまたは間 あいだ 違 ちが っていないと主張 しゅちょう する[ 3] 。規範 きはん 倫理 りんり 学 がく 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、誰 だれ もが正 ただ しいまたは間 あいだ 違 ちが っていないため、道徳 どうとく に関 かん する大 おお きな意見 いけん の相違 そうい が存在 そんざい する場合 ばあい でも、他者 たしゃ の行動 こうどう に寛容 かんよう であるべきだと主張 しゅちょう する[ 4] 。これらの異 こと なる思想 しそう 運動 うんどう の概念 がいねん は、かなり微妙 びみょう であり、絶対 ぜったい 的 てき な説明 せつめい ではない。記述 きじゅつ 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は必 かなら ずしもメタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ を採用 さいよう するわけではない。また、すべてのメタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ が規範 きはん 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ を採用 さいよう するわけではない[ 5] 。
特 とく にアメリカ の哲学 てつがく 者 しゃ リチャード・ローティ は、「相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ 」というレッテルが歪 ゆが められ、一種 いっしゅ の軽蔑 けいべつ 的 てき (英語 えいご 版 ばん ) な言葉 ことば となっていると主張 しゅちょう している。彼 かれ は具体 ぐたい 的 てき には、そのようにラベル付 らべるつ けされた思想家 しそうか は通常 つうじょう 、単 たん に「哲学 てつがく 的 てき な意見 いけん の選択 せんたく の根拠 こんきょ が以前 いぜん に考 かんが えられていたよりもアルゴリズム的 てき でない」という信念 しんねん を持 も っているだけであり、あらゆる概念的 がいねんてき な考 かんが えが他 た のどの考 かんが えとも同 おな じくらい妥当 だとう であるわけではない、と述 の べている。この精神 せいしん で、ローティは「哲学 てつがく 者 しゃ たちは...ますます文化 ぶんか の他 ほか の部分 ぶぶん から孤立 こりつ している」と嘆 なげ いている[ 6] 。
数 すう 千 せん 年 ねん にわたり、文明 ぶんめい の歴史 れきし の中 なか で、道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ はさまざまな文脈 ぶんみゃく で議論 ぎろん されてきた。古代 こだい ギリシアや歴史 れきし 的 てき なインドなどの地域 ちいき で特 とく に注目 ちゅうもく される議論 ぎろん が行 おこな われており、現代 げんだい に至 いた るまでその議論 ぎろん は続 つづ いている。哲学 てつがく 者 しゃ によって作成 さくせい された資料 しりょう 以外 いがい にも、芸術 げいじゅつ 、宗教 しゅうきょう 、科学 かがく など、さまざまな分野 ぶんや でも注目 ちゅうもく を集 あつ めている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
記述 きじゅつ 的 てき 道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、同 おな じ事実 じじつ が真 しん であり、同 おな じ結果 けっか が起 お こりそうであっても、行動 こうどう の正 ただ しい方向 ほうこう について根本 こんぽん 的 てき な意見 いけん の不一致 ふいっち が存在 そんざい するという、積極 せっきょく 的 てき または記述 きじゅつ 的 てき な立場 たちば である[ 7] 。これは異 こと なる文化 ぶんか が異 こと なる道徳 どうとく 基準 きじゅん を持 も っているという観察 かんさつ に由来 ゆらい するものである。
記述 きじゅつ 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、そのような意見 いけん の相違 そうい を踏 ふ まえて、すべての行動 こうどう を寛容 かんよう すべきだと主張 しゅちょう するわけではない。つまり、彼 かれ らは必 かなら ずしも規範 きはん 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ ではない。同様 どうよう に、彼 かれ らは道徳 どうとく 的 てき な判断 はんだん の意味 いみ 論 ろん 、存在 そんざい 論 ろん 、または認識 にんしき 論 ろん に対 たい して必 かなら ずしもいかなるコミットメントも持 も っているわけではない。つまり、すべての記述 きじゅつ 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ がメタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ ではない[要 よう 出典 しゅってん ] 。
記述 きじゅつ 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、人類 じんるい 学 がく や社会 しゃかい 学 がく などの学術 がくじゅつ 領域 りょういき で広 ひろ く受 う け入 い れられており、すべての歴史 れきし 的 てき および文化 ぶんか 的 てき な状況 じょうきょう で常 つね に同 おな じ道徳 どうとく 的 てき な、そして倫理 りんり 的 てき な枠組 わくぐ みが存在 そんざい すると想定 そうてい することは誤 あやま りであることを単 たん に認 みと めている[ 8] 。
メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、人々 ひとびと が道徳 どうとく 的 てき な問題 もんだい について意見 いけん の不一致 ふいっち を持 も っているだけでなく、「善 ぜん 」「悪 あく 」「正 ただし 」「誤 あやま 」といった用語 ようご が普遍 ふへん 的 てき (英語 えいご 版 ばん ) な真理 しんり 条件 じょうけん に従 したが うものではなく、むしろ個人 こじん または一群 いちぐん の人々 ひとびと の伝統 でんとう 、信念 しんねん 、または慣習 かんしゅう に相対 そうたい 的 てき であると考 かんが えている[ 7] 。アメリカの人類 じんるい 学者 がくしゃ ウィリアム・グラハム・サムナー は、この見解 けんかい の影響 えいきょう 力 りょく のある提唱 ていしょう 者 しゃ であった。彼 かれ は1906年 ねん の著書 ちょしょ 『民族 みんぞく 習慣 しゅうかん 』で、人々 ひとびと が正 ただ しいと考 かんが えることや間 あいだ 違 ちが っていると考 かんが えることは、文化 ぶんか の伝統 でんとう 、習慣 しゅうかん 、実践 じっせん に完全 かんぜん に(主 しゅ としてではなく)形成 けいせい されると主張 しゅちょう している。さらに、彼 かれ の人間 にんげん の理解 りかい の分析 ぶんせき において、文化 ぶんか の地域 ちいき 的 てき な道徳 どうとく によって提供 ていきょう される以上 いじょう の高 たか い道徳 どうとく 基準 きじゅん は存在 そんざい しないため、文化 ぶんか の道徳 どうとく の正 ただ しさまたは間 あいだ 違 ちが いに関 かん する横断 おうだん 的 てき な判断 はんだん は正当 せいとう 化 か され得 え ないと考 かんが えられる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、まず記述 きじゅつ 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ である。すなわち、同 おな じ事実 じじつ の集合 しゅうごう が与 あた えられた場合 ばあい 、ある社会 しゃかい や個人 こじん は、社会 しゃかい 的 てき または個人 こじん 的 てき な規範 きはん に基 もと づいて、人々 ひとびと が「すべき」と考 かんが えることや好 この むことについて根本 こんぽん 的 てき な意見 いけん の不一致 ふいっち があると信 しん じている。さらに、彼 かれ らは、これらの意見 いけん の相違 そうい をどのような独立 どくりつ した評価 ひょうか 基準 きじゅん を用 もち いても裁定 さいてい することはできないと主張 しゅちょう する。関連 かんれん する基準 きじゅん へのあらゆる呼 よ びかけは常 つね に個人 こじん 的 てき なものであり、最良 さいりょう の場合 ばあい でも社会 しゃかい 的 てき なものに過 す ぎないのである[要 よう 出典 しゅってん ] 。
この見解 けんかい は道徳 どうとく 的 てき 普遍 ふへん 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) とは対照 たいしょう 的 てき であり、善意 ぜんい のある人々 ひとびと が意見 いけん の不一致 ふいっち を持 も っていたり、説得 せっとく されない人々 ひとびと がいたりするにもかかわらず、行動 こうどう が別 べつ の行動 こうどう よりも「道徳 どうとく 的 てき 」(道徳 どうとく 的 てき に望 のぞ ましい)であるという意味 いみ のある面 めん が依然 いぜん として存在 そんざい すると主張 しゅちょう する。つまり、彼 かれ らは、普遍 ふへん 的 てき に受 う け入 い れられるかどうかに関係 かんけい なく、「道徳 どうとく 的 てき な事実 じじつ 」と呼 よ ぶのに値 あたい する客観 きゃっかん 的 てき な評価 ひょうか 基準 きじゅん が存在 そんざい すると信 しん じている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
規範 きはん 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき な命題 めいだい だけでなく、それが我々 われわれ が行 おこな うべきであることに規範 きはん 的 てき な意味 いみ を持 も つと考 かんが えている。規範 きはん 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ が、個人 こじん 的 てき または文化 ぶんか 的 てき な道徳 どうとく 基準 きじゅん に反 はん する行動 こうどう であっても他者 たしゃ の行動 こうどう を寛容 かんよう すべきであると意味 いみ すると主張 しゅちょう している。多 おお くの哲学 てつがく 者 しゃ は同意 どうい しない。それは部分 ぶぶん 的 てき には相対 そうたい 主義 しゅぎ 的 てき 前提 ぜんてい から「すべき」という結論 けつろん を導 みちび く難 むずか しさによるものである[ 9] 。メタ倫理 りんり 学 がく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、規範 きはん 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ の指令 しれい 的 てき な主張 しゅちょう を排除 はいじょ するように思 おも われる。い換 いか えれば、規範 きはん 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、「私 わたし たちは行動 こうどう を寛容 かんよう することが道徳 どうとく 的 てき である」というような声明 せいめい をする際 さい に常 つね に「他 た の人々 ひとびと は特定 とくてい の行動 こうどう に対 たい する『不 ふ 寛容 かんよう さ』が道徳 どうとく 的 てき である」と付 つ け加 くわ えることなく、困難 こんなん を感 かん じるかもしれない[ 10] 。ラッセル・ブラックフォードのような哲学 てつがく 者 しゃ は、ある程度 ていど まで不 ふ 寛容 かんよう 性 せい が重要 じゅうよう であるとさえ主張 しゅちょう している。彼 かれ は次 つぎ のように述 の べている。「私 わたし たちは苦難 くなん や苦痛 くつう を引 ひ き起 お こす道徳 どうとく 的 てき 伝統 でんとう について静 しず かに受 う け入 い れる必要 ひつよう はない。また、自分 じぶん 自身 じしん の社会 しゃかい の道徳 どうとく 的 てき な規範 きはん を、それが効果 こうか 的 てき でないか、逆 ぎゃく 効果 こうか であるか、単 たん に不 ふ 必要 ひつよう である場合 ばあい に受 う け入 い れる必要 ひつよう もない」[ 11] 。つまり、普遍 ふへん 的 てき な規定 きてい や道徳 どうとく が存在 そんざい しない場合 ばあい でも、個人 こじん や集団 しゅうだん は自分 じぶん たちの主観 しゅかん 的 てき な価値 かち 観 かん を他者 たしゃ に対 たい して守 まも ることは完全 かんぜん に合理 ごうり 的 てき (かつ実践 じっせん 的 てき )であり得 え るのである。また、他 た の文化 ぶんか が「自 みずか らの目標 もくひょう 」を効果 こうか 的 てき に追求 ついきゅう していないことを批判 ひはん することもできる[ 12] 。
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、「この国 くに ではXをすることは間違 まちが っている」といった普遍 ふへん 的 てき でない声明 せいめい や「私 わたし にとってはYをすることが正 ただ しい」といった声明 せいめい にも意味 いみ を持 も たせようとするかもしれない[ 9] 。
道徳 どうとく 的 てき 普遍 ふへん 主義 しゅぎ 者 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) はさらに、彼 かれ らの制度 せいど がしばしば寛容 かんよう を正当 せいとう 化 か すると主張 しゅちょう し、道徳 どうとく 的 てき な制度 せいど に対 たい する意見 いけん の相違 そうい が常 つね に干渉 かんしょう を要求 ようきゅう するわけではなく、特 とく に攻撃 こうげき 的 てき な干渉 かんしょう を要求 ようきゅう するわけではないと主張 しゅちょう している[ 9] 。例 たと えば、功利 こうり 主義 しゅぎ 者 しゃ は他 た の社会 しゃかい の慣行 かんこう を「無知 むち 」と呼 よ んだり、「より道徳 どうとく 的 てき ではない」と言 い ったりするかもしれないが、行動 こうどう の選択 せんたく に関 かん しては議論 ぎろん が多 おお い(たとえば、より良 よ い教育 きょういく や技術 ぎじゅつ の提供 ていきょう に焦点 しょうてん を当 あ てるかどうかなど)[ 13] 。
スコットランドの哲学 てつがく 者 しゃ デイヴィッド・ヒューム は直接的 ちょくせつてき な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の視点 してん を持 も つことはなかったが、彼 かれ の考 かんが え方 かた は洗練 せんれん された意見 いけん を持 も ち、相対 そうたい 主義 しゅぎ の発展 はってん に広 ひろ く影響 えいきょう を与 あた えた[要 よう 出典 しゅってん ]
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、数 すう 千 せん 年 ねん にわたり、さまざまな文化 ぶんか で人々 ひとびと が持 も ってきた見解 けんかい や議論 ぎろん を包括 ほうかつ している。たとえば、古代 こだい ジャイナ教 きょう のアネーカーンタヴァーダ の原則 げんそく は、真実 しんじつ や現実 げんじつ が異 こと なる視点 してん から異 こと なって認識 にんしき され、単一 たんいつ の視点 してん が完全 かんぜん な真実 しんじつ ではないと述 の べている[ 14] [ 15] 。また、ギリシャ の哲学 てつがく 者 しゃ プロタゴラス (紀元前 きげんぜん 481年 ねん –紀元前 きげんぜん 420年 ねん )はその有名 ゆうめい な言葉 ことば で「人間 にんげん は万物 ばんぶつ の尺度 しゃくど である」と主張 しゅちょう した[ 16] [ 17] 。ギリシャの歴史 れきし 家 か ヘロドトス (紀元前 きげんぜん 484年 ねん –紀元前 きげんぜん 420年 ねん )は、各 かく 社会 しゃかい が自身 じしん の信念 しんねん 体系 たいけい ややり方 かた を他 た のすべてよりも優 すぐ れていると見 み なしていることを観察 かんさつ した。セクストス・エンペイリコス や他 た の古代 こだい ピュロニズム (英語 えいご 版 ばん ) 哲学 てつがく 者 しゃ は客観 きゃっかん 的 てき な道徳 どうとく の存在 そんざい を否定 ひてい した[ 18] 。
近代 きんだい 初期 しょき のバールーフ・デ・スピノザ (1632-1677)は、何 なに もが本質 ほんしつ 的 てき に善 ぜん でも悪 あく でもないと考 かんが えていたことが特筆 とくひつ される[ 19] 。18世紀 せいき の啓蒙 けいもう 思想家 しそうか デイヴィッド・ヒューム (1711-1776)は、現代 げんだい の情緒 じょうちょ 主義 しゅぎ と道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の父 ちち としていくつかの重要 じゅうよう な側面 そくめん で役割 やくわり を果 は たしたが、ヒューム自身 じしん は相対 そうたい 主義 しゅぎ を支持 しじ していない。彼 かれ は事実 じじつ と価値 かち の区別 くべつ をし、道徳 どうとく 的 てき 判断 はんだん は後者 こうしゃ で構成 こうせい されると提案 ていあん した。なぜなら、道徳 どうとく 的 てき 判断 はんだん は世界 せかい で得 え られる検証 けんしょう 可能 かのう な事実 じじつ ではなく、感情 かんじょう と情熱 じょうねつ に関 かか わるからである。しかし、ヒュームは一部 いちぶ の感情 かんじょう を普遍 ふへん 的 てき と見 み なしていた。彼 かれ は道徳 どうとく に客観 きゃっかん 的 てき な基準 きじゅん が存在 そんざい しないと強 つよ く否定 ひてい し、宇宙 うちゅう が私 わたし たちの好 この みや苦 くる しみに無 む 関心 かんしん であると示唆 しさ した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
フリードリヒ・ニーチェ (1844-1900)は、価値 かち は目標 もくひょう や自己 じこ に相対 そうたい 的 てき であるため、自分 じぶん 自身 じしん の価値 かち を評価 ひょうか しなければならないと信 しん じていた。彼 かれ は道徳 どうとく 的 てき 価値 かち 観 かん を分析 ぶんせき し、それが私 わたし たちにどれだけの影響 えいきょう を与 あた えるかを強調 きょうちょう した。ニーチェによれば、道徳 どうとく の問題 もんだい は、「善 ぜん 」とされる人々 ひとびと が教育 きょういく を受 う けた有力 ゆうりょく な貴族 きぞく であり、自 みずか らのランク以下 いか の誰 だれ よりも優 すぐ れていると考 かんが えていたことである。したがって、善 ぜん とされるものは相対 そうたい 的 てき である。善 ぜん とされる「良 よ い人間 にんげん 」は、自分 じぶん の内 うち に誘惑 ゆうわく や迷 まよ いがあるかどうかについて疑問 ぎもん 視 し されず、道徳 どうとく 観念 かんねん によって人類 じんるい をより良 よ くするのに役立 やくだ たないとされる「悪 わる い人間 にんげん 」よりも重要 じゅうよう であるとされる。しかし、善 ぜん と悪 あく とされるものは相対 そうたい 的 てき であるため、それらに対 たい する私 わたし たちの重要 じゅうよう 性 せい と価値 かち も相対 そうたい 的 てき であるべきである。彼 かれ は道徳 どうとく そのものが危険 きけん である可能 かのう 性 せい もあると提案 ていあん した[ 20] 。ニーチェは、道徳 どうとく は能動 のうどう 的 てき に構築 こうちく されるべきであり、それらは個々人 ここじん が真実 しんじつ 、平等 びょうどう 、善悪 ぜんあく などを考 かんが えるうえでの相対 そうたい 的 てき なものであり、特定 とくてい の権力 けんりょく を持 も つ一群 いちぐん の個人 こじん によって作 つく られた道徳 どうとく 法 ほう に反応 はんのう するべきではないと主張 しゅちょう した[ 21] 。
一人 ひとり の学者 がくしゃ は、反 はん 実在 じつざい 論 ろん 的 てき な解釈 かいしゃく を支持 しじ し、「ニーチェの価値 かち に関 かん する反 はん 実在 じつざい 論 ろん 的 てき な中心 ちゅうしん 的 てき な議論 ぎろん は説明 せつめい 的 てき である。道徳 どうとく 的 てき 事実 じじつ は経験 けいけん の『最良 さいりょう の説明 せつめい 』に組 く み込 こ まれず、客観 きゃっかん 的 てき な世界 せかい の実在 じつざい 成分 せいぶん ではない。道徳 どうとく 的 てき 価値 かち (英語 えいご 版 ばん ) は、要 よう するに『説明 せつめい できる』のである」と述 の べている[ 22] 。
ニーチェは、確 たし かにプラトンの超越 ちょうえつ をイデア として優先 ゆうせん することを批判 ひはん している。プラトニズムの視点 してん では、「真実 しんじつ 」または最 もっと も現実 げんじつ 的 てき なものは、超 ちょう 世界 せかい 的 てき なものであり、経験 けいけん の(現実 げんじつ 的 てき な)世界 せかい はイデアの単 たん なる「影 かげ 」のようなものである。これは、プラトンの洞窟 どうくつ の譬喩 ひゆ で最 もっと も有名 ゆうめい に表現 ひょうげん されている。ニーチェは、この超越 ちょうえつ 性 せい がキリスト教 きりすときょう でも成長 せいちょう していったと考 かんが えており、キリスト教 きょう では卑下 ひげ と服従 ふくじゅう という生命 せいめい を否定 ひてい する道徳 どうとく 的 てき 特質 とくしつ が優先 ゆうせん された。(『善悪 ぜんあく の彼岸 ひがん 』、『道徳 どうとく の系譜 けいふ 』、『偶像 ぐうぞう の黄昏 たそがれ (英語 えいご 版 ばん ) 』、『反 はん キリスト(英語 えいご 版 ばん ) 』などを参照 さんしょう )[要 よう 出典 しゅってん ]
ルース・ベネディクト (1887-1948)などの人類 じんるい 学者 がくしゃ は、エスノセントリズム (自分 じぶん 自身 じしん の文化 ぶんか の基準 きじゅん を用 もち いて研究 けんきゅう 対象 たいしょう を評価 ひょうか すること)に対 たい して注意 ちゅうい を促 うなが している。ベネディクトは、超越 ちょうえつ 的 てき な道徳 どうとく は存在 そんざい しないと述 の べ、存在 そんざい するのは社会 しゃかい 的 てき に構築 こうちく された習慣 しゅうかん だけである(『文化 ぶんか 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 』を参照 さんしょう )と述 の べており、習慣 しゅうかん を比較 ひかく する際 さい には、人類 じんるい 学者 がくしゃ は「人類 じんるい 学者 がくしゃ である限 かぎ り...一方 いっぽう を他方 たほう に対 たい して重視 じゅうし することを避 さ ける」と述 の べている[要 よう 出典 しゅってん ] 。ある程度 ていど 、社会 しゃかい 科学 かがく 者 しゃ や哲学 てつがく 者 しゃ は、異 こと なる社会 しゃかい 間 あいだ の信念 しんねん の大 おお きな違 ちが いの知識 ちしき の増加 ぞうか により、価値 かち に関 かん する客観 きゃっかん 的 てき で絶対 ぜったい 的 てき な基準 きじゅん が存在 そんざい するのか疑問 ぎもん に思 おも うようになった。これにより、相反 あいはん する信念 しんねん の調停 ちょうてい のための基準 きじゅん が存在 そんざい せず、異 こと なるシステムが同等 どうとう の妥当 だとう 性 せい を持 も つとする考 かんが えが生 う まれた。フィンランドの哲学 てつがく 者 しゃ 人類 じんるい 学者 がくしゃ であるエドワード・ウェスターマーク (1862-1939)は、詳細 しょうさい な道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の理論 りろん を初 はじ めて形成 けいせい した人物 じんぶつ の一人 ひとり として位置 いち づけられる。彼 かれ は、すべての道徳 どうとく 的 てき なアイデアを、個人 こじん の育 そだ ちに反映 はんえい される主観 しゅかん 的 てき な判断 はんだん として描写 びょうしゃ した。彼 かれ はG.E.ムーア (1873-1958)の倫理 りんり 的 てき 直観 ちょっかん 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) を否定 ひてい した。ムーアの倫理 りんり 的 てき 直感 ちょっかん 主義 しゅぎ は、20世紀 せいき 初頭 しょとう に流行 りゅうこう し、道徳 どうとく 的 てき な命題 めいだい を真実 しんじつ または偽 にせ であるとし、それらを私 わたし たちが特別 とくべつ な直感 ちょっかん の能力 のうりょく を通 つう じて知 し るとしたが、明 あき らかな信念 しんねん の違 ちが いが社会 しゃかい 間 あいだ に存在 そんざい することから、任意 にんい の固有 こゆう の直感 ちょっかん 的 てき な力 ちから が欠如 けつじょ していることの証拠 しょうこ であると述 の べた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
メタ倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の論拠 ろんきょ [ 編集 へんしゅう ]
進化 しんか 生物 せいぶつ 学 がく 、認知 にんち 心理 しんり 学 がく 、動物 どうぶつ 行動 こうどう 学 がく 、および進化 しんか 人類 じんるい 学 がく の研究 けんきゅう は、道徳 どうとく は進化 しんか のメカニズム によって形成 けいせい された自然 しぜん 現象 げんしょう であると主張 しゅちょう している[ 23] 。この場合 ばあい 、道徳 どうとく は種 たね の生存 せいぞん と成功 せいこう した繁殖 はんしょく を促進 そくしん する相対 そうたい 的 てき な社会 しゃかい 的 てき な慣習 かんしゅう の集合 しゅうごう と定義 ていぎ される。さらに、複数 ふくすう の協力 きょうりょく する種 たね を含 ふく むこともある[ 24] 。
文学 ぶんがく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、ギリシャ神話 しんわ の異 こと なるバージョンから始 はじ まる。象徴 しょうちょう 主義 しゅぎ は詩 し に複数 ふくすう の提案 ていあん を作 つく り出 だ した。構造 こうぞう 主義 しゅぎ は詩 し の多義 たぎ 性 せい を教 おし えてくれる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
相対 そうたい 主義 しゅぎ 的 てき な文学 ぶんがく 作品 さくひん の例 れい [要 よう 出典 しゅってん ] として次 つぎ のものを挙 あ げられる。ゴーゴリ の『デッド・ソウルズ』、ロレンス・ダレル の『アレクサンドリア四重奏 しじゅうそう 』、レーモン・クノー の『地下鉄 ちかてつ のザジ 』。
メタ倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ への批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
一部 いちぶ の哲学 てつがく 者 しゃ 、例 たと えばリチャード・マーヴィン・ヘア (1919年 ねん -2002年 ねん )は、文化 ぶんか 的 てき または宗教 しゅうきょう 的 てき 基準 きじゅん や規範 きはん に従 したが う道徳 どうとく 的 てき 主張 しゅちょう が事実 じじつ 内容 ないよう を欠 か いているとしても、道徳 どうとく 的 てき 命題 めいだい は人間 にんげん の論理 ろんり 的 てき 規則 きそく に従 したが うと主張 しゅちょう している。したがって、彼 かれ らは相反 あいはん する倫理 りんり 的 てき 判断 はんだん を持 も つことはできないと主張 しゅちょう する。これにより、道徳 どうとく 的 てき な標準 ひょうじゅん を共有 きょうゆう して道徳的 どうとくてき な論述 ろんじゅつ が可能 かのう となる。彼 かれ らは道徳 どうとく 的 てき 事実 じじつ の存在 そんざい を肯定 こうてい または否定 ひてい せず、ただし、人間 にんげん の論理 ろんり が道徳 どうとく 的 てき な主張 しゅちょう に適用 てきよう されると仮定 かてい する。したがって、彼 かれ らは非常 ひじょう に限定 げんてい 的 てき な意味 いみ で客観 きゃっかん 的 てき で好 この ましい道徳 どうとく 的 てき 正当 せいとう 化 か の基準 きじゅん を想定 そうてい する。しかし、ヘアによれば、人間 にんげん の論理 ろんり は相対 そうたい 主義 しゅぎ の一 ひと つの非常 ひじょう に重要 じゅうよう な意味 いみ で誤 あやま りを示 しめ している(ヘアの『Sorting out Ethics』を参照 さんしょう )。ヘアや他 た の哲学 てつがく 者 しゃ はまた、論理 ろんり 的 てき な制約 せいやく を除 のぞ いて、ある種 しゅ の道徳 どうとく 的 てき な用語 ようご を評価 ひょうか 的 てき な意味 いみ で同様 どうよう に扱 あつか うすべての制度 せいど が存在 そんざい することを指摘 してき している。これは、他 た の用語 ようご (たとえば、計測 けいそく が可能 かのう である)と同様 どうよう に普遍 ふへん 的 てき な理解 りかい を得 え て独立 どくりつ した基準 きじゅん に依存 いぞん しない用語 ようご 「より少 すく ない」または「より多 おお い」の扱 あつか いにも当 あ てはまる。これは、善 ぜん と悪 あく が非 ひ 道徳 どうとく 的 てき な意味 いみ で使用 しよう される場合 ばあい にも当 あ てはまる。例 たと えば、「これは『良 よ い』レンチである」と言 い ったり、「これは『悪 わる い』ホイールである」と言 い ったりするときである。このような用語 ようご の評価 ひょうか 的 てき な特性 とくせい により、異 こと なる信念 しんねん を持 も つ人々 ひとびと が道徳 どうとく 的 てき な問題 もんだい について有意義 ゆういぎ な議論 ぎろん を行 おこな うことができる。たとえば、彼 かれ らがある「事実 じじつ 」について異 こと なる意見 いけん を持 も っているとしてもである[要 よう 出典 しゅってん ] 。
「倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 」は、『モラルの概念 がいねん 』の最初 さいしょ の2章 しょう のトピックであり、ウォルター・テレンス・ステイス (英語 えいご 版 ばん ) は道徳 どうとく 的 てき 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) に反対 はんたい し、道徳 どうとく 的 てき 普遍 ふへん 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) を支持 しじ している[ 25] [ 26] 。
批評 ひひょう 家 か たちは、倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ が道徳 どうとく に関 かん する議論 ぎろん の基本 きほん 的 てき な前提 ぜんてい を拒否 きょひ しているため、または意見 いけん の相違 そうい を調停 ちょうてい できないため、倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は失敗 しっぱい すると主張 しゅちょう している。イブン・ワラック やエディ・タバッシュ (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく む多 おお くの批評 ひひょう 家 か は、メタ倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ が本質 ほんしつ 的 てき に規範 きはん 的 てき な道徳 どうとく の議論 ぎろん から自 みずか らを排除 はいじょ していると指摘 してき している。なぜなら、彼 かれ らは理性 りせい を通 つう じて発見 はっけん されることができる正 ただ しい答 こた えや間 あいだ 違 ちが った答 こた えが存在 そんざい するという前提 ぜんてい を拒否 きょひ しているように見 み えるからである。実際 じっさい 的 てき には、このような批評 ひひょう 家 か は、メタ倫理 りんり 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は道徳 どうとく 的 てき 虚無 きょむ 主義 しゅぎ に相当 そうとう するか、あるいは矛盾 むじゅん していると主張 しゅちょう する[ 27] 。
これらの批評 ひひょう 家 か は、具体 ぐたい 的 てき には、道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ が規範 きはん 的 てき な道徳 どうとく 的 てき 議論 ぎろん への参加 さんか 範囲 はんい を、議論 ぎろん そのものの否定 ひてい 、または意見 いけん の相違 そうい する双方 そうほう を正 ただ しいと見 み なすことに限定 げんてい していると主張 しゅちょう している。例 たと えば、道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、個人 こじん が快楽 かいらく 主義 しゅぎ 的 てき な快楽 かいらく のために殺人 さつじん や拷問 ごうもん を行 おこな うことに異議 いぎ を唱 とな えるためには、好 この みに訴 うった えるしかない[ 28] 。この相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ が広 ひろ く受 う け入 い れられている議論 ぎろん の用語 ようご を拒否 きょひ しているという非難 ひなん は、他 た の「議論 ぎろん の停滞 ていたい 要因 よういん 」(例 たと えば、独 どく 我 が 論 ろん の一部 いちぶ 形式 けいしき や帰納 きのう の拒否 きょひ )に対 たい しても使 つか われる主張 しゅちょう と似 に ている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
哲学 てつがく 者 しゃ サイモン・ブラックバーン も同様 どうよう の批判 ひはん を行 おこな っており、道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ が意見 いけん の相違 そうい を調停 ちょうてい することができないため、単 たん に「道徳 どうとく 的 てき な体系 たいけい 」として失敗 しっぱい していると説明 せつめい している[ 29] [ 30] 。
一部 いちぶ の議論 ぎろん は、どのような道徳 どうとく 的 てき 正当 せいとう 化 か や真実 しんじつ が相対 そうたい 的 てき であるとされるのかについて疑問 ぎもん を呈 てい することから生 しょう じる。人々 ひとびと は文化 ぶんか 、人種 じんしゅ 、宗教 しゅうきょう などに基 もと づいて多 おお くのグループに所属 しょぞく しているため、そのグループの価値 かち がメンバーに対 たい して権威 けんい を持 も つと主張 しゅちょう することは困難 こんなん である。道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の一部 いちぶ は、それらの真実 しんじつ がどのグループの人々 ひとびと に対 たい して相対 そうたい 的 てき であるかを特定 とくてい することである。もう一 ひと つの要素 ようそ は、多 おお くの人々 ひとびと が複数 ふくすう のグループに所属 しょぞく しているということである。一人 ひとり が所属 しょぞく するグループの信念 しんねん は基本 きほん 的 てき に異 こと なる場合 ばあい があり、したがって相対 そうたい 的 てき なものと優位 ゆうい なものをどちらが選 えら ぶかを決 き めるのは難 むずか しい。道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ を実践 じっせん する人 ひと は、いずれの意見 いけん にも反対 はんたい する必要 ひつよう はないが、自分 じぶん なりの意見 いけん や議論 ぎろん を展開 てんかい するであろう[ 31] 。
カトリック教会 きょうかい と一部 いちぶ の世俗 せぞく 的 てき 知識 ちしき 人 じん は、ヨーロッパの戦後 せんご の堕落 だらく を絶対 ぜったい 的 てき な価値 かち の排除 はいじょ による道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ に帰 き すると主張 しゅちょう している。ベネディクト16世 せい 教皇 きょうこう やマルチェッロ・ペラ (英語 えいご 版 ばん ) らは、1960年 ねん 頃 ごろ 以降 いこう 、ヨーロッパ人 じん がキリスト教 きりすときょう に根 ね ざした多 おお くの伝統 でんとう 的 てき な規範 きはん を大 だい 規模 きぼ に放棄 ほうき し、絶 た えず変化 へんか する相対 そうたい 的 てき な道徳 どうとく 的 てき ルールに置 お き換 か えたと主張 しゅちょう している。この視点 してん では、性的 せいてき 活動 かつどう は生殖 せいしょく から切 き り離 はな され、家族 かぞく の重要 じゅうよう 性 せい が低下 ていか し、少子化 しょうしか が起 お こったとされている[ 32] 。カトリック教会 きょうかい による道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ への最 もっと も権威 けんい ある反応 はんのう は、ヨハネ・パウロ2世 せい 教皇 きょうこう の回 かい 勅 みことのり 『Veritatis Splendor (英語 えいご 版 ばん ) 』に見 み られる。カトリック教会 きょうかい による道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ への主 おも な批判 ひはん は、選択 せんたく 的 てき 中絶 ちゅうぜつ などの現代 げんだい 的 てき な論争 ろんそう と密接 みっせつ に関連 かんれん している。
ビクク・ボディ は、アメリカの仏教 ぶっきょう 僧侶 そうりょ であり、次 つぎ のように述 の べている。「物質 ぶっしつ 主義 しゅぎ 的 てき な世界 せかい 観 かん は、私的 してき な主観性 しゅかんせい に価値 かち や精神 せいしん 性 せい の理念 りねん を割 わ り当 あ てることで...道徳 どうとく の確 たし かな客観 きゃっかん 的 てき な基盤 きばん を侵害 しんがい しようとする。その結果 けっか 、私 わたし たちが今日 きょう 目撃 もくげき している道徳 どうとく 的 てき 退廃 たいはい が広 ひろ がる。この傾向 けいこう に対抗 たいこう するためには、単 たん なる道徳 どうとく 的 てき な励起 れいき だけでは不十分 ふじゅうぶん である。道徳 どうとく が行動 こうどう の効果 こうか 的 てき な指針 ししん として機能 きのう するためには、それ自体 じたい が自己 じこ 正当 せいとう 化 か のスキームとして提示 ていじ されるのではなく、道徳 どうとく を超 ちょう 個人 こじん 的 てき な秩序 ちつじょ に基 もと づかせるより包括 ほうかつ 的 てき な精神 せいしん 的 てき システムに組 く み込 こ む必要 ひつよう がある。宗教 しゅうきょう は、明確 めいかく な言葉 ことば で、道徳 どうとく と倫理 りんり 的 てき 価値 かち が個人 こじん の意見 いけん の装飾 そうしょく 的 てき な飾 かざ りではなく、主観 しゅかん 的 てき な上部 じょうぶ 構造 こうぞう でもなく、現実 げんじつ の核 かく に組 く み込 こ まれた宇宙 うちゅう の本質 ほんしつ 的 てき な法則 ほうそく であることを肯定 こうてい しなければならない」[ 33] 。
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ と倫理 りんり 主観 しゅかん 主義 しゅぎ の混同 こんどう されやすい視点 してん [ 編集 へんしゅう ]
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ と倫理 りんり 主観 しゅかん 主義 しゅぎ の違 ちが い[ 編集 へんしゅう ]
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は、倫理 りんり 主観 しゅかん 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) (倫理 りんり 的 てき 主張 しゅちょう の真理 しんり が心 しん に独立 どくりつ していないという見解 けんかい )とは異 こと なる立場 たちば である[ 34] [ 35] 。これらの見解 けんかい はしばしば一緒 いっしょ に持 も たれているが、互 たが いに必然 ひつぜん 的 てき に結 むす びついているわけではない[ 34] 。たとえば、「私 わたし が所属 しょぞく する文化 ぶんか の人々 ひとびと がそれを正 ただ しいと考 かんが えるため、私 わたし にとって何 なに かが道徳 どうとく 的 てき に正 ただ しい」と主張 しゅちょう する人 ひと は、道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ であり(正 ただ しいかどうかは誰 だれ が行 おこな っているかに依存 いぞん する)、倫理 りんり 主観 しゅかん 主義 しゅぎ 者 しゃ でもある(正 ただ しいかどうかは心 しん の状態 じょうたい 、つまり人々 ひとびと が正 ただ しいと思 おも うかどうかによって決 き まる)[ 36] 。
しかし、神 かみ が正 ただ しいと思 おも うことが正 ただ しいとされるものが正 ただ しいとされるかどうかと考 かんが える人 ひと は、主観 しゅかん 主義 しゅぎ 者 しゃ (道徳 どうとく は心 しん の状態 じょうたい に基 もと づく)であり、相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ (道徳 どうとく は全 すべ ての人 ひと にとって同 おな じである)ではない[ 37] 。それに対 たい して、自分 じぶん が行動 こうどう する際 さい には自国 じこく の法律 ほうりつ に従 したが わなければならないと主張 しゅちょう する人 ひと は、相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ (道徳 どうとく はあなたが誰 だれ であるかに依存 いぞん する)であり、主観 しゅかん 主義 しゅぎ 者 しゃ ではない(道徳 どうとく は心 しん の状態 じょうたい ではなく、世界 せかい の事実 じじつ に基 もと づく)[ 38] 。
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ と道徳 どうとく 反 はん 実在 じつざい 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ の立場 たちば がどのように構築 こうちく されるかによって、道徳 どうとく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん から独立 どくりつ しているかどうかは異 こと なる[ 38] 。道徳 どうとく 的 てき 実在 じつざい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、以下 いか の3つの主張 しゅちょう のいずれかのバージョンを支持 しじ しているとされる[ 39] [ 40] 。
意味 いみ 論 ろん の主張 しゅちょう : 道徳 どうとく 的 てき な文 ぶん は意味 いみ を持 も ち、命題 めいだい を表現 ひょうげん するか、真偽 しんぎ がある可能 かのう 性 せい がある。
真理 しんり 論 ろん の主張 しゅちょう : いくつかの道徳 どうとく 的 てき な命題 めいだい は真 しん である。
形而上学 けいじじょうがく の主張 しゅちょう : 道徳 どうとく 的 てき な事実 じじつ の形而上学 けいじじょうがく 的 てき なステータスは、他 た の世界 せかい の事実 じじつ と重要 じゅうよう な違 ちが いがなく、堅牢 けんろう であり、一般 いっぱん 的 てき である。
多 おお くの道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ はこれらの主張 しゅちょう のいずれかを否定 ひてい しており、したがって道徳 どうとく 反 はん 実在 じつざい 主義 しゅぎ 者 しゃ である可能 かのう 性 せい があるが、否定 ひてい する必要 ひつよう はない[ 36] 。自国 じこく の法律 ほうりつ に従 したが って行動 こうどう すべきであると主張 しゅちょう する道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ は、以下 いか の3つの主張 しゅちょう をすべて受 う け入 い れる:道徳 どうとく 的 てき な事実 じじつ は真偽 しんぎ がありうる命題 めいだい を表現 ひょうげん する(特定 とくてい の行動 こうどう が法律 ほうりつ に違反 いはん しているかどうかを確認 かくにん できる)、いくつかの道徳 どうとく 的 てき な命題 めいだい は真 しん である(特定 とくてい の行動 こうどう が誰 だれ かの国 くに の法律 ほうりつ に適合 てきごう している)、道徳 どうとく 的 てき な事実 じじつ は一般 いっぱん 的 てき である(法律 ほうりつ は心的 しんてき 状態 じょうたい ではなく、世界 せかい の物理 ぶつり 的 てき な対象 たいしょう である)。ただし、この見解 けんかい は国籍 こくせき に依存 いぞん する相対 そうたい 主義 しゅぎ の立場 たちば である[ 38] 。
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