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鈴木すずき喜三郎きさぶろう

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鈴木すずき喜三郎きさぶろう
生年月日せいねんがっぴ 慶応けいおう3ねん10月11にち
(1867-11-06) 1867ねん11月6にち
幕末ばくまつ
江戸えど幕府ばくふ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん武蔵むさしこくたちばないつきぐん大師河原だいしがわらむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1940-06-24) 1940ねん6月24にち(72さいぼつ
死没しぼつ 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく東京とうきょう
出身しゅっしんこう 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
配偶はいぐうしゃ 鈴木すずきカヅ
親族しんぞく 鳩山はとやま和夫かずお義父ぎふ
鳩山はとやま一郎いちろう義弟ぎてい

日本の旗貴族きぞくいん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1920ねん6がつ2にち - 1932ねん1がつ21にち
在任ざいにん期間きかん 1936ねん4がつ28にち - 1940ねん6がつ24にち

在任ざいにん期間きかん 1921ねん10がつ5にち - 1924ねん1がつ7にち

日本の旗だい27・33だい司法しほう大臣だいじん
在任ざいにん期間きかん 1924ねん1がつ7にち - 1924ねん6がつ11にち
在任ざいにん期間きかん 1931ねん12月13にち - 1932ねん3がつ25にち

その職歴しょくれき
日本の旗だい38だい内務ないむ大臣だいじん
(1927ねん4がつ20日はつか - 1928ねん5がつ4にち
日本の旗衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
神奈川かながわけんだい2選出せんしゅつ

(1932ねん2がつ20日はつか - 1936ねん1がつ21にち
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい
(1932ねん5がつ - 1937ねん2がつ
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鈴木すずき 喜三郎きさぶろう(すずき きさぶろう、慶応けいおう3ねん10月11にち1867ねん11月6にち)- 昭和しょうわ15ねん1940ねん6月24にち)は、日本にっぽん司法しほう官僚かんりょう政治せいじ立憲りっけん政友せいゆうかいだい7だい総裁そうさい旧姓きゅうせい川島かわしま鳩山はとやま和夫かずお長女ちょうじょカヅと結婚けっこんし、鳩山はとやま一郎いちろう義弟ぎていにあたる。司法しほう官僚かんりょうから、貴族きぞくいん議員ぎいん清浦きようら奎吾内閣ないかく司法しほう大臣だいじん田中たなか義一ぎいち内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん歴任れきにんし、衆議院しゅうぎいん議員ぎいんから再度さいど貴族きぞくいん議員ぎいんとなった。いぬやしなえあつし暗殺あんさつ立憲りっけん政友せいゆうかいだい7だい総裁そうさい在任ざいにん昭和しょうわ7 - 昭和しょうわ12、1932ねん - 1937ねん)をつとめた。位階いかい勲等くんとうしたがえ勲一等くんいっとう

生涯しょうがい

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慶応けいおう3ねん10がつ11にち(1867ねん11月6にち)、武蔵むさしこくたちばないつきぐん大師河原だいしがわらむら神奈川かながわけん川崎かわさき)の川島かわしまとみみぎ衛門えもん三男さんなんまれる。大師本だいしほんまち天台宗てんだいしゅうあきら長寺おさでらの12せい鈴木すずき慈孝養子ようしとなる。明治めいじ15ねん1882ねん)7がつ東京とうきょう外国がいこく学校がっこう仏語ふつご学科がっか入学にゅうがく明治めいじ20ねん(1887ねん)4がつだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく明治めいじ21ねん(1888ねん)7がつどうそつ明治めいじ24ねん(1891ねん)、帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ)の仏法ぶっぽう首席しゅせき卒業そつぎょう司法省しほうしょう入省にゅうしょうする。入省にゅうしょう司法官しほうかん試補しほから、明治めいじ26ねん(1893ねん)に判事はんじとなり東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじ東京とうきょう控訴こうそいん判事はんじとなり、(鳩山はとやま一郎いちろうあね)カヅと結婚けっこん明治めいじ40ねん1907ねん)から41ねんまでヨーロッパ諸国しょこく視察しさつして司法しほう制度せいど裁判さいばん事務じむ取扱とりあつかい調査ちょうさした。帰国きこく大審院だいしんいん判事はんじ歴任れきにんする。東京とうきょう地裁ちさいなどの地方裁判所ちほうさいばんしょちょうて、検事けんじてん辣腕らつわんとしてられ、「うで喜三郎きさぶろう」の異名いみょうった。司法省しほうしょう刑事けいじ局長きょくちょう大審院だいしんいん検事けんじ司法省しほうしょう法務局ほうむきょくちょう歴任れきにんし、大正たいしょう3ねん(1914ねん)、司法しほう次官じかん就任しゅうにんし、7ねんはんあいだその地位ちいにあった。

鈴木すずき平沼ひらぬま騏一郎きいちろうもと司法しほう官僚かんりょうとして重用じゅうようされ、政友せいゆうかい松田まつだ正久まさひさ協力きょうりょく関係かんけい構築こうちくして司法しほう改革かいかく実施じっしした。原内はらうちかく成立せいりつ司法しほう大臣だいじん就任しゅうにん平沼ひらぬま辞退じたいし、わって鈴木すずき入閣にゅうかく検討けんとうされたが、鈴木すずきは「兄貴あにきぶんである平沼ひらぬま大臣だいじんにならぬあいだは、けっして大臣だいじんにならぬと頑張がんばつ」たため、結局けっきょくはらたかし首相しゅしょう兼任けんにんとなった経緯けいいがある。大正たいしょう9ねん(1920ねん)6がつ2にちはら鈴木すずき貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんとし[1]平沼ひらぬま大審院だいしんいんちょう大正たいしょう10ねん(1921ねん)に鈴木すずき検事けんじ総長そうちょう登用とうようするなど後援こうえんおこなった。だい2山本やまもと内閣ないかく司法しほう大臣だいじん平沼ひらぬま入閣にゅうかくすると、大正たいしょう13ねん(1924ねん)につぎ清浦きようら内閣ないかくでは司法しほう大臣だいじんには鈴木すずき入閣にゅうかくした。[2]

このような人脈じんみゃく平沼ひらぬま騏一郎きいちろう鈴木すずき小山こやま松吉まつきち塩野しおのつらなる「思想しそう検察けんさつ」の基礎きそ形成けいせいした。また、平沼ひらぬま創設そうせつした国本こくほんしゃにもつらねてその運動うんどうたすけた。清浦きようら内閣ないかく護憲ごけん運動うんどうによってたおされると、立憲りっけん政友せいゆうかい接近せっきんし、大正たいしょう15ねん(1926ねん)に入党にゅうとうした。昭和しょうわ2ねん(1927ねん)、田中たなか義一ぎいち内閣ないかく成立せいりつすると内務ないむ大臣だいじんとして入閣にゅうかくした。

内相ないしょうとしてまず着手ちゃくしゅしたのは、ぜん府県ふけん特別とくべつ高等こうとう設置せっち治安ちあん維持いじほう改定かいてい実施じっし昭和しょうわ3ねん(1928ねん)、警保きょくちょう山岡やまおかまんこれすけ、警保きょく保安ほあん課長かちょう南波なんばもく三郎さぶろうラインで、日本にっぽん共産党きょうさんとう一斉いっせい検挙けんきょ、すなわちさんいち事件じけん指揮しきった。また、もう1つには内務ないむ大臣だいじん職権しょっけん利用りようして内務省ないむしょう府県ふけん知事ちじ人事じんじ大幅おおはば刷新さっしんして政友せいゆうかい支持しじする内務ないむ官僚かんりょう抜擢ばってきし、対立たいりつする立憲りっけん民政みんせいとうちか次官じかん知事ちじ休職きゅうしょくあるいは退官たいかんさせた。いちれいとして、内務ないむ次官じかん人事じんじ川崎かわさき卓吉たくきちからやす河内かわうちあさきち交代こうたいした。

これは「とうへい」とばれて内務ないむ官僚かんりょうだけではなく、地方ちほう政界せいかい世論せろんからも非難ひなんび、やがて内務省ないむしょう政党せいとう政治せいじ否認ひにんする革新かくしん官僚かんりょう台頭たいとうさせる原因げんいんとなった。

大正たいしょう14ねん(1925ねん)に公布こうふされた普通ふつう選挙せんきょほうもとづく最初さいしょそう選挙せんきょとなっただい16かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、大々的だいだいてき選挙せんきょ干渉かんしょうおこない、野党やとう立憲りっけん民政みんせいとうがわもう反発はんぱつどうとう選挙せんきょかわせい委員いいんかいおよ伊沢いさわ多喜男たきおびかけによる貴族きぞくいん中心ちゅうしんとする選挙せんきょ監視かんし委員いいんかいによる対抗たいこうまねき、選挙せんきょ責任せきにんわれ内相ないしょう辞任じにん余儀よぎなくされた。

その政友せいゆうかい党内とうない義弟ぎていたる鳩山はとやま一郎いちろう支援しえん実力じつりょくしゃとなり、昭和しょうわ6ねん(1931ねん)、いぬやしなえ内閣ないかく司法しほう大臣だいじん内務ないむ大臣だいじんとして入閣にゅうかくした。12ねんちかつとめた貴族きぞくいん議員ぎいん辞職じしょくし、昭和しょうわ7ねん(1932ねん)2がつ実施じっしされただい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ神奈川かながわけんだいいちより出馬しゅつばし、はつ当選とうせんした。5月にいち事件じけんによりいぬやしなえ首相しゅしょう暗殺あんさつされると、政友せいゆうかい後継こうけい総裁そうさい選出せんしゅつされる。総理そうり在任ざいにんちゅう死亡しぼう後継こうけいには、原内はらうちかく高橋たかはし是清これきよ加藤かとう高明こうめい内閣ないかく若槻わかつき禮次郎れいじろう濱口はまぐち内閣ないかく若槻わかつき礼次郎れいじろうれいもあり、憲政けんせい常道じょうどうからすれば政権せいけんとう後継こうけい党首とうしゅである政友せいゆうかい総裁そうさいとして後継こうけいないかく首班しゅはんかなでこもされるところだったが、えいべいとの協調きょうちょう外交がいこう憲法けんぽう遵守じゅんしゅ精神せいしん首班しゅはんだい原則げんそくとしていた元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもち鈴木すずきにはこの2てんなんがあると判断はんだん、このさい中間ちゅうかん内閣ないかくやむなしとの判断はんだんいた[3]しんえいべいとしてられ朝鮮ちょうせん総督そうとくを2つとめて行政ぎょうせい能力のうりょく証明しょうめいみだった退役たいえき海軍かいぐん大将たいしょう斎藤さいとうみのる大命たいめい降下こうかとなった。このため、政友せいゆうかい斎藤さいとう内閣ないかくつづ岡田おかだ内閣ないかくにおいて野党やとう路線ろせんつづけた。斎藤さいとう内閣ないかくでは党内とうない意向いこう配慮はいりょしてみずからは入閣にゅうかくしないかたち閣僚かくりょうおくったものの、このあいだ帝人ていじん事件じけんきて政友せいゆうかい幹部かんぶ多数たすう逮捕たいほされるが、これは鈴木すずき尊敬そんけいしていた平沼ひらぬま騏一郎きいちろうが、首相しゅしょう地位ちい目指めざして障害しょうがいとなる政友せいゆうかい結果けっかてき総裁そうさい鈴木すずき)をとすために仕組しくんだといわれる陰謀いんぼうだった。その岡田おかだ内閣ないかくでも入閣にゅうかくした高橋たかはし是清これきよもと総裁そうさいを「別離べつり」、有力ゆうりょく政治せいじ3めいを「除名じょめい処分しょぶんにしたことから党内とうない亀裂きれつしょうじた。昭和しょうわ10ねん(1935ねん)に天皇てんのう機関きかんせつ問題もんだいきると国体こくたい明徴めいちょう声明せいめいをめぐって岡田おかだ内閣ないかく攻撃こうげきしたが、このころから鈴木すずき健康けんこうそこね、病気びょうき悪化あっか党内とうない亀裂きれつ拍車はくしゃをかけた。

昭和しょうわ11ねん(1936ねん)2がつ20日はつかだい19かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ衆議院しゅうぎいんふたた出馬しゅつばしたが、政友せいゆうかい総裁そうさいでありながら落選らくせん指導しどうりょくうしない、総裁そうさいながらもとう集団しゅうだん指導しどう体制たいせい移行いこうしていった。党内とうないからは総裁そうさい辞任じにんこえたかまるが、鳩山はとやま一郎いちろう鈴木すずき貴族きぞくいん議員ぎいんへの再任さいにん工作こうさくおこない、その結果けっか鈴木すずき昭和しょうわ11ねん(1936ねん)には貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされたであるとして鈴木すずき総裁そうさい続投ぞくとう実現じつげんさせ、鳩山はとやま党内とうないでのおや鳩山はとやま勢力せいりょく伸張しんちょうさせた。昭和しょうわ12ねん(1937ねん)、鈴木すずき任期にんきかぎりでの退任たいにん表明ひょうめいし、とう総裁そうさい代行だいこう委員いいん4めいによる集団しゅうだん指導しどう体制たいせいふたた移行いこうすることになる。そして昭和しょうわ14ねん(1939ねん)5がつ任期にんき満了まんりょう総裁そうさい退任たいにん後継こうけい総裁そうさいめぐって政友せいゆうかい事実じじつじょう分裂ぶんれつし、これが政友せいゆうかい解党かいとう大政たいせい翼賛よくさんかい結成けっせいというながれの伏線ふくせんとなった。大政たいせい翼賛よくさんかい発足ほっそく直前ちょくぜん昭和しょうわ15ねん(1940ねん)6がつ24にち死去しきょ享年きょうねん74。墓所はかしょ谷中たになか霊園れいえん

ゆかりの

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神奈川かながわけん伊勢原いせはらにあるくに指定してい登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいあめだけ文庫ぶんこ 山口やまぐち住宅じゅうたく」のそとにわには、小田原おだわらにあった鈴木すずき喜三郎きさぶろう別荘べっそうはなれが移築いちくされ、現存げんそんしている[4]

また長野ながのけん軽井沢かるいざわまちでは、鈴木すずき総裁そうさい中心ちゅうしんとして、離山はなれやまふもとさんまんさんせんつぼ貿易ぼうえきしょう野沢のざわ源次郎げんじろうから買収ばいしゅうし、おも政友せいゆうかいメンバーの松野まつのづるひらた砂田すなだ重政しげまさ前田まえだ米蔵よねぞう内田うちだ信也しんや山岡やまおかまんこれすけ芳沢よしざわ謙吉けんきちどう卓雄たくお宮田みやた光雄みつおはしもと太吉たきち島田しまだ俊雄としお肥田ひだ琢司たくじらと別荘べっそうさんてた[5]鈴木すずきはこのを「やま地底ちていからしみみずいずみとなり、そのいずみあふれて清流せいりゅうとなってながれるあたり」であることから「いずみさと」とづけ、いしぶみてた[5]。この土地とち名称めいしょう現在げんざいでも使用しようされている。なお当時とうじ土地とちものからは「政友まさともむら」「政治せいじむら」ともばれていた[5][6]。これらの別荘べっそうぐん現存げんそんしていないが、喜三郎きさぶろうまごである鈴木すずき昭郎あきおは2021ねん現在げんざい軽井沢かるいざわ定住ていじゅうしていると地元じもとのインタビューにこたえている[7]

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう

出典しゅってん補注ほちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい2350ごう大正たいしょう9ねん6がつ3にち
  2. ^ 小山こやま俊樹としき憲政けんせい常道じょうどう政党せいとう政治せいじ -近代きんだい日本にっぽんだい政党せいとうせい構想こうそう挫折ざせつ-』2012ねん11月、思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、P241-242
  3. ^ はら田熊たぐまつよし西園寺さいおんじこう政局せいきょく』。
  4. ^ 141102伊勢原いせはら こく登録とうろくゆう文化財ぶんかざい見学けんがくかい あめだけ文庫ぶんこ
  5. ^ a b c 肥田ひだ琢司たくじ政界せいかい追想ついそう』(肥田ひだ琢司たくじ遺稿いこう刋行かい, 1964)9ぺーじ
  6. ^ 島崎しまざききよし軽井沢かるいざわひゃくねんあゆみ』(島崎しまざききよし , 1978)61ぺーじ
  7. ^ 軽井沢かるいざわじん物語ものがたり日新にっしん化工かこうもと専務せんむ取締役とりしまりやく エイコウ製菓せいかもと社長しゃちょう 鈴木すずき 昭郎あきお さん 軽井沢かるいざわウェブ(2021ねん10がつ8にち, 軽井沢かるいざわ新聞しんぶんしゃ
  8. ^ 官報かんぽうだい7337ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん12月11にち
  9. ^ 官報かんぽうだい126ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん12月29にち
  10. ^ 官報かんぽうだい2767ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん10がつ21にち
  11. ^ 官報かんぽうだい4042ごう叙任じょにん及辞れい」1940ねん6がつ28にち
  12. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  13. ^ 官報かんぽうだい1038ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん1がつ20日はつか
  14. ^ 官報かんぽうだい1218ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん8がつ21にち
  15. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん(戦前せんぜん)
  16. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち
  17. ^ 官報かんぽうだい317ごう叙任じょにん及辞れい」1928ねん1がつ21にち
  18. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  19. ^ 官報かんぽうだい4041ごう叙任じょにん及辞れい」1940ねん6がつ27にち

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
濱口はまぐち雄幸ゆうこう
いぬやしなえあつし
日本の旗 内務ないむ大臣だいじん
だい44だい:1927ねん - 1928ねん
だい51だい:1932ねん - 1932ねん
次代じだい
田中たなか義一ぎいち
山本やまもと達雄たつお
先代せんだい
平沼ひらぬま騏一郎きいちろう
渡辺わたなべ千冬ちふゆ
日本の旗 司法しほう大臣だいじん
だい27だい:1924ねん
だい33だい:1931ねん - 1932ねん
次代じだい
横田よこたせんこれすけ
川村かわむら竹治たけじ
先代せんだい
平沼ひらぬま騏一郎きいちろう
日本の旗 検事けんじ総長そうちょう
だい9だい:1921ねん - 1924ねん
次代じだい
はやしよりゆき三郎さぶろう
とうしょく
先代せんだい
いぬやしなえあつし
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい
だい7だい:1932ねん - 1937ねん
次代じだい
総裁そうさい代行だいこう委員いいんせい