7月、連日の猛暑がひと段落したその日、李鐘根(イ・ジョングン)さんは娘さんの押す車いすに乗ってやってきた。柔らかな笑顔。しかし、ここには「本当は余り来たくない」と言う。
そこは77年前、李さんがまだ16歳だったとき、大変な光景を目の当たりにした場所。広島市を流れる猿猴川にかかる、荒神橋のたもとだった。
執筆:
「TBSテレビ つなぐ、つながるSP 戦争と嘘=フェイク」
プロデューサー・山岡陽輔
■もう来月には話せなくなるかもしれないから
インタビューをはじめようとすると、李さんは車いすから立ち上がった。少しふらついた。
「あ、このままでいいですよ、車いすのままで」。そう私が言うと、
「いやいや、大丈夫です。もう来月には話せなくなるかもしれないから」と言う。
末期のがんと闘っておられるとは聞いていた。しかしピンと背筋が伸びたその立ち姿からは、重い病に侵されているようには見えなかった。
小川彩佳キャスターのインタビューに答えはじめた李さん。
1945年8月6日、8時15分に、そこで何を見たのか。
李さん:
「ここで、何か向こうの家に閃光…閃光という言葉も分からなかったけれども、木造の家々があの朝、黄色く、オレンジ色に変わったんですね。瞬間的に。で、向こうの家がふわっと浮いたようにも見えましたので、これはただごとじゃないと思って、ここですぐ耳と鼻と目を閉じて伏せるんですね」。
小川:
「うつぶせになって?」
李さん:
「はい。弁当箱をそこに置いて伏せたんです。それで目を開けてみると、今度は真っ暗。闇夜ですね。明るくなるのをずっと待っていたのですが、約5分以上かかったと思います。だんだんだんだん明るくなってきたので立ち上がるんですけど、立ち上がったら前の家は全部倒れていました。その瓦礫の下に私の弁当があったんですが、ここからだいたい30メートルくらい飛んでいました」。
爆心地から1.8キロ。鉄道員だった李さんを出勤途中に襲った原子爆弾。
李さんは、爆風で30メートル飛ばされた弁当箱を探し出し、拾って歩き出したと言う。
顔や首は真っ赤に腫れあがっていたが、自分ではそれも見えず、大変なやけどを負っていることにはしばらく気付かなかった。
人に「真っ赤だ、それはやけどだ」と指摘されて顔に触り、刺すような痛みを感じてはじめて、やけどに気付いたという。
李さん:
「私は職場の機関区に走り込みました。そしたら友達、同級生とかあるいは先輩のおじさんたちがいて『いやあお前生きておったか』と声をかけてくれて、『お前、真っ赤になっているじゃないか、それやけどだよ。油をつけてやれよ』と言って、オイルを出して顔から手から足から全部に塗ってくれるんですよ。もう痛くて痛くて」。
小川:
「しみて…」
李さん:
「食用油ならやけどに良いのかも分からないけども、自動車エンジンなんかのオイルと同じでしょ」。
余りの痛みに、しばらく泣いていたという李さん。泣きながら、30メートル飛ばされた、母が作ってくれた弁当を食べた。おいしくなかったという。
そして両親や兄弟のことが心配になり、自宅に向かって歩きはじめた。
すると、広島の町は…
李さん:
「私が見たのは焼けただれた人が…言葉にはい表せない…皮が全部むけちゃっているんです。爪で皮がとまっている。ぶら下がったまま。なんで外さないのかなと思ったけれど、そういう気力がないんですね。広島大学では、塀が倒れて、そこに馬が一匹死んでいました。その馬の目玉が飛び出したのが真っ赤になって。それを見た時にびっくりして、後から分かるんですが風圧ですね。それで体が圧縮されて目玉が飛び出て真っ赤になって」。
助けを求める声、水を求める声が、あちこちから・・・。
李さん:
「もうそれはすごい勢いで、『助けてくれ、この下に子どもがいるんだ』と言って、もう何べんも『助けてくれ』という声を聞いたんですけども、瓦礫の下にいる人の手を、私は一人も引っ張ることができなかったんです」。