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INRI

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
『キリストの磔刑たっけい』(ディエゴ・ベラスケス
キリストの頭上ずじょうにある罪状ざいじょうきには「ユダヤじんおう ナザレのイエス」とヘブライラテン語らてんご・ギリシアかれている

INRI は、イエス・キリスト磔刑たっけいにおいてその十字架じゅうじかうえかかげられた罪状ざいじょうきの頭字かしらじラテン語らてんごIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)である。日本語にほんごでは「ユダヤじんおうナザレのイエス」とやくされる。

概要がいよう

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新約しんやく聖書せいしょよん福音ふくいんしょによると、イエスは十字架じゅうじかにつけられたときかれは「ユダヤじんおう」(つまりマ帝国まていこくたいする反逆はんぎゃくしゃ)であるというむね罪状ざいじょうき(銘板めいばん)がその十字架じゅうじかけられた。福音ふくいんしょごとに表現ひょうげんすこしずつことなるが、「ユダヤじんおう」という言葉ことば共通きょうつうしている。

外典げてん福音ふくいんしょとされる『ペトロによる福音ふくいんしょ』(2世紀せいき前半ぜんはん成立せいりつ)では、イエスの罪状ざいじょうきにいてあるぶんは「これはイスラエルのおうである」(まれΟおみくろんὗτός ἐστιν ὁ βασιλεὺς τού Ἰσραήλ)とされている。

『ヨハネによる福音ふくいんしょ』(19:19–20)ではイエスの罪状ざいじょうきがその十字架じゅうじかかかげられた経緯けいいつぎのように説明せつめいされている。

ピラト罪状ざいじょうきをいて、十字架じゅうじかうえけた。それには「ナザレのイエス、ユダヤじんおう」といてあった。イエスが十字架じゅうじかにつけられた場所ばしょちかかったので、おおくのユダヤじんがその罪状ざいじょうきをんだ。それは、ヘブライラテン語らてんごギリシアかれていた。
ユダヤじん祭司さいしちょうたちがピラトに、「『ユダヤじんおう』とかず、『このおとこは「ユダヤじんおう」と自称じしょうした』といてください」とった。 しかし、ピラトは、「わたしがいたものは、いたままにしておけ」とこたえた。[1]

ローマしき十字架じゅうじかけい政治せいじてき秩序ちつじょみだひとたち(奴隷どれい反逆はんぎゃくしゃなど)にせられた処刑しょけい方法ほうほうであり、反逆はんぎゃくくわだてるほかのものおもらせるために十字架じゅうじかじょう受刑じゅけいしゃ名前なまえおかしたつみかれた看板かんばん掲示けいじされることもあった[2]史的してきイエスはローマへの反逆はんぎゃくざい処刑しょけいされたことは歴史れきし学者がくしゃたちによって一般いっぱんみとめられている[3]

「ユダヤじんおう」という称号しょうごう

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ヘロデ大王だいおう要塞ようさい都市としヘロディオン(エルサレムからみなみやく13km)

「ユダヤじんおう」は元々もともとイドマヤじんヘロデ大王だいおう紀元前きげんぜん37ねんローマ元老げんろういんによってあたえられた君主くんしゅごうである。実際じっさいに、マサダでは「ユダヤじんおうヘロデのために」(Regi Herodi Iudaico)とかれたアンフォラ発見はっけんされている[4]。ヘロデの死後しご、その息子むすこたち(アルケラオス、アンティパス、フィリポス)は王位おういごうとしたが、だれもがローマに「おう」としてはみとめられず、ヘロデの領地りょうち一部いちぶ統治とうちする「領主りょうしゅ」として認定にんていされたのみである。(『マルコによる福音ふくいんしょ』はアンティパスを「ヘロデおう」とぶが、これは慣用かんようてき呼称こしょうであるとかんがえられている[5][6]実際じっさいにはアンティパスが39ねん追放ついほうされたきっかけのひとつはおう称号しょうごう嘆願たんがんしたことである。)

ユダヤじんおうイエス

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「ユダヤじんおう」としてローマへい侮辱ぶじょくされるイエス

福音ふくいんしょにおいては「ユダヤじんおう」はユダヤじんではない(邦人ほうじん登場とうじょう人物じんぶつがイエスにたいして使用しようする称号しょうごうである[7]

  • 『マタイによる福音ふくいんしょ』(2:1–8)では、イエスがベツレヘムまれたさいに、ひがしからた「占星術せんせいじゅつ学者がくしゃたち」(東方とうほうさん博士はかせ)は「ユダヤじんおうとしておまれになったほうは、どこにおられますか」とたずねる。ヘロデ大王だいおうはこれをいてイエスを危険きけんし、のちにベツレヘムでの幼児ようじ虐殺ぎゃくさつめいじる。
  • 祭司さいしらからなる最高法院さいこうほういんサンヘドリン)によって逮捕たいほされたイエスがユダヤぞくしゅう総督そうとくピラトにわたされたとき、ピラトはイエスを「おまえはユダヤじんおうなのか」とめる。『マタイ』『マルコ』『ルカ』の3つの福音ふくいんしょでは、イエスがこの質問しつもんたいして「それはあなたがっていることです」と曖昧あいまいこたえをし、ピラトにふたたび質問しつもんされるも2くちひらかなかったとえがかれている。一方いっぽうで、『ヨハネによる福音ふくいんしょ』ではイエスが「わたし王国おうこくはこのにはぞくしていない」(「こののものではない」とも)と主張しゅちょうし、これについてピラトと対話たいわをする(18:33–38)。
  • イエスがローマへいたちに鞭打むちうちされたのち荊冠けいかん(荊でんだかんむり)をかぶらされた。すると兵士へいしたちはふざけて「ユダヤじんおう万歳ばんざい」と歓呼かんこして、かれ暴行ぼうこうくわえた。『マタイ』(27:27–31)・『マルコによる福音ふくいんしょ』(15:16–20)ではこれがイエスが死刑しけい判決はんけつけたのちこった出来事できごととなっているが、『ヨハネによる福音ふくいんしょ』(19:1–3)ではイエスが鞭打むちうちのけいけるのは裁判さいばん最中さいちゅうであり、イエスをころさずにむためのピラトの策略さくりゃくとしてえがかれている。ピラトがこののち荊冠けいかんこうむったイエスの姿すがた群衆ぐんしゅうせて「このひと」と宣言せんげんするが、それにもかかわらず群衆ぐんしゅうがイエスの処刑しょけい要求ようきゅうする(19:4–6)。
一方いっぽうで『ルカによる福音ふくいんしょ』ではイエスがローマへい侮辱ぶじょくされる場面ばめんはなく、わりにピラトがイエスをエルサレム滞在たいざいちゅうであったアンティパスにわたすと、アンティパスがイエスを嘲笑ちょうしょうして派手はで着物きものせてピラトにおくかえしたという記事きじがある(23:4–12)。また、ピラトは「死刑しけいたる犯罪はんざいつからなかったから、むちらしめて釈放しゃくほうしよう」と群衆ぐんしゅううが(23:16, 22)、福音ふくいんしょちがってイエスが処刑しょけいまえ鞭打むちうちされたと明示めいじされていない。(ただし、イエスがむちたれることを予言よげんする場面ばめん(18:31–33)がある。)

美術びじゅつにおける「INRI」

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INRI」とかれたかみ十字架じゅうじかってある磔刑たっけいぞう
INBI」がかれた十字架じゅうじかメテオラ、アギア・トリアダ修道院しゅうどういん

イエス・キリストの磔刑たっけい題材だいざいにした絵画かいが彫刻ちょうこくにおいては、イエスのあたまうえに「INRI」がしるされたさつまたは銘板めいばんtitulus)がえがかれるのが普通ふつうである。絵画かいが彫刻ちょうこくによっては、「INRI」の文字もじ直接ちょくせつ十字架じゅうじかられていたり、イエスの頭上ずじょうに「INRI」があらわれているような場合ばあいもある。

西欧せいおうにおけるルネサンス美術びじゅつではおもに、ヘブライとギリシアはぶいてラテン語らてんごぶんのみがえがかれており、さらにINRIとりゃくされていることがおおい。しかし、はん宗教しゅうきょう改革かいかく時代じだいでは、カトリック教会きょうかい改革かいかくすすなかで、磔刑たっけいなかで3ヶ国かこく省略しょうりゃくせずにえがいているものもある。

ІНЦІ」がかれているイコン。イエスのあたまりょうはしだい部分ぶぶんには「ΙいおたΣしぐま XΣしぐま ΝにゅーΙいおたΚかっぱΑあるふぁ」(「イエス・キリスト 勝利しょうりす」の)がかれている

正教会せいきょうかいのうちいくつかの教会きょうかいは、ギリシアηいーたσしぐまοおみくろんῦς ὁ Νにゅーαζωραῖος ὁ Bασιλεὺς τたうνにゅー ουδαίων)の頭文字かしらもじINBI」を使用しようしている。また福音ふくいんしょられる罪状ざいじょうきではなく、そうかれるべきであったという意味いみで「ὁ Bασιλεὺς τたうοおみくろんῦ κόσμου」(世界せかいおう)または「ὁ Bασιλεὺς τたうῆς Δόξης」(栄光えいこうおう)とかれる場合ばあいもある。一方いっぽうラテン語らてんご影響えいきょうおおきいルーマニア正教会せいきょうかいラテン語らてんごあるいはルーマニアIisus Nazarineanul Regele Iudeilor)にもとづき「INRI」をもちいている。

スラヴけい正教会せいきょうかいロシア正教会せいきょうかいウクライナ正教会せいきょうかいブルガリア正教会せいきょうかいセルビア正教会せいきょうかいなど)でひろもちいられるはちはし十字架じゅうじかにはこの罪状ざいじょう部分ぶぶんまれているが、八端はったん十字架じゅうじかには文字もじかれていないこともおおい。罪状ざいじょうきのぶん教会きょうかいスラヴでは「І҆и҃съ назѡрѧни́нъ цр҃ь і҆ꙋде́йскїй」とやくされており、その頭文字かしらもじは「ІНЦІ」である。

罪状ざいじょうきのヘブライぶんを「ישוע הנצרי ומלך היהודים」(Yeshua` haNotzri u'Melech haYehudim「ナザレじんにしてユダヤじんおうイエス」、 IPA: [jeːʃuːɑʕ hɑnːɑʦeri meleχかい hɑjːəhuðiːm])と表現ひょうげんされる場合ばあいもあるが、これは後世こうせいさい翻訳ほんやくで、頭文字かしらもじ神聖しんせいよん文字もじיהוה, YHWH)とおなじになるように微妙びみょうにもじったものとおもわれる。そもそも『ヨハネによる福音ふくいんしょ』にられる「ヘブライ」はヘブライではなく当時とうじパレスチナ地域ちいき共通きょうつうであるアラムであった可能かのうせいたかいとかんがえられている。

せい罪状ざいじょうばん

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十字架じゅうじか銘板めいばん』(ジェームズ・ティソ
サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂せいどうにあるせい罪状ざいじょうばんもとづく

ローマにあるサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂せいどうにはイエスの十字架じゅうじか掲示けいじされた罪状ざいじょうきとされるばん一部いちぶ現存げんそんしており、コンスタンティヌス1せいははヘレナが325ねんにこの教会きょうかいてたさいおさめた聖地せいち(パレスチナ)よりもたらしたせい遺物いぶつひとつとわれている。ギリシア・ラテン語らてんご部分ぶぶん一部いちぶのみが現存げんそんし、しかもそれがかがみ文字もじになっていることが特徴とくちょうてきである。

おおくの学者がくしゃはこのせい遺物いぶつをイエスの十字架じゅうじかけられた銘板めいばんそのものではなく、後世こうせい偽物にせものなしている。近年きんねん、ドイツじんジャーナリストミヒャエル・ヘッセマン[8]聖書せいしょ学者がくしゃカールステン・ペーター・ティーデ[9]はこの罪状ざいじょうばん本物ほんものであると主張しゅちょうしたが、ほかの学者がくしゃから批判ひはんけていた[10]。2002ねん放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていほうもちいた年代ねんだい調査ちょうさおこなわれた結果けっか、このばん推定すいてい制作せいさく時期じきは980ねんから1146ねんあいだであるという結果けっか[11][10]

なお、4世紀せいきまつにエルサレムをおとずれた修道しゅうどうおんなのエゲリアの『巡礼じゅんれい』によると、罪状ざいじょうばん(titulus)は当時とうじ、イエスが処刑しょけいされほうむられた場所ばしょうえてられたせい墳墓ふんぼ教会きょうかいイエスの十字架じゅうじか破片はへんとともに奉安ほうあんされていた[12][13]。570年代ねんだい聖地せいち巡礼じゅんれいたびピアチェンツァ出身しゅっしんひといた巡礼じゅんれいにもこの銘板めいばんせい墳墓ふんぼ教会きょうかいにあったと記述きじゅつしている[14]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかい刊行かんこうの『しん共同きょうどうやく聖書せいしょ』にもとづく。
  2. ^ リチャード・ボウカム『イエス入門にゅうもん新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ、2013ねん、158-159ぺーじ
  3. ^ Keener, Craig S. (2009). The Historical Jesus of the Gospels. Eerdmans. p. 258.
  4. ^ Evans, Craig A. (2003). Jesus and the Ossuaries: What Burial Practices Reveal about the Beginning of Christianity. Baylor University Press. pp. 48-51.
  5. ^ Jensen, Morten Hørning (2006). Herod Antipas in Galilee: The Literary and Archaeological Sources on the Reign of Herod Antipas and Its Socio-economic Impact on Galilee. Mohr Siebeck. p. 110.
  6. ^ Miller, Susan (2004). Women in Mark's Gospel. Bloomsbury Publishing. p. 76.
  7. ^ France, R.T. (2007). The Gospel of Matthew (The New International Commentary on the New Testament). Eerdmans. p. 1048.
  8. ^ Michael Hesseman. “Titulus Crucis - The title of the cross of Jesus Christ?”. 2019ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  9. ^ John Rivera (2002ねん3がつ24にち). “Plumbing the myths surrounding the True Cross”. The Baltimore Sun. 2019ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ a b Nickell, Joe (2007). Relics of the Christ. The University Press of Kentucky. pp. 86-90.
  11. ^ Bella, Francesco; Azzi, Carlo (2002). “14C Dating of the Titulus Crucis”. Radiocarbon (University of Arizona) 44 (3): 685–689. ISSN 0033-8222. オリジナルの2010-07-17時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/20100717163946/https://digitalcommons.library.arizona.edu/holdings/journal/issue?r=http://radiocarbon.library.arizona.edu/Volume44/Number3/. 
  12. ^ Egeria: Itinerarium peregrinatio”. ラテン図書館としょかん. 2019ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  13. ^ Bernard, John H. (1891). The Pilgrimage of S. Silvia of Aquitania to the Holy Places (circa 385 A.D.). Palestine Pilgrims' Text Society. p. 63.
  14. ^ The Piacenza Pilgrim (translation by Andrew S. Jacobs)”. 2019ねん8がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西洋せいよう美術びじゅつ解読かいどく事典じてん 絵画かいが彫刻ちょうこくにおける主題しゅだい象徴しょうちょう』ジェイムズ・ホールちょ高階たかしな秀爾ひでじ監修かんしゅう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃISBN 4-309-26750-5

関連かんれん項目こうもく

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