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りょう

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りょう(りょう)は、日本にっぽん中世ちゅうせいから近世きんせいにかけてもちいられた行政ぎょうせい区分くぶん、および地域ちいき区分くぶんである。

概要がいよう

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戦国せんごく時代じだい以前いぜん

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元来がんらい領主りょうしゅおよびその組織そしきめい所領しょりょう一定いっていのまとまりをして「○○りょう」「○○いえりょう」「××寺領じりょう」などの名称めいしょうもちいられた。戦国せんごく時代じだいになると、従来じゅうらいくにぐんあるいはさとそうなどの既成きせい支配しはい系統けいとうすたれていき、そう事実じじつじょう消滅しょうめつし、さとりょうあらためられてくにぐんわってもちいられるようになった。

とく関東かんとう地方ちほうでは、複数ふくすうこく大名だいみょう領国りょうごく形成けいせいした甲斐かいこく武田たけだ相模さがみこくこう北条ほうじょう軍事ぐんじ組織そしきとして「しゅう」・行政ぎょうせい組織そしきとして「りょう」をもちいた。りょう国人くにびと支配しはい地域ちいき城代しろだい管轄かんかつ地域ちいきもとづいた複数ふくすうごうむらふくんだ広域こういき共同きょうどうたいし、周辺しゅうへん大名だいみょうにも影響えいきょうあたえた。

関東かんとうにおいて小田原おだわら征伐せいばつのち北条ほうじょうおよ傘下さんか国人くにびと領主りょうしゅわって支配しはいしゃとなった徳川とくがわりょうさい編成へんせいして1つのぐん複数ふくすうりょう設置せっちして代官だいかん支配しはい検地けんち実施じっし各種かくしゅ公儀こうぎやく賦課ふかさい基準きじゅんとなった。

江戸えど時代じだい

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関ヶ原せきがはらたたか徳川とくがわ江戸えど幕府ばくふ開府かいふ全国ぜんこく支配しはいおよぼすと、領主りょうしゅ支配しはい地域ちいきでもむら単位たんいえた広域こういきてき統治とうちおこなわれた。そのため、大名だいみょう旗本はたもとなど領主りょうしゅ支配しはいそのもの、あるいは支配しはいとその統治とうち組織そしき場合ばあいによってはその領主りょうしゅふくむ)総称そうしょうとしてもちいられることがおおくなる。御領ごりょう領分りょうぶん領地りょうち領域りょういきなどともばれた。その行政ぎょうせい区分くぶんとしてだけでなく、地域ちいき区分くぶん住所じゅうしょ表記ひょうき地理ちり表記ひょうき)としてももちいられることとなった。

なお、支配しはい機構きこう拠点きょてん地名ちめい、もしくは領主りょうしゅせいかんして呼称こしょうされた。領地りょうちがほぼいちれいせいこく全域ぜんいきおよ場合ばあいは、れいせい国名こくめいかんする場合ばあいもあった。れいとして、加賀かがこく金沢かなざわじょう拠点きょてん前田まえだ領地りょうち統治とうち機構きこう(いわゆる加賀かがはん)は、金沢かなざわりょう加賀かがりょう前田まえだりょう前田まえだりょうなどとばれた。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき以後いごになると、前者ぜんしゃ意味いみでのりょう廃止はいしまたはさい編成へんせいされてくみ組合くみあいむら)などのしん制度せいどおこなわれるようになり、りょう後者こうしゃ意味いみもちいられることが一般いっぱんした。それでも、前者ぜんしゃ概念がいねんとしての「りょう」は名称めいしょうあらためたのち幕末ばくまつまで継続けいぞくされた。

くにぐんむらについて

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くにぐん、およびむら住所じゅうしょ表記ひょうき地理ちり表記ひょうきとして明治めいじまで使用しようされている。くにぐんさとせいすたれたころから明治めいじ廃藩置県はいはんちけんまでのあいだは、現代げんだい日本にっぽんのように統治とうち組織そしき行政ぎょうせい組織そしき管轄かんかつ範囲はんい行政ぎょうせい区分くぶん)と、住所じゅうしょ表記ひょうき地理ちり表記ひょうき合致がっちしていなかったため、その用法ようほうによりりょうくにぐんむら使つかけられていた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 神崎かんざき彰利あきとしりょう」(『日本にっぽんだい事典じてん 6』(平凡社へいぼんしゃ、1994ねんISBN 978-4-582-13106-2
  • 新田にった一郎いちろう岩田いわた浩太郎こうたろうりょう」(『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 3』(小学館しょうがくかん、2001ねんISBN 978-4-095-23003-0