なぜ今、あの事件をドキュメンタリーに? 監督ケヴィン・マクドナルドが語るジョン・ガリアーノという天才
ドキュメンタリー映画「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」が9月20日に公開。前半は幼少期からセントラル・セント・マーチンズの学生時代を経て、デザイナーとして「クリスチャン・ディオール」を指揮するまでの栄光を、後半は反ユダヤ発言をしてトップデザイナーから転落し、その後の公に語られることのなかったブランクから復帰までを描く。本作の制作秘話、作品に込めた思い、さらにはジョン・ガリアーノという人物についてケヴィン・マクドナルド監督に聞く。
制作の過程で見た、ジョン・ガリアーノという人物
——ジョン・ガリアーノの作品を作った経緯を教えてください。
正直、私はファッションの人間ではなく、あまり知識も興味もありません。ずっと表層的な物だと思っていました。幸運にも今回の撮影を通して、ファッションについて学び、アーティステックな側面を知れたと思っています。最初に興味があったのはキャンセルカルチャーについてですが、ジョン・ガリアーノという人物に魅了されたのも事実です。2011年の彼の反ユダヤ発言については、当時からニュースで不快に思い、「どうして、こんなことが起きたのだろう」と注目していました。
——一人の人間の映像作品を制作する際に心がけていることは?
その人物をシンプルにではなく、興味深く描くことですね。興味深い人というのは複雑な人であることが多いです。ジョンも例外ではなく、さらに曖昧なところがありました。
——ジョンの希望で、内容を修正した箇所はありましたか。
いいえ、ありません。契約上、ジョンは映画を見て、コメントや事実上の修正をすることを許されていました。ただし、彼が修正したのは、プレタポルテやオートクチュールであるとか、オートクチュ ールではないとか、の間違いだけ。自分自身がアーティストとして尊敬されることを望んだように、私を尊敬してくれたのです。ジョンがこの映画の制作に同意したとき、「君次第だ」と言いました。私にとっては驚くべきことでした。こんなことは今まで経験したことがない。普通、監督が最終的な決定権を持っていた場合、変更をするようにと説得してくるものですが、ジョンは違いました。
——その“今まで経験したことがない経験”について、ジョンに何か伝えましたか。
伝えたのは、彼がオープンでいてくれたことに対して、自分がどれだけ感謝しているかですね。彼にとっては、ごく自然なことだったのだと思います。いったん、信頼すると決めたら心を開いてくれる。映画を作ってから、彼とは数回しか会っていませんし、友情を長く保つタイプの人間ではないのかもしれません。なので、彼がいま、この映画に対してどう思っているのかは分からない。この映画に対する人々の反応は様々なので、本当はもっと自分のことをポジティブに理解してほしかったと思っているかもしれないです。
当時の証言やアーカイブ…….ガリアーノは完成作を見て「泣いていた」
——ジョンは完成した映画をどう見たのでしょうか?
初めて映画を見たとき、彼は泣いていて、本当に動揺しているようで心配になりました。この映画が嫌いなのか、と。でも実際は、感動していたのです。映画の中で、アベル・ガンス監督の映画『ナポレオン』(1927年)について、 さらに彼がナポレオン・コンプレックスを持っているかどうかを議論しました。ジョンはあのフィルムの美しさを再び目の当たりにし、私たちが作品を彼の人生に関連付けたこと、撮影中になぜナポレオンの話をし続けたかを理解してくれたと思います。
——数々のセレブリティ、ファッション関係者が出演しています。特に心に残っている人物は?
シャーリーズ・セロンです。彼女は、「ジョンがしたことはひどいこと。許せない。でも私はアルコール依存症の父親を見てきたから、アルコールが人にもたらす闇と破滅を知っている。銃を向けられたこともある。だから、彼がなぜあのような行動をとったか理由がわかるんです」と理解を示し、フランクに話してくれた。彼女は、特に勇敢でした。
あと、当時ディオールのトップだったシドニー・トレダノも、インタビューのために多くの時間を割いてくれました。彼はユダヤ人で、この映画において重要人物です。LVMHのCEOが、彼の正直な告白を容認したことも、一般的には考えられないことでしょう。さらに、彼はジョンが手がけた「クリスチャン・ディオール」の作品と15年ぶりに再会できるよう計らいもしてくれました。互いに折り合いをつける必要があったんだと思います。だから、彼らはオープンになり、事件について議論し、歴史に刻み込もうとしているのです。
——本作に対して、様々なリアクション、感想があったと思います。監督が驚いた反応があれば、教えてください。
当初から、会話やディベート、意見をぶつけあうきっかけになる映画になることはわかっていました。それは望んだことなので、驚くようなことはありませんでした。でも、「こんな映画は作るべきではなかった」と言われたり「なんでこんなひどい人物の映画を作るんだ」「酔っ払っていた時の発言になぜ騒ぐのか、忘れてしまえばいいのに」という声も。
「依存症の話だ」「他者のことは知りえないのだ」という声もありました。確かに、他者の頭の中や、モチベーションや動機について、本当の意味で理解することは絶対にできません。個人的に、芸術や映画は、人によって見え方や反応が異なり、多種多様な解釈ができることがいいと思っています。本作も、善悪を白と黒に分けるような描き方をすれば、皆さんはここまで興味を持ってくださらなかったでしょう。
一人のクリエイターが失脚する顛末を通して、現代のキャンセルカルチャーに思うこと
——才能があるクリエイターが一度の過ちで、世の中から背を向けられるキャンセルカルチャーについて、同じクリエイターとしてどうお考えですか。
キャンセルカルチャーは、最近話題になる現象だと思われがちですが、実は人間社会において新しいことではありません。どの社会にもルールが厳格に適応されるピューリタリズム的な時期はあったと思うんです。思うに、今のキャンセルカルチャーは、アメリカの若者たちが社会に対して無力感を感じたところから生まれたのではないかと考えています。何かを変える力がないから、非政治的なやり方で力を見せつけるのだと思うんです。こんな社会にしたい、女性をいじめるような男性を望んでいない、雇用主が雇用者を傷つけることは望んでいないんだと。
法律を変えることはできなくても、SNS上で対抗する姿勢を見せたり、誰かの考え方を変えたり、ルールを守らない人達を自分たちでキャンセルしたりすることができると。ピューリタニズムも、行き過ぎてしまうことがある。苦しむべきでない人が苦しんだり、ちょっとした社会的なタブーを犯しただけで罰せられたり。
私は二つ懸念があります。一つはアーティストたちが恐怖心を持ってしまうこと。本来なら、何を表現するかについてひるむべきではありません。社会的な分別を持って行動すべきだとは思います。少し前であれば、アーティストたちは周囲の人に迷惑をかけたり、行儀が悪かったりしても許されていましたが。私自身も「この映画を作ったらキャンセルされてしまうよ」と言われたことがありました。表現の自由は許容されるべきです。
二つ目は、社会として私たちはどう人を許すかを理解しなくてはならないということです。一度、キャンセルされた人を許し、その人が復帰できるようなメカニズムはどういったものなのか。昔なら、カトリック主義的立場を示すカトリシズムというのがあって、犯した罪について祈りを捧げれば、罪は消え去ると考えられていました。キャンセルカルチャーについては、そういった方法がないのです。
——撮影の中で心に残っていることがあれば、教えてください。
撮影最終日は、2022年の「メゾン マルジェラ」のアーティザナルコレクションのリハーサルでした。演劇と映画を一体化させたスペクタクルで、冒頭と終わりのシーンで使っています。映画では触れていませんが、実は、その直前に痛ましい銃乱射事件がアメリカの学校で起きました。このコレクションには、銃の乱射シーンがあり、事件との関わりについてジョンに尋ねました。「ショーをやったら物議を醸すと思う? 好ましく思わない人がいるかも」と聞いてきたんです。本番2日前だし、きっと取りやめたり変更したりすることもできなかったはず。改めて思ったのは、ジョンは本当にナイーブな人なんだと。彼は自分にとって刺激的なことを追求しているだけで、故意に物議を醸そうと思っていません。本当にアーティストなんだなと。無意識に挑発的なことをして、周囲の人が咎(とが)めても、クスクスと笑うだけで、少しばかりの混乱を起こす。
案の定、アメリカ人のジャーナリストは、古典的な方法で憤慨していました。起きたばかりの事件を連想させる銃撃シーンをショーに入れるとは、なんてデリカシーがないのだと。ウオール・ストリート・ジャーナルの編集者は二度と、ジョンのショーは見ないと言っていました。でも、本当はアメリカが銃社会なのが問題なのではないかと問うべき。先駆けて社会問題をアートやファッションに取り入れている方が意義深いと思うんです。
監督ケヴィン・マクドナルドがみた、ファッションの価値とは?
——ハイファッション産業の裏に、亡くなったスティーブン・ロビンソン(ガリアーノの右腕的な存在)のような人がいたと思うと、胸が痛みます。ファッションには命をかける価値があると思いましたか?
そこが芸術の美しいところではないでしょうか。現代人は国粋主義とか、宗教とか、かつて信じられていたものを必ずしも信じていません。情熱を傾けられるものは少なくなっていると思う。何か、自分の人生を犠牲にできる、またはその心の準備ができているほど情熱がある、または感じられる人がいるのはいいことだと思います。それが、間違っているとは言いません。ファッションが皮肉なのは、産業であり、デザインだということ。ファッションが芸術である瞬間は本当に一瞬で、アートではないんです。
ただ、ジョンにとっては、アートなんだと思うんです。彼にとっては意義の大きいものであり、他のやり方では形にできないもの、彼の内にあるものの表現でもあります。ファッションにおいては、映画を作るだけの価値があると思っているし、彼自身も映画を作るだけの価値がある人物だと思っています。それは、ファッションが最も大きい産業であるからだと思います。ベルナール・アルノー氏はLVMHグループのトップであり、裕福な人物でもあります。また、ファッションは、この社会で自分が何者であるかを表現する手立てでもある。私たちが身につけるもの、洋服に対する姿勢、ハイファッションにどんな意味を見いだすのか。それとも、ローファッションなのか、アンチファッションなのか、ゴス、パンクなのか。私たちはこんなふうに生きているわけです。SNSを少しのぞくだけで、ファッションやビューティーの情報であふれ、いかにたくさんのものが世に出ているかがわかります。
——彼が映画『ナポレオン』に自己投影したように、監督自身が主人公に自己投影できる作品はありますか。
難しい質問ですね。でも、誰にでも好きな映画作品はありますよね。それは登場人物に自らを投影できるからではないでしょうか。ジョンのように主人公に固執した作品は思い浮かびません。ただ、私が一番好きな作品は、ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネン監督による『雨に唄(うた)えば』(1952年)です。クラシックなミュージカルですが、ドナルド・オコナーが演じる登場人物は奇妙なルックスのキャラクターで、作品の中の笑いのオチを担う人物です。そのキャラクターは、物事がうまくいっていない時も、自分は最高のパフォーマンスをするんだという姿勢ですべてのことに臨みます。そういうところに共感します。あとは、私の故郷であるスコットランドの田舎で撮影された、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガー監督の『うずまき』(1945年)。主人公が、自然の豊かさを享受し、田舎の暮らしの中で「ここにいてもいいんだ」と思えるシンプルさに憧れます。クレイジーな喧騒の中で撮影しているとき、この人物に想いを馳(は)せることが多いんです。
text: Aika Kwada
・天才デザイナージョン・ガリアーノの成功と転落劇。罪と許しについて問うドキュメンタリー
・髙田賢三の人生をクリエーションでたどる。大規模個展『髙田賢三 夢をかける』の4つの見どころ