ヤヌスの選択 9
血相を
変えて
駆け
込んできた
2人の
部下にぞんざいに
押しのけられたハインリヒは、「
自分は
彼らの
上司のはずなのだが」と
肩を
竦めた。
だが、
咎める
気にならないのは、
彼らとは
単純な
主従関係で
結ばれているわけではないからで。
何よりも、
普段は
己の
影に
徹している
彼らのなりふり
構わない
様子はそれだけ
心を
動かされたということで。
かつての
彼らを
知っているからこそ、その
変化が
微笑ましくも
見える。
口先だけの
心配でも
気遣いでもなく、
心からたった
1人の
青年を
案じているのだ。
“
上司のパートナー”としてではなく、“
己の
大切な
存在”として。
「
鉄仮面」だの「
感情のない
人形」だのと
陰で
囁かれている
氷のような
顔をどこに
置き
忘れてきたのか。
誰が
見ても
分かる
感情を
滲ませて
青年を
囲んでいる
彼らの
姿に、
小さく
苦笑を
刷く。
愛する
人が
周囲の
人間に
大切にされている、という
事実は
素直に
嬉しいものだ。
ストーカー
行為に
加速してしまった
男の
感情だって、
途中で
間違えずに
正しい
形のままであればアルフレードという
土壌を
潤し
肥やす
純粋な
好意として
歓迎できた。
もちろん
誰彼構わずというわけではないが、
最初から
頭ごなしに
拒絶するつもりはないのだ。
多くの
人から
愛されるアルフレードを
誇らしく
思っているのだから
尚更。
しかし、
最初の
動機が
何であれ
理由がどうあれ、アルフレードに
憂いを
抱かせるのなら
許容することはできない。
アルフレードの
気高く
眩しい
在り
方は
彼にとって
良き
人を
集める
光となっているが、その
光には
招かれざる
者も
近付いてくる。
それは
街灯に
羽虫が
群がるのと
同じことで
致し
方ないとはいえ、
毒を
持つ
虫を
見逃すわけにはいかない。
これからはより
冷静に、より
厳しく
見極めなければいけないなと
思いながら、ハインリヒは
部下に
囲まれているアルフレードに
再び
視線を
向けた。
怪我はないか、
怖かっただろう、もう
大丈夫、と
口々に
声をかけているフルアとグラースの
勢いにアルフレードが
気圧されているのが
見える。
だが、こればかりは
許してやってくれと
助けを
求めてくる
鳶色の
瞳に
視線で
返す。
知らせを
受けた
彼らの
心情はそれこそ
計り
知れないのだ。
焦りや
恐怖に
支配され、
己を
責めただろう。
ストーカー
行為をしていた
男とアルフレードを
接触させてしまった、と。
彼らの
不手際ではなかったというのに、
完全に
防ぐことは
困難だったと
理解していながら、それでも。
腸が
煮えくり
返る
音を
聞きながらここまでの
道を
来たに
違いない。
(フルアのスラックスのあの
皺がその
証拠だな)
グラースが
運転する
車の
助手席に
座り、
腿の
上で
握りしめた
拳が
巻き
込んでできたと
思われる
皺がしっかりと
残っている。
無言のまま
静かな
怒りを
燃やしていた
姿が
容易に
想像できる。
普段は
自分たちを
窘める
役割を
担っているグラースも
平静さを
失っており、
荒ぶる
感情のまま
握り
込んだハンドルは
果たして
無事だろうか、とハインリヒは
口端に
苦笑を
重ねた。
そんな
光景を1
歩引いて
見守っていたテオバルトは、ハインリヒがやれやれと
言わんばかりに
肩を
竦めたタイミングで
彼の
前に
歩み
出た。
そして、
静かに
頭を
下げる。
「
肝心なときにお
役に
立てず
申し
訳ありませんでした」
アルフレードの
身辺警護として
雇われた
身。
と
言っても、24
時間付き
添うのではなく、あくまでハインリヒらがアルフレードと
行動を
共に
出来ないときのみという
条件付きではあったが。
しかし、
個人警護のプロというプライドがそれをい
訳に
使うことを
許さない。
「
犯人にアルフレード
君との
接触を
許してしまったのは
私の
責任です」
叱責されてしかるべき。
そう
言わんばかりの
声音で
頭を
下げるテオバルトに、ハインリヒは
緩く
首を
横に
振って
応えた。
「
誰の
落ち
度でもない」
「しかし…」
「
重要な
情報を
届けてくれた。
十分だ、ありがとう」
「いえ…」
「
誰かがその
場に
居てアルを
守れたのだから、それ
以上は
望まない」
最優先事項は
犯人を
確保することではなく、アルフレードを
脅威から
守ること。
結果的に
両方とも
同時に
為し
遂げられたのだから
何を
不服に
思うことがあるというのか。
「
感謝こそすれ、
責める
理由はない」
不審なメールの
発信元を
解析し、
犯人を
突き
止めたのはテオバルトなのだ。
防犯カメラの
映像を
手に
入れていた
警察ですら
顔が
識別できないと
捜査に
躓いていたが、
彼は
為し
遂げてくれた。
あのとき、
彼がその
情報をいち
早く
自分に
伝えてくれたからこそ、アルフレードに
近付く
男にすぐに
対応できた。
犯人の
男はアルフレードが
出入りしている
木工工房と
関わりのある
加工機械のエンジニアだ、と
細かい
情報をもたらしてくれたからこそ。
お
前もアルを
守ってくれたではないか、と
続けたハインリヒに
顔を
上げるように
促されたテオバルトは
恐る
恐る
視線を
戻した。
と、
限りなく
黒に
近いブラックサファイア
色の
双眸と
目が
合う。
切れ
長のそれは
冷たさを
際立たせ、その
凪いだ
冷静さに
対峙した
多くの
者は
恐怖し、たじろぐ。
選ばれた
者としての
威厳は
言うまでもなく、
肩書きの
重さに
比例した
覚悟や
意思の
強さは
常人には
威圧的に
映るのだ。
だが、その
双眸の
奥を
少し
探れば、ハッと
驚くほどの
情熱が
宿っていることに
気付く。
落ち
着いた
声音とは
裏腹に、その
瞳の
中で
燃える
炎は
轟々と
音を
立てている。
迂闊に
近付かせない
威圧感も
確かにあるが、
人に
寄り
添える
優しさによく
似た
体温がある。
アルフレードに、そして
近しい
2人の
部下によく
見せているそれが
己に
向けられていることに
気付き、テオバルトは
反射的に
両足を
肩幅程度に
開いて
背筋を
伸ばし、
顎を
引いた。
それは、“
待機姿勢”。
軍隊生活の
中で
叩き
込まれた
直立不動の
姿勢であり、
戦闘に
即時対応可能な
状態のこと。
命令が
下れば0.1
秒で
動き
出せる
体勢であり、つまりは、その
命令を
下す
上官に
敬意と
服従を
示しながら
待つ
状態だ。
ハインリヒは
上司でも
上官でもない。
だが、
無意識的に
身体が
動いていた。
部下ではない
男のその
行動にハインリヒは
一瞬だけ
驚いた
表情を
見せたが、
苦笑を
刷いて
楽な
姿勢に
戻るようにやんわりと
手で
促してくる。
そのスマートな
所作は
人の
上に
立つことに
慣れた
者のもので、これが
年若くとも
彼が“
王”と
敬意を
持って
呼ばれる
所以なのだろうとしみじみと
思う。
(
俺の
友は
良い
上司と
巡り
会えたのだな)
軍の
腐りきった
現実に
絶望していたグラースの
姿を
知っているからこそ。
数年振りに
再会したとき、
彼の
変化には
心底驚いた。
正直に
言うと、
彼が
生きていたこと
自体に
驚いたほどなのだ。
たった1
人生き
残ってしまった
事実を
受け
入れきれず、
圧し
潰されそうになっていた
姿を
見ていたから。
どうして
自分だけが
生きているのだ、と
血を
吐くような
苦し
気な
声で
繰り
返し
嘆いていた
姿を
見ていたから。
そんな
彼が
活き
活きと
今の
生活を
語る
姿に、
救済はあるのだと
神に
感謝を
捧げたほどだ。
償いきれない
罪と
罰を
背負って。
死に
場所を
探していた
男が。
出会いたかった
人に
出会えた、と
言ったのだ。
生き
残ったから…
生かされたから、
己の
全てを
注いでも
足りないほどに
慕わしく
愛しく
大切な
人たちに
出会えた、と。
戦場の
悪夢から
解放されたわけでも
全てを
許せるわけでもないが、それでも。
自分で
自分にかけていた
呪いを
終わらせることができた、と
何度目かの
再会のときに
語ったグラースに
視線を
向ければ、ソファに
腰かけている
青年の
足元に
跪いて
心底安心した
顔をしている。
彼の
言う「
出会いたかった
人」とはハインリヒのことだけではない。
生かされた
命の
使い
道を
問われたら、グラースは
迷わずにこう
言うだろう。
彼らのために
生きたい、と。
死んでいった
仲間たちにも
堂々とそう
言えるのだとしたら、それは
生かされた
者としての
責任を
果たしたことにならないだろうか。
生き
残ってしまったと
己を
責めて、
罪悪感に
押し
潰されそうになっていた
男が、
生き
残ることのできなかった
仲間たちの
分まで
生きようとしているのだから。
ハインリヒとアルフレードはグラースの
腕を
無理矢理引いて
戦場から
連れ
帰ったのではなく、そこがどんな
地獄だろうと
恐れずに
赴いて、グラースの
背中を
支えながらここまで
歩いて
帰って
来たのだろう。
彼らの
単純な
名称で
括ることのできない
関係性に…その
深い
絆にあえて
名前を
付けるならば、“
戦友”。
そう、それが
一番しっくりくる、とテオバルトは
眩しいものを
見つめるように
瞳を
細めた。
(
友が
良い
人たちと
出会えて
良かった)
人の
幸福を
純粋に
嬉しいと
思う。
幸せになることを
拒み、
幸せになってはいけないと
己を
呪い
続けていた
友が
堂々と
幸せを
享受しているのだから。
(…お
前を
助けることができて
良かった)
グラースが
帰還の
希望がない
作戦を
命じられて
戦場に
向かったと
知ったとき。
命令違反で
懲罰を
受けようと、その
後のキャリアがどうなろうと、
彼を
助けることに
迷いはなかった。
未来を
信じて
語り
合った
友の
瞳が
現実に
裏切られ
続けて
濁っていくのを
見ていたから、
彼をそんな
寂しい
場所で
死なせてはいけない、
思ったのだ。
だからギリギリのところで
彼を
救い
出せた
瞬間、
確かな
安堵が
広がった。
生きていてくれた、と。
だが、グラースの昏い
瞳を
見たとき、
揺らいだ。
生き
延びたことを
後悔し、
己を
呪い
続ける
友の
姿を
前に、
迷った。
彼にとって
生きることが「
正しさ」ではないのなら、
助けるべきではなかった。
己のエゴで、
彼に
罪悪感を
背負わせてしまった。
仲間を
失う
苦しみも、
己が
生き
残ることの
辛さも
知っていたというのに。
硝煙と
血の
匂いのする
悪夢に
蝕まれるだけの
生を
強制してしまった。
そう
後悔して。
後悔し
続けていた。
しかし、グラースは
変わった。
絶望することにさえ
疲れ
果てていた昏い
瞳を
見ることは、きっともうない。
あぁ、
助けて
良かった。
助けることができて
良かった。
心からそう
思う。
何度も
迷い、
悔やみ、
己を
責めたこともあったけれど。
あの
時、
手を
伸ばした
選択は
間違いではなかった。
「
俺の
戦争もこれで
終いだ」
その
呟きに、ハインリヒは
一瞬瞠目した。
恐らくテオバルトは
口からまろび
出たことに
気付いていない。
聞こえなかった
振りをするべきか、と
僅かに
逡巡する。
しかし、ひとつ
呼吸を
置いてからハインリヒはそっと
彼の
肩に
触れた。
正気ではいられない
地獄の
中を
這って
生き
延びた
彼らが
見てきた
景色は
壮絶で、
悲惨で。
銃弾が
飛び
交うことのない
安全な
場所で
生きている
自分には
想像もできない
傷を
抱えている。
そんな
彼らを
慰める
言葉も
励ます
言葉も
思いつかない。
いや、どんな
言葉を
並べたとしても、
彼らの
心を
蝕む
業火を
消すことはできない。
だが、
精一杯の
労いを
込めて。
彼らが
自分自身を
誇れる“
今”を
報いるように。
敬意を
込めて
肩を
軽く
叩けば、
内心で
呟いたはずの
言葉が
声に
出ていたことに
気付いたテオバルトが
戸惑ったように
視線を
泳がせる。
「グラースは
良い
友を
持った」
「……」
「そして、
俺たちは
良い
戦友を
得た」
「エアハルトさん…」
「
改めて
礼を
言わせてくれ。ありがとう」
「いいえ、それは
私こそ
言わなければいけない
言葉です。
本当に、ありがとうございました」
「
当初の
予定より
早く
解決したわけだが、」
「はい。ですので、
明日には
社に
戻ろうかと。
報告書は
後日お
送りいたします」
「いや、
契約期間が
満了するまではこちらで
過ごしてくれないか。まだいくつか
相談したいこともある」
「え?」
「ホテルもそのつもりでリザーブしてある。
空いた
時間は
休暇として
使ってくれ」
「そ、それでは
無駄な
経費が
発生してしまいますので…」
「
問題ない。
社長には
俺から
伝えておく」
契約上の
警護期間はあと2
週間残っている。
アルフレードの
身辺警護と
情報解析に
専念できるように、と
与えられた
時間であって、
犯人が
捕まって
解決したのなら
任務は
終了となるのが
普通だ。
滞在先に
与えられているホテルの
宿泊費に
加えて
出向手当ても
依頼人が
負担するものであって、
無駄な
出費は
抑えたいと
思うのも
普通だろう。
そしてハインリヒからは
滞在中の
食事や
日用品など
身の
回りに
必要なものを
購入するためのカードが
渡されており、
自分が
滞在すればするほど
経費はかさむ。
だというのに、
空いた
時間は
休暇として
自由に
使えばいいと
言うハインリヒにテオバルトは
目を
丸くした。
しかし、それが
彼なりの
最大限の
敬意であり
労いだと
気付き、
小さく
会釈を
返すことでその
気持ちを
受け
取る。
権力の
優しい
使い
方を
知っている
人、と
彼らが
口を
揃える
理由がよく
分かる。
全ての
人に
平等に
与えられるものではないが、だからこそそれは
本物だ。
たとえ
犯人の
男を
病院送りにしてしまったとしても。
その
苛烈さはアルフレードに
向ける
愛情に
比例するのだから、よく
殺さずに
踏み
止まったと
言うべきだろう。
「このままミュンヘンに
戻れるのですか?」
「あぁ、
調書も
取り
終わっている」
「そうですか。ところで…」
「
何だ?」
「
手は
大丈夫ですか?」
「……」
「
犯人は
前歯が2
本折れていたと
聞きました。エアハルトさんは
怪我をされていませんか?」
人を
殴るという
行為は
実は
一方的なものではない。
骨と
骨がぶつかるのだ。
素人が
拳で
人を
殴れば
自分自身の
指を
砕く。
皮膚が
裂け、
関節が
腫れ
上がることも、
骨が
折れることだってある。
だが、ひらりと
見せられたハインリヒの
右手は
無傷で。
テオバルトは
小さく
感嘆した。
「
適当な
訓練ではこうはいきませんね。ですが、
表面上には
見えないダメージを
負っている
可能性もあります。
違和感があれば
早めに
医師に
診せてください」
「あぁ」
「
様子を
聞くに
犯人は
肋骨も
折れているでしょうね」
「……」
「
見事な
蹴りだったとか。
一度手合わせを
願いたいものです」
「
素人に
毛が
生えた
程度だ。お
前たちプロに
敵うものか」
「ご
謙遜を。たった2
発で
病院送りにするとは
正直驚きました」
「…アルに
聞こえるからやめてくれ」
ふいっと
顔を
逸らせたハインリヒのバツが
悪そうな
表情は、
悪戯が
見つかった
子供のようで。
年相応の
反応を
見せるハインリヒにテオバルトは
思わず
苦笑する。
「
弁護士は?」
「うちの
顧問弁護士に
顛末は
伝えてある」
「では
心配ありませんね。
正当防衛で
片がつくでしょう」
「…アルには」
「
私が
言わずとも
恐らく
気付いておられますよ。ほら、こちらを
見ていらっしゃいます」
「……」
視線をそちらに
向ければ、アルフレードの
鳶色の
瞳と
目が
合う。
子どもの
悪戯を
窘めるような
表情で、「やり
過ぎ」と
叱られる。
「いま、
弁護士って
聞こえた」
「……」
「ここの
警察官さんにも
怒られていたの
気付いているんだからね」
工房に
駆け
付けてくれた
警察官からその
場で
簡単な
聴取を
受けて。
警察としてもハインリヒの
肩書き
上、ただの
一般市民として
処理するわけにもいかず。
ミュンヘン
警察と
連携する
必要性もあり、
警察署に
向かうことになって。
その
頃にはすでに
連絡を
受けてミュンヘンを
出ていたフルアたちを
待っている
状況で。
大企業の
実質的なトップであるハインリヒを
廊下のベンチで
待たせるわけにはいかないと
思ったのか、
応接室を
使っていいと
案内された。
そのとき、
署長だと
名乗った
警察官がハインリヒを
呼び
止めたのだ。
ハインリヒから
先に
部屋に
入っているように
促されて
内容をき
取ることはできなかったが、その
警察官の
困ったような
咎めるような
表情は
見えた。
聴取を
受けているときも
警察官から
犯人にどんな
危害を
加えられそうになったのか
何度も
問われた。
凶器は
持っていたか、
攻撃的だったか、
何に
恐怖を
感じたか、など。
それがハインリヒの
暴力の
正当性をはかるための
質問だとどんなに
無知でも
気付くだろう。
成人した
男が
軽々と
吹っ
飛ぶような
勢いで
蹴り
上げられ、
気絶するような
力で
殴られたのだから、それに
値するだけの
非が
犯人にあったのか
見極めることも
警察の
仕事。
担当してくれた
警察官も
署長も、「
彼の
社会的立場上、
悪意を
向けられれば
命の
脅威を
感じることは
当然で
防衛を
優先するのは
妥当」と
口を
揃えたが。
その
防衛のために
使った
暴力が
妥当なものだったかは
言及しなかった。
いや、
出来なかったと
言った
方が
正しいだろう。
被害者であるアルフレードからしても、「やり
過ぎ」だと
感じたのだから。
「メールだけじゃなくて
街で
直接絡まれている
事実もあって、
凶器を
持っていた
可能性も
十分あったから
過剰に
反応してしまったのも
仕方ないって
警察の
人は
言っていたけどね」
「…すまない、
自制が
効かなかった」
素直に
叱られているハインリヒにアルフレードは
小さく
肩を
揺らした。
あのとき、
彼が
本当に
理性を
失っていたのなら
握り
締めていた
角材を
振り
下ろしていただろう。
むしろ
冷静だったからこそ、
彼は
許されるギリギリのラインまで
踏み
込んだ。
正当な
理由の
範疇を
超える
寸でのところまで。
警察官たちが
困った
顔をしていたのも、
恐らくそれが
分かったからだろう。
この
男は
越えてはいけない
一線を
理解しているから
仕方なく
踏み
止まったに
過ぎない、と。
それ
故に、いささか
厳しい
口調で
釘を
刺したのだろう。
(
理由があればその
一線を
越えることに
躊躇しない
人だって
気付いたから…)
どんな
理由があったとしても、たとえそれが
肯定されるものであっても、
暴力が
正当化されてはいけない。
相手を
傷付けることで
問題が
解決できるわけではなく、
道徳的にも
許されない。
それは
法律が
明確に
定めており、たとえ
正当な
理由があったとしても
暴力は
容認されない。
もし「
力こそ
正義」だと
肯定されてしまったら、
弱者が
守られずに
差別や
虐待、
戦争さえも
正当化されてしまいかねないからだ。
だから
人間社会は、どんなに
正しい
理由や
動機があったとしても
暴力を
認めない。
しかし、それでも。
暴力で
人を
罰する
権利は
誰にもないことを
理解していながら、それでも。
罪も
罰も
背負う
覚悟の
上で
拳を
握る
理由があったとして。
それが
己自身のためではなく
誰かのためで、
愛情故のものだったとして。
人が
人を
想う
気持ちを、
誰に
否定できるだろうか。
(だから、
警察官さんたちはみんな
困った
顔をしたんだろう。ハインがオレを
想う
気持ちを
見て、
知ってしまったから)
事情を
知った
警察官の
多くが
彼の
行動を
否定も
肯定もできなかったのはきっとそういうことだ。
あまりにも
過激で
過剰なその
愛情に
気圧されつつも、
彼らの
言葉の
端々には
確かな
敬意もあった。
「
助けてくれてありがとう」
「…いや、
無事で
良かった」
「うん」
「
本当に…
間に
合って、
良かった…」
たまたま
凶器を
持っていなかっただけで。
行き
過ぎた
好意を
持て
余していたあの
男は
自分の
気持ちを
拒まれたと
激高し、アルフレードに
明確な
悪意を
向けていた
可能性もある。
もし、あの
手にナイフが
握られていたら。
もし、それがアルフレードを
傷付けていたら。
考え
出せばキリがない「もし」に
血液が
沸騰し、だが
頭は
妙に
冷静で、
指先は
凍えた。
アルフレードから
引き
離さなければ、と
咄嗟に
蹴り
上げたときも。
作業台の
上にあった
角材を
握ったときも。
それを
振り
下ろそうとしたときも、
自分でもぞっとするほど
理性的だった。
憎悪に
我を
忘れることはあるだろうが、その
真逆だったのだ。
思考は
冴え
冴えと
研ぎ
澄まされ、
心は
凪いでいた。
感情的な
暴力ではなく、
明確な
殺意だった。
万が
一にもアルフレードが
傷付けられていたら、
踏み
止まる
理由はなく。
迷うことなく
角材を
振り
下ろしていたに
違いない。
冷静なまま、
悪意を
持って、
相手を
傷付けていた。
だが、そうなっていたとしても
後悔は
一片もなかっただろう。
むしろ
清々しささえ
抱いていたかもしれない、と
思う。
「ハイン、また
怖いこと
考えているでしょ。もー、ほら。こっちおいで」
「……」
「ハインが
守ってくれたからオレは
無事だし、みんなのおかげで
犯人が
捕まった。ありがとう」
「アル…」
「
動機はこれから
調べるって
言っていたでしょう?そうしたら、
今後の
対策も
取れる」
「……」
「
次なんてない
方がいいに
決まっているけど、
今回のことはリスクを
減らすいい
機会になったね」
付き
纏いの
可能性が
濃厚になってすぐ、テオバルトはまず
普段の
行動範囲を
徹底的に
調べた。
観光客が
多く
行き
交う
大通りや
広場は
人目もあるが、
同時に
群衆に
紛れ
込みやすい。
マーケットが
立ち
並ぶエリアには
背よりも
高く
積まれた
木箱や
段ボールで
多くの
死角があった。
行きつけのパン
屋の
近くには
人通りの
少ない
狭い
路地があり、
引きずり
込まれて
前後を
挟まれたら
逃げ
場を
失う。
訪れることの
多い
本屋の
店内も、
雨の
日に
重宝している
地下通路も、マンションの
周辺にも、
悪意を
持った
人間が
身を
潜められる
場所がいくつもあった。
外出時に
必ず
護衛が
付き
添えばいいだけの
話かもしれないが、
今後そのリスクのために
行動が
制限されるというのは
精神衛生上よくはない。
そもそもそれを
望んでいないのはハインリヒなのだ。
不自由な
世界で
生きているからこそ、アルフレードだけは
自由に
羽ばたいて
欲しい、と
言う。
そんな
彼が
外出を
制限することなどあるはずもなく、だからと
言って、
危険性を
無視はできない。
矛盾と
葛藤の
結果、テオバルトを
交えて
何度も
生活圏に
潜むリスクについて
話し
合った。
もしこの
場所で
不審な
視線を
感じたらどこへ
逃げるのが
正しいか。
もしこの
通りで
不審な
接触があったら
誰に
助けを
求めるのがいいか。
キリのない「もし」を
何度も
何度も
地図に
書き
込んで、シミュレーションをした。
万全を
期す、というのは
一種の
安全材料だ。
大袈裟なほどの
対策だったが、それがあったからこそ、
不審なメールが
毎日何通も
届いたとしても
落ち
着いていられた。
あれほど
考えたのだから
大丈夫、という
自信にもなった。
結果オーライとは
言うには
乱暴かもしれないが、
自分にとってはいい
経験になったと
言い
切れる。
「ハインはよく
知識は
武器だって
言うけど、その
通りだね」
「……」
「
知っているのと
知らないのとでは、もしものときに
大きな
違いが
出るよ。だから、それも
含めてありがとう」
「アル…お
前は
本当に…」
困ったように、しかし、どこか
嬉しそうに
苦笑するハインリヒの
手を
握れば、
体温が
戻ってきていることに
内心でほっと
息を
吐く。
通報してすぐに
駆け
付けてくれた
警察官に
犯人を
託して、
彼の
運転する
車でこの
警察署に
向かったのだが。
冷えてかじかんだせいで
上手く
動かなかったのか、シートベルトをつけるのに
少し
手間取っていた。
信号で
止まったときにそれとなく
触れた
手は
氷水に
浸していたかのように
冷え
切っており、
爪が
白くなっていた。
それが
少しずつ
平熱を
取り
戻している。
完全には
肩から
力を
抜いていないが、それでも
犯人が
逮捕されたことの
意味は
大きい。
「
今日はもう
帰れるんだよね?」
「あぁ」
「
連絡はしたけど、ダイト
先生のところに
寄ろうね」
「そうだな」
「その
前に、みんなでご
飯行こうよ。ひと
段落して
安心したらお
腹空いちゃった」
ランチの
時間はとうに
過ぎ、ミュンヘンに
戻る
頃には
陽が
傾き
始める
時間。
あまりにも
中途半端な
時間だが、
自覚してしまった
空腹は
先ほどからくぅくぅと
切なげに
鳴いている。
「あ、でもフルアさんたちはまだお
仕事中だから
一緒にはダメ?」
「いや、
構わないが…はぁ、
本当にアルには
敵わないな」
「この
近くにアイスバインが
美味しいレストランがあるんだよ」
「そうか、それじゃぁその
店にしようか」
「うん。フルアさんたちもいいですか?」
シュペッツレも
美味しくて
気に
入っている、と
笑顔で
語るアルフレードにフルアとグラースは
顔を
見合わせた
後、
小さく
噴き
出した。
心配で、
心配で、
胸が
張り
裂けそうなほど
心配で。
この
青年が
守られることを
良しとしないことも、
臆病だが
弱いわけではないことも、
誰かのためにならば
先陣を
切っていく
勇敢さを
持っていることも
知っているが、それでも
心配で。
限りなく
真円に
近い
魂が
傷付けられていたら、その
瞳が
涙で
濡れていたら、
心が
血を
流してしまっていたら、と。
彼が
犯人と
接触したと
知らせを
受けたとき、
冷静を
装うことも
忘れて
取り
乱した。
グラースと
車に
乗り
込み、
途中でテオバルトと
落ち
合い、
彼らが
向かったという
警察署に
急ぐ
道中で
会話はなかった。
正しく
言うなら
会話をできる
心理状態ではなかった。
上司を
押しのけてアルフレードに
駆け
寄り、その
無事を
自分自身の
目で
確かめた
後も。
無理をしようとしているのではないだろうか、
強がっているのではないだろうか、と
息を
吐くことはできなかった。
だが、アルフレードはまるでそれを
見通していたかのように
笑う。
食事に
行こう、と
日常を
過ごそうとしている。
こんなに
心配したというのに、と
呆気に
取られてしまうと
同時に、これなのだと
胸が
高鳴る。
この
強かさに、この
眩しいほどの
勇敢さに、どうしようもなく
心が
惹き
付けられる。
「これでこそ
俺たちの
光ですね」
「えぇ、
全くです」
「?」
「あなたはもう
大丈夫なのだと
実感したのですよ」
ぱっと
花咲くように
笑顔を
浮かべたアルフレードに、フルアとグラースは
今までにない
高揚感が
込み
上げてくるのが
分かった。
この
青年はどんどん
前進していく。
その
歩みは
決して
悠々としたものでも
揚々としたものでもないが、それでも
怯まずに
進んでいく。
華奢な
背中が
大きく
見えたことは
一度や
二度ではないが、
今もまたその
細い
身体からは
想像もできない
生命力の
強さを
感じる。
「
本当に
無事で
良かった。あなたにもしものことがあったら、
私たちは
人ではいられない」
「
俺たちも
殴りたかったですよ。アルフレード
君の
分はきっちりと
返さないと」
「え、え…」
「ボスがあと2
発殴ってくださればよかったのに」
「えー…フルアさんとグラースさんまで
怖いこと
言う…」
「
私たちはまだ
怒っているんですよ、アル
君を
怪我させたことに
変わりはないのですから」
「どんな
理由があれ、ストーカー
行為を
許すことはできませんからね」
しばらくベッドから
起き
上がれない
程度に
制裁を
下したところで
溜飲が
下がるわけではないが、と
言うフルアとグラースの
目は
冗談を
言っているときのそれではない。
言葉の
端々には
棘もあり、
冷たい。
本当に
彼らより
先にパトカーが
到着して
良かったとしみじみと
思ってしまう。
「
過激なんだもんなぁ」
本気だからこそ。
妥協がないからこそ。
彼らの
感情はいつだって
剥き
出しで、
純度が
高く、
激しい。
「ふ、ふふ…っ」
「アル?」
「もうね、あまりにも
容赦がなくて…ここまですごいとちょっと
面白くなってきた」
冗談でも
誇張しているのでもなく、
彼らはやってしまう。
何にでもなれる、と。
何だってできる、と。
そう
言葉にするだけではなく、
行動で
証明してしまう。
これほどに
誠実な
愛はない、とアルフレードはくすくすと
笑いながら
眦に
浮かんだ
涙をそれとなく
指の
先で
拭った。
それは
胸の
奥から
込み
上げてきた
涙で。
誤魔化せたと
思ったがハインリヒを
欺くことはできずに、すかさず
大きな
掌で
両頬を
包み
込まれる。
煮詰めた
闇のように昏く
濁っていた
瞳には
光が
戻り、
美しいブラックサファイア
色をしている。
存外に
長い
睫毛に
縁取られたそれにはしっとりと
慈愛が
滲み、
擽ったくなるほど
優しい。
近寄ることも
声をかけることも
憚られるほどの
凄まじい
殺気を
放っていた
人がする
表情とは
思えないほど
柔らかく。
しかし、これが
彼なのだとしみじみと
思う。
狼の
本質。
守るべき
仲間や
家族には
愛を
惜しまず、
大切なものに
害を
成す
敵には
容赦をしない。
相手が
自分より
何倍も
大きな
体の
獣でも
牙を
剥き
出しにして
勇敢に
立ち
向かう。
決して
孤高な
生き
物ではなく、
群れのためにこそ
戦う
意味を
知っている。
冴え
冴えとした
月夜に
空を
見上げる
精悍な
狼の
横顔の
美しさは、
総意が
望む“
王”で
在ろうと
己を
律して
立つ
彼のそれに
似ている。
「…ハイン、もう
一度手帳を
貸して」
「
手帳?」
「うん、オレのデッサン
帳は
車の
中だから」
「あぁ、いいぞ。
鉛筆を
借りてこようか?」
「ううん、
大丈夫だよ」
描きたい、と
心から
思う。
受け
取った
手帳を
開けば
思考よりも
先に
手が
動き、
白紙のページの
上に
線が
走っていく。
頭の
中にあるイメージがそのまま
紙の
上に
映し
出されていく
感覚。
普段は
全体のバランスや
構造、
色や
質感などを
想像しながら
描いているが、
今は
直感が
手を
動かす。
新しい
曲げ
木工法のサンプルとしてブナの
木を
使用した
椅子は
十分に
作品と
通用する
完成度だったが、
何かが
足りなかった。
その
何かが
今なら
描ける
気がする、とアルフレードはハインリヒらが
見守っていることも
忘れて
万年筆を
走らせ
続けた。
曲げ
木工法を
活かすには
木材の含水
率が
重要で、
繊維方向や
節の
少なさも
出来栄えを
大きく
左右する。
サンプルで
使用したブナはその
最たるもので、オークやカエデ、ウォルナット、ヒッコリー、チェリーも
適している。
そして、
強度と
弾力性のバランスや
加工性の
良さとはっきりとした
美しい
木目が
特徴のアッシュは
多くの
曲木家具に
使われている。
木材としては
比較的軽く、
取り
扱いしやすいが
衝撃に
強く、
繊維が
直線的で
均一なので
加工時に
割れにくいという
特徴を
持つ。
自然環境ではウォルナットなどと
比べて
耐久性が
劣るものの、
明るいトーンの
色調は
柔らかく、
品の
良い
高級感があることでも
人気の
木材だ。
よし、
素材はアッシュにしよう、と
決めて。
その
美しい
木目を
活かす
椅子にしたい、と
曲線と
直線を
交わらせていく。
普段はクライアントと
綿密なミーティングを
重ね、クライアントのための
椅子を
描いている。
だが、
今は
自分のために
描く。
純粋に。
誰かの、
何かのためではなく、ただただ
己自身のために。
(ハインはオレのために
世界を
失ったとしても、
世界のためにオレを
失いたくないって
言う。
彼らは、そう
言ってくれる)
愛の
献身の
深さに
溺れてしまいそうになることもある。
その
重たさに
息ができなくなることもある。
けれど、それがなければ
自分はこの
場所には
居ない。
立っていることも、ましてや
進むことなどできずに、
蹲ったまま
世界を
恨んでいた。
何もかもを
理不尽に
奪っていくばかりのこんな
世界などなくなってしまえばいいのに、と。
しかし、
今は
違う。
彼らと
生きるこの
世界を
心から
美しいと
思える。
純粋に
愛せるようになった。
確固たる
自信を
持って、
成長できたと
言い
切れる
今だからこそ。
この
作品は
相応しい
場所に
置きたい、と
手を
止め、アルフレードはハインリヒを
見た。
「マンションに
帰る
前に
寄り
道をしたいんだけど、
一緒に
来てくれる?」
もちろんだ、とすかさず
返って
来た
言葉にアルフレードは
惚れ
惚れとするほど
鮮やかに
笑んだ。
→
Prossimo.
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