チリのパタゴニア地方にあるレオネス氷河は、世界最大規模の氷原の一部。だが、氷河湖の拡大や氷河の崩落など、氷河の後退が加速している証拠がいくつも見られる。(PHOTOGRAPH BY TAMARA MERINO)
チリに点在する氷河を訪れれば、周囲を包む厳かな静寂を氷の砕け落ちる大きな音が邪魔するようになっていることに気づく。
「私の役目はこの氷河を守ることです」。46歳になる国立公園レンジャーのアンドレア・カレッタは、特に自慢をする感じでもなく、職務の単なる説明として、そう話す。彼はゆっくりと片膝をつくと、人けのない氷まで私たちを案内したいと、氷河に静かな口調で話しかけた。
私たちはチリ南部のサン・ラファエル湖国立公園に位置するエスプロラドレス氷河の手前にいた。9月上旬で、降水量も観光客も比較的少ない時期だ。私たちは登山靴にアイゼンを取り付け、氷河に運ばれた滑(すべ)りやすい氷堆石の上を進んだ。その先には、青白い大きな氷塊と、緑がかった氷河の解けた水が織りなす風景が広がっている。エスプロラドレスの原生的な力強さには、氷河を日々訪れているカレッタでさえ敬意を払う。まして初めて訪れた私にとって、その氷河は美しくも恐ろしいものに思えた。
ハイカーたちが全長18キロほどのエスプロラドレス氷河を進んでいく。北パタゴニア氷原にあるサン・ラファエル湖国立公園を代表する氷河だ。(PHOTOGRAPH BY TAMARA MERINO)
「氷河は死につつあります」とカレッタは言った。その言葉は穏やかだが、事実をい当てている。イタリアン・アルプスで生まれた経験豊富な登山家のカレッタは、2016年にパタゴニア地方に自身の楽園を見いだした。そして、その思いを受け入れた妻や息子とともに、チリに移住。「自分が氷河に愛されていることはわかっています」と彼は言う。
年に約1メートルのペースで後退していく氷河をセンサーで計測するのが、カレッタの目下の仕事だ。以前は氷のあった場所が、今では池になっている。別に不思議なことではない。パタゴニアの氷河の融解は、気温の上昇と歩調を合わせている。そして気温の上昇は、過去半世紀における二酸化炭素の排出量の増加と相互に関連しているのだ。
「美しい写真を撮りにやって来る観光客たちにこう言います。『写真を撮ったら、5年後にまた来て、写真を撮ってみなさい。そうすればあなたたちも、私と同じように違いがわかりますよ』」と彼は言う。「希望はあるかもしれませんが、地球に懲らしめられるかもしれません」
パタゴニアは氷河の宝庫
チリのパタゴニア地方は世界的に有名だが、その魅力は洗練さに欠けた無骨さにある。ここでは、自然そのものが十分に豪華なのだ。全長1250キロほどのアウストラル街道は、雪をかぶったアンデスの山々や草地を縫って南北にくねくねと延び、人の住む気配を感じさせるものはごくわずかしかない。都市化が進んだコジャイケを除けば、チリのパタゴニアの町々は、この地域特有の荒削りな気風を残している。住民たちは、外部の文明ではなく、この土地と歩調を合わせる。「パタゴニアで慌てる者は、時を失う」というのは、よく聞かれる格言だ。
チリは、南極大陸とグリーンランドに次いで3番目に広大な氷床の面積を誇っている。
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