ロマの人々が守護聖人として崇めるサラ・ラ・カリ。毎年5月になると多くの巡礼者が、サラがキリスト教徒の難民たちとともに上陸したとされる南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールの教会を訪れ、24日にクライマックスを迎える祝祭に参加する。イエスの隠し子や「黒い聖母」など、いくつもの伝説に彩られたロマの聖人とその信仰を紹介する。
謎に満ちた非公認の聖人サラは、さまざまな顔をもっている。キリスト教神学者にとっては、イエスの死後、フランスに逃れるマグダラのマリアたちの侍女を務めたエジプト人の「黒いサラ」だ。ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』のファンたちは、サラはイエスの子であり、家父長制社会において身の安全を守るためにその存在を隠されていたと信じている。宗教史家はこの「黒い聖母」のことを、ヒンドゥー教の創造と破壊の女神であり、また獰猛な戦士であるカーリーの化身とみなしている。
一方、ロマの人々にとって、彼女は巡礼の対象である聖人「サラ・ラ・カリ」だ。世界では多くの人々が、ロマのことを「ジプシー」という蔑称で呼ぶ。その言葉は、定住地をもたない身勝手な放浪者、妖艶な占い師、盗品とともに姿を消す隊商といったイメージを彷彿とさせる。
戦争で荒廃したインドの故郷を11世紀に離れて以来、ロマは行く先々で邪魔者扱いされる移民となった。その後千年間にわたる暴力的な迫害の中で、彼らの守護聖人であるサラは、世界中に離散した1200万人以上のロマたちにとって希望とアイデンティティの源となってきた。
毎年、サント・マリー・ド・ラ・メールには聖サラのために何千人ものロマの巡礼がやってくる。(PHOTOGRAPH BY PATRICK AVENTURIER, GETTY IMAGES)
2016年5月、聖サラの行列を前に、伝統の白馬に乗って待機するカマルグの牛飼いたち。(PHOTOGRAPH BY THOMAS LOHNES, GETTY IMAGES)
また毎年5月下旬には、サラ・ラ・カリは、故郷を追われたロマたちが目指すべき目的地となる。1万人を超えるロマたちが向かうのは、フラミンゴに埋め尽くされる沼地とピンク色の塩田に囲まれたフランス、カマルグ地方の小村、サント・マリー・ド・ラ・メールだ。サラがキリスト教徒の難民たちとともに上陸したとされるこの場所で1週間にわたって行われる祝祭は、サラをかたどった木像を地中海へと運ぶ行列でクライマックスを迎える。
「サラはカーリーや黒い聖女などの異なる伝説が混ざり合った存在です」と、米テキサス大学サンアントニオ校教授で、ラテンアメリカとヨーロッパの黒い聖女についての著作があるマルゴザータ・オレシュキェビッチ・ペラルバ氏は言う。「だれもが彼女の中に自分が必要とするものを見出すのです」
ギャラリー: 謎に満ちたロマの守護聖人サラ・ラ・カリへの巡礼 写真8点(写真クリックでギャラリーページへ)
サラ・ラ・カリの像や祈祷のための品々を海の中へ運ぶロマの巡礼者たち。年に1度のこの行列は、街の名の由来となった聖マリア・サロメ、聖マリア・ヤコベを待ち望み、迎え入れることを象徴する行事。(PHOTOGRAPH BY JOHN STANMEYER, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
手をつなぎ祈りを捧げる信者たち。(PHOTOGRAPH BY IKE CALVO, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
1000年におよぶ難民
ロマの起源の物語については、サラのそれと同様さまざまな説があるが、彼らがインドから来たという点で学者の意見は一致している。ロマの言語であるロマニ語には、サンスクリット語(インドの古代語)と多くのつながりがある。ロマの人々の遺伝子プロファイルは、インド北西部や現在のパキスタンに暮らす民族グループ、とりわけパンジャブ、メガワル、グジャラート、ビール、ジャイナ、ゴンド、カリア、サトナミの人々とよく似ている。
彼らはまた、バイラブ音階、「パンチャーヤト」と呼ばれる司法制度など、多くの文化規範を共有している。神聖な女神の像を水に沈めるという行為もそのひとつだ。
11世紀にオスマン帝国が侵攻を始めた際にインドから逃れてきたと考えられているロマは、その後数世紀の間に中東、そしてヨーロッパへと広がっていった。彼らは部外者、異端者、定住地をもたない泥棒というレッテルを貼られ、暴力の標的にされた。
ロマの奴隷化は、ヨーロッパのほか、多くの植民地でも広く行われた。そして差別的な政策の問題は、今もヨーロッパ各地に残っている。
多様なロマの人々を団結させた悲劇に、ロマニ語で「ポライモス(大いなる貪食)」と呼ばれる出来事がある。ナチ党が占領下のヨーロッパでロマの半数以上を殺害した「ホロコースト」だ。(参考記事:「ホロコーストはいかにして起こったのか」)
現在、ロマは世界中に離散している。『We Are the Romani People(われらロマの民)』の著者であるイアン・ハンコック教授は、数百万人のロマの3人に1人がヨーロッパの外で暮らしていると推測している。その中には、ソ連と東欧で共産主義政権が崩壊した後に北米、南米、オーストラリアに移住した人々も含まれる。米国で暮らすロマは100万人前後にのぼる。
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