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高辻たかつじちょうただし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高辻たかつじちょうただし
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん
死没しぼつ だいひさし2ねん9月6にち1522ねん9月25にち
官位かんい せいけん大納言だいなごん
主君しゅくん こう土御門天皇つちみかどてんのうこう柏原かしわばら天皇てんのう
氏族しぞく 高辻たかつじ
父母ちちはは ちち高辻たかつじつぎちょう
つま 藤波ふじなみ秀忠ひでただむすめ
あきらちょう
テンプレートを表示ひょうじ

高辻たかつじ ちょうただし(たかつじ ながなお)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての公卿くぎょうけん大納言だいなごん高辻たかつじつぎちょう官位かんいせいけん大納言だいなごん

生涯しょうがい

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文明ぶんめい17ねん1485ねん)にしたがえさんじょされ、ちょうとおる2ねん1488ねん)に参議さんぎにんぜられる。延徳えんとく元年がんねん1489ねん)には式部しきぶ大輔だいすけねて、北野きたの長者ちょうじゃとなった。

33年間ねんかんにわたって長者ちょうじゃ地位ちいにあった[1][2]が、東坊城ひがしぼうじょうちょう延徳えんとく4ねん1492ねん)にちょうただしけん中納言ちゅうなごんになったさいかれが「げい無才むさい」にもかかわらず長者ちょうじゃ地位ちいけたことで以後いご昇進しょうしんげていくことにいかりをあらわしている[3]

さらえいただし3ねん1506ねん)に危篤きとく状態じょうたいとなったちょうただしけん大納言だいなごんにんぜられたのもかれ自身じしん功績こうせきではなく、間際まぎわ父親ちちおや昇進しょうしんさせてほしいとあきらちょうへの同情どうじょうあきらちょう自身じしんおよび五条ごじょうためがく功績こうせきによるもので、ちょうただし自身じしん功績こうせき考慮こうりょされなかった[4](なお、そのちょうじき奇跡きせきてき回復かいふくしている)。

とはいえ、同族どうぞく唐橋からはしざいかず九条くじょうまさしもとなおけい父子ふし殺害さつがいされたときには、一族いちぞくひきいてせいもと父子ふし朝廷ちょうてい告発こくはつした。また、孤児こじ同然どうぜんとなった五条ごじょうためがく養育よういくして五条ごじょう存続そんぞくさせるなど、長者ちょうじゃとしての役割やくわりたした。

また、みずからの才能さいのう認識にんしきしていたためか、あきらちょう五条ごじょうためがく東坊城ひがしぼうじょうちょう門下もんかとしている[5]えいただし8ねん1511ねん)にせいじょせられ、だいひさし2ねん1522ねん)、薨去こうきょ享年きょうねん72。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 菅原すがわら長者ちょうじゃである「北野きたの長者ちょうじゃ」は長者ちょうじゃことなり、原則げんそく終身しゅうしんせいである。
  2. ^ 公家くげ事典じてん』にはちょうただし長者ちょうじゃ就任しゅうにんえいただし15ねん(1518ねん)とするが、『室町むろまち戦国せんごく公家くげ社会しゃかい文事ぶんじ』(P23・119)には前任ぜんにん長者ちょうじゃである唐橋からはしざい死去しきょによってちょうただし長者ちょうじゃ就任しゅうにんしたとする。
  3. ^ ちょうきょう延徳えんとく4ねん9がつ21にちじょう
  4. ^ 実隆さねたかおおやけえいただし3ねん8がつ9にち10日とおかじょう
  5. ^ ちょうきょう』『あくたじつあきらおう5ねん12月1にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 橋本はしもとまさしせん へん公家くげ事典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん ISBN 978-4-642-01442-7 P772
  • 伊藤いとう慎吾しんご室町むろまち戦国せんごく公家くげ社会しゃかい文事ぶんじ三弥みつや書店しょてん、2012ねん ISBN 978-4-8382-3218-5 P23・78-79・119・122・125-126